順調です安心してください。
「事実関係の明瞭化と整理」ここはほぼ鉄板で進んでます。
(具体的かつ詳細な部分は”歴史的興味”があれば別ですが、個人心理学レベルとしてはほぼ十分完了に思います。)
重要な部分を抑えておきますと、
>ドアを開けたらいきなり玄関(家の中です)に、母の自転車が置いてあって…。当たり前ですが玄関は自転車が置けるほど広くなく、今まで自転車が置いてあったことなんてなかったです。ものっすごいびっくりしちゃうんですよね、なんだこれ?って。すごい異様に見えるっていうか、不安にさせられるっていうか。この人は大丈夫なのか…?みたいな。
↑
こういう認識が自然にできるようになっていることは大きな進歩で、『強迫メガネ』みたいなものでしか事実関係を見られなかった状態は完全に脱しています。
むしろ後段に登場する『強迫心理状態の残滓』
(ほとんど後遺症みたいなもので放っておいても徐々に解消していく類のものになっているんですが→それを温存保守する構造が瓦解しているため。)
そこいら辺をトレースすると、
以下あたりの認識が「ちょっと違うかな」と思います。
↓
>母が無意識にそれをやっていたとは到底思えないので、
>果たして母はどこまで気づいていて、どこまで本当は狡猾で、どこまでが無意識なのか、と思います。
>たとえばこのような祖母や私との強迫ドラマを、母が本当にまったく何の疑問(あるいは違和感)もなく、無意識でやっているのだとしたら、母は私にとって巨大なモンスターになってしまいます。
>私は、幼い頃母に「私(母)を捨てたら殺すわよ」みたいな恐ろしい暗示をかけられていたとでもいうんでしょうか…。
>それとも私にはまだ自分が絶対に気づきたくないような真実があるのでしょうか??
『無意識』
これがどういうものなのかって捉え方がまだまだリアルに認識されていないですね。
「夢遊病」との対比で考えてもらえればよくわかると思うんですが(あるいは自意識が完全にショートしている認知症状態における自我の可動プロセスとか)「人はそれほど自由に動機形成というかロジカルな動きをできない」のと同時に「保守的な過去事例の反復や”投影”による仮想過去事例の反復においては自意識が抑圧されていても”さも意識的にそうしているかのように”動作可能」なんです。
専らここには高度の無意識領域を形成する『共同幻想』との関係抜きには語れないのですが、
それだけでなく、人間の脳には膨大な記憶領域があって(逆に言えば自意識はそれを完全に掌握していない)、受験などのテストがいい例ですが「覚えているのにその時意識的に思い出せない」これ普通にありますよね?
これはつまり、脳内無意識領域には膨大なファイルがあって(トラウマ現象のように関連性として自意識判断を飛び越してリンクが生き続ける場合もある)、これは投影だけでなく(事実関係の認識:類似反射など)認識にも影響与えます。
これに対する上での『自意識マター』というのは、インデックスの管理じゃないですけどOSレベルでフォルダのツリー構造やら「削除扱いフラグ」など「アドミン権限で指揮権を発動する」ようなものなんです。
しかし、共同幻想系の枠組みの中強度の強迫神経症状態の自我には「そうかんたんに自意識マターになることすら難しい」事になり(永遠の自意識共犯:無意識的ロジックを追認するだけのような状態)、主導権を持っているように見えて(感情的に騒ぐ様子などはそんな風に見えがちですが感情的とか興奮というのはどちらか言えば”反射”なので自我状態は無意識的である証明になります)
ちょっと正確性においては問題なんですが着想を生かしやすいというか、
無意識を甘く見ないために、
■映画『犬神家の一族』(市川崑の1976年版)
参考として上記映画を観てください。
(構造は全然違うんですが、私が言っている「無意識に」って表現は上記映画における高峰三枝子演じる母親の説明のつかない行動級のロジカルというか実行可能性を意図しているものです。なんというか「それはそのとおり無意識でもあり得る」のような、)
逆にいえば「それが全く無意識だからこの話は怖い」んですよ。
(違う意味で)
「なんちゃらサーガ」と呼ばれてみたり、
仏教哲学が「カルマ」なんて呼んで恐れたり、
それを知ったものが”トンデモオカルト話”と勘違いしちゃう級の代物です。
(心理学的には「それほどでも」で説明できちゃいますが、)
そうですね今回のテーマというか課題としては『犬神家の一族』観る事が一番大きいかなと思います。
(勿論TVなどでも再三再放送されているのでご覧になった事あると思いますが、それでも課題意識を持って改めて観てください。)
さて、話は戻って今後のスタンスですが、
>もう何も言えない(知らん)と思いました。
↑
これが正しい選択です。
以下と重ねるとわかりやすいかと、
↓
>母への怒りの抑圧(=実は死ねばいいと思っている)があるんです。
>その怒りは、今でもいつでもふきだしたがっていて、場合によってはその時周りにいる人に迷惑をかけます。
>もし母が情緒不安定なんだとしたら、ますます私は母に対して憎しみを口にできない、言っても通じないことになります。※現時点で私は母に自分の思ってることを言うつもりはさらさら無いです、それを前提として。
抑えるとかそういう話じゃありません。
「狼が来るぞ」で、
「ゲッ狼が」とこれをインストール(幼児における誇大性でさらに凄い狼ってことになっている)しているから、狼話の流れで「なんてことを」とか怒ったりするワケですが、
この話は「そもそも狼などいなかった」のであり、
更に言えば言った当人は「狼なんか言ってないわよ」と全く自覚はありません。
(極端に言えば記憶にすら無い)
あり得るのは「時々今でもある”あの妙に不快で耐えられない感じ”が”その時”にもあったかもね」のようなものなんです。
それを傍目で見ているだけならまだしも、
当事者として言われる立場だった人間は「あれやこれやの大騒ぎ」となったのですが、
言うならばこの物語の全体像は、というか”落ち”は『人騒がせな奴』なんですよ、
(これが残念な事にと申しますか本当にそうなんです←だから逆に恐ろしい。)
(今回とは全く関連ありませんが)巷で昨今問題になっている「実子虐待殺人」なんてのも事の発端は『人騒がせな奴現象』なんです。
(これが大規模に拡大して同時に本人に犯罪フラグが別途あると事件性に話は拡大します。注:犯罪フラグと心理的要素は全く別の論議です。)
■つまり”はこ”さんに取るべき正しい反応なんてものがこの世にあるとすれば
「は〜〜。。。」
溜息とも落胆ともなんとも表現のできない「は〜・・・なんだそれ」以上でも以下でもない。
そして「もうねやってられないから」となり、
↓
>もう何も言えない(知らん)と思いました。
↑
これが正しい選択です。
ですから、
↓
>最近はこのことを意識することによって、「今のこの怒りは不当な怒りだ(この人と関係ない)」と自分を静めることが少しずつですが、できるようになりつつあります。
そうじゃなくって、「怒るところも無しかオイ。。。」なんですよ、
(勿論個人的に「ったくコノヤロー」的に怒るのは正しい反応ですが、怒るにしてもニュアンス違うのわかりますよね?)
実際得体の知れない興奮(場合によると怒りと捉えられている)の元ネタは「おっき過ぎる狼」にあるのであって、
当事者同士のなんといいますか利益関係によるものじゃありません。
話を簡素にしてしまえば「最大級の判断します。アンタとは取引停止だ、」←これが最大級なんですよ、
(既に大人になるって過程なので”はこ”さんは独立事業主なワケで)
↓
ですから「取引停止とした過去のお得意さん」の事を後からアレコレ言っても始まらんのです。
(勿論個人的に「ったくコノヤロー」的に怒るのは正しい反応ですが、怒るにしてもニュアンス違うのわかりますよね?)
ここで見えてきますよね?
■「取引停止だコノヤロー」がちゃんとできておらず、自分自身も(まだもって依存的に)『この世に親子関係なんてものがあるのだと今でも思っている』から(親子関係なんてものは幼児のファンタジーみたいなもんですよ→現実世界にはホントの話悪魔なんてものもいませんし)まだまだ残滓が(幽霊みたいに)時々顔出すんです。
「え、マジ、そういうことってアリ?は〜・・・なんだそれ、もうねやってられないから」
ここがまだまだ十分じゃ無いのですよ。