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> > >中学の頃の担任(私が反抗したという)がまさにこのタイプでした。
> > >すごくレッテル張り屋なのに、生徒の名前の識別もできないのです。
> > 月さんが投影した事がその証明です(深層心理がそう伝えているのも同じです)、
> > まさにこのタイプの典型、
> > それは”月さんの両親”です。
>この先生は、比較的生徒に人気のあるタイプだったのですが、この教師が
> 「レッテル貼り」をしたりしたと覚えているエピソードは私の頭の中の話ということでしょうか。
いえ、
その印象に違いはないと思いますよ。
共同幻想的な社会協調型の原則は「分業」ですから(例えば「七人の侍」でも各人に特徴的な役割を構成してシナリヲを書きますよね)、論理的にはそれはレッテルと同じです。指導者の立場の人間が強権でこれを決定しても、その社会性の組織としての合理性が破綻しなけれ”アリ”なんです。
極端に言えば、ワンマン社長の会社で「社長が常に社員に特別な”あだ名を付ける”こともあるでしょう(古い喩えですが”太陽に吠えろ”における各刑事の「あだ名=レッテル=ラベル」をつけるのは石原裕次郎演じる”ボス”です)」、
付けられたラベルを気にならないとか、的外れである場合にはこのリーダーに交渉する事になりますが、これはその組織の中で自分が(相談役など)特別に重要な役職になければ「そもそもあまり意味は無いのです」。
理由は簡単です、
その組織に所属(アイデンティファイ)する事が、自分自身のレーゾンテートルと関係なければ「別段どんなラベルを貼られても特に関係無い(そのラベルがひとりで喫茶店にいるときまでついてくるものじゃなりませんから)」、どちらかと言えばその組織と離れたところに自分のアイデェンテイファイがあればいい事になります。「まー適当に呼んでくださいよ」で済む話です。
そもそも共同幻想的な社会協調型の人格というのは、社会に適応している時には共有化された仮想人格に自意識のかなりの部分を代替させますから(彼らが日常会話ですり合わせしている「これでいんだよね〜」「そうだよね〜」「これでいいと思う」等の言葉によって形成される特定社会心理のようなものです)、そこに自意識が身を晒している感覚が無いのです。
ここをもうちょっとわかりやすく言うと、
■その社会はある特定の衣装を着ていると仮定しましょう。
その衣装の背中には、その社会が寄って立つ規律がトレードマークになっています。
ですから、その社会の人間はその衣装をを着ている時には「共通する価値意識に見を預けているので、その分当事者としての自意識は半歩後退している」んです。
なので、その社会においてつけられたレッテル(ラベル)は、その衣装に関わる社会に付随しているだけであって、自宅に帰って衣装を脱げば「関係無い」のですよ。
その代表的な例が『軍隊』や『警官』です。
その社会に自分が関係していると時には、「自分が自分が的な自意識はオートマチックに後退します」→海兵隊の隊員としての自分、県警所属の機動隊員としての自分、それを表すワッペンやバッジもあります。
「お前は体がデカイから分隊支援の軽機関銃担当しろ、おーい7.62mmのM60ここ持ってこい」「おい”ねずみっ”お前はすばしっこい上に目先が利く、突入部隊のポイントリーダーやれ、後ろの奴らはお前より体重あるんだから突入ルートはそれ忘れんな」
仕事が終われば(学校が終業すれば)、そのラベルは後退し個人としての自意識が優先されます。
※彼らがその社会への適応に強いリスペクトと、協調性にプライオリティーを置いていればそれは個人としてのアイデェンティファイを同時に兼ねます。こういうタイプの人は、その組織におけるレッテルがそのまま個人を特定する属性(プライベートでも「大佐」と呼ばれるなど)として”自ら選択して”支配的になる事も在り得ます。
学校には「○○担任のクラス(=階級)」という組織が社会を形成します。
(実際その教師が担任でなくても生徒指導含めて上位構造である学校組織内部においてリーダー的側面を発揮している事もあるでしょう)
生徒が自分で「俺は警部だ」「いや僕は大尉だ」と名乗るのはナンセンスですよね。
それを決めるのは上官(か、その組織でリーダー格にある人物)です。
日本の中学高校が軍服になぞらえられた制服を着ているのはご存知のとおりです。
それだけじゃありませんが、基本的に学校のクラス(=階級)とは軍隊における一小隊と構造は同じです。
クラス運営自体(大学では緩やかな語学のクラスや自分で希望したゼミしか無いですよね)現在の中学高校の組織編成とは、前近代的なもので教師に求めあられるのは指導力です。
指導力ってのは「指揮官の能力です」、
■これを教育改革として大きく変革を求めたのが「ゆとり教育」というもので、みごとに失敗しましたが、
この理由は先進国特有の現象として「親が未熟で子供達の独立心や各個人の哲学や美意識が備わっていない」というのが原因でした。
自由参加型社会=民主主義です
民主主義とは、市民としての自覚と責任意識を”各人が個別に持つこと”を前提とします。
強権社会(指導力)の反対であると同時に訴訟社会(調整力)になる。
民主主義的学校の運営のためめには、学校の生徒が「各人はっきと明快な自分の意見を言える、哲学的な内面を語れる」という社会協調型から独立個人型へのシフトを要求します。
つまり「月さんにレッテル貼り」と不評だった彼の特徴は、協調型人格の他の生徒にとって好評である事は何ら矛盾しません。
「=リーダーシップのある教師」であるためです。
そして重要な事ですが、決してその社会をリスペクトして協調型に適応しているのでも無い(この時点で自分自身のアイデェンティファイは”別の社会(協調型人格)”か”自分自身(独立個人型)”になるのでその社会の内部での自分のレッテル等は特段意味が無い事になる)のに関わらず、その社会におけるレッテル貼りが非常に不快であるのは、論理矛盾になります。
こういう現象(帰属意識に高いプライオリティーが無いのにその社会内部での自分の処遇がやたらと気になる)が起きる理由は簡単なんです。
本来強く帰属意識を持っている母体集団があって、その内部での自分の関係性に強い不安がある等、潜在意識に社会的認知に対する強迫性認知が成立している場合。「自分所属する家族社会の事ですよ」、
>それとも、この先生が私の両親と似た(強迫的な)性格ということですか。
違います(又心理学的には”性格”という概念は存在しませんので、”傾向”として理解しますね)。
投影の成立は「連想性」です、
似ているというのではなくて、
「それが無意識に連想される」です。
「組織の権威者」→「親属性」
「何でも将来を予測するのが得意だ(しかも正確性を欠いている)」→「レッテル貼りだ」
無意識に連想が成立するのは容易に想定できます。
>実は、セクハラにあいやすい(あいやすいのかどうかは統計をとってないのでわかりませんが・・・)といった、セクハラする人の一人がこの先生なのです。何かその出来事とは関係ありますか?
刑事事件になった、或いは教育委員会の議題になった、個人的にこのような事例の被害を受けた等の事実関係情報が無いので、それを前提に私が語ることはできませんが、推定の範囲で答えるならば、
レッテル貼り等行うリーダーシップ重視の指導者の場合、その集団(バンド)のリーダー格、ボス各となるので元来その組織内部の活動においては所属する部下のプライヴァシーを越境する権限を持っていると認識している人物が多くなります。
当然女性にに対しては「受け取る側にとってはセクハラだ」となる行為もリーダーには何ら罪悪感を感じません(むしろ自分の管理責任だぐらいの認知である場合が多い)。海兵隊が女性隊員を受け入れる事に懐疑的であったり(デミ・ムーア主演「GIジェーン」)、ゲイでわかった段階で事実上除隊を求められるのは、この強いリーダーシップのある社会ではセクハラ的関係性が事実上織り込まれているので、それを未然に防ぐため「異性を参加させない(昔の日本の学校が男女別クラスでした)」伝統をもっていたります。
つまり、その傾向も彼を殊更組織内部で評価を下げるキャラクターにはならないのです。
在る意味、彼が強いリーダーである印象を強める効果があるでしょう。
同時に彼に父親が投影されやすい連想性にもなります。
反抗期を何らかの問題で自然な形に経過していない自我にとって、潜在意識における異性の象徴はデフォルメされた両親のイメージから離脱しませんから(思春期の反抗が異性を意識し始める事と関連性があるのは既に説明済みです)、セクハラという形でその支配的なレベルが「連想性」を無意識に成立させる事も十分可能性としてあります。
>何で、他の子たちとはなじんでいてよくも悪くも平凡なのに、先生はそう思うのかな、教師や大人から浮いたように思われやすいタイプなのかしら、と不思議に思っていましたが、子どもの頃は事実上の周囲(身近な友達関係)がうまくいっていれば、教師にどう思われてもさほど気にならなかったので、ふーんという程度にとどめていました。
>kagewariさんのおっしゃるようなメンタルな問題での異常行動があるのなら、
>まともな教師だったらデリケートに対応して面と向かっては言わないのではないのでしょうか。
>あと、そういう異質な雰囲気には、良くも悪くも子どもたちの方が敏感に気づいてヘンな子扱いしそうな気がしますが。
そもそも発想が偏っています。
「よくも悪くも平凡なのに」一体ここに何の価値があるんですか?
平凡である事の価値って何ですか?
強引にここに価値があるとするならば(社会協調型の人格の人物にとっても「へりくだった表現」ですよ→「いやぁウチなんか平凡ですよ〜」)、協調型人格を選択していて同時にその所属する社会に強いリスペクトとプライオリティーを置いていて、同時に「自分は決して前に出る事なく一介の凡人として目立つ事無く社会を支える礎となる」的なストイックな哲学を凛として守る人物である場合ぐらいでしょう。
そもそも価値論の原型は希少価値です、
希少性の最大級の実存はユニーク(unique:唯一の;独自の;〔話〕珍しい;驚くべき,すばらしい)→「変わっている・違っている」です。
個性的であるって意味ですから。
しかもこれは、
尊敬している人物からなら「いい意味で、変わっている」が賞賛の言葉ですし
尊敬していない人物からなら「悪い意味で、変わっている」が賞賛の言葉になります
実際独立型単独行動型の人格を事例にするならとって「変わっている・違っている」は普遍的に誉め言葉です。
(自慢げに自称する事も多いです「僕は変わってますから」)
協調型においても少なからず(個性の時代と言われているぐらいですから)何らかの”違い”をむしろ賞賛と感じているのは確かでしょう。
「私ってさ、何か”違う”って思わない?」
■尊敬してもいない人物から「変わっている」と思われて不快に思う
この論理矛盾が成立する条件は以下だけです。
↓
家庭内に不安をともなう強迫構造が介在していて(両親に対しての感情はアンヴィヴァレント)、家庭という組織内で”親に認められる”という発想はこの段階で個性的認知ではなく(「子供として」という言葉が言語として抽象概念なので)、過度に協調型の認知という強迫性に繋がり、「普通のいい子(潜在的には反動形成がついて特別に普通の子のような論理矛盾を織り込む)」として認められる事を過剰に意識している場合。
になります。
親に対して「自分は”普通(潜在的には反動形成がついて特別に普通の子のような論理矛盾を織り込む)”の子供の筈なのに、もっと認めて欲しい」が連想元になる。
しかし皮肉な事にここには幼児特有の判断ミスがあるんです、
「普通じゃ無いのは親の方だから」です。
(ここで「親を普通であればいい」と私が言っているのじゃ無いですよ、変わった親でそれが人格として表現されていれば幼児の方も「ウチの親って変わっているな〜」と自慢できるからです)
↓(ここも後述ありますが)
>うちの母は服装のことはすごくこだわるタイプでした。自分のセンスに自信があるから、私の選んでくる服やいろいろな行事に着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)私は人と同じでいいかな、という感じの無難で地味目の趣味なので、そこは親と子どもが逆転している感じでした。
月さん自身の証言によってもこれは証明されています。
又、教師は「カウンセラーじゃありません」
その能力を期待するなら給料二倍にしてやってください。
少なくとも学校に期待されている教育水準とは、一般常識を十分承知した社会性のある元気な子供に文部省が規定している教育を公平にとり行う施設であって、心療内科じゃありません。
同時にたとえ障害のある子供でも、本人・保護者の希望があり地域行政がこれを認めれば普通クラスで学ぶ事も可能ですが、これは受け入れ先の学校にも研修が必要になりますから「自己申告」として説明が必要です。
同様に「メンタルに問題がある」事も自己申告されなければ専門性に欠ける一般教師には対応できません。
しかし現代社会において、メンタルな問題が一切無い人を探す事が難しいように、学校内において心理的な問題をカヴァーする必要性が高まっています。対策としては「(教師への研修含めて)カウンセラーの常設(米国あたりじゃ一般的です)」となります。
しかしこれには費用負担が必要ですから、政府が予算をつけるなり保護者が費用の負担をするなりとなります。
現状見てどうでしょう?
給食費の未納が問題になっている現在の保護者の倫理観や社会性から見て、難しいと思います。
昨今ニュースになった杉並区の保護者会(夜に塾の授業が可能になった)のような組織や活動が無いと実現難しいように思います。
>メンタルな問題での異常行動があるのなら、まともな教師だったらデリケートに対応して面と向かっては言わないのではないのでしょうか。
こういう期待があるのなら、少なくとも社会問題としてその費用負担をどうするか等「それを可能にする内容」を意見として持っていなければいけないって事です。
ここも見方のひとつとして
メンタルな問題の特徴として(無意識が関係しているので)「なかなか自己申告が自然に行われる事が予見できない」ですよね。
となると担当者がこういう現象に(認識はともかく)「気が付かなくてはいけませんし、同時に初動としてそれを本人に伝える」能力が重要になります。
> 「他の子どもと違った子」といっていたのは、学校の先生や周囲の大人たちで
彼らには初動として上記の「気が付かなくてはいけません」な能力があった事になりますね、
以下に続く
↓
> 両親には言われたことはありません。
彼らにはそれに気がつく能力が無かった点は別項後述します。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
> > >私のことを言い当てられるとしたら、私も「子どもの考えそうなこと」しか考えていないということでしょうか。
> > そのとおりです、
> > 両親は、なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していたからです。
>
> ここの返信の意味がわからないのですが。
> 私が将来、結婚して会社勤めする人生を送ると予想した=私(子ども)の考えそうなこと(選びそうな道)を当てた、ということでしょうか。
> 「子どもの考えそうなこと」とは子どもという年齢の人が考えそうなことは、それより人生経験が豊富な大人は予想がつくということかと思いました。でも、それだと前の文とつながらなくなりますよね。
> それとも、私の両親が、たまごは普通の子だから普通の多くの人が選ぶOLや主婦を選ぶと考えたということでしょうか。
> それから、これが肝心なのですが、うちの両親が「なんだかんだいってOLか主婦」と予想していたということの根拠はなんですか?
この話の発端は両親の印象が殊更「何でも予想する凄い人だ」な話を聞いた人が
↓
> >「少し観察力のある大人だったら、子どもの考えていることや未来の姿を言い当てることができるから、そんなにめずらしいことではないですよ。」といわれたことがあります。
を受けて、
↓
> そりゃどうですよ、「子供の考える事」は幼稚だからです、
に始まった話であって、
彼らも同様に「少し観察力のある大人だったら・・・」程度の判断力しかない事を例示する上で「なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していた」と話が進んできたのです。
彼らには「子供の考える事」程度の先読みしかできず、
「将来はレアメタルの研究者になるだろう、商社との太いパイプをもつ」
「将来は結婚を2回して、そのうち1回の相手は×イチだ」
「中国系のマフィアとビジネス関係を結んでいるフロント企業と関係をもつだろう」
「風俗での成功を元手にして吉原の権利を取得ソープランドのオーナになります」
「自衛隊第一空挺団を退職後フランス外人部隊に所属国際的治安維持の先頭に立つでしょう」
「彼は桑沢デザイン研究所にすすみプロダクトデザイナーになるだろう」
「共依存的傾向があるので誤った志望動機で福祉関係に従事し、とても悩むだろう」
「最初は公務員だが、飽き足らずベンチャーを立ち上げる。しかし資金繰りは苦しい」
「結婚するが夫婦別姓を選択、キャリアとして活躍するがその後離婚する」
「将来は金融系に勤務する。頭はいいが肝心の投資評価の判断能力に欠ける」
「専業主婦だが、パート先で主任となり結果的に正社員となり兼業主婦になるだろう」
「粗暴なところもあるが消防団としては優秀で、厳しい訓練の最中事故に合う」
「暴力団といっても、関東稲川系であり菱形バッジとの相性が悪く抗争中に銃撃される」
「結婚し子供が3人飲食関係の仕事は順調で後継ぎというより会社を発展させるだろう」
「兼業主婦だが、むしろその名前は花柳界で知られ日舞に関して強い支持を集める」
「将来政治家を志望し民主党職員に。その後市議会議員選挙に出馬し落選、政策秘書を経て衆議院に立候補し比例当選する」
こういった具体的な先見では無く、
同時に
「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っています。」のように自分の子供が「メンタルな問題を抱え将来悩む」事も予測できなかった。
(たいした先見性では無い→しかも彼らの先見が当たっていると評価しているのは潜在意識に彼らの神格化を持っている月さんであり、彼らの予測があたっているという評価そのものが、「お気に入りの占い師への評価(占いが当たると感じる心理→背景にその占いへの正当性が既に与件化されている現象)」同様に初動から信憑性に欠ける事になります)
ここは前回説明しています
↓
>将来のメンタルな問題に予測がついていたら心理学の本ぐらい読んで、自分達夫婦の言動について見直した筈で、
親が真っ先に考えるのは、常識的にも(それこそ彼らに先見性が本当にあるなら)「自分達夫婦は果たして家庭というものを運営する上で、何か間違ったのだろうか」であって、
少なからず彼らが先見性のあるインテリであれば、個人的に心理学の専攻が無くても一般教養課程としては特別珍しいカリキュラムでは無いですし、メンタルな問題が心理学的にエディプスコンプレックスが関係する親子関係に起因する事例が多いことも『常識の範囲で知っている』筈で(現在”共同幻想”という言葉もジャーナリストや評論家あたりの間では一般用語化しています→彼らの書く記事や評論や書籍に登場する)。
だとしたら真っ先に疑問に思う事は”自分達夫婦”になるからです。
そもそも
↓
>私の両親は、観察力というか、私以上に私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができるという面があります
ここで語られていることは、(「少し観察力のある大人だったら・・・」と発言した人物の意見と同様に)たいした事ではなく。
本来の洞察力や観察力、先見性とは以下のようなものである事を既に説明ずみです。
↓
=============================================================
(914レスから引用)
そして子供という概念で言うならば、
本来はその内面にある独立する個性を認知して初めて”深い理解”となります。
その証明は何かといえば、「表面的には子供のようだけれどもこの人物にも独自の個性的な一面がある」と認知するところで、個人の尊厳として”予測性が高い”と認定する事自体人権論的に見ていくなら差別的な発想であり、
その内面を深くよく知る人ほど「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言するでしょう。
つまり両親の対人認知は表面的なもので、深い理解に及んでいない証明でもあります。
=============================================================
「私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができる」事は、
本来の理解
↓
「予測なんてできない、この人物(子供)には様々な可能性があるからだ」と慎重に発言する
と相反する行為であって、
「私の学校の同級生や職場のことを言い当てることができる」と軽薄な発言をしている事そのものが、深い理解に欠ける人物である証明になっているという話を、既に説明済みです。
彼らの先見性なるものは「なんだかんだいってOLか主婦におさまるだろうと予想していた」程度であり”レッテル貼り”と大きく違わないという意味です。
> 「他の子どもと違った子」といっていたのは、学校の先生や周囲の大人たちで
> 両親には言われたことはありません。
なのでしたら修正必要ですね。
↓
=============================================================
>ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
異常行動があるからですよ。
反抗期で説明のつかない言動等、彼には「自分達の問題」という認識をする力はなく、子供の考えそうなことレベルの「違った子」等という見当違いな判断(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですからねここでも判断ミスってます)しかできなかったんです。
=============================================================
↓(修正)
>ではなぜ、他の子どもと違った子に思われるのでしょうか。
異常行動があるからですよ。
反抗期で説明のつかない言動等、学校の先生や周囲の大人たちには「心理学的な問題」という認識をする力はなくても問題がある事を認識する事はできた。しかし彼らには心理学的知識に欠けている事もあって、子供の親を呼んで教育方針や家庭における親としての振る舞いなどを聞き取りする判断ができず(心療内科に相談するアドバイス等も)、結果として「違った子」と判断するレベルを超える事は無かった。
ここには、外面完璧にも見える(月さんに神格化されたように)両親には強い自我防衛的な社会適応の”外見”があり(ここは884レスで「この両親にはとても強い(反抗に対する)防衛力があるんでしょう、」と説明済みです→885月さんのレスにより「私は子どものころから、この両親は越えられないなと強く感じていました」とこれは確認されています)、特別普通そうに見える(それもワンランク上ぐらい)な特徴があるのだと思います。こうなると周囲は余計にその家庭にコミットする力を失います。
自分達が所属する社会の防衛で彼らは手一杯という事です、
同時に、そんな事すら気が付かなかった見当違いな判断をした両親ですが、
ここにも明快な理由があります。
彼らは好き好んで気が付かなかったのではりません。
実際異常行動に遭遇し、それを彼らも認知もしたでしょう。
心理学的な知識があれば(本来はメンタルな問題があるだけで”他の子と同じ”なんですから)、その違いを「個性的な自立」なのか「メンタルな問題」なのかを切り分ける事もできたかも知れない。
しかし、それは構造的にほとんど期待できなかった。
理由は、彼らの自我には夫婦そろって(ここには共依存関係が成立している可能性が高い→「両親はとてもバランスがとれていてすごかった」)潜在的な自分個人の問題から目を逸らす自我防衛を備えていて、それを疑うような概念(心理学等)には抵抗が備わっていて、同時に自分自身の強迫性は無意識なんですから「まったく自覚が無い」上に、自我自体が感じるストレスは「両親の側に私と話し合わなければならないことは一つもなくて、「おまえは話がくどい。」」のように家庭内で発散すれば良かったのであり(本人にはストレス認知も少ない)、「何もかもうまくいっていて、自分達夫婦は完璧だよね」な自覚を持っている事も十分予測可能だからです。
構造的に自分達の問題を察知する能力を持っていない→子供の異常にも無感覚だった。
前回の私のレス以上に「彼らの理解には問題があった」となるでしょう。
> > 「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」なら全く問題無いのです。それも人生の選択ですから、
> という部分を私は選択することに決めたのである種体やこころが楽になっているというのもあるのではないでしょうか。
「その生き方である種浮いたり、不安定要因になれたりするのなら、不謹慎ですがそれも面白いなと思っているので、29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」
↓
つまり、自分が問題の要因となって”イロイロあるだろう(関係者にはご迷惑もかけるかもしれませんが=不謹慎ですが)”けれども、私には自分にメンタルな問題がある事を、十分自分で認識しているので「その根本的な解決」はじっくり時間をかけていくとして、今の自分にはこの状況で何とかサバイバルしてみようと人生の選択をしているので、それは実際には「29歳となってもなにをしたらいいのかわからず困っている」のは事実なんだけれども、それがどうしてなのかはわかっているので「なにをしたらいいのかわからず困っているなんて言えませんね。」、
この不快感は自分で選択したものなんですから。
実際親子関係含めて、過去の問題に触れていくのはハードな事なので今直ぐに取組んでみるとかって、今の私は無理ですし(そのまま温存しようって事じゃないですよ、問題意識はちゃんとあります)、実際ここまで生きてきた自分のスタイルにアイデェンティティーというか愛着というと変かも知れませんが私なりのキャラってあるんだと思うんです。
詳細に書けばこういう事です。
心理学ってものは、「こうしなくちゃいけない」って定義は全くありません。
本人が不快なら→「それはこういう事ですね」という概念を説明できるというもので、それは考えるための前提として意味があるのであって、従わなければならない法則じゃありません。
しかし、都合良く偏向されてもいいものじゃない。
「こういうことなんですね」な部分は変わる事が無いからです。
その概念を元ネタに「何をどう考えるのか?」これは常に”本人の自由意志”です。
だから”精神分析”なんです、
アナリストですから、
次の投資をどうするのか、分析してクライアントに報告するのであって投資を指示命令するものじゃありません。
「判断の材料として”こんなことになってますよ”」と、論議や事実関係を整理し分析して伝えるまでが仕事です。
「書かれている内容にもう少し専門的に詳細な説明を求める」、
という返信には無限に答える事ができますし、
「これは○○な意味で、やっぱり僕の判断でいいって事ね」
という誤読には、無限に答える事ができます。
問題はコストで、無償でこれを無限に行うには限界もあります。
ですから、私の方で誤読や抵抗があまりにも繰返されている場合には909レスにあるように「ここで一段落としましょう」と、話を整理しなくちゃいけない場合もあります(有料メールの場合にはここが料金設定で予め相談の枠として担保されています。依存関係とならないように回数の取り決めも重要だからです)
> という部分を私は選択することに決めたのである種体やこころが楽になっているというのもあるのではないでしょうか。
ここは、月さんの強迫構造が原因で認知できなかった現実の在り様を私が説明した事と
(副次的に派生する認知におけるストレスが後退した)
↓
>話をきいておおむねその人たちの発想のしかたがわかってきたから、解決してしまったのです。
(強迫が無ければ本来月さんが自分自身で気が付いていた筈だって事です)
そして、むしろ、
「ある種体やこころが楽になっている」専らの原因は、聖域化されてきた両親に関する部分に私が切り込んだからです。
僅かではあっても、その分月さんの自我防衛は後退し少なくとも(私がコメントする事で)両親の事を抵抗的反論であっても自意識で考える事が進んだ(以前は聖域化されているので疑問視する見方で考える事すらタブーだった)からです。
↓
> 両親のことをいろいろ言われるのはつらいですね。
この言葉が語られる907レスまで「相当期間があいています」ね、
そしてこの907レスには
↓
> うちの母は服装のことはすごくこだわるタイプでした。自分のセンスに自信があるから、私の選んでくる服やいろいろな行事に着ていくものなどにアドバイスがあるという感じです。(それもかなり強く)私は人と同じでいいかな、という感じの無難で地味目の趣味なので、そこは親と子どもが逆転している感じでした。
(過干渉→実は親自身の自我防衛を子供にも要求している)
や
> 今もはたからみれば両親が完璧に見えないなんてことはわかっています。
のように、強迫下にある月さんの自我にとって、今できる可能な範囲でかなり踏み込んだところまで認識が進んでいます。
ここまでの過程で、深層心理における強迫構造は「以前と同じ形を維持できなくなってきている」と言えますから。
> 心身の不調がなおったら、「共同幻想派」の人から違和感をもたれてとばっちりを受ける可能性がある、ということ以外に何かトラブルがおきる可能性はあるのでしょうか。
ここも以前に説明済みです。
↓
=============================================================
(同じく914レスから引用)
「カリスマ」と「いじめ」は実はよく似た現象なのです。
”変わっている”と社会に認知されている部分が明快な主義主張で裏付けされ、独立型の個人である事が認知されればその言葉の意味はカリスマに近づくのであって(偶然偉業を成せばカリスマになる)「あの人は違う」的な敬意で社会は迎えます。
「何を考えているのかわからない(強迫構造で無意識領域の認識は自分でもわからないので)」的な在り方は、本来大人としての仁義(人格モデルの選択)を切って初めて関係性が担保される社会において、所属社会が発動する防衛反応の問題(不当な差別)だけでなく、『特に当事者である自分自身にとって様々な不快や不安の要因となる』んです。
=============================================================
つまりコミュニケートです。
個として社会協調型人格の世界に対して説明責任(それがわかりやく人格として表現されている等)を果たしていれば、何か不自由を感じる事はありません。特別に野心等が無いのであれば営業的に説明する必要はまったくありませんが、少なくとも個人的な話を他人とする時に自分のキャラクターについて説明する事ができる自意識は必要でしょう(自分の事がわかっている状態)。
社会協調型の人格は「これでいんだよね」「ふつうそうだよね」な彼らなりの世界の中で「○○さんも同じだよね」と一義的に仲間認定してしまう構造的なキャラクターがあるので、ここに誤解がある場合説明できなくちゃいけないんです。
誤解が無い=認識や意識の共有がある=コミュニケ(合意や共有)
> 長く続けすぎているようなので、この辺にしておきます。
「この辺にしておいてやる」にも聞こえますが(笑
いえいえ、その意図は誤解無く了解しておりますのでご安心ください。
ここは前述で同様な話に触れておりますが、抵抗であったり自我防衛的な”確認”なるものは制限無く続きます。
それは話の内容自体に強迫的な防衛(そもそもそれを自分では思いつけない”自意識の抑圧”があるんですから→質問しているのであって)がかかっているためで今回の話もかなり以前のレスからの引用があることで証明されていると思いますが、「質問を続ければ理解が進む」ものでもありません。
何故なら「これはそうだけれど、これは違うんじゃないか」的な抵抗が続く事は、間接的な問題意識の外部化(自分で考える事ではなく聞くことだ的認知→ここは790・816・829スレッドのやり取りでも説明ありますので参照ください)になる場合もあります。
今回のスレッドを反復して読み直す事と、
特にこの公開掲示板のもっとも有意義なところは「他の人の相談ログを読める」ところです。
過去ログの閲覧も非常に参考になりますから読んでみてください。
同時に心理学の背景に関しては、HPのコンテンツ「心理学テキスト」、ブログのカテゴリー「心理学テキスト」にも大量のログがありますからこちらの閲覧も薦めます。
とにかく、今回のスレッドを何度も頭から読み直す事は重要です(認知は簡単に進まないものなので)、
何か疑問や考える事があれば反読をお勧めします。
その都度感じ方や認識が変わることも珍しくないのです。 |