>雑用係しかこなせない人は自分も含めて社会のお荷物だと思ってました(今ももやもやしてますが)。
私の年齢からみれば男女雇用機会均等法なんていうのは最近の話しでして、
私の年齢からしたら「女性は一般職で(お茶くみ)、短大出て大企業の一般職というのが最強の結婚活動(逆に4大なんていくべきじゃない風潮もあった)」というのが定番でした。文中にあるように”最強”だったのです、
(勿論こういう習慣的風潮そのものが社会差別となり→男女雇用機会均等法となるわけで)
言えば戦後からついこないだまで日本の大きなトレンドは「女性は電話番とお茶くみしかしない」だったのです、
(採用時から完全に切り分けされていた)
上記流れが完全に途絶えたかと言えば違いまして、
今でもハローワークの求人事務職で女性の方が有利なのは受付や電話番など”暗黙の希望”で会社は女性を採用したいのであって(対応的にもソフトタッチになりますから→親切な女性が対応しますのようなキャッチコピーがあるぐらい)、実際に現場には差別と関係のの無い”一般事務職(現代的一般職)”が存在します。
そして、それがお荷物だったら大変なワケです。日本の経済ガタガタになります、
つまり偏向し(誇大化)した共同幻想的強迫心理特有の”権威主義認知”の名残がまだまだ残っている。
(メンタルな問題では無く当時解釈されていた”偏向知識”が残っている)
これはオセロゲームのように逆さにすればいいのであって問題の大小から言えば”小さな問題”です、
しかし、仮に「所謂立派な仕事(何のことだか抽象概念でわかりませんが)に拘り、雑用係を蔑視する視点へのこだわり」があれば”強迫心理が興奮している”事になりますから「はいはい、これは黒から白」とパチンと裏返しにできない(強行に抵抗)のであれば問題だとなります。
言うならばどこも誰も頼んでもみない(或いはきいたことすらない)「強迫心理(幼児期自我がベースなので端的に言えば”子供の勝手な想像”的な影響を受けていると考えられる)の勝手な想像があたかも”誰か存在もしない権威者”が命じたかのように思い込んでしまう」。
神経症含めて典型的に見られる”過度の社会適応傾斜”に頻繁に見られる現象です。
(勘違いされた特権階級意識←本人そのつもりは全くないが、はた目から見れば”過度に立派であるべきで雑務など私にはあり得ない”というスタンスは結果論として自然に仕事しているスタンスの構成員(そつなく業務が終わればよいのであって別にできなくちゃいけないなんてないわな)を知らない間に蔑視しているのと同じ事に気が付かない(私はあなたたちと違う)。←これは強迫心理の組成が家族社会の中で幼児や子供という”被差別特別枠”であるところの反動みたいなもので、典型的な幼児心理の誤謬です。)
>仕事をこなし、オフは友達とはしゃぎ、好きな人や家族と過ごすことが人間の幸福なんだと思ってました。
本当の酒飲みが静かに銘酒を一杯とか、昭和サラリーマンが一日の終わりに晩酌で一杯など、
↑
もちろん幸せな世界であるだけでなく感情的にも豊かなシーンですが
嬌声挙げてはしゃいで大騒ぎしませんよね。
(子供じゃないんですから→思い出してください第三者が顔をしかめる「しまつにおえないガキ」の定番は「嬌声挙げて(興奮がとまらず)騒ぎつづける子供」のことです。メンタル的発現としては世間から忌避されるその典型事例が『暴走族』。)
補足すれば家族も友人関係も基本は全て「赤の他人」です。(血縁や友人関係の縁があるだけ)
勿論そういった関係の中にも実を伴った深い関係性が成立する場合ありますが、その場合呼称が変わります。
気の合う家人とか親友とか、
共同幻想社会ですらわかっているのです。
大人同士の信頼関係を前提としない場合、家族もただの呼称で(血縁というだけで赤の他人である)、友人もただの呼称です(友人というだけで実体は顔見しり程度)→だからワザワザ『親友』なんて言葉が”別途”あるのです。
※逆に『親友では無い友人の定義』や『個人的には親しくない血縁』と考えるとわかりやすいかもです。
共同幻想社会における”個の論理”は『共同幻想社会(世界)内の論理』なワケで、更に意味合いを紐解けば、
血縁とか友人関係というのは前提となる共同幻想の道理なのでこの際関係無く、彼らとしても何がいいたいかって「キモは大人同士の信頼関係だ」ってことです。(ベースラインは個と個←なので個体は各個に自立独立していなければならない)
ですから、逆説的に言えば「家族でも友人でなくともよい(これは共同幻想成立に関係するキーワードで特別自意識にとって個人的意味は無い)」重要なのは独立し自由に活動する自意識(大人性)が、信頼関係をもてる相手となるのです。
信頼関係があれば相手は「馴染みの店の店員でも、身分違いの上司や部下でも、普段交友関係のない知人でも、ネット社会における媒体でも(下手するるとロジカルな概念であれば人でなくてもいい→これが哲学思想などの学問や強い趣味性や美意識など)」いいのです。
(勿論人間以外の枠であれば、愛猫や愛犬でもいいワケです。人間よる遥かに哲学的な個体も存在します。←この場合も大人として大人同士の仁義を切るから見出せるものです。)
※それこそ信頼関係が揺らいだ夫婦は同居に耐えかねて別居なり離婚するのであって「なんでもかんでも家族と過ごすことが幸福では無い」この場合も内容次第(だったら外形や共同幻想的属性呼称(夫や妻のタイトル)は二の次)ということです。
勿論構造的には個の幅が大きい単独者は(呼称と関係なく)誰彼となく信頼関係を派生させるには有利です(所謂ネット空間におけるコミュニケーション論じゃないですが)、
メンタルな問題などで自分で排他性(ひきこもり)発現すれば”逆の目”になりますがこれは例外事項です。
共同幻想保守は外形として”所属などの枠組み(リミッター)ありき”の側面はあります。特に共同幻想社会は滅多な事で自意識マターを発現できない制約(協調優先)があるため、自己紹介効果として「どんな人なのか説明し難い」(それ以上に組織人としての属性の紹介が上位になってしまう)ため、共同幻想な人ほど信頼関係の構築は苦労します(パッと見多数友人がいるように見えて実体ひとりもいないケースが大変多い)。←結果として共同幻想社会が信頼関係への不安から「集団で嬌声あげたり騒いだり」が発現しているとみる事もできるでしょう。
且つ、
その信頼関係は定期的に確認しなくちゃいけないのなら信頼に欠けることになってしまいます。
馴れ合い目的ではありませんから、
つまり、自分の生活動線におけるいずれかに信頼関係のポイントがあれば、信頼関係性が日常生活に頻繁に必要なのでは無く、
(自分の人生を生きている事が、結果として信頼関係の生存証明になる)
しみじみひとりで一杯の酒を飲むとか気の合う奴と静かに語らうとかって世界には「深い意味がある」ワケです。
その感情的奥行というものは→「嬌声挙げてはしゃいで大騒ぎ」の対局にあるもので、
※なので昭和の家庭モデルにおいては父親はほとんど言葉を発せず団らんの笑いにもあまり参加しません。
※更に言えば良家の子女には「はしたないので人前で歯を見せて笑うな」という世界もありました。
※真剣勝負の囲碁将棋やテニスや茶道や他武道もダンスも(個のパフォーマンス最大)ちゃらちゃらした私語厳禁です。感情云々どころか生死を賭けるような(生存証明)モチベーション限定解除『最大』なわけです。←こうなると個人的趣味の世界も命がけだぐらいの勢いだったりする。
いわば思考の鍵は『大人の世界』ということであり、
強迫心理時代の過去の知識の影響で勘違いしてしまうと、(強迫構造は壊れているのに)過去の知識に振り回されてしまいリハビリ過程が無意識から妨害されてしまうというワケです。
※又、興奮快感と幸福には関連性ありません。興奮快感の元ネタは「団体作業ストレスのご祝儀として(インセンティブ)原始社会で始めたお祭り(大興奮)」等に始まるもので、麻薬とまで言い切りませんが、無理やりの共同作業(原始的共同幻想)のストレスを弁済するための快感物質によるインセンティブや報酬(原始時代なので酒を振る舞って踊り狂うというのは一大イベントなのです)であり、極論すると若い人達が群れて騒ぐという現象は→群れることのストレスを回避するために同時進行で騒がないともたない(集団が維持できない”不安”)からなのであって、逆に言えば「ぬけがけして帰るなよ」とか「他の奴はくんなよ」などの排他性(集団を維持する自己防衛)でもあります。←無意識的なので彼らに自覚があるのではありませんが「好きでやっているのでは無い」と捉える事もできます。
(無意識的なので「好きでやっているのではない」の自覚は限定的ですが、勿論現代社会の場合共同幻想はほころんでますのでかなりの構成員は「疲れる」「帰りたい」などの限定的な本音を自覚してます。)
※興奮快感には習慣性(中毒性)があるため→文化人類学的には共同幻想の仮想普遍化はそういった側面の中から生まれてきたのかも知れません。
<ひとつ参考としては>
>こんなことを言ったら他のスタッフや利用者さんとの衝突も避けられそうにありませんが(私の言ってることが正しいかも分からない);
>職場の人は私のことを良く思ってない人もいるでしょう。
強迫意識離脱リハビリ過程中とか、或いはメンタルな問題発症で早期に共同幻想の裏だけは見えてしまったなどで『暫定的単独者系(この系は銀河系などの系で”域”というか”射程”とか”レンジ”みたいなものです)』の状況にありますので(単独者・共同幻想保守の選択は離脱後再選択なのでリハビリ中は暫定)突っ走り過ぎると誤解から見当違いの批判を受けたり誤解される事もあります。
対策としては積極的な情報開示です。
(聞かれる前に話すみたいな)
自己紹介というより更に営業並に情報を開示する。
(苦手や関心や自分の状況や”現在リハビリ過程(遅く来た大人の反抗期)フラグ”として試行錯誤の様子を”個別の考え”や”やってみたこと”などのディティールも積極的に話すなど)
人間何が不快って一番は”誤解”ですので、
後は「(それは共同幻想的仕事で本当のところは)違うと思います」なる意見があってもこの場合には(共同幻想な人も好きでそうやっているのではなく”共同幻想リミッター”でそれ以上できないのであり)、自分の意見であって誰か特定個人を批判しているのではないと伝わるように配慮することでしょうか。
注)どこの世界にも『共依存リスク』というのはあります。ですから上記の話は「私は迷いなくこうやってます」的な自己紹介の範囲に留める注意も必要です。素人相手にというと語弊あるかもですか安易に「相談話」とならないように注意してください。待ってましたとばかりに過干渉で関係してくる人物が(その人物の強迫心理の勘違いを前提に)おせっかいにつきまとうというケースも珍しくありません。
(リハビリ期間は自己防衛で”恋愛制限かける”ってのはこの辺のリスク管理です)
などなど今回のテーマは全体に渡って信頼関係が基本という話ですね。
(人に対してもですが自分の自意識に対してもです)