Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  OTD過去ログ 過去ログ(分類別)  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。

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【14】母親のこと maccha 2010/03/27 17:22

【35】Re:相当勘違いしていますよ maccha 2010/07/24 01:16
【36】まあそうそう堅っ苦しく考えなくてもいいですよ kagewariこの掲示板の管理人です 2010/07/25 10:19

【35】Re:相当勘違いしていますよ  maccha  - 2010/07/24 01:16 -

今回、投稿するにあたってこの投稿が迷惑な投稿であることを十分承知して投稿しております。
私はすでに貴重なお時間を割いていただいて、無料でこの掲示板で精神分析をして頂いたこと、
私が長期間に渡って掲示板を占領することは他に掲示板を利用したい方、あるいは利用しようか迷っている方にとってマイナスとなること、
そして今回の投稿には私の中に依存傾向がみえることを自覚しているからです。おそらくこれが第一の目的なのだと思います。

単独者行動を模索しています、と以前投稿しましたが、ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。

不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
具体的に何があったというよりは私の内面による強迫心理、自意識の問題です。
職場での状況はストックホルム症候群とどこか似ているのではないかとも思います。


母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。


母子間のストックホルム症候群の話をして頂いた時、「社員である前に自分」と仰って頂いた時、自分の中でストンと何かが抜け落ちるような感覚を味わいました。
と、同時に「社員である前に自分」ということになぜ気が付かなかったのだろうとも思います。社員である前に自分、言えそうで言えない台詞、私には言えない台詞、思いつかない台詞、当たり前のことなのに言えない、私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。


この投稿はルール違反です。精神分析の依頼ではありませんし、単独者って何?の質問の裏には依存化傾向がみられるからです。
吐き出すだけ吐き出しました。少し落ち着きました。


過去ログは再度拝見させていただきました。岸田秀さんの本も数冊読ませていただきました。


投稿が長期間にわたってしまい、申し訳ございませんでした。
有り難うございました。

引用なし

パスワード





依存というより『抵抗』なんですよ。
(まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」)
一件ズルズルと話を”蒸し返し”しているところに「我ながらこれはいかん」と自覚があるものだから心理学的意味で何かネガティブな表現はないだろうかと脳内で検索された結果”依存”という言葉が選択されているわけで、
(確かに事実関係は依存なんですが)

有料メールなどの運用として「次の相談までの猶予期間設定」であるとか「受付非受理」であるとか、完全に相談を逸脱する場合お断りする事も実際にあります。プライバシーに関わる事なので具体例は挙げられませんが、
今回の事例は「それほどではない」ですから。
事実関係に依存はありこそすれ、問題の中心は『抵抗』であると認識する方が”現実”に近いです。
(繰り返し:頭から一度読み直してください)
■まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」って話です、

字面を追っていくだけですと「何のことやら」と思う部分あるでしょうが、こういうことです。
今回の話はゆっくり読めば「何かが書いてあるようで、実は何も書いていない」系の”パラドックス”になってます。
(※パラドックスは語彙のとおりで、何か設問や構文になっているようで実は全体の構造はトランプ手品のような”種明かし”が隠れているだけで、どこもかしこも問いになっておらず(本旨は自己愛的独白)、実は質問ではない文章みたいな話)
つまり冒頭の弁解調の印象が自我内に確認(自覚)された”気まずさ”のようなものの正体は、無意識下において『実は質問ではない』ということに薄々気が付いているため”妙な気まずい不快感”としてそれが自覚されいてるって事です。

逆さまから内実を考えてみると以下です。
 ↓
以前の相談やりとりで「確かにそうかもしれない」と(抑圧ロジックが解除されて)自意識に浮上しだした”あれやこれや”は強迫意識には大変都合が悪いため、自己防衛意識が台頭します。
脳内意識は基本(相当にラディカルな人格でもない限り)”官僚的な前例主義”を安全策として採用しているもので、経験則として強迫時代を”事実上追認の形で消極的にでも結果論的肯定”してきてしまった前例を「なんだかんだで由として」意識を元に戻す(抑圧の回復)ことを試みます。
結果無意識に過去ログなどの枝葉末節に至る部分に「全く自覚も無いのに」⇒必死になってどこか変なところはないかと探し回り、その部分に『再質問』のフラグを立てる(赤ペンでアンダーライン引くようなものです)。
※自覚の無い行為なので「普通に読んでいる筈なのに脳内CPUが何故か100%いってる」ような状況です。
(脳が必死なことに自分でも気が付かない)
 ↑
なんていうことのない現象に見えるのですが、実はこの流れが”エライこって”、

第24回『環境アセスメント』最終答申、この文章が発行されたが「細部にまだまだ疑問が残る」。同文章の最終答申としての資料閲覧に際して以下赤線部分の項目は「再検討を残す」ものとするため正規の手続きにおける閣議報告に提出する書面からは削除するように。
 ↑
脳内ではこんな話になっているんです。

まー考えてみてください。
通常の疑問であるとか、追加の質問っていうのは「前回までの経緯を与件化(事実関係認定)」した上で、それに派生する未解説な部分を「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが、どうだろうか?」的な話になる筈です。
(※事実関係の説明に間違いがあればコレ別次元の話ですが)
■重要な部分は「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが」です。
異論や疑問として挙げられた内容(ぶっちゃけ間接的な反論)が場当たり的だと「一発NG」って事ですよ(笑
仮に設問が有効であれば、その異論部分は『相当に煮詰まって考えられている筈』で、
ロジックというか着眼が仮に「淡白であったりステレオタイプの域を出ない場合」
⇒ズバリ「それは似非である(本音ではない)」証拠なんです。

端的に言えば「強迫意識の苦しい言い訳に過ぎない」。
(抑圧が壊れて自意識が妙な事(自己の回復)なんてものを考え出してきたもんだから言うに困った強迫心理が次から次と”言い訳的”反論をあーでもないこーでもないと始めている)

えーこのような時にはですね、
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

長々説明してきましたがどこの部分を言っているのかと言えば
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。
>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

■<注)以下文はカウンター効果を見越して意図的に辛らつな表現もありますので心理的に余裕ある時に読み進んでください>
・ド勘違いで激怒みたいな事も考えうるので、とにかく『瞬間認知で(瞬間湯沸かし器的に)前後読まず』とならないように注意深く読んでください。
今回はかなりガチっと書いてます(強迫回帰の雰囲気が漂ってますので危機回避的表現を優先させています)。

ズラーっと各個にレスをつければ一から十まで意味になってません。
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
単独者の概念ってのは、インターネットソサエティにおける”スタンドアローン”の事です。
(まー言うならば”ネットに接続する事を前提とする(その前の必要十分条件的意味における)単独自立型の個体”の事)

その対立(反対)概念は「会社内のイントラネット内の端末」に過ぎなく、自分の判断では勝手に「フリーのインターネットへの接続許可もおりない」というようなコミュニティーネットワーク(その実はクローズド)みたいなんが『共同幻想』です。
共同幻想が幻想なのは、仮想で存在する筈の上部構造サーバが”実は存在しない”ってことでしょうかね。

これ各所で書いている事だと思いますが、
コミュニケーションの主体として『独立自己完結能力を保持している個体』を”独り”と呼ぶんです。
(ベタな表現で「家族属性称号者の誇りVS独身貴族の誇り」で見てもいいですよ)
ですから、単独者には「構造的に孤立という概念は存在しない」(単独者の場合”自由”って意味ですから)、
現況として孤立という概念が存在し得るのは「共同幻想イントラネット内におけるローカルルール下のパージだけ」なんですよ。
つまり共同幻想に強い帰属意識が存在しない限り”孤立”という体感は成立しません。

>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
※前述の判断ミスにより設問として無効

>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。

これは孤立じゃありません。
仕事のミスで立場悪くなるのは「あたりまえ」であって、
(孤立じゃなくて”ここは仕事するところでプライベートを持ち込んでミスしていい場所じゃない”という認知から、視野狭窄的な仕事のミスがあるって事は、仕事中にオナニーしているのと等価であるため、ソサエティが『会社の仕事時間(公的時間)を私物化しているのではないですか』とそれを(社会契約違反ではないかと)非難しているわけで→「内向オナニーは自宅でやってください」)
敵意を持っているも何も、会社内でテロリスト的立場なのはあなたですよ。
(自覚が無く、完全バックグラウンド動作におけるミスであるのと同時に、強迫心理特有の『被(こうむる)』受動認知が関係して結果論的に”その現象を被害認知でしか認知できていない”だけで、実行行為は”自覚無き無意識的不可抗力だが結果論はサボタージュ”に他ならないのです。)

※仮の話、同様の仕事を続ける場合周囲に対する自己紹介としては「正直メンタルに問題あって、普通にできることまで集中力が維持できなくてミスするケースもあるんですよ、自分でもなんとかとは思っているんですが」と”事実の共有”しなくちゃ「相手を加害者にするために意図的に嵌めているのと同じになってしまう」んですよ。←ここわかりますよね。

※逆さまに単独者的自己紹介の場合「お前ら帰っていいぞ(仕事は俺独りで十分)」だとか、「意味不明のモチベーションで人の数倍の集中力を発揮して頼まれていないところまでやってしまう”ちょっと迷惑だが有能としか説明のできない人”」だとか、少々『挨拶代わりのスタンドプレー』に寄るのは確かで、結果それも社会における私物化(少々厭味っぽくないかと)じゃないかと誤解を生むので(確信犯なので誤解じゃないかもしれませんが)、「だったら俺は独立しましょうか」な経緯を踏みつつなんたらかんたらって世界になります。
(この荒馬を使いこなせば会社の利益になるので収益に色気のある会社はなんとか使いこなそうとしてみたり、自由にやらせる環境整えたりするでしょうし、地味な公家集団的組織なら「君は独立した方が(その特異な部分)生かせると思うよ」なんて綺麗な言葉で辞職を勧められたり、そもそも単独者故に最初から「社会的労務環境は俺には合わネーよ」と気ままに流離っているかもしれません。←っても相当ハードですが、)
当然周囲がドン引きして一目置かれたりって経験は単独者の勲章みたいなもんです。或いは「オマエ仕事やり過ぎ」だとか、
(ものは試しで最初はスタイル(言えばそのふり)から入るって手法もあります。○○道などの形式主義的古典芸能の習熟ってそうですから)

<話は戻りますが>
その辺を全て周囲が察するべきだってのはいかんせん無理がある。
(管理職には部下のメンタル含めて一定のスキルは必要でしょうが、各職場において心理学的知見がマストとして求められているのではありません)

こう考えてみてください、
「高熱なのに無理をして会社に出社したのでミスが多くなり、批判される事も多い」
社員の責任として体調に問題あればそれを申告する義務ありますよね?
(肩の不調を隠して登板して逆転ホームラン打たれてちゃいかんワケで)
上司も熱があるってなら(重要度の低い仕事なり)或いは「今日は休んだらどうかね」とか同僚も「大丈夫?」とか言いますよね?

それを隠して(ってか意図的に隠しているのじゃなく無意識・不可抗力なんですが)『敵意を持っている人』ってあなた、
周囲があたかも「ハナからお前らは悪人面なんだ」みたいな判断してどうするんですか?
相手を道徳的非難するために事実を隠して「悪人トラップ」にひっかているのも同然ですよ。
(っても構造的に不可抗力なんですが、事実関係を自意識が捕捉し始めている今現在はそうは言い切れないでしょう。ある程度自意識にも察しがついているんですし、←強迫心理に都合が悪いってこういうことです。強迫心理はそんなこと(絶対的不可抗力のように)知りたくも無いんです。→堂々と被害認知を脳内で権威的に優先できなくなる。)

やっかいなのはこれが「自覚無く無意識だってことです」
(構造論であるとか不可抗力って部分)

無意識の狙いは?
『単独者など意味が無い、私は人形で、このままだと孤立するばかりである。→共同幻想適応しなさい(強迫意識の原則で)』

本末転倒ですよね?
 ↓
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。

「露骨ないやみ」とかじゃないでしょうよ、
(前項の説明読めばわかると思います)

相当怒っているんですよ、これマジに。
「なんでこうなの?(あなたは自分の強迫物語のために私を悪役に仕立ててさぞかしご機嫌なんでしょうね)」
(そこまでの心理的裏まで周囲は当然わかりませんが、共同幻想適応者特有の本能というか”察知力”ってあるんですよ。ここは瞬間速度的には単独者よか共同幻想適応人格の方が早いかもしれない。なんていうか共同幻想適応人格系特有の”潜水艦ソナー”みたいなアンテナ(適応神経)ってありますから。)

流石に心理学の知識が無い分、素人さんの怒り加減は中途半端な範囲に終わりますが、
(そこに強迫破り的な眼を持つ上司でもいて「全部わかっています。失礼ですがうちの会社の社長はいつから君の母親になったのですか?」とかまされれば目も当てられない)

「内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。」
逆、逆、逆、
逆ですって、
正反対ですってば、
 ↓
「慌てて共同幻想(実はこの場合暗韻で強迫心理を意味する)を回復するために、取り巻きを呼びました。」


>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります

同僚などいない仕事すりゃいいじゃないですか。
(或いはこの際診療内科などで免罪符的な診断書でももらい、失業給付や生活保護など休養優先にする手も非常に有効です。心理学に知見の無い精神科医ですら鬱の症例は「まずねストレスを遠ざけましょう(職場関係なら辞めましょう)」ですよ。)

極端に言えば(脳内で考えるだけでいいです)「道端でインチキ占い師でもやって食ってみようか」と何故考えないんですか?
何故常に職場といえば不特定多数の同僚がいることが前提なんですか?
(社員全体5人以下とかザラにありますよ)


>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、

これは完璧自己陶酔、
『母のお気に入りのお人形さん』
『女王陛下にとって私は特別の存在』
同じ意味ですよ。
お気に入りって、どこのフランス人形ですかって、、
 ↓
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

押井守監督の『攻殻機動隊』じゃありませんが(むしろそのパート2である『イノセンス』で顕著)、
ヨーロッパの哲学には「人形こそが究極の人間である」って耽美主義があるんです。
「人はなぜ人形を作るのか、・・・であるならば人形こそが”完全な人間”という事にならないか」
特別な人形ならなお更です。
(古くはカルトSF映画でもあるリドリー・スコット監督『ブレードランナー』原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? Do androids dream of electric sheep?』にも及ぶ話でしょうが)

完全な自己愛的内向認知ですよ。

「人形であれば、人権もなく、人間以下です。」
 ↑
実はこの表現は”レトリック”であって、”人外”の定義が(よくもわるくも)一般的他者に対して”超越的に特別な自分”を結果論的に定義してしまうことを忘れちゃいけません。
(これに無意識下の強迫心理が結合すると→あら不思議特権階級意識:女王たる母親偶像への帰属(お気に入り)に変質します)

逆さまの表現をベタな口語で言いましょうか?
「何を言ってんですか、あんたさ、うんこもすればごはんもたべる、風呂にはいらなきゃ頭痒いし、丸三日徹夜して24シリーズを3シーズンノンストップでマラソン視聴すればぶっ倒れてグーグー寝るんだから。おもぃきし人間でしょう。」

そしてここは現代社会の日本です、
自分でやれ私には基本的人権は無いと発言するのはご自由ですが、こういっちゃ何ですけどね、
「あなたの人権は憲法が保障していますよ」、
(都合よく逃げようってたって赦しゃしませんって「立派な人権が保障されてます」)

「人権もあれば、うんこもする市井の人間である。我思う故に我アリ、人間は考える葦である。」


>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。

※前述の判断ミスにより設問として無効、
ってか「集団でいる人からすればそうさせようと必死」って、、、
知らない間に自分の認識が随分上から目線(失言)になっているの気が付いていないでしょう。
現実にリサイズするならば「共同幻想適応系の人たちから見れば本当(真剣)に困って」です。
(極論喉元まで「それってワザとなの?私達に誤解から悪いところあるんなら考えもするから本当は(あのミスは)どうしてなのか本音を教えて欲しい(彼らから見ると立ち位置的に強迫心理を本音かと取り違える傾向がある)」って言葉が出かかってるって事です。)


>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

「物言えない人形が単独者になれるのか。」
立派にあれやこれやと反論しているじゃないですか(笑

そもそも物を言うべきじゃないかと(脳内想定で)考えている相手(とその内容)を間違ってる。
(気が付いていないかもしれませんが文章の”暗韻”として「職場の奴らに言いたい事がある」的フラグも入ってます)

社会に対しては「ちょっちメンタルに問題ありましてサーセン」という自己紹介だろうし、
(決して仕事のミスにおける上品な釈明でも無いし、不当な扱いだと抗議する話でも無いし、)
脳内の母親権威偶像イメージに対しては「堕ちたなお前も」という宣言だろうし、
戦うってのは、グチャグチャと御託並べる強迫心理に対して堂々と「バカかお前(俺は)」と、

「ちょっちメンタルに問題」的言葉こそ堂々と言っていんです。
「今(現在)は年号平成なんですよ」
心理学的な知見は社会に十分じゃありませんが、それこそ社会現象としての離婚などにあるように、現代社会で何がしかメンタルな問題に対して接点の無い人なんかいません。又完璧に共同幻想な人も存在しません(特に共同幻想適応タイプの人はどこかメンタルの危うさを内包しているのが現代社会です)、十分理解できなくても「そうなんだ」な部分ぐらい認知する力ありますし、気後れするような話でもありません。
(欧米に至っては「胃腸が弱くて」も「メンタルに少々問題あって」とそう違わないでしょう:欧米の認知が進んでいるのは必ずしも知見が広がっているとか民度が高いという意味ではなく、覇権的製薬会社の強い利権となっているためなんとやらって話なんですが)
 ↓
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

「俺は俺だ、(いちいちなんか)文句あんのか」と宣言することです。


>この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。

ですから上記は完全な間違い。
強迫デ・コードすると、

「この自意識の回復って気づきを認めると自滅するのではないかと思います。というか強迫心理は自作自演の”内向フラグ”をばら撒き(それにまんまとひっかかる悪役もザックザックと確保して)、無意識の内に自分が企てた”自分が主人公の被害者ドラマ”は宴たけなわで、勘違いした被害者ドラマの視聴者として無我夢中になるように私の自意識は又強迫心理の抑圧の論理にのまれてしまうのではないかと思います。」
 ↓
えーそうなんです。だから自分で(その悪循環に気づき)こりゃいかんと「私は相談したのです」よ。
(ここで初回に戻りました”再ループ”)
1まで巻き戻しましたから、今度はループさせないでください。

こういうループを切る(自覚して「バカか俺宣言」)ってのが強迫心理に勝利するって事です。

『様々な(本音じゃ)思ってもみないトンチンカンな話の渦中にある私ってものは俺(自意識)は金輪際ごめんこうむる』という”現実”からの反論です。
一番最初にmacchaさんが相談しようと思った潜在的根拠そのままですよ。
「冗談じゃないぞ俺」と、


<最後に難解話をネタとして問題提起しましょう>
実存主義哲学の元ネタでもあるニーチェの話をwikiからベタで転載しておきます。
こういう話を『なんじゃこれ』と1ヵ月なり半年なり考え続けててみてください。
(なんでしょうわからないだろうって意味では全くありませんよ。「ダイエットのため100回噛んでください」みたいな意味です。)
 ↓
■『永劫回帰』
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。

永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。

(ちょびっと解説するとこの”超人”は特別って意味じゃなくて、仏教哲学における”(強迫:煩悩を捨て)悟りを開いた仏”のように、その意味するところ半ば空想上の”完全体”の定義のような意味で、そうなるとかならなくてはいけないとかではなく、考える上で仮にそれが空想上でも(経済学で言うところの完全雇用の概念のように)定義がなけりゃ始まらないからみたいなところで登場しています)


ついでに実存主義哲学の更に元ネタのモチーフである『シューシュポス(シーシュポス)の神話』もオマケでwikiから転載すると、
(本当の元ネタはギリシャ神話「シーシュポスの岩」)
■『シューシュポス(シーシュポス)の神話』アルベール・カミュ
シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。カミュはここで、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出した。


最初に「オチ」を言ってしまえば「だからここに我は実存するのか」という(相当に仰々しい)”現実の発見”であって、
(内向心理やノスタルジーの天敵です。なんかワケわからんところがミソ。→昔の哲学者なんかがようけ難解な文章を書いたのは、無意識の誤読でロジックが穢される事への生理的拒絶からそれを”ステレオタイプではそうは簡単にケチのつけられない文章にした”って一面もあります。心理学的には衒学的表現(難解)の意味はそれだけじゃないんですが、今回の返信に関してはそこ理解しておいて損は無いです。)

更に簡単にネタバレしてしまうと、
「なんてことが無くてもいい、その駅前ラーメン店で味噌ラーメンを選ぶのか、塩ラーメンを選ぶのか、チャーシュー麺を選ぶのか、掟破りのギョーザライスか?それが世界(実存)であり、現在に他ならない。それ以外何処に”私”の生存証明(レーゾンテートル)などがあろうものか?この至高にして至上の選択を”何人も(おおよそ強迫心理なぞが)穢してはならない”のである。」
「ダメじゃんと言いつつ満面の笑み」のような世界です。

(みょうちくりんな言い方すれば社会的に単独者が発現するルートは「第四の反抗(反抗期の)」みたいなもんで発生していて、その反抗は3つの反抗(所謂反抗期)とは異なる。単独者の出現は幼児期の記憶に対するオマージュの解体やノスタルジーの無効化(所謂反抗期)では無く「唐突な現実(実存)の発見」だからである。まーなんというか、そのような話です。→それが「オヤジ!チャーシュー麺だ」の解なんですよ。)


注)別段実存主義哲学を賞賛しているのではなくて、近代思想から現代っていうか『現代社会の単独者概念』ってのは実存主義哲学の延長に(サブカル的に)文化人類学的だったり心理学的に派生しているのは事実なので(オマージュだとかモチーフだとかリスペクトだとか影響を受けるというかアイデアのネタ元であるとか何でもいいんですが、実際に社会運動に派生してリベラル的政治運動のネタ元になるなど先進国化の先に単独者が頭角する社会的な梃子となっている)、単独者の概念を考えるにあたって参考になるってことです。

気分転換にそっちの方向で考えてみましょうかぐらいに捕らえてもらえれば、
(結論は)違ってくると思いますよ。

引用なし

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