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【22】もう辛くないのに不安 yuttie 2010/06/18 21:39

【55】Re:そーですねぇ yuttie 2011/02/24 14:31
【56】各論でいきましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2011/02/25 19:34
【65】Re:各論でいきましょう yuttie 2011/05/22 00:10
【66】いくつかの各論と推定 kagewariこの掲示板の管理人です 2011/05/22 23:16
【67】Re:いくつかの各論と推定 yuttie 2011/06/29 19:40
【68】そのまま読んでみましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2011/07/01 22:37
【77】Re:そのまま読んでみましょう yuttie 2012/01/15 00:06
【78】今回は端的にポイントが現れてます kagewariこの掲示板の管理人です 2012/01/17 00:34

【55】Re:そーですねぇ  yuttie  - 2011/02/24 14:31 -

kagewariさんおひさしぶりです

最近、去年に比べれば少しずつ自分の中で問題も整理されてきて
また時間も出来てきたので
自分の中に抑圧されたものについて、少しずつ考えています

思えば
家族を含めた私の周りの人たち全員に
必要とされてないか、邪険にされてるような感覚がありました
なぜそうなったのかはわかりませんが
今もそうかもしれません
小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました

今は両親について、正直
最初からこんなのいなかったら、どんなに楽だったかという考えでいっぱいです

私が勉強について否定したがらなかったのは
私にとって勉強が誰かに少しでも振り向いて欲しいと思う気持ちや
自分を少しでも肯定してやりたいという欲求を満たすもので、また、
現実から逃れるための時間つぶしの役割があったんじゃないかと思います


今、
誰かに心を開こうと思うことも、たとえ独りでも自分に素直に生きようと思うことも
何もなしに、ただ生きているだけなのに、
何年間も走らされているか、何かから逃げ続けているような感じで、
そろそろ止めてしまえられればと
少し疲れてしまいました

何ヶ月もかけて誰かにやっと心を開けても
自分自身の少しの心の揺れでその人との付き合い方がわからなくなってしまって
そのたびに人を傷つけて

でも独りでいると、自分が惨めに思えてきて
自分が独りでいるからとかではなくて、
ただただ湧き上がってくる感情として悲しくて、
すこし周りが憎くて、それがまた辛くて

自分をどうしたらいいかわからなくて
誰にも頼れなくて

それを押し殺して笑顔を見せるのも辛いし
でも時には思うままに物を壊したりしてみても、
それこそ何かに向かって演技しているような違和感があって

きっと一年前の文章となんら変わりないかもですね
ごめんなさい
いくら、どう頑張っても抜け出せず
もうこの数年に始まったことではないのですが…

引用なし

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【56】各論でいきましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/02/25 19:34 -

今回はその方がわかりやすいと思います。
> 家族を含めた私の周りの人たち全員に
> 必要とされてないか、邪険にされてるような感覚がありました
> なぜそうなったのかはわかりませんが
> 今もそうかもしれません
> 小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました
 ↑
ここ典型的なので説明します。
とにかく大きな誤解は親等の年長者から見て子供は「赤の他人同様」に遠い存在です。
(感情移入で入れ込むとかそういう”余地”が親権として一般的であるだけで、相互信頼でコミュニケーションできない場合メンタルな問題で悩むタイプの人に顕著な対人恐怖とほぼ同じ状況が子供に対しても発生します。)
表現悪いですが所謂「ペットのように可愛い」と一時的に(というか反射的に)感じられるのは本当の乳幼児などの場合で、その乳幼児期でも昨今の虐待事例にあるように(ペットを飼ったがトイレの躾などで悩んで暴力的になるタイプのケースと大きな違いありません)、コミュニケーションスキルって表現はどうかと思いますが、大人同士の他者とコミュニケーションが円滑にできない大人(親)は、自我成立後(或いは言葉を話し出す萌芽期から)の子供を相手にしても対人恐怖や不安感を感じます。
※ここベーシックに言えば家族社会というのはひとつの権威性クラス(階級)社会であって、何の縁か?という部分が「同期入社」や「同級生」とかと同様に「血縁」というだけで、何か殊更大きな違いはありません。乱暴に表現すれば「異様に濃密な町内会」みたいなものです。

で、仮にですが、
親を含む権威側に対人恐怖的不安感がある場合、その場が生存環境である幼児は「ステレオタイプに安定的な人物像」を”結果論”として求められます。
又ここで誤解を招きそうですが、親が所謂巷間伝わる”親子愛”のような”甲斐”を発現するには、家族法人にとって親はベンチャー企業の代表取締役ですから「会社設立の理念」であるとか理想のような(言えば強い愛社精神みたいな)法人運営における旺盛なモチベーションなどがあっての話であって、仮にですよ「親自体が強迫観念のように”社会適応”を気にするあまり、ステレオタイプに(いい子であるように)結婚に妄執するなどして家族を発起した」であるとか「依存的人格で強迫的に対象者をスカウティングして自分が依存するために家族法人を求めた」などの場合、下手すると『円満に営業している家族的経営の一般の会社』より社会性は劣るんです。→「言えば赤の他人レベルがそれだけ高くなる」それだけでなく、上司である部課長クラス(階級)が(親)所謂使えない上司のようにコミュニケーションスキルが劣るって事です。
(上位概念の話は、江戸時代の氏族なんかを例に想像してもらえるとわかると思います。親子愛の上位概念が”お家大事”の家督保守である。)

■上記は個別事案では無くて、典型的な部分の説明です。

で、この話をすると困ってしまいうのが、
「なんて悲劇的な社会に私は生まれたのか」のような鬱的被害認知が先行することあるので抑えておきますが、
所謂『幸せな家族愛に溢れる組織』←これは幻想ですから。
しかも実際の環境がイメージとかけ離れるものだから、それこそTVで見たホームドラマみたいなのが本当かと幼児は勘違いしてしまうんです。隣の芝生じゃありませんが、そんな絵に描いたような話はありませんし(本当にやっかないのは刑事犯に相当するリアルな虐待です、これは生死にかかわりますから)、だいたいの家族も言うほど濃密な人間関係ありません。
鈴木宗男の家じゃありませんが、「お父さん逮捕された」のような重大イベントで”後発的に”人間関係が(誰かと親友になるように)濃密化するのであって、それは家族法人にも波風ありますから、そこの中のイベントを通して(会社で言えば日々の営業活動を通して)各人個別に相互信頼を形成しているのであって、その機会が『血縁である』のか家族というだけなんです。
(出生はほとんど就職と同じ事なんですよ)
ほとんのどの判断は”自分でどうにかなる”ものなんですが、幼児にはできる事限られているので通常「ちょっと家問題あんじゃないか」的な家族に生まれても反抗期を経て「とっとと独立しよう」的な方向で解決するため一般的には大きな問題になりません。

じゃメンタルな問題は何故おきるのか?
答えは簡単です。
不安を抱えて『強迫的社会適応』に依存する親がいたとします。
何を求めますか?(もうわかりますよね)
無難に”デキル社員を部下に持つ管理職”の姿が無いと不安ですよね?
(勿論昭和の時代のように嫁姑みたいに強迫心理では無く、実力行使的”脅迫”である場合もあるでしょうけれど)
江戸時代の氏族のように歴史的合理性が誰の目にも担保されている「武士の跡継ぎ」のような錦の御旗があれば子供は悩みませんし、親もその道に外れた話はできないので、合理性を共有できます。(まさに共同幻想が機能する)
しかしその理由というか背景事情の理解と言うか情報公開が無いと、(もうわかりますよね?)
> 小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました
やっている当人意味わからない→これが自我に構造化していけばメンタル上の強迫観念になります。

yuttieさんの個別事例に何があったのかは公開掲示板では(プライバシー保護上)確認できませんので、後はご自身で組み立てて考えてもらうより他無いのですが、上記踏まえればある程度推定可能に思います。


ですから、
>今は両親について、正直 最初からこんなのいなかったら、どんなに楽だったかという考えでいっぱいです
 ↑
これ「おかしい」んですよ。
意味わかります?
とっとと独立すれば何の関係も無いんですから。
(本当の話で一般社会の大人って普段圧倒的な時間、実家の親の事なんか忘れてますよ。独立して日常過ごすってそういうことなので。←だから共同幻想は『お盆』とか『正月』を組み込んでいる訳で、)

皮肉な事に「あたかも親子関係が永続的に続くかのような妄執に飲まれているのはyuttieさんの心理」だって事に気が付いていない。

これを読み解くカギが、
そもそも強迫的な親の人格があれば、何故子供がその親に執着するあまり強迫観念を取り込んだりするのか?
そのモチベーションとなります。
「精神年齢的に見発達な子供に可愛いペットを買ってあげた」←どうなります?
自己愛的に溺愛することありますよね。(或いは過干渉と激怒など)
依存心のコアでもあるんですが、
(あくまでも仮説ですが)
言葉を話し始める幼児期以前の乳幼児期に以上に可愛がられて(ここでは随分いい目にあっている)「快感依存的」な傾向があるとか、
或いは、親の非社会性を引き継ぎ子供社会の中で自発的な快感獲得が出来ずに快感原則が専らインナーワールド(内向社会)としての家族間にしか無かったなど、こういうサイドストーリーが関係していたりします。
(勿論親が自己愛投影して子供を特別視する事例も少なくありません)

■根本が誤解だって事ですよ。
それこそ最初の
 ↓
「なんて悲劇的な社会に私は生まれたのか」のような鬱的被害認知が先行することある
に戻って考えるならば、
それこそ外見的にうまくいっているように見える家族法人は「よっぽど突き放した関係性」であるからこそ、云々と、
(ここ説明しなくてもわかると思います)

ですから話はぐるっと回って元に戻りますが
 ↓
とっとと独立すれば何の関係も無いんですから。
 ↑
と、思えてない事が問題なんですよ。
(そうならない背景が様々な誤解や強迫意識である)


>何ヶ月もかけて誰かにやっと心を開けても
>自分自身の少しの心の揺れでその人との付き合い方がわからなくなってしまって
>そのたびに人を傷つけて
 ↑
ここは想像するに「依存関係」やらかしているんだと思いますよ。
自立的、自己責任担保の水平的・対等の相互信頼関係では無い。
(人怒らせて得する人なんかいませんから)


>でも独りでいると、自分が惨めに思えてきて
>自分が独りでいるからとかではなくて、
>ただただ湧き上がってくる感情として悲しくて、
>すこし周りが憎くて、それがまた辛くて
 ↑
完全な依存心ですよね。
元ネタは迷子の幼児「おとうさーん、おかーさーん」。
勿論そんな年齢じゃないのは確かなので、上記の心理は”自我問題”であってまったく自分の本音じゃありません。
依存的認知に引っ張られてしまっている(俗っぽく言えば”みれん”)
「本当は王家の王女様だったのに」←と大きな違いはありません。
(幼児期のいい子が肥大化している理由は、親などの権威性が反動で肥大し貴族階級みたいなことになっているため←なので極端にいい子じゃないとアンバランスに思えるんです)
※大人目線で言えば、幼児的に昔の恋人の話(自己愛ドラマ)でごちゃごちゃいいながらナルチシズムっぽくメソメソしているのと似たような話です。
(この場合大人目線の話じゃありませんが)


>誰にも頼れなくて
頼る必要無いでしょう(笑
年齢いくつですか?って話です。
江戸時代なら15歳でひとり丁稚奉公だの、場合によっちゃ売り飛ばされたりして普通だったんスから。
(家督相続の長男なら元服ですが)
 ↓
<答え>
「頼ってまで何かすることあるのか?」
(深層心理が貴族の子供だとすると→そりゃ身分の回復とかそれは大変な労力となる:ここが頼る発想の潜在意識です)
※実際に体調含めて大変だなる設定もあるでしょうが、マジに体調が悪い時に呼ぶのは『救急車』だし、たとえはアレかと思いますがトイレでの急な下痢で冷汗かいて気絶しかけるとかって誰でも経験あると思いますがこの時ばかりは「こりゃ助け呼ぶわけにもいかん」と思いますよね。何故可能かってトイレなる『自我の個室』的プライバシーというか結界があるためで(引きこもりの原型とも言えますが)、単体の不快事例はプライバシーというか個人領域であれば(それこそ鬱的に反動化して不快による快感依存があるように)人は引きうけられるんですよ。
※しかしその場面見られたら大事になりますわね、
※しかし「いやー昨日トイレで死にそうになってさ〜」と笑い話にもなりますよね。
(迷子が泣くのは外部の人間に「迷子なの?」と声をかけられた時)
この不快認知には多分に社会性が関係していて(心理学的には”ボーダー(境界例)”なんて個別具体的なものは存在せず、その社会的接点が葛藤なりの戦場(いくさば)になっているワケですよ)、その背景に『過剰な意味に膨張している社会適応強迫(誇大な結果主義)』は横たわっているワケです。
『自立独立』的単純化モデルではそれが派生しない、
(ですからリハビリ過程は単独行動を基本とするべきでしょうとコメントしているんです)
 ↓
ひとりで気ままに駅前の蕎麦屋で腹いっぱい食うって市井の市民の幸福に、誰か頼る必要あるんスか?

自立であるとか独立であるとか、
そもそも哲学的に幸福論って何とか、
自由とは何かとか、そういう根本的なところが深層心理で”えらいことになっている”んですよ。
(全然一般的では無いヒロイン物語みたいな←鬱と反動関係にあることわかりますよね。)
※獲得される””自由度”が自由なのであって(自意識の行動による自己責任による著作権プロセス)、全方位への∞の無限区間は”定義が無いので何の(自由の)実存も無い”、あらかじめ用意された自由って言葉も論理矛盾です←意味わかりますよね。

と、ここで一番最初のレスから読み直してください。
一本に繋がっている筈ですから。
過去の誤解に関しての解釈がまだまだ一貫していない、
そしていい悪いなどの情緒的にに過ぎる部分が多くまだまだジャーナリズム的領域に至って無いって事です。
同時に皮肉な事に「駅前の蕎麦屋」とか「駅前のハンバーガー屋」の幸福ってものを”なめている”って事でもあるんだと思います。

引用なし

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【65】Re:各論でいきましょう  yuttie  - 2011/05/22 00:10 -

お久しぶりです
掲示板の投稿、何度も読み返させていただいています
私おんなじことしかいってませんね
その考え方を今すぐ断ち切れるかどうかは別として
最近それがやっとわかってきました

最近大分落ち着いてきました
いや、落ち着いてはいないんですけど、
自分の状況を一年前と比べて少しは客観的に見られるようになった分
少し余裕を持てるようになっています

両親は対人関係についてはやはりふたりとも変わった人です
私を社会適応させようとしていたかどうかはわかりませんが

母父とも、もの静かで、論理的、合理的な考え方を好むような人で
二人ともかなり我慢強いと思います。どちらも朝から夜遅くまで働いているのに
愚痴をほとんど聞いたことがありません
ただ面倒なことが、特に母親は、大嫌いでした
キャパギリギリまで背負い込んでる状態で、
もうこれ以上何かを背負うことを全力で拒否する感じです

面倒の塊みたいな幼児期にはよく怒られていました
なにかねだったり、あんまり甘えようものなら、
急に声色が変わって
こっちはずっとなだめすかしてんのに調子に乗ってんじゃないよなんて言われるものだから、
我慢して付き合ってたけど本当は私のこと嫌いだったんだと落ち込んで、
とにかくあまり自分が主張できるような余地が無かったので
なるべくいい子でいようと思ったのは、そう思ってからだと思います

ショックだったのは、
9歳のころ突然父にイタズラされそうになったことです
大声出したら隣の部屋から母親が駆けつけてくれて、
同時に父は私からパッと離れ何事も無かったかのように去っていったんで、
9つながらよくないことされたんだと思いました
ただ父が理性を失って感情を爆発させたのを見たのはこれきりです
あれは夢だったんじゃないかと思ってしまうほどです

家族の結びつきなんて幻想だとわかっているとしても、
やっぱりショックです。なんなんでしょう
そのせいでしょうか、恋愛や、それに関係する話題に吐き気を催してしまいます
それともただ私がまだ大人になりきれていないからでしょうか

私が人に依存することに未練たらしく拘泥していたのは、
高校のとき入った部活でかわいがってもらっていたからだと思います
ただ誰かに認められている、だれかがちゃんと見てくれていると思うだけで
なんでもできるような、どんな困難も乗り越えられるような気持ちだったんです
両親に退部をせまられ鬱病になって、結局途中で退学してしまいました
偽親によって本当の親から引き離されたような気分でした

たぶん、幼少期からなにも主張しないぶん、
今まで精神的に全く成長できていないのではないかと思うんです
それと、小さな頃から奥底にしまってきた
悲しみや恨みや憎しみ怒り寂しさが抑えられずに垂れ流しになっていて、
しかもいくら吐き出してもつきないんです

自由の前に、安心できる場所でゆっくり休みたい…
十数年前からずっと、なんとなく疲れていたそんな感じで、
目に入ってくるもの何もかもが怖い

単独行動していますが
生きること自体またすこしだけ苦しいです

ごめんなさい
かなり具体的で、さらに他愛のない話で、返信にすらあまりなってなくてしまいました

引用なし

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【66】いくつかの各論と推定  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/05/22 23:16 -

>母父とも、もの静かで、論理的、合理的な考え方を好むような人で
>二人ともかなり我慢強いと思います。どちらも朝から夜遅くまで働いているのに
>愚痴をほとんど聞いたことがありません
>ただ面倒なことが、特に母親は、大嫌いでした
>キャパギリギリまで背負い込んでる状態で、
>もうこれ以上何かを背負うことを全力で拒否する感じです
 ↑
端的に言えば本音の抑圧と強迫心理ですね。
(強迫心理の特徴のひとつは”ステレオタイプ”ですが、これは時々論理的合理的と誤解されます。論理的合理的なる発想の本質は融通無碍にイロイロな抜け道見つける上手みたいな(オルタナ)ところが本領で、結果窮屈になるのは論理的でも合理的でも無いのです。)

>こっちはずっとなだめすかしてんのに調子に乗ってんじゃないよなんて言われるものだから、
>我慢して付き合ってたけど本当は私のこと嫌いだったんだと落ち込んで、
 ↑
完全に赤の他人状態(自我を持ち始めた子供に対しても一般社会の大人相手と同様の対人恐怖や過緊張が出ている)。
というか家族法人取締役的パフォーマンスが全然無理であると、
(イメージ的には融通の利かない無能な中間管理職のそれに似ています。)
◎ここから彼らが家族法人を立ち上げしたのも彼らのステレオタイプがそうだったからで好き好んでのものじゃないでしょう。
(強迫的な家族法人設立←彼らも”誰か”を権威的に意識しての行動で彼らの本音(自由意志)は抑圧されている。)

>ショックだったのは、
>9歳のころ突然父にイタズラされそうになったことです
 ↑
ここは話半分に減額してください。
(事実関係を否定しているワケではありませんよ。以下に詳細あるようにこのような類する話は裏取り含めて慎重に確認していかないといけない要素が可能性としてですがひとつのリスクには違いないためです。)
根拠のひとつは一時大きな話題になった欧米社会の実子に対する性的虐待のかなりの数が誘導尋問的な記憶偏向も少なく無かった点。
それから特に日本においては小児性愛は欧米に比べて少数派であるのと、以下の証言です。
 ↓
(何回か前の証言)
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか

分析の過程で誰かが悪い的に認識の歩留り(本来はその向こうに彼らの強迫環境も知り”業(ごう)”というか”性(さが)”というか仕方の無い世界だなほんとのようなジャーナリズム的視点に至って理解なので)過程で、悪感情から記憶の一部(前の証言との間の乖離に注目)”特に印象”に関しては割り引いておくのが賢明であるためです。
(いい悪い論に認知が引っ張られるのも強迫心理の特徴(道徳野を占有して抑圧の原動力とする)です。)
更に言えばくだけた家庭の場合父親が娘と中学生ぐらいまで一緒に風呂に入るなど性に奔放な文化を持つ日本の場合あってもおかしくないもので(当然性的な馬鹿話もアリで)、欧米における問題は宗教的抑圧とその反動ですから(倒錯の意味合いや経路が大きく違う)、全てを性的虐待の枠組みで見るのには一定のリスクがあります。
※欧米の小児性愛と違い日本の場合には性に未熟(或いは未発達)な年少者等の男性が傾倒するなど倒錯が別経路となっている。
※むしろこの場合『夫婦関係の問題を考える』背景のひとつと考える見方もあります(後述)。

推定のひとつとして強迫により人格破綻傾向のある両親の父親が(強迫下で)抑圧されていた自意識が(彼の本音には娘が可愛いなどの意識あったでしょうから)、対人恐怖そのままにおぼつかない方向を辿り「娘には嫌われるは・それを問題の妻(ここで夫婦関係の推定)に見られるは」という(自意識を更に抑圧しなければならない袋小路的な)絵というか場面に(可能性として)目を向けるべきでは無いかと。

ここでの嫌悪感は妻(母親)の父親の自意識を嫌悪し蔑視(抑圧する)視点がyuttieさんの視点に(そのまま強迫心理として)影響している可能性があるからです。
(認識の歩留り論と一致する。)
※専ら男性嫌悪心理の一部は『母親の強迫意識』が大きく関係している可能性もあります。
(ここも推定ですが:後述)

その認識ベースで見ると以下の状況は別のものに見えるかもしれません。
>同時に父は私からパッと離れ何事も無かったかのように去っていったんで、


>恋愛や、それに関係する話題に吐き気を催してしまいます
>それともただ私がまだ大人になりきれていないからでしょうか
性の嫌悪にはいくつかパターンありますが、
自分の性(大人になる=子供の心理で依存関係にある家族社会を喪失などから)に対する嫌悪や、
性(ジェンダー)そのものに対する嫌悪で、この場合『母親との同一化(女性の子供の大半は一時期この過程を経ます)』の影響などですね。
つまり彼女が強迫的人格であり且つ婚姻しているとすれば→大人になっていないまま強引に結婚していることになるので、性的快感認知は過去の自分の家族を対象としたまま現夫となるワケですから、夫婦関係において潜在的にも顕在的にも夫を嫌悪している可能性かなり高いです。
(無意識下のファンタジーは自分が子供時代所属していた家族社会の中のなんとやらとなり(強迫心理特有の特権階級意識となり)現世を(一般他者である男性全般を貴族社会から)卑下するなど、)

母親が主導的役割で強迫家庭となった事例では特に娘が父親などを(問題のある母親の伝聞情報などを元に)誤解から過剰に嫌悪しているなどのケースも少なくありません。


>私が人に依存することに未練たらしく拘泥していたのは、
>高校のとき入った部活でかわいがってもらっていたからだと思います
>ただ誰かに認められている、だれかがちゃんと見てくれていると思うだけで
>なんでもできるような、どんな困難も乗り越えられるような気持ちだったんです
 ↑
これは非常にアンラッキーでしたね。
時々あるんです、
偶然と言うか特定社会に対して妙に社会適応してしまい『妄想家族を仮想実現してしまう』ケースですね。
(現象としては全く違うのですが構造的には不良化と暴走族(代理家族)ともクロースする部分あります。)
依存関係には”スカウティング”という過程を経る事も多いので(必ず強迫心理にとって都合のいい相手が選ばれている)、潜在意識の強迫心理は「妙なお墨付き」を得て暴走し(温存拡大)、その後に強い反動性(行動の過激化など)帯びる場合もあります。
(ズルズルと当時の関係者との関係が続きその都度何らかのアクションが強迫トリガーを引くマッチポンプとなる場合もあります。)

>両親に退部をせまられ鬱病になって、結局途中で退学してしまいました
>偽親によって本当の親から引き離されたような気分でした
 ↑
この当時の記憶も”印象に関しては”割り引いて考えるべきでしょう。
「強迫心理のいい悪い論に極めて都合がよ過ぎる話になっている」からです。
(結果として強迫心理の拠り所である『幻想家族』が過剰に美化されて終わっている事に注目。)


>悲しみや恨みや憎しみ怒り寂しさが抑えられずに垂れ流しになっていて、
>しかもいくら吐き出してもつきないんです

つきないのはそのルサンチマンそのものが『誤解』だからですよ。
(イカレタ家に生まれたとか、トンデモ暴力両親だった的な事は何とでも無いと言えば極端ですが(理由が幼児や子供にもわかりやすい”そのまんま”な内容の場合メンタルな問題に発展しない)、ルサンチマンの根拠を想像すれば簡単です。「本当なら○○や○○など子供的にも大変幸福で快感のある○○な幸福を奪われた」←前段が自己愛的に増幅すればするほどルサンチマンは拡大する。)
極端な話生きるか死ぬか寸前の状況で育ったとしても「自分自身だからどうしたなんですよね(←今元気に生きている事が証拠)」であってなんら不思議では無いのです。「ほんとにね(笑、あのクソ両親とか思いますが、いえいえ別段怒ってもいないですよ。てか怒っても仕方ないでしょう、彼らもあーやって生きてきたんですから。」
 ↑
問題は事の軽重(なんでしょうね抽象論になりますが幸福の軽重でもなく)とは全く関係無いのです。

わかりやすいのか、わかりにくくくて「幼児の心理がその説明に幻想を必要としたか」この差異です。
(いい子幻想も全体の幻想の延長上にある”ナンセンス”なワケで)

>自由の前に、安心できる場所でゆっくり休みたい…
>十数年前からずっと、なんとなく疲れていたそんな感じで、
 ↑
これはいかんですね。
ゆっくり休んで滋養付けたいのは強迫心理ですよ。
(依存先の喪失に焦っているんですよ。)
※そんな都合のいい先はありませんから、仮にそう勘違いして依存した場合、勿論そこにも現実社会ありますから(過度に社会適応しないと捨てられ妄想などとなり)下手すると誰かを殺意に近いほど恨んでしまったり、関係悪化したり、場合によると過度の社会適応意識から「○○ができないからだ」などのような偏執的な妄想に囚われたりなど問題が悪循環化し現実に現象として波及してしまう場合もあります。

疲れていたのは依存先との関係を固定化するために無理をして「それこそクソの役にも立たない勉強したり」ですね、
一見応援している人(実体は強迫心理の取り巻き)を美化しちゃったりですね、
随分自意識の本音から遠くまで来ちゃったからです。
辿りついて「なにかしたいの私」状態であると、

ゆっくり休むなら「ひとりでやすんでください」。
(引きこもりと意味は違いますよ。ひとりで喫茶に行くとか、図書館行くとか散歩するとかのんびり過ごすということで、)


>単独行動していますが
>生きること自体またすこしだけ苦しいです
 ↑
それでいんです。
世の中ね、基本生きるってのはある程度疲れるなど苦痛も幸福のうちですから。
散歩したって疲れるんだし、読書すれば肩も凝るし、
登山は命がけだし、硬球当ったらデッドボール洒落にならないし、
最初に飲んだ酒はマズイものだったり、最初の喫煙はクラクラ気持ち悪いものだったり、
幼児にブラックコーヒーの味はわからないし、
何か上等なもの食おうと思えばハードに働くとかね、
海女ごっこだとばかり海に潜ればだれでも息が苦しいのであって、

『疲れられる』ってのは自由な自意識の発露として「こっちいくと選択」した結果(モチベーションの発動にも成功)その過程を証明するものであって(確かに企画立案と行動のハンドル握ったという)、腕立て腹筋などハードにトレーニングすれば誰だって苦しいですがそれは『不幸の逆さま』ですから。


>自分の状況を一年前と比べて少しは客観的に見られるようになった分
>少し余裕を持てるようになっています

言うならば上記二行が現在の自意識の本音であるということでしょう。
(レスはその二行だけでよかった)
と考えてみればですよ?
以降に続く話のおしまいが→「強迫心理擁護ともいえる方向に揺れている」とも見えるのであって、
前段二行が以降の反動となる文章構造となり、
(そういう内容は現在の自分の自意識の思惑とは違っているので)
 ↓
>かなり具体的で、さらに他愛のない話で、返信にすらあまりなってなくてしまいました

こういう感想になったのでしょう。
(自分でも違和感がある)
>ごめんなさい

いえいえここは私に謝るところではなくって、
自分の自意識に謝るとことです。
「スマン俺、余計なこと考えた」←という感じですね。

引用なし

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【67】Re:いくつかの各論と推定  yuttie  - 2011/06/29 19:40 -

お久しぶりです。
あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
かなり大変です。

心として前向きであるものの、
頭と体が追いつかないんです。
頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。

条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
もちろん授業なんて頭に入ってきません。

結局、体はボロボロで、でも一晩中緊張が続いてうまく眠れず、…課題も予習もできず。

安易な事を言うかもしれませんが、
なにかアルコールや薬物の中毒から抜け出すのかというくらいの感覚です。
心と体が全く別物で
物凄く辛いし、どうしようもないです。


なにもしたいと思えないし、何もできる気がしない。
リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
そうですよね、私はガキです。

目の前の世界は歪んでいるし、
口を開いた瞬間どうしようもない悪ガキとされていたので
記憶もないほど遠い昔から感情の抑圧というものを第一の信条として生きてきたから、
言ってしまえば
その当時から今まで生きた心地なんてしたことほっとんどなかったし、
最初からこんな奴いなかったんだといって、どこへでも消えていけたらいいのに
とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
どうしようもないです。

心療内科の先生に、少し気持ちを抑圧できるようになれれば、とアドバイスされましたが、
もう、気持ちを抑えるのは恐ろしくてならないです
抑え込みすぎた結果、おととし通り魔になりかけたので

疲れてしまいました
今は、外へ出歩く元気もないです
家でじっとしているのも、つらいです。
情けなくて、悔しいです。

引用なし

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【68】そのまま読んでみましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/07/01 22:37 -

>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
>かなり大変です。
>心として前向きであるものの、
>頭と体が追いつかないんです。
>頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。
 ↑
ちゃんと自意識の本音が(無意識に)記号化されてます。
デ・コードしましょう。
「あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、かなり大変です。頭と体が追いつかないんです。」

■『全力で走れば追いつきます』よ

(マジな話です「ランニング不足」なのだと思います。←これは本当にそのままで「万歩計的な日常生活の走行距離が不足している」と考えてもいいです。”単独走行距離”:関連キーワード<単独大西洋横断)


前段を(実は既に自分で答えがわかっている)ベースに読み直すと以降に既に答えがあった事が確認できます。
>条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
「そこ(強迫時代)に(走行距離不足で)留まっているから」ですよ、

>大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
「大勢の人に中に入っちゃいかんでしょう(笑」
何度も言うように”単独走行”がテーマな状況であり、
>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
と言いならが「大勢の人」じゃ「一ヶ月続けていない」って事です。
大勢の人相手じゃ単独行動にならない。
 ↑
これは婉曲的な意味なので後段読み進んでください。


>身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
>一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
>それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
>体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
>もちろん授業なんて頭に入ってきません。
 ↑
なんで授業なんて行っているですか(笑
現段階では勉強などクソの役にも立たないと説明していませんでしたか?
自意識の本音で「マジに勉強したい」のなら人の少ない図書館にでもひとりでいけば「ゲーが出るほど勉強できます」。
 ↓
>疲れてしまいました
>今は、外へ出歩く元気もないです
>家でじっとしているのも、つらいです。

ほら、問いのおかしさに気が付きました?
(”騙し絵のトリック”発見できません?)

「外へ出歩く元気も無く、引きこもりも勿論辛い」
極論”リストカットの量”の告知に見られるようにナルチスズム的には「生きるか死ぬか的に辛い」ってテーマの話です。
ところがです。

と こ ろ が

その原因は?
「一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると」ってあーた、
生きるか死ぬかって時に、何学校いってんですか?
しかもですよ、
ここで最初からもう一度読み直してください。
「生きるか死ぬか的に辛い」の直接的原因は「クソの役にも立たない学校行ったから」。
変でしょ?

逆回ししてみましょう。
(映像手法である「VTRの逆回転映像」でイメージしてください)
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」(原因は?)→「外に出歩く元気も無く疲れ果てている絵」(原因は?)→「何故だかわからねど能天気に(後で生きるか死ぬかの原因となるのに)学校などに行っている」
おかしいでしょ、
 ↓
シーンを並列させます。

「生きるか死ぬかって自己愛的状況」ってゆゆしき事態なのに「いけない、学校に行かなきゃ」、
ってアータどんだけ暇なんですか?
これはですね、福島第一で原発爆発しているのに「時間だから学校行かないと」と言っているようなものです。

ですから、
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」が想定されるので(強迫心理がいかにもやりそうな事なので)、現状判断としては『共同幻想的空間』は(強迫心理を刺激するので)むしろ避けるべきで(仕事上で発現した鬱症状の会社員が心療内科で「休職」進められるのと同じです)、「単独行動でランニングしてください」なる状況なのに『事もあろうか学校行った』って話です。
目先の重要性はあっても人間の人生なる哲学的フェーズで「たかが目先の学校行ってたか行ってないか」なんて何の意味も無いですから。
自意識がマジに研究したいと取り組んでいる「マジな研究欲求」なら別ですよ?
なら別ですがー
「マジな研究欲求」って何でしょう?
「授業サボってでもひとりで図書館に籠って研究したい」って事ですよ。

ある意味現状(あくまでも暫定的な現状判断ですよ)、
「暴走族から足洗おうとしてんのに、付き合いだからと暴走族の集会に行ってどうする」ぐらいのカウンターで考えていいって事です。
で、集会帰りに「これじゃ暴走族が止められないと(グッスン)リストカット」って、、そりゃないでしょう。
ないですよね?

繰り返しになりますが、
一拍置いて冷静に考えれば特別難し事じゃありません。
(てか、自然に考えれば「どう考えても変」なんです)

>目の前の世界は歪んでいるし、
風通し悪いからです
(強迫心理による”モヤ”がかかっている→言えば蜃気楼のようなものです)
 ↓
だから”モヤ”がかかっている場所から「風通しのいい公園」であるとか「居心地のいい喫茶店」であるとか「空気のおいしい観光地のひなびた旅館」であるとか「ギラギラと原色ベタ塗でクッキリ明解でわかりやすい場所」などにいかないといけませんよね。
(或いは”避難”)
「一人でランニングして」
(一日10キロとかノルマにしたら相当歩きまっせ)
>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、どうしようもないです。
 ↑
ですから空気が悪いんですってば、
ゴテゴテしたキャスティングにグロなメイクにシツコイ演劇観て(しかも劇場は湿度が高くて息苦しい)オエッとなっているんですよ。
「あー胃がもたれる演劇だこりゃ」と、
だったら走って劇場の外に出ればいいのであって(勿論ひとまずは”ひとり”で)、

>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
 ↑
こういう現象で息苦しくなる時にはですね。
100Mダッシュ30本走るとか、
1万メートル全力疾走してください。
「別の意味で息苦しくなります」
(別の意味なので走りきったら「息を吸ってほっとできる苦しさ」です)

■ここ本当にマジな話をしているのです。
今一番重要なことは「ランニング用のシューズを買う事」だと思います。
(「ランニング用のシューズ」は婉曲的意味です)


>リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
>心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
>そうですよね、私はガキです。
 ↑
『リストカット』は”オナニーの一種”なので、
本人それほど気にしていないなら無理に止めるとか止めないとかって話じゃありませんが(それはオナニーのやり方もひとそれぞれで中には想像もしない方法でって人もいるでしょうから)、自分自身「これは止めたい」って事であれば、『リストカットするなんて変態』とかってフラグを立てる事で一定の効果あると思いますが、
(詳しくは後段)
心療内科の医師が「15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、」と言っているのは「15、6まではマスターベーション真っ盛りの時期だからねぇ(思春期長い人は長いかもね)」と解釈するとわかりやすいかと思います。
単純な対抗策は「ドロドロした内容のレディースコミック」などを読むなどですが(そもそも”リストカット”が選択される理由が”性の嫌悪”であるため→なので性行為のバリエーションの中から”リストカット”が選択されていますし「レディースコミック」が解決策とは解決と言っていいのか自体怪しいですし、)、
そうそう短絡的なものでは無いので、学問的背景を考えてみましょう。

※ここでフロイドの”リビドー論”まで飛躍するのは行き過ぎで、冷静な論議として考えても「鬱症状化では性欲が減退する」などの現象が確認されていますから(80年代などの欧米でメンタル性の不眠などにポルノ映画が勧められたり)、判断の鍵は『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が間接的ではあっても「性行為を代替する」ということで、逆に言えば『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が(ここは広義では無く)”狭義の性的興奮に近いものだ”という事であり、欲求の代謝が日常生活なりの「動機形成と企画された行動の起動」を阻害するため”広義も狭義も差別なく”欲求不満状態に陥り(動物は行動停止=飢え死にですので)脳内が快感代謝(”やったー””終わったー”などの行為の達成感→”間違ったー””負けたー””失敗したー”でも可なのがポイント:快不快原則<脳内では興奮を伴えば快でも不快でも快感)を要求し、外部での行為がなかなかスムーズにいかない状況「今は、外へ出歩く元気もない」ですから→「これでは達成感なるものの快感を(個人でできる狭義の)性欲に求めるしかないか」などの脳内処理で(一度性欲による代謝に成功すると”反復再現性の原則”からこれに依存し)それが習慣化してしまうもの、と考える事ができます。
(鬱的不快感興奮や性依存症やリストカットなどは上記流れにより構造・習慣化する。)


「この一カ月の間で一気に増えました」←この理由は(外出もできないぐらいなど日常的に代謝する”行動欲求”が欲求不満として累積しているからで:ある意味会社の仕事でストレス溜まった会社員の風俗通いが止まらなくなるように)『欲求不満』だからです。
 ↑
私が「ランニング」として表現している事はその「なんでも無い日常の行動」の部分で、
(自然の動物は檻に入れるだけでストレスで命を落とす場合もあります。人間の性欲は動物世界の中でもモチーフとして異例なものなので→リビドー的解釈よりむしろ”広義の解釈”の方が合理的です。つまり”欲求不満”の過半は「日常性の行動欲求である」。)
人間の欲動総量と言いますか”欲求”というものは「動機形成と企画された行動の起動」の事なので、特別に快感が予定された行為を求める事に限った話では無いのです。
(むしろ「特別に快感が予定された行為」の方が全然少ないでしょう。←ですから”狭義”)

これをシンプルなモデルにする場合(現状複雑な行為を動機形成する体力が疲労により自我に不足していると判断し)、
「はい腕を思い切り回してー、次はステップします、前ー、後ろー、後ろー前!(どこ向くのよ)その場でジャンプしますよー30回!(30回て、)」のようなですね(ですから勿論エアロビクス教室に通うとかでも全然アリです)、「ピッ、ピッ、ピッ」と『自意識企画によるシンプルな行動(運動)』が欲求不満の代謝に効果的です。(勿論腹筋300回でも縄跳び1000回でもいいです)
 ↓
これを一連の行動にした場合(同時に「学校に行ったから死にたくなった」のような部分への対抗軸として)

■「往復10キロ歩いて、お気に入りの喫茶店でおおよそ人には見せられないドロドロした内容の退廃的文学作品を読んだ」のような行動になります。

さてここで最初の問いに戻ります。
前述の「10キロ歩いて…」と「今から学校に行く(逝く)」、
どちらが(今のメンタルにとって)健康的か、
(或いはどちらが「自意識にとっての”自由”なのか」)
※今必要なことは『大人(の自分)が考える反抗期(自我の現実アップデート)』であることに着目してください。

この判断があれば迷うことなく、一ヶ月経過して「情けなくて、悔しい」思いをする事は無い筈です。

<今回のレスはトータルでも婉曲的になっているので、「そこから先」はyuttieさん自身の自意識で考えてください。>

引用なし

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【77】Re:そのまま読んでみましょう  yuttie  - 2012/01/15 00:06 -

お久しぶりです
前回お話を聞いていただいた頃よりは大分落ち着いてきていると思います。

しかし今回も私の印象をただ羅列しだだけの、何の論理性もない文であることには変わりないです。ごめんなさい…

多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
そのうち手段の目的化というか、自分を抑圧すること自体に快感を覚えるようになっていたと思います。
もはや需要の有無に関わらず、自分を歪曲するとホッとするんです。
だから際限なく捻じ曲げて嘘ついて、中学にあがる頃にはもう素の自分がどうだったのか忘れてしまっていたのかもしれません。自分で言っていて半信半疑ですが、実際そんな印象が残っています。
「表現されてはじめて自分」ですが、なんというか、
自分の好きなことやろうと思うと、底の見えない暗い洞穴のイメージや難しい記号や文字列が幾重にも絡み合っているイメージが浮かんでそれ以外なにも考えられなくなってました。
素の自分、という概念はあるのに具体的にイメージできないようでした
それに自分を抑圧しないということに尋常じゃない軽蔑感もありました。

もしかしたら、素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
それが部活で自分の存在そのものを認められる経験をして、
歪曲した結果である自分ではない自分が顔を出した結果が初投稿でお話させていただいたような
、グロテスクな思考になったのかもしれません
反抗期的な大人へのアップデートのための衝動だけでなく、
そのころさらに部活の人間関係も悪くなり始めていたので
当時はそこまで考えてませんが、思い切って、圧倒的に精神年齢の低い素の自分を出してみたもののその対象が突然無くなってしまってどうしようもなくなってしまった、という感じでした

誰でもいいから殺してやる、という衝動がとにかく頭の中を支配していました
それは、「身勝手な私欲(自分を抑圧しなかった)ために部の仲間を傷つけてしまった」みたいな考えから「私はひどく汚い」という概念になって、「どうせみんな私のことが嫌いだ」「私は本当は人間ではないから、みんな私のことを殺そうとしている」から、とにかく殺さないと…
よく分かりませんが、そんなことを実際に思っていました

とにかく何か一歩踏み間違えていたら危なかったのかなと思います

本当にまだ、頭の中がなんだかこんがらがっていて、もう2年前にもなるショックもうまく整理できず、そんなことを悶々と考えています
ただ良くはなってきているな、と最近ようやく思えるようになりました。
関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
これから糸屑でも解すように今までの自分を整頓できたらと思います

引用なし

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>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
根本的なボタンの掛け違えと言いますか、
180度真逆の深層心理が表に現れてる台詞です。
まったく気が付いていないでしょうが
「私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人」
 ↑
この設定既に『マゾヒスト』になってますよ、
その構造が『被(こうむる)』的な完全な受動系(=自動的に自立独立は後退し抑圧)であり、そのまま(この掲示板なり閲覧されていれば説明の必要無いと思いますが)「強迫心理バレバレ」です。

言うならば『特定権威者(自分を認めるに足る何がし)が自分を認めない限り自分は存在しない』ワケですから、
(ここ親子関係の共依存で紐解けば背景を特別説明する必要無いでしょう)
そりゃね「どんだけ設定が空想・妄想の世界か」ってことです。

そして間違いなくyuttieさんはその「認められるべき受動系(依存系)の自分なる認知」をあたかも本音であるとか抑圧された自分であるかのよのうに”根本的に(180度真逆に)勘違い”しているんですよ。

■そもそも「”何を”認められる」という話なのかですよ、
(ここも説明の必要も無く”共同幻想社会への社会適応”が被っていることは言うまでもありませんが、)
なんで「られる」って認めて「もらう」形にならないといかんのかです。
よりにもよって好き好んで、
 ↑
素で考えればこの状態は100人が100人その設定だけで(自分)不快になる思考構造です。
(「愛”される”」に替えて考えるとわかりやすいでしょう。←勿論女性誌で有名なこのフレーズは不安心や不快を煽る形で購読に結び付けようというキャッチコピーであることは言うまでもありません。ホラー映画のキャッチコピー構造と似たような”レトリック”です。)

加えて
>無条件で感じられる
となれば幼児心理における「空想家族依存心理タイプの退行」であることも説明の必用がありません。
 ↑
ここ典型的な矛盾なのです。
「自分が(自主性としてあれこれ思い)こうであること」が実存しない限り意味が無いにも関わらず、ここが「無条件」ということになれば「誰が何をしようと」のようなニュアンスになりますが→勿論ここは「私が○○○○という名前の人物だけで無条件に」となるでしょう(自分らしく生きているだとか何をしているどういう人物であるのかと無関係に)。即ちこれは親子関係の妄想です(現実の親子関係でもこういう状況は実際には存在しません)。
つまり「現実の親子関係の諸問題」から(実際幼児は空想上の友人と話したりぬいぐるみを相手に会話するなど内面世界の想像に嘆美的に快感想像するケースは珍しくありません)→「空想や想像上の妄想に逃げ込む」的な退行が『(幸福感の想像というか)快感の再現』に結びついてしまい(退行により)、依存(構造的に固着)傾向にあると解釈できます。

▲勿論「無条件」が意図しているものは「私が○○を実現したら」のように成績であるとか実績などの形骸的条件を指しているのですが、そもそもそんな形骸や属性的特徴は『共同幻想社会適応だけに通用する条件』なのです。
ですから、そのままであれば「あたかも共同幻想社会への適応以外の現実はこの世に存在しない」かのような極めて狭い選択となります。
この時点で(そんぐらいに狭くなっている時点で)「既に強迫的発想」になります。

注)勿論思春期の反抗期を経て「共同幻想社会への適応」を選択してもいい訳ですが、反抗期期間は「仮想単独者状態」となりますので反抗期中は「マストでは無く選択肢のひとつ」でなければなりません。


ちょっとイマイチ「何のことやら」な可能性もありますので補強しますと、
「部活などでなんと言いますか和気藹々に誰もが受け入れられている集団」←例えばこういう集団は電車内などにそのまま団体などで乗り込まれるとはっきりいって乗り合わせた周囲全体に不快の環が広がります。
(構造は暴走族と同じだからです)
サラリーマンの飲み会流れの集団も同じように見られます、
(それこそある程度の母集団のまま騒いでもいいように居酒屋なんかも棲み分けしているぐらいで←サラリーマンの一杯飲み屋に間違っても入ってこないように飲み屋には飲み屋なりの棲み分けがある。)
 ↓
同様の現象として、
電車に乗り込む「家庭内と同じふるまいをする年少の子供連れ親子」も不快視されますね。
(そういう事は「外の目に触れない家庭内で」という不文律があるためです)

当該社会にとって秩序というか条件は似たところがあって、
(電車内など準公的な場面では静かにする取り決め合意のある家族のように)
何らかの条件(○○部として本気でやる気になっているだとか)が付随するのが自然なんです。
「本音として私は○○というスポーツを自分の意思で選択している」というような自発的な(自分なりの)選択が明らかであることです。
逆に言えばこれが不鮮明になればなるほど(無条件になればなるほど)そういった類の集団は(集団内では居心地がよくても)周囲に対する不快度合は高まります。
(事実一時期活動内容不明のイベントサークルが社会問題にもなってます)
つまりこれは『母集団のアイデンティティ論』です。
 ↑
ハードな体育会部活で「チャラチャラしている後輩を怒鳴り飛ばすキャプテンの図」で想像してもらえるとわかりやすいかと、

■「勿論こういう状況を指しているのではない」
つまり「無条件」というキーワードの背景には(こんな自分の定義がないため)「○○」なる”氏名だけで”という定義が裏コードになっており、
即ちそれは「家族関係の想定」があることになります。


言い換えるならば「反抗期」とは、
「誰々だから」とか「子供だから」などのような(ある意味)無条件性と受け身(被(こうむる))を嫌悪して、
「私はこうしたいんだから」と自分であることの条件のように、自分を自分の選択で定義してその実現(誰かれに認められるだの認められないだのうんうんは抜きに)への能動性を発現するのがその趣旨であって、
極端に言えば「無条件に誰かに認められるかのような心理は邪魔で不快なもの」になります。
(なので一般的にも思春期における反抗期は親子関係などがギクシャクする←馴れ合い的な言葉や投げかけを特に嫌悪するなど。)

「自分で俺は(こういう選択の)俺だ文句あるか」と自分であることの条件を現実世界に問いかけるというか突きつけるのが”所謂ひとつの青春”というものです。
(そして自分というのは「俺はこれからこういう選択をするぞ」という”これから行う選択”の事ですから、)


<話は戻って>
「自由気ままに勝手に生きる」←こっちがデフォなんですから。
(このスタンスはとりわけ単独者に限定されるものじゃありません)
ですから、
今現在であっても
>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
 ↑
これが残っているのはいかんですよ。
自分で「何を言ってんだか俺は」とダメ出ししていい場面です。

デ・コードすればですよ上記文章の「自分を抑圧していた」
この言葉はですね「甘えたい気持ちを抑えていた」に他なりません。
この快感依存は大人の心理にはありませんので、
逆に言えば一種の中毒(依存症)として←この構造に浸る傾向がある時期から固定化していると言えます。
 ↓
>素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
と考えると「幼児期から私は親に甘えられずに不安感でいっぱいだったのだ」という部分が(抑圧により)冷静に語れていなかった(過去になっていない)事もスムーズに理解できると思います。
 ↑
親会社と子会社の関係で言えば「親会社との関係に安心できず部品製作の本業もオチオチできなかった」と考えると何かが違う事に気が付きませんか?
現実にあったのは「安心して自分なりの活動(部品製作の本業)ができなかった」なんですよ。
しかし「幼児心理的な空想に逃げ込む状態(=内向化傾向)」によりそれは「甘えたかった」という言葉に過剰化します(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)。
現実のサイズは「本業に専念できない」なんですが、
これが「どんな部品を造っても褒めてもらえる空想(=内向)」に囚われてしまうと「甘えたかった」のように現実には滅多に存在しない(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)世界があたかも自分の生存条件であるかのように『枠がハマる』(実はそれは自我にとって『枷』なんですが)。
その想像が破綻しそうになると→(不安感から)感情的に爆発するというか→現在の状況を招いている。
▲重要なのは「本音は、真面目に本業に専念したかたっただけなのに」であることです。
(というかその本音が甘え構造の抑圧により「思い出せなくなっている」と言えばいいでしょうか、)


更に話を古い時代に巻き戻すと、
微妙な親子関係時代に「実存不安(幼児にとって親子関係がギクシャクするのは死活問題ですから←閉鎖的な親会社と子会社の関係)」から、想像の世界に逃げ込む傾向があり→「あたかも本当にそんな(想像世界のような)自分が”無条件に認められちゃう世界”がないと私死んじゃう(サディズム反転すると「みんな殺してやる」)」のような世界から(逃げ込んで)逃げ出せなくなった。
 ↑↓
上記の状況は「大人目線でオマイラさ何やってんの」と醒めた目で両親を見られないのと同じ(鶏と卵の関係)なんです。


>関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
 ↑
案外と関係アリです、
(私は投薬には懐疑的ですが絶対にやめるべきみたいにも思ってません)
タバコであれ珈琲であれ(欧米ならマリファナもアリかもですが)、誰にでも各人なりの精神安定的嗜好品ぐらいありますから。
「それどころじゃない急性の状況」があるのであれば投薬は『一拍置く思考の時間稼ぎ』として使えます。

時間をかけて「おいおい俺は何やってきたのか」考えれば上記の”レトリック(自分でうっかり仕掛けた自我の罠みたいなものです)”に自分でも気が付いてくるでしょう。

引用なし

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