意外な事と思うかもしれませんが『容姿』とは極めて心理的なものです、
もう一段この話には奥行きがあって『容姿』は文化や時代で変遷します。
後段の話はこれだけの説明ではまだ理解が十分では無いと思うので補足しますが、それこそ未開の民族の中には素直に異文化の人間からはおぞましい位容姿をピアスのようなもので変化させ(場合によっては目をそむけたくなるくらい)人としての外観を損なっているとしか言えない文化習俗を持つ部族も実在します。
簡単な差異はファッションに見られるように一時代の流行は異時代の常識では笑い者であったり、これも不確定なものです。
つまりこの世には普遍的に『容姿が云々』などという差異は構造的に存在しないんです。
あり得るのは時限的であったり、仮想上の流行論的な変遷(ここには多分に共同幻想が関係します)の中の誤差のようなもので、
(現実ルネッサンス時代であれば現代社会のモデル体系は顔を歪めて忌避されるでしょう)
↓
■ここからが本題です
↓
「それは大いに社会適応であるとか共同幻想社会との関わりの中で発現している”極めて主観的な着眼”である」
ここまでの説明で更に理解が別の方向に流れていると思うので説明を続けますが、
当該する文明社会における”美意識”というものは(ここにも大いに共同幻想が関係しますが)芸術的昇華を前提とすれば存在するでしょう。
そこから逆算するならば、
↓
「容姿なるものに差異があるとするなら、その時代の文化の名において美男美女だけである」
(人類が歴史的に延々と繰り広げてきた容姿関連の話は「半分は健康状態の判断」「半分はSEXアピールに対する文化としての集団心理」です)
更に付け加えます、
上記の”美男美女”の概念はレア(希少性)という価値論の根本に関わる論理的結果に過ぎません。
(数的に過半数を超えれば”普通”に評価が下がる)
言ってみれば”社会的評論”などいうような代物に近い、
何を話しているのか訳がわからないところあると思うので、対比で表してみましょう。
「社会的評論としての”美”は言い換えれば公的論理である」
「容姿の差異における”醜悪”は主観である(その合理性を証明できない)」
ここまで話してもまだ意味が不明でしょう、
更に説明を続けます。
「自分は美しいと主張すれば社会がそれを認めない限り(一般的意味の)ナルチシスト(自己愛主義者)に過ぎない」
「自分は”醜い”と思うことは、その段階で”被害認知”と等価であるため結果として(心理的意味の)ナルチシズム的な社会不適応的な現象でしかそれを証明できない」
私が言わんとしているのはですね、
仮想上であろうと論理的結果だろうと、人の醜悪を「自分ひとりで勝手に主張したところで何の証明にもならない」って事です。
”醜い”であると反論しやすいでしょうから逆で説明しましょう、
■「私の容姿が美しいあまり人の視線が気になり視線恐怖になってしまいました」
構造的にはhakoさんの言っている話は上記と等価なんですよ。
(自分じゃまったく気がつかないでしょうが鉄板でそうなんです)
これは近代共産主義が台頭した時の「プロレタリアート革命論」にも近い話で、
「私は金持ちだからとそれを証明するのは難しいが、自分は貧しいと主張するのは容易である」
「しかし、私は貴族階級であると主張する事は(それが事実であれば)絶対である」
わかりますか?
後段の話の貴族階級(アイデンティファイ)の証明は共同幻想(階級社会)ですよね?つまり主観ではないから絶対になる。
悪魔の証明じゃありませんが、
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、
何故なら『レア度により成立する法則』の逆さだからです、
(金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明)
構造的に説明できない=構造的に否定もできない
ので、
↓
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、
ここでようやく話はつながったかと思います。
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。
↑
この論旨は成立しないんです、端的に言えば”事実認定できない”。
実は話している当人hakoさんにもそれがわかっているんです。
ですから「思ってしまうんです」という文法になっている、
わかりますよね?「思ってしまうんです」の背理は→「違うのに」或いは「必ずしもそうとは言えないのに」或いは「それは濡れ衣なのに」
※本文の意図は”違う””そうとは言えない”が「人が自分を見下している」にかかっていますが(そこは別途後述します)、文章全体のロジックとして前段の括弧無い全体に”思ってしまう”が掛かっている。
ここでも「いえいえそうだとしても”容姿が劣っている自分”を私は(思ってしまうで)否定していませんよ」という単純な反論あるかもしれませんが、この論旨はナンセンスなんですよ、この被害認知の肝は自分の容姿では無く、それを根拠として(その証明が容姿になっている)自分が周囲から見下されている事が問題のコアであり、仮に100歩譲ってあなたの容姿が劣っているとしてもその結果周囲の人物が概ねあなたを見下しているのでは無いのだとしたら(思ってしまう否定)被害認知と容姿は無関係であり結果容姿どうこうを始まりとする話は成立しない事になる。
注)実際にここは以下により証明
>整形などで顔を変えることはできますが、
これに関連する複数の事実がありますが(プライバシーに関わるので公開掲示板ではこれ以上詳細は言えません)、仮に(簡単に言い換えれば”美人”に変化しても)その状況が事実関係として実体を伴って変化しても、全く問題は解決しないのです。これは事実です、
そして根本的な反証として
「実際に”美しい”事を根拠としてそこから以降の話の流れはhakoさんと全く同じ論旨の悩みを訴える事例は少なくありません」事実です。
(美しいに始まる構造を説明しだすと今回の同じ分量の説明が必要なのでそこは省略します、4時間ほどもらえれば容易に説明できます)
事の発端は?
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。
この話は実体として「(その発端に根拠が不鮮明な事で有名な)いじめ」に近い現象です。
掲示板の過去ログを読んでいただきたいのですが、いじめ論って奴の大半は「既に社会的共同幻想が崩壊しているのにそれに適応しなければと強度のストレスがかかっているだけでなく、文部省なりの方針で時の権力によって寿司詰めで管理されている”群れ”と、何らかの原因(メンタルなど)でそのストレスの埒外にいて社会との関係に個人的事情で関係性が保てない個人との衝突」です。
つまり『相互にお互いがお互いに対する意識はそれぞれの事情で全く噛み合わない』ため、非常に解決が難しい。
それだけでなく、そもそも現代社会(共同幻想は崩壊)において、問題のある社会(学校制度)を保守する方向で問題を解決するのだとしたらそれは別の意味で本末転倒になります。
(いじめる側には意味の無い共同幻想適応を止めさせなければ根本的解決になりませんが、それにはクラス制度そのものを破棄しなければならないので構造的に文部省が動かない限り解決にはならい:無理に解決しようとすれば本末転倒になる→ですから現状はいじめられる側はフリースクール等に避難・いじめる側には”打つ手なし(彼らには強度ストレスが以降も継続)”な状態です)
※特に「いじめ論」は過去ログに多数論証がありますから読んでみてください。
さて、となるとですよ?
今この今です、hakoさんは何をしているのでしょうか?素直に定義してみましょう。
「相談の形で、自分個人でできる解決策は何か無いかヒントなりを求めている」となります。
言い換えると
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」
<一度や十度ぐらいでは必ず上記説明”読み違えています”からここまで相当回数反読してください>
再び本題です。
この誤解「容姿が劣っていると”思ってしまう”」
そして、前段説明の
『金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明』
↑
この部分が
↓
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。
事の発端にかかり(社会的評価を下されたと思い込んでしまい)、誤解が環を広げているんですよ。
冷静に考えればわかります、
いじめの心理は社会心理として”異常な状態”であり、彼らは決して「冷静な審査委員でも無いし統計分析する官僚でも無い」
株式やらの世界で言えば『風説の流布』です。
簡単に言えば「デマである」、
■事実の認定は慎重に行わなければなりませんが、
この際hakoさんの実像としてその容姿がどうであるとかには全く意味ありませんから(異論ある場合には前段の説明を100回くらい読み直してください)心理的側面として非常にやっかいなのはむしろ以下の部分です。
↓
>イライラして勝手にキレそうになってしまうこともあります。
(『「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。』をデ・コード編集します)
↓
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と勝手に(どうしても)思ってしまうんです。
>電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性に対する嫌悪感もすごくあります。
↑
ここまでの説明を前提に考えれば「すでに的外れの濡れ衣」であることは明白で、
(重要なことですが、”電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性”は誰しもが普遍的に不快であり、取り立てて問題ではないとうか、、それは問題は問題なのですが、疑いようの無い個別の事実なので(自分と関係無くこの世には不快なものがあるという論)それ自体論議のテーマにはなりません)
なのに、これがエスカレートしています。
↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。
わかります?
私の説明にあるように、壮大な”前フリ”は実は論旨にもなっていないし、根拠としてもバラバラだったり事実関係がつながっていない。
それらの”前フリ”は何のためにあるのか?
これが言いたいからがための”前フリ”なんですよ。
↓
■『死ねばいいのに』
一見この動機は不特定多数に向いているように(それこそ)思ってしまいますが、全く違うんです。
”前フリ”でどれほど苦労していることか、
様々な話を連ねて(と言っても本人はまったくそうだと思っているし、その反対に以降に続く結論は無為意識で全く自覚が無いのですが)、『死ねばいいのに』の方向を異性の集団に向けているんです。
この(『死ねばいいのに』対象)大反転の鍵は”性差”ですね?
ここで全てが繋がるんですよ。
>「結局容姿が劣っている自分」
この意識には自分自身の性差なるものが深く関係している。
性差って何か?
子供が大人になるって事です。
他者に快感代謝的興味関心が沸き、自分自身のSEXアピール(前段美醜論の話読み直してください)に強い関心を持つ、
これに拒絶があるんです。
(だから発端が「中学〜高校くらいにかけて」=思春期なんですよ)
自分が大人になる事ですよ、
『死ねばいいのに』
と思っている対象は思春期で「ガツガツ大人的快感を求める(チャラチャラした男性)みっともなく目立つ若者」です。
(一般的には彼らのような”群れ”は少数で実際みっとも無いので周囲は逆に気にも止めないのですが←それがみっともない若者にもわかるので、大声出したり騒音出して暴走したり”気に止めろよ”みたいなアピールするんです:これは幼児性サディズムと同じ構造:暴力のネタ元)
この心理の背景には、自分が性的に大人になる事に対する嫌悪感のようなものが被っている。
言い換えれば「自分が性的に大人になる的な世界」に対して『死ねばいいのに』と思っている、
↑
しかしこれじゃ文章になりません。
深層心理は何を思っているのか?
>心の問題や、憎しみ
この答えは子供時代の人間関係にある筈です。
(大人にならない=子供であり続ける=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
「無限に継続」
>憎しみは消えない
だから「憎しみは消えない」(自分が子供であり続ければ=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
様々なルートを辿って、その心理が「所謂”たちの悪い若者達”(特に男性)」に性的拒絶を梃子の原理として反動的に投影されている。
加えて、hakoさんのそんな心理は隠せませんから(共同幻想適応系の人格は潜水艦ソナーのようにそういう違和感に神経質なぐらい敏感です:それが何のことかはわからないが違和感を感ずく敏感さは共同幻想適応人格はとても強いんです:社会通年的にわかりやすくいえば”オバサン社会の心理”のような特徴は、共同幻想適応系人格全般に見られます)、周囲はそこに違和感を感じ、
(それを彼らが好感と感じる事は考えられませんから)
むしろ彼らの側から(彼らの集団心理における潜在意識として)無意識的ですが、hakoさんから(俺らが)嫌悪されているとか、蔑視されていると受け取られ、実体としての社会の中でも諸問題が派生する。
極端に言えば
「死ねばいいのに」がそのまま文字通り見透かされることはありませんが、
少なくともhakoさんが嫌っているような雰囲気は(hakoさんが隠しているつもりでも)大半のケースで「薄々バレています(限りなく”バレバレ”に近い)」
それこそ人の興奮は(遠赤外線として実体伴うって説もあります)、相手に伝わるもので、その対象者が潜水艦ソナーのように(見かけと違って)繊細なぐらい神経質(ビビリ)だったら?
(怖いホラー映画を観ていて本気で怖くなったので、大声出したり無理に笑ったり、歌いだしたり→下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性)
特に関係があるわけでも無い人物に「死ねばいいのに」と思われているんですよ。
(声まで聞こえないが”なんか変な感じ”としてそれが相手にバレている)
これじゃ悪循環は止まらない。
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」
と思うんでしたら回答を探す事です。
↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。
「死ねばいいのに」:この心理は子供時代の人間関係の中の何処からきている心理だろうか?