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今回のお話ですが
実は、無意識的には「一部逆転」しているんです
一見文法的にもその論旨も『家族社会属性に対する批判』に読めますよね、
又、つつきさん自身の体感もその筈だと思います。
そう(批判的文章と)感じますよね、
しかし自我の構成というものは本当にやっかいなもので、
無意識的には「パラドックのようにぐるっと回って一部話の意味が逆転」していて、
意味の逆転現象に自分自身では気が付いていない結果になってしまっています。
<以下詳細説明しますが>
現代先進国では子供が親を介護するのは「既に非常識」になってます。
日本では政権交代の遅れ等から、政策的に米国保守政策の模倣(実体は別物です)だったために、高福祉型予算への転換が遅れた結果保守系政治家がここを誤解して「ヘルパーを付ける格好で自宅介護も」な発言ありますが、これは財務省の財政均衡論を代弁しているだけで発言している当人も全く本気じゃありません(当然欧州等の実情を知っている)、後半分は票欲しさに保守派の演技をしているだけです。
又、面白がって在宅介護等の話を報道してるメディアも視聴率欲しさの”煽り”で(さしずめ報道機関が”告発するいい人演出”も容易なので)報道している当事者も当然そんな実像が常識だなんて思っていません(半分はTV視聴者を高齢者も多く知的弱者扱いして数字が取れると勘違いしている:水戸黄門視聴の高齢者にはうけると思っている)。
この辺実体をネット情報などで知っている階層では「又この”ネタ”やっているのか」ぐらいの話なんです。
事この分野に関しては政策的にも先進国の”先を進んでいる”欧州の認識は以下です。
・民主主義社会における『個人の尊厳』は各国憲法で保証されているもので、セクハラ同様血縁社会の関係を利用して個人の尊厳が犯されるならば政府はこれを取り締まらなければならない。
※低福祉で突出している米国も”姿形は保守派”ですが、幼児虐待があれば容赦なく血縁者(親)を逮捕しぶち込みますから(冤罪が多発するほど熱心に逮捕したりします)、権利意識的には同列です。米国の保守派の背景はキリスト教系保守層なので(キリスト教保守は家族より教会の権威が上なので家族社会保護に保守的熱心さがあるのではない)意図している保守思想も違っています。
(米国では夫の妻に対するレイプも取り締まりの対象です)
■で、上記の「血縁を利用して個人の尊厳が犯されるならば政府はこれを取り締まらなければならない」
ここが又誤解される事が多いのですが、
特に高福祉前衛国家である北欧における『在宅介護』の意味は
「高齢者が一人暮らしする権利の保証」なんです。
わかりますか?
高齢者が血縁者(子供)等が介護に干渉して、自らの一人暮らし(個人の尊厳)を犯す行為から政府はこれを守る(高齢者の側の尊厳を守る)義務があるんです。
日本のマスメディアは『社会的弱者』等の差別表現を何のてらいもなく使っていますが、厳密にいうと高齢者を弱者呼ばわりするのは『差別』人権侵害なんですよ。
ですから国家は、高齢者の尊厳を守るために(相対的に弱者などのように不当な扱いを受けないように)『政府が在宅介護等を援護し』高齢者の自主独立を保障するのが義務なんです。誰かの助けを必要として事もあろうか感謝しなくてはいけない立場に追い込まれてその尊厳が貶められる事が無いように、政府が介助などのサービスを提供して高齢者の一人暮らしの権利を守るんですよ。
幼児や子供の教育を親任せにできないので(親と関係なく教育は子供”個人の権利”なので)、義務教育や教育費の無償化等(子供が親に対して気後れする等その権利が侵害されないように→親から教育費が支払われえるのでは無く”福祉予算”から国家がこれを保証する)『個人の尊厳を守る』ために行われるものなんです。
高齢者への福祉も同じ意味ですよ。
↓
権利意識として「会社や学校」等があるように「血縁家族」も存在しますが、これも社会属性のひとつに過ぎず(殊更上等という事も無い)「その上位概念は”個人”」なんです。
※ここ理解する上で重要なのは、公職選挙法のような話で「家族間であっても投票行動を強制してはならない」同時に、自らの投票行動はプライバシーであって血縁者であってもその自由を犯してはならない。
つまり「国家社会において最上位概念は”個人”としての人権」にならないと『民主主義』の構成が壊れちゃいます。
※又「家族であった事を”離れて”」個人的に信頼関係があれば別ですよ(取引相手や親友等のように)、当然個人対個人の信頼関係の対象が偶然”元家族”である事もありますから。しかしここが個人としての相互信頼ではなく一方的なものであれば”ストーカーと同じ”です。
ですから
>金銭的な事情から家族を在宅介護をしなきゃいけなくなったとしても面倒見るつもりはない。
>家族が働けなくなって、生活保護の申請も下りず、金銭的に困ってても助けるつもりはない。家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。
これは批判ではなくて、
高齢者の人権を断固守るという応援になるんです。
ですから
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
ここも違いますよ、
若干カウンター効果を含んだ表現で『極端な表現』使いますが
「残酷な自分どころか、名誉市民的に賞賛されるべき姿勢」ですよ、
なのでなんでまた
>最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。
こうなるのか、
となるんです。
成人年齢を超えると親権喪失しますので(残りはぜいぜい相続権ぐらい)、
基本的に「家族じゃ無いですよ」
時限立法の”特定血縁法人”が、法律にのっとって解散したような感じです。
(古い戸籍台帳を本籍として管理しているのも日本ぐらい)
正確な表現使うならば「家族OB」となります、
『昔家族だった縁』があるのは確かですが、ここも『新卒同期入社の(家族法人)同僚との縁』みたいなもので、
基本は独立した個人が上位になりますから「旧家族関係」は副次的属性になります。
簡単に言えば「出身地みたいなもの」と言えばいいでしょうか。
戦後即時「成人の婚姻の自由(親がこれに干渉する事を違法とする)」が保証されたのも、
つまるところ「成人は自由に自分が代表者の別法人を立ち上げること(他人と結婚)が保証」されたワケですが、
その趣旨は「成人は個人であって”○○家族の誰さんでは無い”」って意味です。
(女性の立場から言えば、旧家族の承諾必要なく自由に別の苗字になってもいいですよとなる)
確かに苗字は属性として残りますが、
この苗字は単なる呼称であって『個人を特定する記号』に過ぎません。
その個人の権利を(家族からも)憲法は保障し、国家が守りますよってのが『現代民主主義国家』なんです。
ここでおかしな事に気が付きませんか?
「やたらと家族が助けを求めたら助けるのが本来は常識」と誰よりもそう考えているのは”つつき”さんになっちゃっているんですよ。
そう思うから
↓
>最低、冷酷とたたかれるけど
となってしまう。
ここですね、
私が前段で説明した現代社会の概念を背景に考えると
「最低、冷酷と叩くなんて、なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。」
となるべきところなんです。
そして、仮の話ですが今回の相談書き込みが以下のような文面であれば
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個人の尊厳を誰よりも重視している私に対して某血縁者が「最低、冷酷と叩く」んです。
なんていう民度なのか?哀れとしか言いようが無い。
こんな時代錯誤な誤解は何が原因でしょうか?
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私の答えは「依存症ですね」となるでしょう。
■説明長くなりましたが
>家族が働けなくなって、生活保護の申請も下りず、金銭的に困ってても助けるつもりはない。家賃が払えなくなって家族がホームレスになろうと、餓死寸前になろうと、手を差し伸べるつもりはない。
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
この文章の大きな矛盾は「平気で見過ごせる残酷な自分」という言葉です。
平気で堂々と見過ごしているならば、そんな自分を”残酷な”等と呼びません。
「平気で見過ごせる”立派な”自分」でなければならない。
こういった発言の矛盾は「強迫心理」ですよ。
しかもこの部分
>知り合い(家族)が困って助けを求めて来ても平気で見過ごせる残酷な自分
>最低、冷酷とたたかれるけど、家族と関わりたくない。
背景に善悪の概念入っちゃってますよね。
(自覚的な内容に対して自意識主導の哲学や美意識ではなく、無意識的で興奮を伴う善悪の概念は「強迫心理」であるケースが多い)
この内容は”つつき”さん自身に自立の妨げとなる(某血縁者に対する)強迫心理が介在している事を、”つつき”さん自身の文面が表現しちゃっているのです。
↓
>家族と関わりたくない。
ではなく、”つつき”さん自身の強迫心理が
「無意識に自ら関わっちゃっている」んです
そしてその状況に対して(現象が無意識発なので)”つつき”さん気が付いていないんです。
つまり
「全く意図していないのに、”知らない間に”自分の考えと矛盾する話に振り回されている」形になります、
ですから先ずは慎重に”パラドックスのような矛盾する心理”が存在する事を『思い切り前提にして』
早まった考えを持たない事です。
今回の文面から言えば自分を「残酷な自分」等と認識する180度逆さまの勘違いが発生しています、
そのまま放置してしまうと今度は「残酷な自分」を前提とする”次の話””その話を前提とする又次の話”のように、矛盾する意識が次から次と拡大してしまいます。
慎重に見極めるところでしょう、
■「これまでの既成概念は一度全部チャラにして、個人的な美意識・哲学を自由に自覚的・自立的に白紙から再構築する」
これぐらいの勢いあってもいいところです。
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