(本来必要が無いんですが)
後からゴチャゴチャ続いているようなので補足しますが、
(質問文には全く意味が無いので削除されてます)
「やれ占い師が当たった話」をどんだけ並べて反論しも1mmも意味が無いのでそこ論証しておきます。
1)以下前レスの記載のとおり「その占い師」はあたっているどころか見当違いな外れっぷりであることが証明されている
>>共同幻想適応者との結婚は(メンタル問題がない人だったとしても)考えられない。
>だから考えなくてもいいし、
>考える方がおかしい。
>自分でもそう言ってんじゃん。
>何より結婚自体したくない、結婚なんて面倒なことは嫌い。
>勿論、
>言った責任取るんでしょうから、あなたは自らの意思で結婚しません。
> ↑
>そのすっとんきょうな占い師思い切り180度間違ってんだろーーーが!
>そのどこが当たってんだよっ!
(他は省略)
外れている事が証明されている以上、
本来これだけで以下説明は必要無いのだけれども”あれが何”なので補足しておきましょう。
2)占いが当たっていても100%何にも意味が無い件
その人物の言論が『共同幻想』適応人格に”偏っている”時点で「1から10まで全部アウト」
仮に幽体離脱の才能があるとして、その人物が原子力発電所の内部に侵入できても、
その人物に物理の知識が無く、物理的に見当違いな説明をおっぱじめれば意味が無いどころか情報収集における弊害でしかない。
つまり、その人物が未来の見える超能力者だとしても、そいつは『共同幻想』適応人格でしかそれを表現できていないので、
・「同じ事件を第三者ジャーナリズム視点の記者がレポートした」
・「同じ事件を北朝鮮マンセーの共産主義者がレポートした」
当該占い師の言説は上記条件の後者に値するので(好き好んで偏向報道の新聞読むイカレポンチがいないように)、その占い師の技術が当たっていても何も意味も無いどころか弊害しかない。
(その人物は見た絵を『共同幻想』適応強迫心理に都合のいい説明しかできないため)
3)あたっているあたってない話がアホみたいにナンセンスな件
統計学や臨床研究における再現性というのは、大変な客観的実数でカウントされているもので、
数学的確率からしても「いかにもありそうな実例の予測は3択4択的確率の範囲に収まる」ため、猛烈な回数と「予め選択肢が大変に多い案件での予測」実験を繰り替えさないと統計学的な証明としては「著しく母数が少ないだけでなく公平性を欠き、更にその評価根拠が主観だなどという話には一切根拠として通用しない。」
仮に占い師の実験をするのであれば、
簡単な基本的条件としては
「その占い師及び占いなどを全く信用していないテスターを100人ばかり用意する」
「占いのお題は、テスターがサイコロ2個を転がした時の出目の予測」
これを延々繰り返して数学的確率と照らし合わせる。
こういう話じゃないと当たった当たってないなどの話には一切意味が無い(根拠として成立しない)。
(極論、この世の占いの枠組み(相談したいお客と占い師の関係性)←これ自体が統計的証明として失格である。)
更に、知人間などであれば単純に親戚筋の寄合などでも「将来話」などは頻繁であり「誰かの予想は当たる」などという話は日常茶飯事ある。
こういう話題になる人物は大概が「『共同幻想』異端者監視レーダーやソナー」のような(自らが適応するための観察眼)にたけているなど無意識な情報蓄積があるためで、
↑
『占いのパラドックス』をあげるなら、
その公平性を担保するには「その分野なり人物なりに全く関心が無い」事が条件となる。
(この段階で「知人の占い師」←この単語になっている時点でアウツ)
同じ写真なり絵画を見ても人の評論が違うように「見える超能力」があったとしても表現者としての公平性が無ければ誤情報に過ぎない(前述2)の説明)。
しかし、当該人物がジャーナリストのスキル乃至心理学の知識でもない限り、当該個人が関心の無い事項への知識は「物理に無知な人物が見た原発内部の情報」並に意味が無いことになるため(ジャーナリズムや心理学などのような第三者知見の動機が無い)、その占い師は(どんな絵が見えたとしても)認知速度として自分の関心事項に都合のいい説明しかできない。
=「知人の占い師」とは「100%当たらない奴を意味する代名詞」である。
4)一種の『観察者効果』
※物理だとか科学における「観察者の視点が現象を変化させてしまう現象」
占い師が言った予測を聞いた瞬間「自我には余談が発生する」。
単純に聞いた人物が強い主体性があり、というか元からその占い師を信用していなければ「当たっていない部分に焦点があたる」ので、極論何を言っても当たってないという結論になる。
(注:偏向報道やリアル・ジャーナリズムなどの違いがあるように、同じ事実関係でもそれを公平に認識なり伝えるためには応分の条件とスキルが必要で、極論一般人にはそれを評価する資格が無い。)
(つまり占い結果の当落は聞く人物の主体性や依存性などの特徴にその結果が大きく依存する)
↑
ここを更に補足すると、
そもそも世の中の事象の認定や認知は当該人物の主観で常に180度逆さまになり得る(典型例が「強迫心理」)、
勝ったを負けたと認識する事も可能だし、
失ったを獲得したと言い替える事も可能だし、
病気を健康だと認識することも可能だし(そもそも健康の概念は江戸時代以降であり当時は健康という言葉すらなかった「その占い師は江戸時代以前の人物に何と説明するのか?」)、
心理学で証明されているように「脳が物事を認知する仕組み」それ自体がリアルの喪失と幻想の証明であり、物事には固有の絶対事実関係(絶対普遍のリアル)を人間が認識したり語る事は不可能である。
ここの精度や確度は「第三者性」のような観察者の公平性を常に追求し続ける(抗(あらがう))動的背景でようやく担保されているものであり(だから芸術家の○○を追求する人生には終わりが無い)、
極論すれば「目撃者であるとか単なる当事者というだけでは事実関係を公平に見る事はできない」。
(だから裁判では目撃証言を検察・弁護双方から確認する)
(のように自我は(そのままだけでは事実関係認知が現実から乖離することがわかっているので)カウンターやノリ突っ込みパッチなどの”逆説論証フラグ”を仮想することで、「事実関係を客観的に確認しようとする動的”方向性”」を姿勢として重視する。)
上記括弧書きの更に逆を言えば「依存的認知」で確認される事実関係は全て”妄想”であると結論付けられる(裁判で言えば「証拠能力無し却下扱い」となる)。
■このスレッドはここで完結とします。