ゆっくり考えれば特別難しい構造ではありません。
(心理的”だまし絵”のような話)
抑圧がかかっているところで考えるワケですから、
「思いつけないアイデアを思いつけと命令しても不毛なだけ状態」だということです。
↑
これだとちょっとわかりにくいと思うので、少々実際の事実関係から離れた説明しますと、
「イスラム教徒の心理になって、今日の晩御飯豚のしょうが焼きは美味いかまずいかを討議しなさい」みたいなレトリックですよ。
(実態はパラドックス)
話の前提として今現在この話を思考し発言している”じよく”さんの自我主体の時制がパラドックスになっているんですよ。
さっきと同じように少々実際の事実関係から離れた説明で話しましょうか。
「会社での顧客との揉め事に関して訴訟に発展した。その時俺は訴訟の中でも極めて実務的・専門的部分の論点を知り合いの弁護人に相談するのではなく、全く法律的に無知な両親に対して(子供時代の人間関係を前提に)聞いてみた。残念ならが建設的意見を聞くことはできなかった。」
↑
あたりまえですよね。
普通に考えれば聞くほうの動機がおかしいですよね?上記説明じゃあたかも答えられない話をそれを前提に聞いたみたいな話になっている。
しかも当事者の主体は時制のズレがあり、会社の業務で顧客相手に起きた事例の時制は”現在”ですか、コメント求めた対象者は現在や個別事例に精通している人物ではなく、子供時代の人間関係(10年近く前の自分)を根拠とするものだったって、、
そりゃね、
↓
「ある街にふらっとやってきて、今そこに住んでいる人に道を聞くのじゃなく、10年前そこに住んでいたかもしれない人をワザワザ探し、なんとか探し出してその10年前住んでいたらしい人に道を聞いたので、すっかり道に迷ってしまった。」
「あの、、オーストラリアはどっちですか?」
↑
こういう『抽象的文章の世界』になっているんですよ。
ところが抑圧かかっているので、ロジカルな矛盾に自分では気がつけない。
脳内の絵が”だまし絵”みたいな事になっているのに、全く自覚が無い筈です。
■ここまでの説明をレス文にあてて具体的に明示すると。
>私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
ここが第一の矛盾です、
ご自身の判断では
↓
>反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
という話が関連で登場するのですが、
反抗期は愛情を確認するものではありません。
反抗期とは快感依存対象の根拠となっている両親など家族内権威者への(幼児特有の)誇大イメージの現実化収縮による相対的幻滅からくる誤解による感情的破綻などの総称で(別段彼らが騙しているのではなく大人と幼児の関係から勝手に幼児が必然として家庭内権威者を誇大視するところが鍵)、客観的には脳内で肥大化している権威者イメージを現実世界の実存像に”修正アップデート”かけているワケで(極端な例だと「英雄→普通の中高年サラリーマン」へリサイズ)、
『私は父親を父親と認められていません』←この言葉は完全に矛盾していることになります。
■反抗期とは家族社会における属性上の呼称(地位)である”父親(部長や課長と同じ)”の称号が(幼児特有の権威フラグの解放)外れて、『男同士の関係』に還元される行為の事ですから、端的に言えば「反抗期が終わったので(自分が大人の男になった関係で)彼は父親ではなくなった」となるのが自然です。
つまり『反抗期によって彼が父親である事について更に認めるに至った』じゃ正反対ですから。
(これじゃ脳内の権威性が今現在も父親依存(実態があるのではなくその役割が希求され続けているという依存)であるって事になってしまいます)
一見整理がついているようで、今現在も「私が彼を父親と認めること」に殊更特別な意味がある事になってしまいます。
この矛盾を解き明かす鍵がこっち
↓
『本当は愛情を注いで欲しいと願っている』
※文章の順序を逆さにすると意味が繋がります。
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
↑
こうやって整理すると”じよくさん”にも「そりゃ〜ないわ」と本音が確認できると思います。
そのとおりです、上記の文面は”じよくさん”の本音じゃありません。
これは実数として10年前の自分じゃありませんが、過去まだまだ自分が子供だった頃の「漠然とした思い(や不満や不安)」の事です。
そんあ時制の違う過去の自分の心象風景が、何を間違ったのか現在の自分の認識に『時制を勘違いして介入している』のかと言えば(更に現在の自分の意思決定に介入しそれを阻害している)、
「その当時(流石に自分も子供だったものだから)、状況の整理ができていなかった」んですよ。
これだけだとちょっとわかりにくいかと思うので、
逆さまから言えば
■「彼(父親)は彼自身のメンタルの関係等(或いは諸般の事情)で、子供の判断では状況の整理ができないような環境(人間関係)を造ってしまった」という事です。
そして「その彼(父親)の事情は、第三者であるとか大人の立場であれば(たとえば今の自分)状況の整理が可能」なんですよ。
当時(子供時代の自分)整理すべき状況とは何か?
「彼の個人的事情により(メンタルなど・或いは諸般の事情)、彼にはおおよそ父親役(部長や課長等の家庭法人内管理職)は荷が重く、事実上職責を果たせない状況であった。当時部下(子供)役の私は、関係性に困り(トラブルを一般的な上司と部下の関係で説明不能で)、子供なりの知恵(狭い範囲でしかも幼児性デフォルメなどの過剰になりがちな認識)でそれを”愛情の問題かな?”と誤解してしまった」
注)ご存知のとおり幼児や子供は語彙として「愛情」という言葉の意味も正確に認識できません(必ず情動的誇張や主観的便法の範囲で認識している)。
そこで基礎にもどるじゃありませんけれども、細かい事のようですが「愛情」なる言葉で説明される関係性は何かって地味な論議も考えてみましょう。
(哲学的意味合いまで説明すると面倒な事になるのでその部分は省略します)
↓
極端な例で考えるのがわかりやすいので、ここでも極端な事例で説明します。
『陸軍士官学校の鬼軍曹教官と生徒の関係』
正に(ある意味)愛情無しには語れない関係です、
軍曹が口汚く生徒を罵ったり必要あらば暴力もいとわないのは「そこで間違ったら間違いなく戦死するから」です。
人の命かかってますから鬼軍曹教官の責任はそこいらへんの親より何倍も重いワケで、
訓練時にはそれこそ「犬畜生呼ばわり」も普通であって、士官学校の場合ウエストポイント卒業後はいきなり少尉(キャプテン)として現場で小隊の指揮をとりますから失敗したら死ぬのは一人じゃありません(指揮下の部隊の新兵がゴロゴロ死ぬ事になる)、訓練は半端なものではありません。
(※といってもそれだけ”深い愛情関係”が必要なのは自ら志願する職業軍人みたいな極限状態の職場だからですが)
訓練中はそりゃ学生諸君は鬼軍曹にも反発もします。
さて、様々な映画でお馴染みのシーンですが
(まー典型例は、リチャードギアが若手だった時代の映画『愛と青春の旅立ち』でしょうか)
それまで生徒を犬畜生呼ばわりしていた鬼軍曹は(生徒が卒業の瞬間下士官となる少尉より軍曹である自分の地位が下になるので)、
直立不動で「少尉殿おめでとう御座います」と敬礼するワケです。
説明しなくてもわかりますよね?反抗期(卒業期)を経て社会的地位が変更する(まー家族社会では上下関係まで逆転しませんが)。
そして愛情の表明は=「大人(兵士)として何が必要か、何をするべきか」の伝達責任に他なりません。
ここでひとつ考えてみてください。
鬼軍曹であるべき人物が、
「兵士、特に下士官とはいかにあるべきか(どうすれば自分を含めた部下の命を守れるのか)、個人的事情で”それがよく自分でもわからなかったら”」
これじゃ鬼軍曹役もですね、内心不安を抱えて(下手に刺激すると返答に困り意味不明に怒ったりする)、利いた風な(ステレオタイプの)紋切り型の押付けがましい話しかできないワケですよ。
しかも実は本人(父親役)が一番自信無いのですから「人間関係良好にですねあれやこれやとねほりはほり聞かれたくない」ワケです。
(一見関係性がうまくいっていないほうが彼には都合がいい)
でです。
上記のような場合、
その人に「それ以上何を聞こうってんですか?」
■さらに根本的な部分
「親は無くとも子は育ちます」
ある意味ですね、現代社会では幼児虐待が大問題として報道される事多いですが、心理学的に言えば「家族社会を構成する事それ自体が半ば必要悪的に問題視可能」なんですよ。
(文化人類学的にも”人を年齢で差別的に子供や大人とその権利を分類するのはいかがなものか”という話)
実は家族社会はかくあるべしなどという論議は相当にクリティカル(且つナイーブ)な話なんです。
(まさか「橋田壽賀子ドラマのようにあるべし」なんて話じゃブラックジョークにもならない)
ここでも極端な事例をあげましょう。
”明日のジョー”
こういうストーリーにおいて(主人公の属性設定で)最強なのは「私生児」です。
つまり、ある特定の成功(ヒーロー)物語りの前提条件として必要不可欠な要素のひとつに「私生児」ってあり得るんですよ。
そりゃ現実ってのは相対的なものなのですから、その可能性があるだけでも重大な評価基準です。
それがマストとなる在りようってのが実際あるんですから。
(現実プロボクサーになった人のかなりの数が”明日のジョー”の影響受けていたりする。「重大な評価基準である」。)
つまるところ「親子関係の破綻」それ自体では”なんら悲劇の証明にならない”のです。
言えても「まーそいう事もあるもので」の範囲、
(実際に暴力的虐待があれば当事者はそれは理屈抜きに大変ですが、この場合当事者のひとりである親に改善の責任があるのでは無く(求めても不可能だからそうなるんですから)→その親を逮捕しない社会に責任があるって事になります。ですから幼児期のトラウマなどの賠償責任は国家や社会となるのでメンタルな事情で仕事ができない場合には生活保護などの社会保障が求められるのであって、問題家族における後遺症は社会的には労災に近い判断基準だという事です→”家族法人労働災害”。)
事実は事実です。
決して「まーそいう事もあるもので」の中身を(言葉の印象から勘違いして)中途半端な理解にしていいって事ではありません。
そこは徹底的(ジャーナリスティック)な事実認定が必要なのであって、、、
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
↑
では無いだろうと。
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』→こういう認識は”だまし絵”のようなもので(レトリックであり実態はパラドックス)、足元すくわれてしまいます。
極論「現実認識を喪失」してしまいます。
(或いは現実との乖離)
なので、
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
↑
こうなるんですよ。
本来のモチベーションの元となる「現実との間の快感原則(言うならポーカーテーブルに載せる掛け金)」が中途半端だからですよ。
「不全状態だった幼児期の親子関係における快感原則(ほめてもらうであるとかしかられるとか)」の過去の自分の認識に、現実への知覚の幾分かをかっぱわれてしまっている(抑圧)ので、現実テーブル上の掛け金が不足している(なので現実が面白くないと錯覚)って事です。
ここも極論で説明します。
(少々下品な表現ありますがご容赦ください)
「○暴主催のポーカーゲームに有金掛けて大勝(又は大負け)した。俺は帰りに高級コールガールも買って派手に遊んだのさ。」
「お父さんに連れられてお祭りで金魚すくいをした、成果は大漁(又はスカで)。僕は随分褒められた。」
両方の快感原則の時制がごっちゃになると?
↓
「社会で仕事して給料も貰っているんだけれども、何を求めるって(親の愛情というか)僕は認めてもらっているだろうか(褒めるとかしかるとか)。」
こうなると、モチベーションが維持できないんですよ。
当然現実への興味も半減します。
(大人の社会じゃ「色と欲」がモチベーションを保持しますが、かたや深層心理でお父さんの愛情論には無理がある→極論「ポーカーゲームにお父さんどうコメントするワケ」のように、構造的に関連性の限界となる)
わかります?
前回の説明における
>>面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
>>そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
>>自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
>>『オーストラリア・カード』って奴がです。
>>(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
↓
「ポーカーゲーム(社会人としての仕事とか)だと話が繋がらないが、オーストラリアだと親に意見を求める自分って話が文法的にも繋がる」
■レトリックと結果としてのパラドックスの正体ですよ。
”じよくさん”の本音はですね、そんな事考えちゃいないんですよ。
自我における自分と言う主体の時制がですね、様々な経緯で少々矛盾している(場合によると10年前の自分が上位になっている)。
整理が付いていない状態だって事です。
(そりゃ当然です。直近の関心事項が「駅前のラーメンは美味いのか」な時、に親子関係なんて介在しませんから)
「ナイ、ナイ、ナイって、んな事俺の本音じゃないから」
とりあえずですね、四の五の言わず自分に宣言するんですよ。
大人の男として掛け率の範囲に入っている「色と欲」みたいなものを縮小均衡(シュリンク)させるような深層心理があったから、
(見かけ上)『好奇心が希薄であるかのような人格になっていただけ』なんですよ。
戦場は、今目の前の現実にしかないのであって、
そこに興味なかったら(ノスタルジーに引っ張られていたら)自分はおろか部下の命まで落としかねないんですよ?
そこの興味が半減ってそれは大問題なんであって、
鬼軍曹だったら?
「何ぼさっとしているんだ、死にたいのか!お前が死ぬのは勝手だが部下まで死なす気か?自分は死んでも構わないってことなら今俺がお前を殺すのが世のため人のためと違うか?腕立て伏せ500回いいと言うまで止めるな。海兵隊はクソ野郎の掛け声忘れんなよっ腕立てはじめっ!!」
或いはポーカーゲームだったら?
「テーブルにはシンシナティキッドと呼ばれた凄腕やらが集い宴たけなわ。その場で俺は”ポーカーにはあんまり興味無いし”。」
その場に命掛けて集った人達相手に最大の侮辱ですよね?
↓
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
思っちゃわないでください。
そこで妙に納得(だまし絵)してしまったので、そこからボタンを掛け違ってしまったんですよ。
「そんな筈ない、何かおかしいぞ(妙なもん(実は過去の自分の認識)にだまし絵のようなコラージュで俺は騙されいるのじゃないか?)」
本来ここで考えなくちゃいけないところだったんです。
(流石にそれは大人の判断なので、子供時代の自分には気が付けと言っても無理だった)
そういう話なんですよ。
>ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
↑
■ズバリ正解ってことです。
無条件に自分に命令していいです。
「まず、ひとり暮らしを遂行すべし」
(成功の可否は問わず、厳に優先事項としてこれを徹底)