Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



881 よろしくお願いいたします。 月のたまご 2007/12/25 18:02
 はじめまして。掲示板の内容に興味をもって相談したいと思いました。
 長期間にわたり原因不明の心身の不調が続いています。小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分が大学進学、結婚、就職を経てもまだ続いており、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。

 やるべきこととしては、仕事、家事、子作りなどいろいろあるのですが、やる気がでなかったりこなせなかったりして、二進も三進もすすみません。
子どものころから変わっているといわれることが多くて、他の人と意見があわないので誤解されることが多いのですが、それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。私のことを嫌いな人がいるのに、それがなぜだかわからなくて
恐ろしいという感じです。

 気がつくと、独り言を言ったり、自分の頭を声を上げながら、たたいたりしてしまいます。(これらの症状は高校生くらいのときから、強弱の変化はありましたがずっと続いています。)
 主人に心配されて、カウンセリングに行ったり、心療内科に行き薬をもらったりしながら暮らしているのですがどうもすっきりしません。
とりとめもない話ですが何かアドバイスいただけたらと思います。

 

 
882 シンプルに考えれば事実関係がスーっと流れます kagewari 2007/12/25 21:41
>長期間にわたり原因不明の心身の不調が続いています

原因は明快です「心理的なも」のです。
「心身」とご自身で語られています、

>小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分が大学進学、結婚、就職を経てもまだ続いており

ここも明快です
「それは決して”誰にでもあるようなもの”じゃありません」
誰にでもあるようなもの(反抗期)じゃないから、今でも続いているのです。
反抗期は必ず終わりますからね、

>子どものころから変わっているといわれることが多くて

十分客観的な情報で証明されています。
「変わっている」んです。

ここで「何が変わっているのだろう?」と考え進めば以降へ思考は流れます。

>それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています

こういう状況なら誰でも「心身の不調をきたします」
ぐるっと繋がりましたね、



■全体の流れをデ・コードしてみましょう

私は子供の頃から”変わっている”といわれてきました。
「変わっている」だけじゃ何がどうなっているのかわかる筈ありませんよね。
「変?じゃー何?」って答えも無いし、
自分自身には「他の人と意見があわない」ぐらいにしか認識できないし、
そもそも「何故自分は他の人と意見があわないのか?」これもわかりません、

考えてみれば、反抗期等と呼べるようなものじゃない感情的な興奮や不快感がずっと小学生の頃から継続しています。確かにこの状態じゃ心身に不調をきたしても誰も驚きませんよね。
いったい私の何が「変わっている」と言うのでしょう。
全ての鍵は、そこなんでしょうね。


■スーっと流れますよね、
小学生の頃から解決していない「激しい不満や激しい不快(対象者は家族になるでしょう)」
それが何なのかを”今の大人の年齢の感覚で”考えていけば悩みのフェーズは代わります。
883 Re:シンプルに考えれば事実関係がスーっと流れます 月のたまご 2007/12/26 23:22
 私が書いたとりとめもないことをまとめてくださってありがとうございます。

> 「それは決して”誰にでもあるようなもの”じゃありません」
> 誰にでもあるようなもの(反抗期)じゃないから、今でも続いているのです。
> 反抗期は必ず終わりますからね、

 自分では、反抗心が強いもしくは、10代のころの気持ちがまだ続いているのか
と思っていました。
 思春期と呼ばれる年齢のころは、こういう状態であっても、同じような感覚の
人がいっぱいいて、自分もよくある考え方や悩みを持っているだけなのだと
思っていたのですが、それが長く続くということはありえないのでしょうか。

> こういう状況なら誰でも「心身の不調をきたします」
> ぐるっと繋がりましたね、

 子どものころのことは忘れましたが、高校生くらいのころは家で
暴れたり、親と口げんかをしていました。それは大学生ぐらいまで続いていて
結婚してからはしばらく収まっていたのですが、独り言、頭をドンドンと
たたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたりする行為が始まって
主人からもおかしいと思われているのです。
 ただ仕事もしていますし、カウンセリングに行ってみたこともあるのですが
きわめて普通にみえるそうで、外でも「悩みがなさそう」といわれる
タイプなのです。

> いったい私の何が「変わっている」と言うのでしょう。
> 全ての鍵は、そこなんでしょうね。

 そうなんです。それがわからないのです。
 それぞれの人が、いろいろな意味で言っているのだと思いますが、
学生の頃の先生などの言葉は、同い年の生徒たちの中で大人の目から見て
多数派ではないという意味で「変わっている」といっていたのだと
私は受け取っていました。
 

> 小学生の頃から解決していない「激しい不満や激しい不快(対象者は家族になるでしょう)」
> それが何なのかを”今の大人の年齢の感覚で”考えていけば悩みのフェーズは代わります。

 ここのところが少しわからなかったです。
 当時感じていたもやもやした気持ちを、今振り返ってみて、こういう部分に不満をもっていたとか、こういうことを訴えたかったのだと明確にしていくということでしょうか。
 家族に対しては、反発はなかったと言えば嘘になりますが、わりとふつうに仲良くしている家庭でした。そこそこけんかもし、父も母も厳しすぎず、甘すぎず
という感じです。
 ただ結婚だけは昔から早くしたくて、反対を押し切って結婚しました。
 結婚自体は望んだことのはずなのに、なぜか夫婦生活がうまくいかないのです。
 
 
 
 
 
884 流れ的にはまったくわかりにくいところはありませんよ kagewari 2007/12/27 16:29
>反抗心が強いもしくは、10代のころの気持ち

抽象的ですよね、
特に「10代のころの気持ち」はより何を指しているのかわかりません
そして
 ↓
>思春期と呼ばれる年齢のころは、こういう状態であっても、同じような感覚の人がいっぱいいて

先ずここまでを整理します。
繰返しますが小学生年次に第一次、思春期に第二次(心理学的には幼児期にもう一回)に起きる感情的に不安定な状態になる現象を『反抗期』と呼びます。
前回レスでお答えしたように、反抗期は必ず終わりますから、
継続している時点で、それは「反抗期じゃありません」し、反抗期に
 ↓
>独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり」
こういった行動は起きません。
むしろこういった行動は(臨床辺りでは様々な呼び名がありますが)注意欠陥多動性云々とか学習障害等に分類される(単なる分類なので個別に意味はありません)幼児期から継続する「かんしゃく」のようなもので、
構造的には、言語等コミュニケーションの部分に「うまく内面をアウトプットできない」要素があって、事実上モチベーションとしてのストレスが蓄積され慢性的な欲求不満状態になると考えます。

そもそもどういうことか?と言えば、
「自意識の抑圧があって、そもそも自分自身固有の欲求(エゴ)の一部が無意識下にあるため認識されていない。」
正確な表現じゃないんですが、あえてわかりやすく言い換えると
「周辺や両親の権威性等を前に言っちゃいけないタブーや、求めてはいけないタブーを自我が過剰に織り込んでしまい、意識する事すら拒絶している」のような状態です。

さらに簡単に言えば
「我慢している欲求を思い出せない状態」
 ↓(はい、ここに繋がるんです)
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。

比較する上で『反抗期とは何か』を説明しておきますが、
(かなりの頻度でこの部分も過去ログで触れていますから「過去ログ検索ボード」等を利用して参照してください)
自我の発生初期は、言語能力も完全じゃありません。そこで親は「表現を誇張して言語習得を促します」ね、
「ブーブーなのよ〜ん」
「ハァーイ私がママよ〜ん」
「パパでちゅよー」
ここで幼児は当然背景にあるキャラクターを含めてロジックを構築します。
「特別に優しく猫なで声で話すのがママ」
「おどけた調子でいつも笑顔なのがパパ」
この現実認知は容易に破綻します
「ちょっと静かにして」
「母さん新聞、何べん言えばわかるんだよお前」
「車がきたら危ないって言っているでしょ」
初期のロジックの修正が必要ですね、
そりゃ教えた人間に折衝しなくちゃいけない。
「僕を騙したんですか?」

これが反抗期です、
事ある毎に自我の基本設計責任者に「なんだこの野郎」な意識が向かい喧嘩になったり、じっくりと話し合いがもたれます。
「○○ちゃんはもう大人でしょ、だからこれから話す事は大事だからね」等、アップデートが行われるワケです。
現実は、両親は見よう見真似や様々の方法で刺激を行い、自我のロジックの再編成は幼児自身が行いますから(人間の脳はスパコン以上のパフォーマンスがあります)、アップデートは自主的に行わるんですけどね。
そして、
「お母さん、今日は帰り6時ね。お父さん今日も仕事で遅いの?」
によって
 ↓
「ブーブーなのよ〜ん」
「ハァーイ私がママよ〜ん」
「パパでちゅよー」
的内世界と現実のギャップは修正され、親との関係は再び良好になります。

思春期には、性的能力の獲得と身体の変化によって、
「異性」を意識し始めるところから始まります、
「大きくなったらお父さんのお嫁さんになるの」
欧米における最大の蔑視表現→motherfucker(マザーファッカー)は、その名のとおり「母と息子の近親相姦者」の意味です。
つまり異性に興味を持つ以前の『スーパー異性』はほぼ両親がモデルにある事が多いので、それまで自分に『スーパー異性と思わせたのか!』とか、現実のクラスメートの性的魅力の前に見るからに自分の親の性的魅力が相対的に(というか心理的にも現実的じゃありません)崩壊しますから、その自我の現実認知の再定義が必要になるんです。
「お前さ、付きあうのもいいけど避妊だけはちゃんとしろよ」
「今度デートなんだよ、おかん悪い3000円借りれない?」
こんな会話(親に対して自分が異性との性交可能者として登場した事をお互い阿吽の呼吸で確認しあう事によって)なんかで反抗期は終わります。
「親”子”関係」が終わり「親と元子供(性的には大人)」の関係に現実認知が修正されて終わるんです。

一見両者は意味不明に興奮し親と揉めているように見えますが、これ全然違うんです。明快な現実認知のギャップを「自ら反抗する事で確認」し修正しているだけです。


>結婚してからはしばらく収まっていたのですが
>家族に対しては、反発はなかったと言えば嘘になります
>ただ結婚だけは昔から早くしたくて、反対を押し切って結婚しました

明快だと思います、

やたらと『自分だけの家族(結婚願望が意図している世界)』に拘り、それを早期(反対を押し切って)に求めていますね。
その理由も語られています
>>家族に対しては、反発はなかったと言えば嘘になります

この反発が重大な問題で、
反発を自分にもはっきりとした形でわかるように表現できなかった(頭をたたいたり飛び上がったり「言葉を話せない人が何かを伝えようともがいている様子」)理由も明快です。
 ↓
>わりとふつうに仲良くしている家庭でした。そこそこけんかもし、父も母も厳しすぎず、甘すぎずという感じです。

この両親にはとても強い(反抗に対する)防衛力があるんでしょう、
鉄板とまで言えなくても、簡単にいちゃもんつけられないとうか、そつなくスキや破綻が無い。
本来なら、親子関係のコミュニケーションの中で解決されるべき問題が、抑圧されてしまい→そこから逃げて『自分だけの家族』を獲得したいと欲求されるようになった。

当然この課程だと、自然な形での反抗期が成立していませんから、月さんの自我の構造は「幼児のまま(まんまじゃなく構造がですよ)」だと考えられます。
当然幼児に結婚が無理であるのように、そもそも月さんには少なくとも思春期以降の現実認知と自我の現実認知にギャップを残したまま(他人の思春期の反抗期と自分が同じだと勘違いしたり)現在にいたっていると考えるべきでしょう。

結婚がうまくいかないのも、ごく自然な事です。
月さんが志向したのは幼児の夢のような逃避的イメージの『自分の家族』であって、「”この人”との結婚」じゃ無いからです。
これはその人物と出会う前から「結婚ありき」であった事により証明されています。(結婚だけは早くからしたかった)
「結婚」という言葉は法人の「創業」と同じような意味の言葉です。
そもそも何をする会社かってそれは結婚なら「誰と”どのような”結婚するのか」の方が本質で、妻(取締役)である自分のイメージが先行し明快というより、「自分が自分のままで結婚を手に入れる」ような構造だと、組織論としてなかなか上手くいかないですよ。


ここも
 ↓
>きわめて普通にみえるそうで

その外面をつくろう防衛にたけている親の影響かもしれません。

当然
>多数派ではないという意味で「変わっている」といっていたのだと私は受け取っていました。

これもまるで現実認知と違います。
周辺が「変わっている」と感じるのは、

「あのいったいどうしちゃったんですか?」並の違和感です。
周辺から見れば、現実認知そのものに接点が無く→全ての会話や考え方の”前提”が根本的に違うために常に「他の人と意見があわない」これは合わないというより「まるで別の事を考えている」と言っていいでしょう。

ある意味、共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」は、とにかく沢山の頻度で「最近こうだよね〜」的に事実関係の擦り合わせをします。現実認知を共有する事が社会的に効率がいい事を本能的に知っているからです。
同時に、個性派独立志向の「概ね少数派の人」は主義主張が明快ですから公約を実現しようとする政治家のように発言やパフォーマンスが強く「○○さんって○○な人なんだね」と周辺が認めざるを得ないぐらい「自分をよく知っています」。

大きく分けると、社会と自我の関係は上記2者のパターンとその応用になりますから、そのどこにも属していないと”とても目立つ”んです。
何故なら現実認知の接点が無ければ社会の合意事項等様々なところで「え?どうして」のギャップが生まれますから、それは所属している社会全体の不安定要因になってしまうんです。
ここは国際関係と同じです。

話を極端にすればわかりやすい事なんです、
各国指導者のサミットがあったとします。
この時某国の首相が会議で「頭をたたいたり飛び上がったり」すれば、それは国際社会の安全保障上不安定要因ですよね。
個々人の好き嫌いの問題を超えます、
所属する社会全体が危機感を持ってしまうんです。

しかし、ギターを燃やしたり、ステージに叩きつけるミュージシャンもいますね?そして会場は大盛り上がりで大興奮だと、
そのパフォーマンス性が「既に言語を超えている爆発」であり、それを”自覚して表現されていれば”個性派なんです。

実際個人が個性派を選ぶのかそれは各人自由です。


さて、そうなると月さんの幼児期なり小学生ぐらいのレベル或いは思春期の家族との関係等
>家族に対しては、反発はなかったと言えば嘘になります

ここの内容を(本人ピンときていなくても)、検証する事が重要でしょう。なんという事無いエピソードでも複数突合せて検討していけば、自意識を抑圧した構造のアウトラインが見えてくると思います。
それが些細な部分かも知れなくても、
欲求の流れ(川の流れと同じですよ)を何かが堰き止めて時々洪水になっているのは確かでしょう。

そしてやっかいなのは、その問題がベースになる事で、現実との認知にズレが起きてしまい、自然な形で反抗期が形成されていない部分で、
このギャップを埋めていくのにも数段階のステップが必要なんだと思います。
885 Re:流れ的にはまったくわかりにくいところはありませんよ 月のたまご 2007/12/31 16:18
> >独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり」
> こういった行動は起きません。
> むしろこういった行動は(臨床辺りでは様々な呼び名がありますが)注意欠陥多動性云々とか学習障害等に分類される(単なる分類なので個別に意味はありません)幼児期から継続する「かんしゃく」のようなもので、
> 構造的には、言語等コミュニケーションの部分に「うまく内面をアウトプットできない」要素があって、事実上モチベーションとしてのストレスが蓄積され慢性的な欲求不満状態になると考えます。

 これの原因は、考えてみましたがわからないままです。
 ただ、私は子どものころから「かんしゃくもち」といわれていたので、その部分は当たっているように思います。

「我慢している欲求を思い出せない状態」
これは、どうすれば思い出せるのでしょうか。

> 思春期には、性的能力の獲得と身体の変化によって、
> 「異性」を意識し始めるところから始まります、
 私は、男子と平気でけんかできる、活発な生徒でした。性的な発達はそれほど
すすんでいるほうでもなかったように自分では思っていましたが、相対的に同世代では大人っぽいほうのグループにはいっていたので、そう思ったのかも知れません。
 大人にはよくない意味で、「ませている」と思われたり、あまり大きな声ではいえませんがセクハラっぽいことにもあっているほうだったと思います。(他の生徒もあっていて黙っていたのかもしれませんが。)

> 反発を自分にもはっきりとした形でわかるように表現できなかった(頭をたたいたり飛び上がったり「言葉を話せない人が何かを伝えようともがいている様子」)理由も明快です

 両親は私のことを、反抗的な子供だったといっています。
 でも、自分では何をしたのか思い出せないのですよね。

> この両親にはとても強い(反抗に対する)防衛力があるんでしょう、
> 鉄板とまで言えなくても、簡単にいちゃもんつけられないとうか、そつなくスキや破綻が無い。
> 本来なら、親子関係のコミュニケーションの中で解決されるべき問題が、抑圧されてしまい→そこから逃げて『自分だけの家族』を獲得したいと欲求されるようになった。

 両親はとてもバランスがとれていてすごかったですね。それに、性格は似ていないのですが仲はとてもいいのです。
 私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました。
 「親子関係のコミュニケーションの中で解決されるべき問題」とは何でしょうか。私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて。
 
> 当然この課程だと、自然な形での反抗期が成立していませんから、月さんの自我の構造は「幼児のまま(まんまじゃなく構造がですよ)」だと考えられます。
> 当然幼児に結婚が無理であるのように、そもそも月さんには少なくとも思春期以降の現実認知と自我の現実認知にギャップを残したまま(他人の思春期の反抗期と自分が同じだと勘違いしたり)現在にいたっていると考えるべきでしょう。

 これは自分ではそう思わないのですよね。
 反抗期云々の問題も、結局意味を狭く捉えるか、広く捉えるか、新しい世代の
やり方の違いを認めるかということの違いだと私は考えていて、表現の仕方のバリエーションにしか思えないのですよね。
 「最近の子は○○しなくなった。」とか嘆いたりしますが、気持ちとしては昔も今も同じ部分はあって、状況が変わり、表現の仕方が変わっただけなんです。

> >きわめて普通にみえるそうで
>
> その外面をつくろう防衛にたけている親の影響かもしれません。
 これも少し違っていると思います。
 「つくろう」といっても特別に何かやっているわけではなく、人の集団で生きていくための自然な適応の範疇だと思います。時には他人と齟齬を生じたりするし、嫌いな人も私を嫌っている人もいますし。
ある程度はあわせているけれども、あわせすぎているとか特別たけているようにも思えませんけれども。
 
> 実際個人が個性派を選ぶのかそれは各人自由です。
私のようなポジションを選ぶというのはどうでしょうか。
社会の中にその二つの生き方しかないということではないと思うのです。
私は自分自身がすごく好きなんです。
ただ、その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いな、と思えるのです。
まあ、茨の道になるかもしれませんが。

> >家族に対しては、反発はなかったと言えば嘘になります
>
> ここの内容を(本人ピンときていなくても)、検証する事が重要でしょう。なんという事無いエピソードでも複数突合せて検討していけば、自意識を抑圧した構造のアウトラインが見えてくると思います。
> それが些細な部分かも知れなくても、
> 欲求の流れ(川の流れと同じですよ)を何かが堰き止めて時々洪水になっているのは確かでしょう。

 その反発やくすぶっている部分が家族に対してではないという場合も考えられませんか。
 私は学校(主に中学高校)にはいろいろ反発があります。解決できた問題と解決できなかった問題があります。
886 視野角に入っていないんですよ kagewari 2008/01/01 06:10
一部の認識が視野角に入っていない。
ある意味、ここまでの論議は特別心理学の知識が無くても誰でも辿り付ける認識なんです。
今回の私のレスの内容までは、何不自由無く普段の生活の中で気が付くレベルの話です、
私がここに介在している意味は、「構造的にそれを認知できない抵抗意識」を突破して、例示するような形で「気が付くべきなのに気が付いていない話」を説明するところに意味があります。ポイントとしてはそんな自意識の抑圧や(例示に対する)抵抗が事前に予測できている部分になります。

>>「我慢している欲求を思い出せない状態」
>これは、どうすれば思い出せるのでしょうか。

同様に、これまで私がおこなってきた(今回のものを含む)説明も、本来月さんの自意識が気がついてい認識していて当たり前の認識で、「確かにそうかもしれない」と現在認識されている過程は構造的には「思い出している」のと同じなんです。
自意識が抑圧されていなければ、自分でも気が付いていた話になりますから。
つまり、自分自身の自我にはバイアス(多数の禁止事項があり自由に現実をそのままに認識できない)がかかっているんだという事を「自分で認識するところ」が一番重要になります。

丁寧に説明して、現実の在り様を「とってつけたような言い返し」では反証できない形で例示すれば、認めざるを得ない意識が介在している。
=「現実の在り様を軽く見ただけでは、特定の”こうに決まっている意識”を超えて事象を認知する力が無い」という構造です。
しかし、現実認知を丁寧に拾い上げたり検証する力は”自意識の専売特許”なので、自らの自意識がリードする形で認識を進める方向性を確立していく事で、この”カウンター”を自ら自分自身の自我に加える事が可能になります。

そもそもそんな自意識にかかっているバイアス(強迫構造)は、経験的反復性をその正当性の根拠としますから、
事実上何回か自意識によって自分自身の自我に「その考え方は通用しないだろう」な経験を繰返す事で、経験的反復性による正当性そのものが瓦解しますから、少しづつになりますが、現実認知を”丁寧にする”事で、その構造を解消させることが可能です。
偏った認知の見分け方は以外と簡単で
「即断した考えや”感情”と認知される興奮」「短い言葉やとってつけた理由で容易に思いうかぶアイデア」「”自分個人の考え”のような捉え方ではなく、”そうじゃないのか”等の漠然として抽象的な捉え方に”不思議と自分で疑問や迷いが無い”アイデア」です。
これらはよく考えれば全て論理矛盾(曖昧な話なのに疑問ひとつなかったり)を含んでいて、主な機能は自意識による自由な認知を妨げる事です。

話の発端は、幼児の認知として自らの生存のために(乳幼児の場合親が飼育放棄した瞬間死が待ってますから)、人類の場合誰でも幼児期に主体的認知より関係性認知(専ら親子関係)を優先させなければいけない普遍的な構造があるためで、
この自意識を超越する優先事項が「道徳性・公共性・倫理観」の原型になります。
しかし当然この幼児の初期認知には無理がある構造が多い(乳幼児に対する親の極端な行動や幼児特有のデフォルメ)ので、反抗期や関係者(主に親)の見せる合理的行為等によって常に修正を必要とするものになります。
※これは自分ながら”大人になった”と意識されたレベルで確信犯的に「これを自分自身の公共性として選択すべきだ」等の過程にいたるまで流動的に推移するものです。
ここに関係者(主に親)が不可解な行動や”わかりにくい行為”を行うと、その認知の修正が進むどころか偏向が促進(関係者を正当化するため)される場合があるんです。こうなると現実と自分自身の現実認知との乖離が大き過ぎて、自らの認知を成長(認知能力の拡大)の度合いと合わせて修正する事が構造的に難しくなります、
これが「強迫構造」です。

>その反発やくすぶっている部分が家族に対してではないという場合も考えられませんか。

ここは、上記を踏まえて理解していたければわかると思います。
乳幼児にとって社会性は=「両親との関係」であった時代があり、ある意味全ての人物にとっての社会性とバックグラウンドは乳幼児時代の親子関係の応用ですから、これが投影される事で社会に対する反発(=内面としては親子関係ベースの認知の論理矛盾を不当な社会への反発として代替的・間接的に内面の親子関係の残滓の正当性を主張している)の形になります。
本来社会に「反発」する事に意味無いですから、
自ら革命家のように、社会に問題提起するようなアイデアを持ったり(改革派)、
社会の様々な問題に「自分ならこうする」のような、個性的な人生を選択したり、
実存主義的反抗として、個人的な認知の中に不条理として社会性と不不可避の個をを初見する、
等等それは人生の選択にかかわるテーマであって、喧嘩腰になって無駄吠えして解決する問題等ありません。
それは無駄吠えすることそれ自体に意味がある場合に限られます。「自我防衛反応」ですよ、
 ↓(以降にも関連します)


■今回の話には重要なキーが散見されます
>その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いな
 ↓
強迫的興奮の快感認知
脳内では不快感えあっても”興奮”は快感分類です。
結果的に、家族間や人間関係で問題を繰返したり内向的に落ち込む現象は脳内では快感であり、
これが反復される事で、経験的反復性を正当性の根拠とすする強迫構造はより強固なものになります。
つまり、その快感は、強迫構造保守のために「必要とされる」のであり、
これ俯瞰で見るなら、「月さんは自分の個人的な利益のために周辺との間で問題を起こして快感に浸っている」のと同様であり、その異様な雰囲気は誰にでも「不可思議だ」と認知されますから、嫌われたり見識を疑われたり異常だと思われたり等二次的な環境を自ら招いてしまいます。
 ↓(その結果です)
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。
編集すると「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」なら全く問題無いのです。それも人生の選択ですから、
そこが「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。」なので”構造的な論理矛盾”になるんです。


>あまり大きな声ではいえませんがセクハラっぽいことにもあっているほうだ
 ↓
強迫的人格特有の偏向的な早熟(これは”自意識が抑圧”されているため自身の”個人的権利も同じように軽視”されるために起きがちの現象で、本当に早熟なのではなく「自意識を抑圧」するように「強迫的認知の前に自分の身体等自分の処世術の道具に過ぎない」的認知が、先ず与件として成立してしまい、結果的に「スキがある」とか「セクハラ的な行為に逆らわないのじゃないか」として”加害者”の側に容易にその特性を発見されるために偶発的に起きるケースが多いんです)、があった証明で、
確かに偏向的な早熟の背景に、本質的な意味の早熟が関係しているのも言うまでもありませんが、
その関与の構造は「無理のある親子関係等を論理矛盾を超えて正当化する」等という幼児にとってはかなり高度な認識を早期から行っているため身に付くもので、ここの部分でもその早熟の背景に強迫的認知が関与している証明になります。

>ある程度はあわせているけれども、あわせすぎているとか特別たけているようにも思えませんけれども。
 ↓
自覚されたら強迫になりませんよ(笑
上記様々な認知があるのに関わらず、
 ↓
>きわめて普通にみえるそうで
「きわめて」ですよ、
これは相当の作為があって初めて可能な現象です。
おおよそ普通じゃ無い人格構造が、「きわめて普通にみえる」なんて現象がナチュボーンにあるなんて事不可能です。
 ↓
 ↓(ここが以降とピッタリ符合します)
■さて、強迫のコアはここでしょう。

>両親はとてもバランスがとれていてすごかった
「きわめてスキが無くバランスがとれていた」と言い換えてもいいでしょう
>私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました。
障壁の認知
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなく
>「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて

全ての強迫の発端は、この両親の問題であると断言してもいいでしょう。
家庭の運営において、両親がもっともやってはいけない言動は
「わかりにくさ」「説明責任の欠如」「コミュニケーションギャップ」です。
ほとんどこの全てを兼ね備えています、
言い換えれば、この両親が飼育しているというだけでそれは「虐待」であると認識して間違いでは無いでしょう。

そもそもそんな夫婦生活そのものに無理がある、
論理矛盾や様々なコンプレックス等が隠蔽されているでしょう(完璧さの理由や動機)、
幼児期の環境そのものが強迫的であり→「早く結婚して超えられない壁から脱出したい」との認知に依存した

これが構造のアウトラインです。
「おまえは話がくどい。」
この辺の話のデイティールを詳しく(複数例で)付き合わせていけば、この両親の背景がより詳細に発見できる筈です。
889 つけたし 月のたまご 2008/01/06 22:20
 思い出したんですけれども、まだ書いていないことで関係あるとおもわれることを付け加えておきます。
 高校生から大学生まで、家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたりして、両親とけんかになったことがあります。高校生のころには、一度ガラス製の扉を足で叩き割ったことがあります。
 頭をたたくようになったのはそのころからのような気がします。

 高校生のころ、体重が一気に減り、生理がとまって通院したことがあります。大学生になると一気に10キロぐらいふえ、体重の増減が激しいです。

 つめ噛みや指しゃぶりがやめられない。

 最近になって、背中が起きる時、ものを食べたあとと非常に痛いので、内科で検査してもらったところ、異常はないが腸の具合が悪いといわれました。我慢しきれないほどではないのですが毎日のことなので心配です。結婚してからここ2年くらいの話です。

 
890 こういう構造になりますね kagewari 2008/01/07 09:40
反抗期のきっかけ思い出してください(前レス読み返してください)、
同様に同じ”きっかけ”は誰にも到来します。
この”きっかけ”の部分とメンタルな関係を個別に説明しますね。

『性的な能力の獲得』
これは一種の”冨”ですよね、
平たく言えばキャリアやスキルみたいなものですよ。
ベタな表現で言えば「性的能力の開発と免許皆伝」みたいな、
ま、運転免許もらったのと同じ。
実はこれってメンタルな環境に大きな変化をもたらします。
「車に乗せてもらう」→「自分で運転する」
幼児期の反抗期(心理学的な第一期)
「おしめを代えてもらう」→「自分でトイレにいく」
「性的快感を(無能力者なので)抱擁等で獲得する」→「自分でSEXするなりマスターベーションする」

後者が全て「自意識マターの介在する自立的欲求」に関わる事わかりますよね。

つまり、自意識を抑圧している強迫構造を持っている人格にとって、思春期は「抑圧されていた自意識が生理的に台頭する(自立欲求が高まる)」事で、自我構造の均衡(この前から偏っていて無理があるのに)は大きく乱れる事になります。

自意識リードの行動を求められていてそれが生理的欲求でもあるのに、自意識が抑圧されているので、代謝されない欲求が自我の内部に蓄積されて複合的なストレスになる。
簡単に言えばガス抜きが出来ないワケです。
ある意味、自然なバランスの自我構造なら「オナニー1発でかなりガス抜きになる状況」って事ですよ。

しかし鬱の症例なんかの大半の事例は「SEXしても快感を得る事がない(性依存症の人物の大半は性欲すら感じていない場合もあります)」ぐらいまで自意識が抑圧拘禁されているので、自立的欲求による快感すら抑圧されていると見てもいいでしょう。

ここまで読んでいただければ、いかに不平不満が身体的成長を原因として高まっている状況なのか誰でも想像つくでしょう。
ここでナチュラルな反抗期は、様々の若い人特有の無茶等を経て自信を獲得し、「自分の意識でオナニーの快感を獲得したり、SEXの対象者を確保したり」なり、「よーし(自分はもう大人なんだから)自意識マターで行くぞわたしは」のような自立によって収束します。→生理的欲求を自力で解消する動機形成の確立。

ここに月さんの事例で言えば『親の壁』という言葉に代表される強迫性が介在するとですね、
ここもよく私がたとえ話で使う表現なんですが、
「親にうしろから監視されている状況で、気持ちよくオナニーできる奴はない」の法則で、この自立的欲求が抑圧されてしまうんでよ。

「抑圧」と「我慢」の違いって何かというと、
「我慢」は既に動機形成が確立している状況=断念した欲求が自覚されている。
「抑圧」は、動機形成そのものに強迫構造が介在するので=その欲求が動機として形成される以前に抑えこまれる→何を我慢したのか意識が希薄だが「漠然とした不快感が蓄積する」現象になります。

簡単に説明すると「オナニーなんて考えるだけで倫理的に許されない」みたいなとってつけたような理由や、「SEXじゃないとこの不平不満は解消されない→な屁理屈でオナニーを断念」や「愛情の伴わない関係なんて満足感がある筈ない→性的開放的な同世代の雰囲気を否定」とか「自信が無いので結婚したい(背理:SEXしたい)」等々様々なんですが、それ以外に重要な鍵が介在します。

『超えられない壁』
これ一種の神格化なワケです、
おそらく第三者から見れば、月さんの両親は「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物なんですよ。
この二人が『超えられない壁』までいっちゃうためには”神格化バネ”が効いてなくちゃ無理な相談です。

神格化は過去ログでも随分と論議しているので、過去ログボードなんかで検索して閲覧してみてください。
やっかいなのは、神格化の幼児性デフォルメによって、
 ↓(一番最初の話思い出してください)
「性的快感を(無能力者なので)抱擁等で獲得する」→「自分でSEXするなりマスターベーションする」
 ↓(これが大変な事になります)
「性的快感を(無能力者の自分は)神と聖母によって抱擁される事で感じる筈だった(これは親子関係の問題で実現しなかった”子供の権利”のように認知)」→「現実世界に私を神に貫かれるような最高位の快感を感じさせるような人物が存在するはず無い」

よーく考えてみてください、
既に「後者の後者」は一般的なSEXやマスターベーションって実現可能な行為が現実認知されない領域いっちゃってますよね。
これが抑圧です。
「(何がは不鮮明)出来る筈無い」
それに近い行為は何でしょう、
そしてそんなストレスの発生要因は何でしょう、

過食(ソドムとゴモラ)も拒食(ラマダンやハンスト)もですね、一種の宗教的カタルシスというか神格化なる触媒を介した「オナニーの再解釈」なんですよ。
ぐるっと回って『超えられない壁』として認知されている強迫構造をどうにかしないことには、人並み程度の(しょせん誰しも”ありきたりの人”に過ぎないんですから)欲求をですね、人並み程度のつましい動機形成による行動でささやかに満足していくって静かな暮らしはそう簡単に回復しません。

「ささやかな満足や静かな暮らし」の反対(反動)は?
「大暴れ」です。

>つめ噛みや指しゃぶりがやめられない。

明らかな、幼児性の依存が残っていますよね。
これは「性的快感を(無能力者の自分は)神と聖母によって抱擁される事で感じる筈だった(これは親子関係の問題で実現しなかった”子供の権利”のように認知)」なイメージを再びのような、ノスタルジーが今尚継続している証明です。

単純に癖(や性行為の一部に代替)として残る事もありますが、
これまでの経緯から考えるなら、非常に強い強迫構造(時制はその確立年次になるので『幼児』のまま)が介在している証明になります。

ですから、前回の話と被りますが
先ず『超えられない壁』の認識を解消していかなくてはなりません。
どうでんぐり返しても、結論は「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物になるのですから、
そんな人物が『超えられない壁』のように”幼児に誤解された現象”を自分なりに考えるんですよ。

「どこで失敗したんかな?」

これを考えるために、幼児期の何のことないエピソードや、思春期等の親の客観的な態度や事実関係のつき合わせが必要なんです。
これですね、
何も意識しないで普通にやると常に答えは「そつ無く立派な人達だ」みたいなワケのわからない結論になってしまいますから、
一番最初にですね「そういう答えは100%嘘」みたいな定義を設けるんです。
答えは→「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物、でなくちゃいかんのです。

数学の証明みたいなもんですよ。
どう考えれば答えが→「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物になるのか?

当然考えていく過程で、(素材になるのは”事実関係”なんですから)その回答は、(自分の育った”無理のある家庭”)本来の姿を浮かび上がらせていく事になります。

この強迫構造を直視する視点を失うと、反動形成による過剰な強迫的興奮状態に振舞わされるばかりで、何ら建設的な方向性見えてきません。

>最近、ものを食べたあとと起きる時、背中が非常に痛い

こういう身体的な不都合があるのは、何ら不思議な事じゃありません。
強度のストレス化にあると誰しも無意識に緊張状態になっていたり、妙なところに力入っていたり、免疫系がダウンしちゃったり、当然内分泌系やらなにやらと、トラブル出てきます。会食恐怖的に食事そのものが緊張を強いる事もあります、

マッサージとか整体とか検討してみましょう。
マッサージ機買うのも悪くありませんよ、
891 Re:こういう構造になりますね 月のたまご 2008/01/09 00:25
 前回は少し話の流れと違うことを書いてしまってすみませんでした。

> 反抗期のきっかけ思い出してください(前レス読み返してください)、
> 同様に同じ”きっかけ”は誰にも到来します。
> この”きっかけ”の部分とメンタルな関係を個別に説明しますね。

 この場合の反抗期とは、誰(何)に対する反抗ですか。私とkagewari先生の反抗期に対する定義が違うみたいなので、何について答えたらいいのかわからないのですが。

 あと同じ“きっかけ”と限定してしまうと誰にでもは起こらないと思います。

 私の場合きっかけをひとつにしぼれといわれるとはっきりとは思い出せないのですが、学校の教師(ひとくくりにしてではなく特定の)やクラスの同世代の集団主義、男性の女性への差別(ジェンダー)には強く反抗した時期があります。

> ここでナチュラルな反抗期は、様々の若い人特有の無茶等を経て自信を獲得し、「自分の意識でオナニーの快感を獲得したり、SEXの対象者を確保したり」なり、「よーし(自分はもう大人なんだから)自意識マターで行くぞわたしは」のような自立によって収束します。→生理的欲求を自力で解消する動機形成の確立。

 「若い人特有の無茶」はそのときは一時的に自信を獲得できるかもしれませんが、それより成長したりそこを脱するチャンスに直面したときに、「恥」にしか
ならないのではないでしょうか。かえって自立の足かせになる、というか。
それが理解できなければ、年だけとって経験がそれに追いつかないという感じになってしまいますし、うすうす気づいていても、自分の過去を派手にやってしまった以上もうなかったことにできないから、何かそういった行為を美化するという形で現実の認識もゆがめてしまう(目をそらしたり、ある種のことに過剰に抵抗をもつなど)ことにつながるようになる気がします。
周りを見ていても、その時期のことをひきずっている痛い大人を時々見かけますし。

> 『超えられない壁』
> これ一種の神格化なワケです、
> おそらく第三者から見れば、月さんの両親は「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物なんですよ。
> この二人が『超えられない壁』までいっちゃうためには”神格化バネ”が効いてなくちゃ無理な相談です。

 神格化という程のものではないようにも思います。
 超えられない、というのは私と両親とのバランスの問題で、両親が神とは思わないですが、私の力量では無理という感じなのです。
つまり、私の両親よりも「スゴイ」と思われている人は世の中にたくさんいるだろうけれども、私にできて両親にできないことがないという感じなのです。
両親にできて私にできないことはたくさんあるのに・・・・ということで乗り越えられないと思っているのです。

 第三者からみてもすごいですよー。うちの親は。
 むしろ子どものころは私のほうが親に対して懐疑的で、ダメだなと思うところがたくさんありましたけれども、周囲がたまごちゃんのお母さんっていいよねえ、という感じで私が嘘をついている、嫉妬をしているかのように思われてしまったから自然に外では親のことを批判できなくなってしまったという感じで。

> 一番最初にですね「そういう答えは100%嘘」みたいな定義を設けるんです。
> 答えは→「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物、でなくちゃいかんのです。
>
> 数学の証明みたいなもんですよ。
> どう考えれば答えが→「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物になるのか?
>
> 当然考えていく過程で、(素材になるのは”事実関係”なんですから)その回答は、(自分の育った”無理のある家庭”)本来の姿を浮かび上がらせていく事になります。

 どうやっても、なかなか超えられそうなところがないですね。
 しいて無理やり探せば、私のほうが学歴が高いことと経験が豊富ということでしょうか。両親は恵まれているので嫌な目にあったりしたことが少なく、明るさがあるのです。なので人や社会の暗部への感性は私のほうがあると思います。

> こういう身体的な不都合があるのは、何ら不思議な事じゃありません。
> 強度のストレス化にあると誰しも無意識に緊張状態になっていたり、妙なところに力入っていたり、免疫系がダウンしちゃったり、当然内分泌系やらなにやらと、トラブル出てきます。会食恐怖的に食事そのものが緊張を強いる事もあります、
>
> マッサージとか整体とか検討してみましょう。
> マッサージ機買うのも悪くありませんよ、

 ありがとうございます。幸い食べることや飲み会は大好きなので、会食恐怖にはならずに済みそうです。
 寝起きが悪くてつらいんですよね。なにか昔のことを思い出してつらくなっているのでしょうか。
892 えーとですね整理してもう一度説明しますね(1) kagewari 2008/01/09 23:50
※容量オーバーの可能性大なので分割します

先ず最初に私は先生じゃありませんし、権威誘導的な取り組みにも批判的な立場になりますから先生という属性を呼称につけないください。
第三者を意図する”さん”でOKですので、

さて、本題ですが文脈的に心理学の理論的部分に対する異論を含んでいますので、これどうにもこうにも心理学そのものについて説明しなくちゃいけません。
その根拠となる部分を若干説明します。

反抗期というのは、人間に普遍的な人格形成の過程で、その一つの論証として「反抗期という言葉を知らない人がいないほど一般的用語」になってます。
そして、その反抗期における心理学的背景を考えてみますと、自ずとそこにはヒトの自我にとっても不可避の工程を含んでいる事が論証されているワケです。
つまり現代社会においては、反抗期というものがどのような形で推移したり変化したりするだろうかという視点はあっても、その過程そのもが形骸化する可能性等を論議するものではありません。

この普遍性の根拠となる背景ですが、
先ず人間も動物ですから、DNAを背景にした年次における発育と本能の関係で「本来放っておいても立派に育ちます」。しかしここには進化の過程で様々な要素が付加されてきました。
いくつか挙げますと、
これだけ大容量の脳(特に理論的思考を司る前頭葉)の獲得は二足歩行あってのものですし、同時に気道や声帯等も直立歩行が必須条件です。
しかしサルとして見る場合、直立歩行はむしろネガティブな要素で(元々は森に暮らす樹上生活者ですから)、この進化の過程に環境変化(森林からステップ上の平原へ)が関係していると考えるのが生物学的な原則です。
この結果骨盤の形も変形し(直立飛行に特化するため)、この骨盤変化に対応してオスのペニスの長さまで変わっています。当然樹上を渡る時に重要なバランサーである尻尾も邪魔な存在ですから退化していますね。

つまり、大幅に骨格が変化しています。
この体重で想定されている出産時の固体を出産するには産道が狭すぎるんです。
つまり、サルの仲間としては全て未熟児として子供を産まなければならない。同時に子供の脳も直立歩行タイプに適応し肥大していますから、より小さなサイズで子供を産まなくてはいけません。

体毛の変化等もこの辺に関連付けるのが生物学的な進化の論議の趨勢です。「ネオテニー現象」です。
ネオテニーとは幼児化とも言われる現象で、
その実例は、「ペットとしての犬やネコの誕生」があります。

よく論議に「犬の先祖は?」なる話が生物学的な話の溯上にあがりますが、これは「犬が人間の意図的環境下で進化した」からです。
(19世紀には先祖は狼という話がもっぱらでしたが、現在はジャッカル等様々な説があるようです)
ネコの場合も明快に「山猫」と分類がありますね、
完全に「イエネコ」は種類が違うんです。
これは石器時代の人類が、犬の場合には狩り等の目的、ネコの場合にはエジプト文明あたりからと思いますが、穀物倉庫におけるネズミの番人等ヒトの集落において共存するために常に「飼い易い個体→よく懐く」を選択された事により進行しました。
「よく懐く習性」とは「幼児期特有のホルモン等の分泌が長期化する(撫ぜたりすると快感信号の反射がある)」等の特徴が求められ、
種としてネオテニー(幼児化)が起きたと考えれています。
現在は生まれた子犬の中から飼い易い固体を選ぶって事はありません。
何万年だかを経て、「犬の子供はみな犬」という新しい品種が生まれたワケです。

人間の場合には、未熟児状態で子供を産み落とさなければならないと事情が違っていますが、お婆さんやお爺さんの顔がサルの成人に似ている事からわかるように、幼児期的傾向が進化の過程に織り込まれています。

本来なら馬の子供が出産直後から立ち上がり、翌日には歩くように、人類の子供も立って歩くのが自然なのです(原資歩行といって、反射的に幼児は出産直後から歩くような動作をします)。
ところが人類の子供は歩けませんし、直立歩行をしないとバランスが取れない大きな脳が余計に足を引っ張ってより歩けないのです。
しかもネオテニーの影響か2年も育てれば哺乳類としては「育て杉」ぐらいなのに、一人前に行動するまでに少なくとも6年前後の「子育て」が必要で、通常その段階で「生殖可能な大人」になってなくちゃいかんのですが、体の大きさも含めておおよそ成人とはいえません。
社会的には「生殖可能な年次」を大人と関連付ける事になります。

※ここで本能だけでは生きていけない状況が生まれたと考えられています。そもそもサルの母性本能なんてレベルは乳幼児の段階で切れてしまいますし「言葉を教える」なんてロジカルな行為をDNAにプログラミングする等到底不可能です。
同時に、本能では歩いて活動したいという欲求は生まれた直後に「見えない歩けない」等のパニック体験を経て完全に一度挫折し、「ヒトの手で育てらる」過程を経ていきます。

ここがニワトリが先か卵かの部分は進化論の論争として常にある論議ですから、考えても意味ありません。

「ヒトの手で育てらる」ちょっと考えてください。
野生動物を保護した時の注意事項です、
「出きるだけワイルド(野生)な環境を用意する、ネコ可愛がり的な過剰な干渉を避ける、自立活動が見受けられたら自分でエサを獲得している訓練としてエサを与える環境に十分注意する・・・」
物凄く注意しないと、ワイルド(野生)に還れなくなるんです。

つまり、ここで生物学的に論証されているのは、ペット可のようなあたかも人類が赤ん坊を育てるような過程を踏んでしまうと、哺乳類の本能はとても容易に壊れるんです。

わかりますか、
ペットには本能の代替として”自我”が生まれ、(飼育者との)コミュニケーションこそが自分の生命にとって最も重要になる。
本能によらず自我によりロジカルに生きるって事です、
これを補うというか、あたかも促進するための「巨大な前頭葉」と「真っ直ぐに伸びた気道と声帯」が我々にはあり、自由に言葉を使う事でその自我は爆発的な可能性を人類に与える事になります。

しかし、人間の場合にはその先に「大人になる」という過程が必要です。文化としてこれを取り込めない種族は滅びるより外ありません。
比較的原始時代と近い文化を残していた未開民族の大半は、生殖能力の獲得時期と合わせてシンボリックな割礼の儀式を行ったりして、「成人」の確認が行われます。
それまで村の権威者によって禁止されていた事が大人になる事で可能になるような文化を持つ事で、子供は自分が儀式を経て大人になる事を望みます。
「儀式が終われば狩りにいける」や「儀式が終われば戦士になる」等、
女性の場合は、それが「族長等の命令で結婚が許される」等になります。ネイティブアメリカンの一族のように犯罪に加担したり姦淫を行う等すると「結婚禁止の刺青を入れる」等、族長の権威は非常に性的な権限に深く関係します。

中世キリスト教社会では、ご存知のように純粋なカソリックの場合「結婚における子供をもうけるための以外の性行為はご法度」です。
教会が結婚を認める儀式をしなければならない→生まれた子供は洗礼を受けなければならない等、つまり権力は教会に集中するんです。
この教会と王家の関係が社会的権威として絶大な権力を保持します。
様々な宗教改革運動がありますが、ここは現代社会においても米国の大統領選挙で「堕胎を認めるか否か」が未だに重大な争点となる事からも、いかにキリスト教圏において重要なテーマであるのかがわかります。
社会学的には、この当時の王家と教会の関係を「王権神授説」等として社会の授業でもみなさん触れていると思います。
当時は王家に「処女権」なるものがあった王族もあって、この「処女権」とは何かと言うと、「国の全ての少女の処女は全て王のものである」という法律です。
このように、権威と性は非常に深い関係にあるのです。

日本の場合元来がフリーSEXに近い土壌ですから(明治初期に来日した英国人日本学者チェンバレンが古事記を英訳して出版しようとしたところ、読んだ人がポルノ小説と勘違いされた)この集団権力的な権威性はムラ意識(村八分が=死を意味する)のような集団化された「世間様」的な雰囲気としての常識に始まります。
日本の場合集団の決まり後を守っていれば相手もいる的な「社会適応と性」の関連の延長に家庭の権威も付加されてきたワケです。
大正昭和の一時期に随分と性的保守思想が広がりましたが、ここには軍事大国化→権力や権威の集中という社会学的背景があって起きた現象です。

ともかく、「個の自立性をどこまで尊厳として認めるのか」や「社会や権力」との関係には非常にこの性的な部分が深く関わります。

この性については、前スレの878番に詳しく書いてありますので、そちらを参照してください。

本能のとしての性も一度カオスのように解体された人類の場合、それは社会的成功も性的モチベーションの一部でもあります。
強権社会が差別的な身分制度を持っている事が多いのも性の管理と同じようなものです。
むしろ日本の場合には、「年功序列」のような、集団の秩序を優先する社会的慣習こそが権威性の背景でもありました。
ある意味「両親の社会的属性」がまんま子供にとっても権威でも在り得るような背景ですね(これはイメージであっても機能します)。
これ社会的地位の偉さとか関係ありません(その地位が誇張を招く要因になる事はありますが)既に全員権威者だからです「親権の保有者」ですからね。「親」という称号(階級)を持っているのです。

つまり、社会学的にも文化人類学的にも「家庭」は「クラス(階級)社会」のバンド(小集団)です。

日本独自な心理的な環境から言えば「親の社会適応性」はそのまま強い権威性にもなります。
世間体重視であったり、一目を気にするであるとか、普通にしていなさいであるとか、人並みに学校へとか、ま、ここは様々です。

話は戻りますが、
このように人類の子供は、サルとしては異常ともいえる特異な環境で育ち同時に既にサルとはおおよそ言えないヒトに進化していますから、この環境で爆発的な成長を見せます。
『語学留学も無しに親の言葉も容易に覚え』『現実との乖離を様々な非現実的想像でその隙間を埋め(私自身幼児期に「大きくなったら”スーパーちゃん(スーパーマーケットの意)”になる」と言及しています)』『荒唐無稽な世界を救うアニメヒーローに心酔したり』『王子様や王女様のような世界に憧れたり(人形遊び)』『作り物の消費財に過ぎない製品を”ぬいぐるみ”として寵愛したり』どうかしちゃっているぐらいの飛躍の中で、現実を模索していくのです。



つまり、親を神格化していない人類の子供(乳幼児)は『只のひとりもいない』んです。
これを幼児のデフォルメと言いますが、
「聖母マリア」等の言葉の意味する象徴性に普遍的とまで言えるイメージが人類の自我に存在するのは、この記憶によるんです。
極論宗教的な神のイメージの原型は乳幼児の夢です。
さらに心理学的→精神分析的な認識は「そもそも神のイメージは乳幼児期の漠然とした(目もちゃんと見えない)親の言葉を覚える前の記憶の投影」でまで考えている部分もあるんです。

神格化という意味合いそのものが驚くような話じゃないんです。
普遍的な神のイメージの原型が自分の親だと考える仮設も成立するぐらいの話で。現実保守的宗教国家のそのほとんどが「親がその宗教的権威の代理人」を兼ねます。


そこでもあえて、心理学的に「神格化」と改めて言及している部分には又、別の意味があります。
それは、上記までの心理学や社会学的な背景は与件化(相談している時点で説明不要と合理化されている)されていますから、相談者には知識としての誤解が無いだろうとの前提で、
若干別の意味で使っています。

当然1歳にもなれば、親が人間であるのはどこの誰でもわかりますから、神格化の原型は深層心理にイメージとして忘れさられていきます。
ここで心理学的には初期的反抗期(夜泣や排泄関係のぐずり等)が起きます。これは神秘的な絶対者と都合良く寝たり24時間慈愛で世話しない事への失望と(それが途切れたら死ぬかもからくる)不安。
ここは「私は(聖母じゃなくて)お母さんですよー」なるメッセージの認知等によって整理され、次のフェーズ(次の破綻)まで幼児特有の誇張性は継続します。
「お母さんは優しくて綺麗な人だ」とか「大きくなったらお父さんのお嫁さんになる」等、少なからず親を誇張(デフォルメ)する視線は継続します。
これは様々な事象に関連し、
女性の場合、母親への憧れ(ママゴトやぬいぐるみをだっこする母親を模した行為により証明)とその権威を裏付けに(男の子が漠然と王とか社長がエライと思うように)、結婚する事を特別視したりします。
昭和の初期ぐらいまでは多くの少女が「大きくなったらお嫁さんになりたい」等と思った時代もありましたし、ここは現代社会でも「結婚願望」のような課題の心理学的テーマのひとつにも繋がっています。

この「幼児の妄想としてデフォルメされた現実認知と反抗期の不全(後述します)により構造化された深層心理のイメージ」を「神格化」と呼んでいるんです。
「化」ですから、一定の固定概念として構造化(容易に覆る事の無い与件化)されている事を意味しています。

これが破綻するのが、一般に言われる第一次反抗期です。
男の子が自分の母親を「オバサン」等と呼んだりするのは、女優さんやら友達の母親やら、綺麗なお姉さん認識して、「母親が世界で一番美人」のような深層心理とのギャップから始まる反抗なのです。
思春期の女の子が父親の入浴後のお風呂を「汚い」等と表現するのが社会的な流行であるかのようになったのも、「お父さんのお嫁さんになりたい」なんて深層心理と、実際の父親の容姿やタレントの男性や友達のお兄さん等との比較から、、、

わかりますか、
思春期の反抗期は、そもそも新しい現実認知と自分自身の潜在意識(現実との乖離)とのギャップから始まるんです。
「違うじゃん!」
何とは言う事無しに(自分の潜在意識は無意識領域で認知されませんから)不平不満があるので、

あるので

「反抗期」と呼ぶんです。

そして

これは人間の自我の発達過程で不可避なんです。

当然その期間や課程は個人差がありますから、「明快な反抗期のある人」から「幅の広い期間で、内省的に(文学や演劇の感動等)進行したり」それは様々ですが、
大きな枠組みには違いが無いのです。

その後の人間関係は男の子が「オヤジ」と呼び捨てにしたり「ママ」が「お母さん」になったり等(呼称自体には意味ありませんが少なくとも日本の昭和の時代にはそれほど西洋化していませんでしたから男の子が30過ぎて「パパ」とは呼びませんでした、当然西洋化の過程で欧米同様現在では男性30代の「パパ」もアリと言えばアリですが)、階級の認識が修正されます。

何故なら「人間は平等だから」です。
有権者として、成人すれば自分の一票も親の一票も同じ一票です。
日本にとって重大な法案であっても、そこに対する影響力は社会的に全く同格になります。
「親は親自分は自分」当然キャリアの差で親が今優れている部分があったにしても「まだ将来が未知数であるから故に(ここには若い頃特有の誇張が残る)」、負けないぐらい僕にも、私にもやれる的認知を持って、各人の考える広義の性的モチベーションを自由に開花させようと考えます。

自分なりの職業選択があったり、
自分なりの友人関係があったり、
親と違う見解を別段特別と思わなかったり。

「やりたい事がみつからない」のじゃないんです
HPのテキスト参照 )
自然に「○○がやりたいな」と動機形成が行われるようになるんです。

>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。

この話と

>独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり」

この話や

>つめ噛みや指しゃぶりがやめられない。

この証言や

>高校生から大学生まで、家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたりして、両親とけんかになったことがあります。高校生のころには、一度ガラス製の扉を足で叩き割ったことがあります。
 ↓
>頭をたたくようになったのはそのころからのような気がします。

ロジカルな反抗が強迫性で動機形成されず、潜在意識の権威性の破綻が衝動的に起きた結果反抗期的自我の現実認知修正が、極端な行動(幼児のかんしゃくとほとんど同じ)の衝動的発散に依存するようになり、修正が行われずに、強迫性と自意識の抑圧が構造化している。

ここから類推されることは、反抗期のロジカルな動機形成すら行われていない事から、その時既に潜在意識の親の権威性は(動機形成を許さないぐらい)強迫的認知であった事は明白で、同様にそれを雛型とする社会に対する認知も現実との乖離を残すため
 ↓
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。

■自然に「○○がやりたいな」と動機形成が行われる自立的な構造が自意識として保てない状況にある。

事になるんです、

ここまでを前提に話を進めます。
893 えーとですね整理してもう一度説明しますね(2) kagewari 2008/01/10 00:03
>この場合の反抗期とは、誰(何)に対する反抗ですか。私とkagewariさんの反抗期に対する定義が違うみたいなので、何について答えたらいいのかわからないのですが。

反抗期の定義は個人で自由に選択できるものじゃありません。
心理学的に定義されているもので、
それは「深層心理の親を雛型とする幼児特有のデフォルメされたイメージ」が”投影されるもの”で、
元ネタが両親である場合が圧倒的多数なので(19世紀の東欧の一部の孤児じゃない限り)、同一人物との連想性から”親”や権威の象徴と誤解される”教師”や、暴走行為にみられる「漠然とした社会」等の形を取りますが、その原型が親である事が大半なので、背景であったり関連性であったりほぼ100%親に対する意識が関連します。

そもそもフロイドの「エディプスコンプレックス(親に対する性的対立に関連する様々の複合意識)」の発見が精神分析だけに留まらず、現代の学術的な全ての心理学の基礎とも言えるものなので、
これはメンタルな問題の心理学的アプローチでも大学における文系においても世界的な認識です。

>あと同じ“きっかけ”と限定してしまうと誰にでもは起こらないと思います。

きっかけは、思春期の場合生理的なものであって、人類普遍的に起きます。女性で言えば初潮であり、男性であれば最初の射精(或いは勃起)です。
これが起きなければ重大な生理的な成長障害です。

この性的能力の獲得と、発見により自己の大人としての価値や権利というものを認識し、潜在意識の認知の修正(男性であれば仕事等社会的な進出を考え、女性であればメイクやお洒落に関心を持ち始める等→現代では社会的進出も含む)が行われるのです。
「子供としての評価」は「大人としての社会的評価」の前に意味を半減していきます。
つまり社会的活動への動機形成が強まる。

「デパート連れていって」「ディズニーランドに連れていって」「ドライブ行きたい」なる動機形成が→「バイトがしたい」「彼女と映画に行きたい」「車の免許が欲しい」に変わり始める。

『自然に「○○がやりたいな」と動機形成が行われるようになる』んです。

ここにそんな反抗期的な現実認知の修正(これは必然です)を阻害する強迫性が介在すると、逆に強迫認知がロジカルに構造化する過程となり(抑圧され衝動的にしか表面化しない欲求がストレス化してしまうので、当事者である自我は『何らかの合理化』を行わなければ自我そのものが破綻する)、自意識が結果として共犯者となる形で、強迫性に都合のいいステレオタイプな道徳や、被害者認知(不快構造の理由を外部化)を構築してしまい、自立的な修正ができなくなってしまうんです。

>私の場合きっかけをひとつにしぼれといわれるとはっきりとは思い出せないのですが、学校の教師(ひとくくりにしてではなく特定の)やクラスの同世代の集団主義、男性の女性への差別(ジェンダー)には強く反抗した時期があります。

>学校の教師(ひとくくりにしてではなく特定の)や
父親の権威性の投影
>同世代の集団主義
共同幻想的な”女性社会”への嫌悪(背景に適応者である母親)
>男性の女性への差別(ジェンダー)
性的倫理性の嫌悪(自分が性的当該者:或いは参加者であるとの現実認知の抑圧構造の反動形成)

これらが強く親以外に発現している構造はですね
 ↓
>高校生から大学生まで、家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたり

親に面と向かって「それは違うのじゃないか」的なロジカルな反抗が脅迫的に抑え付けられえ、衝動的に外部に発現→「大声をあげたり、足をふみならしたり(本来親を対象にした明快な反抗であるのが自然)」したよううに、
教師を含めて、外部の社会への嫌悪感に投影されている。
同時にこれは、強迫構造特有の「特権階級意識(神格化された家庭に自分が所属しているため)」がベースにあります。
※自分の認知に対する自信の無さからくる疑問(それを保管するために勉強する等)や、論証が介在していない。極端に言えば正当性に関わる信頼が絶対である(「誰にでもある若い人特有の感情で特別な事ではない」のような事実関係と乖離した認知)。


>「若い人特有の無茶」はそのときは一時的に自信を獲得できるかもしれませんが、それより成長したりそこを脱するチャンスに直面したときに、「恥」にしかならないのではないでしょうか。

それは当然です、
若いからこそ「特別に成功するのじゃないか」的なデフォルメを残ししていまい、当然社会の壁に突き当たります。
その社会の壁に対して「どうしたら少しでも成功に近づけるのか」と努力し、人は大人になります。
この過程には”反抗は介在しない(単なる現実の読み違えや経験からくる甘い考えなので)”ため(自立的に反省として反抗の必要無く能動的に修正される)、これを反抗期とは呼びません。

それが自然現象として誰にでも行われる事だからです。

そして、これは「若い人特有の無茶(読み違えや甘い考え→昔はこれを『夢』と呼びました)」が無いことには、壁にもぶち当たらない。
反省する機会が無く、甘い考えを修正する反省のチャンスを失ってしまいます。

そつ無く社会的にオンザレールで育ち特に壁も無く試験だけで特権階級的な職場(キャリア官僚等)に就職する現場の人事担当者の話に「ほんとに全体の25%ぐらいが人格に問題があると言ってもいい状況で本気で困っている」なる現場の声が実際にあるのは、それが原因です。

「恥じをかいて初めて、本当にどうするべきかを学ぶ」んです。
それを身をもって体験していなければ、そもそもそれがどれほどの恥であるのか現実感覚を保持できない(頭でわかっているだけになる)のです。
当然その「恥」の機会は、それぞれ個人的に違ってきますから、そこから何を学んだのかによって、人格形成も多様になります。

昭和の時代には、容易に海外等に行く事はなかったですが、現代社会は違います。現代における個々人の多様化は、恥の多様化でもあると言えます。
人は失敗に学びます。
プロ野球の世界において、天才バッターが天才ピッチャーを育てるのは常識ですよ(そしてその反対も)。
ホームラン打たれて、もっといい球を投げたいと思い。
無様な三振して、どうやったらあの球が打てるのかとバットを振ります。


>かえって自立の足かせになる、というか。それが理解できなければ、年だけとって経験がそれに追いつかないという感じになってしまいますし、うすうす気づいていても、自分の過去を派手にやってしまった以上もうなかったことにできないから、何かそういった行為を美化するという形で現実の認識もゆがめてしまう(目をそらしたり、ある種のことに過剰に抵抗をもつなど)ことにつながるようになる気がします。

それが理解できないのは、反省を糧とする人格構造が無いからです。
それを単なる「侮辱」であったり「汚辱」と感じることが、その前提になりますが、これは「強迫構造特有の特権階級意識」が無いことには発生しないんです。
ナチュラルな自我は、人間は平等である事をファンダメンタルにしますから、恥は全て努力で克服可能な事かもしれない「ノリシロ」だからです。

立ち直れないぐらいに、そこでその恥がトラウマになるためには、「最初から恥等かくはずがない」かのようなデフォルメ(特権階級意識)が介在しない限りその現象を論理的に説明する事は不可能です。
誰がどうでんぐり返しても自分の若さは経験という点で「ハンデ」なのですからね。合理的に考えればそこは経験によって埋められるものですから、月さんも「経験がそれに追いつかない」と言及されていますがそのとおりです。
解決の方法は実に容易ですよね、経験を積めばいいのです。
つまり、その恥を「経験が足りない証拠である」と認知できれば何ら問題ありません。

つまり
 ↓
>何かそういった行為を美化するという形で現実の認識もゆがめてしまう
これは現実認知そのものが歪んでいる(単に経験の問題を、過剰な特権階級意識との相対関係で現実離れした被害感認知を持っている)証明で、強迫構造の介在なしに在り得ない発想です。

事実関係は「経験が無いだけ」と実に単純明快なものですから、余計です。

>周りを見ていても、その時期のことをひきずっている痛い大人を時々見かけますし。

これは全部が全部そうじゃありません。
昔の失敗を引き摺るように見えて、実際「教訓として大事にしている」側面もあるのであり、
こういう話を時に人は得意げに話す場合もあります。
病気自慢じゃないですが、悲劇的認知は一種の快感でもあるので(悲劇のヒーロー・ヒロイン)若干自己愛的な憐憫感情等があると(愚痴同様に)殊更それを誇大に話す事例もありますが、実際は内心「ケロッとしている」場合も多いです。

私も42年生きていますが、
失礼ですが、そういう人物を頻繁に見かけた事はありません。
非常に多数の方と接していますので、それこそ「経験的判断として」その実数的確度も月さんより合理的判断であると思いますが、いかがですか。

>神格化という程のものではないようにも思います。
 ↑
ここは前段で十分説明してますから個別の説明は省略しますね。

>超えられない、というのは私と両親とのバランスの問題で、両親が神とは思わないですが、私の力量では無理という感じなのです。

人間は平等です。

特別に誰かが優れている等と言う現象はありません。
何かの努力をするにも”モチベーション”や”興味”があっての「動機形成」によって実現しています。
楽譜が読めるや語学等、ロジカルな部分でのスキルの差はありますが、「音楽家は大工より偉い」とか「ロシア語を話すので、ロシア人はアメリカ人より偉い」等の現実も存在しません。
「マルチランゲージな人は根本的に能力者なので、政治家は全員マルチランゲージなのが常識だ」なんて事もありません。

会社や軍隊には階級がありますが、これも専ら分業としての部分もありますし、そもそも仕事にモチベーションの発揮が無いだけで、部下だが、趣味の世界ではより高い才能を発揮している等、人間には個々に尊厳があり、これを憲法が保障しているものです。

所詮人間のする事です。
多民族から見れば「社長だから偉い」と説明されても口ポッカんですよ。それはその社会だけで通用する極めて小世界のヒエラルキーです。
人間の社会には便宜的にヒエラルキー(階層性)やクラス(階級)がありますが、それはその社会だけの方便です。

「仕事や階級はともかく、あなたはどんな人(パーソナリティ)ですか?」な質問の答えは、普遍的に平等だからです。
そこに優れているとか劣っているとかの評価が介在する余地がありませんので。

>私の力量では無理

この言葉は完全に論理矛盾です。
何が無理なんでしょうか?
そもそもパーソナリティーが違うんですから、人生に関わるモチベーションの置き所が違う筈で、
何か同じ案件の競争をしているのじゃ無いですよ?
別々の人生ですから、そこに優劣も何もありません。

この漠然とした「絶対評価(相対化されていない:論議の余地が無い)」のためには与件化が必要なんです。
この与件化が神格化(タブー・神聖なので論議していはいけない・評価の相対化ではなく絶対化)に関連していると説明しているんです。

>第三者からみてもすごいですよー。うちの親は。

私は第三者です。

強迫神経的な人格構造のリスクを家庭内で結果として管理できなかった点から、「家族運営者失格」であると明快に言い切れます。
彼らは親としての結果責任を果たせなかった事は明白です。
しかし、親もひとつの社会的属性に過ぎませんから、彼らが親として失格であっても何ら彼ら個人個人の評価とは別物なのです。
彼らの個人的な人生への関わりには、公式的に語られてない事情もある筈です。
同時に、家庭内の強迫性は自ずと構成要件である両親の幼児期にも何らかの強迫的介在を証明しますから、評価とはいい悪い的発想ではなく彼らの個人的な歴史をドキュメンタリー的視点で見ていく事を指します。

そして、家庭内で暴れたり大声をだしたり。
間違い無く月さんの抑圧された感情の中に、両親に対する強い反動的興奮がある事も(抑圧されているので自意識で自覚できない)、これ事実なのですから。

>しいて無理やり探せば、私のほうが学歴が高いことと経験が豊富ということでしょうか。両親は恵まれているので嫌な目にあったりしたことが少なく、明るさがあるのです。なので人や社会の暗部への感性は私のほうがあると思います。

ここのお話はあまりにも具体性が無いので、コメントのしようがありません。具体的な事例で説明していただけないでしょうか。
「恵まれているので嫌な目にあったりしたことが少なく、明るさがある」見方を帰れば「世間知らずのお調子者で現実感覚に欠ける夢想者」にも受け取れますが。


>寝起きが悪くてつらい

精神的な悩みがあると、熟睡できません。
理由は簡単です、「昼の名残」と呼んだりしますが、本来なら動機形成され代謝している筈の欲求が潜在化し蓄積されていますから(時折衝動的に破綻する)、「今日やるべき事をやらないまま寝ている」のに近い状態です。
対処的には、軽く運動する(腹筋腕立て等)等寝る前に代償満足であってもモチベーションを代謝させる事で幾分眠りは深くなります。
907 とりあえず、話が整理できたところから返信します。 月のたまご 2008/01/20 12:03
 丁寧な説明ありがとうございました。

 > きっかけは、思春期の場合生理的なものであって、人類普遍的に起きます。女性で言えば初潮であり、男性であれば最初の射精(或いは勃起)です。
> これが起きなければ重大な生理的な成長障害です。
>
> この性的能力の獲得と、発見により自己の大人としての価値や権利というものを認識し、潜在意識の認知の修正(男性であれば仕事等社会的な進出を考え、女性であればメイクやお洒落に関心を持ち始める等→現代では社会的進出も含む)が行われるのです。
> 「子供としての評価」は「大人としての社会的評価」の前に意味を半減していきます。
> つまり社会的活動への動機形成が強まる。

 私は身体的な成長は、平均的なペースで起こっています。
 が、後半の潜在意識の認識の修正という箇所は少し違うかもしれません。
身体的な発育もそうですが、何に興味をもつかという価値観の部分は個人差が
大きいように思います。

 うちの母は、「勉強しなさい。」としつこく言ったりとか素行を注意したりは
しない親でしたが、服装のことはすごくこだわるタイプでした。
といっても、「スカートを短くしちゃダメ」とか髪の色とかを注意するわけではなく、自分のセンスに自信があるから、私の選んでくる服やいろいろな行事に
着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)
私は人と同じでいいかな、という感じの無難で地味目の趣味なので、そこは親と
子どもが逆転している感じでした。

> >私の場合きっかけをひとつにしぼれといわれるとはっきりとは思い出せないのですが、学校の教師(ひとくくりにしてではなく特定の)やクラスの同世代の集団主義、男性の女性への差別(ジェンダー)には強く反抗した時期があります。
>
> >学校の教師(ひとくくりにしてではなく特定の)や
> 父親の権威性の投影

 なぜ、特定の教師にだけ父親の権威性を投影するのでしょうか。
 私は比較的教師のことは好きなほうで、ほかの先生にはそれほど反発していませんでした。

> >同世代の集団主義
> 共同幻想的な”女性社会”への嫌悪(背景に適応者である母親)

 同世代の集団主義というのは、私の学校の場合おもに男子生徒率いる集団の
圧力です。
 女子とはおおむねうまくいっていて、いわゆる女の子社会は肌に合うほうです。(女社会と合わないとか苦手意識を持ってしまう人も少なからずいます。)学校も両親は共学をすすめていましたが、私が強く女子校を希望して女子校
に行ったくらいです。

> >男性の女性への差別(ジェンダー)
> 性的倫理性の嫌悪(自分が性的当該者:或いは参加者であるとの現実認知の抑圧構造の反動形成)

 ジェンダーへの興味は、学校に行ったり社会に出ている現代女性の場合別に
強くフェミニストです、と名乗らなくても通過儀礼というか、全くそういう過程を経ずに疑問を持たずに大人になっていく人はあまりいないと思います。
 いろいろな人と話している感じでは、女性の場合、ステレオタイプな反抗期よりもこちらの方が強く印象に残っているという人が多いように見えます。
だから女同士のつきあいは大人になっても、結婚しても、元気の源になるわけです。  

> 強迫神経的な人格構造のリスクを家庭内で結果として管理できなかった点から、「家族運営者失格」であると明快に言い切れます。
> 彼らは親としての結果責任を果たせなかった事は明白です。
> しかし、親もひとつの社会的属性に過ぎませんから、彼らが親として失格であっても何ら彼ら個人個人の評価とは別物なのです。
> 彼らの個人的な人生への関わりには、公式的に語られてない事情もある筈です。
> 同時に、家庭内の強迫性は自ずと構成要件である両親の幼児期にも何らかの強迫的介在を証明しますから、評価とはいい悪い的発想ではなく彼らの個人的な歴史をドキュメンタリー的視点で見ていく事を指します。
>
> そして、家庭内で暴れたり大声をだしたり。
> 間違い無く月さんの抑圧された感情の中に、両親に対する強い反動的興奮がある事も(抑圧されているので自意識で自覚できない)、これ事実なのですから。

 両親のことをいろいろ言われるのはつらいですね。
 「彼らの個人的な人生への関わりは〜」以降の部分は私も子どものころから
感じていて、それゆえ「神格化」という言葉を否定してきたし、今もはたからみれば両親が完璧に見えないなんてことはわかっています。
 ただ、私にとっては特別な人たちで、今の両親が今の両親の生き方をしているのが私にはなんとなくですが、理解できるのです。 
 
909 完結に説明していくと kagewari 2008/01/21 06:39
>身体的な発育もそうですが、何に興味をもつかという価値観の部分は個人差が大きいように思います。

その個人差の部分には何ら意味が無いんのです、
100人いれば100通りある、
意味合いがあるのはその全てが、家庭を中心にした誇大意識からテイクオフし、現実世界への(親からの子供に対する評価から社会的個人に対する評価へ)個人的興味へシフトするって原則の部分です。
反抗期が正常に完遂されないと、意識は内向化します。
理由は簡単です、事実関係として既に自分は大人ですから、自分が子供属性として通用する世界は「過去(記憶)」の中だけだからです。
それは自己の内面にしか存在しません。
こうなると「なにをしたらいいのかわからず困ったりするんです」(外向きの動機形成が内向化で阻害される)

>なぜ、特定の教師にだけ父親の権威性を投影するのでしょうか。
>私は比較的教師のことは好きなほうで、ほかの先生にはそれほど反発していませんでした。
その特定の教師が、何らかの連想性を持っていたからです。
そして、それが教師全般でなく、特定教師である事が「エディプス投影(個人)」の介在証明です。

人の脳は全て関連付けにより、記憶を整理しています。
これは脳性理学の話です、
画像認知も同じ、
複数の図形にバラして記憶し、認知する時に脳は再構成しています。
つまり、関連付け(フラグ立て)というのが、物事を認知する『鍵』となります。

「かつどん」がご馳走フォルダに分類される事もある、
「かつどん」がジャンクフードフォルダに分類される事もある、
重要なのは、「かつどん」がご馳走である時、そのフォルダには同じご馳走を意味する連想が成立している事です。
「かつどんご馳走認識」の成立のためには、その正当性を認定する「これもそうだね」が並んでいるんです。

”権威者フォルダ”その特徴は?
その象徴キーを探しても→「その個人差の部分には何ら意味が無いんのです」と同じです。
脳の認識ってものは”そういうもの”なのですから、
エディプス的な要素が残る以上、それはどこかで、なんらかの方法で投影されます。
場合によると「現実世界に追い求めます」
理由は簡単です、
エディプス的な神格化イメージは既に過去(自己の内面)でしか通用しなものですが、今現在でも自意識が拘束されていいるんです。
それが今現在存在している体感上の興奮を常に自意識は「ストレス信号」によって感じます。
それが幻想であると認識するロジックが無い以上(あれば両親の神格化は幻想であるとの認知で反抗期を発動し解決されます)、その姿を現実世界に強迫の元凶の如く探してしまう事も起きるんです。
何かのきっかけで特定個人に投影されたりする事は頻繁に発生します。
投影的連想があると、その度に起きる事もあります。
実際に様々な勤務先の”上司”と常に同じタイプの揉め事が発生する事例もあります。


>同世代の集団主義というのは、私の学校の場合おもに男子生徒率いる集団の圧力です。
どちらでも同じ意味なんです、
「男性社会の”女性社会”に対する」だからです
 ↓(月さんの言葉をそのままコピペすると)
>クラスの同世代の集団主義、男性の女性への差別(ジェンダー)には強く反抗した時期があります。
私が言いたかった事は”性差そのものを意識”しているって事です。
その関連に具体性は”わからないが”母親が深層心理で関係しているとの関係性です。
 ↓(以下と関連)
>うちの母は・・・着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)
それが男性社会からでるとか、女性社会からであるとか方向はどちらでもいい話ですし。
しかしココ→「共同幻想的な”女性社会”への嫌悪(背景に適応者である母親)」には修正が必要ですね
 ↓
「共同幻想的な男性社会から”女性社会”への嫌悪(背景に適応者である母親)」
極端な認知の背景に両親の幼児期特有の誇張イメージ(誇張しているのは幼児である月さんで、両親がやっているじゃありませんよ、両親は誇張のきっかけとなる材料を提供してしまっているだけです。神格化は幼児が自分でする事ですから)が関連しているって事が本質的な意味なので、

この説話は論旨と結論を上記の現象が繋ぐところが重要で
改めてそこを抜き出すと
論旨「自意識が結果として共犯者となる形で、強迫性に都合のいいステレオタイプな道徳や、被害者認知(不快構造の理由を外部化)を構築してしまい、自立的な修正ができなくなってしまう」
結論「これらが強く親以外(本来なら両親に対する反抗期として発現)に発現している構造はですね→高校生から大学生まで、家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたり(家庭内だが微妙に反抗する対象が大声やガラス窓等に逸れている)」→「本来向かうべき反抗期が正常に行われないため、投影される対象(実際は無関係)を相手に解決の糸口もなくズルズルとその傾向が継続している(29歳となってもなにをしたらいいのかわからず)」

と、両親のエディプス的な介在の論証として、
「特定個人の教師(父親の場合性的象徴として個人化しやすい)」「女性の性に対する認知(母親の場合同一化傾向で女性社会として認知されやすい)→”女子校”」
等、投影されたり移転したりしてストレスは発現しつつも、家庭内で「大声をあげたり、足をふみならしたり」の情緒的爆発に始まり、現在までその傾向が(微妙に投影対象をズラしながら)継続している。=「背景となるエディプス的認知が現在も継続している」事を示しているんです。

簡単に言えば「家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたり」「原因不明の心身の不調が続いています。小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分が大学進学、結婚、就職を経てもまだ続いており、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています」な状況は、典型的な自意識の抑圧下(=強迫)で起きる現象で、
その原型は「第三者からみてもすごいですよー。うちの親は。」の言葉で象徴される親の神格化(聖域化)に他ならない。

しかも「第三者からみてもすごいですよー。うちの親は。」の認知が、本質的な敬意であれば「家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたり」「高校生のころには、一度ガラス製の扉を足で叩き割ったことがあります」等起きないからですよ。
尊敬する人物を理由も無く困らせる情緒不安定な人間って事になりますね。

では、その情緒不安定な原因は?
そもそも月さん本人がここを語っています。
>自分では、反抗心が強いもしくは、10代のころの気持ちがまだ続いているのかと思っていました。

通常反抗期と言えば一般論でさえ対象者は”親”が含まれる個人の社会化現象ですが、
月さんの心理学では「若い人は”10代のころの気持ち”のような説明のつかない感情の乱れが起きるもので、ここに親はほとんど関係しない」となっていて、又私の説明する心理学的な反抗期等の論議は「単にステレオタイプな反抗期なるもの程度の話」であり「むしろ少数の論議で、説明された心理学などたいして根拠のあるものとは思えない」という事になり、
同時に「通過儀礼というか、全くそういう過程を経ずに疑問を持たずに大人になっていく人はあまりいないのだから→女同士のつきあいは大人になっても、結婚しても、元気の源になるわけです。のようにプロセスではなく勝手に年齢的社会化の課程で人は大人になるもの」であり、そんな月さんの心理学的人物の方がむしろ私の説明より「数も多い」と語られます。
※普遍的に説明できない以上、多い少ない的な論議では心理学とは言え無いのですが話をわかりやすくする上でそう表現してみました。

私は反抗期のプロセスと、発現と収束の普遍的な説明をしたのです、
そこと月さんのケースの乖離の中に原因があることになりますからね。
収束しない原因、
そして未だに「超えられない壁」と認知され「反対を押し切っても結婚」を選択した動機形成の背景、

私の説明に対する強い抵抗と批判(ここは月さんの個別の論議だけでなく、心理学の理論的根拠にまで及んでいます)。
その内容にも特徴があるんです。
ここまで継続しているやりとりのパターンは「私が説明し、月さんが反論する」ですね、
必ず何か「それはそうかもしれないが、私は承服できないむしろこうでしょう」のパターンです、

話は簡単なんですよ、

「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています」この答えは?
■とても不思議な事なんですよ、私の論旨に反論するその論旨で答えをみつけられる筈なんです。
ところがそうはならない、
この心理は何でしょう。
私の説明が揺ぎ無く真実であるとかって私が強弁しているワケでは無いのです(関係者じゃないのでその動機もありません)。
無料掲示板って事もあって、有料相談と違い両親の人物像等(無料掲示板で公開するとプライバシーの保護の限界超えますから)事実関係の聞き取りを私もしていないので、私の説明も全体的な構造部分であって具体論には及んでません(無料掲示板の論議は有料メール相談の「構成1」をベースに考えて公開を原則に無料化しているものです→有料相談の場合ここで両親の人物像を含めたかなり網羅的な子個人的な事実関係を私が聞き取りする過程が間に入ります)。具体的に「何がこう関連している」的には私も言及していませんから、

話を単純化してみましょう。
例えば、思い切って私の説明が「根拠不明なインチキである」と仮定してみましょう。
反論する必要性が無いですよね?
月さんが「ダメだこりゃ」と思ったところで終わりです。
じゃ反論する必然性は?
私の説明が何かの何かを踏んでいて、
その状況から何かを守らなくちゃいけない事情がある事になります。
 ↓
>両親のことをいろいろ言われるのはつらいですね。

明快ですよ。
私がコメントをつけるより
月さんの言葉で語られている断片を並べる方が抵抗が少ないでしょう

>(彼らの個人的な人生への関わりには・・・)私も子どものころから感じていて、それゆえ「神格化」という言葉を否定してきたし
 ↓
>両親はとてもバランスがとれていてすごかった
>両親が神とは思わないですが、私の力量では無理という感じなのです
>乗り越えられないと思っているのです。
>第三者からみてもすごいですよー。うちの親は。
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもない
>どうやっても、なかなか超えられそうなところがないですね。
 ↓
>両親は私のことを、反抗的な子供だったといっています。
>「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえない
>高校生から大学生まで、家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたりして、両親とけんかになったことがあります。高校生のころには、一度ガラス製の扉を足で叩き割ったことがあります。”頭をたたくようになったのはそのころから”のような気がします。
 ↓(直後に「話の流れと違うことを書いてしまって」と訂正)
>その反発やくすぶっている部分が家族に対してではないという場合も考えられませんか。
>この場合の反抗期とは、誰(何)に対する反抗ですか。
 ↓
>むしろ子どものころは私のほうが親に対して懐疑的で、ダメだなと思うところがたくさんありました・・・私が嘘をついている、嫉妬をしているかのように思われてしまったから自然に外では親のことを批判できなくなってしまった
>私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました。

あえて何もコメントをつけないことにします。


■と、ここで一段落させるとしましょう。
こういう流れのやりとりが1年以上続くことも決して珍しいことではないんです、
そもそも相談のテーマが「反抗期を巡る心理学的検証」では無いんですからね。
極論月さんが心理学そのものに疑念を持っていても大きな問題じゃありません。
各論を詰めれば詰めるほど「心理学のへの反論」と「心理学そのものの説明」になってしまいます


■そこで今回の話全体に及ぶ背景に論点を移してみましょう
全てを原点に戻して考えてみるなら
>主人に心配されて、カウンセリングに行ったり、心療内科に行き薬をもらったりしながら暮らしているのですがどうもすっきりしません。とりとめもない話ですが何かアドバイスいただけたらと思います。

に始まり

私のレスに対して

>私が書いたとりとめもないことをまとめてくださってありがとうございます。
 ↓
以降私のレスに対する反論が継続し、
おそらく月さんの認識に私がコミットできた部分は、
ここだけ
 ↓
「とりとめもないことを」私が「まとめた」


ここで月さんは「とりとめのないこと」に対しての「何かアドバイスの」レスを求めていて、
「まとめるかたちで、答えを求めているのじゃない」心理が背景にあるという事です。
無意識に、「とりとめがない故に、アドバイスも(余計な事まで言わない範囲の)スケールだろう」な予防線が引かれている。
>カウンセリングに行ってみたこともあるのですがきわめて普通にみえるそうで、外でも「悩みがなさそう」といわれるタイプなのです。
(外観)
 ↓
>周囲がたまごちゃんのお母さんっていいよねえ、
(類似:批判に対する予防線)
>子どものころから変わっているといわれることが多くて、他の人と意見があわないので誤解されることが多いのですが、
(本質)
 ↓
>むしろ子どものころは私のほうが親に対して懐疑的で、ダメだなと思うところがたくさんありました
(彼らの本質)
私は一番最初の相談の文章を一読した瞬間から「とりとめのない文章」とは思いませんでした、
ですからそれを「まとめた」意識も無いんです。
ただ一点「何かアドバイスいただけたら」という言葉がひっかかったんですよ。
「何かアドバイス」って表現されているものは何だろう?と、
しかもその前文に「カウンセリングに行ったり、心療内科に行き薬をもらったりしながら暮らしているのですがどうもすっきりしません」と、不満として残っているのは「どうもすっきりしません」という部分で、それ以外は概ね(通院等で)対処できているとも言えます。

ここをデ・コードすると
「どうもすっきりしない部分に”何か”アドバイスを」
私の第1稿のレスのポイントは、「何かって言われても、問題は話し全体に及んでいて、それは全て月さんによって語られている(私はとりとめないと思わなかった)」です。
私はそれを一つの流れに”並び変えるだけ”でよかった、
>小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分
「誰にでもあるような」
この言葉で守られている主体が鍵であることは読んだ瞬間わかりました、
同時にそれが両親に代表される家庭の記憶であり、
「誰にでもあるような」という言葉を「反抗期等と呼べるようなものじゃない感情的な興奮」に置き換えるだけで、全ての話は単純に繋がる。
しかしその文章は月さんの言葉で「とりとめのないことをまとめる」と表現された、
何故月さんの認識ではとりとめなのい話に認識されるのか?
それは
「誰にでもあるような」という言葉でマスキングされる事で、月さんの心理ではそれが無意識に「とりとめのない話」になっているでしょう。
この第1稿で、私には暗にその原因は「反抗期が反抗期になってない事(背景に両親)」がわかりましたから(むしろ特移点として強調されているようにすら読めました)、あからさまに表現すると確実に抵抗がおきるのは十分予測されます。
ですから私は、反抗期を議題にする事でルートの迂回を行い
「それが何なのかを”今の大人の年齢の感覚で”考えていけば悩みのフェーズは代わります。」
とレスを締めくくりました。

「どうもすっきりしない部分に”何か”アドバイスを」
の言葉を私なりに解釈した”何か”は、
「それが何なのかを”今の大人の年齢の感覚で”考えていくこと」に留めた(両親という言葉を使用しなかった)事です。
「大人の年齢の感覚」即ち「両親を両親という属性ではなく(自分の属性は自動的に子供)、自分と同じ平等な立場の赤の他人と同格に見る視点」の事です。
のように、私はあからさまに両親の介在を第1稿では説明していませんが、
月さんが真っ先に取り上げたのは
 ↓
>それ(謎の”誰にでもある不安定で攻撃的なな気分”)が長く続くということはありえないのでしょうか。
「小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分」
として語られる「誰にでもあるような」の定義を守る事だった。


現在の月さんの心理は
>今もはたからみれば両親が完璧に見えないなんてことはわかっています。
>私にとっては特別な人たちで、今の両親が今の両親の生き方をしているのが私にはなんとなくですが、理解できるのです。



>家庭内で大声をあげたり、足をふみならしたり」「高校生のころには、一度ガラス製の扉を足で叩き割ったことがあります」
>「不安定で攻撃的な気分が大学進学、結婚、就職を経てもまだ続いており、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています」

との間で、
今でも「そのトレードオフの世界で揺れている」って事です。
ここに何らかの自己決定が行われない限り「なにをしたらいいのかわからず」の部分は解決しない。
大きなフレームの選択が先送りされているからです。

◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆

>むしろ子どものころは私のほうが親に対して懐疑的で、ダメだなと思うところがたくさんありましたけれども、周囲がたまごちゃんのお母さんっていいよねえ、という感じで私が嘘をついている、嫉妬をしているかのように思われてしまったから自然に外では親のことを批判できなくなってしまったという感じで。

嘘じゃないですよ、
おっしゃるとうりだと思います。
911 ごめんなさい。 月のたまご 2008/01/22 11:32
 いつのまにか、たくさん反論していたみたいでごめんなさい。これからは、反論なしでいきます。

 質問なのですが、
反抗期がないと何か困ることがありますか?

反抗期がないのは珍しいことですか?

これから経験することはできますか?

親の神格化はどうすればやめることができますか。



912 それを意識するぐらいでんですよっ kagewari 2008/01/23 00:31
質問や事実関係の確認等、ここは平場の論議で平等な関係性の中で話を進めて意味があるのであって、これがまた私の立ち位置が権威性的な移転に繋がってもいけませんからね。
もうっちょっと外廓の部分から説明してみましょう、
これは精神分析的なアプローチ全般に言える事なんですが、私のHPのトップをご覧になってください。
思いきり初っ端に「「掲示板での相談・メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れますが、それは精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。」と記載があります。

強迫構造があり、自意識は抑圧され、そこには何らかの正当性(主に道徳意識的が利用されます)が付与されて自我構造化しているのですから、その構造にアプローチすれば自我防衛(自意識が自意識共犯の形で自身の悩みの原因足る”強迫構造”を守るスタンスになる)は必ず起きるんです。
これ喩えは何が何なんですが、、、
874、876スレッドで起きた論議もこれ抵抗です(「話す前から防衛だ」のような現象です)、
何も関係無いサイトにワザワザ労力使って誹謗中傷書く動機が無いですよね?
なこんなで、これは必ず起きます。他のスレット等も参考に読んでみてください、このような抵抗意識がある一定の水準で流れている事を第三者の視点で確認できます(強迫構造って自分や自分が感情移入する対象にしか起きないんです)。

「そういう事があるんだ」と、意識するぐらいでいんですよっ
私の方は相談がある時には常時この抵抗に(依頼している人の抑圧されれた”自意識”の代理人として)対峙しているワケで、そういう世界で数えられない年月過ごしてきましたから、
対抗ロジックの構築にはそれはそれはへヴィーな状況もありますが、、
これもですね特に公開掲示板上では有意義な事なんです。
やりとりを閲覧している方はとても多数います、読むだけでも自身の悩みに対抗するヒントを提供できる場であったり、有料メールだけの論議に縛りをかけると同じ状況で他の人はどうなんだろうって想像もつきませんよね。
このサイトは『無料掲示板』と『有料相談』と『HP』と『ブログ』とこれらが一体となって機能していますから、無料掲示板上で論議が宴たけなわな状況もあるべき形なんです。

ここも見方で、それだけ(その抵抗が)月さんの自意識は「健在」(な証)なんですよ、
精神的な悩みはつまるところ、自分自身でその構造に気がついて、ここに自身で向き合う事に尽きます。
そして自意識が本気出した時の力ってのは凄いものがあって、180度自分の意見を大転換させる力すら持ちます、
その力をスポイルしちゃいけませんから、
私の話も「今度は何の話ですかー」ぐらいの勢いで聞いていただいていいんですよ。
それが必要な事なんです。


さて、今回の場合「神格化」がかなり強い抵抗になってますから(おそらくかなり意味合いを誤解している筈なので)、ここをもう一度説明してみましょう。
元をただせば「幼児のデフォルメ」です、
「幼児のデフォルメ」とは、子供の頃遊んだ公園が現実より大きく感じる(大人になってから見てその狭さにびっくりするような)ような、認識の誇大性に起因します。
このデフォルメの原因ですが、
以前進化論的な説明した時に若干触れていますが、ヒト科の子供は強い無能力状態を経験します(出産後いきなり立って「いやーまいった」と発現する幼児はいない)、ですから自分の周囲の環境は自分自身の無能力の反動で強い不安感を感じる対象になります。群れで生活しないネコだって、見た事もない新参者が自分のシマに現れれば「シャーっ」て警戒(極端な言動で)するじゃないですか。
それが人間の場合極端だと考えてもらえればいいです、
「普遍的な生存の不安」
ここに対象性をもつ倒立概念として親属性が登場します、
「普遍的な生存の不安を沈静化させる巨大な存在」
常に人類は一義的に両親に相当する(孤児の場合もありますから)権威者を神格化します。
これは本来早期に解消し(夜泣や授乳・排泄関係のコミュニケーション等)、心理学的な意味の幼児特有の反抗期の過程を経過する事で『現実寄りにリサイズ』されます。
しかし、自我論的にはその”手法”を経験しているワケですよ、
「デフォルメ認知の手法」です、
これは大人社会にも生きていて、とっぴょうしもなく個性的な人物が何かの拍子でとんでもない実績や業績を成し遂げてしまう事があると、その集団には社会心理的な不安が環状に広がります。
何故不安になるのかって?
その人物の業績が、自分自身のレーゾンテートルを揺るがせてしまうからです。
速攻で、この不安感に自我は対処しようとします。
「あの人は凄いんだ、自分とは違うんだ、」
 ↓
当然実際の当事者(単に個性的な人)の実像と掛け離れたデフォルメです、

そして「カリスマ」が社会に認定されます。
擬似的な社会心理上の神格化ですよ。

当然家庭も「単に血縁関係者という理由で結成された”他人の寄せ集め”」に過ぎませんから、社会には違いありません。
”親属性”ってだけでも既に権威性含めてエスペシャリー(Especially)なんですから、その人物が何か幼児に理解不能の”わかりにくさ”を表現すると幼児は「すわ、何かまことしかな秘密や崇高な道徳があるのか」と考えガチなんです。
非常にやっかいなのは、それが両親の『強迫行動』である場合です。
ほとんどのケースで、当該する幼児はその親の『強迫構造(実は親自身何らかの不安を抱えている)』が不快です、
それはそうです、何ら幼児には関係の無い話なんですからね。
同時に強迫性でジリジリとしたストレスを感じている本当の当事者は「その両親自身」です。
ところが、ですよ。、
ここで、その幼児がそんな両親の言動を「カリスマ定義したら?」

これが強迫構造の発端となります、
その後この強迫構造は自意識の成長にともなって、様々の理論武装が行われ(自意識共犯による正当性の拡大:そのほんとどが実は根拠の不鮮明な噂や慣習やステレオタイプな道徳)ロジカルに構造化され、強迫構造となります。
実際両親には(強迫行動は彼らも無意識で無自覚だし、人格障害的な認知ならそんな行動をとらなければならない自分に被害感すら感じます)「そんなつもり等一切ありません(彼らにある家庭内における責任とは、自立する大人でないにも関わらず家庭を発足させてしまった精神的な未熟さで、あくまでも”結果責任”)」、
幼児のデフォルメが、強迫性そのものを拡大させてしまうのです。

皮肉な事に「うるさいお前は黙っていろ(実は不安からオドオドして大声を出しているだけ)」な発言をした両親を「きっと理由(ワケ)があるんだ、自分は黙ってなくちゃいけないんだ」と合理化してしまう。
それこそ言い出しっぺの両親の事情を考えるなら、黙っていろと興奮している人物に「どうしたの?何か嫌な事でもあったのかい」的に声をかけてあげるべきシーンでしょう(そんな発言する幼児も滅多にいませんが)、そこでその黙っていろ的行為を正当化する事は、皮肉にも「そのストレスに不快を感じてい両親の人生を毀損する」事になってしまうんですよ。
極論すると「理想に燃えてさぞかし楽しいんでしょう」のように、
 ↓
これですね、社会でカリスマ定義された当事者の立場と同じです
「イチローさん4割打つのは何時ですかっ」
カリスマ当事者としては「いい加減勘弁して欲しい」と思うでしょう。
彼自身よく同様の発言しています(マスコミ嫌いの一因にもなってます)、

反抗期ってものは、とにもかくにもそういう『現実寄りにリサイズ』する過程で、
「あんたおかしいじゃないですか、何やってるんですか」な投げかけをキーにして、自分自信のデフォルメを(現実の裏を取る事で)解体する行為です。
上記の反抗期の表現はあまりにも”ベタ”な場合の話で、
何も両親と取っ組み合いして「大人は嫌いだー」なる典型的な行動が必要なのでは”全くありません”。
むしろ、これは自我のキャラクターの話で、上記のような”ベタ”な反抗期のある人物は→「竹を割ったような爽やかでわかりやすい奴に育つ」みたいな感じです(「お前って単純でいいなぁ」みたいな会話に登場する人物)。

そもそも『現実寄りにリサイズ』するべき対象は「自分自信の中にある」からですよ、

さりげない会話や、自室での物想いや、本でも映画でも刺激なるものがあるじゃないですか、
その結論の”ひとつ”に「そういえばウチの親って、こういう人間なんだろうな」的なデフォルメの解体が含まれているだろうかって事です。
言うなら静かな反抗期もあるのであって、当然その過程に自分自身の自我構造に変化があるのですからなんらかの情緒的な変遷もあると(特定文学に没頭するような形で表現される事もあるでしょう)、
何をもって反抗かって、自分自身にある過剰な両親の正当化に対する自分自身の反抗なんですから。その先に大人としての自立がある、
ですから、
>これから経験することはできますか?
反抗期ってのは何歳でも、いつでも可能です。
あまりに背負った世界が大きすぎる時には(老舗旅館の経営等)、かなり幅の広い認知の修正になりそれが一生続く事だってあります。
現実に答えを探す事って即ち「今の自分の価値意識(ロジック)と格闘する事」なんですからね。
権威的な思考から自立的な思考(自分なりの考え)にフェーズが切り替わるって事です、

>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず

神格化による強迫構造が原因で、自立的に物事を考えたり、現実の中から自分なりの答えをみつける事ができないんですよ。

そして
>反抗期がないと何か困ることがありますか?
それが原因で(自意識は自立し、独自に動機形成して”大人の欲求”を行為化させるのが仕事ですから)、自立的に動機形成が行われずに常に欲求が潜在化し、獏としたストレスとして蓄積し、限界を超えると衝動的に爆発する。
 ↓
>気がつくと、独り言を言ったり、自分の頭を声を上げながら、たたいたりしてしまいます。
>独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり
 ↓
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
何をしたらいいのか思いつくような動機形成が機能していれば獏としたストレスが蓄積される事も無いワケです、

>反抗期がないのは珍しいことですか?
心理的な悩みを抱える事になります、
或いは人格障害的な問題行動の多い人物になったりです。
アダルトチルドレンって言葉もここが始まりですが、簡単に考えればいいのです「反抗期を経過しないと人は大人にならないのです」。
前述のとおり「どんな反抗期だったか」は千差万別ですが、検証として両親を社会人として同列に特別な意識なく捉える事ができるようになる等(そりゃ幾分デフォルメの残滓は残るでしょうが)上下関係から並行的な関係に変遷している事によって確認されます。

そして反抗期を経過していない事が(生理的な成長障害等では無く)、強迫構造の介在である場合、当然普段の行動も(大人になろうとする欲求を抑圧しているんですから)自我防衛的に自分自身を拘束する事になります。今回の反論と同じですよ、何か思いつくたびに「そうかもしれないが、こうとも言える」的に無意識に自分なりに思いつくことを否定するのが人格に定着します。
 ↓
>いつのまにか、たくさん反論していたみたいで
しかも自分の言動に「あまり自覚が無い」、
これは自我防衛が基本的に無意識的動機(強迫構造は無意識領域にありますからね)であるためで、自分では「あー言われたので、こう言った」程度の認識(極端に言うと「返事した」程度)なのですが、実際の発言内容はかなり強いレベルの否定であったり、同時に自意識を抑圧するその方便の背景には必ず道徳的認知が背景にあるため(抑圧構造には道徳的意識が利用される)、結果的に相手を「道徳的に非難していたり否定していたり」する発言になる事もあります。
 ↓
>他の人と意見があわないので誤解されることが多いのですが、それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。私のことを嫌いな人がいるのに、それがなぜだかわからなくて

無意識に他人を非難していたり、他人の悪感情を刺激するような言動を無意識に(自我防衛の流れで)行ってしまう事も多くなります。
そして、そんな自分の言動には全く自覚が無いので、人間関係が悪化してもその原因が自分では気が付かない事も多い。

「意見があわないので誤解されることが多いのですが、それがなぜだかわからず」
実はこの言葉は論理矛盾しています、
よくご自身で読み直してみてください。
「意見があわない」誤解も何も無いですよね、
意見が合わないんですから、二人は仲がいいって事にはなりにくいでしょう。
嫌いな人がいるのがわからないって事にはならない筈なんですよ、
自分からあんたが嫌いだって言っているようなものなんですから。

それは上記のやり取りは「考え方は違う」とはニュアンスが違うからです。
「考え方が違うだけなら、”誤解”じゃやなくて”論議”になることが多い」になる筈です、
おそらく月さんの言動は”私には違う考えがある”という明快な主張じゃなくて(そもそも自我防衛的な「反論」には明快な根拠や主張は無い)、無意識に相手の意見を否定していて受け取りようによっちゃ「あんたはおかしい」って言っているのと同じ状況が多くなる可能性が高いからです。
しかし月さんには相手憎しで否定しようって動機は無いんですよ、
そもそも意見の食い違いの発端が、強迫的な自我を防衛するための抵抗であるからです。

食い違う原因は月さんの自我の内面にあって、相手の意見そのものと食い違っているのじゃない。
この辺の微妙な感覚の差が
 ↓
>私のことを嫌いな人がいるのに、それがなぜだかわからなくて恐ろしいという感じです。

こういう感覚になっているのでしょう。

前述の文章も改めて再構成するなら
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて。
 ↓
>それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。

こう繋がっているんです。
全ての現象は、ひとつの構造で起きています。
事の発端は両親の人格にあると言い切っていいでしょう。
そして、その問題を神格化によりタブー視し、聖域化するあまり「それが何故だかわからないまま」になっているため大人になる過程を踏めず、不満を抱える自意識を抑圧してしまう事で恒常的なストレスが蓄積し問題行動に繋がり、場合によると人間関係すらうまくいかないケースもある。
結果として、結婚もうまくいかないんだと。

結論は私の一番最初のレスから何ら変わるところはありません。
>>ここで「何が変わっているのだろう?」と考え進めば以降へ思考は流れます。
自我に現実認知の偏向(強迫構造)があるんですよ。
913 Re:それを意識するぐらいでんですよっ 月のたまご 2008/01/23 14:33
 私の両親のすごいところに、観察力というか、私以上に私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができるという面があります。
 以前に他の人に相談したところ、
「少し観察力のある大人だったら、子どもの考えていることや未来の姿を言い当てることができるから、そんなにめずらしいことではないですよ。」
といわれたことがあります。
これって本当なのでしょうか。
私は両親以外でそのような人にあまりめぐり合ったことがないのと、私自身がそんな能力は持っていないので、いつも驚いています。 

> 「普遍的な生存の不安」
> ここに対象性をもつ倒立概念として親属性が登場します、
> 「普遍的な生存の不安を沈静化させる巨大な存在」
> 常に人類は一義的に両親に相当する(孤児の場合もありますから)権威者を神格化します。
> これは本来早期に解消し(夜泣や授乳・排泄関係のコミュニケーション等)、心理学的な意味の幼児特有の反抗期の過程を経過する事で『現実寄りにリサイズ』されます。
> しかし、自我論的にはその”手法”を経験しているワケですよ、
> 「デフォルメ認知の手法」です、
> これは大人社会にも生きていて、とっぴょうしもなく個性的な人物が何かの拍子でとんでもない実績や業績を成し遂げてしまう事があると、その集団には社会心理的な不安が環状に広がります。
> 何故不安になるのかって? 
> その人物の業績が、自分自身のレーゾンテートルを揺るがせてしまうからです。
> 速攻で、この不安感に自我は対処しようとします。
> 「あの人は凄いんだ、自分とは違うんだ、」
>  ↓
> 当然実際の当事者(単に個性的な人)の実像と掛け離れたデフォルメです、
>
> そして「カリスマ」が社会に認定されます。
> 擬似的な社会心理上の神格化ですよ。

 ここにある「その人物の業績が、自分自身のレーゾンテートルをゆるがせてしまう」とはどういうことですか?
 
 私は、人をあまり「カリスマ」認知しません。名前が挙がっている有名人やカリスマ視されやすい人物についても、客観視することが多いです。
好き=カリスマ視みたいに思っている人に、興味のあることや尊敬している人物
をたずねられると困るくらいです。
 
 あと、理解できない人物が出てきたとき、その人を「カリスマ」として仰ぎ見る場合もあるけれど、あることないこといって貶めたり、レッテルを貼ったり、「異物」あつかいしていじめてしまう場合もありますよね。
そういう社会現象と「神格化」は関係あるのですか?
私は、学校などの現実社会や物語の世界でも、ヒール役のほうにあこがれることが多いのですがどういう心理なのでしょうか。

>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて。
>  ↓
> >それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。
>
> こう繋がっているんです。
> 全ての現象は、ひとつの構造で起きています。
> 事の発端は両親の人格にあると言い切っていいでしょう。

 私が知らず知らずのうちに「反論」しているから、kagewariさんが感じたように、「また言い返し始めたよ。しつこいなー。」という感じで両親も嫌になってしまったのでしょうか。

> >>ここで「何が変わっているのだろう?」と考え進めば以降へ思考は流れます。
> 自我に現実認知の偏向(強迫構造)があるんですよ。

 自分で生き方を選択している以上悩まないほうがいいということですよね。
 以前に書いていただいた、自我と社会との関係で私は、「共同幻想的一般人(多数派)」とも「個性派独立志向の少数派」とも違うとありましたが、
この分析自体はとてもうれしかったのです。私はこの生き方でいきます。
 そういう生き方の人を危険視したり、むりやり自分たちの理論で解釈してレッテルをはってしまったり、自分たちの社会からはじきとばしてしまうという方法で何らかの安定をはかろうとする人たちが多いということが飲み込めてくると
なんでという気持ちがなくなってきました。

 なんだ、私ちゃんと自分の思うように生きているではないか!という気持ちで
いっぱいです。
 

  
914 確認しますけれど、 kagewari 2008/01/24 10:00
私の結論に変化はありません、
念のため重要な部分をもう一度コピペします
===========================================================
■「問題の鍵」
小学生の頃から解決していない「激しい不満や激しい不快(対象者は家族になるでしょう)」
それが何なのかを”今の大人の年齢の感覚で”考えていけば悩みのフェーズは代わります。

■「反抗期の問題」
繰返しますが小学生年次に第一次、思春期に第二次(心理学的には幼児期にもう一回)に起きる感情的に不安定な状態になる現象を『反抗期』と呼びます。
前回レスでお答えしたように、反抗期は必ず終わりますから、
継続している時点で、それは「反抗期じゃありません」し、反抗期に
 ↓
>独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり」
こういった行動は起きません。
むしろこういった行動は(臨床辺りでは様々な呼び名がありますが)注意欠陥多動性云々とか学習障害等に分類される(単なる分類なので個別に意味はありません)幼児期から継続する「かんしゃく」のようなもので、
構造的には、言語等コミュニケーションの部分に「うまく内面をアウトプットできない」要素があって、事実上モチベーションとしてのストレスが蓄積され慢性的な欲求不満状態になると考えます。

そもそもどういうことか?と言えば、
「自意識の抑圧があって、そもそも自分自身固有の欲求(エゴ)の一部が無意識下にあるため認識されていない。」
正確な表現じゃないんですが、あえてわかりやすく言い換えると
「周辺や両親の権威性等を前に言っちゃいけないタブーや、求めてはいけないタブーを自我が過剰に織り込んでしまい、意識する事すら拒絶している」のような状態です。
さらに簡単に言えば
「我慢している欲求を思い出せない状態」
 ↓(はい、ここに繋がるんです)
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。

■「自立的な決定として結婚を選択しているのではない」
結婚がうまくいかないのも、ごく自然な事です。
月さんが志向したのは幼児の夢のような逃避的イメージの『自分の家族』であって、「”この人”との結婚」じゃ無いからです。
これはその人物と出会う前から「結婚ありき」であった事により証明されています。(結婚だけは早くからしたかった)
「結婚」という言葉は法人の「創業」と同じような意味の言葉です。
そもそも何をする会社かってそれは結婚なら「誰と”どのような”結婚するのか」の方が本質で、妻(取締役)である自分のイメージが先行し明快というより、「自分が自分のままで結婚を手に入れる」ような構造だと、組織論としてなかなか上手くいかないですよ。

■強迫のコア
>両親はとてもバランスがとれていてすごかった
「きわめてスキが無くバランスがとれていた」と言い換えてもいいでしょう
>私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました。
障壁の認知
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなく
>「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて

全ての強迫の発端は、この両親の問題であると断言してもいいでしょう。
家庭の運営において、両親がもっともやってはいけない言動は
「わかりにくさ」「説明責任の欠如」「コミュニケーションギャップ」です。
ほとんどこの全てを兼ね備えています、

■神格化の説明
『超えられない壁』
これ一種の神格化なワケです、
おそらく第三者から見れば、月さんの両親は「スキだからけのちょっとどうかしているオッサンとオバチャン」程度の人物なんですよ。
この二人が『超えられない壁』までいっちゃうためには”神格化バネ”が効いてなくちゃ無理な相談です。

◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「そして前回改めて説明した問題の全体像」

>反抗期がないと何か困ることがありますか?
それが原因で(自意識は自立し、独自に動機形成して”大人の欲求”を行為化させるのが仕事ですから)、自立的に動機形成が行われずに常に欲求が潜在化し、獏としたストレスとして蓄積し、限界を超えると衝動的に爆発する。
 ↓
>気がつくと、独り言を言ったり、自分の頭を声を上げながら、たたいたりしてしまいます。
>独り言、頭をドンドンとたたく行為(気づくとやってしまう)や飛び跳ねたり
 ↓
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
何をしたらいいのか思いつくような動機形成が機能していれば獏としたストレスが蓄積される事も無いワケです、

>反抗期がないのは珍しいことですか?
心理的な悩みを抱える事になります、
或いは人格障害的な問題行動の多い人物になったりです。
アダルトチルドレンって言葉もここが始まりですが、簡単に考えればいいのです「反抗期を経過しないと人は大人にならないのです」。
(又同様に)自我防衛的に自分自身を拘束する事になります。今回の反論と同じですよ、何か思いつくたびに「そうかもしれないが、こうとも言える」的に無意識に自分なりに思いつくことを否定するのが人格に定着します。
 ↓
>いつのまにか、たくさん反論していたみたいで
しかも自分の言動に「あまり自覚が無い」、
 ↓
>他の人と意見があわないので誤解されることが多いのですが、それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。私のことを嫌いな人がいるのに、それがなぜだかわからなくて
無意識に他人を非難していたり、他人の悪感情を刺激するような言動を無意識に(自我防衛の流れで)行ってしまう事も多くなります。
食い違う原因は月さんの自我の内面にあって、相手の意見そのものと食い違っているのじゃない。
この辺の微妙な感覚の差が
 ↓
>私のことを嫌いな人がいるのに、それがなぜだかわからなくて恐ろしいという感じです。
こういう感覚になっているのでしょう。

前述の文章も改めて再構成するなら
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて。
 ↓
>それがなぜだかわからず、人生の選択を鈍らせています。
こう繋がっているんです。
全ての現象は、ひとつの構造で起きています。
◎『事の発端は両親の人格にあると言い切っていいでしょう。』
===========================================================

と、これまでのやりとりで上記の説明している筈なんですが、
今回どうしてこのような形のレス(誤読)が返ってくるのか、
「自我防衛的な現実認知の乖離・抵抗認知」そのものであると言っていいでしょう。
 ↓
>自分で生き方を選択している以上悩まないほうがいいということですよね。


私は「自意識を抑圧する強迫意識が自我に構造化しているために、自分で生き方を選択できない状態にある」と説明している筈です。
その証明が
 ↓
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
という現状に繋がっている。
問題が解決していないから
 ↓
>長期間にわたり原因不明の心身の不調が続いています。小中高と誰にでもあるような不安定で攻撃的な気分が大学進学、結婚、就職を経てもまだ続いており、
このような現状に至っているのであって、
月さんの問題は気の持ちようとかそういうお話ではなく(とご自身で説明されているんですよ)、具体的な悩みであって身体に及ぶ特異な言動(頭を叩くや飛び跳ねる)含めて解決していない問題が顕在化しているのであって、「その原因は何か」と考えていく部分が今最も重要なところであって、これは当然無意識的であるからこそ通院等で解決していないのであり、無意識的=自覚が乏しいから問題無いという解釈だと認識として180度逆さまになります。

「自覚が乏しいから問題無い」であれば、現在の問題を温存したいという自我防衛そのまんまになってしまいます。
(この自我防衛が継続しているために、問題も継続化し同時に深刻化しているのですから)


個別に論議を進めますが、
非常に私のレスの誤読が多いと思われるので、
まず過去ログを読み直すところから初めてください。
以降今回のレスへの個別の返信になります。

>ここにある「その人物の業績が、自分自身のレーゾンテートルをゆるがせてしまう」とはどういうことですか?
共同幻想的な協調型人格の場合、「年功序列」や「集団参加」等のような社会的な平等という概念をレーゾンテートルに含みますから、「共同幻想的な”協調すべき同じ社会の人物”が、メジャーリーグのトップ選手として飛びぬけた成績をあげる」事により、その社会における指導であったり尊敬する選手への認識そのものが揺らいでしまいます。
「何故イチローはあんなに凄いのか」
当然誰もが気軽に彼と直接話をする事はありませんから(反抗期のようにコミュニケーションによって、自分自身で感じてしまうデフォルメを改善できない)、彼が特別に成功している現実を乏しい情報から合理化しなくてはいけません。
現在の価値意識の「枠の外」にまで及ぶ敬意を認識する事で、結果として現在自分が帰属(アイデェンティファイ)している社会への認識も守られます。又、そんな形でカリスマ認知をする事で、自分自身に強迫性を帯びる心配もありませんから(カリスマによってイチロー選手と社会性を共有しなくても済むので)、社会協調型の合理的判断(社会適応の手法のひとつ)として「カリスマ」という現象があるのです。

※関係性はともかく、人の自我が特定個人や特定事実を神格化する事が一般的な現象である事を説明するために、このカリスマの説明をしています。
この話は、共同幻想的な協調型の人格における、自然な(悩みと正反対の)自我の機能についていの説明です、

これを説明した理由は
月さんが「神格化」という言葉自体にすら強い抵抗がある事が、そこに強迫構造(自我防衛)が関係している証明として説明したものです。

>私は、人をあまり「カリスマ」認知しません。
それは当然ですよ、
最上位に属する「神格化された両親」を超える存在など在り得ないと無意識に認知されているからです。
 ↓
>尊敬している人物をたずねられると困るくらいです。
これは「強迫構造下の特権階級意識」と呼ぶもので、
親を神格化すれば→子供である自分自身は構造的にその神の子供となるんですから、「特別」というキーワードに代表される特権階級意識を潜在化させます。
当然一般社会をそれは見下している態度にもありますから、他者への敬意という意識は著しく低くなります。

>物語の世界でも、ヒール役のほうにあこがれる
これは、月さん自身には共同幻想的協調型人格の形成は無く(一般的にも悩みを抱えている人格は構造的に独立個性型人格とその基本構造が類似している)、感情移入や現実認知と言う点で、共同幻想的な意味で偉人認定されている程度では根拠不明瞭と(その判断には間違いがありません)感じるからと、同時に、「強迫構造下の特権階級意識(一般社会を見下している)」と「ヒール」の存在が近似している事も関係しています。
しかし全般的に独立個性的人格の場合(特別な業績を上げる人物がいても、自分自身の自我を集団性:協調性という概念をベースにしていないのでレーゾンテートルが揺らぐ事が無い)、個性的な人の方にシンパシーを感じますから「ヒール役のほうにあこがれる」的認知自体は、独立型では自然な認知でも起きる現象なので、取り立てて問題である等と認知する必要はありません。
今回の悩みのテーマにはあまり関係ありません。


>私が知らず知らずのうちに「反論」しているから、kagewariさんが感じたように、「また言い返し始めたよ。しつこいなー。」という感じで両親も嫌になってしまったのでしょうか。

私は自我防衛について、そのような説明をしていない筈です。
この点補足しますが、
防衛しようと思っている対象は、月さん自身の内面にある「神格化された両親」をコアにした強迫構造であり、これをベースに現実の両親を批判していればそれは「構造としての反抗期」そのものじゃないですか。
ここで、反抗期をもう一度説明しますが、
幼児は誰でも両親のイメージを誇大に感じるために、自分が成長して両親の実像を現実として知る機会が増えるに応じて「目の前の両親の実像」そのものが、内面のデフォルメされた両親のイメージを破壊するため(誇張された存在とは別の現実の両親の姿を認知するため)、真実を確認するかのように反抗期が起きます。

強迫構造化の自我防衛とは、反抗期すら抑圧され、
幼児のデフォルメが神格化レベル(=批判も不可能な聖域化)に達しているために、現実認知の偏向を構造化してしまい(様々な現実への認識の乖離が連想によって拡大します)次から次へと聖域化されている構造を守るために「反射的に言い返す(反論する)」保守性が人格化してしまう話です。

月さんの両親には、間違い無く”何らかの”強迫傾向があり、その人格に問題を抱えています。
彼らは『彼らの自我防衛(反射的に言い返す保守性が人格化)』として、「うるさい黙っていろ」と言ったのです。
自分自身の偏った人格を保守するために、子供とコミュニケーションする事自体彼らは「不安で不快」だからです、


>私の両親は、観察力というか、私以上に私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができるという面があります
自我防衛で「神経質にピリピリしている」「構えている」からですよ、
対人恐怖までには至っていませんが、極端なぐらいに自分に関わる関係者の言動に神経質になっているからです。

>「少し観察力のある大人だったら、子どもの考えていることや未来の姿を言い当てることができるから、そんなにめずらしいことではないですよ。」といわれたことがあります。
そりゃどうですよ、「子供の考える事」は幼稚だからです、
子供の考えそうな事しか思いつかないんですから、
そして”第三者性”というのも重要です。
それだけ客観性が付与される分、観察者としてのアドバンテージになりますから。

そして子供という概念で言うならば、
本来はその内面にある独立する個性を認知して初めて”深い理解”となります。
その証明は何かといえば、「表面的には子供のようだけれどもこの人物にも独自の個性的な一面がある」と認知するところで、個人の尊厳として”予測性が高い”と認定する事自体人権論的に見ていくなら差別的な発想であり、
その内面を深くよく知る人ほど「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言するでしょう。
つまり両親の対人認知は表面的なもので、深い理解に及んでいない証明でもあります。


そして月さんの両親は「そのとおり深い理解力がありません」
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
が予測できていたなら、彼らは「ワザとそうそう仕向けた」事になってしまいます。
彼らには人物を認識する理解力に欠けるため、実子の将来を完全に見誤ったという事です。

>私は両親以外でそのような人にあまりめぐり合ったことがない
そのような(自我防衛で「神経質にピリピリしている」「構えている」)人格に問題のある人物は、その強弱の度合いはともかく(完全ある人格なんてあり得ませんからね)、そうそういません。
 ↓
>私自身がそんな能力は持っていない
こう認識しなければ強迫構造の防衛的にマズイんですよ。
彼らの「特殊能力」なるものを疑えば(本質的には自我防衛で「神経質にピリピリしている」「構えている」だけなので)、神格化による聖域構造が壊れてしまいます(反抗期が始まる)。


>自我と社会との関係で私は、「共同幻想的一般人(多数派)」とも「個性派独立志向の少数派」とも違うとありましたが、この分析自体はとてもうれしかったのです。私はこの生き方でいきます。

自我防衛的な誤読です
引用されていると思われる884レスを要約補足解説しますが
===========================================================
これもまるで現実認知と違います。
周辺が「変わっている」と感じるのは、

「あのいったいどうしちゃったんですか?」並の違和感です。
周辺から見れば、現実認知そのものに接点が無く→全ての会話や考え方の”前提”が根本的に違うために常に「他の人と意見があわない」これは合わないというより「まるで別の事を考えている」と言っていいでしょう。

ある意味、共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」は、とにかく沢山の頻度で「最近こうだよね〜」的に事実関係の擦り合わせをします。現実認知を共有する事が社会的に効率がいい事を本能的に知っているからです。
同時に、個性派独立志向の「概ね少数派の人」は主義主張が明快ですから公約を実現しようとする政治家のように発言やパフォーマンスが強く「○○さんって○○な人なんだね」と周辺が認めざるを得ないぐらい「自分をよく知っています」。

大きく分けると、社会と自我の関係は上記2者のパターンとその応用になりますから、そのどこにも属していないと”とても目立つ”んです。
何故なら現実認知の接点が無ければ社会の合意事項等様々なところで「え?どうして」のギャップが生まれますから、それは所属している社会全体の不安定要因になってしまうんです。
(中略)
しかし、ギターを燃やしたり、ステージに叩きつけるミュージシャンもいますね?そして会場は大盛り上がりで大興奮だと、
そのパフォーマンス性が「既に言語を超えている爆発」であり、それを”自覚して表現されていれば”個性派なんです。

実際個人が個性派を選ぶのかそれは各人自由です。
===========================================================
(解説)
※「変わっている」という現象は「自我防衛的構造」で認知自体が偏っている→現実認知が偏向している事を指している。

※大きく分けると社会は『共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」』と『個性派独立志向の「概ね少数派の人」』この2者のパターンとその応用でバランスしていて、そのどこにも属していないと”とても目立つ”(=所属している社会全体の不安定要因になってしまう)。
そのとおり(以前は「子どものころから変わっているといわれることが多く他の人と意見があわないので誤解されることが多い」であり)現在の所属している社会でも→結婚による家庭社会にとって月さんの強迫構造が社会そのもの(婚姻関係そのものにとって)不安定要因となっている。
言い換えるなら、月さんの両親はその強迫構造が所属する社会(家庭)を不安定にし、月さんの人格形成に大きな負荷をかけてしまった。

■この解決のためには、反抗期と同格の神格化の解体に向き合う事で、自立する大人として『共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」』と『個性派独立志向の「概ね少数派の人」』この2者のパターンを選択しなければならない→「大人になる」。

実際個々の言動の軽重には意味は無く、
『個性派独立志向の「概ね少数派の人」』であるギターを燃やすミュージシャンも、その立場が鮮明であるが故に社会と問題を起こすどころか、歓喜と賞賛で迎えられるように、社会との関係で(適応とは違うタイプの)均衡を維持している。
※この部分は、「大人になる選択(人格モデルの選択)」を経ていればどんな人生を選択しても自由である(社会の均衡の中でバランスする)事を説明したものです。

つまり
>自我と社会との関係で私は、「共同幻想的一般人(多数派)」とも「個性派独立志向の少数派」とも違うとありましたが、この分析自体はとてもうれしかったのです。私はこの生き方でいきます。
この誤った解釈は、「現在の自我防衛的な”子供のままの人格”でいたい」という内面が表現されているもので、
「自分からは何も変えずに今のままでいたい」という認識は
 ↓
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
なる現状を間接的に容認・尊重している事になりますから、論理矛盾なんです。
後者の不満を不快に感じているのも「月さん自身」なのですからね。


>そういう生き方の人(精神的に悩みを持っている人)を危険視したり、むりやり自分たちの理論で解釈してレッテルをはってしまったり、自分たちの社会からはじきとばしてしまうという方法で何らかの安定をはかろうとする人たちが多い

ここの認識はあってます。
カリスマの認知の反対です、
「カリスマ」と「いじめ」は実はよく似た現象なのです。
”変わっている”と社会に認知されている部分が明快な主義主張で裏付けされ、独立型の個人である事が認知されればその言葉の意味はカリスマに近づくのであって(偶然偉業を成せばカリスマになる)「あの人は違う」的な敬意で社会は迎えます。
「何を考えているのかわからない(強迫構造で無意識領域の認識は自分でもわからないので)」的な在り方は、本来大人としての仁義(人格モデルの選択)を切って初めて関係性が担保される社会において、所属社会が発動する防衛反応の問題(不当な差別)だけでなく、『特に当事者である自分自身にとって様々な不快や不安の要因となる』んです。



場合によっては、偉業とは無関係なのですが「本当に貴族の子息」であるとか「資産家の子息」「有名人の子息」等、社会的地位が個人のパフォーマンスと無関係に保持されていると、各個人の人格と無関係に「カリスマ認定される」危険性が高くなるため、本人が自分自身の人格についての問題意識が希薄で、強迫構造がより深刻化するリスクとなります。
ここがメンタルな面で言えば、特権階級的な家庭に生まれるであるとか大金持ちの家庭に生まれる事がむしろ”リスク”である原因です。
結果として「その構造が形だけの社会認定(いじめにつながらず)で温存」されたとしても、それは当事者の利益にはならない事を現しています。

いじめの問題は、全く別の論議で、
解決の方法として、個人の精神的な問題が介在する場合には「無理に社会と関係しない」等ここはフリースクール含めての安全確保が最も重要で、学校の指導レベルの話ではなく「安全確保のためのクラスの分離」や「カウンセラーを配置して緊急避難的な通信教育」等を検討すべきであり、
学校の指導レベルで有効なのは「校風にそもそも人権的な問題がある」等学校組織そのものに社会的な問題がある時(このケースも多いと推定されます)になりますから、
この上記二つのパターンの切り分け判断が出来ない学校は、「既に当事者能力が欠如している」事になります。
917 回復してきています。 月のたまご 2008/01/26 09:33
私の読み方にいくつか間違いがあったようで、申し訳ありません。
 食い違いが生じていることには前から気づいていたので、読み飛ばしていって下さい。私も反論をしないように気をつけます。
 わからないところがあるのですが・・・

> >私の両親は、観察力というか、私以上に私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができるという面があります
> 自我防衛で「神経質にピリピリしている」「構えている」からですよ、
> 対人恐怖までには至っていませんが、極端なぐらいに自分に関わる関係者の言動に神経質になっているからです。

 私は人から「神経質でピリピリしている」「構えている」といわれるほうですが、人のことは言い当てられないし、噂話の類も非常に疎いほうです。
なぜでしょうか。

> >「少し観察力のある大人だったら、子どもの考えていることや未来の姿を言い当てることができるから、そんなにめずらしいことではないですよ。」といわれたことがあります。
> そりゃどうですよ、「子供の考える事」は幼稚だからです、
> 子供の考えそうな事しか思いつかないんですから、
> そして”第三者性”というのも重要です。
> それだけ客観性が付与される分、観察者としてのアドバンテージになりますから。

 私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか
考えていないということでしょうか。
 ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。

> そして子供という概念で言うならば、
> 本来はその内面にある独立する個性を認知して初めて”深い理解”となります。
> その証明は何かといえば、「表面的には子供のようだけれどもこの人物にも独自の個性的な一面がある」と認知するところで、個人の尊厳として”予測性が高い”と認定する事自体人権論的に見ていくなら差別的な発想であり、
> その内面を深くよく知る人ほど「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言するでしょう。
> つまり両親の対人認知は表面的なもので、深い理解に及んでいない証明でもあります

 これ、よくわかります。
 中学の頃の担任(私が反抗したという)がまさにこのタイプでした。
すごくレッテル張り屋なのに、生徒の名前の識別もできないのです。

> そして月さんの両親は「そのとおり深い理解力がありません」
> >29歳となってもなにをしたらいいのかわからず
> が予測できていたなら、彼らは「ワザとそうそう仕向けた」事になってしまいます。
> 彼らには人物を認識する理解力に欠けるため、実子の将来を完全に見誤ったという事です。

 私は、「困っている」と最初に相談しましたが、困っていること自体は人生に
おいて大事なことだと思っています。
 両親は人生経験が長いから、必ずしも順風満帆な人生がよいわけではないことを知っているのかもしれません。  
 
> ※「変わっている」という現象は「自我防衛的構造」で認知自体が偏っている→現実認知が偏向している事を指している。
>
> ※大きく分けると社会は『共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」』と『個性派独立志向の「概ね少数派の人」』この2者のパターンとその応用でバランスしていて、そのどこにも属していないと”とても目立つ”(=所属している社会全体の不安定要因になってしまう)。

 たとえば、私の現実認知が「共同幻想的な一般人」のそれとちがっているということを認識して自分流の生き方をしていれば、それは個性派ということになるのではないですか。
 
> ■この解決のためには、反抗期と同格の神格化の解体に向き合う事で、自立する大人として『共同幻想的な一般人的在り方を志向する「概ね多数の人」』と『個性派独立志向の「概ね少数派の人」』この2者のパターンを選択しなければならない→「大人になる」。

 選択って、本当にどちらか片方だけをえらばなければならないのでしょうか。
サラリーマンでも、会社とは年代や社風が合わないから、一匹狼(個性派)で通していて、同年代の学生時代の仲間ではそうだよね、そうだよね的な共同幻想派
という人も見かけますが、時と場合、入るコミュニティーによって、使い分けている人もいると思うのですが。

 どうして、世代や文化や地域や業界や知人同士の付き合いのグループによって
認識している「常識」や「世界」がずれるんですか。一人一人、重なる部分はあるにせよ少しずつ違う認識のしかたをしていると思うのですが。

 体の不調も治り、感謝しています。

 私は、自分の周りのある種のタイプの人の言動の意味がわからず、落ち着かない感じになっていたのですが、(29歳となってもなにをしたらいのかの部分)
だいたい考え方の構造というか前提みたいなものがわかりました。
いつかのスレでありましたが、そこはちょっと違うので一言言わせてください。
私はkagewariさんの学問を「まったくのデタラメ」とは思っていませんよ。
同じようなことを言う人がいるので、どういう観点でそう考えているのかというのを参考にしたくていろいろ分析していただいているのです。

 

 


    

 
918 Re:回復してきています。 kagewari 2008/01/27 22:40
>読み飛ばしていって下さい。
はできないんです。
そこに抵抗がある証明なので、その認識の齟齬の部分を確認していく事が最も重要だからです。

>>対人恐怖までには至っていませんが、極端なぐらいに自分に関わる関係者の言動に神経質になっているからです。
>私は人から「神経質でピリピリしている」「構えている」といわれるほうですが、人のことは言い当てられないし、噂話の類も非常に疎いほうです。なぜでしょうか。

これは簡単です、家人に強迫構造を受け継がせてしまう「一次的強迫者」は、内向的なストレスを他者(血縁者や子供)に転嫁する形で社会適応する余裕をある程度確保できますし、「一次的強迫者」の強迫構造は幼児のデフォルメの累積数がそれだけ回数的に少ない(異常行動はデフォルメを経るにしたがって拡大するので)のですから、抱えている強迫レベルもずっと少ない事になります。
「私の感情的な部分は立派な道徳心や公共心の範囲だ」と自我はそれなりに安定し(自意識が感じる不快レベルが低いので余計に自分自身の問題への知覚は極端なぐらい低い)、曲がりなりにも社会適応可能なのです。

適応している=能力を発揮できる

月さんの場合には、それだけ強迫のレベルが(累積している分)高いレベルにありますから、事実認定そのもの(誤読もそうですが)が現実との間で乖離していますから”予測以前の問題”になっていると言う事です。

>私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか考えていないということでしょうか。
そのとおりです、
両親は、なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していたからです。

将来のメンタルな問題に予測がついていたら心理学の本ぐらい読んで、自分達夫婦の言動について見直した筈で、
少なくとも「コミュニケーションの必要等無い」的対応をする事はなかった。
 ↓
>私の側はともかく、両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」と言われてあまり相手にしてもらえなくて。

>ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
異常行動があるからですよ。
反抗期で説明のつかない言動等、彼には「自分達の問題」という認識をする力はなく、子供の考えそうなことレベルの「違った子」等という見当違いな判断(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですからねここでも判断ミスってます)しかできなかったんです。

>中学の頃の担任(私が反抗したという)がまさにこのタイプでした。
>すごくレッテル張り屋なのに、生徒の名前の識別もできないのです。
月さんが投影した事がその証明です(深層心理がそう伝えているのも同じです)、
まさにこのタイプの典型、
それは”月さんの両親”です。


>私は、「困っている」と最初に相談しましたが、困っていること自体は人生において大事なことだと思っています。

そのとおりですよ、
それを『解決するに至る過程こそが人生の糧となるから』です。
解決できず放置した「単に不快なだけ」です。

>両親は人生経験が長いから、必ずしも順風満帆な人生がよいわけではないことを知っているのかもしれません。

両親にはメンタルな問題という認識すらする力が無いので、それを放置し、
自分達の問題であるとこれに向き合う事を避け、問題を娘に転嫁したんです。
彼らは『困っていること自体は人生において大事なことだ』から学ぶチャンスを失った(自分達の問題を見つめる事のできない)不遇な人達だという事です。
これに気が付いていれば、彼らの人生は「順風満帆な人生がよいわけではないこと」を証明するように、より実存感の高いものになったでしょう。

>選択って、本当にどちらか片方だけをえらばなければならないのでしょうか。
>サラリーマンでも、会社とは年代や社風が合わないから、一匹狼(個性派)で通していて、同年代の学生時代の仲間ではそうだよね、そうだよね的な共同幻想派という人も見かけますが、時と場合、入るコミュニティーによって、使い分けている人もいると思うのですが。

私は”その応用”と説明した筈です。
つまり「サラリーマンでも、会社とは年代や社風が合わないから、一匹狼(個性派)で通していて、同年代の学生時代の仲間ではそうだよね、そうだよね的」結局彼は適応型(辞職していない)のヴァリエーションを選択しているからです。
基本となる部分はひとつです。

社会における方向性と市場や企業における方向性は同じなんですよ。

大企業ばかりじゃありません、中小零細もあるでしょう、
しかし組織です。
フリーランスや、独立事業主、個人商店、自営業とは全く違います。
「源泉徴収なのか」「青色申告なのか」
大きく分ければ二つじゃないですか?
他の選択枝って何ですか?
生協でしょうか?
しかしこれはより協調型のバリエーションですよね。
社会における関係性とは、協調型か独立単独志向の二社です。
理由は簡単です、言語における人称の活用と同じです。
「複数系」と「一人称・二人称」です。
自我は言葉の総体です、
この中間の文法言語的認知は今使用されている言語では「そのヴァリエーション(応用)の範囲」になるんです。
繰り返し説明しますが、この論議は論議の余地のある話ではなく、心理学の理論的背景の話です。
社会学的に言えばゲゼルシャフトもゲマインシャフトも、構造的変遷を指しているだけで協調型の人格構造の本質に疑問符をつけているのもじゃありません。

>どうして、世代や文化や地域や業界や知人同士の付き合いのグループによって
>認識している「常識」や「世界」がずれるんですか。一人一人、重なる部分はあるにせよ少しずつ違う認識のしかたをしていると思うのですが。

それこそ”常識”ですよ。
だから『共同幻想』と呼ぶんです、
社会における規範や道徳、慣習等全てに一切正当性なんかありません。
「その社会で通用するから」こそ正当性があるんです。
自分が所属する社会だからですよ、
民主主義同様、異論があればこれに対抗する事も可能ですし、離脱し独自の道をいくのも自由です。
社会における『共同幻想』とは、その社会が円滑に運営されるための”方便”に過ぎません。
同時に、多数(経過する過去の所属メンバーを加えると延べ人数は凄まじい数になります)によりこれは合理的であると選択されてきたという伝統こそがその正当性で(民主主義的に言えば圧倒的多数)、
その正当性に普遍性が無い(他の社会と違う)からこそ、その個性を社会のアイデェンティティーにするんじゃないですか。
違いが無ければ(普遍性があれば)「自分の所属する社会」なるイメージを個別に認識できなくなります。


>そこはちょっと違うので一言言わせてください。
>私はkagewariさんの学問を「まったくのデタラメ」とは思っていませんよ。

ここも誤読です。
わたしは、それが抵抗である(本音ではない)事を立証するために、各論で続く反論を「その背景には抵抗しなくてはいけない論旨の介在を認めている証明(=デタラメとは思っていない)」であるとして、
「まったくのデタラメ」と思っていたら「ダメだこりゃで終わり(反論もしない)」と記載し、
その説明も
 ↓
>話を単純化してみましょう。
>例えば、思い切って私の説明が「根拠不明なインチキである」と仮定してみましょう。
>反論する必要性が無いですよね?

と、「思いきった仮定である」(話を単純化するための仮説)
結論が
「(インチキだと思っていたら)反論する必要性が無いですよね?」
として、「インチキやデタラメだと思っていないから抵抗が起きる」と説明しているんです。
又他のレスにおいても
>874、876スレッドで起きた論議もこれ抵抗です(「話す前から防衛だ」のような現象です)、

これは、極端な話(874、876スレッドの人物は彼の言葉を借りるなら「誹謗(中傷)するために書き込んだ」と証言しています)それが抵抗ではなく「デタラメだと思ったから」では、書き込む事も無いでしょう。→書き込みしている時点で私の返信における内容に対して一定の与件化(返信が聞きたいのであって反論したいのじゃない)が成立している。
『抵抗(反論)は自意識の本音ではない』を論証しているんです、
むしろ反対の意味ですよ。
919 また、少しわからないところが・・・・ 月のたまご 2008/01/29 11:08
 誤読を避けるために確認したいのですが・・・・

> >私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか考えていないということでしょうか。
> そのとおりです、
> 両親は、なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していたからです。

ここの返信の意味がわからないのですが。
 私が将来、結婚して会社勤めする人生を送ると予想した=私(子ども)の考えそうなこと(選びそうな道)を当てた、ということでしょうか。
 「子どもの考えそうなこと」とは子どもという年齢の人が考えそうなことは、それより人生経験が豊富な大人は予想がつくということかと思いました。
でも、それだと前の文とつながらなくなりますよね。
 それとも、私の両親が、たまごは普通の子だから普通の多くの人が選ぶOLや主婦を選ぶと考えたということでしょうか。
 それから、これが肝心なのですが、うちの両親が「なんだかんだいってOLか主婦」と予想していたということの根拠はなんですか?

> >読み飛ばしていって下さい。
> はできないんです。
> そこに抵抗がある証明なので、その認識の齟齬の部分を確認していく事が最も重要だからです。
>
> >>対人恐怖までには至っていませんが、極端なぐらいに自分に関わる関係者の言動に神経質になっているからです。
> >私は人から「神経質でピリピリしている」「構えている」といわれるほうですが、人のことは言い当てられないし、噂話の類も非常に疎いほうです。なぜでしょうか。
>
> これは簡単です、家人に強迫構造を受け継がせてしまう「一次的強迫者」は、内向的なストレスを他者(血縁者や子供)に転嫁する形で社会適応する余裕をある程度確保できますし、「一次的強迫者」の強迫構造は幼児のデフォルメの累積数がそれだけ回数的に少ない(異常行動はデフォルメを経るにしたがって拡大するので)のですから、抱えている強迫レベルもずっと少ない事になります。
> 「私の感情的な部分は立派な道徳心や公共心の範囲だ」と自我はそれなりに安定し(自意識が感じる不快レベルが低いので余計に自分自身の問題への知覚は極端なぐらい低い)、曲がりなりにも社会適応可能なのです。
>
> 適応している=能力を発揮できる
>
> 月さんの場合には、それだけ強迫のレベルが(累積している分)高いレベルにありますから、事実認定そのもの(誤読もそうですが)が現実との間で乖離していますから”予測以前の問題”になっていると言う事です。
>
> >私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか考えていないということでしょうか。

> >ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
> 異常行動があるからですよ。
> 反抗期で説明のつかない言動等、彼には「自分達の問題」という認識をする力はなく、子供の考えそうなことレベルの「違った子」等という見当違いな判断(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですからねここでも判断ミスってます)しかできなかったんです。

 ここも、主語の補いがちがうので補足します。
 「他の子どもと違った子」といっていたのは、学校の先生や周囲の大人たちで
両親には言わたことはありません。
  記憶にある範囲では、同世代の子供から言われたということもありません。
 何で、他の子たちとはなじんでいてよくも悪くも平凡なのに、先生はそう思うのかな、教師や大人から浮いたように思われやすいタイプなのかしら、と不思議に思っていましたが、子どもの頃は事実上の周囲(身近な友達関係)がうまくいっていれば、教師にどう思われてもさほど気にならなかったので、ふーんという程度にとどめていました。

 kagewariさんのおっしゃるようなメンタルな問題での異常行動があるのなら、
まともな教師だったらデリケートに対応して面と向かっては言わないのではないのでしょうか。
 あと、そういう異質な雰囲気には、良くも悪くも子どもたちの方が敏感に気づいてヘンな子扱いしそうな気がしますが。

> >中学の頃の担任(私が反抗したという)がまさにこのタイプでした。
> >すごくレッテル張り屋なのに、生徒の名前の識別もできないのです。
> 月さんが投影した事がその証明です(深層心理がそう伝えているのも同じです)、
> まさにこのタイプの典型、
> それは”月さんの両親”です。

 この先生は、比較的生徒に人気のあるタイプだったのですが、この教師が
「レッテル貼り」をしたりしたと覚えているエピソードは私の頭の中の話
ということでしょうか。
 それとも、この先生が私の両親と似た(強迫的な)性格ということですか。
 実は、セクハラにあいやすい(あいやすいのかどうかは統計をとってないので
わかりませんが・・・)といった、セクハラする人の一人がこの先生なのです。
 何かその出来事とは関係ありますか?
 嫌いだといっている生徒もいましたが、好きだといって慕っている生徒たちは
独立心が薄いのでしょうか。(自分の輪郭が不鮮明だから決めてもらいたいのかなと当時はクラスメートを見てそう思っていました。)
 
>その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いな
 ↓
強迫的興奮の快感認知
脳内では不快感えあっても”興奮”は快感分類です。
結果的に、家族間や人間関係で問題を繰返したり内向的に落ち込む現象は脳内では快感であり、
これが反復される事で、経験的反復性を正当性の根拠とすする強迫構造はより強固なものになります。
つまり、その快感は、強迫構造保守のために「必要とされる」のであり、
これ俯瞰で見るなら、「月さんは自分の個人的な利益のために周辺との間で問題を起こして快感に浸っている」のと同様であり、その異様な雰囲気は誰にでも「不可思議だ」と認知されますから、嫌われたり見識を疑われたり異常だと思われたり等二次的な環境を自ら招いてしまいます。
 ↓(その結果です)
>29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。
編集すると「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」なら全く問題無いのです。それも人生の選択ですから、
そこが「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。」なので”構造的な論理矛盾”になるんです。
 
「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」なら全く問題無いのです。それも人生の選択ですから、 という部分を私は選択することに決めたのである種体やこころが楽になっているというのもあるのではないでしょうか。
 「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。」の部分は
自分に降りかかることや、ある種のタイプの人たちの言動が理解できなかったから不安定だったのですが、kagewariさんの「共同幻想」or「個性派」の話を
きいておおむねその人たちの発想のしかたがわかってきたから、解決してしまったのです。
 心身の不調がなおったら、「共同幻想派」の人から違和感をもたれてとばっちりを受ける可能性がある、ということ以外に何かトラブルがおきる可能性はあるのでしょうか。
 
 長く続けすぎているようなので、この辺にしておきます。
 ありがとうございました。
 
920 Re:また、少しわからないところが・・・・ kagewari 2008/01/30 19:16
> > >中学の頃の担任(私が反抗したという)がまさにこのタイプでした。
> > >すごくレッテル張り屋なのに、生徒の名前の識別もできないのです。
> > 月さんが投影した事がその証明です(深層心理がそう伝えているのも同じです)、
> > まさにこのタイプの典型、
> > それは”月さんの両親”です。

>この先生は、比較的生徒に人気のあるタイプだったのですが、この教師が
> 「レッテル貼り」をしたりしたと覚えているエピソードは私の頭の中の話ということでしょうか。
いえ、
その印象に違いはないと思いますよ。
共同幻想的な社会協調型の原則は「分業」ですから(例えば「七人の侍」でも各人に特徴的な役割を構成してシナリヲを書きますよね)、論理的にはそれはレッテルと同じです。指導者の立場の人間が強権でこれを決定しても、その社会性の組織としての合理性が破綻しなけれ”アリ”なんです。
極端に言えば、ワンマン社長の会社で「社長が常に社員に特別な”あだ名を付ける”こともあるでしょう(古い喩えですが”太陽に吠えろ”における各刑事の「あだ名=レッテル=ラベル」をつけるのは石原裕次郎演じる”ボス”です)」、
付けられたラベルを気にならないとか、的外れである場合にはこのリーダーに交渉する事になりますが、これはその組織の中で自分が(相談役など)特別に重要な役職になければ「そもそもあまり意味は無いのです」。

理由は簡単です、
その組織に所属(アイデンティファイ)する事が、自分自身のレーゾンテートルと関係なければ「別段どんなラベルを貼られても特に関係無い(そのラベルがひとりで喫茶店にいるときまでついてくるものじゃなりませんから)」、どちらかと言えばその組織と離れたところに自分のアイデェンテイファイがあればいい事になります。「まー適当に呼んでくださいよ」で済む話です。

そもそも共同幻想的な社会協調型の人格というのは、社会に適応している時には共有化された仮想人格に自意識のかなりの部分を代替させますから(彼らが日常会話ですり合わせしている「これでいんだよね〜」「そうだよね〜」「これでいいと思う」等の言葉によって形成される特定社会心理のようなものです)、そこに自意識が身を晒している感覚が無いのです。

ここをもうちょっとわかりやすく言うと、
■その社会はある特定の衣装を着ていると仮定しましょう。
その衣装の背中には、その社会が寄って立つ規律がトレードマークになっています。
ですから、その社会の人間はその衣装をを着ている時には「共通する価値意識に見を預けているので、その分当事者としての自意識は半歩後退している」んです。
なので、その社会においてつけられたレッテル(ラベル)は、その衣装に関わる社会に付随しているだけであって、自宅に帰って衣装を脱げば「関係無い」のですよ。
その代表的な例が『軍隊』や『警官』です。
その社会に自分が関係していると時には、「自分が自分が的な自意識はオートマチックに後退します」→海兵隊の隊員としての自分、県警所属の機動隊員としての自分、それを表すワッペンやバッジもあります。
「お前は体がデカイから分隊支援の軽機関銃担当しろ、おーい7.62mmのM60ここ持ってこい」「おい”ねずみっ”お前はすばしっこい上に目先が利く、突入部隊のポイントリーダーやれ、後ろの奴らはお前より体重あるんだから突入ルートはそれ忘れんな」
仕事が終われば(学校が終業すれば)、そのラベルは後退し個人としての自意識が優先されます。
※彼らがその社会への適応に強いリスペクトと、協調性にプライオリティーを置いていればそれは個人としてのアイデェンティファイを同時に兼ねます。こういうタイプの人は、その組織におけるレッテルがそのまま個人を特定する属性(プライベートでも「大佐」と呼ばれるなど)として”自ら選択して”支配的になる事も在り得ます。

学校には「○○担任のクラス(=階級)」という組織が社会を形成します。
(実際その教師が担任でなくても生徒指導含めて上位構造である学校組織内部においてリーダー的側面を発揮している事もあるでしょう)
生徒が自分で「俺は警部だ」「いや僕は大尉だ」と名乗るのはナンセンスですよね。
それを決めるのは上官(か、その組織でリーダー格にある人物)です。
日本の中学高校が軍服になぞらえられた制服を着ているのはご存知のとおりです。
それだけじゃありませんが、基本的に学校のクラス(=階級)とは軍隊における一小隊と構造は同じです。
クラス運営自体(大学では緩やかな語学のクラスや自分で希望したゼミしか無いですよね)現在の中学高校の組織編成とは、前近代的なもので教師に求めあられるのは指導力です。
指導力ってのは「指揮官の能力です」、
■これを教育改革として大きく変革を求めたのが「ゆとり教育」というもので、みごとに失敗しましたが、
この理由は先進国特有の現象として「親が未熟で子供達の独立心や各個人の哲学や美意識が備わっていない」というのが原因でした。
自由参加型社会=民主主義です
民主主義とは、市民としての自覚と責任意識を”各人が個別に持つこと”を前提とします。
強権社会(指導力)の反対であると同時に訴訟社会(調整力)になる。
民主主義的学校の運営のためめには、学校の生徒が「各人はっきと明快な自分の意見を言える、哲学的な内面を語れる」という社会協調型から独立個人型へのシフトを要求します。

つまり「月さんにレッテル貼り」と不評だった彼の特徴は、協調型人格の他の生徒にとって好評である事は何ら矛盾しません。
「=リーダーシップのある教師」であるためです。
そして重要な事ですが、決してその社会をリスペクトして協調型に適応しているのでも無い(この時点で自分自身のアイデェンティファイは”別の社会(協調型人格)”か”自分自身(独立個人型)”になるのでその社会の内部での自分のレッテル等は特段意味が無い事になる)のに関わらず、その社会におけるレッテル貼りが非常に不快であるのは、論理矛盾になります。

こういう現象(帰属意識に高いプライオリティーが無いのにその社会内部での自分の処遇がやたらと気になる)が起きる理由は簡単なんです。
本来強く帰属意識を持っている母体集団があって、その内部での自分の関係性に強い不安がある等、潜在意識に社会的認知に対する強迫性認知が成立している場合。「自分所属する家族社会の事ですよ」、



>それとも、この先生が私の両親と似た(強迫的な)性格ということですか。
違います(又心理学的には”性格”という概念は存在しませんので、”傾向”として理解しますね)。
投影の成立は「連想性」です、
似ているというのではなくて、
「それが無意識に連想される」です。
「組織の権威者」→「親属性」
「何でも将来を予測するのが得意だ(しかも正確性を欠いている)」→「レッテル貼りだ」
無意識に連想が成立するのは容易に想定できます。


>実は、セクハラにあいやすい(あいやすいのかどうかは統計をとってないのでわかりませんが・・・)といった、セクハラする人の一人がこの先生なのです。何かその出来事とは関係ありますか?
刑事事件になった、或いは教育委員会の議題になった、個人的にこのような事例の被害を受けた等の事実関係情報が無いので、それを前提に私が語ることはできませんが、推定の範囲で答えるならば、
レッテル貼り等行うリーダーシップ重視の指導者の場合、その集団(バンド)のリーダー格、ボス各となるので元来その組織内部の活動においては所属する部下のプライヴァシーを越境する権限を持っていると認識している人物が多くなります。
当然女性にに対しては「受け取る側にとってはセクハラだ」となる行為もリーダーには何ら罪悪感を感じません(むしろ自分の管理責任だぐらいの認知である場合が多い)。海兵隊が女性隊員を受け入れる事に懐疑的であったり(デミ・ムーア主演「GIジェーン」)、ゲイでわかった段階で事実上除隊を求められるのは、この強いリーダーシップのある社会ではセクハラ的関係性が事実上織り込まれているので、それを未然に防ぐため「異性を参加させない(昔の日本の学校が男女別クラスでした)」伝統をもっていたります。
つまり、その傾向も彼を殊更組織内部で評価を下げるキャラクターにはならないのです。
在る意味、彼が強いリーダーである印象を強める効果があるでしょう。

同時に彼に父親が投影されやすい連想性にもなります。
反抗期を何らかの問題で自然な形に経過していない自我にとって、潜在意識における異性の象徴はデフォルメされた両親のイメージから離脱しませんから(思春期の反抗が異性を意識し始める事と関連性があるのは既に説明済みです)、セクハラという形でその支配的なレベルが「連想性」を無意識に成立させる事も十分可能性としてあります。


>何で、他の子たちとはなじんでいてよくも悪くも平凡なのに、先生はそう思うのかな、教師や大人から浮いたように思われやすいタイプなのかしら、と不思議に思っていましたが、子どもの頃は事実上の周囲(身近な友達関係)がうまくいっていれば、教師にどう思われてもさほど気にならなかったので、ふーんという程度にとどめていました。
>kagewariさんのおっしゃるようなメンタルな問題での異常行動があるのなら、
>まともな教師だったらデリケートに対応して面と向かっては言わないのではないのでしょうか。
>あと、そういう異質な雰囲気には、良くも悪くも子どもたちの方が敏感に気づいてヘンな子扱いしそうな気がしますが。

そもそも発想が偏っています。
「よくも悪くも平凡なのに」一体ここに何の価値があるんですか?
平凡である事の価値って何ですか?
強引にここに価値があるとするならば(社会協調型の人格の人物にとっても「へりくだった表現」ですよ→「いやぁウチなんか平凡ですよ〜」)、協調型人格を選択していて同時にその所属する社会に強いリスペクトとプライオリティーを置いていて、同時に「自分は決して前に出る事なく一介の凡人として目立つ事無く社会を支える礎となる」的なストイックな哲学を凛として守る人物である場合ぐらいでしょう。

そもそも価値論の原型は希少価値です、
希少性の最大級の実存はユニーク(unique:唯一の;独自の;〔話〕珍しい;驚くべき,すばらしい)→「変わっている・違っている」です。
個性的であるって意味ですから。
しかもこれは、
尊敬している人物からなら「いい意味で、変わっている」が賞賛の言葉ですし
尊敬していない人物からなら「悪い意味で、変わっている」が賞賛の言葉になります

実際独立型単独行動型の人格を事例にするならとって「変わっている・違っている」は普遍的に誉め言葉です。
(自慢げに自称する事も多いです「僕は変わってますから」)
協調型においても少なからず(個性の時代と言われているぐらいですから)何らかの”違い”をむしろ賞賛と感じているのは確かでしょう。
「私ってさ、何か”違う”って思わない?」

■尊敬してもいない人物から「変わっている」と思われて不快に思う
この論理矛盾が成立する条件は以下だけです。
 ↓
家庭内に不安をともなう強迫構造が介在していて(両親に対しての感情はアンヴィヴァレント)、家庭という組織内で”親に認められる”という発想はこの段階で個性的認知ではなく(「子供として」という言葉が言語として抽象概念なので)、過度に協調型の認知という強迫性に繋がり、「普通のいい子(潜在的には反動形成がついて特別に普通の子のような論理矛盾を織り込む)」として認められる事を過剰に意識している場合。
になります。
親に対して「自分は”普通(潜在的には反動形成がついて特別に普通の子のような論理矛盾を織り込む)”の子供の筈なのに、もっと認めて欲しい」が連想元になる。
しかし皮肉な事にここには幼児特有の判断ミスがあるんです、
「普通じゃ無いのは親の方だから」です。
(ここで「親を普通であればいい」と私が言っているのじゃ無いですよ、変わった親でそれが人格として表現されていれば幼児の方も「ウチの親って変わっているな〜」と自慢できるからです)
 ↓(ここも後述ありますが)
>うちの母は服装のことはすごくこだわるタイプでした。自分のセンスに自信があるから、私の選んでくる服やいろいろな行事に着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)私は人と同じでいいかな、という感じの無難で地味目の趣味なので、そこは親と子どもが逆転している感じでした。
月さん自身の証言によってもこれは証明されています。

又、教師は「カウンセラーじゃありません」
その能力を期待するなら給料二倍にしてやってください。
少なくとも学校に期待されている教育水準とは、一般常識を十分承知した社会性のある元気な子供に文部省が規定している教育を公平にとり行う施設であって、心療内科じゃありません。
同時にたとえ障害のある子供でも、本人・保護者の希望があり地域行政がこれを認めれば普通クラスで学ぶ事も可能ですが、これは受け入れ先の学校にも研修が必要になりますから「自己申告」として説明が必要です。
同様に「メンタルに問題がある」事も自己申告されなければ専門性に欠ける一般教師には対応できません。

しかし現代社会において、メンタルな問題が一切無い人を探す事が難しいように、学校内において心理的な問題をカヴァーする必要性が高まっています。対策としては「(教師への研修含めて)カウンセラーの常設(米国あたりじゃ一般的です)」となります。
しかしこれには費用負担が必要ですから、政府が予算をつけるなり保護者が費用の負担をするなりとなります。
現状見てどうでしょう?
給食費の未納が問題になっている現在の保護者の倫理観や社会性から見て、難しいと思います。
昨今ニュースになった杉並区の保護者会(夜に塾の授業が可能になった)のような組織や活動が無いと実現難しいように思います。

>メンタルな問題での異常行動があるのなら、まともな教師だったらデリケートに対応して面と向かっては言わないのではないのでしょうか。
こういう期待があるのなら、少なくとも社会問題としてその費用負担をどうするか等「それを可能にする内容」を意見として持っていなければいけないって事です。

ここも見方のひとつとして
メンタルな問題の特徴として(無意識が関係しているので)「なかなか自己申告が自然に行われる事が予見できない」ですよね。
となると担当者がこういう現象に(認識はともかく)「気が付かなくてはいけませんし、同時に初動としてそれを本人に伝える」能力が重要になります。
> 「他の子どもと違った子」といっていたのは、学校の先生や周囲の大人たちで
彼らには初動として上記の「気が付かなくてはいけません」な能力があった事になりますね、
以下に続く
 ↓
> 両親には言われたことはありません。
彼らにはそれに気がつく能力が無かった点は別項後述します。


◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆

> > >私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか考えていないということでしょうか。
> > そのとおりです、
> > 両親は、なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していたからです。
>
> ここの返信の意味がわからないのですが。
> 私が将来、結婚して会社勤めする人生を送ると予想した=私(子ども)の考えそうなこと(選びそうな道)を当てた、ということでしょうか。
> 「子どもの考えそうなこと」とは子どもという年齢の人が考えそうなことは、それより人生経験が豊富な大人は予想がつくということかと思いました。でも、それだと前の文とつながらなくなりますよね。
> それとも、私の両親が、たまごは普通の子だから普通の多くの人が選ぶOLや主婦を選ぶと考えたということでしょうか。
> それから、これが肝心なのですが、うちの両親が「なんだかんだいってOLか主婦」と予想していたということの根拠はなんですか?

この話の発端は両親の印象が殊更「何でも予想する凄い人だ」な話を聞いた人が
 ↓
> >「少し観察力のある大人だったら、子どもの考えていることや未来の姿を言い当てることができるから、そんなにめずらしいことではないですよ。」といわれたことがあります。
を受けて、
 ↓
> そりゃどうですよ、「子供の考える事」は幼稚だからです、
に始まった話であって、
彼らも同様に「少し観察力のある大人だったら・・・」程度の判断力しかない事を例示する上で「なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していた」と話が進んできたのです。

彼らには「子供の考える事」程度の先読みしかできず、
「将来はレアメタルの研究者になるだろう、商社との太いパイプをもつ」
「将来は結婚を2回して、そのうち1回の相手は×イチだ」
「中国系のマフィアとビジネス関係を結んでいるフロント企業と関係をもつだろう」
「風俗での成功を元手にして吉原の権利を取得ソープランドのオーナになります」
「自衛隊第一空挺団を退職後フランス外人部隊に所属国際的治安維持の先頭に立つでしょう」
「彼は桑沢デザイン研究所にすすみプロダクトデザイナーになるだろう」
「共依存的傾向があるので誤った志望動機で福祉関係に従事し、とても悩むだろう」
「最初は公務員だが、飽き足らずベンチャーを立ち上げる。しかし資金繰りは苦しい」
「結婚するが夫婦別姓を選択、キャリアとして活躍するがその後離婚する」
「将来は金融系に勤務する。頭はいいが肝心の投資評価の判断能力に欠ける」
「専業主婦だが、パート先で主任となり結果的に正社員となり兼業主婦になるだろう」
「粗暴なところもあるが消防団としては優秀で、厳しい訓練の最中事故に合う」
「暴力団といっても、関東稲川系であり菱形バッジとの相性が悪く抗争中に銃撃される」
「結婚し子供が3人飲食関係の仕事は順調で後継ぎというより会社を発展させるだろう」
「兼業主婦だが、むしろその名前は花柳界で知られ日舞に関して強い支持を集める」
「将来政治家を志望し民主党職員に。その後市議会議員選挙に出馬し落選、政策秘書を経て衆議院に立候補し比例当選する」
こういった具体的な先見では無く、

同時に
「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。」のように自分の子供が「メンタルな問題を抱え将来悩む」事も予測できなかった。
(たいした先見性では無い→しかも彼らの先見が当たっていると評価しているのは潜在意識に彼らの神格化を持っている月さんであり、彼らの予測があたっているという評価そのものが、「お気に入りの占い師への評価(占いが当たると感じる心理→背景にその占いへの正当性が既に与件化されている現象)」同様に初動から信憑性に欠ける事になります)
ここは前回説明しています
 ↓
>将来のメンタルな問題に予測がついていたら心理学の本ぐらい読んで、自分達夫婦の言動について見直した筈で、
親が真っ先に考えるのは、常識的にも(それこそ彼らに先見性が本当にあるなら)「自分達夫婦は果たして家庭というものを運営する上で、何か間違ったのだろうか」であって、
少なからず彼らが先見性のあるインテリであれば、個人的に心理学の専攻が無くても一般教養課程としては特別珍しいカリキュラムでは無いですし、メンタルな問題が心理学的にエディプスコンプレックスが関係する親子関係に起因する事例が多いことも『常識の範囲で知っている』筈で(現在”共同幻想”という言葉もジャーナリストや評論家あたりの間では一般用語化しています→彼らの書く記事や評論や書籍に登場する)。
だとしたら真っ先に疑問に思う事は”自分達夫婦”になるからです。

そもそも
 ↓
>私の両親は、観察力というか、私以上に私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができるという面があります
ここで語られていることは、(「少し観察力のある大人だったら・・・」と発言した人物の意見と同様に)たいした事ではなく。
本来の洞察力や観察力、先見性とは以下のようなものである事を既に説明ずみです。
 ↓
=============================================================
914レスから引用)
そして子供という概念で言うならば、
本来はその内面にある独立する個性を認知して初めて”深い理解”となります。
その証明は何かといえば、「表面的には子供のようだけれどもこの人物にも独自の個性的な一面がある」と認知するところで、個人の尊厳として”予測性が高い”と認定する事自体人権論的に見ていくなら差別的な発想であり、
その内面を深くよく知る人ほど「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言するでしょう。
つまり両親の対人認知は表面的なもので、深い理解に及んでいない証明でもあります。
=============================================================
「私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができる」事は、
本来の理解
 ↓
「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言する
と相反する行為であって、
「私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができる」と軽薄な発言をしている事そのものが、深い理解に欠ける人物である証明になっているという話を、既に説明済みです。

彼らの先見性なるものは「なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していた」程度であり”レッテル貼り”と大きく違わないという意味です。

> 「他の子どもと違った子」といっていたのは、学校の先生や周囲の大人たちで
> 両親には言われたことはありません。
なのでしたら修正必要ですね。
 ↓
=============================================================
>ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
異常行動があるからですよ。
反抗期で説明のつかない言動等、彼には「自分達の問題」という認識をする力はなく、子供の考えそうなことレベルの「違った子」等という見当違いな判断(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですからねここでも判断ミスってます)しかできなかったんです。
=============================================================
 ↓(修正)
>ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
異常行動があるからですよ。
反抗期で説明のつかない言動等、学校の先生や周囲の大人たちには「心理学的な問題」という認識をする力はなくても問題がある事を認識する事はできた。しかし彼らには心理学的知識に欠けている事もあって、子供の親を呼んで教育方針や家庭における親としての振る舞いなどを聞き取りする判断ができず(心療内科に相談するアドバイス等も)、結果として「違った子」と判断するレベルを超える事は無かった。
ここには、外面完璧にも見える(月さんに神格化されたように)両親には強い自我防衛的な社会適応の”外見”があり(ここは884レスで「この両親にはとても強い(反抗に対する)防衛力があるんでしょう、」と説明済みです→885月さんのレスにより「私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました」とこれは確認されています)、特別普通そうに見える(それもワンランク上ぐらい)な特徴があるのだと思います。こうなると周囲は余計にその家庭にコミットする力を失います。
自分達が所属する社会の防衛で彼らは手一杯という事です、

同時に、そんな事すら気が付かなかった見当違いな判断をした両親ですが、
ここにも明快な理由があります。
彼らは好き好んで気が付かなかったのではりません。
実際異常行動に遭遇し、それを彼らも認知もしたでしょう。
心理学的な知識があれば(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですから)、その違いを「個性的な自立」なのか「メンタルな問題」なのかを切り分ける事もできたかも知れない。
しかし、それは構造的にほとんど期待できなかった。
理由は、彼らの自我には夫婦そろって(ここには共依存関係が成立している可能性が高い→「両親はとてもバランスがとれていてすごかった」)潜在的な自分個人の問題から目を逸らす自我防衛を備えていて、それを疑うような概念(心理学等)には抵抗が備わっていて、同時に自分自身の強迫性は無意識なんですから「まったく自覚が無い」上に、自我自体が感じるストレスは「両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」」のように家庭内で発散すれば良かったのであり(本人にはストレス認知も少ない)、「何もかもうまくいっていて、自分達夫婦は完璧だよね」な自覚を持っている事も十分予測可能だからです。
構造的に自分達の問題を察知する能力を持っていない→子供の異常にも無感覚だった。

前回の私のレス以上に「彼らの理解には問題があった」となるでしょう。


> > 「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」なら全く問題無いのです。それも人生の選択ですから、
> という部分を私は選択することに決めたのである種体やこころが楽になっているというのもあるのではないでしょうか。

「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」
 ↓
つまり、自分が問題の要因となって”イロイロあるだろう(関係者にはご迷惑もかけるかもしれませんが=不謹慎ですが)”けれども、私には自分にメンタルな問題がある事を、十分自分で認識しているので「その根本的な解決」はじっくり時間をかけていくとして、今の自分にはこの状況で何とかサバイバルしてみようと人生の選択をしているので、それは実際には「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っている」のは事実なんだけれども、それがどうしてなのかはわかっているので「なにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」、
この不快感は自分で選択したものなんですから。
実際親子関係含めて、過去の問題に触れていくのはハードな事なので今直ぐに取組んでみるとかって、今の私は無理ですし(そのまま温存しようって事じゃないですよ、問題意識はちゃんとあります)、実際ここまで生きてきた自分のスタイルにアイデェンティティーというか愛着というと変かも知れませんが私なりのキャラってあるんだと思うんです。

詳細に書けばこういう事です。
心理学ってものは、「こうしなくちゃいけない」って定義は全くありません。
本人が不快なら→「それはこういう事ですね」という概念を説明できるというもので、それは考えるための前提として意味があるのであって、従わなければならない法則じゃありません。
しかし、都合良く偏向されてもいいものじゃない。
「こういうことなんですね」な部分は変わる事が無いからです。

その概念を元ネタに「何をどう考えるのか?」これは常に”本人の自由意志”です。
だから”精神分析”なんです、
アナリストですから、
次の投資をどうするのか、分析してクライアントに報告するのであって投資を指示命令するものじゃありません。
「判断の材料として”こんなことになってますよ”」と、論議や事実関係を整理し分析して伝えるまでが仕事です。

「書かれている内容にもう少し専門的に詳細な説明を求める」、
という返信には無限に答える事ができますし、
「これは○○な意味で、やっぱり僕の判断でいいって事ね」
という誤読には、無限に答える事ができます。
問題はコストで、無償でこれを無限に行うには限界もあります。
ですから、私の方で誤読や抵抗があまりにも繰返されている場合には909レスにあるように「ここで一段落としましょう」と、話を整理しなくちゃいけない場合もあります(有料メールの場合にはここが料金設定で予め相談の枠として担保されています。依存関係とならないように回数の取り決めも重要だからです)

> という部分を私は選択することに決めたのである種体やこころが楽になっているというのもあるのではないでしょうか。
ここは、月さんの強迫構造が原因で認知できなかった現実の在り様を私が説明した事と
(副次的に派生する認知におけるストレスが後退した)
 ↓
>話をきいておおむねその人たちの発想のしかたがわかってきたから、解決してしまったのです。
(強迫が無ければ本来月さんが自分自身で気が付いていた筈だって事です)

そして、むしろ、
「ある種体やこころが楽になっている」専らの原因は、聖域化されてきた両親に関する部分に私が切り込んだからです。
僅かではあっても、その分月さんの自我防衛は後退し少なくとも(私がコメントする事で)両親の事を抵抗的反論であっても自意識で考える事が進んだ(以前は聖域化されているので疑問視する見方で考える事すらタブーだった)からです。
 ↓
> 両親のことをいろいろ言われるのはつらいですね。
この言葉が語られる907レスまで「相当期間があいています」ね、
そしてこの907レスには
 ↓
> うちの母は服装のことはすごくこだわるタイプでした。自分のセンスに自信があるから、私の選んでくる服やいろいろな行事に着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)私は人と同じでいいかな、という感じの無難で地味目の趣味なので、そこは親と子どもが逆転している感じでした。
(過干渉→実は親自身の自我防衛を子供にも要求している)

> 今もはたからみれば両親が完璧に見えないなんてことはわかっています。
のように、強迫下にある月さんの自我にとって、今できる可能な範囲でかなり踏み込んだところまで認識が進んでいます。

ここまでの過程で、深層心理における強迫構造は「以前と同じ形を維持できなくなってきている」と言えますから。


> 心身の不調がなおったら、「共同幻想派」の人から違和感をもたれてとばっちりを受ける可能性がある、ということ以外に何かトラブルがおきる可能性はあるのでしょうか。
ここも以前に説明済みです。
 ↓
=============================================================
(同じく914レスから引用)
「カリスマ」と「いじめ」は実はよく似た現象なのです。
”変わっている”と社会に認知されている部分が明快な主義主張で裏付けされ、独立型の個人である事が認知されればその言葉の意味はカリスマに近づくのであって(偶然偉業を成せばカリスマになる)「あの人は違う」的な敬意で社会は迎えます。
「何を考えているのかわからない(強迫構造で無意識領域の認識は自分でもわからないので)」的な在り方は、本来大人としての仁義(人格モデルの選択)を切って初めて関係性が担保される社会において、所属社会が発動する防衛反応の問題(不当な差別)だけでなく、『特に当事者である自分自身にとって様々な不快や不安の要因となる』んです。
=============================================================

つまりコミュニケートです。
個として社会協調型人格の世界に対して説明責任(それがわかりやく人格として表現されている等)を果たしていれば、何か不自由を感じる事はありません。特別に野心等が無いのであれば営業的に説明する必要はまったくありませんが、少なくとも個人的な話を他人とする時に自分のキャラクターについて説明する事ができる自意識は必要でしょう(自分の事がわかっている状態)。
社会協調型の人格は「これでいんだよね」「ふつうそうだよね」な彼らなりの世界の中で「○○さんも同じだよね」と一義的に仲間認定してしまう構造的なキャラクターがあるので、ここに誤解がある場合説明できなくちゃいけないんです。

誤解が無い=認識や意識の共有がある=コミュニケ(合意や共有)

> 長く続けすぎているようなので、この辺にしておきます。
「この辺にしておいてやる」にも聞こえますが(笑
いえいえ、その意図は誤解無く了解しておりますのでご安心ください。

ここは前述で同様な話に触れておりますが、抵抗であったり自我防衛的な”確認”なるものは制限無く続きます。
それは話の内容自体に強迫的な防衛(そもそもそれを自分では思いつけない”自意識の抑圧”があるんですから→質問しているのであって)がかかっているためで今回の話もかなり以前のレスからの引用があることで証明されていると思いますが、「質問を続ければ理解が進む」ものでもありません。
何故なら「これはそうだけれど、これは違うんじゃないか」的な抵抗が続く事は、間接的な問題意識の外部化(自分で考える事ではなく聞くことだ的認知→ここは790・816・829スレッドのやり取りでも説明ありますので参照ください)になる場合もあります。

今回のスレッドを反復して読み直す事と、
特にこの公開掲示板のもっとも有意義なところは「他の人の相談ログを読める」ところです。
過去ログの閲覧も非常に参考になりますから読んでみてください。
同時に心理学の背景に関しては、HPのコンテンツ「心理学テキスト」、ブログのカテゴリー「心理学テキスト」にも大量のログがありますからこちらの閲覧も薦めます。

とにかく、今回のスレッドを何度も頭から読み直す事は重要です(認知は簡単に進まないものなので)、
何か疑問や考える事があれば反読をお勧めします。
その都度感じ方や認識が変わることも珍しくないのです。
923 お久しぶりです。 月のたまご 2008/02/19 11:35
 月のたまごです。
 掲示板にだと書きにくい個人的なことを書いて分析、アドバイスしていただきたいと思ったら、有料メール相談のほうに申し込めばいいのでしょうか。
私の場合、サポートカウンセリングのほうから始めればいいのですか?
 両親のこととか、前の方に書いていた担任教師の話、主人とのことなど掲示板だと具体的なことが書きにくいのですが・・・・。
924 こちらこそです kagewari 2008/02/20 13:15
月さんのケースですと、公開掲示板上で有料メールで言うところの(プロファイリング3部構成のひとつ)『構成1』までは概ね終了している状況になります。
ですから一般的には、プロファイルリングの『構成2』と『詳細』のみでまず入っていただいてな感じになりますから詳しくは相談な感じですね。

いきなり有料相談扱いになることはありませんから、要望を沿えて一度HPの申込窓口からメールください。
「こういうパターンがいいのじゃないでしょうか」的な話もプライヴァシーになりますから、その辺含めてメールでお答えしますので。

な、感じになります。