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【22】もう辛くないのに不安 yuttie 2010/06/18 21:39

【68】そのまま読んでみましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2011/07/01 22:37
【77】Re:そのまま読んでみましょう yuttie 2012/01/15 00:06
【78】今回は端的にポイントが現れてます kagewariこの掲示板の管理人です 2012/01/17 00:34

【68】そのまま読んでみましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/07/01 22:37 -

>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
>かなり大変です。
>心として前向きであるものの、
>頭と体が追いつかないんです。
>頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。
 ↑
ちゃんと自意識の本音が(無意識に)記号化されてます。
デ・コードしましょう。
「あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、かなり大変です。頭と体が追いつかないんです。」

■『全力で走れば追いつきます』よ

(マジな話です「ランニング不足」なのだと思います。←これは本当にそのままで「万歩計的な日常生活の走行距離が不足している」と考えてもいいです。”単独走行距離”:関連キーワード<単独大西洋横断)


前段を(実は既に自分で答えがわかっている)ベースに読み直すと以降に既に答えがあった事が確認できます。
>条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
「そこ(強迫時代)に(走行距離不足で)留まっているから」ですよ、

>大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
「大勢の人に中に入っちゃいかんでしょう(笑」
何度も言うように”単独走行”がテーマな状況であり、
>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
と言いならが「大勢の人」じゃ「一ヶ月続けていない」って事です。
大勢の人相手じゃ単独行動にならない。
 ↑
これは婉曲的な意味なので後段読み進んでください。


>身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
>一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
>それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
>体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
>もちろん授業なんて頭に入ってきません。
 ↑
なんで授業なんて行っているですか(笑
現段階では勉強などクソの役にも立たないと説明していませんでしたか?
自意識の本音で「マジに勉強したい」のなら人の少ない図書館にでもひとりでいけば「ゲーが出るほど勉強できます」。
 ↓
>疲れてしまいました
>今は、外へ出歩く元気もないです
>家でじっとしているのも、つらいです。

ほら、問いのおかしさに気が付きました?
(”騙し絵のトリック”発見できません?)

「外へ出歩く元気も無く、引きこもりも勿論辛い」
極論”リストカットの量”の告知に見られるようにナルチスズム的には「生きるか死ぬか的に辛い」ってテーマの話です。
ところがです。

と こ ろ が

その原因は?
「一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると」ってあーた、
生きるか死ぬかって時に、何学校いってんですか?
しかもですよ、
ここで最初からもう一度読み直してください。
「生きるか死ぬか的に辛い」の直接的原因は「クソの役にも立たない学校行ったから」。
変でしょ?

逆回ししてみましょう。
(映像手法である「VTRの逆回転映像」でイメージしてください)
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」(原因は?)→「外に出歩く元気も無く疲れ果てている絵」(原因は?)→「何故だかわからねど能天気に(後で生きるか死ぬかの原因となるのに)学校などに行っている」
おかしいでしょ、
 ↓
シーンを並列させます。

「生きるか死ぬかって自己愛的状況」ってゆゆしき事態なのに「いけない、学校に行かなきゃ」、
ってアータどんだけ暇なんですか?
これはですね、福島第一で原発爆発しているのに「時間だから学校行かないと」と言っているようなものです。

ですから、
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」が想定されるので(強迫心理がいかにもやりそうな事なので)、現状判断としては『共同幻想的空間』は(強迫心理を刺激するので)むしろ避けるべきで(仕事上で発現した鬱症状の会社員が心療内科で「休職」進められるのと同じです)、「単独行動でランニングしてください」なる状況なのに『事もあろうか学校行った』って話です。
目先の重要性はあっても人間の人生なる哲学的フェーズで「たかが目先の学校行ってたか行ってないか」なんて何の意味も無いですから。
自意識がマジに研究したいと取り組んでいる「マジな研究欲求」なら別ですよ?
なら別ですがー
「マジな研究欲求」って何でしょう?
「授業サボってでもひとりで図書館に籠って研究したい」って事ですよ。

ある意味現状(あくまでも暫定的な現状判断ですよ)、
「暴走族から足洗おうとしてんのに、付き合いだからと暴走族の集会に行ってどうする」ぐらいのカウンターで考えていいって事です。
で、集会帰りに「これじゃ暴走族が止められないと(グッスン)リストカット」って、、そりゃないでしょう。
ないですよね?

繰り返しになりますが、
一拍置いて冷静に考えれば特別難し事じゃありません。
(てか、自然に考えれば「どう考えても変」なんです)

>目の前の世界は歪んでいるし、
風通し悪いからです
(強迫心理による”モヤ”がかかっている→言えば蜃気楼のようなものです)
 ↓
だから”モヤ”がかかっている場所から「風通しのいい公園」であるとか「居心地のいい喫茶店」であるとか「空気のおいしい観光地のひなびた旅館」であるとか「ギラギラと原色ベタ塗でクッキリ明解でわかりやすい場所」などにいかないといけませんよね。
(或いは”避難”)
「一人でランニングして」
(一日10キロとかノルマにしたら相当歩きまっせ)
>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、どうしようもないです。
 ↑
ですから空気が悪いんですってば、
ゴテゴテしたキャスティングにグロなメイクにシツコイ演劇観て(しかも劇場は湿度が高くて息苦しい)オエッとなっているんですよ。
「あー胃がもたれる演劇だこりゃ」と、
だったら走って劇場の外に出ればいいのであって(勿論ひとまずは”ひとり”で)、

>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
 ↑
こういう現象で息苦しくなる時にはですね。
100Mダッシュ30本走るとか、
1万メートル全力疾走してください。
「別の意味で息苦しくなります」
(別の意味なので走りきったら「息を吸ってほっとできる苦しさ」です)

■ここ本当にマジな話をしているのです。
今一番重要なことは「ランニング用のシューズを買う事」だと思います。
(「ランニング用のシューズ」は婉曲的意味です)


>リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
>心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
>そうですよね、私はガキです。
 ↑
『リストカット』は”オナニーの一種”なので、
本人それほど気にしていないなら無理に止めるとか止めないとかって話じゃありませんが(それはオナニーのやり方もひとそれぞれで中には想像もしない方法でって人もいるでしょうから)、自分自身「これは止めたい」って事であれば、『リストカットするなんて変態』とかってフラグを立てる事で一定の効果あると思いますが、
(詳しくは後段)
心療内科の医師が「15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、」と言っているのは「15、6まではマスターベーション真っ盛りの時期だからねぇ(思春期長い人は長いかもね)」と解釈するとわかりやすいかと思います。
単純な対抗策は「ドロドロした内容のレディースコミック」などを読むなどですが(そもそも”リストカット”が選択される理由が”性の嫌悪”であるため→なので性行為のバリエーションの中から”リストカット”が選択されていますし「レディースコミック」が解決策とは解決と言っていいのか自体怪しいですし、)、
そうそう短絡的なものでは無いので、学問的背景を考えてみましょう。

※ここでフロイドの”リビドー論”まで飛躍するのは行き過ぎで、冷静な論議として考えても「鬱症状化では性欲が減退する」などの現象が確認されていますから(80年代などの欧米でメンタル性の不眠などにポルノ映画が勧められたり)、判断の鍵は『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が間接的ではあっても「性行為を代替する」ということで、逆に言えば『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が(ここは広義では無く)”狭義の性的興奮に近いものだ”という事であり、欲求の代謝が日常生活なりの「動機形成と企画された行動の起動」を阻害するため”広義も狭義も差別なく”欲求不満状態に陥り(動物は行動停止=飢え死にですので)脳内が快感代謝(”やったー””終わったー”などの行為の達成感→”間違ったー””負けたー””失敗したー”でも可なのがポイント:快不快原則<脳内では興奮を伴えば快でも不快でも快感)を要求し、外部での行為がなかなかスムーズにいかない状況「今は、外へ出歩く元気もない」ですから→「これでは達成感なるものの快感を(個人でできる狭義の)性欲に求めるしかないか」などの脳内処理で(一度性欲による代謝に成功すると”反復再現性の原則”からこれに依存し)それが習慣化してしまうもの、と考える事ができます。
(鬱的不快感興奮や性依存症やリストカットなどは上記流れにより構造・習慣化する。)


「この一カ月の間で一気に増えました」←この理由は(外出もできないぐらいなど日常的に代謝する”行動欲求”が欲求不満として累積しているからで:ある意味会社の仕事でストレス溜まった会社員の風俗通いが止まらなくなるように)『欲求不満』だからです。
 ↑
私が「ランニング」として表現している事はその「なんでも無い日常の行動」の部分で、
(自然の動物は檻に入れるだけでストレスで命を落とす場合もあります。人間の性欲は動物世界の中でもモチーフとして異例なものなので→リビドー的解釈よりむしろ”広義の解釈”の方が合理的です。つまり”欲求不満”の過半は「日常性の行動欲求である」。)
人間の欲動総量と言いますか”欲求”というものは「動機形成と企画された行動の起動」の事なので、特別に快感が予定された行為を求める事に限った話では無いのです。
(むしろ「特別に快感が予定された行為」の方が全然少ないでしょう。←ですから”狭義”)

これをシンプルなモデルにする場合(現状複雑な行為を動機形成する体力が疲労により自我に不足していると判断し)、
「はい腕を思い切り回してー、次はステップします、前ー、後ろー、後ろー前!(どこ向くのよ)その場でジャンプしますよー30回!(30回て、)」のようなですね(ですから勿論エアロビクス教室に通うとかでも全然アリです)、「ピッ、ピッ、ピッ」と『自意識企画によるシンプルな行動(運動)』が欲求不満の代謝に効果的です。(勿論腹筋300回でも縄跳び1000回でもいいです)
 ↓
これを一連の行動にした場合(同時に「学校に行ったから死にたくなった」のような部分への対抗軸として)

■「往復10キロ歩いて、お気に入りの喫茶店でおおよそ人には見せられないドロドロした内容の退廃的文学作品を読んだ」のような行動になります。

さてここで最初の問いに戻ります。
前述の「10キロ歩いて…」と「今から学校に行く(逝く)」、
どちらが(今のメンタルにとって)健康的か、
(或いはどちらが「自意識にとっての”自由”なのか」)
※今必要なことは『大人(の自分)が考える反抗期(自我の現実アップデート)』であることに着目してください。

この判断があれば迷うことなく、一ヶ月経過して「情けなくて、悔しい」思いをする事は無い筈です。

<今回のレスはトータルでも婉曲的になっているので、「そこから先」はyuttieさん自身の自意識で考えてください。>

引用なし

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【77】Re:そのまま読んでみましょう  yuttie  - 2012/01/15 00:06 -

お久しぶりです
前回お話を聞いていただいた頃よりは大分落ち着いてきていると思います。

しかし今回も私の印象をただ羅列しだだけの、何の論理性もない文であることには変わりないです。ごめんなさい…

多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
そのうち手段の目的化というか、自分を抑圧すること自体に快感を覚えるようになっていたと思います。
もはや需要の有無に関わらず、自分を歪曲するとホッとするんです。
だから際限なく捻じ曲げて嘘ついて、中学にあがる頃にはもう素の自分がどうだったのか忘れてしまっていたのかもしれません。自分で言っていて半信半疑ですが、実際そんな印象が残っています。
「表現されてはじめて自分」ですが、なんというか、
自分の好きなことやろうと思うと、底の見えない暗い洞穴のイメージや難しい記号や文字列が幾重にも絡み合っているイメージが浮かんでそれ以外なにも考えられなくなってました。
素の自分、という概念はあるのに具体的にイメージできないようでした
それに自分を抑圧しないということに尋常じゃない軽蔑感もありました。

もしかしたら、素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
それが部活で自分の存在そのものを認められる経験をして、
歪曲した結果である自分ではない自分が顔を出した結果が初投稿でお話させていただいたような
、グロテスクな思考になったのかもしれません
反抗期的な大人へのアップデートのための衝動だけでなく、
そのころさらに部活の人間関係も悪くなり始めていたので
当時はそこまで考えてませんが、思い切って、圧倒的に精神年齢の低い素の自分を出してみたもののその対象が突然無くなってしまってどうしようもなくなってしまった、という感じでした

誰でもいいから殺してやる、という衝動がとにかく頭の中を支配していました
それは、「身勝手な私欲(自分を抑圧しなかった)ために部の仲間を傷つけてしまった」みたいな考えから「私はひどく汚い」という概念になって、「どうせみんな私のことが嫌いだ」「私は本当は人間ではないから、みんな私のことを殺そうとしている」から、とにかく殺さないと…
よく分かりませんが、そんなことを実際に思っていました

とにかく何か一歩踏み間違えていたら危なかったのかなと思います

本当にまだ、頭の中がなんだかこんがらがっていて、もう2年前にもなるショックもうまく整理できず、そんなことを悶々と考えています
ただ良くはなってきているな、と最近ようやく思えるようになりました。
関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
これから糸屑でも解すように今までの自分を整頓できたらと思います

引用なし

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>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
根本的なボタンの掛け違えと言いますか、
180度真逆の深層心理が表に現れてる台詞です。
まったく気が付いていないでしょうが
「私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人」
 ↑
この設定既に『マゾヒスト』になってますよ、
その構造が『被(こうむる)』的な完全な受動系(=自動的に自立独立は後退し抑圧)であり、そのまま(この掲示板なり閲覧されていれば説明の必要無いと思いますが)「強迫心理バレバレ」です。

言うならば『特定権威者(自分を認めるに足る何がし)が自分を認めない限り自分は存在しない』ワケですから、
(ここ親子関係の共依存で紐解けば背景を特別説明する必要無いでしょう)
そりゃね「どんだけ設定が空想・妄想の世界か」ってことです。

そして間違いなくyuttieさんはその「認められるべき受動系(依存系)の自分なる認知」をあたかも本音であるとか抑圧された自分であるかのよのうに”根本的に(180度真逆に)勘違い”しているんですよ。

■そもそも「”何を”認められる」という話なのかですよ、
(ここも説明の必要も無く”共同幻想社会への社会適応”が被っていることは言うまでもありませんが、)
なんで「られる」って認めて「もらう」形にならないといかんのかです。
よりにもよって好き好んで、
 ↑
素で考えればこの状態は100人が100人その設定だけで(自分)不快になる思考構造です。
(「愛”される”」に替えて考えるとわかりやすいでしょう。←勿論女性誌で有名なこのフレーズは不安心や不快を煽る形で購読に結び付けようというキャッチコピーであることは言うまでもありません。ホラー映画のキャッチコピー構造と似たような”レトリック”です。)

加えて
>無条件で感じられる
となれば幼児心理における「空想家族依存心理タイプの退行」であることも説明の必用がありません。
 ↑
ここ典型的な矛盾なのです。
「自分が(自主性としてあれこれ思い)こうであること」が実存しない限り意味が無いにも関わらず、ここが「無条件」ということになれば「誰が何をしようと」のようなニュアンスになりますが→勿論ここは「私が○○○○という名前の人物だけで無条件に」となるでしょう(自分らしく生きているだとか何をしているどういう人物であるのかと無関係に)。即ちこれは親子関係の妄想です(現実の親子関係でもこういう状況は実際には存在しません)。
つまり「現実の親子関係の諸問題」から(実際幼児は空想上の友人と話したりぬいぐるみを相手に会話するなど内面世界の想像に嘆美的に快感想像するケースは珍しくありません)→「空想や想像上の妄想に逃げ込む」的な退行が『(幸福感の想像というか)快感の再現』に結びついてしまい(退行により)、依存(構造的に固着)傾向にあると解釈できます。

▲勿論「無条件」が意図しているものは「私が○○を実現したら」のように成績であるとか実績などの形骸的条件を指しているのですが、そもそもそんな形骸や属性的特徴は『共同幻想社会適応だけに通用する条件』なのです。
ですから、そのままであれば「あたかも共同幻想社会への適応以外の現実はこの世に存在しない」かのような極めて狭い選択となります。
この時点で(そんぐらいに狭くなっている時点で)「既に強迫的発想」になります。

注)勿論思春期の反抗期を経て「共同幻想社会への適応」を選択してもいい訳ですが、反抗期期間は「仮想単独者状態」となりますので反抗期中は「マストでは無く選択肢のひとつ」でなければなりません。


ちょっとイマイチ「何のことやら」な可能性もありますので補強しますと、
「部活などでなんと言いますか和気藹々に誰もが受け入れられている集団」←例えばこういう集団は電車内などにそのまま団体などで乗り込まれるとはっきりいって乗り合わせた周囲全体に不快の環が広がります。
(構造は暴走族と同じだからです)
サラリーマンの飲み会流れの集団も同じように見られます、
(それこそある程度の母集団のまま騒いでもいいように居酒屋なんかも棲み分けしているぐらいで←サラリーマンの一杯飲み屋に間違っても入ってこないように飲み屋には飲み屋なりの棲み分けがある。)
 ↓
同様の現象として、
電車に乗り込む「家庭内と同じふるまいをする年少の子供連れ親子」も不快視されますね。
(そういう事は「外の目に触れない家庭内で」という不文律があるためです)

当該社会にとって秩序というか条件は似たところがあって、
(電車内など準公的な場面では静かにする取り決め合意のある家族のように)
何らかの条件(○○部として本気でやる気になっているだとか)が付随するのが自然なんです。
「本音として私は○○というスポーツを自分の意思で選択している」というような自発的な(自分なりの)選択が明らかであることです。
逆に言えばこれが不鮮明になればなるほど(無条件になればなるほど)そういった類の集団は(集団内では居心地がよくても)周囲に対する不快度合は高まります。
(事実一時期活動内容不明のイベントサークルが社会問題にもなってます)
つまりこれは『母集団のアイデンティティ論』です。
 ↑
ハードな体育会部活で「チャラチャラしている後輩を怒鳴り飛ばすキャプテンの図」で想像してもらえるとわかりやすいかと、

■「勿論こういう状況を指しているのではない」
つまり「無条件」というキーワードの背景には(こんな自分の定義がないため)「○○」なる”氏名だけで”という定義が裏コードになっており、
即ちそれは「家族関係の想定」があることになります。


言い換えるならば「反抗期」とは、
「誰々だから」とか「子供だから」などのような(ある意味)無条件性と受け身(被(こうむる))を嫌悪して、
「私はこうしたいんだから」と自分であることの条件のように、自分を自分の選択で定義してその実現(誰かれに認められるだの認められないだのうんうんは抜きに)への能動性を発現するのがその趣旨であって、
極端に言えば「無条件に誰かに認められるかのような心理は邪魔で不快なもの」になります。
(なので一般的にも思春期における反抗期は親子関係などがギクシャクする←馴れ合い的な言葉や投げかけを特に嫌悪するなど。)

「自分で俺は(こういう選択の)俺だ文句あるか」と自分であることの条件を現実世界に問いかけるというか突きつけるのが”所謂ひとつの青春”というものです。
(そして自分というのは「俺はこれからこういう選択をするぞ」という”これから行う選択”の事ですから、)


<話は戻って>
「自由気ままに勝手に生きる」←こっちがデフォなんですから。
(このスタンスはとりわけ単独者に限定されるものじゃありません)
ですから、
今現在であっても
>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
 ↑
これが残っているのはいかんですよ。
自分で「何を言ってんだか俺は」とダメ出ししていい場面です。

デ・コードすればですよ上記文章の「自分を抑圧していた」
この言葉はですね「甘えたい気持ちを抑えていた」に他なりません。
この快感依存は大人の心理にはありませんので、
逆に言えば一種の中毒(依存症)として←この構造に浸る傾向がある時期から固定化していると言えます。
 ↓
>素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
と考えると「幼児期から私は親に甘えられずに不安感でいっぱいだったのだ」という部分が(抑圧により)冷静に語れていなかった(過去になっていない)事もスムーズに理解できると思います。
 ↑
親会社と子会社の関係で言えば「親会社との関係に安心できず部品製作の本業もオチオチできなかった」と考えると何かが違う事に気が付きませんか?
現実にあったのは「安心して自分なりの活動(部品製作の本業)ができなかった」なんですよ。
しかし「幼児心理的な空想に逃げ込む状態(=内向化傾向)」によりそれは「甘えたかった」という言葉に過剰化します(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)。
現実のサイズは「本業に専念できない」なんですが、
これが「どんな部品を造っても褒めてもらえる空想(=内向)」に囚われてしまうと「甘えたかった」のように現実には滅多に存在しない(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)世界があたかも自分の生存条件であるかのように『枠がハマる』(実はそれは自我にとって『枷』なんですが)。
その想像が破綻しそうになると→(不安感から)感情的に爆発するというか→現在の状況を招いている。
▲重要なのは「本音は、真面目に本業に専念したかたっただけなのに」であることです。
(というかその本音が甘え構造の抑圧により「思い出せなくなっている」と言えばいいでしょうか、)


更に話を古い時代に巻き戻すと、
微妙な親子関係時代に「実存不安(幼児にとって親子関係がギクシャクするのは死活問題ですから←閉鎖的な親会社と子会社の関係)」から、想像の世界に逃げ込む傾向があり→「あたかも本当にそんな(想像世界のような)自分が”無条件に認められちゃう世界”がないと私死んじゃう(サディズム反転すると「みんな殺してやる」)」のような世界から(逃げ込んで)逃げ出せなくなった。
 ↑↓
上記の状況は「大人目線でオマイラさ何やってんの」と醒めた目で両親を見られないのと同じ(鶏と卵の関係)なんです。


>関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
 ↑
案外と関係アリです、
(私は投薬には懐疑的ですが絶対にやめるべきみたいにも思ってません)
タバコであれ珈琲であれ(欧米ならマリファナもアリかもですが)、誰にでも各人なりの精神安定的嗜好品ぐらいありますから。
「それどころじゃない急性の状況」があるのであれば投薬は『一拍置く思考の時間稼ぎ』として使えます。

時間をかけて「おいおい俺は何やってきたのか」考えれば上記の”レトリック(自分でうっかり仕掛けた自我の罠みたいなものです)”に自分でも気が付いてくるでしょう。

引用なし

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