Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



[ エゴイズムと実存主義


1)単独者の再考「独り」について
心理学として「ひとり」でも無く「一人」でも無く「独り」と記載しているのは(独身の意味も半分含んではいるんだけれど)、哲学で言うところの実存主義『単独者』を意識してのものです。
ここは心理学テキストなので大風呂敷広げて哲学の話を進める意図は全くありません。そもそもが実存主義なるものも時代的にフロイド心理学の影響無しにあり得ないものでしょうから(ましてやこの場でフロイトとサルトルがどうしたこうしたなど展開しようなんざ論外です)。
ザックリ言えば、フロイド心理学は個人心理学を発端とするのでこれを『共同幻想論』を梃に社会学や社会心理との連動性を持たせた岸田心理学以降、何か事さらフロイド心理学の理論的要素を金科玉条というか原理主義的にどうこう考える事には意味がありません。
つまり「それはどうしてなのか、どうなっているのか」という問いの探求に対して文明化など時代変遷の中大幅に変動するバックグラウンドとの連動性を確認して以降はジャーナリズム的な、或いは文化人類学的な「批判的分析」抜きに個人心理学も語れないからです。
心理学を学問として研究されている方には異論多数でしょうけれど、
そもそもが、エディプス論自体少なくとも当該社会に起因する親子関係習俗等に無関係な筈も無く、『共同幻想論』以降は特に「エディプス論の背景」である『共同幻想』が、共同幻想論の中で時代や地域で変動する事が論証されており、典型的な話をすれば「言語」は基本的に所属社会の公用語なりローカル言語がナチュボーンで取得されるのであって(方言と自我の関係性や諸外国の自我と当該言語の特性など様々な事例がある)、言語論的にも「文明の推移に応じて新語が登場したり」などなどロジカル構造の自我がその影響から無関係に独立するなどナンセンスです。
端的に言えば、フロイド心理学は「市場経済学で言うところのゲームの理論などに見られる法則性の発見」であり、「今目の前の相場を語る場合、政治や金融政策などの背景事情も勘案しなければなりません」。この状況を「原理主義に対する世俗化のように本旨を逸脱している」みたいに理解することはナンセンスだぅて事です。
(ミクロ経済学とマクロ経済学の関係のようなものです。)

『共同幻想論』以降、フロイド心理学と実存主義哲学は何ら矛盾する事無く「時系列的な関係性」で説明可能であり、
19世紀的とも言える時代を背景とするフロイド心理学の各論部分が変化しても何ら矛盾しません(原理原則やそのメカニズムの論証は変わらないのですから)。『共同幻想』を前提とするエディプス的解釈は「金本位制かブレトンウッズ体制以降か」のような変遷をしてあたりまえなのです。
過去に実存主義から影響を受けた政治運動なんかもあるっちゃあるんですけれど、これも「実存主義的なんとかだ」って事では無く「権威の裏付けが王政や貴族性や帝国主義など当時は普遍と勘違いされた硬性の金本位制みたいなものから、自由意識を背景とした市場原理がこうだからみたいな話に気が付いた」ってところが(フロイド的にいえばネタバレ効果で)「自意識マターの『被(こうむる)』的スタンスを刺激した」みたいなものです。
たとえて言うなら別段実存主義なんてものが台頭しなくても文明化のベクトルの中で先進国がリベラル主義へと推移するのは「文明化における『共同幻想』崩壊論」として近代以降予定されていたのであって(フランス革命から決まっていたようなもの)、殊更実存主義が特別なものでもありません。
言い換えるとフロイド心理学の世俗化では無く、現場は世俗的背景を当然織り込む中推移しているってそれだけの話です。近所の駄菓子屋の経営建て直しを考えるときにミクロ経済学で関数グラフみたなの示して熱弁ふるうってのに無理があるって事です。しかしこのコンサルタントは基礎的原則論としてミクロ経済学の知見があるから現在の市場動向と今後の経営戦略を考えることができる。

さて実存主義ですが、
心理学の世界において大変参考となるのは「反抗的に生きる」であるとか「単独者の概念」です。
見たまま読んだままですが、エディプス論を語る場合主体が仮に真性の『単独者』であれば、論理自体が成立しません。親子関係に権威性認知が発生する余地が無いからです。逆さに言えば『単独者』という概念は「エディプス論のアンチテーゼ」となる訳ですね。
(このアンチテーゼってのもエディプス論それ自体を否定するのでは無く、その真逆にエディプス論があるから『単独者』の概念が究極自我がエディプス的影響や強迫を受けない状態を説明できる構造になります。)
勿論生まれた瞬間から『単独者』だなんて人間は人類ヒト科には進化論的に無理なので(乳幼児の成熟度が著しく低い)、ある意味こここそがフロイド心理学の発見が人類の自我を語る上で基礎的理論となる根拠であり、『単独者』の概念はエディプス論の反証でもあるところがポイントです。
単独者的な状況を表す「独り」も「ひとりや一人じゃ都合が悪い」のは言語的に裏付けのあるもので、
ひとりや一人はアイデンティファイ的(帰属・所属的)に「母集団の存在を前提」としています。
母集団の想定=『共同幻想』ですから、「ひとりや一人には社会適応系の関連ワードがセットで出てきちゃう」のです。
「(本来は誰それとの予定だったが)今日はひとりで行った」
「(集合場所に行ってみたが)来たのは自分一人だった」
などなどです。
この辺は「無意識の」というより「言語学的レトリック」による強迫心理構造条件と言えるかもしれません。
「お部屋を借りるのは?」「独り身なので」←ニュアンスわかるでしょうか。この会話の場合には”母集団的なもの”が想定にも前提にもイメージにも含まれていない(女性の場合には別の意味のエディプス的原則論でこれでも「カップルではない」のような強迫心理構造条件が残る部分もありますが、、)。
言語的に「独り」と書かないと自我の立ち位置のスタンドアローンな状況を説明で誤解を招きやすい(読み手の強迫心理構造条件を刺激してしまう)という訳です。
往々にして『単独者』の話をすると、孤立だとか孤独論なんつーのが出てきますけれど、
これがまたトンデモ無い勘違いでありまして(誤用に近い)←これが読み手の強迫心理構造条件を刺激した場合の典型例となります。
孤立や孤独の概念は「ひとりや一人など母集団を前提としなければ成立しない」のです。
「ひとりなので寂しい」はあり得るんですが
「独身です」って言語は、その状況を説明しているだけで何か含みのある言葉じゃありません。
この「含みのある言葉」ってのが『共同幻想論』における言語学的レトリック構造だったり温床だったりで、ちょっと話が逸れますが進めてみますか。
詩歌があるように、言葉の表現ってものが「言外に語る」だとか「示唆している」「別の尾ひれはひれがくっついてくる」事が少なくありません(てかくっついてくる方が多いのかも知れない)。その典型が「季語」でしょう、
つまり、言外に特定のイメージや世界観を連想させてしまう”言葉”は、自我に特定イメージを見せるトリガーのような効果を持つため当人がこの言葉使いでいいじゃないかなどと安直に考えている日常会話に様々な強迫心理を刺激するワードが紛れ込んでいるなどザラなんです。
(昔の人が「言葉ってものを大事にしなさい」と言ったのは二重の意味があった。前述のレトリックを避ける狙いも含まれているが、昔の人の保守的意見の場合にはネタバレしないよう、仕掛けがキチンとできている”正しい言葉”を使って『共同幻想』崩壊を抑制しようという意図があった。)
てかね、エディプス論になりますが、そんなわかりやすく頭ごなしにバレバレの強要してもコンプレックスなんかにはなりません。
場合によると「無意識的に」それが自我にビルドインされていく背景には、「言外の意味を持つ日常言語」が結構大きな効果を持つんです。
ひとつ代表例を挙げましょうか『普通の人』なんて言葉(口語で言えば「普通そうでしょの”普通”」など)。
実は隠れワード的に偏差値的価値論をしれっと肯定させっれちゃう力を持ちます。
『自意識』ボケっとしていると気が付かなかったりするのが当たり前というか、言語はそういう風にできている側面すらあるでしょう。
(心理学や哲学の話が時に極端に難解になるのは、やむを得ない部分があるんです。わかりやすい言葉や表現にはそんな隠れ比喩的表現(メタファーに近い)があるから、その強迫浸透力が聞き手に「わかりやすい」と理解されている可能性すらあるのです。)

さて、話を戻しましょうか。
そんなこんなで私が心理学の分析などにおいて「独り」と書く場合、ほとんどそれは『単独者』的な概念を示唆したものです。
そしてこの概念はまったくフロイド心理学と矛盾していません。
『単独者』とはひとつの概念であり、人類ヒト科の特徴として「ナチュボーンな『単独者』」は条件的に考え難く、反抗期プルーフの中に『共同幻想』への批判も含まれる時に自意識マターで選択されると考えるのが筋論です。
勿論「天然」とも表現されるナチュボーンな”変人”のように立ち位置先行で「この子は『単独者』と思うしかあり得ない」みたいな個別事例はあるでしょうけれど、総合的に見た場合同様事例はレアケースになるでしょう。

2)有り得ない理想としてエゴイズムを考えてみる
前項の説明でもうこの話しに被ってきてますね。
たとえば「ナチュボーンな”変人”」
『単独者』は決して独りよがりで周囲に迷惑かけるのもいとわない困った人などではありませんが、
『共同幻想』保守思想には全く染まっていないため(無意識に強迫的な連想性がビルドインされていない)、その行動が所謂「社会適応」の背理となる『共同幻想』保守帰属層となる”普通の人達”の一般的な理解を得る事は「ありません」。
俯瞰で見れば「想定外・例外事項」なのです。
更にイジメ問題の発生要因のような「社会適応への強迫性」を持ってませんから、『共同幻想』サイドがあからさまに敵対性を発現する事もありません。
(イジメの原理原則としては被害者も無意識に『共同幻想』依存フラグを持つため、『共同幻想』保守構成員はその自我の特性上自動的に「仲間か異教徒か」の認識分類をせざるを得ない状況になり、誤解連鎖の悪循環が予定されてしまうなどの背景があります。)
ここで実存主義の伝説的書籍アルベールカミュのタイトル『異邦人』が出てくるんですね。
『単独者』とは、古くは児童文学(でいんですかね?)「ムーミン」におけるスナフキンの立ち位置です。
『共同幻想』サイドにも『単独者』サイドにも何ら無理(ストレス)がかかっていなkれば、「普通の人と変わった人(個性的な人)」の社会がそこにあるだけなんですが、「ナチュボーンな究極の『単独者』」が概念でしかないように、『共同幻想』サイドにも「絵に描いたような保守代表」は概念でしかありません(仮にそれを何らかの手法で想定するとするならば「皇室」となります)。
時に軋轢も生まれます。
そんな場合に民主主義じゃありませんけれど、多数派・組織票を温床とする『共同幻想』サイドが「アンチ『共同幻想』的なるものはすべて悪」みたいな発想に陥る事があります・典型例は「昭和のPTAや日教組的学校運営」です。
このとき、それらの人はその人を指して「エゴイズムだ」なんて言葉を投げかける事も少なくありません。
しかし、ここも一種のレトリックであり、完全な誤用なんですね。
語彙の解釈にもwikiによれば
「英語の "ego-ism" は " 己-主義 " ということであり、日本語よりもさらに広い範囲を指す」
とあるようにですね、利己主義とは意味違うんです。

逆説的に考えれば答えは簡単で、
「それは『単独者』の行動原理である。」
「究極の『単独者』が概念に過ぎないのであれば、エゴイズムもまた概念に過ぎない。」
となり、
(仏教の悟りとはニュアンス相当開きがあるのですが)
エゴイストでありたいと思う事は理想論としてあり得るけれど、誰もエゴイストにはなれない。
とも言えます。
故に「反抗的に生き続ける中の『不条理』こそ実存である」みたいなとこりが戦術的な落としどころであり、
『単独者』であろうとする事はできるが(究極の)『単独者』になる事はできない。そこが『単独者』の人生の醍醐味(生存証明)なのである。
更に補足すると、
仮にその行動原理が「自分にもわかりやすいものだった場合(合理的)」
「それはレトリックであり『共同幻想』ワードかもしれない」
「これは理想論だが自分でも何だかわからなかったり難解だったり意味不明なものでありたい(不条理)。」

「カオス論じゃあるまいし、自分でも何だかわからないじゃどこに自我統合の証があるのか」
なーんてご意見も聞こえてきそうですが、
上記を踏まえるから「反抗的に生きる事こそがその証である」となっとんですよ。
「なんでも反対!って言えば『単独者』ってことかよ」の声も聞こえてきますが(笑
勿論そんな意味ではありません。
反抗的ってのは自我のスタンスが『抗(あらがう)』だって事です。
誤解覚悟でわかりやすい解釈するなら「自主独立を前提とした攻撃系認知」です。
「その攻撃系認知の根拠を他者と共有したり他者に依存したりしない様。」
深い意図突っ込んで言えば前述までの論議ってのは「自立独立の条件」になってます。
ここでグルっと回って、
「エゴイズムとは『単独者』の行動原理である。究極の『単独者』が概念に過ぎないのであれば、エゴイズムもまた概念に過ぎないが、それは理想論だからで、結果の不条理を意にも介さないその人はその行動様式(『抗(あらがう)』)によって、『単独者』である事を証明できる。」
我思う故に我在り(Cogito ergo sum)にも通じるものであり、
現代社会心理学的にも近代以降の『共同幻想社会』は文明化の過程の中で、「確信犯的『共同幻想』保守思想(自己責任担保による『自意識』マターの再選択『共同幻想』”志向”)」と「リベラリズム的な『単独者』」に分化しつつ、先進国において事実上旧来の『共同幻想』は崩壊する。←と論じる事ができます。
政治的にたとえると「浮動票が過半数を超えてからが民意を問う本番だ」みたいな。

なんだか投げっぱなしの説明になっているようですが、
それ以上説明もできないってのも事実なのであります。




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