御返信ありがとうございますm(__)m
一応今回も、軽くですがまとめました
「自分」とは何か
まず、「自我とは流動性のある経済のようなもの」だから、
そこに「自分」を求めるのは逆説的
それでは、「自分」とは何かというと
それは、「賭ける」こと
というのは、賭けることは「自己責任」であるので
それは「著作権」(自分のみに与えられる固有の権利(責任))であるから
そこに「当事者の実存とその証明」(「自分」)がある
だから、「著作物」=「賭け」の結果、は重要でない
しかし私の場合は「著作物」に重点を置いた行動をしてしまう…
(結果「自分」が抑圧され、よくわからなくなっている)
そんなつもりは無いのになぜ?
それは、「幼児期から「自分」は既に存在しておらず、「子役偽装のうまい誰か」が似て非なる家族社会に適応しているだけだった」10年前の状況を、今なお赤の他人(社会)相手に繰り返しているから
以上のことをよく考えて行動すれば答えは見つかるはず
ということだろうと読んだので、
そうと分かったら、早速実行だ!と思ったのですが、
なんだか最近精神的な元気がなくって…
例えば、
学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…
また、自分は、在るのに無い気がして
その矛盾した気分が何とも辛く
実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
どんどん気分が落ちてます
カラクリはとっくにkagewari先生から教わったのに、
一朝一夕で人の思考回路?は変わるものではないのですね…苦笑
特に午前中に気分が落ちて、ここ一週間は外出する気にもなれず
朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても
(えぇと、私ってどうやってこの人と接してたんだっけ?)なんて、
なんとかそれらしく振舞おうとするのですが、やはり変な顔が返ってきます
―いやいや、そんなの何でもいいんだよ
と返ってきそうですが、それが、反射みたいな、絶対脊髄で折り返しているだろくらいの感覚で、瞬時にそういう思考、態度をとってしまうんです…やはりそれ以外の仕様がイメージできないので…
また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
板書や教科書の文も何度も読み返さないと理解できなくなって、先日、
「ちょっとyuttieさん?今ココよ?」なんて注意ですらない指摘を受けて、少し動揺した瞬間、
急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました
もうこの十何年間の間で何度も経験してる感覚なのでもう慣れたものですが、
「あーぁ、またこの感じか…」という感じです
思うに、つまり、今きっと「抵抗勢力」に思い切り飲み込まれてるのですよね
kagewari先生の分析を読んだ実り、今の状況を、あぁ確かにガキみたいだなって思います苦笑
そこまで分かっていて、今なぜ何も出来ないのだろう
そう考えると、よくないと分かっているのに焦ってしまいます
そうする精神的余裕や自信がないんです
それが幼児概念の結果からそうなってしまっているのだから、本末転倒ですね苦笑
また、気を抜くと色々考えちゃって…
もう記憶が無い様な頃から私は既に「私」では無く「子役偽装のうまい誰か」なら、「私」って何なのでしょうか…
その、うまく言えないのですが強く抑圧されてずっと奥まで追いやられてしまったであろう「私の本音」は、私自身でさえ、今いくら探しても考えても、糸口すら見つからないのです…
そこで無理に「賭け」=「名乗り」によって「私」を見なす、見出すとしたら、
もはや「私」とは「子役偽造のうまい誰か」のことを、今までも、そしてこれからも指すのではないか、と結論する他ない気がして
ところで、
私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、
それでも、こんなことは有得るのでしょうか
「親の顔色を伺ってビクビクしている」子供…なんて、私には過去そんなに苦労した実感はなかったので…苦笑
ごめんなさい、何のまとまりも無く汚くて、こんなの掲示板に掲載するような文ではないのですが、
これ以上頭が回らなくって…大分失礼かと思いますが、このまま投稿します