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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。

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【22】もう辛くないのに不安 yuttie 2010/06/18 21:39

【25】おおかた読み込めてますよ。 kagewariこの掲示板の管理人です 2010/06/23 20:15
【26】Re:おおかた読み込めてますよ。 yuttie 2010/06/27 16:01
【27】補足しておきましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2010/06/28 21:49
【51】Re:補足しておきましょう yuttie 2011/01/17 14:42
【52】そーですねぇ kagewariこの掲示板の管理人です 2011/01/18 16:17
【55】Re:そーですねぇ yuttie 2011/02/24 14:31
【56】各論でいきましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2011/02/25 19:34
【65】Re:各論でいきましょう yuttie 2011/05/22 00:10
【66】いくつかの各論と推定 kagewariこの掲示板の管理人です 2011/05/22 23:16
【67】Re:いくつかの各論と推定 yuttie 2011/06/29 19:40
【68】そのまま読んでみましょう kagewariこの掲示板の管理人です 2011/07/01 22:37
【77】Re:そのまま読んでみましょう yuttie 2012/01/15 00:06
【78】今回は端的にポイントが現れてます kagewariこの掲示板の管理人です 2012/01/17 00:34

【25】おおかた読み込めてますよ。  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/06/23 20:15 -

ちょっこっと注意するとするならば、レスが早すぎって事です。
精神分析は少々難解なぐらいがいいんです、
というかここは有料メールじゃないので、具体的事実関係を聞く事ができないので「両親の○○との関係に云々」などのように(或いはあ「両親の誰々には明快な強迫傾向がありそれを結果としてあなたに押し付けているかっこうの・・」など)、具体的に説明できないのです。
 ↓
しかし説明できない分、聞く方の精神的負担も公開掲示板であれば軽いので→軽い分「自分で考える余地が大きい」→難解で正解なんですよ。

ですから、嫌ってほどその解釈を考えていんです。
ある意味自省的に考えるテーマというか、考える方向性を提供するのが精神分析ですから。
(いわば思考の道案内みたいなものですので、精神分析=答えじゃ無いのです)
※言い換えると、公開掲示板の設立意匠は「過去ログ倉庫」であって、他の相談事例が閲覧できるところにあります。メンタルな問題は非常に類似するパターンが多く見られ(そりゃ同じ人間の考えることですから)、過去ログの閲覧は非常に効果的ですので(今回の返信で難解に感じた部分を読み解く鍵もあるでしょう)、是非読んでみてください。


■さて、個別の部分にコメント付けますが、

内面の私云々の理解に苦しんでいるようなので(更に難解になるかもしれませんが:前述のとおりそれでいいのです)、
ココ補足しましょう。

どれが本人なのか?
ここはいっちゃうと哲学論争になるので、もちょっとわかりやすく説明すると。
サッカーでも野球でもまー何でもいいですよ、
野球で言えば本来2番バッターであっても、ホームラン打つこともありますし(ゲーム内容によってはホームランを狙わないといけないケースもある)、サインが出ていないのに自分の判断で送りバントする事もあるでしょう、そこに”本来の選手”のような概念はありません。
しかし「ランナー一塁で強引に引っ張ってショートゴロゲッツー」これはおかしいんだと。
(※2番適正も現実との関係による相対的なものだったり、自らプレースタイルを選ぶもので、”なんとなく適応”するものでは無い)

サッカーでいえば本来センターバックのポジションで、高さをいかしたディフェンスが本業であっても相手チームの前線のプレスが強く結果として中盤にスペースが開けば、ディフェンスラインでパス回しするのはむしろリスクであって、センターバックがそのまま中盤まで持ち込む事はアリアリです。
当然セットプレーではフォワード以上にゴールゲッターであらねばならない場合もある。
しかし「相手チームが引いていて、自チームのサイドバックも上がり目なのに自分も攻撃参加する」これは違うんだと。
(※身長などの相対的現実や、自らポジションを選ぶなどって世界はあっても”なんとなく適応”するポジションは無い)

どれが自分でしょうかってね、
表現されて始めて自分です。
(何も自意識が関与しないのであれば、そこにいるのは唯々諾々と流れに合わせる群像が実存するだけでそこには個人の実存は無い)
少なくとも偏向や視野狭窄や倒錯や強迫などの関連で「意識していようが無意識だろうが”それは違う”」ってのが自分じゃ無いのだけは間違いない。
又社会心理として(共同幻想)社会適応している様子は政治的な社会システム上の論議で、これに参加する個人は(それが自分自身であるなどのフェーズと関係なく:それを交換するから報酬がある)どこが本来の自分であるとかさっぱり関係無い部分の話なワケです。
※共同幻想部分を極論すれば「食えればいい」のであって、社会的地位であるとかスキルってのが重要なのは国家の側なんですよ(システム設計として)、端的に言えば個人にとって(学歴もそうですが)自分の社会的属性が何であるかには全く意味は無いのです。

同時にご存知のとおりで現代社会の日本の場合、社会的にも個性化が(共同幻想の変革としても)求められているのであって、
明快な選択意思の無い社会適応それ自体が現代社会では”ネガティブ”です。


心理学的説明に及べば
「葛藤」「超自我と自意識」「無意識領域と反動形成」「強迫と抑圧」等々様々な現象がありますが、その時当事者の自我がどういう感情情報を獲得するにしろ『自我は前述のとおり流動性のある経済のようなもの』であって、
確かに完全雇用やパレート最適は好ましいが、
「どんな経済が本当?」のような論議はナンセンスなんですよ。
(設問がパラドックスになっているのわかりますよね?)
●「インフレやデフレがあるのが経済なんです」
で、論議として過剰なインフレや恒常的なデフレは”問題である”と、
少なくともこれを金融当局なり政治が放置すれば「それは正常ではない」みたいな。
解決の手法として、「何が硬直化して・・・・」
 ↑
なんとなく意味がわかりますよね?

自己愛的というか、占いでいい気分になるように「本当の私って」みたいな耽美性というのは、
それ自体がパラドックスでありレトリックなんですよ。

なんでしょうね”それ”は現実世界の中で”自らの実存を賭け”ガリガリと勝ち取るような実存のそれなんです。
(心理学的に言えば本音の継続というか、本音を担保するような意思決定や選択の過程が重要なので、結果(どんな人)は関係無い。それは各人の自由(プライバシー)領域で心理学は”人はこうあるべき”のような志向性をなんら持ちませんから。どんな人になりたいのか(あるいはどんな人なんだろうか)と聞かれれば「勝手に選べばよい」が心理学的答えです)


などなど説明しつつですね
>概念というか、今思い返してみれば、私は小さい頃から自分」を表現しようとする自分を徹底的に押さえ込んでしまうクセがあったように思います
>また、今も大分改善はされましたが、まだ頻繁に悩まされています
 ↑
今回の相談事例は『これが全て』ですよ。
やはり、本音を抑圧する仕組みがあるってことです。
経済にたとえれば、
「円安になったので、外需が伸びる筈なのに(その圧力はあるのに)、不思議と輸出を抑え込まれてちっとも外需依存GNPの数値が上昇しない」
経済障壁なり、硬直化の問題(抵抗勢力でああるとか)がありますねと、
こういう事です。
(※経済ですから上記ととえは逆さまでもよいの「円高になったので・・・」)
現実部分が「円高」で、これにどう「経済実態(本人)」が対応していくのかって話です。
(適応すべきは社会ではなく現実:共同幻想適応的表現に言い換えればと”適応すべき順番として社会より現実は上位概念である”)

言うなら自分等というものは自分で好き勝手に選ぶものです
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
 ↑
これじゃそこにいるのはどこのどいつなのか誰にもわからない。
(自分もクソもステレオタイプに適応している”ある一般人”がシステム論的に観察されるだけで個体として認識できる対象者がいない)

CIAの特殊工作員でも無いのに周囲を煙に巻く態度を示すので
 ↓
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました

意味も無いのに意図的な偽装工作で不審者のフリをするので(客観的第三者から見れば”あなたが意図的に曖昧な受け答えで嫌がらせをするタフネゴシーター”にしか見えない)、周囲は対処に困る(共同幻想論的にいえば破壊工作員と等価)ワケです。

話を単純化すればわかります。
>質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして

選択ってものは”賭け”ですから。
いざ12番レース出走になって、賭けってものに挑むときに
「自分の勝ち負けばかり気にしてレースそっちのけで、どの馬が勝ちますかと質問を延々繰り返す人物」
自己愛的関心で視野狭窄となっている。
(現実を取り違えている:現実は12番レースであって「私は勝つでしょうかドラマ」では無い)

>「yuttieはケーキ好き?」
これはですね
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。
(人生は賭けってそういう意味で、賭けの結果が自分であって、それは賭けに挑んだ自己責任を取るって意味であり、自己責任=著作権となりますから「○○を選ぶ自分が実存した」という結果を手に入れる事ができます。現象論としてその結果の是非はどうでもよくて、重要なのは『当事者の実存とその証明』なんですよ。その証明が著作物(自己責任で担保された賭けの結果)なんですよ。著作物の出来栄えがどうこうってのは個人のプライバシーであって”現実”や”実存”にとってはどうでもいいことなんです。←結果は個人的に重要な事=今日の晩飯がカップラーメンかステーキかって話であって→ステーキかカップラーメンの差異で自分が変わりますか?)

 ↑
とですね、本人まったくそんなつもりも無いのになんでまたこういう誤解が連鎖してしまうのでしょうか?

それが人間の自我の特徴で、
(読み解く鍵は認知される感情情報としての”快不快認知”と、生理的な意味の脳が感知する”快不快原則”が違うってところです。脳内の生理現象において快を判断する重要なフラグは(不快だろうとなんだろうと構わない→動物であれば特に定義しなくても主観的に快しか再現選択されない)『興奮』なんですよ)

ある情景を比較してみれば一発で理解できるでしょう。
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました
 ↑
全く同じ現象が広く一般的に誰にでも起きる場面があります。
そんなそっくりな風景、
考えてみてください。
どんなケースでしょうか?

「恋愛的関心のある人物を相手に(お互いの意思は不明瞭な時期)、食事に誘われて問いかけられた時」
私は顔を真っ赤にして、ドギマギとわけのわからない対応しかできなかった。

■上記の心象風景とそっくりだと思いませんか?

『自己愛的関心』とはそういう意味です。
じゃーいったい、自分は何を勘違いして、何に(自己愛的)興奮していたのか?


幼児期は大人的な情愛的快不快は(潜伏期なので)、大人の性欲のようなあけすけなものはありませんが、
幼児期の性愛的満足なり快感などの対象者は誰ですか?
(説明しなくてもわかりますね)

「親の顔色ばかり気にしてビクビクしている自分」
(時制から言えば10年ほど昔で既に脳内フォルダ内でも”過去”に格納処理されている筈の”幼児の自分”が、バリバリ現役なまま自意識より上位者のような振る舞いをしている。SF小説のように幼児の自分が脳内の小人みたいに存在するワケじゃありませんから、そういう概念が自我ロジカルに今でも関係性を残している:フラグによって反応するモジュールとして現役であるってことです=哲学的に言えば”ドグマ”)

突っ込んだ話になれば(公開掲示板上では限界あるので具体的には言えませんが)「母親主犯論」なり「父親主犯論」なり「嫁(母)姑共同謀議」なりまー様々な背景の中、
 ↓
『幼児期からそこに”私”は実存しておらず、そこにいるのは”子役偽装のうまい誰か”が似非的家族社会適応しているだけだった』
歴史的にはそういう事です。

そして
 ↓
>勉強が今ほど必死になるほど人生に重要なものではないこともなんとなく分かりますし
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います

やってる事は今も同じだと。
(「違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います」っても、何が言いたいのかさっぱり内容無い言葉ですよね:そこには誰もいない(賭けの姿や過程が見えない))
言うならば一般社会相手に子役(どうやっても幼児特有のデフォルメ(幼児性主人公気取り的偏向)が関与する)をやろうとしているんですよ。
(赤の他人を勝手に家人にみたてて、よき子役であるべきように自己愛的に興奮しているような状態)
 ↑
気がついてみれば、まったくもってそんなつもりも無いのであって、
そうなってしまっているとしたら「どえらい誤解しているぞ俺」と気がつきますよね。
「こりゃおかしい、ナイナイナイ、ナイってば」と、

※話がややこやしくなるので「そんなこといっても一般社会の学生は、それほど考えることなく受験勉強もしているしそんなことを・・・」云々の反論はNGです。ってか禁止(それはじめるととんでもないルール違反の話になりますから)、そんな事言い出して得するのは強迫的構造だけで、論議としてド・ナンセンス中のナンセンスになります。
(自分の中でもそういう小賢しい反論ある時には厳罰処すぐらいの勢いで、鼻っ柱へし折ってください)


■実は答えってのは簡単なものである。
 ↓
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。

『ぼんやり(半分意識は休止状態で)帰宅コースを歩く』のと、
『気ままな散歩』には何の違いがあるのか?
後者には(右か左か・南か北か・喫茶か蕎麦かなどなど)「やまほど賭けの要素を織り込める」んです。
実存感が高いから幸福の実感もある。
(ある意味単独者はこの賭けの機会を自由自在に発生可能である)

なかなか意図的に「コイントス」を発生させられない共同幻想適応タイプの人が何故「買い物好きなのか」、
考えなくてもわかりますよね。
(この辺深く考えると鬱症状としての万引き依存や買物依存の発生理由もわかる筈です。:自己愛的賭け→無意識なその答えが万引きや買物依存である)


「馬鹿いってんじゃねーよ、ビビってなんかネーよ。裏だ!裏、決めた。裏で勝負」
こういう過程(或いはルート)を意識決定の流れの中にバシッと走らせるって事です。
現状だと意欲的に(少々ワザとらしくても)”賭け”とか”配球読み”とか、
「確信犯的な自分の犯行手口」みたいなものを考えてみてください。
その犯行手口が自分の”二の名”あるいは”クリスチャンネーム”みたいなものになります。
 ↓
「金庫破りの松」
「スリのハチベイです」
「壺振りのお竜と申します」
「ハッカーのkwskっていいます」
「パンクのjayです」

名乗って初めて誰なんかわりますよね?
(その”誰なんだ”が自分)

これを叙情的というか哲学的に考える手もある
「木枯らし門次郎と申します」
「風天の寅と申します」
 ↓
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います
 ↑
わかりますよね、これじゃ目も当てられない。。
(wikiで「諱(いみな)」って調べて読んでみてください:「字(あざな)」ってのは自分で勝手に名乗るものなんですよ→そっちこそ現世利益的世界の自分である:現代社会で言えば主語がHNの時の自分こそ自分である)


大人になるってのはそういう事です。
そこに突っ込んで言えば答えは見つかる筈です。
(そん時邪魔する奴がいれば、そいつが”抵抗勢力”である。当面”敵”だと認定して戦略なり戦術なり狡賢く立ち回りサバイバルする事に集中してください。取り込まれて放心状態なままなら強迫意識は温存されるだけです。)

引用なし

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【26】Re:おおかた読み込めてますよ。  yuttie  - 2010/06/27 16:01 -

御返信ありがとうございますm(__)m

一応今回も、軽くですがまとめました

「自分」とは何か
まず、「自我とは流動性のある経済のようなもの」だから、
そこに「自分」を求めるのは逆説的
それでは、「自分」とは何かというと
それは、「賭ける」こと
というのは、賭けることは「自己責任」であるので
それは「著作権」(自分のみに与えられる固有の権利(責任))であるから
そこに「当事者の実存とその証明」(「自分」)がある

だから、「著作物」=「賭け」の結果、は重要でない

しかし私の場合は「著作物」に重点を置いた行動をしてしまう…
(結果「自分」が抑圧され、よくわからなくなっている)

そんなつもりは無いのになぜ?
それは、「幼児期から「自分」は既に存在しておらず、「子役偽装のうまい誰か」が似て非なる家族社会に適応しているだけだった」10年前の状況を、今なお赤の他人(社会)相手に繰り返しているから

以上のことをよく考えて行動すれば答えは見つかるはず

ということだろうと読んだので、
そうと分かったら、早速実行だ!と思ったのですが、
なんだか最近精神的な元気がなくって…

例えば、
学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…

また、自分は、在るのに無い気がして
その矛盾した気分が何とも辛く
実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
どんどん気分が落ちてます

カラクリはとっくにkagewari先生から教わったのに、
一朝一夕で人の思考回路?は変わるものではないのですね…苦笑

特に午前中に気分が落ちて、ここ一週間は外出する気にもなれず
朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても
(えぇと、私ってどうやってこの人と接してたんだっけ?)なんて、
なんとかそれらしく振舞おうとするのですが、やはり変な顔が返ってきます
―いやいや、そんなの何でもいいんだよ
と返ってきそうですが、それが、反射みたいな、絶対脊髄で折り返しているだろくらいの感覚で、瞬時にそういう思考、態度をとってしまうんです…やはりそれ以外の仕様がイメージできないので…

また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
板書や教科書の文も何度も読み返さないと理解できなくなって、先日、
「ちょっとyuttieさん?今ココよ?」なんて注意ですらない指摘を受けて、少し動揺した瞬間、
急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

もうこの十何年間の間で何度も経験してる感覚なのでもう慣れたものですが、
「あーぁ、またこの感じか…」という感じです

思うに、つまり、今きっと「抵抗勢力」に思い切り飲み込まれてるのですよね
kagewari先生の分析を読んだ実り、今の状況を、あぁ確かにガキみたいだなって思います苦笑

そこまで分かっていて、今なぜ何も出来ないのだろう
そう考えると、よくないと分かっているのに焦ってしまいます

そうする精神的余裕や自信がないんです
それが幼児概念の結果からそうなってしまっているのだから、本末転倒ですね苦笑

また、気を抜くと色々考えちゃって…

もう記憶が無い様な頃から私は既に「私」では無く「子役偽装のうまい誰か」なら、「私」って何なのでしょうか…
その、うまく言えないのですが強く抑圧されてずっと奥まで追いやられてしまったであろう「私の本音」は、私自身でさえ、今いくら探しても考えても、糸口すら見つからないのです…
そこで無理に「賭け」=「名乗り」によって「私」を見なす、見出すとしたら、
もはや「私」とは「子役偽造のうまい誰か」のことを、今までも、そしてこれからも指すのではないか、と結論する他ない気がして

ところで、
私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、
それでも、こんなことは有得るのでしょうか
「親の顔色を伺ってビクビクしている」子供…なんて、私には過去そんなに苦労した実感はなかったので…苦笑

ごめんなさい、何のまとまりも無く汚くて、こんなの掲示板に掲載するような文ではないのですが、
これ以上頭が回らなくって…大分失礼かと思いますが、このまま投稿します

引用なし

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【27】補足しておきましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/06/28 21:49 -

あくまでも公開掲示板は外郭だったり概略だったりしますから、個別の事実関係はご自身で考えてもらう事になるので、いくつかの可能性を提示しておきます。
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか

つい先日の別の方の相談過去ログを見てみてください。
両親への好感を『誤解』する場合も珍しくありません。
(それほど人の認識なんてものは曖昧なんです:言い換えると”簡単に割り切れない”→割り切れないものを”概略”として「私には好感がある」と確信も無く”なんとなく確定的事項”或いは”与件化”している方に実は「変だな」と思わなくちゃいけないのです。所謂親子関係には快感依存的自己愛的利益関係があり(極論すると現世利益的な打算的取引関係実態がある)、互いに大人同士の個人と個人の信頼関係の部分は反抗期の後に再獲得されますし、人類ヒト科といっても動物ですから長期・生存環境的な”バンド(集団や群れ)”に対して表向きは好感のフラグを成立させるのが生存欲求のひとつでもありますから(郷土愛も同じベクトルです)、事実認定において割り引いて考えないといけないところは「割り引かないといけない」のです)
 ↑
つまり「問題があった」というのはいかにもわかりやすいベタな関係悪化とかそういう単純化されたモデルじゃありません。
(むしろそれほど単純化されたストーリーであれば”幼児にもわかりやすい”ので、これは強迫的構造に至りません。幼児にだって「お前(親)それはダメだろ」がわかるからです。←認識そのものを抑圧して隠蔽する必然性が発生しない。そういう環境化でその幼児の将来には、あったとしても”所謂ひとつの不良化”するぐらいのトラブルを抱えるにしても自我の問題に及ぶことは無い。)

ひとつの事例を加えれば、
親が(内心隠している不安など)抱える強迫傾向を、言葉にならない妙な雰囲気などの認識で感じ取り(この時幼児の自我は構造的にそれをデフォルメしてしまう)、それは具体的言葉ではないので無意識下の概念になります(自意識は言語としてのロジカルの集合なので)、
端的に言えば『過剰な尊宅(そんたく)』、
これは権威的関係をベースに認識されますから、『その尊宅や配慮』は無意識に道徳野(超自我的概念)と結合します。
結果進路選択など、ステレオタイプな認知に頻繁に関与し、
「勝手に自分が思うこと(本音)よりあたかもステレオタイプな認知が上位概念であるかのような錯覚を派生させているとしたら?」
こんな風に考えるのです。
で、「そういえば思いたるふしがあるかも」的に具体的事実関係が掘り起こされていく事もあります。

加えて説明すると、「あなたは親属性を離れた彼ら個人を、ひとりの女性や男性としてどんな人物だったのか、どんな人生だったのかのように(政治ジャーナリストが人となりを説明するように)認識できているだろうか」って事です。親属性の裏で彼らの本音はどこにあるのかって推定、
表面的には「あぁケーキは好きだよ」という(いかにも家族社会適応的社交辞令の)言葉の裏にある彼ら個々人の本音は何だろうかって立ち居地ですよ。
突っ込んで言えば「彼らにだって本音の抑圧とかあるだろう」、
(そこに無理な構造があれば強迫構造でしょうし、合理的にノーストレスで簡素化されていていれば単に共同幻想適応者のそれかもしれない)


>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…
 ↑
自分の自我に問題のあった当時の周辺人物やその関係(関係性において実存している関係者)は、”強迫意識の取り巻き”である事が大半です。
簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
(たとえは違いますが、少年院で更生した筈の少年がシャバに出て昔の暴走族仲間と会った時の気まずさのような)

理想的には全員に対して旧来の関係を清算するぐらいの勢いでいんです。
(今現在進行している、自分自身の本音をサルベージはじめた自分の意識から関係を再構築(リストラ)する分には一向に構いません)
簡単に言ってしまえば、
全員相手に「実はね私は考え方を変えたんだ」から始まる新しい自己紹介を済ませ無いと誰彼相手でも気まずいだけでなく、
旧来自分が半ば自作自演で張った結界(彼らとの関係性そのもの)に取り込まれて、まんま強迫意識に先祖帰りすることも多々あります。

乱暴な言い方ですが、精神分析的に言えば「旧来の関係のままなら彼らは全員敵である」と思っていい。
(言っても彼らとの関係を敵に相当する存在にデッチあげたのは自分自身なのですが)

ソフトランディング的に考えるなら「積極的に彼らとの関係を一度疎遠にしてください」。
(時間はかかりますが、個別に彼らの存在が再構築に相当するのものであれば、上記の「本音の仁義を切ってから」これを再構築する)

それから
>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)
(あえてカウンター効果付けて乱暴な表現使いますが)
今回のの相談経緯を知るに付け、
はっきり言って「全く信用できませんね」。
(ある意味余情的に美化されていて気味が悪いぐらいです:どこかの宗教じゃないんですから→ドグマ)

歴史の言葉に「○○史観」のような立ち居地を表す言葉がありますが、
上記の説明は言語的に「私的快感原則史観」であって、社会的見地でも無ければ哲学的な人物描写でもありません。
(注:「本当に良くしてくれる」→その対象者は強迫的にステレオタイプに傾斜している(本音を表に出していない時の)自分自身(汎用OSデスクトップな自分)に対してである)

刑事になったと思ってください。
(探偵でも構いません・歴史家でもいいでしょう、文化人類学者でもいいです)
「情をはさむのはプロじゃない。彼らはある人物の強迫心理を構成する構造的共同謀議の容疑者なんです。」
現実の彼らの実像がどんなものであれ(彼らの”個人的”交友関係他者や第三者から見て尊敬に値する個人であっても)、その本当の姿はそんな詩的情緒で表現されるようなものじゃないでしょう。
或いは「いい人とされる証明として、(偏向中の)私に対して良くしてくれる」などという利己的評価のどこに中立性があるんですか。

本質的に彼らの尊厳を前提に語るとするならば、
むしろ前述の表現は『彼らに対する侮辱(自己愛的私物化評価)』ですよ。
人の人生はそんな生ちょろいものじゃないです。もっと生生しく、実存の中でガリガリと発現される彼らの個人であるとか本音って姿がその言葉からまったく示唆されていない。
「人間○○を語る」←ように表現できないと彼らを知っているとは言えないのですから。
(場合によっては悪辣とまで言いませんが、「彼は○○としなければならなかったのだ」のような一見ネガティブな背景説明無しに語れない実像ってものは誰にだってあるはずです。しかるにその実存は精緻な説明があるからこそリアルに”いいともわるいとも言えない実存”でものを表し、そこにこそ本質的な尊厳があるんですから、)


話は戻って、
前述の関係性をそのまま放置するとどうなるか?
 ↓
>朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
>ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
>友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても

・簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
 ↑
(無意識に自分が)仕掛けた結界の狙いどおりに、
■まんまと『引き篭もりフラグ』になる。

外出の基本は「単独行動」としてください。
(或いは独断専行・唯我独尊)
リハビリ過程として、この期間は単独者的振る舞いが必要になります。

具体的には違う話なんですが、
昭和の時代、共同幻想もまだまだ健在な時代。
共同幻想瓦解といっても世代間ギャップなどの歴史的担保の崩壊程度の時代です、
当時反抗期はまだまだ自力で正面突破も難しくない時代に思春期の若者に流行したキーワードは何ですか?
(所謂60年代〜80年代まで)
『一人旅』ですよ。
※共同幻想適応世代ですら、連想キーワードの中に実存主義的試行錯誤である反抗期時代には「(時限的)若いときには単独者志向であることだってあるものだ」が含まれていたワケです。


>また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
<中略>
>急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

授業など一度ぐらいすっぽかしてもいいのです。
上記の状態は自己愛的内向の(一人舞台)舞台装置に立っているようなものですから。
仮に授業に参加するのであれば
「違う違う、場所を私物化しちゃいかん、ここは私の一人舞台のステージでは無くて公共的な場所である」と頭に叩き込んでください。
デパートの食品売り場で
「ロメオあなたはロメオなの」と号泣している。
と考えればおかしいよこれって自分でも気が付く筈です。

誰しも公共なり不特定多数の衆人の前では「緊張する」のは自然現象です。
言い換えれば少々テンションがあがるというか、緊張にとるストレス限界が高まるというか、
場合によっては脳内でそれを興奮と認知する場合もあるでしょうけれど、
そこも割り引かないと、
たとえを変えて考えてみればわかります。
繰り返します、本音の自己責任担保であるとか、歴史的共同幻想適応合理性が担保されていない(言うなら強迫的偽装)”帳尻あわせのようなステレオタイプ自我”は、バンド(集団)内において、素っ裸同然の脆弱差を併せ持つんですってば、
(太宰の「人間失格」における→「わざとわざとー」と見透かされる不安のような)

素っ裸状態で緊張感の上昇しない人はいません。
これは準備不足で衆目のあるバンドに入ってしまった個人の自我がおかれた状態と似たようなもんです。
そんなド緊張な要素は個別に切り分けて、「まーね俺はド緊張しているワケだが」と事実関係を認定しておくんです。
(さっきのたとえで言えば「○○の事情で俺は今全裸なワケだが」みたいに)
その状況下で派生した内容をあたかも既成事実のように追認してしまうのは大問題なんです。

ド緊張な背景も込みで状況が誇張認定されてしまいます。
「素っ裸で僕は演説したのであった」
そりゃえらいことになりますよね?
しかし自分が素っ裸であったことを認定できずに、”私はいつもそうなる”と認定してしまうと、
(自我大騒ぎの半分は素っ裸である状況設定なのに)
「私は衆目の前で演説することに耐えられないんです(号泣」
 ↑
全体像の認識(や背景事情)が違うことになると同時に自己愛的耽美性というか「全然違う話になってますよね」


>実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
>このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
>どんどん気分が落ちてます

強迫デ・コードしましょうか?
「自意識は(性器のようなもので)抑圧されているぐらいで丁度いいのだ、それが私の道徳であり、本音私は修道女になりたいのかもしれない。こんな”私が修道女”考えれば考えるほど耽美的な。。。」
これであなたに性倒錯かかっているなら、自慰行為始めている頃ですよ。
そういう概念のベクトルに乗っかった意識だと、自分で見破ってください。
「オイオイ何考えてんだ俺、ちょっと恥ずかしいぞ」と、


言うなら自己の回復は年オーダーで考えなくちゃいけません。
今の立ち居地から言えば、「大学卒業するぐらいで本領発揮するか(その間はこの企みをバレ無いように意識的偽装をしても、本音を抑圧するような馬鹿な真似はもう一切やめる)」。
「思うに私は自己を回復後友人であったり(場合によっては家族の)過半の人間関係を失うかもしれないが、だからどうだっていうのか、そこから私のリアルな人生は始まるのだ」ぐらいの勢いというかテンションを保っておく。

(なので当面の受験勉強などクソの役にも立たないのです。役作りも結構ですが警官役だからといってマジな警察官の資格をとったからといってグラミー賞が貰えるなんて、映画はそんな半端なものじゃありません。)

マジな話私は(本音で)自分の学ぶべき科目なんてものを大学卒業年次ぐらいに初めてわかるのかもしれない。
な状態なのですから、


>また、自分は、在るのに無い気がして
>その矛盾した気分が何とも辛く

厳密に言えば内容違うんですが、
カタルシス効果の期待があるので黒澤明監督『生きる』を借りて観て下さい。
(レンタル屋回れば簡単に見つかるでしょうし、DVDもたいして高くないと思いますから購入するのもアリでしょう)
※後から映画論評的な話はご勘弁を、私も同映画の内容は記憶の彼方ですから。

■とにかく今は『自意識の筋トレ』じゃないですが、
考えること。
急がないこと(戦術的である以上に戦略的であること)です。

大概のことは「保留中」なり適当に先送りにして構いません。
「それどろじゃないだろう俺(ここは徹底・考えるところだ)」
という認知を最優先すべきです、

引用なし

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【51】Re:補足しておきましょう  yuttie  - 2011/01/17 14:42 -

お久しぶりです
長文になってしまうので二回書き込みをしようかと思いましたが、
返信のとき面倒になってしまうかと思い、一度の書き込みにさせて頂きます。

半年ちょっとの間、お礼の一言も無くてごめんなさい
書き込みはしませんでしたが、落ち込んだときは何度もこのサイトに来て先生の返信を読み返し、また他のスレも拝見させて頂きました。「生きる」もレンタルさせて頂きました。先生のおっしゃりたい事が少しは分かったと思います。他にも教えていただいたことを心掛けながら、とりあえず半年過ごしてみて、先はまだまだ長そうですが…

つらい時は独りで静かに過ごしながら、さらに自信が無いときは時々授業を休みながら…
冷たい視線や容赦ない皮肉をぶつける同級生や先生もいましたが…
自分が我慢して出てる授業を平気ですっぽかして、さらによく独りになってるなんて、確かにいじめたくなる気持ちも分かります

半年間色々なことがありましたが、先生のアドバイスのおかげで少しずつ進んでいけています。
本当にありがとうございます。


ただ、今回もまたいくつか相談させて頂きたくて投稿しました
というのは、一週間前くらいから、
朝目を覚まして顔を洗っても夢の中にいるような、
人と話していても、目の前に本当に人がいるのか分からなくなるような、
それに、起きて何か作業をしている間に夢か妄想を見るようになりました。
それは無数の点々や小さな三角で構成された世界だったり、ボロボロの着物を着た女性が物凄い形相でこちらを睨んでいたり、あるいは、自分が社会に退治(排除等ではなく)される夢?だったり、昔の辛い思い出が同じ形でフラッシュバック?することもあります。起きたまま見るので、現実に入ってくる視界も見えていますが、その上から重なるように見えてくるんです。なんだか分かりづらくて、ごめんなさい

そんなことも増えて、
実際に見える風景もふわふわして現実味なく感じるので、
自分の立っている位置が分からないというか…また自分をあまりしっかり持てなくなっています。

自分も自分の気持ちがよく分からないから、友達ともあまり顔を合わせずに独りで…という風に何日か過ごしたのですが、持ち主がいなくなった風船みたいに、独りになった途端に現実の世界からさらに遠くへ遠くへ飛んでいっている気がします…

話がまとめられていなくてごめんなさい、
是非アドバイスを頂けたらと思います

引用なし

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【52】そーですねぇ  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/01/18 16:17 -

>というのは、一週間前くらいから、
>朝目を覚まして顔を洗っても夢の中にいるような、
>・・・(等々)
 ↑
ま、これは「クラクラする」って奴ですよ。
白日夢とかって話の方も思春期男子のエッチな妄想と(現象としては)たいした違いはありません。
言える事は「寝覚めが悪い」とか、「寝ている間に(昼間の”不快”による快感満足への欲求不満のマゾヒスティクな)悪夢を見たとか」肩凝ってるだろうなって事です。
(ここ冗談抜きで、私がアドバイザー的に関わっている”現在休眠中のNPO”はマッサージとの連携を本気で模索してましたから←悪くないアイデアだと思いました。通院中の人は投薬減らせる可能性あるんで、)

『鍼灸とかマッサージ』勧めます、
(別段美容エステ系でも構いません)
それから、朝ラジオ体操とかストレッチ動作するのも悪くないです。
洗顔も十分に交感神経刺激するように「冷水で締める」とか、
(足りなきゃ頭から水かぶる→冬の寒空の下乾布摩擦)

他にも「リハビリ過程」においては、対人不安で面と向かって人と話すときに手が震えてしまうだとか”ビクッとしやすい”とかの現象も今後普通に考えられる事ですが別段驚かないでください。(自然界の動物でもそういう動きするでしょ→加えて言えばワイルドな環境における動物は大変繊細なもので生息環境の微妙な変化のストレスが致命傷となる生き物も少なく無いぐらいですから”ビクっと”とか緊張で震えが出るとか自然界ではたいした事ないですから)
ざっくばらんに言えば「たいしたことじゃない」です。
(というか「たいしたことない」と”認識してしまう”ところがポイント:自意識の「現実返し」)
知らない間に(自意識の)キモがすわってきて平気になってます。
(その経過にバタバタしてもいかんと)

>実際に見える風景もふわふわして現実味なく感じるので、
ハレーションって言いますか現実にピントが合わないとか、
そういうのがちょっと面倒だと思うならサングラスでもかけてください。
(サングラスを目立たなくするようにエキセントリックでパンクな格好にしておくとかもいいでしょう→ひとつの武装というか戦闘服みたいなもんです。)
若干安全地帯に後退しますから、幾分楽でしょう。

>自分も自分の気持ちがよく分からないから、
まーこういう話はHPのコンテンツにおける「やりたいことがわからない」シンドロームの話みたいなもので、
http://kagewari.cside.com/kage_tex51.htm
人間の実生活でそんな情緒的現実なんかありませんって、
「自分の気持ち」なんて言葉自体ナルチシズム(オナニー)ですよ。
たとえていうなら「誰もがペシミスティクな鬱な”気持ち”になるひっかけ問題」のようなもの(レトリック)です。
その”仕掛け”を見破ってしまえばいいのです。

気持ちも何も、自分自身に投げかけてください。
 ↓
「腹へらないのかよ」
「トイレいきたいとかないのかよ」
「眠いとかあんでしょうよ」
「疲れたとかもわかんネーとかあんの?」
(と言いつつ上記レベルの部分に倒錯的混乱起きる事もあるのは事実なんですが、、今回はそっちのテーマじゃないのでいいでしょう)
 ↓
「ワカラネーって事ないだろうよ、嘘つくなよ」って話です。
(深層心理デ・コードしてみればわかる話ですって「私の自己愛的○○○をわかって欲しい」みたいな情緒が”気持ち”って言葉に代用されている。)
気持ちって記号の乱用防ぐように抑えを聞かせればですね、
強烈な足裏マッサージにでも行ってですね、
「”ギャー!”」
「気持ちいいんですか?気持ち悪いんですか?どっちなんですか=!」
「ギョーエ==!」
(間違いなく確かめられますよ”気持ち”)
それが”気持ち”なんて言葉のなにがしってものです。

>さらに遠くへ遠くへ飛んでいっている気がします…
禅寺で言えば(もうわかりますよね)
ビシー!っと一発叩かれるところです。
(アントニオ猪木に一発ビンタされれば吹き飛びますよ)

実はこの話は案外バカにならない『本質』であって、
スポーツであるとか特に格闘技、
「エイッ!アチャー!」って大声出すようなシーン。
おおよそ何がしたいのかわからない人間には見えませんよね?
しかしですよ、
「エイッ!アチャー!」って、何か具体的ですか?
(間違っても「私の気持ち」なんて世界では無い→しかし「やる”気”十分」ですよね)
ワイルドでシンプル(とかストレート)だとかハードだとかって=現実に対する闘争ですから、
関根勉の千葉真一物まねでお馴染みの「クグカーッ」って腹式呼吸の唸り声って世界は(禅寺じゃないが)『無心』(何やら今回登場している”気持ち”って言葉と好対照だと思いませんか)、
飢えたバッファローが草原求めて荒野を彷徨って「私の気持ちがわからない」ってのは無いって事です。
現実に向き合い(命賭けて)草原を探す、思い切り自分の実存はギラギラしますよね。

これ体感するために、合気道だとか剣道だとかやって経験した事ない大声出して「エイッ!アチャー!」ってやってみるのも悪くない話です。
昭和の青春ドラマや同じく昭和のコントなら100%海岸で「バカヤロー」とか、山登りして「ヤッホー!」とかこれ同じ現象。
ここ哲学とかにおける衒学的とかってものを(ルネッサンス的に)忌避するのと似たような話で、
商業演劇的長台詞に対するダンスや能などの表現とも似たような話で、

試しにぶっ倒れるまでランニングしてみるってのもアイデアだと思います。
映画『生きる』繋がりで同じ黒澤の『七人の侍』を借りて観てください。
エンターテイメントとしても勿論名作ですが、この『七人の侍』をしょうしょう哲学的に鑑賞してみましょう。
ロジカルな「勘兵衛」に対して主役を食ってしまった三船演じる「菊千代」(まるでローマの兵士のようでさしずめ元祖ランボーかもしれません)、その対称性の中勘兵衛は菊千代の”実存”に一目置くワケです、
それほどまでに菊千代の実存はギラギラと輝きます、
(あんまり菊千代が凄かったのでファンタジーのその又ファンタジーとして「菊千代が生き残って大人になっていた」設定で制作されたのが『用心棒』『椿三十郎』です)
『用心棒』や『椿三十郎』においても主人公の”名無しの浪人”(ここにはハメットのハードボイルド小説の影響あるかもしれません)は極端に言えば個人的目的も無く自分の気持ちなどを確かめる余地も無い。あたかもそこにいちゃいけないほどの人間がハードに実存してたらどんな(共同幻想破壊的)ドラマが始まるのかって人間主義的なドラマとも言えます。
(重要なのは”三十郎”が常に”嫌々”で物語に深く関わって行くところ「勘違いして感謝しそうになる共同幻想社会に”違うから”と背中を見せて去っていく」)
「エイッ!アチャー!」ってのを馬鹿にしてはいかんっちゅうことです。

それから関係無いですが「先生」っていうのは勘弁してください。
(kagewariさんとかで十分ですから)

引用なし

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【55】Re:そーですねぇ  yuttie  - 2011/02/24 14:31 -

kagewariさんおひさしぶりです

最近、去年に比べれば少しずつ自分の中で問題も整理されてきて
また時間も出来てきたので
自分の中に抑圧されたものについて、少しずつ考えています

思えば
家族を含めた私の周りの人たち全員に
必要とされてないか、邪険にされてるような感覚がありました
なぜそうなったのかはわかりませんが
今もそうかもしれません
小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました

今は両親について、正直
最初からこんなのいなかったら、どんなに楽だったかという考えでいっぱいです

私が勉強について否定したがらなかったのは
私にとって勉強が誰かに少しでも振り向いて欲しいと思う気持ちや
自分を少しでも肯定してやりたいという欲求を満たすもので、また、
現実から逃れるための時間つぶしの役割があったんじゃないかと思います


今、
誰かに心を開こうと思うことも、たとえ独りでも自分に素直に生きようと思うことも
何もなしに、ただ生きているだけなのに、
何年間も走らされているか、何かから逃げ続けているような感じで、
そろそろ止めてしまえられればと
少し疲れてしまいました

何ヶ月もかけて誰かにやっと心を開けても
自分自身の少しの心の揺れでその人との付き合い方がわからなくなってしまって
そのたびに人を傷つけて

でも独りでいると、自分が惨めに思えてきて
自分が独りでいるからとかではなくて、
ただただ湧き上がってくる感情として悲しくて、
すこし周りが憎くて、それがまた辛くて

自分をどうしたらいいかわからなくて
誰にも頼れなくて

それを押し殺して笑顔を見せるのも辛いし
でも時には思うままに物を壊したりしてみても、
それこそ何かに向かって演技しているような違和感があって

きっと一年前の文章となんら変わりないかもですね
ごめんなさい
いくら、どう頑張っても抜け出せず
もうこの数年に始まったことではないのですが…

引用なし

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【56】各論でいきましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/02/25 19:34 -

今回はその方がわかりやすいと思います。
> 家族を含めた私の周りの人たち全員に
> 必要とされてないか、邪険にされてるような感覚がありました
> なぜそうなったのかはわかりませんが
> 今もそうかもしれません
> 小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました
 ↑
ここ典型的なので説明します。
とにかく大きな誤解は親等の年長者から見て子供は「赤の他人同様」に遠い存在です。
(感情移入で入れ込むとかそういう”余地”が親権として一般的であるだけで、相互信頼でコミュニケーションできない場合メンタルな問題で悩むタイプの人に顕著な対人恐怖とほぼ同じ状況が子供に対しても発生します。)
表現悪いですが所謂「ペットのように可愛い」と一時的に(というか反射的に)感じられるのは本当の乳幼児などの場合で、その乳幼児期でも昨今の虐待事例にあるように(ペットを飼ったがトイレの躾などで悩んで暴力的になるタイプのケースと大きな違いありません)、コミュニケーションスキルって表現はどうかと思いますが、大人同士の他者とコミュニケーションが円滑にできない大人(親)は、自我成立後(或いは言葉を話し出す萌芽期から)の子供を相手にしても対人恐怖や不安感を感じます。
※ここベーシックに言えば家族社会というのはひとつの権威性クラス(階級)社会であって、何の縁か?という部分が「同期入社」や「同級生」とかと同様に「血縁」というだけで、何か殊更大きな違いはありません。乱暴に表現すれば「異様に濃密な町内会」みたいなものです。

で、仮にですが、
親を含む権威側に対人恐怖的不安感がある場合、その場が生存環境である幼児は「ステレオタイプに安定的な人物像」を”結果論”として求められます。
又ここで誤解を招きそうですが、親が所謂巷間伝わる”親子愛”のような”甲斐”を発現するには、家族法人にとって親はベンチャー企業の代表取締役ですから「会社設立の理念」であるとか理想のような(言えば強い愛社精神みたいな)法人運営における旺盛なモチベーションなどがあっての話であって、仮にですよ「親自体が強迫観念のように”社会適応”を気にするあまり、ステレオタイプに(いい子であるように)結婚に妄執するなどして家族を発起した」であるとか「依存的人格で強迫的に対象者をスカウティングして自分が依存するために家族法人を求めた」などの場合、下手すると『円満に営業している家族的経営の一般の会社』より社会性は劣るんです。→「言えば赤の他人レベルがそれだけ高くなる」それだけでなく、上司である部課長クラス(階級)が(親)所謂使えない上司のようにコミュニケーションスキルが劣るって事です。
(上位概念の話は、江戸時代の氏族なんかを例に想像してもらえるとわかると思います。親子愛の上位概念が”お家大事”の家督保守である。)

■上記は個別事案では無くて、典型的な部分の説明です。

で、この話をすると困ってしまいうのが、
「なんて悲劇的な社会に私は生まれたのか」のような鬱的被害認知が先行することあるので抑えておきますが、
所謂『幸せな家族愛に溢れる組織』←これは幻想ですから。
しかも実際の環境がイメージとかけ離れるものだから、それこそTVで見たホームドラマみたいなのが本当かと幼児は勘違いしてしまうんです。隣の芝生じゃありませんが、そんな絵に描いたような話はありませんし(本当にやっかないのは刑事犯に相当するリアルな虐待です、これは生死にかかわりますから)、だいたいの家族も言うほど濃密な人間関係ありません。
鈴木宗男の家じゃありませんが、「お父さん逮捕された」のような重大イベントで”後発的に”人間関係が(誰かと親友になるように)濃密化するのであって、それは家族法人にも波風ありますから、そこの中のイベントを通して(会社で言えば日々の営業活動を通して)各人個別に相互信頼を形成しているのであって、その機会が『血縁である』のか家族というだけなんです。
(出生はほとんど就職と同じ事なんですよ)
ほとんのどの判断は”自分でどうにかなる”ものなんですが、幼児にはできる事限られているので通常「ちょっと家問題あんじゃないか」的な家族に生まれても反抗期を経て「とっとと独立しよう」的な方向で解決するため一般的には大きな問題になりません。

じゃメンタルな問題は何故おきるのか?
答えは簡単です。
不安を抱えて『強迫的社会適応』に依存する親がいたとします。
何を求めますか?(もうわかりますよね)
無難に”デキル社員を部下に持つ管理職”の姿が無いと不安ですよね?
(勿論昭和の時代のように嫁姑みたいに強迫心理では無く、実力行使的”脅迫”である場合もあるでしょうけれど)
江戸時代の氏族のように歴史的合理性が誰の目にも担保されている「武士の跡継ぎ」のような錦の御旗があれば子供は悩みませんし、親もその道に外れた話はできないので、合理性を共有できます。(まさに共同幻想が機能する)
しかしその理由というか背景事情の理解と言うか情報公開が無いと、(もうわかりますよね?)
> 小さい頃から自分の想像しうる範囲で最高の、良い子を演出しようとするクセがありました
やっている当人意味わからない→これが自我に構造化していけばメンタル上の強迫観念になります。

yuttieさんの個別事例に何があったのかは公開掲示板では(プライバシー保護上)確認できませんので、後はご自身で組み立てて考えてもらうより他無いのですが、上記踏まえればある程度推定可能に思います。


ですから、
>今は両親について、正直 最初からこんなのいなかったら、どんなに楽だったかという考えでいっぱいです
 ↑
これ「おかしい」んですよ。
意味わかります?
とっとと独立すれば何の関係も無いんですから。
(本当の話で一般社会の大人って普段圧倒的な時間、実家の親の事なんか忘れてますよ。独立して日常過ごすってそういうことなので。←だから共同幻想は『お盆』とか『正月』を組み込んでいる訳で、)

皮肉な事に「あたかも親子関係が永続的に続くかのような妄執に飲まれているのはyuttieさんの心理」だって事に気が付いていない。

これを読み解くカギが、
そもそも強迫的な親の人格があれば、何故子供がその親に執着するあまり強迫観念を取り込んだりするのか?
そのモチベーションとなります。
「精神年齢的に見発達な子供に可愛いペットを買ってあげた」←どうなります?
自己愛的に溺愛することありますよね。(或いは過干渉と激怒など)
依存心のコアでもあるんですが、
(あくまでも仮説ですが)
言葉を話し始める幼児期以前の乳幼児期に以上に可愛がられて(ここでは随分いい目にあっている)「快感依存的」な傾向があるとか、
或いは、親の非社会性を引き継ぎ子供社会の中で自発的な快感獲得が出来ずに快感原則が専らインナーワールド(内向社会)としての家族間にしか無かったなど、こういうサイドストーリーが関係していたりします。
(勿論親が自己愛投影して子供を特別視する事例も少なくありません)

■根本が誤解だって事ですよ。
それこそ最初の
 ↓
「なんて悲劇的な社会に私は生まれたのか」のような鬱的被害認知が先行することある
に戻って考えるならば、
それこそ外見的にうまくいっているように見える家族法人は「よっぽど突き放した関係性」であるからこそ、云々と、
(ここ説明しなくてもわかると思います)

ですから話はぐるっと回って元に戻りますが
 ↓
とっとと独立すれば何の関係も無いんですから。
 ↑
と、思えてない事が問題なんですよ。
(そうならない背景が様々な誤解や強迫意識である)


>何ヶ月もかけて誰かにやっと心を開けても
>自分自身の少しの心の揺れでその人との付き合い方がわからなくなってしまって
>そのたびに人を傷つけて
 ↑
ここは想像するに「依存関係」やらかしているんだと思いますよ。
自立的、自己責任担保の水平的・対等の相互信頼関係では無い。
(人怒らせて得する人なんかいませんから)


>でも独りでいると、自分が惨めに思えてきて
>自分が独りでいるからとかではなくて、
>ただただ湧き上がってくる感情として悲しくて、
>すこし周りが憎くて、それがまた辛くて
 ↑
完全な依存心ですよね。
元ネタは迷子の幼児「おとうさーん、おかーさーん」。
勿論そんな年齢じゃないのは確かなので、上記の心理は”自我問題”であってまったく自分の本音じゃありません。
依存的認知に引っ張られてしまっている(俗っぽく言えば”みれん”)
「本当は王家の王女様だったのに」←と大きな違いはありません。
(幼児期のいい子が肥大化している理由は、親などの権威性が反動で肥大し貴族階級みたいなことになっているため←なので極端にいい子じゃないとアンバランスに思えるんです)
※大人目線で言えば、幼児的に昔の恋人の話(自己愛ドラマ)でごちゃごちゃいいながらナルチシズムっぽくメソメソしているのと似たような話です。
(この場合大人目線の話じゃありませんが)


>誰にも頼れなくて
頼る必要無いでしょう(笑
年齢いくつですか?って話です。
江戸時代なら15歳でひとり丁稚奉公だの、場合によっちゃ売り飛ばされたりして普通だったんスから。
(家督相続の長男なら元服ですが)
 ↓
<答え>
「頼ってまで何かすることあるのか?」
(深層心理が貴族の子供だとすると→そりゃ身分の回復とかそれは大変な労力となる:ここが頼る発想の潜在意識です)
※実際に体調含めて大変だなる設定もあるでしょうが、マジに体調が悪い時に呼ぶのは『救急車』だし、たとえはアレかと思いますがトイレでの急な下痢で冷汗かいて気絶しかけるとかって誰でも経験あると思いますがこの時ばかりは「こりゃ助け呼ぶわけにもいかん」と思いますよね。何故可能かってトイレなる『自我の個室』的プライバシーというか結界があるためで(引きこもりの原型とも言えますが)、単体の不快事例はプライバシーというか個人領域であれば(それこそ鬱的に反動化して不快による快感依存があるように)人は引きうけられるんですよ。
※しかしその場面見られたら大事になりますわね、
※しかし「いやー昨日トイレで死にそうになってさ〜」と笑い話にもなりますよね。
(迷子が泣くのは外部の人間に「迷子なの?」と声をかけられた時)
この不快認知には多分に社会性が関係していて(心理学的には”ボーダー(境界例)”なんて個別具体的なものは存在せず、その社会的接点が葛藤なりの戦場(いくさば)になっているワケですよ)、その背景に『過剰な意味に膨張している社会適応強迫(誇大な結果主義)』は横たわっているワケです。
『自立独立』的単純化モデルではそれが派生しない、
(ですからリハビリ過程は単独行動を基本とするべきでしょうとコメントしているんです)
 ↓
ひとりで気ままに駅前の蕎麦屋で腹いっぱい食うって市井の市民の幸福に、誰か頼る必要あるんスか?

自立であるとか独立であるとか、
そもそも哲学的に幸福論って何とか、
自由とは何かとか、そういう根本的なところが深層心理で”えらいことになっている”んですよ。
(全然一般的では無いヒロイン物語みたいな←鬱と反動関係にあることわかりますよね。)
※獲得される””自由度”が自由なのであって(自意識の行動による自己責任による著作権プロセス)、全方位への∞の無限区間は”定義が無いので何の(自由の)実存も無い”、あらかじめ用意された自由って言葉も論理矛盾です←意味わかりますよね。

と、ここで一番最初のレスから読み直してください。
一本に繋がっている筈ですから。
過去の誤解に関しての解釈がまだまだ一貫していない、
そしていい悪いなどの情緒的にに過ぎる部分が多くまだまだジャーナリズム的領域に至って無いって事です。
同時に皮肉な事に「駅前の蕎麦屋」とか「駅前のハンバーガー屋」の幸福ってものを”なめている”って事でもあるんだと思います。

引用なし

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【65】Re:各論でいきましょう  yuttie  - 2011/05/22 00:10 -

お久しぶりです
掲示板の投稿、何度も読み返させていただいています
私おんなじことしかいってませんね
その考え方を今すぐ断ち切れるかどうかは別として
最近それがやっとわかってきました

最近大分落ち着いてきました
いや、落ち着いてはいないんですけど、
自分の状況を一年前と比べて少しは客観的に見られるようになった分
少し余裕を持てるようになっています

両親は対人関係についてはやはりふたりとも変わった人です
私を社会適応させようとしていたかどうかはわかりませんが

母父とも、もの静かで、論理的、合理的な考え方を好むような人で
二人ともかなり我慢強いと思います。どちらも朝から夜遅くまで働いているのに
愚痴をほとんど聞いたことがありません
ただ面倒なことが、特に母親は、大嫌いでした
キャパギリギリまで背負い込んでる状態で、
もうこれ以上何かを背負うことを全力で拒否する感じです

面倒の塊みたいな幼児期にはよく怒られていました
なにかねだったり、あんまり甘えようものなら、
急に声色が変わって
こっちはずっとなだめすかしてんのに調子に乗ってんじゃないよなんて言われるものだから、
我慢して付き合ってたけど本当は私のこと嫌いだったんだと落ち込んで、
とにかくあまり自分が主張できるような余地が無かったので
なるべくいい子でいようと思ったのは、そう思ってからだと思います

ショックだったのは、
9歳のころ突然父にイタズラされそうになったことです
大声出したら隣の部屋から母親が駆けつけてくれて、
同時に父は私からパッと離れ何事も無かったかのように去っていったんで、
9つながらよくないことされたんだと思いました
ただ父が理性を失って感情を爆発させたのを見たのはこれきりです
あれは夢だったんじゃないかと思ってしまうほどです

家族の結びつきなんて幻想だとわかっているとしても、
やっぱりショックです。なんなんでしょう
そのせいでしょうか、恋愛や、それに関係する話題に吐き気を催してしまいます
それともただ私がまだ大人になりきれていないからでしょうか

私が人に依存することに未練たらしく拘泥していたのは、
高校のとき入った部活でかわいがってもらっていたからだと思います
ただ誰かに認められている、だれかがちゃんと見てくれていると思うだけで
なんでもできるような、どんな困難も乗り越えられるような気持ちだったんです
両親に退部をせまられ鬱病になって、結局途中で退学してしまいました
偽親によって本当の親から引き離されたような気分でした

たぶん、幼少期からなにも主張しないぶん、
今まで精神的に全く成長できていないのではないかと思うんです
それと、小さな頃から奥底にしまってきた
悲しみや恨みや憎しみ怒り寂しさが抑えられずに垂れ流しになっていて、
しかもいくら吐き出してもつきないんです

自由の前に、安心できる場所でゆっくり休みたい…
十数年前からずっと、なんとなく疲れていたそんな感じで、
目に入ってくるもの何もかもが怖い

単独行動していますが
生きること自体またすこしだけ苦しいです

ごめんなさい
かなり具体的で、さらに他愛のない話で、返信にすらあまりなってなくてしまいました

引用なし

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【66】いくつかの各論と推定  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/05/22 23:16 -

>母父とも、もの静かで、論理的、合理的な考え方を好むような人で
>二人ともかなり我慢強いと思います。どちらも朝から夜遅くまで働いているのに
>愚痴をほとんど聞いたことがありません
>ただ面倒なことが、特に母親は、大嫌いでした
>キャパギリギリまで背負い込んでる状態で、
>もうこれ以上何かを背負うことを全力で拒否する感じです
 ↑
端的に言えば本音の抑圧と強迫心理ですね。
(強迫心理の特徴のひとつは”ステレオタイプ”ですが、これは時々論理的合理的と誤解されます。論理的合理的なる発想の本質は融通無碍にイロイロな抜け道見つける上手みたいな(オルタナ)ところが本領で、結果窮屈になるのは論理的でも合理的でも無いのです。)

>こっちはずっとなだめすかしてんのに調子に乗ってんじゃないよなんて言われるものだから、
>我慢して付き合ってたけど本当は私のこと嫌いだったんだと落ち込んで、
 ↑
完全に赤の他人状態(自我を持ち始めた子供に対しても一般社会の大人相手と同様の対人恐怖や過緊張が出ている)。
というか家族法人取締役的パフォーマンスが全然無理であると、
(イメージ的には融通の利かない無能な中間管理職のそれに似ています。)
◎ここから彼らが家族法人を立ち上げしたのも彼らのステレオタイプがそうだったからで好き好んでのものじゃないでしょう。
(強迫的な家族法人設立←彼らも”誰か”を権威的に意識しての行動で彼らの本音(自由意志)は抑圧されている。)

>ショックだったのは、
>9歳のころ突然父にイタズラされそうになったことです
 ↑
ここは話半分に減額してください。
(事実関係を否定しているワケではありませんよ。以下に詳細あるようにこのような類する話は裏取り含めて慎重に確認していかないといけない要素が可能性としてですがひとつのリスクには違いないためです。)
根拠のひとつは一時大きな話題になった欧米社会の実子に対する性的虐待のかなりの数が誘導尋問的な記憶偏向も少なく無かった点。
それから特に日本においては小児性愛は欧米に比べて少数派であるのと、以下の証言です。
 ↓
(何回か前の証言)
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか

分析の過程で誰かが悪い的に認識の歩留り(本来はその向こうに彼らの強迫環境も知り”業(ごう)”というか”性(さが)”というか仕方の無い世界だなほんとのようなジャーナリズム的視点に至って理解なので)過程で、悪感情から記憶の一部(前の証言との間の乖離に注目)”特に印象”に関しては割り引いておくのが賢明であるためです。
(いい悪い論に認知が引っ張られるのも強迫心理の特徴(道徳野を占有して抑圧の原動力とする)です。)
更に言えばくだけた家庭の場合父親が娘と中学生ぐらいまで一緒に風呂に入るなど性に奔放な文化を持つ日本の場合あってもおかしくないもので(当然性的な馬鹿話もアリで)、欧米における問題は宗教的抑圧とその反動ですから(倒錯の意味合いや経路が大きく違う)、全てを性的虐待の枠組みで見るのには一定のリスクがあります。
※欧米の小児性愛と違い日本の場合には性に未熟(或いは未発達)な年少者等の男性が傾倒するなど倒錯が別経路となっている。
※むしろこの場合『夫婦関係の問題を考える』背景のひとつと考える見方もあります(後述)。

推定のひとつとして強迫により人格破綻傾向のある両親の父親が(強迫下で)抑圧されていた自意識が(彼の本音には娘が可愛いなどの意識あったでしょうから)、対人恐怖そのままにおぼつかない方向を辿り「娘には嫌われるは・それを問題の妻(ここで夫婦関係の推定)に見られるは」という(自意識を更に抑圧しなければならない袋小路的な)絵というか場面に(可能性として)目を向けるべきでは無いかと。

ここでの嫌悪感は妻(母親)の父親の自意識を嫌悪し蔑視(抑圧する)視点がyuttieさんの視点に(そのまま強迫心理として)影響している可能性があるからです。
(認識の歩留り論と一致する。)
※専ら男性嫌悪心理の一部は『母親の強迫意識』が大きく関係している可能性もあります。
(ここも推定ですが:後述)

その認識ベースで見ると以下の状況は別のものに見えるかもしれません。
>同時に父は私からパッと離れ何事も無かったかのように去っていったんで、


>恋愛や、それに関係する話題に吐き気を催してしまいます
>それともただ私がまだ大人になりきれていないからでしょうか
性の嫌悪にはいくつかパターンありますが、
自分の性(大人になる=子供の心理で依存関係にある家族社会を喪失などから)に対する嫌悪や、
性(ジェンダー)そのものに対する嫌悪で、この場合『母親との同一化(女性の子供の大半は一時期この過程を経ます)』の影響などですね。
つまり彼女が強迫的人格であり且つ婚姻しているとすれば→大人になっていないまま強引に結婚していることになるので、性的快感認知は過去の自分の家族を対象としたまま現夫となるワケですから、夫婦関係において潜在的にも顕在的にも夫を嫌悪している可能性かなり高いです。
(無意識下のファンタジーは自分が子供時代所属していた家族社会の中のなんとやらとなり(強迫心理特有の特権階級意識となり)現世を(一般他者である男性全般を貴族社会から)卑下するなど、)

母親が主導的役割で強迫家庭となった事例では特に娘が父親などを(問題のある母親の伝聞情報などを元に)誤解から過剰に嫌悪しているなどのケースも少なくありません。


>私が人に依存することに未練たらしく拘泥していたのは、
>高校のとき入った部活でかわいがってもらっていたからだと思います
>ただ誰かに認められている、だれかがちゃんと見てくれていると思うだけで
>なんでもできるような、どんな困難も乗り越えられるような気持ちだったんです
 ↑
これは非常にアンラッキーでしたね。
時々あるんです、
偶然と言うか特定社会に対して妙に社会適応してしまい『妄想家族を仮想実現してしまう』ケースですね。
(現象としては全く違うのですが構造的には不良化と暴走族(代理家族)ともクロースする部分あります。)
依存関係には”スカウティング”という過程を経る事も多いので(必ず強迫心理にとって都合のいい相手が選ばれている)、潜在意識の強迫心理は「妙なお墨付き」を得て暴走し(温存拡大)、その後に強い反動性(行動の過激化など)帯びる場合もあります。
(ズルズルと当時の関係者との関係が続きその都度何らかのアクションが強迫トリガーを引くマッチポンプとなる場合もあります。)

>両親に退部をせまられ鬱病になって、結局途中で退学してしまいました
>偽親によって本当の親から引き離されたような気分でした
 ↑
この当時の記憶も”印象に関しては”割り引いて考えるべきでしょう。
「強迫心理のいい悪い論に極めて都合がよ過ぎる話になっている」からです。
(結果として強迫心理の拠り所である『幻想家族』が過剰に美化されて終わっている事に注目。)


>悲しみや恨みや憎しみ怒り寂しさが抑えられずに垂れ流しになっていて、
>しかもいくら吐き出してもつきないんです

つきないのはそのルサンチマンそのものが『誤解』だからですよ。
(イカレタ家に生まれたとか、トンデモ暴力両親だった的な事は何とでも無いと言えば極端ですが(理由が幼児や子供にもわかりやすい”そのまんま”な内容の場合メンタルな問題に発展しない)、ルサンチマンの根拠を想像すれば簡単です。「本当なら○○や○○など子供的にも大変幸福で快感のある○○な幸福を奪われた」←前段が自己愛的に増幅すればするほどルサンチマンは拡大する。)
極端な話生きるか死ぬか寸前の状況で育ったとしても「自分自身だからどうしたなんですよね(←今元気に生きている事が証拠)」であってなんら不思議では無いのです。「ほんとにね(笑、あのクソ両親とか思いますが、いえいえ別段怒ってもいないですよ。てか怒っても仕方ないでしょう、彼らもあーやって生きてきたんですから。」
 ↑
問題は事の軽重(なんでしょうね抽象論になりますが幸福の軽重でもなく)とは全く関係無いのです。

わかりやすいのか、わかりにくくくて「幼児の心理がその説明に幻想を必要としたか」この差異です。
(いい子幻想も全体の幻想の延長上にある”ナンセンス”なワケで)

>自由の前に、安心できる場所でゆっくり休みたい…
>十数年前からずっと、なんとなく疲れていたそんな感じで、
 ↑
これはいかんですね。
ゆっくり休んで滋養付けたいのは強迫心理ですよ。
(依存先の喪失に焦っているんですよ。)
※そんな都合のいい先はありませんから、仮にそう勘違いして依存した場合、勿論そこにも現実社会ありますから(過度に社会適応しないと捨てられ妄想などとなり)下手すると誰かを殺意に近いほど恨んでしまったり、関係悪化したり、場合によると過度の社会適応意識から「○○ができないからだ」などのような偏執的な妄想に囚われたりなど問題が悪循環化し現実に現象として波及してしまう場合もあります。

疲れていたのは依存先との関係を固定化するために無理をして「それこそクソの役にも立たない勉強したり」ですね、
一見応援している人(実体は強迫心理の取り巻き)を美化しちゃったりですね、
随分自意識の本音から遠くまで来ちゃったからです。
辿りついて「なにかしたいの私」状態であると、

ゆっくり休むなら「ひとりでやすんでください」。
(引きこもりと意味は違いますよ。ひとりで喫茶に行くとか、図書館行くとか散歩するとかのんびり過ごすということで、)


>単独行動していますが
>生きること自体またすこしだけ苦しいです
 ↑
それでいんです。
世の中ね、基本生きるってのはある程度疲れるなど苦痛も幸福のうちですから。
散歩したって疲れるんだし、読書すれば肩も凝るし、
登山は命がけだし、硬球当ったらデッドボール洒落にならないし、
最初に飲んだ酒はマズイものだったり、最初の喫煙はクラクラ気持ち悪いものだったり、
幼児にブラックコーヒーの味はわからないし、
何か上等なもの食おうと思えばハードに働くとかね、
海女ごっこだとばかり海に潜ればだれでも息が苦しいのであって、

『疲れられる』ってのは自由な自意識の発露として「こっちいくと選択」した結果(モチベーションの発動にも成功)その過程を証明するものであって(確かに企画立案と行動のハンドル握ったという)、腕立て腹筋などハードにトレーニングすれば誰だって苦しいですがそれは『不幸の逆さま』ですから。


>自分の状況を一年前と比べて少しは客観的に見られるようになった分
>少し余裕を持てるようになっています

言うならば上記二行が現在の自意識の本音であるということでしょう。
(レスはその二行だけでよかった)
と考えてみればですよ?
以降に続く話のおしまいが→「強迫心理擁護ともいえる方向に揺れている」とも見えるのであって、
前段二行が以降の反動となる文章構造となり、
(そういう内容は現在の自分の自意識の思惑とは違っているので)
 ↓
>かなり具体的で、さらに他愛のない話で、返信にすらあまりなってなくてしまいました

こういう感想になったのでしょう。
(自分でも違和感がある)
>ごめんなさい

いえいえここは私に謝るところではなくって、
自分の自意識に謝るとことです。
「スマン俺、余計なこと考えた」←という感じですね。

引用なし

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【67】Re:いくつかの各論と推定  yuttie  - 2011/06/29 19:40 -

お久しぶりです。
あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
かなり大変です。

心として前向きであるものの、
頭と体が追いつかないんです。
頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。

条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
もちろん授業なんて頭に入ってきません。

結局、体はボロボロで、でも一晩中緊張が続いてうまく眠れず、…課題も予習もできず。

安易な事を言うかもしれませんが、
なにかアルコールや薬物の中毒から抜け出すのかというくらいの感覚です。
心と体が全く別物で
物凄く辛いし、どうしようもないです。


なにもしたいと思えないし、何もできる気がしない。
リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
そうですよね、私はガキです。

目の前の世界は歪んでいるし、
口を開いた瞬間どうしようもない悪ガキとされていたので
記憶もないほど遠い昔から感情の抑圧というものを第一の信条として生きてきたから、
言ってしまえば
その当時から今まで生きた心地なんてしたことほっとんどなかったし、
最初からこんな奴いなかったんだといって、どこへでも消えていけたらいいのに
とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
どうしようもないです。

心療内科の先生に、少し気持ちを抑圧できるようになれれば、とアドバイスされましたが、
もう、気持ちを抑えるのは恐ろしくてならないです
抑え込みすぎた結果、おととし通り魔になりかけたので

疲れてしまいました
今は、外へ出歩く元気もないです
家でじっとしているのも、つらいです。
情けなくて、悔しいです。

引用なし

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【68】そのまま読んでみましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2011/07/01 22:37 -

>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
>かなり大変です。
>心として前向きであるものの、
>頭と体が追いつかないんです。
>頭と体が躍起になって依存の先を探し続けています。
 ↑
ちゃんと自意識の本音が(無意識に)記号化されてます。
デ・コードしましょう。
「あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、かなり大変です。頭と体が追いつかないんです。」

■『全力で走れば追いつきます』よ

(マジな話です「ランニング不足」なのだと思います。←これは本当にそのままで「万歩計的な日常生活の走行距離が不足している」と考えてもいいです。”単独走行距離”:関連キーワード<単独大西洋横断)


前段を(実は既に自分で答えがわかっている)ベースに読み直すと以降に既に答えがあった事が確認できます。
>条件反射のように、長年染み付いた感覚によって体が動くようです。
「そこ(強迫時代)に(走行距離不足で)留まっているから」ですよ、

>大勢の「人」の中へ入っていった瞬間、
「大勢の人に中に入っちゃいかんでしょう(笑」
何度も言うように”単独走行”がテーマな状況であり、
>あれからまた一ヶ月間続けてきた単独行動ですが、
と言いならが「大勢の人」じゃ「一ヶ月続けていない」って事です。
大勢の人相手じゃ単独行動にならない。
 ↑
これは婉曲的な意味なので後段読み進んでください。


>身体が硬直して、頭の中は暴走して(頭の中に、一気に人が四、五人現れて、それはこうだ、あれはダメだとまくしたてるんです)
>一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、
>それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると
>体力が残ってない分、頭の中ではさらに危機感をまして…
>もちろん授業なんて頭に入ってきません。
 ↑
なんで授業なんて行っているですか(笑
現段階では勉強などクソの役にも立たないと説明していませんでしたか?
自意識の本音で「マジに勉強したい」のなら人の少ない図書館にでもひとりでいけば「ゲーが出るほど勉強できます」。
 ↓
>疲れてしまいました
>今は、外へ出歩く元気もないです
>家でじっとしているのも、つらいです。

ほら、問いのおかしさに気が付きました?
(”騙し絵のトリック”発見できません?)

「外へ出歩く元気も無く、引きこもりも勿論辛い」
極論”リストカットの量”の告知に見られるようにナルチスズム的には「生きるか死ぬか的に辛い」ってテーマの話です。
ところがです。

と こ ろ が

その原因は?
「一時間や二時間でヘトヘトになるんですが、それでも授業が終わるまでのもう三、四時間、帰れないでいると」ってあーた、
生きるか死ぬかって時に、何学校いってんですか?
しかもですよ、
ここで最初からもう一度読み直してください。
「生きるか死ぬか的に辛い」の直接的原因は「クソの役にも立たない学校行ったから」。
変でしょ?

逆回ししてみましょう。
(映像手法である「VTRの逆回転映像」でイメージしてください)
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」(原因は?)→「外に出歩く元気も無く疲れ果てている絵」(原因は?)→「何故だかわからねど能天気に(後で生きるか死ぬかの原因となるのに)学校などに行っている」
おかしいでしょ、
 ↓
シーンを並列させます。

「生きるか死ぬかって自己愛的状況」ってゆゆしき事態なのに「いけない、学校に行かなきゃ」、
ってアータどんだけ暇なんですか?
これはですね、福島第一で原発爆発しているのに「時間だから学校行かないと」と言っているようなものです。

ですから、
「生きるか死ぬか的自己愛状況でリストカットのシーン」が想定されるので(強迫心理がいかにもやりそうな事なので)、現状判断としては『共同幻想的空間』は(強迫心理を刺激するので)むしろ避けるべきで(仕事上で発現した鬱症状の会社員が心療内科で「休職」進められるのと同じです)、「単独行動でランニングしてください」なる状況なのに『事もあろうか学校行った』って話です。
目先の重要性はあっても人間の人生なる哲学的フェーズで「たかが目先の学校行ってたか行ってないか」なんて何の意味も無いですから。
自意識がマジに研究したいと取り組んでいる「マジな研究欲求」なら別ですよ?
なら別ですがー
「マジな研究欲求」って何でしょう?
「授業サボってでもひとりで図書館に籠って研究したい」って事ですよ。

ある意味現状(あくまでも暫定的な現状判断ですよ)、
「暴走族から足洗おうとしてんのに、付き合いだからと暴走族の集会に行ってどうする」ぐらいのカウンターで考えていいって事です。
で、集会帰りに「これじゃ暴走族が止められないと(グッスン)リストカット」って、、そりゃないでしょう。
ないですよね?

繰り返しになりますが、
一拍置いて冷静に考えれば特別難し事じゃありません。
(てか、自然に考えれば「どう考えても変」なんです)

>目の前の世界は歪んでいるし、
風通し悪いからです
(強迫心理による”モヤ”がかかっている→言えば蜃気楼のようなものです)
 ↓
だから”モヤ”がかかっている場所から「風通しのいい公園」であるとか「居心地のいい喫茶店」であるとか「空気のおいしい観光地のひなびた旅館」であるとか「ギラギラと原色ベタ塗でクッキリ明解でわかりやすい場所」などにいかないといけませんよね。
(或いは”避難”)
「一人でランニングして」
(一日10キロとかノルマにしたら相当歩きまっせ)
>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、どうしようもないです。
 ↑
ですから空気が悪いんですってば、
ゴテゴテしたキャスティングにグロなメイクにシツコイ演劇観て(しかも劇場は湿度が高くて息苦しい)オエッとなっているんですよ。
「あー胃がもたれる演劇だこりゃ」と、
だったら走って劇場の外に出ればいいのであって(勿論ひとまずは”ひとり”で)、

>とにかく、一つひとつ、息を吸って吐くだけで焦燥感で胸がいっぱいになって、
 ↑
こういう現象で息苦しくなる時にはですね。
100Mダッシュ30本走るとか、
1万メートル全力疾走してください。
「別の意味で息苦しくなります」
(別の意味なので走りきったら「息を吸ってほっとできる苦しさ」です)

■ここ本当にマジな話をしているのです。
今一番重要なことは「ランニング用のシューズを買う事」だと思います。
(「ランニング用のシューズ」は婉曲的意味です)


>リストカットの量がこの一カ月の間で一気に増えました。
>心療内科の先生には、15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、なんて説明され。
>そうですよね、私はガキです。
 ↑
『リストカット』は”オナニーの一種”なので、
本人それほど気にしていないなら無理に止めるとか止めないとかって話じゃありませんが(それはオナニーのやり方もひとそれぞれで中には想像もしない方法でって人もいるでしょうから)、自分自身「これは止めたい」って事であれば、『リストカットするなんて変態』とかってフラグを立てる事で一定の効果あると思いますが、
(詳しくは後段)
心療内科の医師が「15、6まではそういう衝動が抑えられなくてねぇ、」と言っているのは「15、6まではマスターベーション真っ盛りの時期だからねぇ(思春期長い人は長いかもね)」と解釈するとわかりやすいかと思います。
単純な対抗策は「ドロドロした内容のレディースコミック」などを読むなどですが(そもそも”リストカット”が選択される理由が”性の嫌悪”であるため→なので性行為のバリエーションの中から”リストカット”が選択されていますし「レディースコミック」が解決策とは解決と言っていいのか自体怪しいですし、)、
そうそう短絡的なものでは無いので、学問的背景を考えてみましょう。

※ここでフロイドの”リビドー論”まで飛躍するのは行き過ぎで、冷静な論議として考えても「鬱症状化では性欲が減退する」などの現象が確認されていますから(80年代などの欧米でメンタル性の不眠などにポルノ映画が勧められたり)、判断の鍵は『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が間接的ではあっても「性行為を代替する」ということで、逆に言えば『鬱的内向(ナルチスズム的興奮)』が(ここは広義では無く)”狭義の性的興奮に近いものだ”という事であり、欲求の代謝が日常生活なりの「動機形成と企画された行動の起動」を阻害するため”広義も狭義も差別なく”欲求不満状態に陥り(動物は行動停止=飢え死にですので)脳内が快感代謝(”やったー””終わったー”などの行為の達成感→”間違ったー””負けたー””失敗したー”でも可なのがポイント:快不快原則<脳内では興奮を伴えば快でも不快でも快感)を要求し、外部での行為がなかなかスムーズにいかない状況「今は、外へ出歩く元気もない」ですから→「これでは達成感なるものの快感を(個人でできる狭義の)性欲に求めるしかないか」などの脳内処理で(一度性欲による代謝に成功すると”反復再現性の原則”からこれに依存し)それが習慣化してしまうもの、と考える事ができます。
(鬱的不快感興奮や性依存症やリストカットなどは上記流れにより構造・習慣化する。)


「この一カ月の間で一気に増えました」←この理由は(外出もできないぐらいなど日常的に代謝する”行動欲求”が欲求不満として累積しているからで:ある意味会社の仕事でストレス溜まった会社員の風俗通いが止まらなくなるように)『欲求不満』だからです。
 ↑
私が「ランニング」として表現している事はその「なんでも無い日常の行動」の部分で、
(自然の動物は檻に入れるだけでストレスで命を落とす場合もあります。人間の性欲は動物世界の中でもモチーフとして異例なものなので→リビドー的解釈よりむしろ”広義の解釈”の方が合理的です。つまり”欲求不満”の過半は「日常性の行動欲求である」。)
人間の欲動総量と言いますか”欲求”というものは「動機形成と企画された行動の起動」の事なので、特別に快感が予定された行為を求める事に限った話では無いのです。
(むしろ「特別に快感が予定された行為」の方が全然少ないでしょう。←ですから”狭義”)

これをシンプルなモデルにする場合(現状複雑な行為を動機形成する体力が疲労により自我に不足していると判断し)、
「はい腕を思い切り回してー、次はステップします、前ー、後ろー、後ろー前!(どこ向くのよ)その場でジャンプしますよー30回!(30回て、)」のようなですね(ですから勿論エアロビクス教室に通うとかでも全然アリです)、「ピッ、ピッ、ピッ」と『自意識企画によるシンプルな行動(運動)』が欲求不満の代謝に効果的です。(勿論腹筋300回でも縄跳び1000回でもいいです)
 ↓
これを一連の行動にした場合(同時に「学校に行ったから死にたくなった」のような部分への対抗軸として)

■「往復10キロ歩いて、お気に入りの喫茶店でおおよそ人には見せられないドロドロした内容の退廃的文学作品を読んだ」のような行動になります。

さてここで最初の問いに戻ります。
前述の「10キロ歩いて…」と「今から学校に行く(逝く)」、
どちらが(今のメンタルにとって)健康的か、
(或いはどちらが「自意識にとっての”自由”なのか」)
※今必要なことは『大人(の自分)が考える反抗期(自我の現実アップデート)』であることに着目してください。

この判断があれば迷うことなく、一ヶ月経過して「情けなくて、悔しい」思いをする事は無い筈です。

<今回のレスはトータルでも婉曲的になっているので、「そこから先」はyuttieさん自身の自意識で考えてください。>

引用なし

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【77】Re:そのまま読んでみましょう  yuttie  - 2012/01/15 00:06 -

お久しぶりです
前回お話を聞いていただいた頃よりは大分落ち着いてきていると思います。

しかし今回も私の印象をただ羅列しだだけの、何の論理性もない文であることには変わりないです。ごめんなさい…

多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
そのうち手段の目的化というか、自分を抑圧すること自体に快感を覚えるようになっていたと思います。
もはや需要の有無に関わらず、自分を歪曲するとホッとするんです。
だから際限なく捻じ曲げて嘘ついて、中学にあがる頃にはもう素の自分がどうだったのか忘れてしまっていたのかもしれません。自分で言っていて半信半疑ですが、実際そんな印象が残っています。
「表現されてはじめて自分」ですが、なんというか、
自分の好きなことやろうと思うと、底の見えない暗い洞穴のイメージや難しい記号や文字列が幾重にも絡み合っているイメージが浮かんでそれ以外なにも考えられなくなってました。
素の自分、という概念はあるのに具体的にイメージできないようでした
それに自分を抑圧しないということに尋常じゃない軽蔑感もありました。

もしかしたら、素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
それが部活で自分の存在そのものを認められる経験をして、
歪曲した結果である自分ではない自分が顔を出した結果が初投稿でお話させていただいたような
、グロテスクな思考になったのかもしれません
反抗期的な大人へのアップデートのための衝動だけでなく、
そのころさらに部活の人間関係も悪くなり始めていたので
当時はそこまで考えてませんが、思い切って、圧倒的に精神年齢の低い素の自分を出してみたもののその対象が突然無くなってしまってどうしようもなくなってしまった、という感じでした

誰でもいいから殺してやる、という衝動がとにかく頭の中を支配していました
それは、「身勝手な私欲(自分を抑圧しなかった)ために部の仲間を傷つけてしまった」みたいな考えから「私はひどく汚い」という概念になって、「どうせみんな私のことが嫌いだ」「私は本当は人間ではないから、みんな私のことを殺そうとしている」から、とにかく殺さないと…
よく分かりませんが、そんなことを実際に思っていました

とにかく何か一歩踏み間違えていたら危なかったのかなと思います

本当にまだ、頭の中がなんだかこんがらがっていて、もう2年前にもなるショックもうまく整理できず、そんなことを悶々と考えています
ただ良くはなってきているな、と最近ようやく思えるようになりました。
関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
これから糸屑でも解すように今までの自分を整頓できたらと思います

引用なし

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>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
根本的なボタンの掛け違えと言いますか、
180度真逆の深層心理が表に現れてる台詞です。
まったく気が付いていないでしょうが
「私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人」
 ↑
この設定既に『マゾヒスト』になってますよ、
その構造が『被(こうむる)』的な完全な受動系(=自動的に自立独立は後退し抑圧)であり、そのまま(この掲示板なり閲覧されていれば説明の必要無いと思いますが)「強迫心理バレバレ」です。

言うならば『特定権威者(自分を認めるに足る何がし)が自分を認めない限り自分は存在しない』ワケですから、
(ここ親子関係の共依存で紐解けば背景を特別説明する必要無いでしょう)
そりゃね「どんだけ設定が空想・妄想の世界か」ってことです。

そして間違いなくyuttieさんはその「認められるべき受動系(依存系)の自分なる認知」をあたかも本音であるとか抑圧された自分であるかのよのうに”根本的に(180度真逆に)勘違い”しているんですよ。

■そもそも「”何を”認められる」という話なのかですよ、
(ここも説明の必要も無く”共同幻想社会への社会適応”が被っていることは言うまでもありませんが、)
なんで「られる」って認めて「もらう」形にならないといかんのかです。
よりにもよって好き好んで、
 ↑
素で考えればこの状態は100人が100人その設定だけで(自分)不快になる思考構造です。
(「愛”される”」に替えて考えるとわかりやすいでしょう。←勿論女性誌で有名なこのフレーズは不安心や不快を煽る形で購読に結び付けようというキャッチコピーであることは言うまでもありません。ホラー映画のキャッチコピー構造と似たような”レトリック”です。)

加えて
>無条件で感じられる
となれば幼児心理における「空想家族依存心理タイプの退行」であることも説明の必用がありません。
 ↑
ここ典型的な矛盾なのです。
「自分が(自主性としてあれこれ思い)こうであること」が実存しない限り意味が無いにも関わらず、ここが「無条件」ということになれば「誰が何をしようと」のようなニュアンスになりますが→勿論ここは「私が○○○○という名前の人物だけで無条件に」となるでしょう(自分らしく生きているだとか何をしているどういう人物であるのかと無関係に)。即ちこれは親子関係の妄想です(現実の親子関係でもこういう状況は実際には存在しません)。
つまり「現実の親子関係の諸問題」から(実際幼児は空想上の友人と話したりぬいぐるみを相手に会話するなど内面世界の想像に嘆美的に快感想像するケースは珍しくありません)→「空想や想像上の妄想に逃げ込む」的な退行が『(幸福感の想像というか)快感の再現』に結びついてしまい(退行により)、依存(構造的に固着)傾向にあると解釈できます。

▲勿論「無条件」が意図しているものは「私が○○を実現したら」のように成績であるとか実績などの形骸的条件を指しているのですが、そもそもそんな形骸や属性的特徴は『共同幻想社会適応だけに通用する条件』なのです。
ですから、そのままであれば「あたかも共同幻想社会への適応以外の現実はこの世に存在しない」かのような極めて狭い選択となります。
この時点で(そんぐらいに狭くなっている時点で)「既に強迫的発想」になります。

注)勿論思春期の反抗期を経て「共同幻想社会への適応」を選択してもいい訳ですが、反抗期期間は「仮想単独者状態」となりますので反抗期中は「マストでは無く選択肢のひとつ」でなければなりません。


ちょっとイマイチ「何のことやら」な可能性もありますので補強しますと、
「部活などでなんと言いますか和気藹々に誰もが受け入れられている集団」←例えばこういう集団は電車内などにそのまま団体などで乗り込まれるとはっきりいって乗り合わせた周囲全体に不快の環が広がります。
(構造は暴走族と同じだからです)
サラリーマンの飲み会流れの集団も同じように見られます、
(それこそある程度の母集団のまま騒いでもいいように居酒屋なんかも棲み分けしているぐらいで←サラリーマンの一杯飲み屋に間違っても入ってこないように飲み屋には飲み屋なりの棲み分けがある。)
 ↓
同様の現象として、
電車に乗り込む「家庭内と同じふるまいをする年少の子供連れ親子」も不快視されますね。
(そういう事は「外の目に触れない家庭内で」という不文律があるためです)

当該社会にとって秩序というか条件は似たところがあって、
(電車内など準公的な場面では静かにする取り決め合意のある家族のように)
何らかの条件(○○部として本気でやる気になっているだとか)が付随するのが自然なんです。
「本音として私は○○というスポーツを自分の意思で選択している」というような自発的な(自分なりの)選択が明らかであることです。
逆に言えばこれが不鮮明になればなるほど(無条件になればなるほど)そういった類の集団は(集団内では居心地がよくても)周囲に対する不快度合は高まります。
(事実一時期活動内容不明のイベントサークルが社会問題にもなってます)
つまりこれは『母集団のアイデンティティ論』です。
 ↑
ハードな体育会部活で「チャラチャラしている後輩を怒鳴り飛ばすキャプテンの図」で想像してもらえるとわかりやすいかと、

■「勿論こういう状況を指しているのではない」
つまり「無条件」というキーワードの背景には(こんな自分の定義がないため)「○○」なる”氏名だけで”という定義が裏コードになっており、
即ちそれは「家族関係の想定」があることになります。


言い換えるならば「反抗期」とは、
「誰々だから」とか「子供だから」などのような(ある意味)無条件性と受け身(被(こうむる))を嫌悪して、
「私はこうしたいんだから」と自分であることの条件のように、自分を自分の選択で定義してその実現(誰かれに認められるだの認められないだのうんうんは抜きに)への能動性を発現するのがその趣旨であって、
極端に言えば「無条件に誰かに認められるかのような心理は邪魔で不快なもの」になります。
(なので一般的にも思春期における反抗期は親子関係などがギクシャクする←馴れ合い的な言葉や投げかけを特に嫌悪するなど。)

「自分で俺は(こういう選択の)俺だ文句あるか」と自分であることの条件を現実世界に問いかけるというか突きつけるのが”所謂ひとつの青春”というものです。
(そして自分というのは「俺はこれからこういう選択をするぞ」という”これから行う選択”の事ですから、)


<話は戻って>
「自由気ままに勝手に生きる」←こっちがデフォなんですから。
(このスタンスはとりわけ単独者に限定されるものじゃありません)
ですから、
今現在であっても
>多分、私は自分を認めてくれていると無条件で感じられる対象の人がいなかったために誰に対しても自分を抑圧していたのですが、
 ↑
これが残っているのはいかんですよ。
自分で「何を言ってんだか俺は」とダメ出ししていい場面です。

デ・コードすればですよ上記文章の「自分を抑圧していた」
この言葉はですね「甘えたい気持ちを抑えていた」に他なりません。
この快感依存は大人の心理にはありませんので、
逆に言えば一種の中毒(依存症)として←この構造に浸る傾向がある時期から固定化していると言えます。
 ↓
>素の自分の年齢は歪曲や抑圧を始めたくらいで止まっていたのかもと思います。
と考えると「幼児期から私は親に甘えられずに不安感でいっぱいだったのだ」という部分が(抑圧により)冷静に語れていなかった(過去になっていない)事もスムーズに理解できると思います。
 ↑
親会社と子会社の関係で言えば「親会社との関係に安心できず部品製作の本業もオチオチできなかった」と考えると何かが違う事に気が付きませんか?
現実にあったのは「安心して自分なりの活動(部品製作の本業)ができなかった」なんですよ。
しかし「幼児心理的な空想に逃げ込む状態(=内向化傾向)」によりそれは「甘えたかった」という言葉に過剰化します(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)。
現実のサイズは「本業に専念できない」なんですが、
これが「どんな部品を造っても褒めてもらえる空想(=内向)」に囚われてしまうと「甘えたかった」のように現実には滅多に存在しない(言えばごくありきたりな家族社会においても親に甘えるなんて状況は一般的な話じゃありません)世界があたかも自分の生存条件であるかのように『枠がハマる』(実はそれは自我にとって『枷』なんですが)。
その想像が破綻しそうになると→(不安感から)感情的に爆発するというか→現在の状況を招いている。
▲重要なのは「本音は、真面目に本業に専念したかたっただけなのに」であることです。
(というかその本音が甘え構造の抑圧により「思い出せなくなっている」と言えばいいでしょうか、)


更に話を古い時代に巻き戻すと、
微妙な親子関係時代に「実存不安(幼児にとって親子関係がギクシャクするのは死活問題ですから←閉鎖的な親会社と子会社の関係)」から、想像の世界に逃げ込む傾向があり→「あたかも本当にそんな(想像世界のような)自分が”無条件に認められちゃう世界”がないと私死んじゃう(サディズム反転すると「みんな殺してやる」)」のような世界から(逃げ込んで)逃げ出せなくなった。
 ↑↓
上記の状況は「大人目線でオマイラさ何やってんの」と醒めた目で両親を見られないのと同じ(鶏と卵の関係)なんです。


>関係ないですが自分にあった薬が処方されたことも大きいかもしれません
 ↑
案外と関係アリです、
(私は投薬には懐疑的ですが絶対にやめるべきみたいにも思ってません)
タバコであれ珈琲であれ(欧米ならマリファナもアリかもですが)、誰にでも各人なりの精神安定的嗜好品ぐらいありますから。
「それどころじゃない急性の状況」があるのであれば投薬は『一拍置く思考の時間稼ぎ』として使えます。

時間をかけて「おいおい俺は何やってきたのか」考えれば上記の”レトリック(自分でうっかり仕掛けた自我の罠みたいなものです)”に自分でも気が付いてくるでしょう。

引用なし

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