完結というところがポイントなので
「返信にレス等しないでください」と注釈ある筈なんですが?
この意図ですが、文章としてレスを付けてしまうと完結した内容に更に注釈が付くのと同じ意味があるんです。
「○○しかしこうだった」的な後書き的な既成事実化です、
簡単に言えば完結している論説を覆す注釈も可能になります。
曖昧な部分を残す論点がやりとりによって前後するのと違い、個別の質問は返信によりその件の(質問の趣旨に関しての)完結した論説となって完了している事になります。
ですから、
↓
「返信にレス等しないでください」と注釈あるんです。
ここはレスを付けるのではなく、論説に対して(返信が書き込まれる事が質問の趣旨になりますから)考えるという部分です。
今回「後書き的」になってしまっているので、
更に修正としてレスを付けますが同様に個別の質問に対する返信になりますから
繰り返しますが「返信にレス等しないでください」
>個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょう
これはあり得無いんです。
「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。
極端に言えば加害者の側も好きこんで今の時代に生きているのじゃありません、
(つまり加害者が戦国時代の人物であればと考えれば別の意味になる)
納得するとかしないとか、そういうレベルの話ではありません。
現実を生きる以外に実存しようが無いのであり(人は妄想の中で生きているのじゃありませんから)、
上記をわかりやすく極端に解釈するならば、
「権威者は、私の納得いく社会を整備するべきじゃないか」
のような受益者側の『被(こうむる)』心理が背景にあります。
少なくとも上記論旨の背理には「(私を)納得”させる”べきだ」を是としているからです。
(しかも権威史観になっている)
『突然巻き込まれた災厄』
これは相手が人だろうか自然現象だろうが同じことだからです。
(他者の存在も”そういう動物がいた”という自然現象なんですから→俯瞰で見ればいきなり熊に襲われたのと違いが無い。ですから自分自身の暴力性を法治国家という枠の中で国家権力に預けるのか、全ての権威をアナーキズム的に否定して「各個人が武装する平等性」を選択するのかって政治的論議も成立しているんです。:しかし大きな枠で言えば犯罪性のある選択は誰にとっても合理性が無いので「そもそもそれはナンセンスな世界でしか起きない」と捕らえることもできる→民主主義なり法治国家なりの選択はそういった賭けを選択するものです。賭けですから利益を保証するものじゃありません。そこに市民が一票を賭けているんですから、)
阪神大震災の時神戸に住んでいた人は、東京に暮らす人と比較するなら不平等であるとか理不尽であるとか考える事も可能でしょうけれど、その思考には何ら得るものも現実の獲得もありません。
自分自身今の時代をここで生きている事は自分自身のレーゾンテートルやアイデェンティティーに関わる事だからです。
(今そこでそう考える主体は今ここで生きているからそう考える主体として存在するんですから)
「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。
又、実存主義哲学には「不条理」という言葉がありますが、
意図しているのは「そこにこそ実存が証明されている」という意味で(話せば別の意味で長い話になりますので割愛しますが)、
「その不条理こそが自らのレーゾンテートルである」
『パスカルの賭け』という概念もそうですが、
(ここはブログにテキストあります)
「だったら今自分はどうするのか?」
答えはここに帰結するんです。