T 自己嫌悪とエディプスコンプレックス(超自我と社会適応) |
1)自己嫌悪の構造とその特徴 |
自己嫌悪って何でしょう?「自分を嫌悪する」ですね、動機(利益)はなんでしょうか?おそらくその目的は「ひとまずこういうことにしておいて=与件化」によって「”何か”を都合よく立証しよう(そういうことにしてしまおう)」でしょう、数学的仮説(X)みたいな感じに。自己嫌悪は自意識・主観ですから自分でも「客観的証明が不可能」です、そして自己嫌悪は「あたかも客観的証明の代用」として機能し自我を拘束します。 (先物取引みたいだ、ともいえます) 何のためなのでしょう? 無意識に自分で「こういう事にしておいて」と立証してるんですから、「捏造」です。 (逆にその解消は「証明による方程式の矛盾の指摘」となります。簡単な事ではないのですが、、、) 捏造してまでどんな問題(数学的仮説)を解こうとしているのでしょう。 「そうだ、僕なんだ僕が悪いんじゃないか?みんなもそう思ってるのじゃないか?」これが自己嫌悪ですが、冒頭説明のとおり自己嫌悪には自立的解決の方法論がありません。 「そんな事無いよ」を真っ先に否定するのが“自分”なんですから、 ここが「何のための答え」になります。自由に自意識が考えられないように『自分でその意思を拘束(強迫・脅迫)する』ためです。その理由を深く(ジャーナリステックに)考えず済んでしまう方法(ある意味本質的問題を隠蔽すること)それが自己嫌悪です。 話を整理してみましょう。 解決しない悩みを抱える事によって、何の利益があるのか? 「そうだ、僕なんだ僕が悪いんじゃないか?みんなもそう思ってるのじゃないか」←ここに立ち戻って考えてみます。 上記の言葉の前置きは「誰が悪いんだろう、誰のせいなんだろう→きっと、、」に他なりません、この前置がすっ飛んでいきなり自己嫌悪に至る経緯には「なんとなく不快な(不都合な)雰囲気」があったからでしょう。 何故なんとなくかって?それはその内容が具体的なら「あー原因は、きっとこれだ」で(隠蔽も何も)問題の本質が自己嫌悪する前に「自分バレ」してしまい一件落着してる事になります。 生活する上での不都合(家庭環境や天災、戦争)や、自分にもバレバレの「誰かの失敗」は自己嫌悪に繋がりません。どこか曖昧で、子供にはよく意味のわからない不快な『雰囲気』が自己嫌悪の萌芽に繋がるのです。 「両親の喧嘩(そのどちらかの浮気等が子供にのケース)」「借金などによる沈んだ雰囲気の晩御飯(借金が子供に秘密のケース)」「親族の誰かの悪口(その人物の犯した罪等が、とても子供には話せない内容のとき)」「対象者不明のイラ付いた態度(家族には内緒の個人的コンプレックスが原因の時)」「貧乏等を(コンプレックスで)子供に指摘されたくないがために、それを子供のせいにする(「点数が悪いから、買ってあげないのよ」)」、、、全てに共通するのは『欺瞞と秘密』です。 この『秘密を解き明かす方程式が自己嫌悪なのです』それが正解なら誰も困らないんですが、、 冒頭説明のように「それは曖昧な不快感を忌避するあまり本質的問題を隠蔽してしまう都合のいい方程式である」。 これこそが「何のための答え」です。 理由もなく(或いは証拠も無く)人はそう簡単に他人を疑いません、ましてや子供にとって「親に疑いの目を向ける事」は自分の生存権すら怪しくさせてしまいますから聖域でありタブーです。自我の成り立ちからして最初は誰にとっても親は「特別(いい意味で)」の存在です、よほどの根拠が無い限り疑う事は難しい筈です。 「そうだ、僕なんだ僕が悪いんじゃないか?みんなもそう思ってるのじゃないか?」 この仮説が「はっきりしない不快感の原因をめぐる回答」の先例となってしまう。 もうおわかりですね、不快感の連想は自己嫌悪を呼び、権威や性愛対象は「親イメージ」が投影されますから同じく自己嫌悪を呼びます。『自己嫌悪モジュール』のようなものが脳内でひとつの様式として成立してしまうようなものです。 ちょっとした事で激しく落ち込む。恋愛が感情があると平常心ではいられずむしろ落ち込む。出世など権威的な存在を意識するだけで激しいストレスになる、、、。 同時に反動(バランスを取るために感情が反転し興奮する事→「躁鬱」と呼ばれたりする所以です)が起きます「誰か(親以外なら十分に安全圏ですから)を激しく憎み罵る」「恋人の小さな失望を激しく責めたり、それを梃子に自分が浮気をしてしまう」「強い権威主義に陥り地位や名誉以外の尺度で人を見る事が出来なくなる」「まるで先生や裁判官の様に他人を批判するようになる」「みんな(個人を決して特定しない所がポイントです)が悪いんだ、僕ばっかり、何て酷い目にあうのか!」「誰も僕の事なんかわかっていない(むしろ僕を悪いと思っているに違いない)」、、、、。 上記の感情は、困った現実を引き起こしてしまいます。 言い換えるなら無意識は「自分の興奮は間違いの無い疑念によるのだ」と、自分に強要するかのように自意識を揺さぶります。「そうだろ、そうにきまっているじゃないか」。 その結果悪循環を呼んでしまい『本当に雰囲気の悪い状況』に身を置いてしまうのです。 表現の難しい問題でもあるのですが「無意識に不快に備える気持ちが集中力を使い切ってしまうために、目に入るものまで”自分自身では不快だと感じているものや人その関係のある事実”が優先されて(場合によると限定されて)しまいます」。 自己嫌悪は『視野狭窄』の関連事項なんです。 この時『不快になる中心人物は自分』です。 この状態を構造的に見れば「自己中心的」と呼んでいい状態です。 あくまでも無意識の振る舞いによる結果で、自意識にはそんなつもりはまったくありませんから、その点(自己中心的認識と『視野狭窄』)を説明すると間違い無く情緒的反発がかえってきます。そしてその現象も「そうだ、僕なんだ僕が悪いんじゃないか?」と重なってしまうので(私を悪いと言いたいんですねなど)、 皮肉な事に(おそらくこの皮肉が悩みから抜け出せない構造のコアだと思いますが)、更に自己嫌悪を刺激してしまうのです。 しかし、しかしですよ、この反発は「まるで自分の不快感を全力で守っているのと同じです」説明を受けた直後は別としても背景の説明を受けることで「何か変かも知れない、、、」という小さなきっかけになります。 たとえそれが小さなものでもこれまでの人生で無敵だった思考に「疑問」を感じるきっかけなのです。 自己嫌悪には「こうすれば間違い無く」という魔法のような言葉がありません、ひょっとするといくら考えてもそんな言葉は無いのかも知れません。しかし『自己嫌悪モジュール』も言葉でできているのですから、いつか自己嫌悪の防衛反応を抑えつつ、現象を説明する言葉がいつかみつかるのではないのかと考え続けているのですけどね。 |
2)超自我と社会適応の関係 |
フロイドが定義した「超自我」って何でしょう、なにせ「超」がついてます。すごい自我なんでしょう。 ぶっちゃけ「自分に課した決まり事」の事です「いくらなんでもこんな事は僕はしない」とか「こういう事はあっちゃいけないことなんだ」な事です、法律で言えば憲法の事。 自我の仕事は行動選択ですから、答えが最初から決まっていたら自我には出番がありません。 故にその定式的上部構造を指して「超自我」と呼びます。 その成立の過程が、その特異性を決定付けています。 わかりやすく言えば超自我は、意識に取り込まれた環境(記憶)です。幼児期にはまだ「個としての自分」が意識される事は稀です、事実「気が付いたら親がいない」状況で子供は不安から泣き出します。つまり「いてあたりまえ。いないと不安な自分を超える意思の存在と一体感を持っていた」という事です、子供が親がいなくても不安でなくなる時には「うちのお母さんはこうする」とか「うちのお父さんはそういうの大好き」とかの発言が多く見られるようになってからです。「いなくてもイメージできる状態」=「親の実像が仮想化され取り込まれる」。 この「自分の自我を超える存在のイメージ」こそが超自我です(それも自分の一部なんですけどね)。 子供は成長するにしたがって親の権威性を「大人だから」と認識します。 自分の相手をしていない時には、真面目な顔で何かしている、、自分を超える存在が何かに従っている、、、。よっぽど重大な何か事情があるのだろう(権威性の認知)。 日本には昔「社会」って言葉が無かったそうです、農耕文明の時代にはその一族が大家族だったためでしょう。親の権威性はそのままその村の順位で決定しました。ですから当時は「村」というナショナリズムみたいな感情が超自我になりました。「村の祭り」「村の決まり」「村の掟」「村のしきたり」、、。 これが現代では「社会」なのです。 受験をめぐる暴走はこの構造から起きました、親の権威性の後ろ盾は「社会」だからです。 鬱や神経症で悩む人に多く見られる現象「社会不適応」は自己嫌悪構造によって肥大化した超自我との関係性によるストレスから引き起こされます。 (自分を拘束する構造だからです。無意識に抑圧された葛藤は、自己嫌悪の仮説で解釈されて超自我に形を変え自意識に認識されます。几帳面や完全主義者等の鬱傾向になりやすい人の人格構造に共通するこの特徴は、超自我の内容により受けた影響が現象として現れたものです。) 自己嫌悪構造を持つ人にとっては「社会適応」とは「社会大成功」じゃないと意味が無いことになってしまうんです。自己嫌悪を覆すほどの成功じゃないと自分が楽(安心)になれない。 ところが自分自身にその目標が「社会大成功」だなんてバレバレだと、無意識に隠れる自己嫌悪的矛盾に自分バレしてしまいます。←この人は「何故そんな大成功じゃないと意味が無いとか思っているの?」と尋ねると全力で否定するのです。 そんなこんなで解決できない深い悩みを持つ人は「社会大成功」を隠蔽する「言い訳」が重い本のようにになっているケースが非常に多いです。自己嫌悪を自分バレさせまいと、 (自分自身そんなつもりは無いのに、傍から見れば「トンデモ権威主義者」であるとか少なくありません。) 「そんなにいい大学にいきたいわけじゃないけれど、六大学クラスじゃないと勉強って感じじゃないのじゃないか」「一流企業に行く事に意味なんかないけれど、自分の力を試してみたい」「結婚しなきゃいけないっってワケじゃないけれど、そうじゃないとまるで落伍者みたいで恥かしい」「お金を使ってるのだからもったいないのでそこそこの成績じゃないと、、」「仕事なんだから責任をもって上位ランクの成績を」、、、 数え上げたらきりがないので止めますが、共通点は「誰も見ていなかったり、知らなければ決して言わない言葉」って事です(何かを意識するあまりそういう言葉が出てくる)。 上記の言葉は、自分で自分を励ましたり気合を入れてるときに思いつくような言葉じゃありません。 むしろ追いつめる言葉になっている(鬱傾向ですよ)。 社会適応に関心が無くなるとどれほど楽になるかは、ご存知の通りです(たいがい怠け者とか言われますからね、、)。ここがひとつの判断基準になります。 逆に言えば「社会不適応に自分を責めるような気持ちがなくなると自己嫌悪も解消している」って事です。 「このままじゃダメじゃないか」って不安があると、きっと何かが残っているのです。 実は、鬱や葛藤に悩む人の「治癒」を社会復帰と定義するのは問題なんですよ。 それじゃ自意識を強迫するネタを新たに仕入れてしまう可能性も高く、むしろ一度「ま、いっか」となって「暇だから仕事するかな」を経てから→「これは悪くないなー、給料とかが貰えて面白いから残業でもしよ」な流れで「社会”適応”するのではなく、気ままに社会に”馴染む”」方向を志向するのがベストです。 そもそも「社会不適応」なんてね、まるで語感が『良くない事』みたいじゃないですか、 適応しなけりゃいけないものなら「適応=それに合わせたものに応じる」なのだから、元々その適応相手って不自然なものって話ですよ(意図的に”適応”しなくても勝手に馴染むものなら自然でしょうけれど)。 そう「社会って不自然だ」って側面あるんですよ(時代の都合で定義している部分があるのだから)。 |
3)抑圧における道徳の役割 |
超自我と自己嫌悪の関係はとても密接です。「超自我に自己嫌悪のキーワードが隠れている」が正確かもしれません。超自我は出番が無い時には認識される事もありません、晩御飯を何にするかって事に自我の判断を超えて「こうでなければ」なんて事無いですから。想像以上に高い買い物をする時なんかに登場します、あるいは人間関係がもつれた時等です。「クレジットカードにしようかな、、そもそも私がこんな高いコート買っていのかしら」「あんな言い方は無いだろう、やっぱり我慢出来ない。今度会ったらなんて言ってやろう。そもそあいつのためにも黙ってるわけにいかないよ」自我が自由じゃないですね。ある指向性に従ってその範囲内で出来る限り自我があくせくしてる様子が伺えます、そして時として人はそんな時感情的になるのです。 理由は「超自我の監視によるストレスです」「ちょっと待て。そういう問題には、やっていい事と悪い事が関係してるから勝手な判断は困る」として超自我は登場し、経験上自分自身もその超自我に従うために結構無理してますから(早起きしなくちゃ、週に一度は掃除しなきゃ、借りたものを返す時にはなんかお礼になるものを、上司が気に入らなくても仕事なんだから我慢しなくちゃ、いくら欲しくてもちゃんとお金を稼いで自分の力で買わなきゃ、、、)「超自我ケース」の事例に関係してる時にはかなりの緊張状態にあるからです。 一般にそういう概念を『道徳』と呼びます。 「道徳=超自我」ではありません。 超自我が自意識に道徳としてだけ認識されるのです。普段は出番じゃないので自分では気が付かないだけだからです。いわば道徳は超自我の原動力でもあり、自我を拘束する強制力そのものでもあります。自己嫌悪はこの構造に隠れます「僕は、自分が悪く思われてるとこころのすみで思い続けている」なんて気が付かないように「世の中には非常識な人が多い、だから僕は思い悩む事が多いんだ」となっているんです。これを『抑圧』といいます。 『抑圧』は二重構造なんです、本当に抑圧されているのは自己嫌悪により反転されている「過去の不快感」です。これを自分に責任があるかのように無理やり判断しているアイデアが自己嫌悪で、その自己嫌悪は『道徳』に名を変えて自意識を強迫(脅迫)します。 困った事に『道徳』はその理由が明白ではありません。 「何故人を殺してはいけないのか?」昨今有名なパラドックスです。なにせ道徳はドグマ(説明のない言い切り)ですから、その解説を急に求められても即答できる人はいません。何故ならって、まるで弁護士のように自分の道徳を体系的に説明できるとすると、自我の判断で臨機応変に修正される事になるからです(イメージとしては道徳は刑法や民法じゃなく憲法だからです)、それでは自我を拘束した事になりません。 「自己嫌悪の鎖を解く鍵は道徳に」 「道徳に干渉するには、その理由を考える事」 「道徳を疑う冷静さがあれば、自分の道徳すら修正できる」 「道徳と常識を疑う時、自己嫌悪は解消できる」 話はこれで終わりじゃありません、自己嫌悪を解体すだけでは「過去の不快感」が浮上します、 気持ち的には不安になるでしょう。しかし恐れる事は無いのです「過去の不快感」を自己嫌悪によってケリをつけざる負えなかったのは「自分が子供だったから」なのですから。 「時間がそれを解決してくれる」なんて言葉の意味は、そんなことを意味してるんじゃないでしょうか。 今著面している悩みばかりに気をとられていると全体の構造を見失います。 そんな時こそ悩んでいる事実関係ではでは無く「それに憤る自分自身の道徳の理由」を考えてみて下さい。存外悩みの解決の近道は「自分の発想や想像の限界を広げること」だったりするです。 いうなれば「現世利益的な憲法解釈」ですね。 もしその「限界」が自分にとって(矛盾していて)不都合なものである時、それは「自分をあるキャラクターに押し付けているだけ」であって「守らなければならない自分」では無い筈です。 悩みが解決しない原因は、反省による解決が模索できずに悩みの中に自己嫌悪が隠れているからです。 自己嫌悪構造があるって事は、たとえ環境が変わってその時直面している悩みが外的事情で一時的に解決しても又同じような悩みが繰り返すってことです。 「反省するのは自分」ですから自分が変るのではありません「戦術的に別の行動選択を選ぶ」だけです。 しかし「自己嫌悪」は「自分が悪い」でおしまいですから、不快になるだけでなんら問題の解決には繋がらないこころの動きです。『道徳』って感じる気持ちを聖域視するのは危険です、時には不道徳な選択が道を開きます。 映画「ポセイドンアドベンチャー」のジーン・ハックマンがそのイメージにぴったりですね。 (2014/7.16追加編集一部修正) |
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