V 恋愛と自己嫌悪、、『被る』 |
1)「愛される」について |
■言語としての”恋愛”は確かに男女二人の関係をメインとするものですが(「恋愛」では無く)「恋愛感情」という言葉で考えると、途端に片思い的な主観の意味になります。考えてみれば相思相愛でおめでたく”スティディ”と言えばいいでしょうか所謂安定カップル(コンビ)結成が成立している場合、その当事者を「恋愛中」と呼ぶ事も確かに無いじゃ無いですが、どちらかと言えば「恋人同士」であるとか「誰々と誰々は付き合っている」など”関係性の呼称”で説明する場合が主となります。 個別の場合でも「彼氏である」とか「彼女である」など関係性を意味する属性の呼称などであり、概念的にもう『共同幻想』帰属アイデンティファイが成立している事になりますから以下のような”不安定さ”と相矛盾する事になってしまいます。 ↓ 言葉の使い分けがどこいらへんのニュアンスにあるのかと言えば「恋愛中」と言った場合「まだまだ定まっていない」という不確定状態・不安定状態を指していると言っても間違いでは無いでしょう。 そもそも論になってしまいますが「脳における快感代謝」に深く関わる『興奮』には「空腹と満足」のように欠乏や不安定な状態に起因してアレコレあってという結果以前のプロセスで発生するのであって、動機形成の側面で言っても実行する前の選択段階がある意味本番です。(心理学的に言うと結果論には意味が無い法則がこれを更に補足します)恋愛関係の場合関係の成立や既成事実化は結果の方に属しますから、ある意味「恋愛とは関係性成立以前の不安定だったり曖昧だったりする状態が主になる」と考えてもいい事になります。 (※婚姻後の夫婦が「まだまだ恋愛中」などと意図的な発言するのも「関係性成立後の関係」と「恋愛関係者」という両者の立場が構造的に別物であることが無意識に自覚されているからでしょう。) ■更に言語としての「恋愛感情」を考えてみると「”恋愛感情”だけなら片思い的な主観も含まれる」ので(間違っても海兵隊愛のような『共同幻想』関係性における連帯感などとは種類が違う)、関係性が不安定であるが故にカップルの関係には時折不安を伴った状況(興奮)が派生し顕著にそれっぽい状況なり修羅場なりが現れ←それを第三者が見た時「あら恋愛中なのね」と表現する訳で、同時にその当事者の心理も関係性の未確定加減に応じて「片思い的主観」が領域的にも大きくなっていると見る事ができるので、「恋愛感情はむしろ不安定状態や関係性が未成立な状況の方が相対的に大きく体感される」と考えても不思議でも何でも無い訳です。 (ドラマの台詞じゃありませんが、「ずっと幼馴染で互いに知った仲なので逆に恋愛感情とか考えられない」という台詞のリアリティーにも繋がる話です。←幼馴染という別種の『共同幻想』的関係性が事前に安定してしまっているため。) ぶっちゃけ「恋愛感情」単体であれば「永久に片思いのままでも可能な心理」であり、下手すると片思い状態の方が相対的に体感される恋愛感情は大きいって事です。 (現代日本におけるラノベ主人公男子の典型的設定が「恋愛となると極端に鈍感」となっている事もその証明のひとつでしょう。) ■戦後昭和の50年代などの島倉千代子さんあたりの流行歌でも「初恋の人は結婚対象とは全く別ジャンルの片思いのノスタルジー」みたいな表現となっている。 他高度成長期以降の歌謡曲などでも「初恋」は詩的に特異な意味を持っていて、語られる内容のほとんどは「片思い・叶わぬ恋」である場合が多数。ぶっちゃけ、昭和歌謡曲や演歌のサビなんかでですね「夫の夫の夫のお〜おおお〜んおんお夫のなんとか〜」なんて詩はあり得ないし(妻バージョンも同じ)、仮にモチーフが夫婦の場合は「亡くなった人を想う」みたいな筋書ならアリかなみたになっており(恋愛興奮ベクトル的に)、唯一夫婦ネタで大ヒットし結婚式で友人グループが歌う定番みたいな(あんまりその姿を思い描きたく無いのですが・・・)チェリッシュのヒット曲に「てんとう虫のサンバ」がありますが、この歌は結婚を祝福しているというよりちょっと危ない(井上陽水的な)夢の国に行きましたみたいな話になっており、結婚ネタのように見えてこの歌がヒットした理由はそこにあったのではないかとさえ思います(限りなく妄想世界みたいな)。 さて、「恋愛」に話を戻しましょう。 ■仮に関係性が「1VS1」的『単独者』風のものであっても帰属性や関係性を重視する『共同幻想』風のものであっても、そのいずれも言葉としての「恋愛感情」なるものは「関係性を希求中の欲求」と言い換えられるでしょう。 (関係性それ時代を希求しているものではなく、昭和一般職女子においてそれは「結婚願望」と呼ばれ、昭和男子の場合は「出世願望」であり、構造的に全く別種類の欲求である。←前述の歌謡評論的に言うとこちらはなかなか歌にならない。逆に「それが大失敗した場合の話」なんかだと歌になる。ここも心理学的に「ごもっとも」な感大です。) 何も私は巷で言うところの「恋愛は成立したらもう終わりなのよ」なんて単純な話をしようってのではありません。 それは関係性成立以降になると「安心感などに起因する幸福感」だとか別事象の話に転ずるだけで、関係性の成立により「もう終わり」というものでは無いでしょうから。 心理学的に『恋愛論』なるものを語る場合に着目するべきなのは「片思いにおける主観でもバリバリ継続可能な恋愛感情なる欲求」というその特徴で=妄想化しやすいところを重要視しているんです。 一歩間違うとメンタル的大問題になる要因のひとつ(ストーカーとかね)。 「失敗ネタや、構造的にどうしても叶わぬなんとかであるとか(絶対的片思い)、関係性的に言えば不安定化や大失敗のが『心理的興奮』は好調・快調だという部分」の話をしてんです(劇画調の”何”が盛り上がる)。←ひょっとするとその興奮には一種の倒錯感が関係しているのではないかとすら思います。 ■この辺までの論議は、なんとなく説明するまでも無くわかっている方も多数なのではないかと思いますが、 後述の「男性型」で考えればその図式はエディプスコンプレックスの本丸なワケで、 フロイドのリビドー論もそうですが「人間の動機形成や行動のインセンティブの話」なのであって、ある意味戦後の『共同幻想論』的には過剰化してくれた方が都合がいいのです。 端的に言えば「それは欲求」であり「現実というより脳内で起きている現象」というところががメインになります(潜在意識下のイメージの問題である)。 ネタバレ的にまとめてしまえば、「恋愛論」というのは男性における「対エディプス的に誇大化する欲求」の女性版解釈とも言える理想化されたイメージなんであって、元を辿れば「行為の結果を表すものでも・行く先を表すものですら無く」欲求レベルでアレコレ発生する脳内イメージそれ自体を『自意識』が説明しようとする「現実から乖離した心理そのもの」です(「あばたもえくぼ」)。 暴論覚悟で言えば「昭和の男性は表のエディプス系出世欲(当時嫁はこちらに属した)に対して、裏の恋愛ナントカの方を浮気や風俗と呼んだりしたが、女性はそれを恋愛と美化する」みたいな側面があるという話です。 ↑ 何かこんな事書くと「男性の品位を疑う」なんて思われるかもしれませんが、あのですね江戸時代なんかだと男女の人口構成比で圧倒的に男性のが数が多くて、かなりの男性にとって結婚は現実的な話ではなくって「吉原通い」は文字通り男性社会の恋愛心理であったのです。江戸文化における「宵越しの銭は持たない」なんて刹那主義もここに被っているワケでありまして、連綿と続く男性文化にはそんな背景もあるんですから短絡的に解釈してはいけません。 (ですから昭和歌謡の多くの場合、男性主人公パターンと言えば「夜の女を対象とする歌」だったりしたのです。) ●では、言葉として(「恋愛”感情”」では無く)「恋愛」というのは何でしょうか、 ちょっと丁寧に考えてみましょう。 「恋愛」はその前段階の関係性を希求している恋愛感情レベル時に形成されている”漠然としたその先のイメージ”そのものであり、ひょっとすると抽象概念ですら無いかもしないと考えてます。←当人にも具体的に説明のできないものである。 (ちょっとニュアンス違うけども「天国の概念」と「幸福感」の乖離的なものがそこにあるだろうと、そんぐらい曖昧なところで現実から乖離している。) これって心理学テキスト別項で論じられている「やりたい事シンドローム」にも似てますが、「やりたいこと論」より更に対象性の無い曖昧なものだと思います。 「やりたいこと」や「おしいいもの」のような抽象概念の場合ですら、「意図している対象はこれだよ」と答える”私”は実存しており、「やりたいこと」や「おいしいもの」などの抽象概念は「問い」として投げかけられています(意図している本質はオルタナティブ)。この場合でもその結果(問いに対する答え)がメインでは無く、「それはこれじゃないか的(オルタナ)選択が行われるまでの過程が本番」という意味です。←これらの欲求は「問い」の形ですがいくらかのニュアンスでその抽象的対象物を示唆している。 (結果論では無いが、結論はホニャララ的に意図されている。) しかしこれが「恋愛」となると、 「それはこれじゃないか」と答えを出すものでもありません。 言葉的に表すと「運動がしたい」に近い言語です。 漠然とした行為のカテゴリー以外に何ら結果や結論を示唆するものが無い。 あたかも誰にもわからず、誰にも抽象的にすら決まっていないものを「こうだよね」とポンと投げられているような話です。 (「こうだよね」って、、醒めた目で聞けば簡単に「な、何の事でしょうか」となってしまうほどに曖昧を前提としている。) 「それは運動だと本人のイメージ的に理解されている”ナントカ”がその人の理解している”運動”なんだろうけどさ。」 なんというか「投げっぱなし感大」みたいな。 私は言語学専門じゃないのでそこ突っ込んで説明できないんですが、つまるところ「恋愛」という言葉そのものが「本人にそうイメージされる行為の比喩だ」って事です(その言葉の語彙に「示す対象は誰にも説明しようがない」が含まれている)。 ↓ 「運動がしたい」のような言語的流れで 「恋愛がしたい」をなぞらえて考えてみると、 「それは誰々君にはバトミントンかもしれない」「それは誰々さんにはデートかもしれない」「誰々紳士にはサッカーだろう」「誰々夫人にはレストランの食事かもしれない」「誰君にとって運動はジョギングかもしれない」「誰さんにとってそれは好きな人に料理をつくることかもしれない」などなど、、 これ随分と難しい話で、 ↓ 「運動がしたかったので、ジョギングに出かけた」←これは言葉としてアリですわね。 「恋愛がしたかったので、気になっていた友人ををデートに誘った」←言葉としてもうギリギリ一杯ですよ(この程度すらもうかなり無理がある)。 口語的にありそうな言葉の流れに編集すると→「気になっていた友人ををデートに誘った。」「そこから恋愛が始まった。」みたいな?これでもまだ何か変ですね、 そんぐらい表現する対象がはなから曖昧なままなので「運動がしたい」のように簡単に話の流れにすらもっていけないって事なのでしょう。「それは口語ですら無く脳内専用言語なのだろうか?」 ちなみに、 前述で説明した「構造的に全然別の欲求である『結婚願望』の場合(こちらは女性にとってのコインの表)」、 「恋愛がしたい」だと日本語としてもどうかって事になるのに? 「結婚したい」だと全然アリの日本語になります。 たとえばですよ、 恋愛ドラマであるとか恋愛映画を観た後に「私もこんな恋愛がしたい」と言ったとする。←不思議とこの言葉はアリなんだな、、(厳密に考えるとどこか変な気もするんだけれど) 実際恋愛映画のレビューなどで「こんな素敵な恋愛がしてみたい」なんて言葉頻繁に出てきます。 なんか、やっぱり言葉としておかしくない? (注:一般に多く見られるのは前者の「したい」ではなく後者の「してみたい」ですが、それって「仮」というか「試しに」というか「刹那に」みたいな意味が内包されちゃってませんか?現実とは別に”あっちの世界の話ですよ感”が語尾に出てるのでしょうか?) 話は戻って「それは行為としてどういう事?」こう考えてみましょうか。 恋愛感情で興奮中の各個人の脳内ドラマの事ですよね。→ドラマみたいな相思相愛設定があれば、関係性成立にいたるまでの話が大いに盛り上がる的な。 実際「恋愛ドラマ」って心の中の言葉が独白的に語られる部分無いと視聴者何の事やらさっぱりついていけなくなるでしょ。 やっぱり「事件は脳内で起きている」からじゃないのか? 冒頭部分で説明したように「恋愛感情は片思いレベルでも余裕で可能(いやひょっとするとそっちが本物)」というところがいよいよ意味を持ってきます。 前述の「よくある恋愛映画の評論」の続きには大概「相手を探すのが先ですね」なんて言葉に続き「まずは相手探しです」とかになったりしてますが、 「恋愛」という言葉は片思いのままでも成立しちゃうため、ここで選択される対象者を示す言葉が「恋人探し」とはならず「相手探し」になってるんでしょう。 会う前から恋人だと定義が成立する事がある筈も無いですからね(ここもややこやしいんだけど)。 なんかとってもリスキーな雰囲気を感じませんかこれ、 「言葉としてどんどん壊れていくぞ」みたいな(笑 (「恋愛をしたい」を下種な男子が「風俗行きたい」と言い換えた場合、品性はなんとかだけれどその動機形成に心理的危うさはありませんわね。言葉の流れ的にも後者の方が自然です。) ■『選択される言葉が「恋人探し」とはならずに「相手探し」になる』 「相手」の方が言葉として適当な感じがする事っておかしくないか?それは何の”お相手”なんでしょう? 「主観的恋愛イメージを投影する”相手”」って事になってやしないですかね、これ。 ↓ 「恋愛感情」は片思いのままでも実行可能なだけでなく興奮レベルは関係成立以前の方が高いぐらいである。 大変高いレベルの『現実乖離フラグ』が潜んでいる事になります(てか乖離してないとダメなんじゃね?)。 ここでもう思い切ってはっきり言いましょう。 ■「恋愛」それは女性言葉なんであると、 (これそのまま性別性差を意味しているものじゃありませんよ、自我のスタイル的に女性タイプ男性タイプはあるんだし、それぞれ個人の中でも女性的な部分や男性的な部分が混在しているでしょうから。) 事実、昭和において色恋沙汰とかの話は「女の話」でありまして、男が失恋がどうしただのでメソメソしていると「女の腐った奴」などと呼ばれてた訳ですよ。 <ちょっと話逸らせてみます> 「やりたいことがみつからないシンドローム」の話になると”みつからない派”の方から「それを必死に探してるんだ」みたいな抗議も聞こえてきそうなのでこの点補完してみましょう(そこに「恋愛論」を考える上での参考になる要素があるので)、 「おいしいものが食べたい」的な文法で表現すれば「やりたいことがみつからない」では無く→「以前からイロイロ思ってきたことをこれからやりたい」という文章になってなければおかしいのです。 「以前からイロイロ思ってきたことをこれからやりたい」であれば答えは簡単です。 「そのイロイロなる過去を振り返るだけ」ですからね。 だとすると、言葉として「やりたいことがみつからない」という文章になってしまう理由は「やりたいことを思い出せない」って事になりませんか? (『自意識』が抑圧されていて、自主的にイロイロやってみようと思う事すら自由では無かったというのが真実じゃないのかと、) 心理学における「パラドックス論」だとか「レトリック論」ってこの辺の話なんです。 「その不快感とは自分の強迫心理に抑圧され続ける自分の姿を婉曲的に表現しているのじゃなかろうか」とね。 敵は本能寺にじゃないけれど「探している場合じゃ無くて、強迫心理問題をどうにかするのが先だろう」みたいな。 ここ踏まえて、話を「恋愛論」に戻しましょう。 つまり「恋愛感情」は片思い主観である方が興奮体感も大で、対象者が現実に存在しなくたっていんですから(グラビアアイドルでも映画の登場人物でも)ドラマや映画などでその心理は余裕で触発されると申しますか、快感刺激による個人の興奮だけで成立しちゃうと考えても不思議ではありません。 そこに配役として「イメージ投影対象の”相手”」さえいればいいんです。 無意識下のイメージが『投影』さえ可能であればいんですから。 片思いの方が体感上大きいって要素も、快感レベル(興奮値)で言えば「関係性が永久に成立しない空想感すら刺激する非現実性がある方が盛り上がる」と考える事が可能だし、「夢見る少女」なんて言葉が実際に存在します。 (勿論この言葉は言うまでも無く「”現実では無く”夢を見る少女」の略である) その夢のイメージ元ネタってのは、そりゃイメージなんですから「無意識下にあるんだろう」と、ここまではわかります。 ■今度は逆に「恋愛」をイメージのままとせず現実世界の話に繋ぎ止める要素を考えてみましょうか。 「大人の恋愛」なる言葉を生々しく語ればどうなりますか? 思いっきり、性行為を示唆する話になりますよね。 しかし性行為なるものは「おいしいものが食べたい論」なんかにおける「実際に食べる部分」を指してますから、「恋愛」なる言葉と比べるとニュアンス的にも全然遠い世界の話っぽくなります。 (えーとですねちなみにこの話、心理学的に言う『性の嫌悪』とかって話に関連している) 何が言いたいのかって、相手の特定という「現実が脳内世界から自我を引き戻すという要素」は前述のとおり専ら性行為であったりするんですが、ここまで説明したとおりで「それは恋愛論のコアでは無い」ですし(下手すっと敵対する)、心理学で言うところの「結果論に意味が無い法則」じゃないけれども別の話過ぎて「恋愛のイメージを現実にリンクさせようとする力としてはいかにも弱い」と考えることもでるでしょう。←ひょっとすれば「興醒めさせてしまうリスクもある」。 (平成のオタクがアイドルに「永遠の処女性」を求めたりとかの心理も説明つきますわね、) ですから言葉が「”大人の”」になってるんでしょう。 「大人である分、いくらかの幻想は壊れ現実が近いですよ」を示唆しているみたいな。 (『共同幻想』開眼の場合それは合理性により壊れ、『単独者』上等の場合だとそれはエゴイズムにより昇華される。) しかし逆に言えば、「大人の恋愛」なんて言葉が通用するのは『思春期反抗期』をプルーフした場合です。 自我に心理的問題を派生させている場合、そこに反射的拒絶を派生させることになります。 (こいつが「思春期のトリガーである身体的性差の萌芽それ自体や行為としての性行為に対する嫌悪」) つまり「恋愛」はどうしたって現実乖離フラグそのものの意味を含んでいたりするので、メンタル問題などがある場合だとそこから更に現実乖離リスクが大きくなるワケです。 ■本能がむりくり当事者を現実に繋ぎとめるなんとやらが”切れちゃってる”人類ヒト科自我の場合、 『ナントカ』への希求状況そのものが現実より勝る事も自然現象であり、どこまでも現実から乖離しちゃう可能性あるところが人類の特性なんですから「恋愛」なる言葉そのものが現実との乖離フラグであったとしても何ら驚くような事じゃありません。。 人類ヒト科は「イメージや抽象概念と現実のスキマを自我が仕事してなんやかんやする」って図式で現実に適応(リンケージ)してますから「自我の仕事」が停滞してしまえば誰であっても現実との乖離は起きるんです。 さてさて、ここで想像してみてくださいよ、 「ナントカは盲目」だとか「あばたもえくぼ」なんて言葉もありますが、となれば「恋愛」なる局面って「自我が仕事しずらい状況」って事になりませんか? 無意識下のイメージが暴走しやすいんだから、心理的問題のある自我にとってそれは「強迫性」そのものと容易に結合するかも知れない。(ですからストーカー心理なんて不思議がる方がおかしな話で、、) ●ひとつの典型例「男性型」で考えるとわかりやすいかもしれません。 「男性の性欲は強迫的である」←これ説明するまでもありませんよね。 女性が男性を「下半身で恋愛している」みたいに表現するアレですよ。 それこそ男性の場合それはエディプスコンプレックス成立のメインエンジンです。 近代以降の『共同幻想』はここ(現実との乖離)を梃として使い、文明化であり出世願望であったり持家願望であったり(勿論軍事的拡大もそうでしょう)、先進国に至る様々な事象に結びつているのであり、男性のエディプス的に肥大化する現実との乖離が「出世願望」であるなら、近代の『共同幻想』において差別的な地位にあったその女性版は「結婚願望」でした。 「恋愛」は女性の「結婚願望」の根っこにあるように思えますが、 違います。 昭和の男性心理においても、「出世願望」の他に「パツキン妄想」なんてのもありましてですねww 現実世界から脳内イメージの世界へ(それが乖離するからこそ)逃亡したいって心理もあったんです。 この点においては『共同幻想』適応ストレスに汲々とする『自意識』の思いもあったのだと思いますが(昭和社会における「お世辞にも上品とは言えない風俗織り込み男性社員旅行だったり巷の風俗文化であったり浮気文化」に繋がった)、『共同幻想』ストレスからの逃亡って心理は『自意識』発だとしても、その後の欲求は『無意識的』というか→リビドーに被(こうむる)形でパッシブにさらされる自我の構造はそのまんま「強迫的な世界」なんでありまして、メンタル問題発現中の状況にも類似した状況になります。 勿論現代社会においては男性にも「恋愛感」なるものは「風俗」とは違う次元で成立してる訳ですが、そのイメージは女性のそれと違って「性行為との関連性はやはり強い」と言えるでしょうね。 だったら男性は「恋愛マターにおいて現実との乖離は女性より少ないのでは?」と思えますよね。 確かにそうなんですが、 近代以降社会の『共同幻想』適応圧力は歴史的に男性の方が強かったですから「とにかく一息つきたい(ちょっと逃亡したい)」という男性特有の実感は、女性的な現実との乖離っぷりとは違い「実社会からの逃亡感」としての現れ方が大きいように思います。 やっぱり「家庭はあるんだけども銀座のクラブ通いが夢である」だとかですね(若い人の平成初期なら「キャバクラ通い」になるんでしょうか)、浮気願望みたいな世界のが男性固有の現実とのあからさまな現世内乖離感の主力なのでしょう。 皮肉な事に、昭和あたりでは女性の間で(こちらには「結婚願望」が別途あるため)「結婚してくれない」とかの話が悲劇調に描かれたりしますが、方や男性の側から見れば「結婚などの『共同幻想』を想像させない関係の方がよっぽど恋愛感が大きい」と言えたんです。 更に言えば、その男性的恋愛感なるものの正体は『共同幻想』からの逃亡でもあったので、当時『共同幻想』社会への適応を事実上義務付けられるほどのプレッシャー下にあった男性にとって「浮気の方がよっぽど物語的に恋愛調な世界を実感させた」のであり、その実感は「間違いを犯した」なる言葉で説明され←そのまんま現実との乖離が言葉になっていると解釈する事ができます。 (考えてみれば「愛人」なんて言葉も言い得て妙な世界ありますわね、) ↓ さて、そう考えると「恋愛などというのは『共同幻想』社会から見れば犯してはいけない間違い」なのでしょうか? 「そうだと思いますよ(笑」 ここにはレトリックがあって、実は「恋愛というのは本質的に『単独者』的なものです(関係性が1対1だから)」。 『共同幻想』社会から見れば間違いであるとか気の迷いとか言われて正解でしょうよ、そりゃね。 ですから昭和の恋愛には「私と逃げて!」なんて台詞もよく聞きました 日本の歴史において「恋愛」を発明というか発見したのは『紫式部』だと思いますが、おもいっきり『単独者』ですよ。 ●ひとつの典型例「女性型」 「愛”されたい”」となった時にはもうアウツ。 (女性誌なんかはこのフレーズを強迫煽り的に販促に使っていると言ってもいい) 「愛されたい」となった時、それはパラドックです。 ■言葉の構造としてもう『被(こうむる)』心理なワケだし、 考えてもみてくださいよ、 「おいしいもの論」引き合いに出しますが、それは「食べたい」ですよね。 だったら?少なくとも「愛したい」でなければ話が成立しません。 (女性の場合恋愛局面で「食べる」は性行為の隠語になっているところもポイント) 「愛されたい」じゃ欲求にも動機にもならないんです。『被(こうむる)』はパッシブですから。 (「やりたいこと論」における「認め”られたい”」という心理に類似) 無理くりおいしいもので表現すれば「おいしいものを食べさせられたい」? なんか迷惑行為みたいじゃないですか(笑 動機形成のテーブルに乗らないのかわかりますよね。主体的行為では無く、そんな欲求や動機の総称的曖昧なイメージの被対象者になりたいって事です(ここでも恋人としてというよりニュアンスは”お相手”なのかも知れない)。 精神分析で「愛されたい」なる言葉を「おいしいもの論」でデ・コードしてみましょうか、 「おいしいものを食べさせられたい」→「○○に食べさせてもらって、そして私はそれをおいしいって(興奮するの)」みたいなイメージなのでしょうね。 ↑ 具体的に解析しちゃうと、ちょっと半分アブナイ人入ってますよねこれじゃ、、。 ■話を戻して、逆説的に「現実世界に恋愛は存在すろんだろうか?」なるレトリックを真に受けて考えてみましょう。 「愛する人」だけが実存可能で、「愛されたい人」は「夢想家」としてだけ存在する。 (夢想と現実の区別がつかなくなった時が一番危ない。) 「夢想家状態ハイ」を『躁』と考えれば、「悲恋自己嫌悪」(ナルチシズム興奮)状態は『鬱』となる。 <話を具体的なところに落っことして周辺部分を考えてみると> イメージは「誰しもが恋愛映画やドラマなどの感情移入する時の流れと同じ」に”投影”可能です。 投影元としてフロイドのエディプス云々の分析があるように家族関係含めて「幼児性の権威的性愛的関係(ぶっちゃけ可愛がられる的な)」な過去用例をなにやかんや人間は持ってますから(事実そのルートを介して言語を習得していたりするのであり)、異性間の恋愛”関係”なる前例が無くても想像と投影で恋愛感情なる幻想を構築可能。 時に女性からの男性の恋愛観への批判に性的関係が先行しているなどの話がありますが、ある意味それは随分と無理のある批判であって、男性の場合の「性的関係の先行」は「幼児性の性愛関係の投影を断然難している」とも言えるのであり、心理学からは若干外れますが一般用例的な意味の「マザコン」なる男性特有のなんとやら性癖の場合でも「そのまんま母子関係が異性関係解釈の中で変態性行為ジャンルやフェチシズムとして別個に成立している」って状況なのですから、そのまんまの投影が難しいから概念として分離していると言えるんですよ(それこそ明快な現実との相克が発生している)。 (多分女性心理における「変節の無いそのまんまの投影」が「純真」だとかの言葉に解釈されてる。) この男女差は性的刺激(ストレス)なりの生理現象の違いに起因しているのだろうし、興奮を司る脳内物質に対する論理的解釈の差異もあるでしょう。 なんやかんやで「行為なり文化的背景として男女の投影現象に違いがあるのは確か」と言えるでしょうね。 ●「所謂恋愛感情的興奮現象なる女性心理を考える」 同時にその心理は前述説明のとおりで多分に「幼児性性愛関係の投影」を原型としている場合が少なく無い。 男性の心理における「強迫心理論」的リスクと言えば、それは「去勢恐怖に代表される方のエディプスコンプレックス」ですから、社会的成功や権威的競争などを過度に意識してしまう形で「強迫心理」が醸成される云々の話がメインになります。 この女性蔑視な世界観の背景は男性固有の強迫心理「マチズモ系」が表れているのであって、であるが故に余計「なんとかされる系」のメソメソした話は女の腐ったような奴の話と表現されたんです(暗喩は勿論「強迫心理系の女性」)。 ことほど左様に「所謂恋愛感情的な大型の興奮現象は女性心理として起きる」と『共同幻想』も織り込んでいたって事かもしれません(近代西洋では「女性はヒラヒラしたファッショにしか興味が無い」と揶揄もされていました)。 とにかく「私は○○を愛する」はアリだけれど、「愛されたい」とメソメソするのはヤバい(ガチ『鬱』フラグだよと)。 注:問題をひとつ切り分けしなくちゃいけません。現代社会になると女性も社会進出した結果、昭和の男性心理にあるような地位や名誉フラグの「エディプス系強迫」が別途発生してます。 昭和の男性心理「社長願望の内向化現象」が女性における『結婚願望』でしたが、これは男女雇用機会均等法以来変容し、結婚の元本保証担保的に男性側が後々分譲マンションを購入し納める的な世界が象徴化されたため、女性キャリアが自宅として1Lの分譲マンションを買ってしまえば『結婚願望』的世界を持つ同世代への安全保障パワーバランスのような効果を持つみたいな話も現れたりしました(この話のモチーフとなる元ネタは昭和ドラマにおける愛人の台詞「パパ、マンション買って」だと思われる)。 しかし『結婚願望』的世界を温存している個人の場合、まだまだ結婚した者こそがあたかも成功者・権威上位者であるかのような「保守系フラグ」として『結婚願望』が強迫心理としての力を発現し続けているのも確かです。 (アンチテテーゼは「おひとり様」的『単独者』主義) ■「恋愛論」とメンタル問題との関係 メンタル問題渦中な人ほど「みんなが恋愛している」と言い(もうこの段階で現実と夢想の区別がつかなくなっている)、 メンタル問題どこ吹く風な人ほど「恋愛?笑っちゃいけないけど、そんなロマンチックなナントカとか無いってば」と言う。 更に総務省的統計で言えば、恋愛経験現在進行中みたいな人は多数では無い(過去経験あるとかは別しとして)。 更にその数値を現代社会の若者なんかの男女比で「恋愛関係という言葉では無く男女交際という分類統計」で見れば「経験者的に女性は6割超え7割とかいってても男性は4割だとかここアンバランスで」(まさか男性側がラノベまがいのハーレム状態と考えようも無く)、この分析は「恋愛感情」現象が女性心理に起きやすいって部分を表しているに過ぎず、統計まんまに女性の6割7割が恋愛経験があるって事にはならないのだと考えてます。←こういうアンケート自体正確に答えられない事情が女性心理にあるんじゃねの意味。 (間を取って双方5分5分ってところでしょう) この辺の心理的ギャップは「むしろ片思いの方が本物だったりする」「恋愛感情」認知特有の話でしょうし(下世話な関係性で統計とる意味があるのかわかりませんが)、「恋愛」なるキーワードがメンタル問題などを抱える自我において相当大きな地雷である事を示唆してます。 繰り返しますが「ガチ恋愛できるのは紫式部だけなんだと」理解を深めておくことが色んなケースにおいて吉であると言えます。 (※ちなみにメンタル問題の相談がある時には「当面の恋愛禁止」は定番のアドバイスです。) メンタル問題の場合、恋愛関係は固有の現実乖離フラグだけでなく、バックグラウンドとして直面している「強迫心理」の権威元と恋愛イメージの投影元ネタが同一人物である場合がどうしたって多くなりますから、恋愛には強い『依存性』誘発フラグがあるので(これが転じて失恋騒ぎとなっても大型の鬱ネタをゲットできる)、メンタル問題発現中の恋愛ネタは極力避けるべきだと言い切れます。 言うならば「恋愛感情なるものは片思い的状態がある意味本物」な背景があるからこそ「男性の場合の浮気や女性の不倫欲求は恋愛欲である」みたいな図式も成立するワケで(関係性のアンチテーゼみたいな)、 更に”恋愛小説や映画やドラマ”ってものはガチで『現実離れしたエンタメ妄想ジャンル』なのだし、それが成立する背景は(SFジャンル同様)『興奮を伴い時に現実との乖離を伴う主観世界』って事になります。極論すると所謂ひとつの「オタクの二次元恋愛」なるものはどこにも不自然な部分は無いんですよ(文化的には)。 ※「現実とイメージの相克」みたいな話の参考は以下参照。 『空想アクティブ・妄想バッシブ論』 リアリズム論「現実は言うほど(幻想では無く)空想である」 http://kagewari.seesaa.net/article/376437717.html そして現代社会 ■歴史的に言えばこのような「恋愛レトリックの快感(ひとつ間違えばパラドックス)」は一種の発明であって、 (伝説のコピーライター紫式部が究極のキャッチコピーを思いついたような現象) そして国が特に富国強兵だとか高度成長なんて時に、権威や権力者側の一種の「インセンティブ(現象としてはモチベーションでもある)」として拡大(アメリカンドリームなるコピーも同様です)、本来は文化人類学的なジャンルの話なんでしょう。 どこかの文化人類学者に「戦後のミニスカートブーム」とか研究している人いるかもしれません。 「恋愛」という脳内幻想プライバシーと、「ナントカ願望やナントカ幻想」のような社会的に合理化されたインセンティブとの分割は『共同幻想』による文明化の典型的な特徴で(詐欺的手法とも言う)、逆説的に『共同幻想』適応人格の場合の「恋愛」は(限定化されたプライバシー部分の話なので)「あたかも非公式なもの」であるかのように認識されるのはそこいらへんに原因があると言えるのでしょう。 (それを公式的に明らかにするには「結婚」という『共同幻想論』に与しなければならない。←んで冒頭の話にあるようにイメージ的に『結婚』と「恋愛」は違う話なワケだ。) 昭和の『結婚願望や持家幻想』なんかも同列の派生現象(ここまで派生的な周辺事態となると立派な強迫症)。 女性誌の見出しじゃありませんが経済成長なりの目的のため「それを煽ってしまう」傾向があったのも事実であり、高度経済成長期などは社会全体がハイな時代を過ごしてきたと言えるのです。 それが、後期先進国のように成長が止まって成熟期になると「右肩上がりの恋愛幻想ドリーム」みたいなレトリックは底が割れます。 『共同幻想』崩壊過程の中で”仮想常識の枷”は外れ、その解釈は所有権的にも全部個人に返される流れになります。 ネタバレによる現実アップデートで幻想から目覚める人もいれば、タガが外れたように現実との乖離が制限無く拡大・激化してしまう場合もある。 更に高度経済成長は止まっているんですから現実の方が後から乖離に追いついて非現実の帳尻合わせする構造は機能しません。 「さて、どうすっか」という局面は『単独者』にも『共同幻想』適応人格にも常態化します。 その結論が少子高齢化の現代社会です。 ■いかにもな恋愛幻想はリアル社会で崩壊し、そういった関係性を志向する場合「より現実サイドの関係性の在り方を模索する方向」に捉えられてくる。←これじゃ自我にそれって恋愛?とかに見えますよね。 思うんですけどね、随分とフロイドや岸田秀やら心理学者が誤解を招いてきた「性欲論」。 性欲にも”広義の性欲”と”狭義の性欲”つーのがありまして、 人類ヒト科を離れて哺乳類なりを見た場合、広義で言えばそれは生命活動全般のモチベーションの事なのであって(当事者である自分の性も現実認知における重要な個体差)、人類ヒト科特有の「本能の壊れた性」を普遍的に見ちゃうから話がややこやしくなるんです。 そもそも年中無休繁殖期という進化を遂げた人類の異例な特徴は(繁殖期がそんなトンデモになってるのは人類だけ)、行為のためでは無く「非現実的に膨張しカオス化するモチベーションの源泉」なんであって、狭義の性行為をそのまんま想像されてもですね(実際狭義の性欲イメージほど繁殖と関係無い性行為という点で動物的現実から乖離してんですから)、話があっちの方向に逸れるだけです。 「広義の性欲論」があるからこそ「恋愛」なる紫式部の発明もあり得るのであって、 人類ヒト科に最も近いと言われている霊長類ボノボの場合、擬似性行為が群れ間のコミュニケーション手段としても通用しており(ここもある意味繁殖と関係の無い性行為)、 「市井の霊長類の現実から大幅に乖離する轟々としたモチベーションの総称」が『広義の性欲論』つーことです。 ザックリ言えば社会的になんとなく仮想現実のように裏想定されていた『恋愛幻想』が壊れ(特に分化し社会化されてきたところが激しく崩壊)、その解釈は所有権的にも全部個人に返される流れになっているって話です。 これもまた「さて、どうすっか」であると、 こうなると「恋愛感情」は余計に「片思いにおける興奮」として現実世界から完全に独立したイメージとなっても(現実の対人関係を示唆すらしないのが正しい的に)個人がそう思うなら全然アリなのだし、いわんや「それを公式的に明らかにするには「結婚」という『共同幻想論』に与しなければならない」なんて幻想は木端微塵に壊れてしまった。 むしろ結婚というのは昔以上に幻想ネタバレした結果「ベンチャー起業的法人立ち上げの行為」のような保守思想的社会行動ジャンルに特化していくのではないかと思います。 (※あくまで私見ですが50年後ぐらいには「結婚のほとんどが事実婚となり誰と結婚しているだとか婚姻の事実などもプライバシーであり表向き非公開」な事になっているのではないかと思います。) 直近の現代社会で派生した「ネット社会におけるSNSやシェアハウスなどの”ナンチャッテ『共同幻想』”」も、ある意味大元が絶賛崩壊している中で旧来イメージ同等のものを補完しようという試みですが、間もなく違う用途へ変遷していくでしょう(米国なんかでもSNSとプライバシーの問題は利用者半数以上の不満として表面化してます)。 本来地域コミニュティー再構築問題なんてのは「自由意思で参加可能なクラウド的インフラの在り方」を考える方が重要で「予め『共同幻想的な入れ物』を用意する」みたいな発想からが根本的間違いです。 各個人の「恋愛感」の変遷も、異性との関係性においてはむしろ「気の合う者同士」が優先され特段何をどうこうする属性を明らかにしない関係性の方へ志向されてくんじゃなかろうかと思います(この場合かえって旧来の「恋人関係や友人関係や婚姻関係などの属性呼称」は阻害要因でしかないでしょう)。 ■「そんな悠長な事言ってて、少子高齢化問題はどうするんだ」 という声が聞こえてきそうですが、後期先進国は明らかに「ロボット化IT化による労働のフリー化(無労働社会)に進んでいる」だけでなく「高寿命アンチエイジング化への需要は不死をも研究の視野に入れようか」という方向にあります。この話始めると半端な分量で収まらないので省略しますが、この問題もまったく違う水準の話まで突き抜けないと解決に至らないでしょう。 (恋愛論書くとあまりにも長文になる事がわかっていたのでずっと原稿仕上げるの逃げてきたんですが、、やっぱり長文になりましたね。) |
■『被害と加害』記憶との関係について(この話はかなり難解になると思いますから以降は読み飛ばしても問題ありません) |
「愛される」なる記号から心理的問題の潜在リスクに至る説明をしてきたところなんですが、そこに象徴されているのが『被(こうむる)』という概念です。 『被(こうむる)』とは、岸田心理学を受けてこれを『共同幻想』崩壊の現代社会の変遷に合わせて解釈するなかで『共同幻想』と個人の立ち位置を経済学的に考えた時の見方で、奇しくもそれが「強迫心理」と自我との動的関係性を表すもので(投資や資本や消費や需要とかの関係性呼称と同じ)、モチーフとなっているのは実存主義哲学における「反抗」です。 『共同幻想』なり「強迫心理」なりに自立的に『自意識』が『単独者』として対峙する場合の関係性が「反抗」となるのであれば、『共同幻想』適応なり、この心理の延長で「強迫心理」に抑圧される『自意識』などの自我を観察した場合、その反対語として「被」が適当になります。 そこで、前者を『抗(あらがう)』後者を『被(こうむる)』と定義してます。 ■勿論この論議は学問的に言えばフロイドの幼児期における権威者との性愛関係性におけるサディズム・マゾヒズムなどの関係性をバックグラウンドに見据えたものであり、そのまんまだと成人自我などの振る舞いの説明に無理筋もあるので、これを『抗(あらがう)』『被(こうむる)』としたもので、「強迫心理」などの元ネタと個人の『自意識』が一種の経済関係にあるという着想からこれを用いてます。 (※更に脳内快感物質との関係において「ドーパミン関連カテゴリ」と考えた場合も、それらは立ち位置に差があるだけで脳内的に『興奮』という同一の現象であるという補完が成立していると考えます。ザックリ言えばメンタル問題とは「粉飾決済」みたいなものであるみたいな。) さて「それは帳簿上資産か負債か」みたいな話でもあるんですが(書く場所が違ったりするだけで実は概念として同じ)、 私は『自我』とはなんらかの均衡によりバランスしている存在だと考えています。 「大きな不均衡があった時、自動的に帳簿上の帳尻が合わされていく。」 それを自己保存的に捉えるべきか自我保全的に考えるべきかはともかく、大きな不均衡があると基本的に人は眠れません。 「完結しない感」とでも言えばいいでしょうか。大雑把に言えば「不安」です。 自我における均衡反射は実存が危うくなるって事への反応だと思うんですが、 ・「投資としてドーンと借入れした」 ・「負債額がどんどん大きくなってしまった」 同じ事なのに随分と違いますよね? ここで更に『時制』の話をしないといけないのでやっかいなんですが、 少しかみ砕いて説明すると「過去に囚われる」なんて言葉ありますよね。 鬱事例に言えばそこ顕著だと思います。 PTSDの場合でも「過去がフラッシュバックする」ように現実が侵食されます。 自我が現在地現在時刻的にどこの空間に足をのせているのか?そりゃ本人は常に今現在を生きているんですが、脳内現象や認知の世界では必ずしもそういうリアルタイムな感覚を人は持ち合わせていません。実際に「仕事時間は長く感じ、休日はすぐ終わる」なんて誰でもある感覚と現実のギャップです。 果たして、この表現で合っているのかまだ私も思考が足りていないところあるんですが、 ●名付けて『ロスタイムシンドローム』。 ええ、サッカーなどの競技における例のロスタイムの事です。 過去が関わり、終わる筈の時計が止まらないあの切迫された空間。あたかも固有結界の中に閉じ込められているかのような「リアルタイムなのにリアルタイムでは無い」それ。 「同じ1点でもその意味が大きく変動する(現実の単なる1点を別の意味にする)。」 更にこの現象は記憶の内容にも影響を与え、反射均衡的な変容・偏向にも繋がり、自我が現実との乖離から戻れなくなる(ロスタイムが永劫回帰しちゃうというか)。 ↑ この現象に『被(こうむる)』が大きく関わっているんです。 『自意識』が強迫心理に抑圧され、主体性能動性がダウンしており、もっぱらその自我均衡をパッシブに行わなければならないとした場合、その自我の足の置場は半分過去にあり(流石に時空が歪むとまで言いませんが)、現実を見る目まで「過去の債務を計算するようなやり方」の影響を受け(1点の価値が同じ1点では無い)、 ↓ イマイチ何の話か分からない人は「元気な野球部のキャプテンが、大差のついた負けてる試合中でも1点1点!と声を出していく姿」で反証的に絵柄で考えてください。 (言っておきますが、間違っても「ポジティブなんとかネガティブなんとか」の話じゃありません。) 「元気な野球部のキャプテンが、大差のついた負けてる試合中でも1点1点!と声を出していく姿」←これは時制をリアルタイムに踏みとどまろうとする姿なんだろうと思うんです。 過去を省みる(かえりみる)のは大事な事ですが、時間の進む先があたかも過去に半分向いていて「ロスタイムのような時空間が永遠に続くかのような」なんと申しましょうか、 こっちの話はどうですか?フラッシュバック現象で考えてみましょう。 それが出ちゃうのは、自我の時制がその時間帯に(から抜け出せずに)まだ漂っているからです。 実際『悪夢』という現象で、あたかもその状態が今現在も継続していると錯覚したストレスを体感しているワケですから。 「1点の意味が違う世界」から抜け出せない。 えーこの項の主題は『恋愛論』で「『抗(あらがう)』『被(こうむる)』論」じゃありませんから、難しい話はここで引いて、 恋愛論との関係に戻ります。 ■前項の以下の部分 「愛”されたい”」となった時にはもうアウツ。 「愛されたい」となった時、それはパラドックです。 ・言葉の構造としてもう『被(こうむる)』心理なワケだし、 この言葉って(また言語学みたいになりますが)、 「愛されたい、あの時のように」 「愛されたい、○○のように(或いは○○みたいに)」 こういう事になってやしないかと考えてます。 既に元ネタが無意識下にあるから、期待興奮が成立している。 勿論ここにはメンタル問題であれば、エディプス的何が関係する事になりますから、尋常な話じゃないのです。 (○○のようにバージョンがあるって事は現実にあった過去である必要は無く、『そう思った過去のイメージ』でもこれは成立する。) ↑↓ 以下が凄くアンチテーゼなのわかりませんか? 「元気な野球部のキャプテンが、大差のついた負けてる試合中でも(あたかも今現在の時間を刻むように)1点1点!と声を出していく姿」 (時空間方向が過去方面に踏み込みがちなナインを鼓舞して『共同幻想』キャッチコピーで言うなら「前を向かせる」なんでしょうが、向いている方向は前というか「当たり前に現在から未来へ続いている時間の方へ」って事なんだろうと思う訳です。) 流石にテーマがデカすぎるので、この項ではここまでにしましょうか。 |
ご意見お問い合わせ info@kagewari.sakura.ne.jp