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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



997 母子癒着とお金 トミー 2009/03/23 23:58
こんばんわ。以前この掲示板でお世話になったのですが、内容がちょっと変わるので名前も変えてみました。
私と母は一卵性親子の母子癒着状態で、理由は夫婦の不和、姑の病気介護、母自体の母の母からの愛情欠乏などによる孤立状態→娘に過干渉というとてもベタな構図になっています。
つい最近その構図に気付き、息苦しくなって家を出ました。以前は私が居ない間に模様替えをして帰ったりしていましたが、最近はたまに食料を持ってくる程度に落ち着きました。(多分私の「母を見捨てる」罪悪感も減ってきて、対応も変わってきたため)
ところがいつまでも困っているのが金銭問題です。実家にいる頃から家にお金を入れると言っても頑として入れさせてくれず、自分は自立していない情けない人間だと思っていました。世帯を分けた今も、たまに通帳にいくら入れたから使いなさいと言ってくるので無視しています。「〜だから(私が母の助けになっているからといったような、ご褒美的な意味合いや、私がゆとりを持てるようにといった意味合い)」と、なにかしらの理由がついています。中学から母の意向で私立に入ったのですが、そのお金は母の母から借りたのか出してもらったんだかしていたようです。どうも母は母の母からの金銭的援助はかなりあったようです。ちなみに母の母も、母の母の母からの愛情欠乏気味です。確かに今不況で私自身の家計は苦しいですが、いい歳してはいどうもと遣えるわけがありません。老後のためにとっとけと言いたいです。このような行為を受けるとき、とても苦しくなります。母はいつでも「行き届いたよく気がつく優しい良い母」なのです。だから責めることもできません。私は苦しくなるばかりです。ダブルバインドってやつに苦しめられているのでしょうか?そして、お金を与えることで代々何をしているのでしょうか?罪悪感を下の代に流しているのでしょうか?(私は子どもにこんな思いはさせたくありません)

998 Re:母子癒着とお金 kagewari 2009/03/25 07:39
>内容がちょっと変わるので名前も変えてみました。
とのことなので前後関係から切り離しで今回の文章のみで答えますが、問題自体は「考え方の対処」が重要なケースです。
実際に起きている話は”どれがどうということはない”もので、その前提となる背景事情との関係で体感上問題がやっかいになっているものだからです。
つまり、話の鍵は
「背景事情との関係で体感上問題がやっかいになっている」部分
となります、

この鍵がココでしょう
 ↓
>多分私の「母を見捨てる」罪悪感も減ってきて、対応も変わってきたため
ここで使用される同じ言葉が以下でも使用されていますね
>罪悪感を下の代に流しているのでしょうか?
共通して使用されている言葉は「罪悪感」です

さて心理学的にメンタルな問題があるときのベーシックな対処の原則は
「いい悪い」等の道徳的認知を使用不可とすることです、
理由は強迫意識や強迫構造は専らフロイド的には超自我である特権的無意識領域認知(道徳とか常識が格納されるロジック)との結合で力(自意識を抑圧する力)を発揮しますから、言語的に「一切使用禁止する」だけでも随分違うのです。
(おそらく相談のメールも”罪悪感”を使用禁止にするだけで書いている意識にも変化があったと推定されます)

つまり、この部分→強迫的意識が介在して話が認知上ややこしくなっているって事です。
重要な前提は
>実家にいる頃から家にお金を入れると言っても頑として入れさせてくれず、
ここですよ。
一見その意図は「自分は自立していない情けない人間」を回避するためで自立(自意識リードの自立的自我の意味もある)の方向を意図したように見えますが、ここには強迫意識的なトラップ(罠)が仕掛けられています。
思考の流れを無意識に誘導されてしまっている(自意識の思考が制限→間接的に抑圧が成立)。

何かといえば、現代社会で実家に暮らしているから家にお金を入れるなんて細かい事”自立している自我なら”それほど気にしないものだからです。
そもそも共同体における効率性から言えばたかだか光熱費・食費を入れたところでたいした額じゃ無いですし、仮に自分が年収1000万等の高額所得であれば尚の事「3万入れておこうか」に大した意味はありません(それこそ実家の資産が3億円となであば余計に)。
そこに意味があって、
しかもその意味には「情けない人間」の回避がある?
だとするとその反対は「立派な人間」ですよね、
しかし上記の事例年収1000万だと「3万を3億の実家に入れたから僕は立派だと安堵した」のはかなり非現実的ですよね。

パラドックスが隠れているの気がつきませんか?

つまり「少ない年収の子供でも就職後親にお金を入れる行為は立派だ」十分に道徳的意識が刺激されるロジックです。
しかもひとりぐらしにおいて”「母を見捨てる」罪悪感”まである。

冷静に考えればわかると思うんですが、
自立した人間の定義に微妙に道徳的干渉(強迫意識)が被っている。
故に
 ↓
未だに母親がお金を入れることが過剰に不快なのです。

例をあげて考えてみると簡単
年収1000万の社長職なのだが、田舎の親はなかなかその仕事で1000万も稼げると本気で信じて貰えず時折「月に1万とか3万とか入金してくる」。無碍にもできないので「ありがとう」と言ってお金は別に取っておいてある。「ま、いつか親が困った時でもあれば僕には貯金がありますからねとポンと返せばいいか」、
この話に登場する”年収1000万の社長”は自立できない情け無い男か?と考えてみるんです、
となるので、
現状の不快感のトリガーは”母親の入金”かもしれませんが、
不快そのものの原因は「自分は自立できているか」という言葉に隠れる「立派な子供(いい子的依存関係)」という深層心理だって事です。
現実ここは証明されていますから
 ↓
>多分私の「母を見捨てる」罪悪感も減ってきて、対応も変わってきたため
考えかたや見方を変えていけば、周辺の対応や自分の不快感認知も変化するって事です。


確かに現状の暮らしで個人的にも辛い状況かもしれないと推定される彼女(母親:夫婦の不和、姑の病気介護、母自体の母の母からの愛情欠乏などによる孤立状態)が大丈夫だろうかと思う気持ちも理解できますが、
この問題の解決は家族会議的な「政治問題(特に介護や不和)」無しには先に進みませんから(離婚とか)、こういう状況になんらかの力を行使できるためには「自分は大人(プレーヤー)である」的認知が当該社会に対し発言力伴う事が重要となります。

どっから考えても「それはともかく自分の自立はどうなのか」ここに尽きます。
(ここ金銭的自立とか全然違いますよ、あくまで心理的って意味です→前段の事例で高所得を使ったのは強迫意識に対する作為的カウンターであって”1000万の社長”には個別に何ら意味ありませんので)


ですから具体的対応としては
「ありがとう」とさくっと言って、
気になるなら専用の通帳作って一円も手をつけない(それこそ通帳には名義は関係無いですが勝手にマジックなんかで母親の名前を書くとか)、後は神棚にでも置いておくんですね。
真面目にシャーマニズム的心理効果狙って、神棚的認知のあるインテリアに入れるとかで「なんとなく手元から離れた」感覚も出てくるでしょう。
※日本の文化を積極的に利用してそのお金全額でその都度”お歳暮”で返すって手もあります(或いは”お歳暮倍返し”)
※全額ユネスコに寄付するって手もあります

ここですね
反対に言えば
「たかだか親が1万4万もってきた」からといって、警官が暴力団から賄賂貰ったワケじゃないんですから自立しているだろうか的要素がガタガタするぐらいなら”自立の認知がまだまだだ”って事ですよ。
「困った人だ、僕はいらないって何度言ってもスイカに塩かけやがる」
母親の入金もこの程度に認知できるように状況や前提条件を整理する事ですね。


実際にこの部分
 ↓
>お金を与えることで代々何をしているのでしょうか?
明らかに誇大認知や演出型の劇場認知入ってますよ、
「所得の再配分している」
これでいんじゃないですか?

昭和の強迫伝達・過干渉の道具には”買収”的に随分とお金も使われてきましたが、
これも「受け取る側の認識(それこそ小沢の献金ニュースじゃないですが)」を利用して初めて効果を生みます。
対象者が「いやーいつも助かりますよ気前いいねぇアンタ」であれば完全に無効です。
いかにも金品授受に過剰に意味があるように思ってしまっていますが、
その認知は「やりすぎ」ですよ。

賄賂性のあるお金を昔は「色の付いた金」なんていったりもしましたが、
警察官でも賄賂性認知における罪悪感を利用(受け取る側の心理や非合法である証拠能力)したもので、
「そのかわり、何かあった時は頼みますよ」があって成立しますが、
母親は特段そういう(色の付く)コメントしていませんから→「好きに使って」って意味で受け取って何ら問題ないでしょう。
(それこそ「あうんの呼吸」で、信頼できる弁護士とか司法書士を探しておいて、いざ離婚って時には即座に動けるように相談費用としてプールしておくって考えもある)
つまり、
受け取る側の心理として「気前いいねぇアンタ」で受け取って、相手側が何やら不快な言動があるとか「一言違う話した」とか反応があれば初めて”そのお金の裏(意図)取った”ことになりますよね。
そこで初めて「○○って事なら一銭も持ってくるな」と正式に断る事ができるんですよ。
そのためにも受け取る側の心理に強迫性が残っているのは得策じゃ無いんです。


心理学的にいえば、一種のコミュニケーションとして便宜性や利益性を表現するためにお金が使用されるのは、少なくとも欧米では一般的ですし(keep the change)、江戸前で言えば「釣りはいらねーよ」が粋ってものです。
強迫的認知のある関係性であれば、その認知の誇大性(偏向や反動形成)の分だけ金銭額もデカくなるって一面あるでしょうけれど現象単体で言えば大きな意味はありません。

実際
>私は子どもにこんな思いはさせたくありません
って、駄菓子買うお金ぐらいはあげてください、
違う意味で”こんな思い”してしまいます。
999 動機形成 トミー 2009/03/26 00:14
お返事ありがとうございます、と同時に、こんな茶番な投稿に返信していただいて、申し訳ないです。なぜなら、これは何度も何度もkagewariさんに繰り返し繰り返し分析していただいたところだからです。名前を変えてまで行動化しやがったくらいに思ってください!何年目か数えたくないですが、まだしばしばこうなります・・・。
最近はやっと幻破りができるようになりました。親や家族や過去や仕事や。でもやはり凄くつまらんなーとは思います。でも、それでもいいか、とも思います。そして突発的な行動はかなり制御されているので(ありますが医師に止められます)、自己責任が発生できているような気もします(止められてるならダメかも?)。その分進路などいろいろな決断に迷いが生じますが、以前は強迫構造下の迷いの無いオートマチックな行動が多かったはずなので、悪いことと捉えないようにしています。(家族歴等で器質性の診断ついちゃいましたが、それはそれで「劇場型でなく淡々と」薬飲むとして、自己分析は自己分析でとやっていますが、たまに頭がごっちゃになります)
今は動機形成を考えるのに困っています。最近、精神分析自体を動機形成にしそうなのです。それは良くないことでしょうか?
1000 Re:動機形成 kagewari 2009/03/27 15:13
それほど心配する事無いでしょう、
精神科の医師等の間では自己分析の危険性(医師が精神分析の研修する時の注意事項として)言及される場合ありますが、これは精神分析の学術的検証のような意味で(何らかの不都合や不快感に対する対処ではなく)自我そのものを解体的に自己分析する場合の話になりますからその趣旨違いますので、
同時に実際にベースとなる第三者の分析無しに自己分析してしまうと「単純に解釈間違えてしまう」要素もありますが、
この点はログを読んだ感じですと以下の内容は
 ↓
>最近、精神分析自体を動機形成にしそうなのです。それは良くないことでしょうか?
対処的に行われているもので(カウンターのルートのように)、精神分析としての自己分析過程としてはそれほど強いレベルにはなりませんから(テーブルに上がる事項が限定的になるため)、考え方としては「精神分析自体を動機形成にしそう」と考えないでください。

行為としてはむしろ「天邪鬼(あまのじゃく)的自意識の立ち上げ」に近いもので、
構造的に「精神分析はその理論武装に使われている」となります。

※又厳密に言えば言葉として「精神分析自体を動機形成にしそう」というのは意味合いとして成立しません。精神分析自体は無色透明で何ら志向性は無く精神分析によって”強迫認知から逆算される自意識の本音”が推定されるだけで、一見志向性に思える部分は「本音の回復」であって本音を回復する手法として精神分析が介在する(本音が何か推定可能な分析をしている)事になります。

合わせて補足すると、
上記は問題局面での話しになりますから、強迫意識や強迫構造が大幅に後退した後に自意識が確保する自由度は別次元となりますので(想定であるとか前提環境が変化するので)「将来の可能性としての本音」は推定不可能です(先の話になりますから)。
「将来なんてどうなるのかなんてさっぱりわからないものだ(様々な選択性が数学的にも無限に近く拡大している:純粋に数学的確率論)」を証明するのが精神分析とも言えるので(なので問題や不快感の対処では無く純粋に学術的自己分析してしまうと合理的に成立しているアイデンティティーも解体されるリスクはあります)、志向性を持ち合わせていないのは確かです。
岸田氏の「どうでもいいことなど何も無い」という言葉は(随分誤解されることが多いんですが)そういう意味です。

話は戻りますが「天邪鬼」って生き方は個性的なライフスタイルの中でも古典的なひとつですから、そんなタイプの人格を選択するのも自意識選択の中で自由ですし、合理性に何ら問題のない選択的アイデェンティティーとなり得るものです。
「天邪鬼(あまのじゃく)的自意識の立ち上げしている」と考えれば全く心配ありません、

各論コメントつけますと

>でもやはり凄くつまらんなーとは思います。でも、それでもいいか、とも思います。
強迫意識初の興奮ともなった快感依存(劇場型行為による興奮記憶の再生産:同時に正当性の確認)が無いと(或いはそのエスカレートの過程が無いと)、食い足りなく感じる。
※強迫意識はあるべき権利のように偏向認知されて初めて強迫なので”そうでない事”だけでもストレスになります、
(同じ依存症から例に取れば「又、一杯飲みたくなる」みたいな現象)
でも自意識の本音は「実際それを行為化したいなんて本音はどこにも無い」→「それでもいいか」
こんな風になっているって事です、

これは自意識リードの行為化が(動機形成が干渉されている)実績として積み上げられていけば(まだまだ数が少ないって事です)、
「事実は小説より奇なり現象(シミュレーションは常に抑制的である構造以外に、預言者じゃ無いので常に将来には未知数がある)」によって、自意識リードの動機形成における行為の方が、強迫的認知による強迫行為より実感として「面白い」事が体験として確認されますから、これは自意識リードであったり自意識マターの確立で自然に解消されます。
※強迫行為による興奮は脳内における記憶を構成するデフォルメされた興奮の再生産(や反動形成)なので、反対から考えるとデフォルメされていても想定(シミュレーションとは違うんですが)の範囲内に留まります(「やっぱりそうだ!」的興奮が主となるため)。
ですからナルチシズム的な興奮は伴っても「事実は小説より奇なり現象」は発生しない。
(強いアルコールを飲んでも所詮アルコールである)

「それでもいいか」で留まらずに、
「そんな筈無い”本音は他にある”」ぐらいの意識を保ってください。
(カウンターあてるなら「冗談じゃない”本音を摩り替えられてたまるか”」或いは「上書きされてたまるか」)


>そして突発的な行動はかなり制御されているので(ありますが医師に止められます)、
>自己責任が発生できているような気もします(止められてるならダメかも?)。
強迫的行動を「突発的な行動(事実上無理のある行動→転じて本音でない認知)」として確認できるだけでも自己責任は発生できますから(又”本音と違って”やるんか無意識みたいに)、ここもきっちり確認しておきましょう。

>その分進路などいろいろな決断に迷いが生じますが、
ここも大変”いい感じ”の兆候ですね、
考える過程こそ自意識マターであり、
典型的な慣用句的自意識マターのひとつは
昔のコントにあったベタな台詞ですが
「地下鉄にどうやって電車を入れたのか考えたたら朝になった」
のような世界で、
事実関係積み上げて考える過程がある事は”迷い”とは違います。

自意識の決断に対して強迫的干渉があって”迷う”現象がある場合には、決断にかけたコスト(時間や事実関係の積み上げ)がまだまだ不十分だったと考えればいいのです。
「鉄板の認識になるまで考える」
つまり強迫的干渉があった時点で「迷う前に一度全部チャラにする」事で、迷う過程から考える過程にフェーズを変化させる事ができます。
(決断に”スキ”があったのでインチキ野党から干渉が起きた、冗談じゃ無いので同法案は破棄。一から鉄板の法案を作成する事にした)
結果的には自意識マターの経験上積みにもなりますから一石二鳥です。
1002 Re:動機形成 トミー 2009/03/28 22:37
お返事ありがとうございます。

> 精神科の医師等の間では自己分析の危険性(医師が精神分析の研修する時の注意事項として)言及される場合ありますが、これは精神分析の学術的検証のような意味で(何らかの不都合や不快感に対する対処ではなく)自我そのものを解体的に自己分析する場合の話になりますからその趣旨違いますので、
強迫の抵抗による退行の危険じゃなくて、この場合はうまくまとまってたアイデンティティの解体の危険ってことですか?

> 行為としてはむしろ「天邪鬼(あまのじゃく)的自意識の立ち上げ」に近いもので、
> 構造的に「精神分析はその理論武装に使われている」となります。
精神分析はツールってことですね

> ※又厳密に言えば言葉として「精神分析自体を動機形成にしそう」というのは意味合いとして成立しません。精神分析自体は無色透明で何ら志向性は無く精神分析によって”強迫認知から逆算される自意識の本音”が推定されるだけで、一見志向性に思える部分は「本音の回復」であって本音を回復する手法として精神分析が介在する(本音が何か推定可能な分析をしている)事になります。
もともとシニカルな性格なのと精神分析とか心理学に親和的な専攻のせいで、自分の状態に好奇心を持ってしまったのです。前からその節はあるのですが(だからついこの掲示板に来てしまうのですが)それで動機形成を精神分析にしそう、という言い方をしてしまいました。

> 合わせて補足すると、
> 上記は問題局面での話しになりますから、強迫意識や強迫構造が大幅に後退した後に自意識が確保する自由度は別次元となりますので(想定であるとか前提環境が変化するので)「将来の可能性としての本音」は推定不可能です(先の話になりますから)。
> 「将来なんてどうなるのかなんてさっぱりわからないものだ(様々な選択性が数学的にも無限に近く拡大している:純粋に数学的確率論)」を証明するのが精神分析とも言えるので(なので問題や不快感の対処では無く純粋に学術的自己分析してしまうと合理的に成立しているアイデンティティーも解体されるリスクはあります)、志向性を持ち合わせていないのは確かです。
> 岸田氏の「どうでもいいことなど何も無い」という言葉は(随分誤解されることが多いんですが)そういう意味です。
志向性が無い・・・ですか。とても現代的な感じですが・・・。乱暴な言い方ですが、うまいこと合理的にアイデンティティー形成しちゃてる人のほうが幻見てるんじゃないの?って最近思うのはこれですかね。「将来の可能性の本音」は分からなくても、「今の本音」は「なんとなく不快ではないのが良いな」くらいのもので、それが続くのが「将来の可能性の本音」で、合理的に成立しているアイデンティティーとか「将来の可能性としての本音」ってものを理想化しすぎているかもしれません。問題局面での「本音の回復」はとりあえずあの辛い鬱を・・・とか親子関係が・・・とか明らかな「不快をなんとかしたい」って回復という目的が分かるのですが。

岸田氏の言葉はちょっと難しいです。全部A(どうでもいい)なら逆に全部B(どうでもよくない)だしA=Bってことでしょうかね・・・??????

> 「それでもいいか」で留まらずに、
> 「そんな筈無い”本音は他にある”」ぐらいの意識を保ってください。
はい、ほんとうは「それでもいいか」ではありません。実はもっと現実において「充実とか実感」がほしいです。←でもこれがそもそも食い足りない強迫ですかね、「なんとなく不快ではない」現実の中、小説より奇な「未知数」の楽しさを噛み締めるべきなのかもしれませんが、現実を理想化し過ぎでしょうか?上記の本音の話のように。まだ想定の範囲内の派手な興奮を求めてしまっているのかもしれません。

> 事実関係積み上げて考える過程がある事は”迷い”とは違います。
> 「鉄板の認識になるまで考える」
これをしていたつもりでしたが、レスを拝見して自分がまだ「迷っている」のか「考えている」のかさえ自信がなくなってきました。見分けがつかないです。強迫的干渉なく自意識マターで考えていれば「考えている」ですよね。事実関係とは?私が見ているものが幻なのかどうか自信が無いです。
> つまり強迫的干渉があった時点で「迷う前に一度全部チャラにする」事で、迷う過程から考える過程にフェーズを変化させる事ができます。
チャラにするってどうやるのでしょう?

1003 Re:動機形成 トミー 2009/03/28 22:38
書き忘れましたが、「問題局面での本音の回復」と「将来の可能性としての本音」の書き方が曖昧だったため1001番を削除しました。ごめんなさい。
1004 Re:動機形成 kagewari 2009/03/30 00:55
>強迫の抵抗による退行の危険じゃなくて、・・・

ここは自意識がトラブル認知しているとか
プラトン流の常識を疑え的な哲学論争中なら自意識が幻想解体における保管要素を元々持っている事になります。
或いは最初から心理学専攻であるとか、
心理学・精神分析に興味があるとか、フラグが立っていれば全く問題無いのですが、
ちょっと言い方簡略すぎますが、
「何かに使えるだろうと思ってスキルのように精神分析を受講して安易に自己分析始めてしまう」
こういうケースだと、
そもそも何故自分は医学部受験したのかとか、医者を志望している理由とか、
或いは保守的美意識まで”何ら準備無く”解体されることがあるんですよ。
(ある意味ここがフロイド心理学がメチャメチャ枝分かれしちゃった理由でもあるんですが)

そもそもアイデェンティティーの過半は、合理的アイデンティファイ(帰属)を基礎とするので、
所属共同現象社会に対して合理的親和性がある場合、
表現は乱暴なんですが「無理なくアイデェンティティーも実存している」ことになります、
このアイデェンティティーは当然幻想ですが合理的選択(構造的な矛盾は無い)なので、自意識でいつでも改革というか変革も自由なんですが(哲学的に”いやこう生きるべきだ”と何時考えても何ら問題ない)、
その着想(アイデア)も自意識選択なんですよ。
わかります?
自意識がフラグを立てていればオルタナ定義のように、何らかの他の道へのイメージが準備されますが、何不自由無く進行中で特別心理学の知識が事前に無い場合(これが又精神分析ってものを”事前”にどんなものか理解するのはなかなか無理な話なので)突発事故も起こりうるって事です。

不快感やメンタルの問題が表面化している場合、自我では強迫意識と自意識の葛藤が激しく進行中ですから、事前に「抑圧される本音」が「弾圧される民族さながら」に事前に存在しますから”強迫認知の解体”で何ら問題無いのですが(しかしこの場合でも強迫意識の保守における抵抗が派生します)、しかしこの感情的同様や興奮は自我内闘争といいますか、「睨み合いから掴み合いの喧嘩に以降」したようなもので、抑圧されている自意識をサルベージすると「望むところだ」なんですよ(依頼や相談の時点でこの選択が行われている)。

ここは精神分析における非常にやっかいな部分でもあるので、あまり詳細突っ込んで説明しませんが(心理学の講義になってしまうので)、恒常的に精神分析が誤解され続けていく性(サガ)みたいな要素でもあるのです。
専ら精神分析はその知識や洞察が「しょうしょういい加減でも」利害関係の無い第三者が行うことでアプローチの内容が担保される側面を持ちますから(ある意味主役は”受け取る側”であるのと同時に分析は占いじゃ無いですし、情報を前提とした根拠無しに結論が断定される事も無く”投げかけ”として行われるのでコミュニケーションの中で修正され確度が上がって行くのもです→実際に発言された範囲を超えることが無い→無い話をどっかからもってくる事が無い。強迫意識に対する対抗軸を作る事が重要で”特定の志向性が無い”というのはこの部分でもそうなのです)、考えようによっては産業カウンセラーの育成は簡単と言ってしまえば簡単なのですが(あくまで考えようであって運用としてですよ。現実は簡単なものではないのは言うまでもありません。ここも説明やっかいなんですが運用面における理論的背景は簡単なのですが実際には難しいと、人材適正含めて精神分析の特異性がここでも関係しています:逆さまに言えば自己分析が可能な側面でもあります)、

学術的に精神分析をガチっとやるのは適正において非常にやっかいなのです、
実存主義的人格であるとか、アングラ系というかサブカル系というかですね、そのなかでもアウトサイダーに最も適正があるのは、アウトサイダーにおける極度の第三者性(共同幻想との親和性がはなから存在しない)によるのであって(フロイドがユダヤ人であった部分はかなり大きな要素でしょう)、自己分析のリスクってこの辺の論議に関わる話なんですよ。

確かに自己のイメージのなかで自意識には常に第三者的認知がありますから自己分析は可能です、
しかし、これは相当タフな自意識じゃないと、無意識に恣意的選別が行われる場合ありますし(それこそ分析者は小泉じゃなりませんが”聖域無き”なスタンスが必要なので)、うっかり合理的親和性が担保されている部分まで準備無く解体して(再定義はいつでも可能なんですが時間かかります:タイムラグとしてのすき間)「何か別の話になってしまう」こともあるって事です。
いいっちゃいいんですが、
それが自己を特定しているコアな要素になると(強迫意識はその構造事態が似非である事が自意識との矛盾関係によって論証されてますから別なんですが)統合の鍵をうっかりすっ飛ばしてしまって(抑圧ではなくて)→何不自由無く暮らしている人の安易な自己分析は仮想的な急性鬱が発現するリスクがあるんですよ→タイムラグ的すき間リスク(メンタルに悩むなどの経験が無いために:予備的に自意識がこれと格闘してきた経験が無いため耐性が無いといってもいいかもしれません)。


>乱暴な言い方ですが、うまいこと合理的にアイデンティティー形成しちゃてる人のほうが幻見てるんじゃないの?って最近思うのはこれですかね。

ここも言葉を選ぶ必要あるので難しい部分あるんですが、半分ぐらいは前段で説明したとおりです。

そして社会的合理性が担保される共同幻想(幻想ですよ)と親和性のあるアイデェンティティー
当然そのまま幻想です、
この”幻想”の意味ですが
フリーソフトじゃなくて、市販のパッケージソフトなんかのGUIっていうのは「この仕様が便利だろう」との想定される共同認知というかシミュレーションによりますよね(産業デザインなんかもそうですが)、
それはデフォルトだがマストじゃない、ベターである保障も無い、
しかしソフトの開発者の意匠の範囲に入る以上その状態はかなり効率のいい状況には違いない。
そしてその状況と親和性のあることは「幸い」って言うと語弊あるかもですが幸いな様子なんですよ(笑
「効率よく使ってます」という言葉は幻想ですが合理性が社会的に担保されている事に違いは無い。

しかし、徹底的にカスタマイズする人もいる(自分の個人的用途に特化させる)
元からフリーソフトを探しまわってな人もいる、
極端な話自分で開発する人もいる、

どっちがどうとかこうとかじゃないんですよ。

どっちのソフトを使用しても、その結果には操作した人物の著作権(自己責任に担保される所有権)が成立するので、

なんといいましょうか、
アイデェンティティーなるものもひとつの「生きるための方便」に過ぎませんから、

それぞれスタイルがあるって事です。

しかし強迫的な幻想である場合
「こうに決まってます」同時に運用上もストレスが過大である場合、
その幻想は共同幻想も幻想であるが故に助長されていく側面と、その可能性(の高さ)を精神分析は『唯幻論』として説明しているんです。
どうして容易に自意識がこの問題に気がつけないのか?その理由と同時に強迫的認知が見方を変えれば「こんな環境であれば誰しも強迫的認知に囚われてしまうんだ」という根拠ですね。
メンタルに不快感や問題を抱えていない人格だって『共同幻想』は無意識であって自覚的では無いという発見ですね、
ここは誰しも幼児期に自意識によって合理性が担保されるのではなくて、多分に所属する社会性の流れ(文明論的な)で担保されているので(それこそ共同幻想の機能性)、事自分と関係の無い所属社会(この場合圧倒的多数が”家族のバンド”)にこれを担保する力が備わっていないと、これに幼児が個人で対抗しろといっても到底不可能なワケです。
しかし、ここを論証する上で「大人であればどうか」となります。
(これは単に年齢ではなく共同幻想の中に”幼児””子供”なる限りなく差別的(抑圧的)属性認知がこれまた共同幻想として成立している側面も多分に影響しています)
ですから大人として再解釈(記憶の時間軸に再び当事)する事が問題解決への対抗軸であり、
思考を進める上での情報取得や認知が強迫性で偏向しますから、分析による現実認知の回復や情報提供が”とっかかり”になります。

ひとつの方向性として(志向性じゃないですよ)構造的に、精神分析が「一度実存主義的自我を経過する」のは間違い無いのです。
(ある意味”反抗期”の精緻な分析として「それは実存主義的過程だ」という推定が論証されたような意味です)
その後の人生選択が「共同幻想適応型」なのか「独立自立系」となるのかを志向する事はありませんが、どちらにしても文明化された先進国の自我形成のプロセスとして自覚的選択は将来的には社会全体において必須となるので、
その契機が社会全体に及ぶより前に早期に発生しているとも言えるワケで(共同幻想を鵜呑みにするような”共同幻想”は既に崩壊している)、
決してメンタルな問題の派生が特異って事もありません。文明論的には過渡期の社会現象として必然でもあるのです(つまり精神分析の社会的認知も同時併行として過渡的にならざるを得ない)、

それこそマイクロスフトのOSの在り方に論議があるように、
共同幻想そのものが批判的視点で見られる共同幻想が台頭するのが社会現象として自然であるので、
共同幻想適応性のある自我形成の形も変化の過程にあるのも確かです。
(しかしこれは時代やその課程でそうなのであってウインドウズ95登場の社会現象を幻想でありナンセンスであると論証する事にはならない)

ここ話始めるとほんとに論文並みになりますので、この辺にしておきます。


>「将来の可能性としての本音」ってものを理想化しすぎているかもしれません。

ここは理想化しないように注意してください。
「そこには自由気ままがまっている」ぐらいのものです、
白紙ですから、
その時何の字をどんな字体で書くのか?
これはその時考えればいいことですからね、
わかっているのは、ひとつのアイデンティファイとして
「自分は強迫意識から抜け出した生還者だ」って経験と記憶ですね(ここも後に薄れてくるんですが)
前述の一般的な共同幻想そのまま親和型の人達の考える”ルート”ってものが、それほど話を聞かなくてもわかってしまうようにもなりますので、
獲得される白紙度としての自由度は生還者の方が大きいのは確かです。


>全部A(どうでもいい)なら逆に全部B(どうでもよくない)だしA=Bってことでしょうかね・・・

ようはPCは動けばいいだろうって話ですよ、
或いは自転車は走ればいんだろです、
その主体に動かす意思があれば、
動機形成の主体の実存以外は単なる手法に過ぎないので、
その手法を個人的美意識で信念レベルに昇華させても自由だし、
これを方便であると、手を変え品を変えでも構わない。
(ここも先ほどの精神分析のやっかいな問題と関わるんですが)
政治において目的は国民の需要にこたえることであって、精神分析的には「社会主義だろうが自由主義だろうがどっちでもいい」のです。
精神分析そのものに志向性無いですから、
(当然社会心理として社会主義が選択される分析も自由主義が選択される分析も可能なのですから。そして文化人類学的側面含めて”どうなるのか”みたいな分析も可能なので自然な方向性の推定は可能ですが(政治の志向性は事前にハッキリしているので)これは分析の結果による予測であって精神分析それ自体に志向性があるのもではない)
「○○!!絶対○○じゃないといけない!」な状況が、全く社会と論理矛盾の中で強引にな場合で、
それが何故かと依頼がある場合、、、
わかりますよね?
効用っていうと変かもしれませんが、精神分析は「それが何が原因でそして」とこれを分析可能です、
ですから異邦人のようにフラ〜とやってきて「この国の○○は○○が○○で・・・」とサクっと分析してしまうことが何か・・・
この辺察してください書くと大変なので、

だからこそ「どうでもよくないことなどない」という(笑
実は言葉として一部破綻と同時にパラドックスでもあるんですが(分析者にもこの言葉は向けられている)、
なんでしょうか精神分析における矜持のようなものですよ。

シューシュポスの神話じゃないですが、
そこで悪戦苦闘というか、試行錯誤し、
『我思う故に我アリ(cogito ergo sum)』
確かなのはここなんです。
(ですから余計にそれが阻害されたり不当に干渉を受けたりするのが問題であると)

>小説より奇な「未知数」の楽しさを噛み締めるべきなのかもしれませんが、現実を理想化し過ぎでしょうか?上記の本音の話のように。

いえいえ、
現実をなめているんですよ。
或いは現実(独立する自分や自意識の本音を含む)を蔑視しているんです。
(誇大であったり過剰に理想化すると構造論として現実は相対的に下層になる)
強迫意識特有の特権階級意識(とその背景のナルチシズム)
昭和のベタな台詞で恐縮ですが
「大人は汚い(ズルい)」(ここに自分の大人も含まれちゃっている)


幻想を幻想のまま追い求めれば幻想確定なんです
(似非の代名詞でもある現実”的”であることに拘るだけで現実から乖離する→しかも暗韻としてその”現実的”なる志向は強迫されナルチシズムが興奮するぐらいデフォルメされ誇大な”現実離れした幻想”である)

幻想かもしれないけれど、その答えを現実(自己責任的著作権であり所有権)に求めるからそれは現実化という”プロセス現実”なんです
(抽象概念としてのリアルって意味じゃないですよ→そっちの話はイデアがどうこうってことなので)

ある意味前段の説明と関係しますが、
その初段が幻想であってもその幻想が社会における合理性が担保され自意識の自由度が確保されていれば(合理的親和性)成果品は著作物であり所有権もあるんです。
しかしここに所有権(自己責任)が派生しない幻想に対する『被(こうむる)』という構造の図式にある時そこには当事者が存在しなくなってしまうんだと(幻想に対するパッシブでありリアクションですから主格が幻想の方になる)、


>事実関係とは?私が見ているものが幻なのかどうか自信が無いです。

似非は似非、インチキはインチキです
「家族の誰かが悪い人だ」
これどんな状況で誰が発言しても似非でインチキです
普遍的にいい悪いなんて現象は存在しませんし(それこそ究極社会的道徳だって幻想です)、いい悪いなんてのは基本的に相対的なものであって現象面の話です(タバコは身体に悪いみたいに○○にとって○○は性能評価として○○だという論評)
「一体何が起きたのか」
事実関係とはジャーナリズム的視点により担保されるニュートラルな認知の事で、
何がどうたらとか余談を一切廃した(聖域無く)視点ですから、いい悪いなんて表現は言葉として使用されること自体がナンセンスです、
ドキュメンタリー映画とは「その功罪を問いかける」ようなものであって、考える”とっかかり”に過ぎません。
そこに結論めいた余談があれば、そのドキュメンタリーは「プロパガンダ」であり「洗脳映画」であり「デマゴーグ」ですよ。

「○○は○○をした、何故なら○○は○○であり○○だったから。○○にとってそれは○○であり○○である時それが○まるなんだとしたら、それは○○が○○であるようなものだっただろう。確かに198○年○○の言動には・・・」
こういう認知の事です。
「○○は○○をした、○○は悪い許せない」
これじゃ事実関係じゃありません

進路を考える場合でも
「一体何が起きたのか」のように
「そもそも進学とは何か?」
ここですね、原理主義的に考えれば「人類にとって学問とは何か」から考えたっていい話で、
「○○は○○をした、何故なら○○は○○であり○○だったから。○○にとってそれは○○であり○○である時それが○まるなんだとしたら、それは○○が○○であるようなものだっただろう。確かに198○年○○の言動には・・・」
みたいな積みあげをどこまでやっているのかって事です。
(ここが共同幻想親和性との関係で非効率もあるって論議です→幻想的認知に強迫性があって頼りになるどころか偏向しているんですから、共同幻想が簡単に提供してくれる常識なんかを一から全部考えるぐらいの勢いが必要になる)

>チャラにするってどうやるのでしょう?

簡単ですよ「もとい」と言えばいんです、
極論「ワリィワリィ、全部間違いだった」と言えばいんです。
”全部”ですよ”全部”
だから「日本の政治ひいては世界の社会情勢から一から考え直す」って事です。
進学に関係する様々なキーワード全部です、
「経済・政治・国際関係・文化・メディア論・世論調査」
その理論武装となる前提を一から全部自分なりに考える。

デカイ前提条件に強迫意識は干渉できません。
これ構造的にそうなんです、『被(こうむる)』として自分が個別に関わる部分にしか共同幻想は干渉できない。
しかし思考の枠組みって何ですか?
大きな前提条件を無視して考えるなんて事はできない。
なので政治経済学部や文化人類学部の卒論並の論議を考えるって事です。
必要があれば自ら情報を集め、報道含めて様々な論議を参考にし、

自分の進路を説明する時の最初の言葉を
「この21世紀の世界環境を考える上で」みたいな大上段から始まる台詞が書けるだろうかってところです。
(一種のカウンター的手法)
”迷いか考えか”そこもあやふやだって時にはコストかかりますが、この手法で強迫認知を強烈に排除できます。

加えて重要な鍵は
「実行と結果」じゃありません、
(そんなものは後小説より奇なハプニング要素も含んでからついてくるもので、著作権や所有権とも別論議)
どんだけ強烈な動機形成のプロセスに投資したのかって事です、

アメリカ大統領なんてその演説ひとつで歴史的評価が変わってきます、
いかに「cogito ergo sum」が重要なのか、
何をしようとしたのかの動機が曖昧なのに結果だけしっかりしているなんて事ある筈無いんです(何をしようとしたのかが不鮮明なのでこれを評価する尺度も同時に不鮮明になる)。
 ↓
>でもやはり凄くつまらんなーとは思います。

12番レースに100円賭けて、
その結果の重みは(勝ち負けは無関係なのもここで論証可能)?

12番レース一点買い100万円の思考
その結果の重みは?

100円(思考時間10分参考文献無し)
100万円(思考時間1年参考文献20参考web1万ページ:事実関係の積み上げ)

チャラにする→「12番レース○○は勝ちそうだから100円」→「全部間違いだった」
そこから調べ始めるんですよ
競馬とは何か?サラブレッドとは何か?出走場のDATA・・・
自分の手持ちは同じ100円かもしれません、しかしその後の100円は100万円の人件費コストになりませんか?
この勝負を
「凄くつまらんなー」
現実なめていると感じません?
同じ100円の賭けでもそこに自意識がどう関わったのかで手に入る現実は天と地ほど違うんです。


これを覆す手法はあるんです、
>>一度全部チャラにする
>>一から鉄板の法案を作成する
繰り返しになりますが
1005 Re:動機形成 トミー 2009/03/31 23:29
お返事ありがとうございました。
精神分析の話、とてもよく分かりました。

> 不快感やメンタルの問題が表面化している場合、自我では強迫意識と自意識の葛藤が激しく進行中ですから、事前に「抑圧される本音」が「弾圧される民族さながら」に事前に存在しますから”強迫認知の解体”で何ら問題無いのですが(しかしこの場合でも強迫意識の保守における抵抗が派生します)、しかしこの感情的同様や興奮は自我内闘争といいますか、「睨み合いから掴み合いの喧嘩に以降」したようなもので、抑圧されている自意識をサルベージすると「望むところだ」なんですよ(依頼や相談の時点でこの選択が行われている)。

そうですね、依頼や相談って大きな選択ですよね。抑圧された自意識が耐えきれなくなって一瞬現れる瞬間でしょうか。

> 学術的に精神分析をガチっとやるのは適正において非常にやっかいなのです、
> 実存主義的人格であるとか、アングラ系というかサブカル系というかですね、そのなかでもアウトサイダーに最も適正があるのは、アウトサイダーにおける極度の第三者性(共同幻想との親和性がはなから存在しない)によるのであって(フロイドがユダヤ人であった部分はかなり大きな要素でしょう)、自己分析のリスクってこの辺の論議に関わる話なんですよ。

私は昔はアウトサイダーの自覚が強迫構造下のボロボロ状態を「これでいいんだ、だって私はアウトローだからさ」という強迫の言い訳に使って時期もありましたが、どちらかというとアウトサイダーというよりただのコンプレックスかもしれません。
> 獲得される白紙度としての自由度は生還者の方が大きいのは確かです。
そう考えると
> 「自分は強迫意識から抜け出した生還者だ」
って人のほうがやりやすいかもしれませんね

> それが自己を特定しているコアな要素になると(強迫意識はその構造事態が似非である事が自意識との矛盾関係によって論証されてますから別なんですが)統合の鍵をうっかりすっ飛ばしてしまって(抑圧ではなくて)→何不自由無く暮らしている人の安易な自己分析は仮想的な急性鬱が発現するリスクがあるんですよ→タイムラグ的すき間リスク(メンタルに悩むなどの経験が無いために:予備的に自意識がこれと格闘してきた経験が無いため耐性が無いといってもいいかもしれません)。

「タイムラグ」というのは私には理解が難しいですが、『望むところだ』状態でもあんなに抵抗したり退行したりするわけですから、これは大変な事態だと思います・・・

> だからこそ「どうでもよくないことなどない」という(笑
> 実は言葉として一部破綻と同時にパラドックスでもあるんですが(分析者にもこの言葉は向けられている)、
> なんでしょうか精神分析における矜持のようなものですよ。

岸田氏の言葉も感じが分かりました。際限なくタフですが際限なく懐の深い言葉だなと思いました。

> 幻想かもしれないけれど、その答えを現実(自己責任的著作権であり所有権)に求めるからそれは現実化という”プロセス現実”なんです

そうですよね・・・まだ幻想なのか現実なのか?ってところばかり考えてしまいます。でもそうやって考えると現実から乖離するんですよね?↓

> 事実関係とはジャーナリズム的視点により担保されるニュートラルな認知の事で、
> 何がどうたらとか余談を一切廃した(聖域無く)視点ですから、いい悪いなんて表現は言葉として使用されること自体がナンセンスです

幻想(悪い)なのか現実(いい)なのか?って考えている時点で余談ですよね

> しかし思考の枠組みって何ですか?
> 大きな前提条件を無視して考えるなんて事はできない。
> なので政治経済学部や文化人類学部の卒論並の論議を考えるって事です。
> 必要があれば自ら情報を集め、報道含めて様々な論議を参考にし、

まずこちらありきなんですよね。この考え方、とても参考になります。
私は現実的な悩みに対処して考えているうちに、観念的になっていって訳が分からなくなって、結局問題に対処できてないことが多いです。今回の現実なのかな?幻かな?のように・・・。
地図を細かく見なきゃいけないのにだんだん俯瞰になっていって「見えないよー!」って言ってる感じです。タチの悪い時は俯瞰でたまたま見えたもの(例えば大陸が○○とか)を「大陸は○○なのだ」みたいに言って、なんとなく凄く考えたつもりでいます。これがいちばんタチ悪いです。これも逃避パターンでしょうか。

> デカイ前提条件に強迫意識は干渉できません。
> これ構造的にそうなんです、『被(こうむる)』として自分が個別に関わる部分にしか共同幻想は干渉できない。

すごく分かりやすいです。

> 何をしようとしたのかの動機が曖昧なのに結果だけしっかりしているなんて事ある筈無いんです(何をしようとしたのかが不鮮明なのでこれを評価する尺度も同時に不鮮明になる)。

そうですね、私は今まで何回も強迫構造下の変な動機で失敗してます。面白いことに、自分でやったという当事者意識が無いから、本当に今振り返っても記憶が薄いんです。

> 加えて重要な鍵は
> 「実行と結果」じゃありません、
> (そんなものは後小説より奇なハプニング要素も含んでからついてくるもので、著作権や所有権とも別論議)
> どんだけ強烈な動機形成のプロセスに投資したのかって事です、

ありがとうございます。でも、また上記のような痛い思いをしたらどうしようという恐怖があります。でも具体的な思考のプロセスをこれだけkagewariさんは書いてくださったのだから。痛い思いをしたらまたチャラにして考えます。

> 「凄くつまらんなー」
> 現実なめていると感じません?
> 同じ100円の賭けでもそこに自意識がどう関わったのかで手に入る現実は天と地ほど違うんです。

そうですね、私はまだ油断をすれば強迫構造に戻ってしまう緩い地盤で、やっと自意識が自発的に考えはじめたばかりで、でも恐怖心から「それ以上考えるのをやめて」そして昔の幻も無く殺風景だなーと言っていました。
やっと幻破りをしたのに、自意識で動機形成してまたいろいろ幻滅したら、また悲しいんだろうな・・・とか。安心とか、平穏とか、欲しいけど、ほんとに現実で取りにいけるんかなとか。前にkagewariさんが、自意識が強迫に干渉されずに自発的に考えられる場所が安心できる場所、というようなことおっしゃってました。でも、私はそんなにタフになれるだろうか?まだ理想化した母のような人肌を求めてるんじゃないかとか。いつもの内向パターンに陥ってました。
強迫構造下の動機は、考えなくてもやって来てました。現実もやって来るもしくはあるのかと思ってました。でも、「白紙な感じ」が強いからか、あるって感じでもない、取りにいくって感じがします。
幻破りも現実も厳しいですが、自己責任を手に入れた(まだ怪しいけど)ことに自信を持って、気合い入れて考えてみようと思います。


1006 Re:動機形成 kagewari 2009/04/01 21:53
ちょっとだけ補足しますが、

認識が(現実に)及んでいないんですよ、
解釈と言うかロジックとして

>まだ幻想なのか現実なのか?ってところばかり考えてしまいます。

「○○が○○って、○○が○○して、現在○○の情勢が○○だってこれが現実なんだから私は」
主語の構造がこうなっているかって事ですよ。
存外この辺は簡単に確認できます、
自分で「○○が○○・・・これが現実」って台詞になっているかって事です。
仮にその判断間違っていた場合、このプルーフも実に簡単です、
自分で現実だと言い切っている定義が明快なので、友人関係でも仕事関係でも
「その○○の判断は違うよ」「面白いこと言うね一理あるようん」等々
それこそ現実によりプルーフされますから、
(なので社会との外的関係が重要になります、それが自己陶酔的ナンセンスか論旨と定義が社会的にも担保できる現実なのかここで判断されますから)

一番話を簡単にすると
「僕は○○で○○をやります。だって(以降現実定義の論旨説明)」
「君ね、それは夢物語だ」
で、この社会的プルーフに対してその精度に疑義がある場合
「やってみなくちゃわかりませんよ」と、
これ現実で勝負して実績あげれば簡単に証明できます。

そういうプロセスかって事ですよ、
上記の事例で言えば、どんだけ「それは夢物語だ」といった人物に激怒したところで何の意味もありませんから、
まー腹立つ分「なんだコラ」とかそういう反応は自然ですが、
限りある人生ですから→時間の無駄なので動機形成はとっとと先行く方がいいですからね。
実際やるかと行動にうつした方が早い。

これが”動機形成”のプロセスです、

つまり
「幻想なのか現実なのか?って」
こういう言葉になる話じゃありません。
自分は「○○が○○って、○○が○○して、現在○○の情勢が○○だってこれが現実」、
何を根拠にしてどんな着想(アイデア)でどんな論旨の現実論を語るかって事ですから、
どんな現実論で勝負するのか(賭けるのか)って意味ですよ。
賭けですから結果が出る前からそれが実現するのかみたいな話ばっかり考えていたらそれもひとつのナルチシズムだって事です。

「○○は○○である」この論旨はどうだろう?
こういう具体論で朝まで考えるのとは構造が違っていることわかりますよね。



(この辺でほとんどの質問の答えになっている筈なので)
他各論としては
>「タイムラグ」というのは私には理解が難しいですが
この事例は心理学に事前の知識の無い人が、漠然と精神分析の手法で(何かの理由で研修みたいに突然それをしなければいけなくなってみたいに)自己分析した場合のリスクの話ですから、
直接今回の論議と関係ありませんが、こういうことです。

共同幻想と親和性があって合理的に自我に取り込まれている場合、効率化(そもそも共同幻想が社会学的にいっても合理的な存在である所以ですが)が必ず付随するので「何故TVは写るのか」みたいな定義に関しては省略されているんですよ(説明者と社会との関係において正当性が担保推定されいてるだけでTVが写る科学的説明まで求めなくてもOKがでている)。

ですからその信頼感(自我が合理的選択であると認めた論旨)が、うっかり自己分析で解体されるとですよ、
このケースはメンタルに何ら強迫的な問題が無い場合の話ですから、当該者の認知も「あれっTV写るって自然な話だよね」に違いは無い。
ところが突然「何故TVは写るのか」が(合理的選択モジュールが解体されて)瞬間不安になってしまった場合ですね、
極論「科学的にTVが写る理由」から考えなくちゃいけないんですよ。
或いは急いでウィキペディアでTV調べたり、
で、「あーそうなってんの」と最認知行わないといけない。
(共同幻想は連想性で、そう言う親はそこそこ社会的一般人である、この家族バンドは社会と合理的に関係している、友人等の他者と十分話が合っていてなんら不都合が無い→「ほら○○だからTVは写るのよ」を一発認定で”そうか”と思うわけで)
精神分析は、「○○な部分は何ら現実に担保されていないが、任意に(自分の社会的属性とかで)ま、そうであると認知されて常識化した」とここまでいっちゃいますから、心理学や社会学の知識がないと(それでいんだよなみたいに)「はいはいなるほど」で済まない場合もあるんですよ。
そもそも合理性の根拠である連想ロジックとかは、当然無意識なので自分じゃ具体的に語れないんですからね。

その意味で、メンタルに問題があって強迫的認知に悩んだ経験があるのと状況が違うって部分を説明したんです。
後者の場合、葛藤として完全じゃなくても間違いなく自意識の本音が抑圧されれつつも同時進行で走っているので、強迫の解体は=抑圧された自意識の台頭となるからです。
(自意識の準備不足であるとか理論武装の遅れであるとか、強迫保守の抵抗等は個別に発生しますが、何ら運営上問題が無い自我の”うっかり自己分析”のようなリスクは無いって事です)

この”うっかり自己分析”タイムラグのもっとも近い例は
いつもならスラスラ漢字を漢字テストの時に「あれこの字でいんだっけ?」と思った瞬間、
何度書いても変な字に思えて、忘れた筈じゃないのに何故か書けなくなるような事例です。
(正解の漢字を見ると瞬時に「そうだよなんだあってるじゃん」のように認識は回復する→何故TVは写るのかみたいなサクッと正解を確認できない話になるとロジック回復に相当時間がかかる)



>また上記のような痛い思いをしたらどうしようという恐怖があります。
これは論理矛盾なんですよ、
現実世界の”賭け”には、極論失敗など一切ありません。
答えは簡単です、
「悔いの無い挑戦」であればいんですよ、
(ここを説明する上でも現実に賭けるコストの話したつもりです)

徹底的に考え抜いて、
ここで勝負と「なんかインチキかもな通信販売の商品買った」としてですよ
大失敗したら”大笑い”するところですよ。
それこそもうちょっと大きく人生の選択である場合
「たかが人生」じゃないですか(笑
好きに生きるところが面白いのであって、当然自由の権利として失敗リスクも『成果』として折込済みで、
ある意味「人生の大失敗」ほど面白い話ありませんよ、
逆さまに言えば、人生の大失敗を大笑いしながら話せる人物ってのが「人間が大きい」とかって言葉になるのであって、

それが戦争のような災禍で、人生かけた復讐戦が”賭け”として必要なら話は別ですが、
或いはふって沸いたような侮辱であるとか屈辱的経験であれば話は別ですが、
このようにその後それが復讐戦やルサンチマンとなる構造は全て『被(こうむる)』であって、
※参考:”幼児期”とは人類ヒト科にとって最も『被りやすい』環境

そこに自発的選択可能性がある場合、
自発的可能性の選択が仮におろそかになる事こそ「本当の後悔」になります。
(結果失敗してもそれがその時の自分の賭けであるなら後悔は発生しない)
「戦争反対を発言しなかった」「軍の暴走を指摘するべきだった」「家族に避難を勧めるべきだった」
「こんなバカな会社とっとと辞めるべきだった」「嫌な予感がした時に○○って手があった」
「あの時はダメだったけれど、経験積んだ今なら結果は違うだろう」
仮に後悔があっても
反省ってプロセスがあります→省(かえり)みることで自動的に選択の間違いがその数だけ減少する。
つまり後悔があっても只では転ばないのが人間です。
仮に反省プロセスに考えが及ばない場合でも(どうしても抗する方法が無かった等)、
「二度と御免だ」とこれを信念としてその後の人生を選択する、
或いは上記にあるように「宣戦布告し復讐戦に挑む」って人生もあるでしょう。
しかし後ろの二者が特別に「事実関係の認定」が重要なのは説明の必要ありませんね、
情報戦として見ても何があったのか確定させないと相手を間違えてしまうなどという致命的なミスも起こり得ますから、
(原爆投下の復讐戦と考えるだけでも膨大な歴史研究・政治の研究も必要でしょう)


※やっかいなのは”自発的可能性の選択”が抑圧で喪失されて認識できない場合なんですよ(どうにも落とし前のつかないまま”ルサンチマン”だけぐるぐる回ってしまう)、いかに当事者意識と自発的選択が重要かって事です。


つまりどっちに転んでも経験積めば積むほど面白くなるって事で(自動的な勝率上昇)、
人生そのものが賭けの対象として面白いのは、
成功続きはラッキーだし、失敗続きも実効性のある価値がある、
どちらでも悪い話じゃないんですよ。
後は掛け率何倍(自分の踏んだ現実論の正確度確率)の勝負するのかって、
ここは各人の勝負師(大人:プレーヤー)としてのスタンス(個性)で決まるだけです。



>依頼や相談って大きな選択ですよね。抑圧された自意識が耐えきれなくなって一瞬現れる瞬間でしょうか。

心理学系に相談できる人格って部分もあるんですよ(ここでは詳しく説明しませんが)、
強迫認知や強迫構造があって、自意識が抑圧され続けると(ある特定の防衛で自意識の自覚すら後退するケースもあるんですが)、
これを私は(半分造語なんですが)「自意識共犯」と呼ぶ場合もあるんですが、
なんでしょう不正経理を上司から強圧的に支持され続けた経理担当みたいな立場なんですよ。
限界を超えて内部告発じゃないですが、
(ある意味身体的症状等を契機に→リアル(ワイルド)な自分がNG出すシグナルとしてのストレス)
「ダメだ、これは何か変だ」のように、
(ここがなんか体調だけおかしいと認知するのとは別に)

※ここ大きな流れで見ていくと”数世代かけて”NG出す世代が(改革者のように)登場し、それこそ「政権交代で政財官の癒着を打破」のように強迫構造を解体する回復力が哺乳類の摂理として織り込まれていると見ても極端に過ぎるかもしれませんが間違いとも言え無いでしょう。前の世代の無意識の付託に答えるというのも極論ですが強迫連鎖の直近の世代(親の代等)からの声なき声は(抑圧された自意識として)表に出ることは無くても実存するのであって(その世代は一生自分の自意識の抑圧構造を認知できない場合も十分考えられる)、社会心理上の文明化による社会意識の変遷と当然関係しているワケです(封建→近代→現代→民主化・個性化)。


そこで依頼を受けて中小企業診断士が決算見て「ここ水増しが」な時に、
「冗談じゃ無い私が表記ミスしたとか言っているのか!」とか
「いえいえ、赤字だなんてあり得ないんです!」のような抵抗も起こり得るんですが、
そもそも本音は裏帳簿を告発しているのであって、
言っている本人が実は告発者(相談者)なんですよね。
ここ随分矛盾しているように見えますが、
強迫意識と自意識の関係が論理矛盾しているからこそ葛藤や抑圧があるので分析の過程で矛盾する反応が抵抗として発現するのは避けられない側面があるのです。
なので裏帳簿の関係性を立証可能な事実関係の積み上げでレポート出さないと実効性が無い、
それが分析です。
つまり帳簿上の数値を見ていくのじゃなくて、実際の営業状況から「こういう数字が出ることはあり得ない(しかもそういう告発が自意識によって選択されている)」と立証して、
その後自立的に
「この数字は違うじゃないか(ってよく考えたら最初から自分でも気がついていたのかもしれない)」
「そもそも誰に見られるでもないのに何故裏帳簿があるんだ?ほとんど自分だけで見る家計簿とか日記のような話じゃないか」に気がついて認識進める事で、
「何であんなおかしなことに巻き込まれたのか」と、本気で強迫認知の存在を自覚できるようになります。
その存在が自意識に”バレた”時点で「山を越した」と考えてもいいでしょう、
強迫意識の特徴がわかれば仮に抑圧や干渉があっても(事前にその手口の予測がつくので)「おいおいこれ強迫心理っぽいな」と、案外冷静に本音への修正を自力で可能になります。
この経験を繰り返すと、事実上強迫心理は実効性を失う形で解体されます。
1007 Re:動機形成 トミー 2009/04/03 00:13
> それこそ現実によりプルーフされますから、
> (なので社会との外的関係が重要になります、それが自己陶酔的ナンセンスか論旨と定義が社会的にも担保できる現実なのかここで判断されますから)

> で、この社会的プルーフに対してその精度に疑義がある場合
> 「やってみなくちゃわかりませんよ」と、
> これ現実で勝負して実績あげれば簡単に証明できます。

> 限りある人生ですから→時間の無駄なので動機形成はとっとと先行く方がいいですからね。
> 実際やるかと行動にうつした方が早い。

とてもよく分かりました。私は自分の現実が鉄板かどうか練る前から、外的関係に対して脅威を感じてストップさせていました。確かにそれも自己陶酔ですね。
今まで同類の人しか目に入っていなかったふしがあるので、幻想を幻想のままお互い肯定し合ってた部分があり、社会的プルーフとのつきあい方がニュートラルじゃないかもしれません。かなり。
病気が先か性格が先か相互浸食かという点にもひっかかってましたが、とりあえずそれは医療サービスはいいとこ取りで、その上で現実に対処していこうと思います。

> 現実世界の”賭け”には、極論失敗など一切ありません。
> 答えは簡単です、
> 「悔いの無い挑戦」であればいんですよ、
> (ここを説明する上でも現実に賭けるコストの話したつもりです)

> 逆さまに言えば、人生の大失敗を大笑いしながら話せる人物ってのが「人間が大きい」とかって言葉になるのであって、

そうですね・・・

> 仮に反省プロセスに考えが及ばない場合でも(どうしても抗する方法が無かった等)、
> 「二度と御免だ」とこれを信念としてその後の人生を選択する、

これは強迫構造脱出事変に対して思うことです。

> ※ここ大きな流れで見ていくと”数世代かけて”NG出す世代が(改革者のように)登場し、それこそ「政権交代で政財官の癒着を打破」のように強迫構造を解体する回復力が哺乳類の摂理として織り込まれていると見ても極端に過ぎるかもしれませんが間違いとも言え無いでしょう。前の世代の無意識の付託に答えるというのも極論ですが強迫連鎖の直近の世代(親の代等)からの声なき声は(抑圧された自意識として)表に出ることは無くても実存するのであって(その世代は一生自分の自意識の抑圧構造を認知できない場合も十分考えられる)、社会心理上の文明化による社会意識の変遷と当然関係しているワケです(封建→近代→現代→民主化・個性化)。

これなんですが、私はものすごく理解できるのですね、哺乳類の摂理の話も違和感ないです。なんでアイツは死んだのに、私はNG出せて生きてるんだろう?って思うのです。私は無意識レベルでは多分母親のお腹に居る時から自分に課せられた役目を自覚してたと思います。(これはあくまでイメージです)ただそれがまあ幼児で無力ですから「親の声なき声を自分に取り込む(親と同じになる)」ってことしか出来ませんでしたけど。そうやって、その役目に「任命」されている感があるので私は最初の相談先に精神分析的療法を選んだんだと思います。そしてどんなに激鬱状態になっても、「私は死ねない運命なんだろうな」と冷静な自分もどこかにいるのは、このせいかなと思ってます。死なせてはもらえないって感じです。
私はこれについて考えるときいつもメシアコンプレックスに直面します。(上の文章がやや感傷的になっているのが表すように)何故か任命された者としてのメシアコンプレックス(任命されてるのにやり方が分からないから共依存)と、「アイツは死んだのに私は生きている」罪悪感から発生するメシアコンプレックス(任命されてる私の無力のせいで=自己への過大評価ですが→代償として)と、両方あるかもしれません。ただ、当事者意識を回復しつつある今は、メシアコンプレックスとも距離がとれていると思っています。自分で自分を救済することに充足感を感じてしまっている自分もいます。でも、私が最初「精神分析を動機形成にしてしまいそうなのは悪いことか?」と伺ったのは、これらのことに関係するのかもしれません。(今ぼんやりしていたものがつながりました)
ちょっと私はメシアコンプレックスを「誰かを救いたいという自己愛的な気持ち」というもしかしたら本来とちょっと違う意味で使っているかもしれません。反動形成なんだってとこまで自分に落とし込んでよく分かっていないかもしれません。
「NG出すよう任命された」、と思っていること自体、反動形成なのか・・・kagewariさんはどう思われますでしょうか?私も考えてみます。。。

1008 Re:動機形成 トミー 2009/04/03 23:22
1日考えたのですが、NGを出せるようになってから強迫構造内で起こっていたメシアコンプレックスによる共依存を認知し、「救済者の世代として任命された」ということに対して過剰に(自己愛的に?)意識することを、親などに対して第三者的視点を持つことの補助の道具に使ったのかなと。(憎しみを哀れみにすることで受け入れやすくする)
少しは中立的な視点を持てるようになっても、まだそういう気質のようなものが残っていて、自己分析することに過剰にのめり込んでしまったり、変な気負いがあるような気がします。以前から対人援助的な仕事や、援助ではなくてもジャーナリストに憧れてたとかそういう何かを伝える(アート的な表現の意味ではなく。それはもう実験済みです)ことに執着があるのもそのせいかもしれません。そしてただ生きている状態でOKな話をわざわざ「伝えたい」というような偉そうな構えになることに対して、恥ずかしいなと思ったりします。しかし、恥ずかしいと思うこと自体が自己愛の裏返しで、ひたすらな第三者的視点と、そこにコミュニケーションがあるという事実が、ただあれば、それでいいのかな、とも。もうちょっと考えます。
1011 大きく(反動)なってますね kagewari 2009/04/05 01:30
補足コメントついていますが、ご自身で気がついている部分が全てでしょう。
>私は無意識レベルでは多分母親のお腹に居る時から自分に課せられた役目を自覚してたと思います。
>(これはあくまでイメージです)

おっしゃるとうりで、あくまでイメージで(強迫心理の居場所である)無意識でそう思っているんです。
そして

>自己分析することに過剰にのめり込んでしまったり、変な気負いがあるような気がします。

ナルチシズムですね、

又、
>以前から対人援助的な仕事や、援助ではなくてもジャーナリストに憧れてたとかそういう何かを伝える(アート的な表現の意味ではなく。それはもう実験済みです)ことに執着があるのもそのせいかもしれません。

特にメンタルにトラブルのある人格のまま自己陶酔的共依存的欲求を動機形成と勘違いして「福祉関係に」、これはある意味最悪の職業選択になります(しかも無意識に道徳的暗韻を踏むワナに”はまっている”)。
介護なんかで、こういう動機の職業選択担当者に”当たってしまう”とこれはサービス受給者が悲劇で、ビジネスライクであるところが(高齢者等の自立的尊厳を守る部分)福祉サービスの趣旨であるのに(対人援助などと遠まわしに受給者を弱者呼ばわりし救出者陶酔の道具にしている)、結果「感謝」を強要するような格好になります。言うまでも無くこのスタンスは福祉関係における趣旨を逸脱するだけでなく(そもそも血縁者に介護される事が自身の尊厳にとって負担となるので第三者のサービスを料金を支払う事で自立心を尊厳を維持したいがために選択されるもので)料金貰っているのですから、こりゃじゃ詐欺になってしまいます。

表現者とは、事前に余談があれば既に表現者ではなく(メッセンジャーになってしまう)、

ご自身きがついているとうりですよ。

そもそも
>>※ここ大きな流れで見ていくと”数世代かけて”NG出す世代が・・・

この話は「自然の摂理の一面がある」と、
趣旨は、人類レベルで言えば「特別なことではない」「構造的(この場合自然に)に誰かがダメ出しする」という形で、
『必ず強迫構造は短期間(数世代程度しか)で瓦解する』
という文明論的に不可避であっても同時に楽観視もできるという二面性を説明したものです。

>>強迫構造を解体する回復力が哺乳類の摂理として織り込まれている

ここも補足すると、
仮に近代西洋フロイド時代のコンプレックスで言えば本当の意味で貴族階級におけるメンタルの問題もあったワケですが、
人類レベルで哺乳類レベルで考えれば「誰の先祖も所詮”はじめ人間ギャートルズ”だ」なのであって、
直近の世代に執着するあまりそのアイデンティファイが特別視されていて、そこを運命論的に(話を大きくするならば)見た時、結論その論旨は近視眼的な数世代に限定しているのがその論旨になってしまうのは構造矛盾で(ギャートルズまで視野を広げれば”氷河期”じゃないですが自然の摂理としては刹那な現象である)、正確に運命論的解釈すると、
「ま、どうにかならないなんてことはないかな」
なる楽観論なんですよ。

ですから
(もうご自身で気がついているのです)
 ↓
>恥ずかしいと思うこと自体が自己愛の裏返しで、ひたすらな第三者的視点と、そこにコミュニケーションがあるという事実が、ただあれば、それでいいのかな、とも。

この認識で”あたり”ですね、
『素で生きている』
これが即ちさっきの話の表現であると、
こんな風に考えるのが筋論的にあるべき方向性だと思いますよ。
1013 お返事ありがとうございます トミー 2009/04/05 23:56
NG出す世代の話の補足、良く分かりました。
こうやってkagewariさんのところに来て考えれば第三者的視点を取り戻せるのですが、普段はまだまだすぐ地盤が緩みますからね・・・そういえば最初の話は母がお金を云々でした・・・
kagewariさんのように精神分析的思考過程を文章化してくださるところはとても画期的で貴重でありがたいのです。何度も何度も読み返せますし。面接だけだと転移感情でヘトヘトになりすぎるし、本を読むだけでは自分への落とし込み方に抜かりが出るし、病院だけだと症状と捉えるかカウンセリング的に扱うかで迷うし、kagewariさんのところにたまに来ることで、いろいろなことが統合されていると思います。本当にありがとうございます。

> こんな風に考えるのが筋論的にあるべき方向性だと思いますよ。

そうですか・・・ひたすらな第三者的視点、共同幻想が弱体化した中の現代人だからその際限なさに生きるタフさ(楽観論でなく苦行であるかのような言い方してますね)持たなきゃ。社会的なことだといいことのように思えるけど、自分のことになるとすぐ白黒付けたくなって、困ったものです。

そうやって考えられる場所が安心できる場所、ってkagewariさんが前おっしゃっていたのです。私はいま安心できる場所がちょっとはあります。でも、なんだか淋しいです。きっと共依存対象を失ったからです。でももう共依存には戻らないのでしばらく淋しさを噛み締め生きます。淋しさと折り合いがつくまでは(つくのかわかりませんが)、どんな動機形成しても強迫に引き戻されそうで。がんばります。
1014 Re:お返事ありがとうございます トミー 2009/04/07 10:25
なかなか終わらない、偽の自立の仮面を脱いで、心理の専門家の前では依存型に変身する私です・・・
最後にひとつ、思いきって質問します。kagewariさんは、どんな”動機”でこのような相談所の運営やNPOをやられていますか?もし、分析者の自己開示の問題で、今後の活動に支障が出るなら、お答いただかなくてもいいです。っていうか、そんなこと当たり前ですから私が注釈入れる話でも無いですが・・・
1015 Re:動機形成 kagewari 2009/04/08 12:42
大方はHPのプロファイルに書いてあるとおりですが、
私は元々わかってしまう部分がありまして、
妙ないきがかりで精神分析なるものを知ってそれを説明する方法を手にしました。
黙っていたって構うことも無いのですが、
殊更黙っている事に積極的動機もありませんし、


私はある人物に精神分析の話をいつかしようと思っていました。
その人物とはある事情で二度と話す事ができなくなりました、
贖罪ってワケでは無いのですが、その動機によって大幅に拡大した心理学への理解が(ここは私ひとりの自己分析的動機を越える結果となったので)自己責任の完結(落としまえ)として、どうにも明快に予見される共同幻想崩壊過程における社会的メンタルな問題の(相当大規模な)発現を前に「黙っている理由が無かった」のです。
かといって精神分析の性格上(志向性ありませんから)革命家気取りで社会に切り込むような形は保持できませんし、
そんな能動性もありません(実存主義哲学的な能動性は個人的オマケで付随していますがここは精神分析とは別個の原則です)。
思うにそれを”わかってしまう”人類ヒト科的部分におけるアイデェンティファイから見れば、素で私がそうである事は環境がそうさせた要素が大きく(自我に全く与件が無い)、又心理学・精神分析との出会いもほんと偶然のような他力本願な話なワケで、
このアイデンティファイは個体としての私にとってかなり普遍性に近い比重で(支配率が高いって事はありませんから人物設定上の『枷』の一要素として確度が高い要素のひとつであると)実存していいるのも確かです、
又”わかってしまう”部分は精神分析のロジック実装で爆発的に拡大し(何だろうと思っていた部分も一斉に説明可能になった)、
素の私が自然にどういう実存になるのかと言えば、というワケなのですし

少なくとも社会心理的にもその実存証明として生業(なりわい)として精神分析系心理学サイトの運営で食えるのが一番いいのですが(市場原理的その論証となるので→サイトのコアは食えなくても有料相談です、それが無くては共依存的要素を助長する欺瞞的スタンスが、運営者に全くその意図が無くても”雰囲気”として構成される部分もありますから誤解を招かないように有料相談を実装するのは必須の条件になります)、
ま、人生はままならないものですから、
食える食えないはともかく『継続的に運営されていること』が最も重要な要素だろうと考えています。
(掲示板のログだけでもその辺の心理学ゼミがひっくり返るぐらいの文字数に達していると思います)
『継続的に運営されていること』
私が加担しないことにはどうにも継続できませんからね(笑

仮にサイトの運営ができなくなったにしろ資産といっては何ですが、閲覧するだけでも何かのきっかけとなるログは膨大に蓄積されていて、
現状でも何かの結果を残した形に至っているのは確かでしょう、
といって、まだまだ辞めるつもりはありませんが。
これが何だったのか「事実は小説より・・」な要素までは予見できないので、先の話はわかりませんが「どうにかなる何か」なところの橋頭堡ぐらいは構造論として確保したのじゃないかと思っています。
それで個人的に何かどうこうあるのでもありませんが、
意図せざる圧力で自我(や時制としての現実)が歪められてしまうって話にはどうにもこうにも、
それはどうなのと思っているんです。
1016 Re:動機形成 トミー 2009/04/09 22:47
お返事ありがとうございます。
拝読していて再度はっとしましたが、私は今回は特に内容だけでなくkagewariさんの自分について語る時の「文体」から学ばなければなりません。思いつきでやってしまいますがちょっとkagewari さんの言葉を真似して書いてみます。
私も少しですがわかってしまう部分がありますが、分かっているのにうまくいかないことがありました。私もある人物に心理学の話をしようとしていました。これからまだ話せる可能性のある人もいますが、ある事情で二度と話せない人もいます。贖罪かもしれませんが、その動機で拡大しつつある心理学の理解が、まだ私ひとりの自己分析的動機を越える結果にはなっているかいないかかなり微妙すぎるので、危険回避のために継続して自己分析を進めていきたいと思います。動機に当事者性がしっかりあるかどうか冷静に見極める目を養っていきたいです。生き急がないで、ペースを落として、もうちょっとそこをやってみます。

そんなかんじです。
>ここは私ひとりの自己分析的動機を越える結果となったので
に近づきたいです。

ただ、
>どうにも明快に予見される共同幻想崩壊過程における社会的メンタルな問題の(相当大規模な)発現を前に
は思うところだらけでうずうずしていますが、上記の理由で言うのに引け目を感じているのでしょう、小出しにして熟考していきたいです。
ちょっと言うなら、以前のレスで
>ひとつの方向性として(志向性じゃないですよ)構造的に、精神分析が「一度実存主義的自我を経過する」のは間違い無いのです。
>決してメンタルな問題の派生が特異って事もありません。文明論的には過渡期の社会現象として必然でもあるのです(つまり精神分析の社会的認知も同時併行として過渡的にならざるを得ない)、
と書かれましたが、これはいよいよ精神分析の持ってる性質の出番ってことだろうな、と私は捉えています。

> 食える食えないはともかく『継続的に運営されていること』が最も重要な要素だろうと考えています。
こころ強いです。

> 現状でも何かの結果を残した形に至っているのは確かでしょう、
> といって、まだまだ辞めるつもりはありませんが。
残していらっしゃいますよ!そしてこころ強いです。

いつもお付き合いいただきありがとうございます。精神分析そのものに出会ったのは通院などより前だったせいか、もはや興味が単なるメンタルな問題の枠を超えてきました。kagewariさんはたまに、そこのところ横断的にお話してくださるので面白いです。ゼミがあったらいいのに。プロフィールや他の住まいのブログ拝見して何故か共通点が多いので、ついつい頼りにして来てしまいます。別にkagewariさんを理想化しているとかそういうんじゃないですよ(笑 そんなこと言って余裕な感じにしてますが、昨日も強迫に脅かされて仕事を早々に引き上げたので・・・教えていただいたことを頭において、現実ってやつをさばいていこうと思います。