>母父とも、もの静かで、論理的、合理的な考え方を好むような人で
>二人ともかなり我慢強いと思います。どちらも朝から夜遅くまで働いているのに
>愚痴をほとんど聞いたことがありません
>ただ面倒なことが、特に母親は、大嫌いでした
>キャパギリギリまで背負い込んでる状態で、
>もうこれ以上何かを背負うことを全力で拒否する感じです
↑
端的に言えば本音の抑圧と強迫心理ですね。
(強迫心理の特徴のひとつは”ステレオタイプ”ですが、これは時々論理的合理的と誤解されます。論理的合理的なる発想の本質は融通無碍にイロイロな抜け道見つける上手みたいな(オルタナ)ところが本領で、結果窮屈になるのは論理的でも合理的でも無いのです。)
>こっちはずっとなだめすかしてんのに調子に乗ってんじゃないよなんて言われるものだから、
>我慢して付き合ってたけど本当は私のこと嫌いだったんだと落ち込んで、
↑
完全に赤の他人状態(自我を持ち始めた子供に対しても一般社会の大人相手と同様の対人恐怖や過緊張が出ている)。
というか家族法人取締役的パフォーマンスが全然無理であると、
(イメージ的には融通の利かない無能な中間管理職のそれに似ています。)
◎ここから彼らが家族法人を立ち上げしたのも彼らのステレオタイプがそうだったからで好き好んでのものじゃないでしょう。
(強迫的な家族法人設立←彼らも”誰か”を権威的に意識しての行動で彼らの本音(自由意志)は抑圧されている。)
>ショックだったのは、
>9歳のころ突然父にイタズラされそうになったことです
↑
ここは話半分に減額してください。
(事実関係を否定しているワケではありませんよ。以下に詳細あるようにこのような類する話は裏取り含めて慎重に確認していかないといけない要素が可能性としてですがひとつのリスクには違いないためです。)
根拠のひとつは一時大きな話題になった欧米社会の実子に対する性的虐待のかなりの数が誘導尋問的な記憶偏向も少なく無かった点。
それから特に日本においては小児性愛は欧米に比べて少数派であるのと、以下の証言です。
↓
(何回か前の証言)
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか
分析の過程で誰かが悪い的に認識の歩留り(本来はその向こうに彼らの強迫環境も知り”業(ごう)”というか”性(さが)”というか仕方の無い世界だなほんとのようなジャーナリズム的視点に至って理解なので)過程で、悪感情から記憶の一部(前の証言との間の乖離に注目)”特に印象”に関しては割り引いておくのが賢明であるためです。
(いい悪い論に認知が引っ張られるのも強迫心理の特徴(道徳野を占有して抑圧の原動力とする)です。)
更に言えばくだけた家庭の場合父親が娘と中学生ぐらいまで一緒に風呂に入るなど性に奔放な文化を持つ日本の場合あってもおかしくないもので(当然性的な馬鹿話もアリで)、欧米における問題は宗教的抑圧とその反動ですから(倒錯の意味合いや経路が大きく違う)、全てを性的虐待の枠組みで見るのには一定のリスクがあります。
※欧米の小児性愛と違い日本の場合には性に未熟(或いは未発達)な年少者等の男性が傾倒するなど倒錯が別経路となっている。
※むしろこの場合『夫婦関係の問題を考える』背景のひとつと考える見方もあります(後述)。
推定のひとつとして強迫により人格破綻傾向のある両親の父親が(強迫下で)抑圧されていた自意識が(彼の本音には娘が可愛いなどの意識あったでしょうから)、対人恐怖そのままにおぼつかない方向を辿り「娘には嫌われるは・それを問題の妻(ここで夫婦関係の推定)に見られるは」という(自意識を更に抑圧しなければならない袋小路的な)絵というか場面に(可能性として)目を向けるべきでは無いかと。
ここでの嫌悪感は妻(母親)の父親の自意識を嫌悪し蔑視(抑圧する)視点がyuttieさんの視点に(そのまま強迫心理として)影響している可能性があるからです。
(認識の歩留り論と一致する。)
※専ら男性嫌悪心理の一部は『母親の強迫意識』が大きく関係している可能性もあります。
(ここも推定ですが:後述)
その認識ベースで見ると以下の状況は別のものに見えるかもしれません。
>同時に父は私からパッと離れ何事も無かったかのように去っていったんで、
>恋愛や、それに関係する話題に吐き気を催してしまいます
>それともただ私がまだ大人になりきれていないからでしょうか
性の嫌悪にはいくつかパターンありますが、
自分の性(大人になる=子供の心理で依存関係にある家族社会を喪失などから)に対する嫌悪や、
性(ジェンダー)そのものに対する嫌悪で、この場合『母親との同一化(女性の子供の大半は一時期この過程を経ます)』の影響などですね。
つまり彼女が強迫的人格であり且つ婚姻しているとすれば→大人になっていないまま強引に結婚していることになるので、性的快感認知は過去の自分の家族を対象としたまま現夫となるワケですから、夫婦関係において潜在的にも顕在的にも夫を嫌悪している可能性かなり高いです。
(無意識下のファンタジーは自分が子供時代所属していた家族社会の中のなんとやらとなり(強迫心理特有の特権階級意識となり)現世を(一般他者である男性全般を貴族社会から)卑下するなど、)
母親が主導的役割で強迫家庭となった事例では特に娘が父親などを(問題のある母親の伝聞情報などを元に)誤解から過剰に嫌悪しているなどのケースも少なくありません。
>私が人に依存することに未練たらしく拘泥していたのは、
>高校のとき入った部活でかわいがってもらっていたからだと思います
>ただ誰かに認められている、だれかがちゃんと見てくれていると思うだけで
>なんでもできるような、どんな困難も乗り越えられるような気持ちだったんです
↑
これは非常にアンラッキーでしたね。
時々あるんです、
偶然と言うか特定社会に対して妙に社会適応してしまい『妄想家族を仮想実現してしまう』ケースですね。
(現象としては全く違うのですが構造的には不良化と暴走族(代理家族)ともクロースする部分あります。)
依存関係には”スカウティング”という過程を経る事も多いので(必ず強迫心理にとって都合のいい相手が選ばれている)、潜在意識の強迫心理は「妙なお墨付き」を得て暴走し(温存拡大)、その後に強い反動性(行動の過激化など)帯びる場合もあります。
(ズルズルと当時の関係者との関係が続きその都度何らかのアクションが強迫トリガーを引くマッチポンプとなる場合もあります。)
>両親に退部をせまられ鬱病になって、結局途中で退学してしまいました
>偽親によって本当の親から引き離されたような気分でした
↑
この当時の記憶も”印象に関しては”割り引いて考えるべきでしょう。
「強迫心理のいい悪い論に極めて都合がよ過ぎる話になっている」からです。
(結果として強迫心理の拠り所である『幻想家族』が過剰に美化されて終わっている事に注目。)
>悲しみや恨みや憎しみ怒り寂しさが抑えられずに垂れ流しになっていて、
>しかもいくら吐き出してもつきないんです
つきないのはそのルサンチマンそのものが『誤解』だからですよ。
(イカレタ家に生まれたとか、トンデモ暴力両親だった的な事は何とでも無いと言えば極端ですが(理由が幼児や子供にもわかりやすい”そのまんま”な内容の場合メンタルな問題に発展しない)、ルサンチマンの根拠を想像すれば簡単です。「本当なら○○や○○など子供的にも大変幸福で快感のある○○な幸福を奪われた」←前段が自己愛的に増幅すればするほどルサンチマンは拡大する。)
極端な話生きるか死ぬか寸前の状況で育ったとしても「自分自身だからどうしたなんですよね(←今元気に生きている事が証拠)」であってなんら不思議では無いのです。「ほんとにね(笑、あのクソ両親とか思いますが、いえいえ別段怒ってもいないですよ。てか怒っても仕方ないでしょう、彼らもあーやって生きてきたんですから。」
↑
問題は事の軽重(なんでしょうね抽象論になりますが幸福の軽重でもなく)とは全く関係無いのです。
わかりやすいのか、わかりにくくくて「幼児の心理がその説明に幻想を必要としたか」この差異です。
(いい子幻想も全体の幻想の延長上にある”ナンセンス”なワケで)
>自由の前に、安心できる場所でゆっくり休みたい…
>十数年前からずっと、なんとなく疲れていたそんな感じで、
↑
これはいかんですね。
ゆっくり休んで滋養付けたいのは強迫心理ですよ。
(依存先の喪失に焦っているんですよ。)
※そんな都合のいい先はありませんから、仮にそう勘違いして依存した場合、勿論そこにも現実社会ありますから(過度に社会適応しないと捨てられ妄想などとなり)下手すると誰かを殺意に近いほど恨んでしまったり、関係悪化したり、場合によると過度の社会適応意識から「○○ができないからだ」などのような偏執的な妄想に囚われたりなど問題が悪循環化し現実に現象として波及してしまう場合もあります。
疲れていたのは依存先との関係を固定化するために無理をして「それこそクソの役にも立たない勉強したり」ですね、
一見応援している人(実体は強迫心理の取り巻き)を美化しちゃったりですね、
随分自意識の本音から遠くまで来ちゃったからです。
辿りついて「なにかしたいの私」状態であると、
ゆっくり休むなら「ひとりでやすんでください」。
(引きこもりと意味は違いますよ。ひとりで喫茶に行くとか、図書館行くとか散歩するとかのんびり過ごすということで、)
>単独行動していますが
>生きること自体またすこしだけ苦しいです
↑
それでいんです。
世の中ね、基本生きるってのはある程度疲れるなど苦痛も幸福のうちですから。
散歩したって疲れるんだし、読書すれば肩も凝るし、
登山は命がけだし、硬球当ったらデッドボール洒落にならないし、
最初に飲んだ酒はマズイものだったり、最初の喫煙はクラクラ気持ち悪いものだったり、
幼児にブラックコーヒーの味はわからないし、
何か上等なもの食おうと思えばハードに働くとかね、
海女ごっこだとばかり海に潜ればだれでも息が苦しいのであって、
『疲れられる』ってのは自由な自意識の発露として「こっちいくと選択」した結果(モチベーションの発動にも成功)その過程を証明するものであって(確かに企画立案と行動のハンドル握ったという)、腕立て腹筋などハードにトレーニングすれば誰だって苦しいですがそれは『不幸の逆さま』ですから。
>自分の状況を一年前と比べて少しは客観的に見られるようになった分
>少し余裕を持てるようになっています
言うならば上記二行が現在の自意識の本音であるということでしょう。
(レスはその二行だけでよかった)
と考えてみればですよ?
以降に続く話のおしまいが→「強迫心理擁護ともいえる方向に揺れている」とも見えるのであって、
前段二行が以降の反動となる文章構造となり、
(そういう内容は現在の自分の自意識の思惑とは違っているので)
↓
>かなり具体的で、さらに他愛のない話で、返信にすらあまりなってなくてしまいました
こういう感想になったのでしょう。
(自分でも違和感がある)
>ごめんなさい
いえいえここは私に謝るところではなくって、
自分の自意識に謝るとことです。
「スマン俺、余計なこと考えた」←という感じですね。