W 共同幻想の定義について「だから論」 |
今、一部のその筋(岸田秀教授は週刊誌などでよく評論を載せてますから)で標準語になりつつある『共同幻想』ですが、俺は勝手な解釈をしています。(違う違うと言われそうですが、、)俺が、へーっと、、『共同幻想』をどう定義付けているのか説明したいと思います。 精神分析はフロイドによって欧州で始ったアイデアで、当然の如く欧州はキリスト教世界です。精神的葛藤は一神教世界に投影されるため(悪魔教に喩えられたり、神の罰に怯える不安症であったり)厳しい戒律を背景に説明する事が合理的でした。しかし(信教の自由から反発を招きそうです、があくまで一般論として)日本は多神教で「神社に八幡大菩薩」があったりと、宗教の壁も曖昧な国です。この国は、欧州文化に偏りがちなフロイド心理学を中立的に解釈する、よきサンプルとも言えます。 俺が『共同幻想』考える上で重要なキーにしているもは、哲学の「実存主義」です。 実存主義はなんと言っても(フランスの作家カミュで有名ですが)「不条理」の哲学です。現世でいくらがんばっても、神が直接救済には訪れない「現実」から転じてその「不条理」こそ、神と「自分」を定義(普遍的構造)付けていて、その時「神の前で自分が単独者として、実存している事を認識する」と考え逆説として神の「実存」を確認した、ってなアイデアです(哲学の話はこの辺で、勘弁して下さい、と言っておいて「[」で後述するんですが、、、)。 この構造は正に「超自我と自我」の関係です。フロイドは自我を監督する特権的意識を「超自我」と定義しました、極論になりますが「超自我」は「自我と無意識の間の弁」のようなものです。あるいは自我を守る「結界、番人、司法関係者、公的権力、、、」そんなものだと思って下さい。 ある時ふらっと入った時計屋さんで、素敵な懐中時計を見つけたとしましょう。気さくな店主が、何点か時計が乗せられたトレイをショーケースから出してくれました。店主は「どうぞごゆっくり」の言葉を残し、身なりのいい別のお客に呼ばれその場を離れました。とても精巧に出来たその時計が欲しくてたまらなくなりました。しかし持ち合わせどころか自分の給料ではとても買える代物ではありません。「−−−−−−−−」「・・・・・・・・」「。。。。。。。。」気がつくとどうした事でしょうカラダは震え、べったりと嫌な汗をかいています、ワイシャツが背中にぴったりとくっついてとても不快です。ポケットの中で硬く握り絞められた右手の中には、さっきまでショーケースの上でカチカチ音を立てていた懐中時計が、、、、。 何が起きたのでしょうか? 「盗んでしまったら、、、」までは憶えています。 この世の中に泥棒(実は文明化していない民族の中には、白人が出入りするまで「泥棒」という言葉すらない事もあるのですが、、)がいる事は「知って」います。知っているぶんには不快でもなんでもありません、ただの知識ですから。しかし実践はどうでしょうか? 「盗んでやれ」と、その時です「何かが」不用意に無意識から自我に取り込まれます(行動するためには自我の選択肢テーブルにあがらないとならないからです)。激しい不快感が襲います『悪い事だ!』。(取り込まれるのは、個人により違います「盗み」「富の再配分」「悪事を働く悪い人間になる事」「物を盗まないと手に入れられない、矮小な人間」「復讐」、、、) 経験記憶から人は連想によって快・不快を判定します。いい例が、食べた事が無い(俺も食べた事ありません)フォアグラを食べた時の印象です。俺の場合最初に飲んだブラックコーヒーがそうでした。「不味い」んです。しかしよく考えて下さい。自分の意志で継続した行為は、立派な経験記憶になるじゃないですか。カフェインによる精神的な安定や、コーヒー独特の香りを知るにつれ、その快感は「美味しい」との連想を繋ぎます。俺は今コーヒーが大好きです。 ところがそれは「新たに追加される経験記憶」です。始まりの「美味しい」を獲得したのではありません。 幼い頃「太鼓判」として認定された原型となる経験記憶があります。 「悪い人ねー(不快感で一杯の表情で)」、、「止めなさい。大っ嫌いよそんな事したら」。 「女の子なんだから」「男の子なんだから」、、特定は出来ません。幼い自分の感受性が、何を判断基準に「太鼓判」(ここには「キャッチ=連想」の構造や、フェティシズムの領域が入っていると思って間違い無いでしょう)を押すのか、、それは自分自身の記憶をたどれないので、論証出来無いのです。言葉以前の記憶は漠としたイメージですから、思い出そうとしても言語化した時点で、そのイメージは矮小化されてしまい、思い出しても意味を成しません。 この記憶の原型がその後の体験の快・不快を振り分けます(ジャンル分けとも言えるでしょうか)。つまり連想によって「不快な記憶(性愛対象者に叱られ)と連想されるものは、悪い」に「快感(性愛対象者に褒められ)と連想されるものは、善い」に振り分けられるのです。キーポイントは「連想=キャッチ」です(関連付け、でもいいでしょう)。この連想こそが継続した行為により、後天的に経験記憶が追加され得る構造になります。 『性』に厳しい国における、服装や男女関係の決まり事など、そこに共同体の意志までも反映されます。 そうです「親なんだから」だって有る筈です。「親として」子供に引き継ぐ常識も共同体の知恵として管理されてきました。社会適応した家族ならその常識は「社会適応分」一般社会と互換性を持ちます。 この『個人に親子関係から引き継がれる標準化』を『共同幻想』と呼びます。日本では『普通』と呼ばれている概念です。厳しい社会なら『正道』なのでしょう。さて、キリスト教社会やイスラム教社会でもその『共同幻想』は国や地域で一定ではありません。「戒律が明文化されている」のにです。実は解釈が流動的なんです。 日本なら「郷に従え」とか「朱に交われば」とかに表現される常識の特異性と言えます。ポイントは複数の人物の間で常識として通用する「何らかの合意」(「そうだよね」「いんだよね」によって確認され、「えー!」とか「それはおかしいって」によって破綻する『合意』)です。この『合意』は道徳感情によって、「正しい」と自我に認識され個人のものになります。そして何より重要な事は、この「何らかの合意」との接点が実際に個人が生活する『正面』になりますから、流動的で“曖昧”なこの合意が「個人を拘束する最上位の概念」なのです。 自分の意志ですらそれを、自由に再構築出来ない構造です。 『共同幻想』ってのは「(史的)唯物論」に対し岸田教授が「唯幻論」を唱える根拠みたいなもんです。 こころを縛る(規定する)概念は「曖昧で流動的」であり、個人レベルでは「正義」であったり「常識」であったり「マトモ」であったり「普通」であったりします。むしろ中立的な「現実」のイメージは関心の薄い日常の生活判断の中にあると言えます。余談や憶測が入り込まないからです。 俺は『善悪の幻想』こそが戦争、人種偏見、芸術の検閲の歴史の背景なのだと思うのです。 内的葛藤の解決は、個人による個人のための、表現や人権をめぐる自分自身との戦いとも言えます。その戦いに使える武器は「言葉」だけです。無意識とエゴの関係は、言語として意識下にあるか否かで決定されますから、カウンターとしてバランスの取れる言葉の集まり(アイデア)によって無意識に追いやられている葛藤の記憶を、共同幻想の道徳感の監視から逃れて、エゴに取り込み再解釈を行う、、、最大の難関は「そんな筈無い」「そんな事あり得ない」「そこだけは許せない」との道徳による監視でしょう。 一昔前までは「家族の悪口を言われた時は、最大限の怒りのスイッチを入れて良い」などの共同幻想がありましたから、過去の記憶を辿るにはこれらのタブーを突破しなければならず、家族が絡んだ過去に触れようとした者は「悪人」の判定をされ、厳しい攻撃を受けます(自己嫌悪構造の防衛反応です)。葛藤の内容より、むしろ大変なのは、この道徳感に対する対処でしょう。 ◎自己嫌悪構造で言うなら「悪いのは私だ」が善とされ守られる、というわけです。 そもそも「言葉」は他者を恐れるのではなく、動物として生き残るためにそのストレス回避の(日本猿の毛づくろい、ボノボの「擬似性交・ホカホカ」等)「仲間」と認識して安心するためのツールです。ですから集団に対する適応こそ、本来の自我機能なのですから「大丈夫仲間だから」以上の理由や根拠があるのは実は不自然で、原始社会では「仲間なんだ」との概念が大発見だったに違いありません。 この人類の大発明の『共同幻想による社会化(あるいは社会化のための、共同幻想の発明)』には致命傷がありました。両刃の剣「文明」です。 人類同士の生存競争の始まりによって文明は急速に進歩しました。俺はその原動力も、人間特有のモチベーションによると考えています(事実文化人類学や動物行動学の論調も同様でしょう)。『広義の性愛(他人を求めるこころ)とそれを管理する文化(共同幻想)』です。生存に有利である、暖かで争いの少ない豊かな地域では、文明化の必然性は無いのです。 往々にして同様の地域の「性意識」はおおらかで(暖かいので着衣が僅かだということも、それに貢献しているでしょう)厳しい戒律はありません。 争いの元である富(食物や性、太陽)に元々恵まれているからです。 しかし厳しい冬のある地域はどうだったでしょう、あるいは人口が密集し戦争の絶えない地域です。生き残るには「知恵」が必要です。そして組織が内部から崩壊しないような強い社会化です。組織の役に立つ為、そして自分自身その強い社会性から自由になるため、、理由は様々ですがイノベーションが起きてしまいます。生き残るための団結は、生活が豊かになり形骸化します、家事労働の軽減は社会の基本となる「母系」の面影を薄れさせ、インセンティブとして社会が提供する「豊かさ」は、時として倫理感をマヒさせる狂乱となり、シャーマニズムの時代に信仰の対象ともなった山を削りグロテスクなレジャー施設を建築します、、、。 主人が切り分ける筈のローストビーフは、ジャンクフードにその席を奪われました。 話は反れますが人間は年中繁殖が可能なごく珍しい霊長類です、哺乳類として見てもそれは珍しい事でしょう。もっとも知能の高いサルとして知られるボノボですが、彼等はコミュニケーションの手段として、擬似性交を行います(親子であってもです)。このアイデアは荒唐無稽ではありません。 人類の社会を繋ぐ鎖は『広義の性愛』だと思います。人類愛、愛国心、郷土愛、愛社精神、愛校精神、家族愛、親子愛、恋愛、、、、。 貯蔵を思いつき、土器で瓶を発明した時「今食べないのに」問題の解決が必要でした。そうです。即時的個人的合理性では無く、長期的で社会的合理性、自分を縛る高位の意思です。それを最初に認識し「共有」した人間関係は、不可避で構造的な広義の性愛関係者であった筈です、「家族」でしょう。 年中繁殖可能、、そして生殖年齢に達する期間の異常な遅さ(幼児化現象だとの説もあります。体毛が薄いことや、サルにしてはシワが少ない事も、、直立歩行による産道が侠くなった事等、まだ確定的な説はありません)は「子供の概念」を必要とします。動物行動学的にも、サルの母性本能はもっと短期間の筈で「母子愛」とかの発明無しには、とても人間の子供を大人になるまで育てるのんきな親(?)はいません。本当の話か知りませんが、狼に育てられた子なら聞いた事がありますが、、この「子供期間の長さ」が『共同幻想』の伝承を可能にしています(集団の基本は母系です)。 さて共同体の安定のために最も重要なのは「共同幻想の保守」になります。飢饉や病気の蔓延などをきっかけに「締め付け」が行われます。ほとんど経済学のインフレ調整と同じです、それは近代まで続きました「ファシズム」の事です(引き締めのきっかけには「国家間の紛争」が加わったのです)。 再び話は戻りますが、締め付けは、富(食物や性、太陽)に元々恵まれている地域を除いてです。 不安定要因(対社会ストレスと呼べばいいでしょうか)が無いのですから。 何が起きたのでしょうか? 「盗んでしまったら、、、」までは憶えています。 時計マニアなら、安くて自分でも手に入れる事の出来る時計の正当化の台詞など、6時間は話せるでしょうし、人のいい店主に「店のラインナップに欠けているモデルがある」などの、いちゃもんのひとつでも言って溜飲を下げるでしょう。「時間をそこそこ刻む時計があれば十分」と思う勤勉な男なら、買う金も必要も無いのに時計屋に入る事もありません。貧乏や自分の欲のために「俺には金が必要だ」と思っている男なら、店に入る前から「盗んでやろう」と思っていた筈です。その時計にすっかり魅せられたのなら、何度も足を運んではため息をつく彼に店主が分割払いの話を持ちかけたかも知れません。あるいは店員になってしまったり。 彼には何らかの葛藤があるのでしょう。「ダブルスタンダード」です。 『共同幻想』は善悪としてしっかり根付いていますが、度を越して「人間としての価値」にまで解釈されていたらどうでしょう?(葛藤を無意識に押し込むためには、普通以上のパワーが必要です、教条的な共同幻想を必要とするのです)「早く、こんな時計が買える向こうのカウンターのお客のように、きっちり仕事をして昇給や、昇進しよう」だけなら、何の問題もありません。 しかし、しかしです「こんな時計すら買えない働きぶりじゃー、、、」「あのお客、さっきチラッと僕を見たな、、、」自己防衛は本来常にエゴを越す「超法規的判断」です。一般に『共同幻想』はこれと矛盾しません。盗みには法による罰が用意され、自分を守るためには『共同幻想』に従うのが身のためだからです。ところが彼はその『共同幻想』によって生存の(善悪を越して「人間としての価値が無い」として解釈されているため、、)危機にさらされているのです。 表現を変えると、彼のエゴは『共同幻想』に監督されているどころか服従しているのです。自覚も無しにです(無意識に)。 共同幻想はドグマ(宗教的教義に等しい「言い切り」)に過ぎないんですが、エゴと無意識ほどではありませんが、エゴにとって共同幻想は相互補完(承認でしょうか)関係にあります。解決の鍵はまず「自覚も無しに」の修正です。少なくとも自覚があれば自分のこころの動きを一歩予測できますし、葛藤が原因で起きる不快感に驚かなくなります。 (何故それが『無意識な服従』となるのか、、については別項で話しましょう。) 誤解の無いようにお願いしたいのは、『共同幻想』自体に何か問題があるのでは無い事です。竹を割ったような人、、などの完成形に近い人格は『共同幻想の伝承や内容』に恵まれた環境の賜物ですから(今や少数派なのかも知れません)。 話は反れますが、俺は『共同幻想』も実存主義の手法で噛み砕く(で、いいのかなー)事が出来るのではないか。(していいのかどうかは、別問題として、、、)と考えてるんです。文明の進歩を逆手に(自明の事だったのかも知れません)取ると、先祖が命がけで「文明」の中から手にした権利「言論・表現の自由=言行不一致の自由」「人権の保障=どんな奴でも立派な人間だという権利」「平等=社長とホームレスは平等」があります、、そう「単独者」尊厳の事です。 個人として「我思うが故に我有り」と言える時、エゴは『共同幻想』から自由(助けて貰えないともいえますが、、)になり、承認の必要無く『実存』するのです、、、。 『共同幻想』を最も簡単に認識する方法は「〜だから」探しです。 「〜だから」という言葉には前提となる条件や、根拠が既にパッケージとなって「あたりまえ化」していますから。「お母さんだから」「父親だから」「女だから」「男だから」「いい子だから」「かわいいから」「彼女だから」「彼氏だから」「子供だから」「課長だから」「もう歳だから」「現実的じゃないから」「ここは関西だから」「生まれた時に逆子だったから」「社長だから」「バイトだから」「子供がいないから」「子沢山だから」「戦後生まれだから」「団塊世代だから」「不都合があるから」「葬式だから」「火事だから」「嫌われてるから」「努力家だから」「軍人だから」「お昼ごはんだから」「貧乏だから」「前科者だから」「教授だから」「お巡りさんだから」「えらが張ってるから」「カラダが硬いから」「日本人だから」、、、(この「〜だから」を切り返す最もベタな表現は「だからどうした。」になります。) 暴論覚悟で言うと「どうでもいい事ばかり」です。根拠が曖昧「だから」です、明快に定義付けられているものはありません。本来その定義について断って、、論戦して、、、結論が出てから初めて使える言葉ばかりですが、巷の何処にもその前提について激論している所を見たことがありません。 唯一つ鮮明なのは「自分はこう思うから」でしょうか。 「〜だから」を連発すると、知らず知らずに(無意識に)『共同幻想世界』に取り込まれ、自由が利かなくなります。考える前から、、そう考えるように(あるいは自分を追い込むように)バイアスがかかっているのだ、、と言えないでしょうか。確かに『共同幻想』抜きの社会は有り得ないですし文化として完成された姿は美しくもあります。それだけに軽々しく扱うとかえって危険で、保守思想の論客が、口うるさくその様式に拘る所以ではないかとも思います。マスメデイアの「今は〜で思いっきり、、、」などのキャッチコピーは扇動に違いなく、その行為は『共同幻想』を貶めます。 誤解の無い様に繰り返しますが、俺は『共同幻想』をめぐるの今の環境に批判的なのです。 曖昧さ故に壊れやすく、元々流動的な『共同幻想』は面倒な事を、無意識に追いやる原動力(自己嫌悪構造の主体)にもなってしまいます。 文明化により人口は拡大し『共同幻想』の伝承や、その内容を守る事自体に無理があるのも事実でしょう。俺は『迷信』として葬り去られた『幻想』の中には、知られる事の無い美しい合理性が隠れていたに違いないのだと思うのです。 |
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