重要な勘違いはココ
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>「私は母親のことを死ねばいいと思っているような人間」だから、「死にたい」です。そうなってたんです、多分。
>母親のことを死ねと思う自分なんて死ねってことですね。
いえいえここの始まりの部分だけは全然違ってます(180度級に)。
順番を追って考えていけばそう難しい構造では無い。
1)情報的に公開掲示板上では推論の域を出ませんが”仮説”として、一義的にこの物語の発端は『母親の人格上の問題である』。
2)幼児期にhakoさんは、その(母親の)何かに気が付いたが(乳幼児が母親との間で致命的に関係がこじれたらマジに死を意味しますから)、生存本能としても強引にその違和感を合理化し「否が応でも母親との関係を優先させる事実認定を行った」←この段階で現実から乖離(母親の人格を疑問視するのが正解ですが、それはなかなな乳幼児の判断可能な幅に含まれない)、現実から乖離し『結果論として絶対母親を肯定してしまうようなロジック』を自我に組み込んでしまった。
(つまり「極端に無理のある母親の肯定と依存」この認識の歪み(誤解)が2次派生として関係の無い男性社会全般への殺意に表面化していた:火山の噴火口を強引に塞いだら関係無い場所でマグマがあふれ出たみたいな話です。)
3)心理的な問題は「時制のズレ」である。
実年齢は20歳過ぎている(親が誰だの普段考えない年齢です)のに、母子関係などを意識してしまう(=内面に幼児人格がある)、
4)脳内で時制のズレがある=自分の脳内では「今でも6歳のままの自分」が”フラッシュバック”している。
5)話はここで一巡し→『乳幼児が母親との間で致命的に関係がこじれたらマジに死を意味しますから』
実年齢は20歳過ぎている人物ならごく一般的な「自分が大人の年齢になる(=少年は男性へ少女は女性へ)」のような自立独立が”非現実”でえあるかのような錯覚(脳内では6歳がフラッシュバックしてますから)となり、
↓
公共事業で飯食っている中小零細建築会社が、
「親会社である大手ゼネコンとの関係が切れたら死ぬしかないと思い詰めるように」、
(もう説明しなくても意味わかりますよね)
母親との関係やら依存やらの不快がある時、脳内に幼児期の自分が”フラッシュバック”しているって事で←これはまったく誤解です。現年齢は全然違うのですからね。
(もう談合の時代じゃないし、そういう不正が残る方がおかしくて、中小零細も親会社からの発注だけ受けるのでなく時代は平成なんですから、自主独立の立場で自分でマーケットにアクセスする方向を考えるのが”現実”です。)
内面の情動を言語化する時に「死にたい」という言葉を選んでしまう誤認(現実との乖離)のキモは、
『癒着と談合』→家族社会で言えば『依存と内向』です。
※前述の”フラッシュバック”を私は現象として”ノスタルジー”と呼んでます(語彙的には微妙に違ってますが)。
一種の錯覚です。(現実には存在しない事象ですから)条件反射とは微妙に違っていて、トラウマ論で説明した方がわかりやすいでしょう。
あるホラー映画を観て凄く怖かったとします。そして、その映画に登場したシーンと同じ日常生活の場面で”映画の途中で感じた恐怖感が再現する”ような錯覚です。(そもそも映画で感じた恐怖感は事実から乖離したお話での恐怖なのにこれが実生活で再現される事が”可能性としてあり得る”ところがポイントです←発端となる事実関係が存在しないという意味ではありません。幼児が見て怖いと思うものと成人が見て怖いと思うものは違いますよね、それだけでも幼児心理が仮に継続しているとした場合、現実認知があれれも無い方向に行っちゃうことは想像できるでしょう。)
※又依存性の部分を補足すると、まさにそれは『中毒』と同じですから、副作用で気持ち悪くもなり二日酔いも酷い『家族社会酒の悪酔い』なるものを幼児期に飲んでしまい、この行為が内向性により構造的に解消されない場合(端的に言えば外の世界に流通しているカフェオレであるとか煎茶であるとか20歳超えてから飲むリアルのアルコールなどに志向が向かわないというような『内向性抑圧』←勿論これは広い意味で見れば外の社会に対して自立独立の立場で個人で関心をもって外交的に活動する事が総和的に抑圧されているって事です)、その内向性により構造化=『家族社会酒の悪酔い』を依存的に継続反復する事になり→その『家族社会酒の悪酔い』下でアルコール中毒となり、切れると禁断症状出ると考えればわかりやすいかと思います。
起きている現象は”個別”に見ていけば全て心理学的に説明がつくことで、これを渦中で混乱中の主観で見てしまうと「誤解が誤解を生む」ようにややこやしい誤解になってしまうワケです。(一種の複合でありコンプレックスでありルサンチマンである)
■そもそもこういうような家族社会のメンタルな問題を発現している組織は既に破綻しており(家族は下手すると夫婦が結婚した時から破綻していたのかもしれない)”彼女”を「部長や取締役」のようなタイトルで「母親」と認識すること自体本来無理があるんです。
彼女を「独立しているひとりの女性」として見ていかないと(母親と認知した瞬間フラグが立って強迫的思考にのまれます)ジャーナリスティクに事実関係を確認できないでしょう。
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あくまでも推論の範囲ですが、
今現在hakoさんの中で記憶だと思っている事実関係の正確性は「著しく確度が低い」って事です。
(ジャーナリストの報道では無く、興奮した関係者の多分に誤解を含む偏向的事実認定)
おそらく「母親の人物像」「父親の人物像」「(家族問題かから一歩身を引くことに成功したと推定される)姉の人物像」これらは”ほとんど事実と違っている”筈です。
ボタンの掛け違いですよ、
(第二次世界大戦を”侵略国日本”を発端に分析するのと、”帝国主義時代のアジアの小国”を発端に分析するのと、”米国のモンロー主義と覇権主義の相克”を発端に分析するのと、結果に対する見方は大幅に違う)
自分の記憶も不確かな「幼児期」に、無理のある事実認定をしたのじゃないか?
(母親の無条件肯定など)
>そういう自分を認められないし意識すらできないからわかんなくてただ苦しかったんです。
ここで言うべき「そういう自分」というのは、
事実関係をありのままに認知・認識できなかった自分の苦しい立場(その後現実社会への認知がえらいことになってしまうワケで)を意識してやらんと、本当に私には幼児期があったのだろうかという『記憶の証明』すら怪しくなるって事です。
(捏造された歴史を信じてしまったら→存在証明そのものが捏造になってしまう。)
>自分の中にある無意識の脅迫を、意識化して整頓していけば、パニックに陥った時に対抗できるんでしょうか?
できます。
それは「誤解」だからです。
大雑把に言えば、
「その不安(パニック)は、自分を3歳児だと勘違いしている自分が3歳児の迷子の幼児が感じる不安を再現しているからである」
(あえて乱暴な誇張加えて説明しますと、無意識に「いい歳して赤ちゃんの衣装着てオムツプレイに興奮している自分の姿」が見えたらですね、アチャーっと思うでしょう誰だって。個人的趣向でオムツプレイ愛好家ならこれ話別ですが、)
鏡を見ればどんだけ無理しても「映っているのは3歳児では無い」ですからね。
ここで相談当初の『醜形恐怖症』と話が重要にリンクしいてることわかりますよね?
「その鏡には年相応の女性が映ってちゃマズイ」んですよ。
大人の女性としての自分を拒絶し(内面の3歳児が私こそ本当の自分で在ると主張し母親を探せと命令する)。
「自分の内面の3歳児の自分という幻影」←こいつが強迫心理のロジックです。
(前述の話から関連させれば→『家族社会酒の悪酔いの味』が(フラグとなって)「3歳児の苦悩」という映画を呼び出している(リンク))
何故こんな自分にとって何の得も無い矛盾した現象がおきるのかと言えば、
ここに戻る。
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ボタンの掛け違いですよ、
(第二次世界大戦を”侵略国日本”を発端に分析するのと、”帝国主義時代のアジアの小国”を発端に分析するのと、”米国のモンロー主義と覇権主義の相克”を発端に分析するのと、結果に対する見方は大幅に違う)
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順番を追って考えていけばそう難しい構造では無い。
1)情報的に公開掲示板上では推論の域を出ませんが”仮説”として、一義的にこの物語の発端は『母親の人格上の問題である』。
この最初のボタンを「幼児の自分がかわいくないからである」などようなとてつもない飛躍の中で(勿論何故そんな事が起きるのかと言えば無条件に母親の人格を肯定するためです)、その後の歴史(現実認知)が全部”現実から乖離”してしまい「あっちの世界の話」みたいになってしまっているって事です。
所謂世界史やる時に”自虐的大日本帝国悪質史観”に立ってしまった結果、なんとかおおよそその後の日本の歴史は強引なこじつけでも何でも説明可能だが、世界史の中でそれを説明しようとすると”矛盾だらけで”全く説明がつかなくなり、説明に困って「こうなったら日本なんか無くなればいいのだ」のような意味不明な方向に認識が流れているようなものです。
>なんなんだろう、結局は私一人がねじれてるだけかも、って思うんですよね。
なんでかって理由は簡単です
幼児に「難しい大人の判断」なんて無理だからです。
考えられることって言えば社会性も見発達な幼児にとって「結果論的自己中心的認知」しかできません。
「なるほどね、お母さんもまー言えば女だ、そうしてみてみるとさわからなんでも無い事はあるわいな、ま、しかし君さその認識はどうかと思うよ。その偏向の元ネタはあなたの子供時代の事でしょう。その話をさ自分の家庭で蒸し返すような振る舞いがあるから私が困るんですよ。気持ちはわかるが、こっちはまだ幼児だから、そこまで大人の判断で”気持ちもわかる”みたいな度量でいろってそりゃ無茶だから」
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なんて台詞を吐ける幼児は「そうそういませんよ」
「ママ私が悪いの?私はいい子?」とかね、幼児の思考の大半は自己中心的です。
(てかそうならざるを得ないケースが多い:これはメンタルな現象が社会学的背景にある証明なんですが、そういうリスクが『核家族化』などのある種内向社会化によって促進した。本来の核家族の意味は「家族社会の解体」なんですが、過渡期においてその意味を理解できない親世帯は「小規模な内向世界に無理くり昭和の共同幻想を再現しようとして」云々など構造的に無理が生じやすいんです。)
端的に言えば、集落の中誰と誰が個別に家族だなどの線引きも無く、大きな建造物の中で氏族社会のように多数の女と多数の男と誰の子供だかよくわからない多数の子供がいて、村の長が話をまとめていて、子供は他の子供や(自分の母親は特定できないので)母親集団の誰かに世話をされている。
こういう原始共産制のような環境では「メンタルな問題は発生しません」。
(幼児に構造的な自己中心性が発現しない←自己中心性そのものは”当初”発現してはいるんですが、あっという間に社会性外交性へとシフトして相対的現実認知に以降します。)
※この辺までの説明で、以降「いやなことがあると全部「生まれなければ」に思考をつないでしまう。」までの説明になっている筈です。
<各論に戻ります。>
>母親に、母親の家族のことを聞いてみました。「何かある」のは確かだと思います。
言えばこっからが本題です。
ここからはシリアスな要素が多く含まれます。
認識を進めるためにあえてエキセントリックな表現になっている部分もあります。
(あえて行間空けます)
>母も母でうまくいってないんです。
>でも、深く理解したいとは思えません。正直深入りしたくありません。
>客観的に母のことを見たら、私は母に同情してしまうだけだと思います。
↑
それは自分自身の内面に疼く「強迫心理のハッタリ」ですよ、まー脅しって奴です。
「私は広島に原爆投下したエノラゲイのパイロットの証言を聞きたくありません。私はパイロットに同情してしまうだけだと思います。」
それは無いから(笑
しかしですよ、パイロットが原爆開発したのじゃありません。勿論軍の命令だった、
(アインシュタインの証言やその後の反原爆運動なども重要でしょう)
それは同情とか情状酌量の材料にはならんでしょう、
事実を知るってことはそういう事です。
ひょっとすると本当の主犯は「祖母」かも知れない。
(原爆問題考える時、それは「マンハッタン計画」ってものを歴史的に見て初めてわかるように。)
『何故原爆投下が行われたのか』
こういう重大なテーマの時に、感情論云々が入るスキマはありません。それ以上に「知るべき事実の方が重い」からです。
といっても(ここも大変誤解されやすいのですが)、
刑事のように聞きまわって、事実を足で調べるなんて事は重要じゃありません。
「彼女(母親)はどういう事実が見えず、どういう事実をどんな風に歪めてしか見えない人間だったのか?」という彼女の歴史的足取りが概ね理解できればいいのです。
(一部推定が残っても構いません)
その認識が固まる事が、
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>なんなんだろう、結局は私一人がねじれてるだけかも、って思うんですよね。
↑
こういう誤解を完全停止・解体させます。
てか「事実」がわかるって事です。
推理ドラマのクライマックスにおける謎解きと同じですよ。
(誰かの濡れ衣が晴れ、真犯人がわかる。)
>これ以上母をかわいそうって思ってしまったら、断ち切れなくなります。
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かわいそう(今でも無条件肯定が解除されないので)と、思うから
>でも、深く理解したいとは思えません。正直深入りしたくありません。
彼女は無罪放免ってことで「任意同行」で引っ張って事情聴取する事すら躊躇しているって事です。
(まさか強制捜査で逮捕しろなんて言ってませんよ)
更に言えば、前述でおさえてありますが「事実関係は一部推定でもいい」のです。
本当に聞き取りやら任意で話を聞かなくちゃいけないって事でも無い。
これは捜査じゃありませんから。
重要なのは「深入り」ですよ、それこそ、
「歴史的に本当は何が起きたのか?」事実を深く考えるって事です。
それが逆の意味で”当事者責任”ってもんです。
※メンタルからの離脱として”リハビリ”として「反抗期をデバッグする」というのはこういうプロセスです。
>私が母についていろいろ考えるようには、母は私にたいして感情を持ってないですし。
>(なのに母と娘の交流を迫ってくる…断れない。嫌だなーと思いつつ接し、また自己嫌悪)
↑
説明は簡単です。
私の推定が確かなら彼女(母親)には子供はいません。
何故って彼女はおそらく「6歳児〜12歳の少女」だからです。
(6歳から12歳の少女に、自分の子供なんて認知を求めても無理あるでしょう。)
彼女は「少女が想う”母親ファンタジー”に酔っているだけ」であり、
自分が母親役の時には子役が是非とも必要になり、
しかし彼女のドラマも勿論自己中心ドラマですから(そもそも他人の事などあまりよくわからない)、
実際に子役の役者さんが誰だとか、子役の役者さんとの個人的関係がどうこうって関心事項では無いでしょう。
その少女の関心事項は「お母さん(或いはお父さん)私も母親できる(あなたになれた或いはあなたの妻になれた)んだよ」なのかの知れないのですから。
ひょっとすると「(家族問題かから一歩身を引くことに成功したと推定される)姉」は、
「あーあーあーこのホームドラマのシナリオはぐずぐずだわ、ダメだこりゃ。(特に母親役の女優は誰よ?事務所の社長呼んで来いっての)アタシはこのドラマは降板して大部屋の端役からやり直すわ」そういう着想があったのかもしれませんからね。
(そこまでスルドイ視点が彼女の幼少期にあったとは考え難いので、何らかの後遺症のようなものはどこかに引きずっているでしょうけれど、こういう認知は彼女固有のパーソナリティーという意味でもありません。偶然姉は何かが暴露されるようなエピソードに遭遇したのかもしれないからです(母親役の女優が台詞を忘れて口パクになった事件を見たとか)。話を聞くってとっかかり的には最初にお姉さんと腹割って話すってのがお勧めかもしれないですね。言えば同じ世代の同じ家族時代で子役やってた”戦友”ですから。)
■ひとつ安全装置としてなんだか家族社会の不全のようなものがあると悲劇的であるとか当事者は被害を受けているかのように誤解されてもいけないので、ここを補足します。
(半分ブログの原稿ネタみたいな話なんですが)
その被害認知はベースとして『共同幻想系の保守的認知に強迫的に追随(ステレオタイプ)する認知』が引き起こしている錯覚で、
参考までに文化的変遷のある事例を挙げておきます。
昭和のアニメ(この時代は映像も”マンガ”と呼んでいましたが)では、家族社会をベースにした物語が多くありました。
(主人公の親兄弟も重要なキーパーソンであるような進行)
しかし90年代以降でしょうか、
日本のアニメや漫画の主人公は(少年漫画なので主人公が中学高校生多いのに)「何か”適当な理由”で家族と同居していない設定(少年少女なのに一人暮らし)」が非常に多いです。
親が登場してもサブキャラでおおよそ親に見えないような設定(めちゃめちゃ変わり者だったり)であったり、大半の物語は「既に独立している少年や少女個人の視点」で語られます。
海外で日本のアニメが評価されていく時代とそこは符号していて、
所謂共同幻想崩壊後の社会を先取りしているワケです。
(物語の進行に主人公の家がどうだとか家族が誰とか邪魔なだけで設定としてほとんど必要が無い)
そして現代社会、
ようやく民主党が「児童相談書マターの親の”親権停止”」や「子供手当を事情によっては(親では無く)子供個人へ支給」の法改正に着手しています。所謂昭和における『家族社会共同幻想』もある種明治維新の時の富国強兵政策による捏造であって(モロに幻想)、実体を伴わないものです。
(江戸時代の習俗から自然な流れで派生していない←見ようによっては江戸時代の方が個人が自由だった部分あるぐらいです)
のように、誤解は幾重にも重なってますから、十分に時間をかけて慎重に考える事です。
(日本の現代アニメの話には更に続く要素がありまして、物語が少年少女だからという部分はあるにせよ、ほとんどの主人公が「仕事」していません。『家族社会共同幻想』もある種明治維新の時の富国強兵政策による捏造←ここに被るんですが、GNPの増加に邁進する時代は終わり、現代社会は”フリーエコノミー”と”ネット社会”の時代であり、自分が何の職業人であるみたいな属性は(既婚非婚も同様に)現代のアイデェンティティー論的には二次的要素でたいした意味が無いのです。勿論『共同幻想保守系の就職』を意味するような社会適応論が既に時代遅れであるのもここに被ります。)