複数の実例や、ここでは心理学的な側面も交えて裏取りして考えた場合を中心にコメントするならば、
■「あまり気にしなくても心配ありません」
家庭争議的に問題になる事例はやはり『投影を経る形』で(二次的な)恋愛関係や職場における人間関係(或いはメンタル発症世代の実子に対して)などリミッターが効かない場面になります。
(「メンタル発症世代の実子に対して」とは”幼児虐待”事例の事です←この場合も相手が幼児だから可能(当該対象とそれほど親密な人間関係が無い:後述))
ここで言う『投影を経る形』というのは(勿論今回の場合も彼の依存心理の元ネタは彼の子供時代における家族関係がベースですから二次的ではあるのですが)「今現在(強迫心理の)思惑どおりにいっていない当事者」では”無く”、ナルチシズム的に潜在化したイメージ(一度内向しているので幻想にリミッターが効かず拡大する)を投影した第三者などに極端に言えば縁もゆかりも無いのに固着する事例(その典型事例がストーカー)となるからです。
※心理系の典型事例としては「運悪く中途半端に共同幻想適応の人生を歩んでしまい”幻想家族”をそのまま友人関係(や恋愛関係)などに投影成功してしまった場合」などになります。
いわば今回の事例は「困ってしまって暴発している」のですから、
ある意味『それ以上にエスカレートする引き出しが無い』のです。
※人間はイメージでもなんでもいいのですが、自分で思いつかない事まで動機形成企画することできませんから。
(極論第三者であるとかストーカー事例のように”新聞の事件記事”をモチーフに幻想が無意識に拡大して強迫心理がありもない話をあたかもそうであるように捏造するような『小説のパクリ的なネタ借り』は、空想性が高いほど成立するため→当該対象とそれほど親密な人間関係が無いほどリスクが高まる傾向があります。:よく知っている相手の場合(誤解にも限度がある)強迫心理が都合よく解釈するにも限界がある。)
これは問題当事者(今回の場合父親)も同じであって、
「自分でも何やっているのだかよくわからない状況(パニック)」の成立要因は「自分でも知らなかった内面の強迫心理の暴露」であるため、
うろたえている自分の無様な様子を知る事が”それを知るキッカケ”にもなるのであって、
今回の問題の暴露は今後の彼の人生にとっても(強迫心理的に言えば”ヤバイ”)ネタバレ的な効果が予測されます。
(その事実を彼がどう考えるのかは彼次第なので未来の話は予言できませんが)
↑
あくまでも状況分析としてそういう意味だということです。
(彼がそれを利用するか否かは予測できませんが、彼が今まで自分でも気が付いていなかった「強迫心理バレバレ状態」な言動をさらしてしまった事は、彼自身にそれを考える気持ちがあれば”自分の心理を知るヒント”となる。←勿論そんな事は無かった的強弁の中心理的逃走する場合も十分可能性としてありますが、)
ですから彼がストーカーのようにおしかけてとか、大騒ぎになりなどのような心配は(勿論当事者としてそう心配する気持ちはわかりますが)心理的な分析としては「むしろ過剰に認知されがち」なぐらいに思っておく方がいいでしょう。
「こういうことあると、自分でも”過剰に認知されがち”な事例だなこれは(現実のリスクは心配するほどでもない)」
のように考えておくところだという事です。
(繰り返しになりますが、過去事例や心理的分析からも「あまり気にしなくても心配ありません」というのが妥当な線です。)
※補足すると犯罪性心理のように刑事事件的な行為を引き起こす場合(犯罪心理とメンタルとは関係が無いので)彼は普段から刑事事件的な問題をあちこちで起こしている場合となるので、今回の場合それも適応外です。
”犯罪性”というのもそれ自体がメンタル系の状態ではなく”モチーフのひとつ”であって(強迫心理がこれを都合よく解釈する場合はありますが)、人間の性善説や性悪説的思考が心理学の範疇超える話であるように(極論国が違えば何が違法かも違うワケで)、当初から(法学的違法性とは別に)「違法な事」的モチーフの選択なので(最初からそんな社会的認知を持つ強迫心理は無い)、「飲酒」や「薬物依存」などのような、自意識の選択を一度経ていないと選択されないため→違法性の選択はメンタルとは関係が無い(深い話になりますが「心理学的に考えれば刑法39条は成立しない」←自意識選択を必然とするので責任能力が無い事には選択されない:過失は例外として責任能力を欠く犯罪など無い=そこには何らかの自意識の関与があり→強迫心理単体では犯罪などの高度な動機形成立案能力を保持できない)、
つまり刑事犯的問題行動は常にそんな傾向が(素でも)見られる場合にのみ派生することになります。
(今回は犯罪心理がメインテーマでは無いのでそれ以上は説明しませんが、家庭内事件も問題は閉鎖性や無理な同居が発端となるので今回は「ひとぐらし」として家を出る話なので、その逆になります。←「事件性リスクは内向性(イメージの自己愛的肥大)が鍵」であるため。)
つまり自分にとっても彼のためにも、
▲「気にせず着々と家を出る方向に進めばよい」となります。
■今回の事例には更に重要な事実関係の確認があります。
正に一人暮らしに成功することにより「それは露見した」ワケですが、
精神分析であるとか、そのバックグラウンドで”推定”や”論証”されてきた親世代の強迫心理が、目に見える事実として「やはりそのままだった」事が確認されています。
彼の言動は(あえて心理的には不適当な差別表現を使います)「病気としかいいようがない」状態です。
ここを娘に対する家族依存ではなく(あえて心理的には不適当な差別表現を使います)「今度の話がマザコン中高年男の問題行動だったら?」として考えてみればもっとわかりやすく彼の強迫心理の姿が見えてきます。
『自己愛的な妄想とそこに依存するあまり現実を喪失するさま』
普段は目に見えていませんが、彼の深層心理や”現実認知”には常に今回暴露されたような”現実との乖離”があり、
(あえて心理的には不適当な差別表現を使います)
極端に言えば「彼は現実には存在しない”あっちの世界(幼児期に形成された幻想家族)”でしか通用しない偏向と幻想世界(蜃気楼のようなものです)に生きてきた」という事です。
そして彼が現実の行動(結婚生活)の中で実現しようとしていたのはそんな”この世に存在しない幻想家族の再生産(追体験)”だったワケで、
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やっかいな事ですが「そんな裏事情を彼自身(彼の自意識)もまったく自覚がなかった」ワケです。
(ここが心理学のキモですが)
(強迫心理の生成と自意識がまだ強固に成立していない自我というのはワンセットみたいなものなので、通常自我が強固に成立する前の自分の心理事情は逆トレースできない(これができたら自己分析できる”精神分析使い”って事になります)。)
一拍置いて
「まいったな〜」としみじみ考える時、
「やっぱりそういうことだったか」的な認知を深める事ができるでしょう。
(ここにはおおよそ家族と呼べるような社会ははなから存在しておらず、又彼らにはそれは無理な話で、自立というテーマは自分だけでなく他の家族だった彼ら全員に関わる問題だった。同時に「日本にとっても偏向の時代である昭和がプレゼンしていた”家族モデル”であるとか”クラスとしての家族”というような幻想に振り回されてしまった事例のひとつかもしれない」のような認知。)
視点を整えるとするならば、
(彼はひとりぐらしになるのではありませんが)
「自分のひとりぐらしによって彼らの自立も促す事になるワケだ」
と、考える事ができるワケです。
仮にですよ、
無理な同居が続いて、この隠れた心理が温存され(暴露することもなく)隠蔽され、このまま続いていたとしたら?
こう考える方が遥かに潜在リスクは高いでしょう。
ですから、
自分にとっても彼のためにも、
「気にせず着々と家を出る方向に進めばよい」となります。