>だけど最近はストレスが酷いです。今にも爆発しそうです。
これは強迫心理が(これまで確保してきた依存的快感なり興奮の再獲得を意図して)その欲求を累積させているもので、
端的に言えば欲求不満です。
言葉を置き換えるとスッキリしますね
■「欲求不満で爆発しそうです」
上記の言葉が前述に変換しているのは残存している強迫心理的志向性(欲求の方向性)が無意識的であったり潜在意識であったり”自意識バレ”を回避する恰好になっているためです。
現象としては強迫構造が壊れた結果(壊れていなければ過去の強迫的行為の継続が不可避な状況が固定化していることになりますから)、無条件に自我を従わせる力を喪失していて(自意識も自発的行動を開始していますから)これが累積していると、
そして「累積」しているのは、
自意識が主体的に活動している領分がまだまだ(試行錯誤段階で)領域として狭いためです。
風がふいたら桶屋が儲かる式の関連なのですが、
そして同時に「自意識の活動領域が狭い」のは”現実認知の偏向が残っているため”となります。
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わかりやすく言えば『現実世界の解釈に誤読がある』
(残存する強迫時代の記憶が物事の解釈を強迫心理の都合のいいように偏狭化している”知識部分”がまだまだ残っている)
※ここ、カウンセリングなどの過程でどうにも無理のある事実関係の認知に(自分でもどうしてかわからないのに)固執してしまう状況と同じです。
(自分にとって不利益な認知を何故その点で不満を言っている自分が”矛盾する”のに(且つ自分でも第三者的解釈の合理性を理解できるのに)死守しようとばかり固執するのか自分でもわからなくなる状況)
その事例が以降に続く部分です
>最近は現場にいる同僚やお客様の立場である方を見るのも嫌で(容姿や人との接し方を改善できないことの現実から逃げたいのでしょう)、できることなら彼らを見ることもなく、1人でいたいと思ってます。
たとえで言うならば、
「立ち食い蕎麦店に入ろうと思っているのに、この世の中の立ち食いそばには茶道のような厳密な立ち振る舞いの決まりごとがあってひとつでも間違えると店主や他の客に嘲笑されてしまうのではないかのように思ってしまい、立ち食い蕎麦店に入れない」ようなものです。
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勿論現実世界の立ち食い蕎麦店のレーゾンテートルは「そういう気を遣わなくても済む気さくな大衆店」であり、それこそ立ち食い蕎麦店の存在理由を逆さまに認知(ある意味完全否定)してしまっているワケですから(もっと個別に解釈すれば”たらこ”を”キャビア”だという解釈に固執しているような現象)、
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「そりゃーストレスたまりますよ」
■ここで繋がりましたね。
以下の部分は個別に解説しませんが、同様の『現実誤読』からくる一種の認識錯乱で
>人と遊ぶことがない、人と話すことがほとんどない、人と外出をしてないために相当ストレスが溜まってるようです。
>恋人や友達がいない状況(人とうまく関われない、容姿が悪いことが原因)を改善できないことに対して「これは私の本心ではない(友人や恋人との生活を本心から望んでるわけではない。容姿も過剰に反応してるだけで本心では悩んでいない)」と抑圧し続けてきた反動なのでしょうか。。
>「単独型を選択する(模索してる段階ですが)」なんてただの強がりで、本当は自分も恋人や友人を作って遊びたい、人と関わりたいと望んでるのではないのか?
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結果的に『実に不思議な事に全て強迫的思考に都合のいい話になっている』
(あたかも”強迫的思考に都合よく考えたい”という結果ありきのように)
「特別に親しい人間関係など社会にそれほどありませんし」
「世論調査上でも昨今の若い人はソーシャルネットワーク型の人間関係にシフト中ですし(見ようによっては淡泊、実態はスローで自由)」
(上記繋がりで考えれば容姿に関しても自分自身の美意識として身だしなみ程度に整えるだけでもほとんどクリアするわけで)
単独者も何も、強迫からの「離脱過程」は”過程”として(共同幻想協調型人格含めて全人格は思春期反抗期過程は時限的単独者状態を経過する)論じているのであって(精神分析的にも”その後”の人生を単独者型とするのか共同幻想型とするのか自由なワケで)、現在の状況は『メンタルな状況だからこそ垣間見える共同幻想社会に対するジレンマ(早恵さんの場合共同幻想社会のお家芸である”いじめ”に関しての認識)』から、個人的体験含めて共同幻想社会に対して批判的である部分がある事は事実なワケで(これはメンタル副産物としての現実認知であって”事実認知に関しては”強迫性と関係は無い)、その後どのように転じるかは別として、特別現在自分が単独者志向であると決まっているものではありません。
(そこは自意識の自由ですから「保守的思想を選択して共同幻想的在り方を大人の考えで選択しても」まったくアリです)
心理学的視点で一部指摘が必要なのは
上記文章に登場する「恋人や友人」として言語表現されている内実というか”暗韻”が『強迫心理にとっての家族の代用(依存対象)』であるのは間違いありませんから、ここは整理して(言葉のトリックにのまれない)注意は必要ですね。
(共同幻想社会においては勿論”家族同様の付き合い”などのように交友関係や勿論婚姻関係は家族の再生産ですが、これは”大人の自分がその発起人となる”立ち位置の逆転があっての(再設立の)話で、強迫的依存性(被(こうむる)=幼児の立場からの)”仮想再現ドラマ”ではありません。)
言葉のトリックにのまれてしまうと、依然家族観で繰り広げられた問題が獲得された「恋人や友人」間で再現(無意識のうちに自分の立ち位置が『被(こうむる)』ポジションになる)され、強迫意識が自我をそれこそ強迫する形で台頭してしまう事にもなります(一種の社会適応を模した退行現象の構造化)。
その状況にシフトすると、対象者が名目(現実にも)”赤の他人”ですから、なかなか自分自身で繰り返す葛藤や不快感や被害認知などを『強迫的思考』と見破る事ができず(家族を対象とする部分は分析により壊れたとしても)、思春期の引きこもり状況ほど構造は強固ではありませんが、やっかいな問題になるケースが多いです。
しかも相手が他者となると、現実世界が関わってきますから後から関係を清算するのも大変で、別問題も抱える事にもなります。
■一義的に離脱過程は人間関係が(強迫心理を刺激するので)ストレスとなるので淡泊にしておくほうがよい
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これは自身の(強迫離脱を選択した場合の)リハビリ過程の安全保障的な過渡期の判断で、その後もそうあるべきって意味ではありません。
(今後も単独者的であるかのような志向ではありません)
不快感が続く場合何にもまして重要なのは『無理をしない』ですから。
平たく言えば一般社会の庶民の暮らしとは『立ち食い蕎麦店』のようなものであり、
その現実認知を殊更過剰にエスカレートさせてしまっている部分を『一拍置いて』冷静に考えていくのがベターです。
■心理学的不思議で言うと「”たらこ”を”キャビア”だという解釈に固執しているような現象」が強迫梃子というか経済学の乗数効果のように不快認知も過剰化します→「茶道の極意に違いない立ち食い蕎麦を食べられなかった」という被害認知(脳内ではとんでもない快感を私だけ手に出来なかったかのような誤解が連鎖して『被(こうむる)』の構造の中で)、立ち食い蕎麦を食べられなかった欲求不満が、状況にはなんら変化が無いのに「自分だけ特別に大変な快感を奪われたかのような」欲求不満に(無意識に桶屋が儲かる式に)エスカレートしてしまう。
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「欲求不満で爆発しそうです」
(立ち食い蕎麦を食いそびれて「爆発しそうです」って人は滅多にいませんよっ→という”オチ”←しかし同時に小津安的情緒といいましょうか美意識から立ち食い蕎麦がしみじみとした得難い幸福にもなるんですが、そういう美意識も又各個人の文学や芸術なりの体験から獲得されてくるもので→そこは心理学と関係無く個人的人生経験ってもので蓄積されていくものでしょう。→美食家のような違う判断だってあってもいい、)
そして同時に人の営みというか幸福とはそう大ぶろ敷きなものではなく、案外質素な世界の中に十分可能なもので(人間は一介の動物ですから)、一般世界はあれこれ大騒ぎもありますが、そこには共同幻想特有の強迫的誘導って要素もアリの話ですから、そこも見切っていかないと自分の立ち位置を見失います。
(うっかり強迫的思考の都合のいい情報として”鵜のみ”にしてステレオタイプ的にとりこんでしまう)
<ここまで前後を何順か繰り返し反読すると見えてくる筈です>
入り口論「構造的に欲求不満も(現実から乖離して)肥大化している」
出口論「幸福の価値論みたいなものも過剰化している」
入口と出口双方から認知の誘導を解いていけば、状況は違って見えて来る筈です。
双方から挟撃する形で各個撃破していくことですよ。