Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



Y 「みにくいアヒルの子」幻想


1)特権階級意識の潜在性を考える
有名な童話ですね。
話のあらすじは、自分がアヒルだと勘違いしている白鳥のヒナが、アヒルの雛達と自分との外見の差をコンプレックスに感じたり虐められたりするんですが、話のオチは「そのヒナは白鳥だった」な話。
実際のストーリー詳細には特別に意味がありません。この話が『共同幻想的にかなり有名』であって、同時に幼児に聞かせる”お話”であるところに社会心理学的な意味があるんです。

ざっくり説明すれば、この童話には『共同幻想特有の反動形成(一種の強迫構造)』が暗韻として踏まれていて、誰でも考えればわかる事ですが致命的な論理矛盾があります。

なんせそのお話を聞いているのは全員「同じ人類ヒト科の幼児」であって、そこに「オランウータンの子供」が混ざっている等という事実関係は「そりゃ滅多な事じゃない」のであって、
まさか、この「みにくいアヒルの子がKKK(クークラックスクラン)所属家族だけが、黒人街の学校に通わなければならなくなった白人の子供のために書いた人種偏見に満ちた童話だ」なんて背景もありません。
極普通の幼稚園なり保育園なりで”読まれちゃっている”とんでもなく(心理学的には)教育的に問題のあるヤバイ話です。

「さー大きくなったらあなたは人類を超える”大人”に成長するのよ」ってアンタ、、
「同じ人間だろうよ」って子供に切り返された時、保母さんは何て言えばいんでしょうか。
「俺に宇宙飛行士にでもなれってか?そしたら宇宙人でしたみたいな」、
「実は私の先祖が藤原氏の直系だとか、そういう話ですか」、なんて切り返す3歳児がいるとも思えないけど、

あたかもですね、この話は「素直に育って立派になると、外見なんかを気にする矮小な衆愚どもを追い抜いて社会的に上位クラスの人生がありますよ」な話に婉曲されている。
(思うにこの話の初版が出た当時の意味合いって別のところにあったのじゃないでしょうか。そもそもアンデルセン自身のコンプレックが元ネタとも言われて、「我が闘争」とそう違わないのじゃないの、、)
ま、話自体の各論はこの際どうでもいんですよ(笑
問題なのは、この話が『共同幻想にとってキャッチである点』です、
なので読み物として、禁書にしようとか左翼的発想はご勘弁を、
「これは”白鳥の勘違い”って話なんですよー」と言えば笑い話として十分童話で行けますっ

つまり、重要な事は現代社会においても「受験戦争」や「学歴偏重」昨今では「勝ち組み負け組み」等のように強迫構造を原型とする社会問題が多数あります。
それは『共同幻想』なるものも”一種の強迫構造”である証明でもあって、その強迫構造を逆算する「言語的論証」として、実にわかりやすい童話なんですよ。
「みにくいアヒルの子」
確かに作家なるものが、ある種の反動形成を芸術表現として開花させる得意な才能であるのは事実ですから、そういった推薦図書的な”何”が妙に”何”だって現象は驚く事じゃないですけれど、ここに共同幻想の”意図=社会的合理性”なるのものが見え隠れしている。

本来自我として自意識を拘束すれば現象としてそれは”強迫構造”です。
そこから言えば、倫理感や道徳すら強迫構造になってしまいますが、ここは社会的合理性によって「社会的に回避されている」のです。つまり強迫が強迫じゃなくて「近道を教える親切さ」のように成立しているので、結果責任的にそれは「あなたが共同幻想保守的人格選択」していれば、いかにも共同幻想幻想的には都合いい”夢”のある話なのかも知れないけれども、いかんせんこれは『共同幻想のワキの甘さ』というか、子供を差別的に見る(常に共同幻想的世界観には子供を蔑視する差別意識が垣間見える)軽率さがあると思う。

そこから逆算すると、
アメリカにおいて、欧州伝統保守主義に対する反動として「民主主義」と「大統領制」だけでは不足で「アメリカンドリーム」という反動形成を織り込まなければ『共同幻想の均衡』が得られなかったように、
そもそも文明社会においての「みにくいアヒルの子」って話は、文明化を正当化するための方便として、競争社会を是認するような反動形成が織り込まれているってオチなんだと思う。
しかし、この側面を「心理学的に見るなら」そこには強迫構造の背景に必ず背理として構造化される『特権階級志向』→「のはずだという与件」を見逃すことはできない。

そもそも反動形成とは、強迫的に抑圧される「一次的欲求が無意識領域に追いやられると、その抑圧そのものに付随的な欲求不満が不可されて、代替するための二次的利得欲求には必ず不満係数が掛かってモチベーションが肥大化する」って力動論的な関係性が成立する。
随分と心理学の世界では、これを”現象的”に見ようとしている側面もあるんだけれど、
そこには若干疑問が残る、
何故なら単一の行為を代替される二次的行為でパッケージとしてそこに完結性を見出せば、現象としてはそれもアリなのかもなんだけれども、大元の強迫構造は「その抑圧を、そこまで具体的に選別するロジカルを有していない」のであって、実際欲求化される動機形成にばかり目をむけてしまうと、個別論的ナンセンスな方向に話が矮小化してしまう(構造論的な見方が抜け落ちる)。

この反動形成も同様に、『抑圧される自意識そのものの反動』に遡って見ていくのが懸命でしょう。

こうして見ていくと「自分はどこにでもいるひとりの人間に過ぎない」的な認知が現実なのであり、それを一次的自意識の認知と定義すれば→その反動が常に『特権階級意識』となる事は容易に証明される。

「自然」とか「ありふれた」とか「どこにでもいる」とか「平等」とかの概念の反動が『特別』だからだ。
なものだから、「みにくいアヒルの子」の話も、
一風変わった雛というだけで、大きくなったら普通のアヒルで「良かった〜」な話では”オチ”として(反動)不足で、大きくなったら白鳥(超人)だったなぐらいの、
「ちょっとどうなのか」みたいな話である事が”求められている”んですよ。

2)「昇華」との関係
『反動形成』って概念の話になると、フロイドがちょろっと触れた「昇華」について話しておかなくちゃいけません。
ついうっかりするとこの「昇華」を「自己実現」なる抽象概念で都合良く解釈して、話が「あっちの世界」までいってしまう事も多いので(そういう話を平然とマジに語る”心理学者”なんて人がいるから更に困るんだけれど)、誤解があるといけないので、ここを「どういう事なの」的にまとめておこうと思います。

前項の「共同幻想も一種の強迫だけれども、結果論的に(近道を教えた親切の法則で)強迫と認知されないので、それを強迫と認定する要件を満たさない」な話を思い出して欲しい。
強迫って言葉なぐらいなんだから、そこには「無理がある」とか「強引な」的な理不尽さもなくちゃそこは強迫とはなかなか言えない。
これは実に簡単な話で、
「駅への近道を誤解している人を、強引にこっちですってと案内しても結果として自意識の一次的な欲求は”早く駅に到着したい”だったので、結果論としては合理的だ」な話。

それが「駅への近道じゃやなくて、駅に行く前に散歩したかった」のだったら強迫行為になる。
この予測制が多数決的な「概ね多数でしょうな雰囲気の成立(雰囲気なので”幻想”なんだけれど)」によって”アリ”になる現象を『共同幻想』と言うんだけれど、
この話で重要なのは、結果論として合目的な成果があれば、(構造論的に成立していても)一概に強迫とは言えないという定義が成立する。

当然自意識の抑圧によって、一次的な欲求が抑圧されていればそこにはどこの断面も強迫になるんだけれども(前項の”特権階級意識”)、一時期フロイドは心理学を科学的な法則に見立てられないものかと随分突っ込んだ時期があって(ほとんど仮説適度の話なんだけれど)、本来経済学的な『市場均衡論』的な見方なら問題なかったんだけど(マクロなので)、現象論的なミクロ的な見方に寄っちゃった部分もある。
そのミクロ的に寄っちゃった的な話に「昇華」が登場する。

簡単に言えば、「反動形成であっても、その行為が”出来ちゃえば”二次的利得+反動成就で結果論的にその局面は均衡するから強迫が非成立となる」な、話。
「才能ある人は”ツイてるね”」程度の話で、
これを奨励しているのでも無いし、現象論的に論証しているだけで(フロイド心理学のキモは悩みのある人の解消方法を研究していたのじゃなくて、普遍的な人間の心理を研究していたところ)、見方を変えれば「困った話」でもある。
確かにプロ野球選手や芸術家であったり、非日常的な成果を実現する可能性はゼロではない。
しかしこれはあくまでも現象面であって、現実を見ればかなり空想に近い「論理的な仮説に過ぎない」事も同時に証明できる。

一流と呼ばれる世界の住人のみなさんの大半は「異様な努力家」であって、「桁外れの練習量」であったりするのが普通です。それは「できちゃった」のではなくて「可能だと思ったので現実を認知する形で選択されている」。
わかりますか?ここですココ→「可能だと思ったので現実を認知する形で」
この瞬間しれは『非日常では無い』んですよ、
構造論的に、彼らの活躍をスーパーマン的に認知しているのは「それ以外の大衆による相対的認知」であって、当人の主体的認知は「日常と変わらない」んですよっ
同時に「決して満足しないために練習量が落ちない」のは、その成果が(やはりある種の反動形成を元にしているため)合理的な満足によって”強迫の非成立”なる結果になっていないんですよ。
強迫構造に向きあう自意識の在り方も実存するのと同時に、その反動形成に自意識として向きあうって「自意識マターもある」んですよ、ここがねぇ、微妙なニュアンスなんだけれど、、

これ上記の説明で鉄板なんだけれど、おそらくここ読んだ半数の人は誤解残していると思います。
どうにもここが心理学とか精神分析の”何”で、
どんな風に説明すれば誤解無く言語化できるのか実に困るんだけれども、
「譜面が読める人は譜面が読める人なので、譜面が読めない人の自意識を保てない」
「150キロの速球にバットを当てる事が出来る人は、90キロのバッティングセンターのボールに空振りする人の自意識を保てない」
「自転車に乗れる人は、それを特殊能力だと認知しない」
「泳げない人が泳げるようになっても、特殊能力の獲得だとそれを認知しない」

現実は普遍ですよ、しかし現実認知は主体的なもので「当事者すら現実の一部」である事を忘れちゃいけないんです。
構造論的に強迫構造を見ていくと、
『刑事コロンボ』って昭和の時代じゃ有名な(「古畑任三郎」の元ネタですよ)アメリカのTVドラマがあります。
普段は冴えない中年男の刑事コロンボが、緻密な推理で犯人を追い詰める(冒頭で誰が犯人かは視聴者にわかるように進行)対決モノ系室内劇です。いつもコロンボは最後までとぼけた調子で個性的な犯人と知的なゲームであるかのような展開がこのドラマの売りなんですが、
私は一度だけあるストーリーでそのコロンボが感情剥き出しに激怒するシーンを観た事があって、それがとても印象に残っているんです。

このストーリーで何故コロンボが激怒したのか覚えていないのですが、完全犯罪の成立に自信満々の犯人にコロンボは、
「調子に乗るな、いいですか私はこの仕事マジにやってます。本気なんです(そんな私を前にして)、完全犯罪なんて決してあり得ない。そして(それを見逃してしまう刑事もいるかも知れないが)完全犯罪なんてものは決して在り得ない。」と挑戦的に言い切ります。
この意味ですが、
つまり「自意識マター(自己責任の成立する選択)」における一次的な欲求なら、そこに前頭葉ロジカルが全力注ぎ込む可能性がある。そこに実存するのは「全力」とか「脳全開」です、
しかし、反動形成として行われる行為には必ずその背理に抑圧という”リミッター”が交換条件に成立している。そこには「全力」とか「脳全開」は在り得ない。同時にそれが「反動形成と向き合う自意識(構造論的に反動形成の非成立)ならそれを面白がったりする事は無い」。
たとえそれが計算高く、立ち回りの上手さで即時的な成功を手にしたとしても、それは所詮”中途半端な”反動に過ぎない。
「自意識マター」として今この犯罪を前にする刑事がここに存在する以上、そこに完全犯罪(完結)など決して成立しない。(パフォーマンスとして負ける筈が無い)

コロンボは決して道徳論等語っていないんですよ、
何故なら、彼は犯人に好意すら感じるぐらい普段は軽妙な会話と、その犯行に対する理解すら見せます。
コロンボが言いたかったのは、「犯罪と感じて面白がっているだろう」な部分への我慢ならない不快感なのです。
「生まれてこの方、泥棒を正業にしています。私にとってこれは立派な仕事なんです」と語る人物は、喩え逮捕される事のない完全な”仕事”をしてもそれを「犯罪とは認知しない」んですよ。
言葉として犯罪と言ったとしてもです。
コロンボが言っているのは、そういう意味の(満足する事なく正面から反動形成に対決する自意識では無い)犯罪ですらなく「犯罪を気取る”犯罪”」が許せないんですよ。

仮説として「昇華」は在り得ます。
しかし、それがあたかも「自己実現(=完結)」等という空論で語られるこのでは決して無い事は断言できます。そんなものは”構造的に存在する事すら不可能”なんです。

偉業を成す才能とは、それがその人にとっては日常的出来事であるという”まさに才能の賜物”であって、その当事者はそれに感謝(ガチの対決なので)する事はあっても、それに「酔う事は無い」んです。



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