あくまでも公開掲示板は外郭だったり概略だったりしますから、個別の事実関係はご自身で考えてもらう事になるので、いくつかの可能性を提示しておきます。
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか
つい先日の別の方の相談過去ログを見てみてください。
両親への好感を『誤解』する場合も珍しくありません。
(それほど人の認識なんてものは曖昧なんです:言い換えると”簡単に割り切れない”→割り切れないものを”概略”として「私には好感がある」と確信も無く”なんとなく確定的事項”或いは”与件化”している方に実は「変だな」と思わなくちゃいけないのです。所謂親子関係には快感依存的自己愛的利益関係があり(極論すると現世利益的な打算的取引関係実態がある)、互いに大人同士の個人と個人の信頼関係の部分は反抗期の後に再獲得されますし、人類ヒト科といっても動物ですから長期・生存環境的な”バンド(集団や群れ)”に対して表向きは好感のフラグを成立させるのが生存欲求のひとつでもありますから(郷土愛も同じベクトルです)、事実認定において割り引いて考えないといけないところは「割り引かないといけない」のです)
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つまり「問題があった」というのはいかにもわかりやすいベタな関係悪化とかそういう単純化されたモデルじゃありません。
(むしろそれほど単純化されたストーリーであれば”幼児にもわかりやすい”ので、これは強迫的構造に至りません。幼児にだって「お前(親)それはダメだろ」がわかるからです。←認識そのものを抑圧して隠蔽する必然性が発生しない。そういう環境化でその幼児の将来には、あったとしても”所謂ひとつの不良化”するぐらいのトラブルを抱えるにしても自我の問題に及ぶことは無い。)
ひとつの事例を加えれば、
親が(内心隠している不安など)抱える強迫傾向を、言葉にならない妙な雰囲気などの認識で感じ取り(この時幼児の自我は構造的にそれをデフォルメしてしまう)、それは具体的言葉ではないので無意識下の概念になります(自意識は言語としてのロジカルの集合なので)、
端的に言えば『過剰な尊宅(そんたく)』、
これは権威的関係をベースに認識されますから、『その尊宅や配慮』は無意識に道徳野(超自我的概念)と結合します。
結果進路選択など、ステレオタイプな認知に頻繁に関与し、
「勝手に自分が思うこと(本音)よりあたかもステレオタイプな認知が上位概念であるかのような錯覚を派生させているとしたら?」
こんな風に考えるのです。
で、「そういえば思いたるふしがあるかも」的に具体的事実関係が掘り起こされていく事もあります。
加えて説明すると、「あなたは親属性を離れた彼ら個人を、ひとりの女性や男性としてどんな人物だったのか、どんな人生だったのかのように(政治ジャーナリストが人となりを説明するように)認識できているだろうか」って事です。親属性の裏で彼らの本音はどこにあるのかって推定、
表面的には「あぁケーキは好きだよ」という(いかにも家族社会適応的社交辞令の)言葉の裏にある彼ら個々人の本音は何だろうかって立ち居地ですよ。
突っ込んで言えば「彼らにだって本音の抑圧とかあるだろう」、
(そこに無理な構造があれば強迫構造でしょうし、合理的にノーストレスで簡素化されていていれば単に共同幻想適応者のそれかもしれない)
>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…
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自分の自我に問題のあった当時の周辺人物やその関係(関係性において実存している関係者)は、”強迫意識の取り巻き”である事が大半です。
簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
(たとえは違いますが、少年院で更生した筈の少年がシャバに出て昔の暴走族仲間と会った時の気まずさのような)
理想的には全員に対して旧来の関係を清算するぐらいの勢いでいんです。
(今現在進行している、自分自身の本音をサルベージはじめた自分の意識から関係を再構築(リストラ)する分には一向に構いません)
簡単に言ってしまえば、
全員相手に「実はね私は考え方を変えたんだ」から始まる新しい自己紹介を済ませ無いと誰彼相手でも気まずいだけでなく、
旧来自分が半ば自作自演で張った結界(彼らとの関係性そのもの)に取り込まれて、まんま強迫意識に先祖帰りすることも多々あります。
乱暴な言い方ですが、精神分析的に言えば「旧来の関係のままなら彼らは全員敵である」と思っていい。
(言っても彼らとの関係を敵に相当する存在にデッチあげたのは自分自身なのですが)
ソフトランディング的に考えるなら「積極的に彼らとの関係を一度疎遠にしてください」。
(時間はかかりますが、個別に彼らの存在が再構築に相当するのものであれば、上記の「本音の仁義を切ってから」これを再構築する)
それから
>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)
(あえてカウンター効果付けて乱暴な表現使いますが)
今回のの相談経緯を知るに付け、
はっきり言って「全く信用できませんね」。
(ある意味余情的に美化されていて気味が悪いぐらいです:どこかの宗教じゃないんですから→ドグマ)
歴史の言葉に「○○史観」のような立ち居地を表す言葉がありますが、
上記の説明は言語的に「私的快感原則史観」であって、社会的見地でも無ければ哲学的な人物描写でもありません。
(注:「本当に良くしてくれる」→その対象者は強迫的にステレオタイプに傾斜している(本音を表に出していない時の)自分自身(汎用OSデスクトップな自分)に対してである)
刑事になったと思ってください。
(探偵でも構いません・歴史家でもいいでしょう、文化人類学者でもいいです)
「情をはさむのはプロじゃない。彼らはある人物の強迫心理を構成する構造的共同謀議の容疑者なんです。」
現実の彼らの実像がどんなものであれ(彼らの”個人的”交友関係他者や第三者から見て尊敬に値する個人であっても)、その本当の姿はそんな詩的情緒で表現されるようなものじゃないでしょう。
或いは「いい人とされる証明として、(偏向中の)私に対して良くしてくれる」などという利己的評価のどこに中立性があるんですか。
本質的に彼らの尊厳を前提に語るとするならば、
むしろ前述の表現は『彼らに対する侮辱(自己愛的私物化評価)』ですよ。
人の人生はそんな生ちょろいものじゃないです。もっと生生しく、実存の中でガリガリと発現される彼らの個人であるとか本音って姿がその言葉からまったく示唆されていない。
「人間○○を語る」←ように表現できないと彼らを知っているとは言えないのですから。
(場合によっては悪辣とまで言いませんが、「彼は○○としなければならなかったのだ」のような一見ネガティブな背景説明無しに語れない実像ってものは誰にだってあるはずです。しかるにその実存は精緻な説明があるからこそリアルに”いいともわるいとも言えない実存”でものを表し、そこにこそ本質的な尊厳があるんですから、)
話は戻って、
前述の関係性をそのまま放置するとどうなるか?
↓
>朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
>ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
>友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても
・簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
↑
(無意識に自分が)仕掛けた結界の狙いどおりに、
■まんまと『引き篭もりフラグ』になる。
外出の基本は「単独行動」としてください。
(或いは独断専行・唯我独尊)
リハビリ過程として、この期間は単独者的振る舞いが必要になります。
具体的には違う話なんですが、
昭和の時代、共同幻想もまだまだ健在な時代。
共同幻想瓦解といっても世代間ギャップなどの歴史的担保の崩壊程度の時代です、
当時反抗期はまだまだ自力で正面突破も難しくない時代に思春期の若者に流行したキーワードは何ですか?
(所謂60年代〜80年代まで)
『一人旅』ですよ。
※共同幻想適応世代ですら、連想キーワードの中に実存主義的試行錯誤である反抗期時代には「(時限的)若いときには単独者志向であることだってあるものだ」が含まれていたワケです。
>また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
<中略>
>急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました
授業など一度ぐらいすっぽかしてもいいのです。
上記の状態は自己愛的内向の(一人舞台)舞台装置に立っているようなものですから。
仮に授業に参加するのであれば
「違う違う、場所を私物化しちゃいかん、ここは私の一人舞台のステージでは無くて公共的な場所である」と頭に叩き込んでください。
デパートの食品売り場で
「ロメオあなたはロメオなの」と号泣している。
と考えればおかしいよこれって自分でも気が付く筈です。
誰しも公共なり不特定多数の衆人の前では「緊張する」のは自然現象です。
言い換えれば少々テンションがあがるというか、緊張にとるストレス限界が高まるというか、
場合によっては脳内でそれを興奮と認知する場合もあるでしょうけれど、
そこも割り引かないと、
たとえを変えて考えてみればわかります。
繰り返します、本音の自己責任担保であるとか、歴史的共同幻想適応合理性が担保されていない(言うなら強迫的偽装)”帳尻あわせのようなステレオタイプ自我”は、バンド(集団)内において、素っ裸同然の脆弱差を併せ持つんですってば、
(太宰の「人間失格」における→「わざとわざとー」と見透かされる不安のような)
素っ裸状態で緊張感の上昇しない人はいません。
これは準備不足で衆目のあるバンドに入ってしまった個人の自我がおかれた状態と似たようなもんです。
そんなド緊張な要素は個別に切り分けて、「まーね俺はド緊張しているワケだが」と事実関係を認定しておくんです。
(さっきのたとえで言えば「○○の事情で俺は今全裸なワケだが」みたいに)
その状況下で派生した内容をあたかも既成事実のように追認してしまうのは大問題なんです。
ド緊張な背景も込みで状況が誇張認定されてしまいます。
「素っ裸で僕は演説したのであった」
そりゃえらいことになりますよね?
しかし自分が素っ裸であったことを認定できずに、”私はいつもそうなる”と認定してしまうと、
(自我大騒ぎの半分は素っ裸である状況設定なのに)
「私は衆目の前で演説することに耐えられないんです(号泣」
↑
全体像の認識(や背景事情)が違うことになると同時に自己愛的耽美性というか「全然違う話になってますよね」
>実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
>このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
>どんどん気分が落ちてます
強迫デ・コードしましょうか?
「自意識は(性器のようなもので)抑圧されているぐらいで丁度いいのだ、それが私の道徳であり、本音私は修道女になりたいのかもしれない。こんな”私が修道女”考えれば考えるほど耽美的な。。。」
これであなたに性倒錯かかっているなら、自慰行為始めている頃ですよ。
そういう概念のベクトルに乗っかった意識だと、自分で見破ってください。
「オイオイ何考えてんだ俺、ちょっと恥ずかしいぞ」と、
言うなら自己の回復は年オーダーで考えなくちゃいけません。
今の立ち居地から言えば、「大学卒業するぐらいで本領発揮するか(その間はこの企みをバレ無いように意識的偽装をしても、本音を抑圧するような馬鹿な真似はもう一切やめる)」。
「思うに私は自己を回復後友人であったり(場合によっては家族の)過半の人間関係を失うかもしれないが、だからどうだっていうのか、そこから私のリアルな人生は始まるのだ」ぐらいの勢いというかテンションを保っておく。
(なので当面の受験勉強などクソの役にも立たないのです。役作りも結構ですが警官役だからといってマジな警察官の資格をとったからといってグラミー賞が貰えるなんて、映画はそんな半端なものじゃありません。)
マジな話私は(本音で)自分の学ぶべき科目なんてものを大学卒業年次ぐらいに初めてわかるのかもしれない。
な状態なのですから、
>また、自分は、在るのに無い気がして
>その矛盾した気分が何とも辛く
厳密に言えば内容違うんですが、
カタルシス効果の期待があるので黒澤明監督『生きる』を借りて観て下さい。
(レンタル屋回れば簡単に見つかるでしょうし、DVDもたいして高くないと思いますから購入するのもアリでしょう)
※後から映画論評的な話はご勘弁を、私も同映画の内容は記憶の彼方ですから。
■とにかく今は『自意識の筋トレ』じゃないですが、
考えること。
急がないこと(戦術的である以上に戦略的であること)です。
大概のことは「保留中」なり適当に先送りにして構いません。
「それどろじゃないだろう俺(ここは徹底・考えるところだ)」
という認知を最優先すべきです、