Kagewari kagewari 精神分析相談事務所



Z『普通の世界』


1)日本固有の普遍性について
フロイドの暮らしたキリスト文明圏の世界と日本のでは、その『共同幻想』のタイプが違います。日本の常識として自意識に認知される『共同幻想』は、キリスト教文明圏における「戒律の延長上の常識」とは違うからです。日本の常識はもっと曖昧で、明文法世界と違う慣習法世界の『共同幻想』と言えるでしょう。この広義の社会規範ともいえる常識を、日本では『普通』と呼びます。

「普通そうでしょう」「それって普通?」等の言葉で要求される曖昧な「常識的社会人像」は薄く広くこの国の規範となっていますが、その内容は明文ではなく、曖昧な合意「あうん」です。これは非常に興味深い事です。葛藤の原動力は自己嫌悪であり、その主力は『道徳』ですから、この社会における道徳規範の差は症状にも現れます。
一神教的な厳格な道徳による自己嫌悪は、極論自らを「悪魔」と呼ぶに至り、連続殺人等の凄惨な結果を招いてしまう可能性に繋がることもあるのです(決してキリスト教の特徴ではありません。自己嫌悪は、その持てる意味合を逆転させるのが特徴ですから、そういう構造なのです)ですからキリスト教は、その危険性に備え「懺悔」というシステムを補完的に持っています。

個人的にですが俺はフロイドにおける「カウチソファーの自由連想療法」がこの「懺悔」のシステムの延長上にあると考えます。仕組みは簡単です「嫌悪構造の弱点は、許し」だからです。キリスト教のコアな思想は「赦し」でしょうから、重要なテーマに違いありません。「許し」と「赦し」。
自らの許しを自分で求めて権威がそれを認める。自己嫌悪的悩みは停止します。症状がある場合、懺悔に値する事実関係は無意識に抑圧されているわけですから、これをいかに意識下に取り戻すのか?この抑圧が解決すれば、キリスト教社会にはそれを「赦す」社会的バックグラウンドがあるので、その後の回復を『共同幻想』に委ねる事が可能なのです。
(フロイドがユダヤ人である事は皮肉とも言えますが、これは「彼がキリスト教世界のアウトサイダーである事が、無意識の構造の着眼に無関係では無かった」と考えられるでしょう。その後の、キリスト教関係者による「フロイド精神分析」批判の気持ちもよくわかります。精神分析的に言うなら反動的自己防衛です。)

つまり、フロイド心理学は、ヨーロッパの社会的背景が「キリスト教」である事を含めて理解して初めて、全体像が掴めます。キリスト教文明圏の特徴を理解しないと「無意識に抑圧されているアイデアを表に出して、意識下に置く事で何故回復が期待できるのか?」という問いに、スッキリとした答えを導けないからです。
その意味でも、この日本における『共同幻想』の鍵「普通」は、心理学を統括的に理論化する上で都合がいいのです。「唯幻論」を生み出す背景は慣習法であり、「唯物論」の背景が明文法である。そんなところからも、「唯幻論」の位置付けがなんとなくわかっていただけるかと思います。

『普通』の概念は曖昧です。しかしドグマ(宗教的教義)も「仮説に過ぎなく実態は幻想」です。欧米で流行した反動(カウンター)芸術「シュールリアリズムがそれを証明している」と俺は思います「現実のコア」を見つめようとするほど形式(明文)から遠ざかったのですから。

俺は日本を普遍的に包む『共同幻想世界』を『普通の世界』というキャッチコピーで呼ぶ事にしました。ベタなジャーナリズム・キャッチは「一億総中流社会」ですし、戦前なら「八紘一宇」でしょうか?
『普通の世界』を基準にして「唯幻論」を改めて捕らえなおする事で「精神分析を、日本向けによりわかりやすることができるのじゃないのか」そう思うんです(少なくとも個人的には)。上等とかの意味ではありません、むしろ「ベタに」「大雑把に」です(「唯幻論」では「世間様」を日本的神意識に置く事で説明が行われていますが「世間様」ではイメージとして、村社会的「あうん」をイメージしにくと思うんです)。

 「神の罰が下る」と自分を責める自己嫌悪と、「普通じゃ無い」と自分を責める自己嫌悪。
 「天国や約束の地」に対して「普通に幸せな暮らしをする事」。

一見後者は前者に比べて厳しさが欠けているように見えるかも知れません。しかしどうでしょう?
社会は一定の基準を個人に求めています。もしこの「力=常識」が曖昧なまま無意識に抑圧されたら立派な「脅迫」なのです。 葛藤下における本人の自意識はそれを「道徳」と錯覚し(あるいは道徳の一部が嫌悪構造を取り込 み)自分を含めて「世界を批判」します。
『普通の世界』における適応障害では、普通の世界に適応出来ない自分を責めるのと同時に、会社の同僚や学校の同級生、そして家族(普通の世界の構成員です)に対し非常に厳しい批判性が向けられます。即ち、主客の逆転が起きているってことです。

「社会に適応できないと悩んでいるのに、その社会を権威的立場から同時に批判している」。
不適応に悩んでいるとはとても思えません。少なくとも道徳的には「より良き普通の人」として全体を、上から批判している構造です。自己嫌悪の「逆転」無しにはこれを説明出来ません。「言行不一致」で一応の説明は可能でしょうが、それには条件があります。「言行不一致」とは保身であり「自己を肯定する振る舞い」だからです。「自己嫌悪」と呼ぶぐらいですから「自己否定」がスタンスでしょう、批判的姿勢は通常、厳しい「言行一致」を自分に求めます(葛藤を解きほぐすキーの一つが「言行不一致」です、俺の分析過程の重要なポイントとも言えます)。

嫌悪意識があると「普通」という単語が、会話で使われる回数が相対的に多くなります。
「私は」ではなく、主語が「普通は」に取って代わるのです。

2)常識と非常識(そして日常と非日常)
常識的と呼ばれる時、同時にその所作は画一的ともいえます。日本はその中の僅かな違いを「ワビサビ」と呼ばれる個性の場として残しました。逆さまに言えばきっちりと文化の形式が保守されない限り、同時に個性の場「ワビサビ」は消滅します。現代の散文的自由に個性という言葉がナンセンスである理由でしょう。「文部省が認める個性」既に言葉が壊れています。社会に個性が認定されたらその時点でそれは社会的なのであって、個性的ではないでしょう。現代社会が求めるのは個性では無く、その実「個人的に発揮される社会性」だったのではないのでしょうか。

個性とは「個体差」「ユニーク」という事であって、予測できたら既に「個性」では無いのです。つまり全体の縛りの開放が、逆に自由な個の表現を社会化してステレオタイプなものに変えてしまったとも言えます。保守対革新の綱引きが、実は一対一に過ぎない(社会構造のバランスにおいて)理由です。
ところが「文明化」社会ではこの革新により、保守的風土が自由社会寄りへ移行する事が自明なのです。文明化は過去の習俗の魅力を現世利益的に半減させ、その地位を奪い去るからです。その結果シャーマニズムやドグマのメッキは(その本質を軽んじられて)剥れてしまいます、知識階層によってです。

神学生やシャーマンに取って代わったのは「大学」です。中国の「文化大革命」における文化人の虐殺は皮肉ですが、この極端な行為は「中国共産主義体制の保守」という見地から見ると、非論理的ではない話だったのです。
俺は革新を引っ張る「リベラリズム」の推進役を「ジャーナリズム」と考えてます。イメージとしては「リベラリズム」を無意識に持つ社会的立場(物の見方)が「ジャーナリズム」でしょうか。日々革新が続くのなら「常識が変化を折り込む」という事です、既に言葉として壊れていますね。普遍性や再現性の無い常識なのですから。それじゃまるで「真の常識」を目指しているようです。まさかどこかに革新の終点があるとは思えません。「変化や進歩し続ける事が文明社会の性」なのでしょう。
つまり「常識は常に壊れる運命にある」のです。

「常識」で営まれる時間は「日常」であり、非常識がまかり通る時間は「非日常」ですが、現在の会社組織の勤務体系は、社員中心からパート・アルバイト・契約社員・派遣社員へと変化し、勤務時間も様々です。それだけでなく、各社ともに社員旅行は衰退し、忘年会が行われない事も不思議じゃありません。
60年代から社会的バカンスの象徴だった「ハワイ」もその地位を失いました。

ここではこれ以上話しませんが、俺は「デフレ」を好感しています。数値上の進歩は、既に人の心を動かす力を失いました。消費社会への厭戦感が「デフレ」なのでしょう。雇用を成長や効率と切り離して考える時代の台頭です。俺は左翼じゃないですが、所得分配的に必要な世代や生活環境に応じて、分配として雇用が振り分けられるべきなのかも知れません。(減税による新保守政策には限界があると思います)

さて、話を心理学に戻しましょう。
一般に精神的バランスは「日常」「非日常」によって営まれてきました。大雑把に言えば、「生産と消費」=「社会適応ストレスとその発散」です。しかし今、「日常」が壊れる方向にあります。一方向は「多様性による共同体との一体感の喪失」、そしてもう一方は「やりたい事」も関係しますが「安定的生活水準のための労働の時間」では満ち足りずに、「自己実現(どういう意味なのかこれにも困るんですが)的生産のための労働を求める」風潮「非日常的日常の欲求」です。同様に「消費」は「お金を使って贅沢した」意識から、「必要なものを買い揃えた」的に日常化し、海外旅行ですら人によっては義務的で「毎年同じ時期なので、ほぼ日常」と言ってもいいぐらいです。

古代では「ほぼ毎日が日常」で「お祭り、特別な宗教儀式」が「非日常」でした。ですから「お祭り、特別な宗教儀式」は大スペクタクルで、映画もTVも無い社会ならとてつもないエキサイティングな事だったでしょう。今でも伝統的お祭りを残す恵まれた地域では「お祭りの為に一年がある」という考えが実際にあったりします。

 何が言いたいのかって?
 「甲斐」です。
 「酬い」です。
現代ではこれがはっきりしていません。人によっては「やりたい事」暴走が起き、消費マインドは後退しデフレになりました。各地の大規模リゾートはディズニーランド(老舗で保守的ですね)以外壊滅です。

『普通の世界』は今瓦解の方向にあります。
時を同じくして、逆に伸びているのが「インターネット」です、三大新聞の権威は落ち、センセーショナリズムでもあったフォーカスは廃刊です。革新の旗振り役、ジャーナリズムもその地位を追われようとしています。CNNがもたらせたショックも色あせました。それに代わり台頭しているのは「ジャーナリズム(?)」な巨大ネット掲示板「2ch」です。そして又、国連の中立性は失われ、今はNPOの時代です。

 これは何を暗示しているのでしょう?

『個人の台頭』だと俺は考えます。その時『普通の世界』の専売特許「日常と非日常」は意味を失い、必ずしも社会適応が、精神的な安定を保障しなくなった事を認めざる終えません。ストレスは発散するのではなく「動機付け」の材料となり、体現されて代謝される、そんな時代の到来なのだと、俺は考えているのです。
精神的な悩みの終着点を、『普通の世界における社会適応』と考えるのは、あまりにも乱暴な気がします。

■ジャーナリズムとダメ人間
『普通の世界』が瓦解していくなら、多数の人々が「普通」から落ちていきます。昔ならそんな「普通以外の人物」は村も迷惑、本人も迷惑でしたから「ヤクザ者」「カブキ者(「河原者」芸人社会全般への別称)」という人生を生きました。
『普通の世界』の中から覗けばドロップアウト、外から覗けばアウトサイダーです。彼らの普通の人々との共存関係は「ガス抜き役」を演じる事で、変わり者の使命と言ってはおかしいのですが、時として大きな役割を演じます(どちらかと言えば裏方でしょう)。報道は、社会に対しての批判的視線が必要ですから、ちょっと『普通の世界』からはみ出しています。半歩ほどですか?これが「ジャーナリズム」です、ジャーナリズムとは不思議な存在で、記者による報道に過ぎないのに、彼等は一定の使命感を持っているのではないでしょうか「権力の不正を暴く」とか「弱者の擁護とか」非常に微妙な存在で、社会に対する影響力を、自認もしているでしょう。
彼等は何者でしょう?

子供の頃、そうですね、小学生の頃ですか「先生に言いつける」行為は、まっ子供たちの間でどちらかと言えば「卑怯者」でした。権力に訴えるのですから、理解もできます。話は反れますが「遠山の金さん」はアウトサイダーで、自分で捜査してます。「お上に訴える」という事が、道徳的に『普通の世界』ではスッキリしないのでしょう。現代の大流行している「内部告発」の原型は「ウォーターゲート」です。暴露はワシントンポストを通じてのものでした。今でも(野党議員というケースもありますが)告発は「メディア」に対して行われます。ジャーナリズムの特徴的力に「改革の火付け役」という力があるからです。
 ジャーナリストは自分の責任で改革プランを打ち上げるのではありません。事実を選択的に報道する事によって、、ですから、その意識は「任務?」に近いものです。
民間人の「公的任務?」ですよ??

 彼らの片方の足はアウトサイダーであり、片方の足は『普通の世界』に乗っている。
 異端児」ですね。

完全にイッちゃってるアウトサイダーもいます。公的な正義感無し、成功等のモチベーション無し60年代植木ひとしが演じた、あのサラリーマン。ジャーナリズムじゃないですね。彼は左翼でも無い、劇中彼は成功を収めたりしますから、有能な一面を残し、実は立派な人物だったりします。ちと完全なアウトサイダーではありません。木枯らし文次郎(古くてスイマセン)の決め台詞は「あっしには、かかわりの無いこってス」ですね、かなりきてます。かの有名なレイモンドチャンドラーの、ハードボイルド探偵小説の主人公フィリップマーロウは事件を解決しますが、結果被害者を未然には防ぐ事は出来ず、小説の中では死人が一杯です。より出来のいい(意見はともかく)ハードボイルド探偵小説家ダッシールハメットの主人公は「死人にうんざり」と言ってのけます。ちとやりすぎです。
欧米の「風刺画」新聞の本文ではありませんが、何の役にも立たないのに人気です。
概念ははっきりしませんが、唯単にシニカルではない部外者。ロクデナシ度が高いので「ダメ人間」と呼んでます。俺の目標です。(心理学テキストに馴染まない、個人的意見でした)



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