>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
>かなり大変です。
>心として前向きであるものの、
>頭と体が追いつかないんです。
>頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。
↑
ちゃんと自意識の本音が(無意識に)記号化されてます。
デ・コードしましょう。
「あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、かなり大変です。頭と体が追いつかないんです。」
■『全力で走れば追いつきます』よ
(マジな話です「ランニング不足」なのだと思います。←これは本当にそのままで「万歩計的な日常生活の走行距離が不足している」と考えてもいいです。”単独走行距離”:関連キーワード<単独大西洋横断)
前段を(実は既に自分で答えがわかっている)ベースに読み直すと以降に既に答えがあった事が確認できます。
>条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
「そこ(強迫時代)に(走行距離不足で)留まっているから」ですよ、
>大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
「大勢の人に中に入っちゃいかんでしょう(笑」
何度も言うように”単独走行”がテーマな状況であり、
>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
と言いならが「大勢の人」じゃ「一ヶ月続けていない」って事です。
大勢の人相手じゃ単独行動にならない。
↑
これは婉曲的な意味なので後段読み進んでください。
>身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
>一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
>それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
>体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
>もちろん授業なんて頭に入ってきません。
↑
なんで授業なんて行っているですか(笑
現段階では勉強などクソの役にも立たないと説明していませんでしたか?
自意識の本音で「マジに勉強したい」のなら人の少ない図書館にでもひとりでいけば「ゲーが出るほど勉強できます」。
↓
>疲れてしまいました
>今は、外へ出歩く元気もないです
>家でじっとしているのも、つらいです。
ほら、問いのおかしさに気が付きました?
(”騙し絵のトリック”発見できません?)
「外へ出歩く元気も無く、引きこもりも勿論辛い」
極論”リストカットの量”の告知に見られるようにナルチスズム的には「生きるか死ぬか的に辛い」ってテーマの話です。
ところがです。
と こ ろ が
その原因は?
「一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると」ってあーた、
生きるか死ぬかって時に、何学校いってんですか?
しかもですよ、
ここで最初からもう一度読み直してください。
「生きるか死ぬか的に辛い」の直接的原因は「クソの役にも立たない学校行ったから」。
変でしょ?
逆回ししてみましょう。
(映像手法である「VTRの逆回転映像」でイメージしてください)
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」(原因は?)→「外に出歩く元気も無く疲れ果てている絵」(原因は?)→「何故だかわからねど能天気に(後で生きるか死ぬかの原因となるのに)学校などに行っている」
おかしいでしょ、
↓
シーンを並列させます。
「生きるか死ぬかって自己愛的状況」ってゆゆしき事態なのに「いけない、学校に行かなきゃ」、
ってアータどんだけ暇なんですか?
これはですね、福島第一で原発爆発しているのに「時間だから学校行かないと」と言っているようなものです。
ですから、
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」が想定されるので(強迫心理がいかにもやりそうな事なので)、現状判断としては『共同幻想的空間』は(強迫心理を刺激するので)むしろ避けるべきで(仕事上で発現した鬱症状の会社員が心療内科で「休職」進められるのと同じです)、「単独行動でランニングしてください」なる状況なのに『事もあろうか学校行った』って話です。
目先の重要性はあっても人間の人生なる哲学的フェーズで「たかが目先の学校行ってたか行ってないか」なんて何の意味も無いですから。
自意識がマジに研究したいと取り組んでいる「マジな研究欲求」なら別ですよ?
なら別ですがー
「マジな研究欲求」って何でしょう?
「授業サボってでもひとりで図書館に籠って研究したい」って事ですよ。
ある意味現状(あくまでも暫定的な現状判断ですよ)、
「暴走族から足洗おうとしてんのに、付き合いだからと暴走族の集会に行ってどうする」ぐらいのカウンターで考えていいって事です。
で、集会帰りに「これじゃ暴走族が止められないと(グッスン)リストカット」って、、そりゃないでしょう。
ないですよね?
繰り返しになりますが、
一拍置いて冷静に考えれば特別難し事じゃありません。
(てか、自然に考えれば「どう考えても変」なんです)
>目の前の世界は歪んでいるし、
風通し悪いからです
(強迫心理による”モヤ”がかかっている→言えば蜃気楼のようなものです)
↓
だから”モヤ”がかかっている場所から「風通しのいい公園」であるとか「居心地のいい喫茶店」であるとか「空気のおいしい観光地のひなびた旅館」であるとか「ギラギラと原色ベタ塗でクッキリ明解でわかりやすい場所」などにいかないといけませんよね。
(或いは”避難”)
「一人でランニングして」
(一日10キロとかノルマにしたら相当歩きまっせ)
>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、どうしようもないです。
↑
ですから空気が悪いんですってば、
ゴテゴテしたキャスティングにグロなメイクにシツコイ演劇観て(しかも劇場は湿度が高くて息苦しい)オエッとなっているんですよ。
「あー胃がもたれる演劇だこりゃ」と、
だったら走って劇場の外に出ればいいのであって(勿論ひとまずは”ひとり”で)、
>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
↑
こういう現象で息苦しくなる時にはですね。
100Mダッシュ30本走るとか、
1万メートル全力疾走してください。
「別の意味で息苦しくなります」
(別の意味なので走りきったら「息を吸ってほっとできる苦しさ」です)
■ここ本当にマジな話をしているのです。
今一番重要なことは「ランニング用のシューズを買う事」だと思います。
(「ランニング用のシューズ」は婉曲的意味です)
>リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
>心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
>そうですよね、私はガキです。
↑
『リストカット』は”オナニーの一種”なので、
本人それほど気にしていないなら無理に止めるとか止めないとかって話じゃありませんが(それはオナニーのやり方もひとそれぞれで中には想像もしない方法でって人もいるでしょうから)、自分自身「これは止めたい」って事であれば、『リストカットするなんて変態』とかってフラグを立てる事で一定の効果あると思いますが、
(詳しくは後段)
心療内科の医師が「15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、」と言っているのは「15、6まではマスターベーション真っ盛りの時期だからねぇ(思春期長い人は長いかもね)」と解釈するとわかりやすいかと思います。
単純な対抗策は「ドロドロした内容のレディースコミック」などを読むなどですが(そもそも”リストカット”が選択される理由が”性の嫌悪”であるため→なので性行為のバリエーションの中から”リストカット”が選択されていますし「レディースコミック」が解決策とは解決と言っていいのか自体怪しいですし、)、
そうそう短絡的なものでは無いので、学問的背景を考えてみましょう。
※ここでフロイドの”リビドー論”まで飛躍するのは行き過ぎで、冷静な論議として考えても「鬱症状化では性欲が減退する」などの現象が確認されていますから(80年代などの欧米でメンタル性の不眠などにポルノ映画が勧められたり)、判断の鍵は『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が間接的ではあっても「性行為を代替する」ということで、逆に言えば『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が(ここは広義では無く)”狭義の性的興奮に近いものだ”という事であり、欲求の代謝が日常生活なりの「動機形成と企画された行動の起動」を阻害するため”広義も狭義も差別なく”欲求不満状態に陥り(動物は行動停止=飢え死にですので)脳内が快感代謝(”やったー””終わったー”などの行為の達成感→”間違ったー””負けたー””失敗したー”でも可なのがポイント:快不快原則<脳内では興奮を伴えば快でも不快でも快感)を要求し、外部での行為がなかなかスムーズにいかない状況「今は、外へ出歩く元気もない」ですから→「これでは達成感なるものの快感を(個人でできる狭義の)性欲に求めるしかないか」などの脳内処理で(一度性欲による代謝に成功すると”反復再現性の原則”からこれに依存し)それが習慣化してしまうもの、と考える事ができます。
(鬱的不快感興奮や性依存症やリストカットなどは上記流れにより構造・習慣化する。)
「この一カ月の間で一気に増えました」←この理由は(外出もできないぐらいなど日常的に代謝する”行動欲求”が欲求不満として累積しているからで:ある意味会社の仕事でストレス溜まった会社員の風俗通いが止まらなくなるように)『欲求不満』だからです。
↑
私が「ランニング」として表現している事はその「なんでも無い日常の行動」の部分で、
(自然の動物は檻に入れるだけでストレスで命を落とす場合もあります。人間の性欲は動物世界の中でもモチーフとして異例なものなので→リビドー的解釈よりむしろ”広義の解釈”の方が合理的です。つまり”欲求不満”の過半は「日常性の行動欲求である」。)
人間の欲動総量と言いますか”欲求”というものは「動機形成と企画された行動の起動」の事なので、特別に快感が予定された行為を求める事に限った話では無いのです。
(むしろ「特別に快感が予定された行為」の方が全然少ないでしょう。←ですから”狭義”)
これをシンプルなモデルにする場合(現状複雑な行為を動機形成する体力が疲労により自我に不足していると判断し)、
「はい腕を思い切り回してー、次はステップします、前ー、後ろー、後ろー前!(どこ向くのよ)その場でジャンプしますよー30回!(30回て、)」のようなですね(ですから勿論エアロビクス教室に通うとかでも全然アリです)、「ピッ、ピッ、ピッ」と『自意識企画によるシンプルな行動(運動)』が欲求不満の代謝に効果的です。(勿論腹筋300回でも縄跳び1000回でもいいです)
↓
これを一連の行動にした場合(同時に「学校に行ったから死にたくなった」のような部分への対抗軸として)
■「往復10キロ歩いて、お気に入りの喫茶店でおおよそ人には見せられないドロドロした内容の退廃的文学作品を読んだ」のような行動になります。
さてここで最初の問いに戻ります。
前述の「10キロ歩いて…」と「今から学校に行く(逝く)」、
どちらが(今のメンタルにとって)健康的か、
(或いはどちらが「自意識にとっての”自由”なのか」)
※今必要なことは『大人(の自分)が考える反抗期(自我の現実アップデート)』であることに着目してください。
この判断があれば迷うことなく、一ヶ月経過して「情けなくて、悔しい」思いをする事は無い筈です。
<今回のレスはトータルでも婉曲的になっているので、「そこから先」はyuttieさん自身の自意識で考えてください。>