■ご案合のとおりで、現在当掲示板は簡単な質問のみ受付となっておりますので、必ずしも返信は心理学的に詰めた内容とならない場合がありますのでご了承ください。
>そのへんの母親の態度のバランスは難しいですよね?
ここはバランス問題では無いのです。
昭和の女性にとって『主婦』はタイトルであり(昭和サラリーマン社会幻想における”部長格”の役職)、既得権益となります。
ですが同時に家族法人の公益性などを預かる共同責任者のひとりであり、法人に問題ある場合、その継続が望ましいのか会社更生法適応級の状況なのか判断する社会的義務(と当事者個人の自己責任=著作権)がありますが、これを自らの既得権益を前提に(注:子供の権利はその他社会福祉関連法で個別に保護されてます←これは労働者の権利保護と似た概念:言うならば子供は家族法人における”子役従業員俳優”という職業ですので)、取り立てて根拠も無くそれを是認するだけでも(無意識か自意識によるかはともかく)意図的な選択になります。
(積極的責任当事者というより供依存関係者)
なんつーかですね、
『家族ドラマ専門の大道芸人一座(いつかは一戸建ての専用舞台小屋が欲しいみたいな)』やってて、演出上の責任者としてどういう立ち振る舞いを考えるのって話。
それでいんですか的に、
(※このドラマ演目は本来季節ものというか20年前後の時限制で、家族ものの演目シーズンが終わると一座は速やかに『更年期夫婦ドラマ”コンビ”』に改編される”筋合い”のものです。)
注)文化人類学的には、高度先進国は高学歴化や教育水準の上昇により「民主主義における投票権が18歳へシフト中」です。
(言うならば成人年齢を18歳にしようかと)
ですから民主主義的には18歳になれば例外なく自動的に独立しひとりぐらしに移行するのが環境的に望ましい。←てかメンタル環境的にもそれが普通であるべき(子役の引退)、
北欧福祉社会なんかだと”個人に対して”高校進学時にひとりぐらしの支援があったりします。
(※『共同幻想』が強固な往年の封建社会で言えば家族法人の中でも低階級となる若い夫婦の言動は地域社会などに事実上監督され、事実上人権侵害状態になりますが、その反面人権侵害の対象が若夫婦への管理も含まれるのも確か←内容はともかくですが。つまり前述の問題点は「核家族化時代」の到来により事前に予見されている社会リスクです。→後に『主婦』というだけで自動的に”部長クラスの役職”となる既得権益も問題視され→男女雇用機会均等法を契機に「『主婦』は役職ではなく”自営業的な職業のひとつ”」に還元されてます。←ここは年功序列と終身雇用の崩壊とセットで男性側にも”新卒で会社員”となっただけで既得権益のように(予め一般職に押し込んでおいた)女が自動的にあてがわれる仕組みの崩壊でもあります。)
>それから、性的嫌悪感が強いくせに、性欲が異常に強く執着するのは何故でしょうか?
この答えはある意味心理学の基礎です。
本来社会的戦場向けの能動性が年相応にあるわけですから、
(脳内では社会派ドラマが進行していて普通の状況で)
これを無理しゃり「24時間無限に続く橋田壽賀子の渡る世間は鬼なんとか」この演目でやり続けているとなればですよ(いい加減飽きるのと同時に)、
なんて言いますか「”リアル渡る世間”社会派」だとか「”リアルどらえもん”(のびたと性)」みたいな、そのネタや演出を『ほとんど倒錯』でもしていかないと自らの社会性能動性と関連できんのです。
当然設定に無理ありますから、演出上(”ストレスたまって”)表現をエキセントリックにでもしないと満足しません。
「猟奇的殺人事件の起きる”渡る世間は”」「性的葛藤に悩みリストカットするのびたを見かねて性的サービスをはじめるどらえもん」のようなですね(脳内ではそういう場面が無意識下でイメージされているというか)、
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1)実際に能動性を解放する場所が無理な空間に押し込められるのでストレスが(実体としてはリビドー)充当され過多となる
2)そもそも得体の知れないエキセントリックな表現(倒錯)が素の自分から見ても異様に見える
注)社会的能動性ってのは一般社会において『戦争』が普通にあり得るスケールですので所謂『共同幻想普通モデル』でも相当にいっちゃってる話で(『共同幻想』社会はある意味そっち方面の妄想過剰化を織り込まれたストレス社会で狙ってるともいえる)、そこ考えるだけでも「特別に高度な心理学的判断必要無く」理解できる点かと思います。
実際上記1と2の関連で「そんな風に見える」ってだけです。
(思春期の旺盛な性的欲求は種としての性能ですので、そこは自然現象です。←ここは生物学的視点ですが人類は哺乳類の中でもこの点”異常性欲保有種”。)
■重要なのは「そうなっちゃってる(表面化した)問題(そのもの)」を見るのではなく(所詮結果論でしかない)、「なんでそうなっちゃっているのか(という発端)」を問題視することですね。