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最近益々なぜ私は自分が好きになれないのかと激しい自己嫌悪に悩んでおり、やけになって救いを求めるかのように自己嫌悪で検索しココに至りました。
自己嫌悪は今に至らず、小1・2頃には学校のアンケートで“自分は好きか”という項目に“自分が嫌い”と書いた記憶があり、当然皆もそうだと思っていた子でした。自己嫌悪は自己向上の原動力だと思っていました。しかし、何をしてもいつも満足せずそんな自分に不快を感じさえします。私はおそらく完璧主義なんだと思います、特に自分には。地元では優等生だったという名残からかもしれません。しかし、自分を馬鹿にする人理解してくれない人はすごく許せず、一方でそんな破壊的になる自分を恐ろしく感じることもあります。そんな人は放っておけばいいものを、なぜそこまで許せなくなるのか。実際あまりにも不条理なことは大嫌いで意見したことがあるのですが逆に人に悪者思扱いされ誰も理解してくれないと思う反面、やっぱり私が悪いのか(実際は本当に悪くないんです)と夢にも出てくる始末。自分は裁判官でも何でもないのになぜ裁くのかと不思議に思います。これは当然の感情ですか?
友人といても私のがこの場にいるから話が盛り上がっていないのではないかと不安です。だから一層盛り上げなきゃとおちゃらけてるのですが、そんなこととは周りはつゆ知らずでしょう。そのおちゃらけキャラがたたってか馬鹿にされやすく、また真面目な話は切り出しにくく、話すとしても私が言うくらいで相談はされないのです。言ってても普段のキャラから大したことはないだろうと思われ、アドバイスも薄っぺらいものに捉えられているように思えます。真面目な話をしてもまたまたーと流されるのが落ちです。友人に相談をされないことからも私は必要ない人間では、いてもいなくてもどちらでもいい類の人間ではないかと一つの指針として思えるのです。
外の態度は楽観・適当主義者のように思われがちですが、内面はデリケート・臆病・慎重・悲観主義者なのですが。。だからこそ外面を装っているのかもしれませんが、そんな外内の自分のギャップに苦しんでいます。誰も理解してくれない、誰にも必要とされていないと感じ苦しみ、いっそ死ねたらとも思いますが死ぬ勇気もありません。必要とされていないのかと考えると涙で溢れるため、おそらく生きてどうにかしたいと別の本心の自分が訴えているのだろうと思います。しかし病気にもなれない(←闘病の方ごめんなさい)自分はやっぱり中途半端だとまた責める。兄が精神病で両親が苦労する姿をみて育ったため子どもながらに絶対私はならないと決心したもの一因かもしれません。しかし、もうこんな性格に疲れて仕方ないです。
自己嫌悪等が常に付き纏っているせいか、いつも疲れているとよく言われます。それも嫌です。また、自分が自分にある程度納得している時でないと楽しいことが悪いことに思えることもあります。また、気配りを無意識的によくするのですが時にその気配りに応えてもらえないと腹が立つ自分がおり、つまり見返りを期待した下心のある気配りで、自分でも嫌な人間になります。だから、自分の親切心が偽善に思え、いつのまにか相手へ重圧になっているように思えます。相手のためと思って、まごころの相手を励ますメッセージを送るのですが、有り難く応える子もいますが、ふと考えるとなかには距離ができてる子もあるように思えます。けむたいと感じたんでしょうが。。
カウンセリングを受けてみたい気持はありますが、金銭面にも問題がありますし抵抗があります。話が重い内容なだけに人に相談できず、長々と支離滅裂にカキコんでしまいました、申し訳ありません。でも、何かアドバイスをいただけると助かります。 |