Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



511 無気力です。 naru 2006/05/22 15:07
kageさん、こんにちは。
とある理由でこのサイトを知っていた者です。
私は20代も半ばになるのにちゃんとした職歴がありません。
今までバイトとかしてきましたが、どうやら社会不適応みたいです。
みたい…でなく、ちゃんと実感しています。
その上でこれからどうやって生きていこうか考えています。

家族には学校に行くという名目で散々お金をかけさせてしまいました。
だから、今は働いてお金を貯めないといけないとは思っていますが、
どうしても働けません。
以前は単発のバイトでなんとか働けましたが、今はそれすらできません。

無気力であると思います。
つい1ヶ月前まで働いていました。
怖いという思いと不安で毎日、自分の命をてんびんにかけてきました。
常に死にたいという思いがありました。
そしてそんな毎日に疲れて怠惰になって無気力になっていったんだと思います。
解放された時は会社に迷惑をかけてしまった罪悪感でいっぱいでしたが
何よりそんな毎日から解放されて随分気分が楽になりました。

それから1ヶ月ひきこもってきました。
家に居辛くなってきました。
1人で暮らしたいと思っていますが、それには働いていかなければいけません。

自分はとても気まぐれだと思います。
人と話したくないのにこうやって掲示板に書いてしまったりする。
そしてとてもわがままです。
だから人と接することができないのかなとも思います。

ここまで読んでくれてありがとうございました。
何か一言でももらえればうれしいです。
513 ひとつひとつ確認してみましょう kagewari 2006/05/22 18:40
現実問題自我全体として、どのような欲求があり、それをどういう形で実現しているのかについて、客観的に見る事でまず現状どうなっているのかを確認すべきだからです。

自意識の役目はその後の話で、何が起きているのかわからずに今置かれている現状の感想を話してみてもそれは全体として現状を追認するための説明になってしまうからです。情報不足の自意識には、それで手一杯になりますから。
さて、シンプルに考えてみましょう。

>1人で暮らしたいと思っていますが、それには働いていかなければいけません。

>以前は単発のバイトでなんとか働けましたが、今はそれすらできません。

この両者の関係で現状の構造がわかりますね、
働かない事は一人暮らしをしなくてもいい事を、心理的には暗に意味している事を示しています。
そして

>無気力であると思います。

>常に死にたいという思いがありました。
そしてそんな毎日に疲れて怠惰になって無気力になっていったんだと思います。

外で働くモチベーションが、ナルチシズム型の内向によって(外観から考える様子は「外出」に対して「家や部屋にひきこもる」)自己嫌悪的興奮で代謝されていて、十分完結(働いた後と同じように「疲れ」ている=行為として完結し欲求を代謝している)している事を示しています。

全体を整理して考えてみましょう。
「仕事がしたいのに、気持ちが(関心が)外(社会)ではなく内(家)を向いているので、自然と行為(欲求の代謝)が形(仕事)にならず、それでは何もしていなくて退屈であるばかりなので(無意識では)、気持ち的には仕事がしたい以前の気持ちが(関心が)常に内(家)を向いてしまう拘り(強迫)に関わってしまい、これから自力で脱出できない自分を悲観(自己愛的)する事で感情的(興奮=脳内では「快感」と認知されます)になる事で仕事がしたいという欲求を使い果たして(二次的利得)いる。結果疲れているので(モチベーションを代謝してしまっているので)、実際この状態から抜け出そうという動機(モチベーション)を十分に確保できなくて、私(自分)は困っている」のです。

上記の整理された内容をトレースしてみて下さい。
鍵を握っているのが「内(家)向きの強迫」である事がわかりますね、
それが無ければ、最初の「仕事をしたい=一人暮らしがしたい」という欲求は容易に行為化するのであって、何ら悩みは無い事になります。

そこで簡単に「内(家)向きとなる強迫(脅迫)」はどういったものか説明します。
この「仕事かしたいのだけれど」を軸に考えてみましょう。
仕事がしたい理由は社会(他人)の評価を求めている(結果はどうでもいいのです)からで、何故かと言うと関心そのものが本来社会(他人)に向いている筈だからです。つまり恋愛や社会的成功というのはもっぱら自分自身の快や不快にとっての重大な関心事であるから、となります。
そんな世界の中で「仕事」という行為は「努力さえすれば必ず成果が上がる」という実現性のとても高い選択肢なので、シンプルに解釈すると「努力すると必ず満足のいく結果を自分にもたらす合理的な社会的行為」になる筈です。
これを断念(そういう関心より強い関心)させるような構造とは何でしょうか?
『外(他人)の評価より内(家)の評価が、大事に感じてしまう』
これが強迫(脅迫)です、
内(家)の評価が外(社会)の評価以上に拘束力を持つ為には、内(家)が外(社会=他人)より上位の概念(結果構造的に社会や他人を見下していることになり、相対的にその関心を失っているのと同じ意味になり)で無ければ説明がつきません。
つまり、
自我は内向きの関心事に振り回されている。

この内(家)とは、脳内のイメージ(或いは過去)に過ぎませんから現実からは既に(時間的にも)乖離しています。本人は働きたいのですから、
内(家)の現実的な人間関係に拘束力があるのではありません。
心理的に、「それに拘束されている」という感覚を拭い去れない(忘れられないとは若干違います、一件落着として完結していないと見るべきでしょう)状態なのです。

この感情を内向きにしてしまう事項は何なのか?
それを考えてみてください。
どこの内(家)でも、単なる一市民に過ぎず、たいそうな重要人物がいる筈も無いので、どこにでもいる他人と大きな違いはありません。
しかし、そこに「とてもそうは簡単に思えない関心」があるのです。

自意識は何故、そんな構造に巻き込まれてしまったのだろうか?
それを過去のエピソードから探してみればいいのです、
当時と今では何せ自分の年齢(現在は大人ですから)が違います、「今思えばこういうことだったのか」と完結する記憶も随分とある筈で、そういった結論の出ていない記憶を整理する、望まない関心は大幅に後退し、それに比例して関心は外に向かい(戻り)ます。
本来は第三者が聞き取りする事で、ポイントを確認するべきですが、本人が思いつくままに無理しない程度に確認するだけでも一定の効果はあります。

この時注意する事は、『感情的になってしまう事』です。
感情的になる理由は、過去のエピソードをに大きく自意識に見せつける事で(脅迫)、無意識はこれにタッチされる事を一時的には望まない(自己保存法則のようなものです)流れの事で、「自意識は自己責任でこれを解決する事を決めたのだ」と明快に意思表示すれば、それに対抗することも可能です(決して簡単ではありませんが、それが一番有効な方法です)。

今すぐにできる事は「仕事をして一人暮らしをしたいのに、それが実現できなくて困っている」という意思を明快にする事でしょう。
514 Re:ひとつひとつ確認してみましょう naru 2006/05/23 17:27
返信ありがとうございます。

無意識にある恐怖や不安を自意識にある仕事がしたいという意思で対抗するという考え方でいいですか?解釈違っていたらごめんなさい。

少し前までは随分と過去に縛られてきましたが、今は当時の自分の行動や性格を受け入れられます。よく過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません。ということは今の自分に満足しているということでしょうか。

以前に比べると自分の性質を認めはじめているので(あきらめているともいいますか)自己嫌悪感はあまりないように思います。自分は嫌いだけど自分が一番大事だと無意識では思っているだろうとは思います。自己愛が強いだろうと思います。

自意識で行動できれば一番いいですね。
何も考えずに行動すればいいということですよね。
それでも無意識にある恐怖が勝ってしまう。

家に閉じこもっているとどうしてもくよくよ考えてしまう傾向がありますが、外だと他人を意識してしまうので思考が停止するというか自分でなくなるという感覚があります。
実際にそれは自分ではないのでそのような自分が現れることが怖いのでしょうか。
他人を怖いといよりも自分が怖いんでしょうか。
なんとなくそんな感じがしました。

無気力になったのは自分を受け入れすぎたことで甘えが生じたせいかもしれません。
今まで他人と同じように行動できなくてそれで自分を否定し続けてきましたから。

でもこの状態で働いても同じ結果になると思います。
それにただの怠惰かもしれません。面倒くさいことは嫌いですから。
516 Re:ひとつひとつ確認してみましょう kagewari 2006/05/24 11:01
> 無意識にある恐怖や不安を自意識にある仕事がしたいという意思で対抗するという考え方でいいですか?解釈違っていたらごめんなさい。

正確では無いのですが、認識の線上が外れていなければいいのであって(国語のテストじゃないですからね)、概ねその通りです。
一点だけ修正するなら
「仕事がしたいというのは、本音」です。
特に意識する必要は無いのです、

つまり、仕事(必ずしも報酬を伴う必要はありません、個人的な製作でも、ほとんど仕事と化している趣味でも「外に向かった表現」と考えればいいのです)がしたくないのであれば話が別です。
自意識自体の認識を変えなければなりません。
「本音は仕事(あるいは同等の行為)がしたいのに、自意識がそう思えていない」

「何かこう面白い事ないかな」って感覚(欲求)の事です
それが無いと、ほぼ関心の中心はナルチシズム的な内向に自意識も同意している事になります。この場合は、この内向をせめて自意識レベルではしっかり失望させなければなりません。
通常このナルチシズム的内向とは「思春期につまらないので失望」するのです。これを反抗期といいます。
考え方なんですよ、
自分自身がローリングストーンズ並みの音楽を製作できているのでも無く、ゴッホのような絵画を描いているのでもない。ましてや自分自身が某国の絶対君主や王家の末裔でも無いのですから(ある意味古代では、精神的な悩みがそういった特権階級特有の症状でした)、失望して自然です。
ニュートンの法則のように、外の世界と関わる事で「何か面白いものを手にする」事で、「手に入れる」事ができるのですから、

事は簡単です

「バッカだな〜自分」

と、独白すればいいのです。
これがキーワードになって、無意識の自己陶酔的構造を一時的に抑制できます。


> 少し前までは随分と過去に縛られてきましたが、今は当時の自分の行動や性格を受け入れられます。よく過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません。ということは今の自分に満足しているということでしょうか。

むしろ逆だと考えるべきでしょう。
(「今はそんなことありません」については後述します)
「過去に戻ってやり直せる事等ありません」
「これこれここは、こうだから、こここここのへんはこうだったんだ」と、過去の物語に結論を出すべきです。
「理由、当事者、背景、事情、自分、当事者能力」
歴史ですよ、
後悔とは、「本来こうできたかもしれない」というフィクションに拘ることで結論はありませんが。「あ〜あ、こうだっんだよな」と思う事には結論があります。つまり後者が歴史であって歴史には結論があります、学ぶ事ができるからです「今はこうする事にしたんだ」と。
これを反省(内省)と言います、後悔の反対語だと思ってください。

後悔は当事者意識が過去にとどまり続け、時間経過が過ぎるほど自意識と現実との時間的乖離が広がっていきますが、反省は常に現在を注視する姿勢なので現実との乖離はZEROになります。

さて、「過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません」とありますが、これは反省ではありません。むしろ抑圧と考えるべきでしょう。解決していない拘りが、何の対価も無く消える事はありません、「拘りは無意識の領域に、ある定型の慣用句のような形に単純化され潜った」と考えるのが正確です。
「過去に拘らない」とは、「いや〜実はこんな事があったんだよね」としみじみと(人によってはゲラゲラ笑いながら)話せる事であるからです。

ここにも「バッカだな〜自分」が被るのわかりますか?


> 以前に比べると自分の性質を認めはじめているので(あきらめているともいいますか)自己嫌悪感はあまりないように思います。自分は嫌いだけど自分が一番大事だと無意識では思っているだろうとは思います。自己愛が強いだろうと思います。

ここが、上記説明を証明しています。
「自分の性質」などこの世に存在しません、
ましてや、それは自分で語るものではありません。それは社会や他者があなたを評して感じるもので、関連性や時世や事情でコロコロその内容は変わりますから、実存的な意味は全く無いのです。
又、自己嫌悪とは反省ではなく後悔によって「自分が悪いと思う自己陶酔型の自己愛」の事になりますから、自己嫌悪的な興奮がモチベーションを代謝している(脳は、一度成功した代謝に行動選択の優先を与えるので、同様の行為は無意識に繰り返されます。それに気がつかないで習慣化すると、依存症のようにループしてしまい、気がつかないうちに抜け出せなくなるのです)傾向があると考えるべきでしょう。

> 自意識で行動できれば一番いいですね。
> 何も考えずに行動すればいいということですよね。
> それでも無意識にある恐怖が勝ってしまう。

ニュアンスは(感じ方ですが)近いです。
自意識とは常に考える存在で、言葉の通り無意識とは考える事無く行われます。感じ方としては「何か思わされてしまう」のが無意識になりますから、無意識的な従属関係にある自意識が、自意識的構造選択を「何も考えていない(妙に思う事が無い)」と感じる事は感じ方としてはそうだともいえますね。

無意識の恐怖が勝ってしまうのではありません。
これは相対的な結果です、
簡単に言うと、根拠の無い杞憂(自己陶酔的誇大視)の不快感(脳内では快感)が、自意識が考える現実的な企画やアイデアに対する興味を喪失させているのです、
つまり無意識にある恐怖の興奮(脳内では快感)が、現実の世界にアプローチする喜びより興奮レベルで勝っている(これも実質的に勝っているのであって、単なるイメージです。何故なら社会的行動は選択されない=予想に過ぎません)と考えればスムーズでしょう。


> 家に閉じこもっているとどうしてもくよくよ考えてしまう傾向がありますが、外だと他人を意識してしまうので思考が停止するというか自分でなくなるという感覚があります。

これは反対です、
自分とは、他者や現実との間に起きるアイデアの総体のようなものですから、それが本当の自分です。「何に対して何を考え、こういうことがあるとこうする人間」それが自分だからです、
家に閉じこもっている自分を確認できる客観は存在しませんから、そこにいる人物像は「想像上の自分(ナルチシズム的解釈)」であって、根拠(現実の裏付け)の無いものです。
「家にひきこもる自分」と、も一見社会に対する客観であるようにも見えますが、それは違います。「内(家)にひきこもる」が象徴化されたアンチテーゼであるからで、「編集者に隠れて自宅に篭城」とはやはり意味が違ってきます。

> 実際にそれは自分ではないのでそのような自分が現れることが怖いのでしょうか。

本当の自分に自意識が気がついて、外の世界へ関心が移る事を、無意識的な内向性が恐れているのです。
無意識は自己陶酔型の興奮を繰り返す代謝を期待しているからです。
これを阻止されないように、怖いという言葉でそれを規制していると見るべきでしょう。
現実の世界で「努力し苦労し一歩一歩自分が誰であるのかという、本当の自分等を知られては困る」のです。


> 他人を怖いといよりも自分が怖いんでしょうか。
> なんとなくそんな感じがしました。

「他人が怖い筈ない」と考えてしまいましょう。
「人間は平等だから、それはナンセンスなのだ」と根拠もあります。
おっしゃるとおり、怖いと感じる根拠(何せ引きこもっているのですから「他人はきっとこういう風に考えるのじゃないか」という雛型が、葛藤の原因となった家庭内の人間関係や自分自身のイメージから連想:投影されるのですから)は、自分のイメージです。
これも逆説的に考えてみましょう、
「少なくとも、そういった考えをしている他人はむしろ少ない(自分ではないのだから)」と考えれば気楽です。
※面倒くさくなく、都合よく考えればいいのです。

他人とは、だいたいがおせっかいなぐらい親切で平和的な人達です。
それが人間の素性ですから、
他人との不快感の大半は、妙な誤解や、自分の立ち位置をうまく相手に説明できない場合に起きます。
なので、自己紹介の一環と言っては何ですが、社会的にどういう印象を与えるだろうって部分にも若干関心を持って意識的に趣味の方向性を極端にしておく(趣味こそ大げさだったり、「ホラ吹き」なとこがあったりしてもいいのです)事も有効です。


> 無気力になったのは自分を受け入れすぎたことで甘えが生じたせいかもしれません。
> 今まで他人と同じように行動できなくてそれで自分を否定し続けてきましたから。

ともかく無気力な理由は、「仕事で徹夜したぐらいの達成感を、内向性のナルチシズム型不快(脳内では快)で感じて疲れている」からです。実質的なモチベーションの代謝レベルで言えば、徹夜して大手のクライアントにプレゼンテーションした後と同じ体感です。

そして、同じ人間なんかいませんから、「他人と同じ」という事象はそれ自体存在しません。「同じ他人などいないから」です、
おそらくイメージは「漠とした社会人のイメージ等の共同幻想」の事でしょう。それは「あなたが考えているんです」
「誰も同じように考えている人などいない」と考える方が建設的です。
(確かに「共同幻想」が社会に存在していることは事実なんですが、今の段階でそこまで考える事は無いでしょう。それは外の世界での格闘が始まってからの戦術論になるので、)

> でもこの状態で働いても同じ結果になると思います。
> それにただの怠惰かもしれません。面倒くさいことは嫌いですから。


同じ結果などこの世にありません。
あったらそれこそ奇跡です、
現実とは常に形を変え、流れているものです。
川の流れに石を投げたとします、
何回繰り返しても同じ『絵』に見えますが、川は流れています。
それは決して同じではありません。
人の認識の「イメージ化」が、現実の豊かさを矮小化させているだけです。

面倒な事はしなくていいのです。
それこそ、自己陶酔型の不快感こそ面倒です、
天気のいい日には外に出て、気に入った本があれば手に取ってみる。
自分という「機能を働かせる」んですよ、
それが必ずしも仕事である必要性は全くありません。
「仕事がしたい」とnaruさんが思っているのも間違いでありません。
確かに選択肢のひとつとして仕事もお勧めです、これだけ沢山の人が好き好んで選択しているんですから、それだけプルーフされた概念である事に違いはありません。
(「仕事に疲れたとか」「休みが欲しい」のコメントの背理は「息抜き」であって、誰しも「失業したい」とは言っていないのです。)
519 Re:ひとつひとつ確認してみましょう naru 2006/05/25 17:17
返信ありがとうございます。

自分が外に出る為には、家にいることが退屈でしょうがなくなることしかないんですよね。
今はまだ退屈ではないんです。
お金を貯めなければならないというのは、kagewariさんの言ったように今は重要ではないです。
親を養わなくてはならなくなった時、自分は一生懸命になるんだと思います。だから自分の為に働くことはできないというか、したくないです。
(その前に家から放り出されるかもしれませんね)

そして死んだ方がマシだ。と思ったりします。
これは働いていた時には毎日思っていたことなので、そのような葛藤が続いた日々を思えば今が幸せな時期なのです。
だから自分は部屋に閉じこもっていたいのかもしれません。
少なくとも傷つくことはありませんから。

だから自意識でも仕事がしたくないということにはなりませんか?

過去の自分を「バッカだな〜自分」とは言えません。以前は思い出すのもいやだったのです。ということは過去は記憶とともに隠れてしまっているだけで受け入れたなんてことはなかったのですね。

自分の性格等存在しないことはわかります。だから他人に自分を評価してもらう必要があるのですよね。その行為があまり好きではありません。自分を暴露されたくないです。でもこうやって自分の存在を訴えているのだから…矛盾してます…。

人前に出ると途端にしゃべれなくなってしまいます。言葉が出てこない。口が開かない。とか、ここ数年人と会話してこなかったせいもあるかもしれませんが。
それは仕事上にも影響してしまいます。しゃべる、ことに対してはどうしても積極的になれません。
対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。なので喫茶店で休むことも電車でイスに座ることもできれば控えたいです。
これらを克服しなければ社会に適応できないと考えているのですが、また大げさでしょうか。
人前に出なくてもできる仕事はあるかもしれません。それでも少なくとも他人とは会話するでしょうし、今自分にできるような仕事だとは思えません。
他人といると息苦しいのはただの緊張ですか。最近家族でさえもこのような状態が起こります。
これらの症状が出るので、自分は他人を怖いと感じたのかもしれません。実際は自分の作ったイメージであることはわかりますが、そう思ってもどうにもできないのです。

社会適応できないと決め付けるには早いですか。もっと苦しまないといけませんか。






520 苦しんではいないのです。迷っているんですよ、 kagewari 2006/05/26 10:41
考える流れに間違いは無いんです。
前提となっている事実関係の与件(「ここがこうで、ここはこうだ」という前提)に誤解や間違いがあるので、考える流れは正しいのですが「あり得ない空想のような結果」が出てしまうので迷ってしまうんですよ。

基本的な状況を整理してみると、何故そのような結果のズレ(ここが迷いの原因です)が起きるのか予測がつきますから、少なくとも迷う『余地』は無くなります。

重要なポイントからざっと整理しおきます。
■昨今人の寿命はおおよそ100年といってもいいぐらいです。
さて、3歳ぐらいまでは記憶が無いですしその後17年は誰かの子供です。そしてここから大人としての自分の時代を迎え、現代ならその15年後ぐらいに結婚、2年ほどで親になり20年経つと又今度は自分の時代で「高齢化社会」と言われている所以ですが、ここで47年です。
わかりますか?ここで人生の半分です
つまりその人物が『親属性』である期間は人生の20%であり、その人物の子供時代とほぼ同じ且つ「子供だったり親になったりしていたのが家族時代」となりますが、この「家族時代」は人生の半分にも満たない年限です。
(しかもその半分は「子供」と自分を認知しているんですよ)

その中で『親である時代』は、もはや特段その人物を語る上で最も優先順位の高い属性とは言えません。
高齢化社会が語るように、自分の子供にも又家族ができれば孫が生まれる事もあるでしょう。ですから人を(家族型社会適応モデルとして)属性で判断した場合その人物を語る代名詞は『祖父母』です。なので高齢化社会と呼ばれるんです、
そして、その高齢者という認識は如何なものか(人生半ばの60〜80までの人生は現代社会では「バリバリの年代」ですから)という見方すら、現在定着しつつあります。

ちょっと長くなりましたが。
> 親を養わなくてはならなくなった時
既に親でも子でもありませんよ、
立派な大人同士の関係で、ほとんど赤の他人も同然です。
ですから
> 他人といると息苦しいのはただの緊張ですか。最近家族でさえもこのような状態が起こります。
となるのは、ある意味自然であると言えます。

というワケでまず確認しなければいけない事実関係その(1)
『親を養うという概念を最初から持たない事』です。
これは先進国ではあたり前の話で、年金制度を持ち国民として基準レベルの生活を保障する憲法を持つこの国の基本中の基本の部分です。これは「高齢者の人権の保護」のためにあるのです。自分の力で自立的な生活をし(自由のためにです)自己の尊厳を保持する事は国に保障されていてそれは高齢者の権利なのです。
数字を挙げて考えるなら、「もし彼等に子供がいなくて且つ年金支給額も事情によって著しく少なく、預貯金や処分できる資産がほとんど無い場合で、且つ健康問題などで仕事につけない場合には生活保護が支給されます。満額だとその時の年金等の所得と合わせて概ね上限14万前後(賃貸住居で住宅手当が支給される場合)まで補填が行われます」。
親を養うと言いますが、ご自身の生活費とは別に14万円の支給を彼等に(夫婦で二人分の場合に幾らになるのか正確にはわかりませんが、仮に彼等が離婚して各人が一人暮らしをしていた場合、14万円×2ですから28万円ですよ)対して行う事が可能でしょうか?
それを下回っていて彼らが「自分は一人暮らしがしたい」等と思っていたら、無理に「養う」等と考えるのは彼らの権利を剥奪している事になりませんか?

家族生活(彼らがその継続を希望した場合ですが)における共同生活とは「資産(あるいは家)の後継者」であったり等の理由で、家族生活の継続が彼らの個人的な希望にも合致する場合になりますから、その事情や環境、生活の内容は「ある特定の状況」によるのであって、一般的なものではありません。
実際個人主義が進歩的に発展している北欧等では、高齢者の一人暮らしの希望は多く、それは高齢者の尊厳であり権利であると明快に社会的認知があります。

次の確認しなければならない事実関係その(2)は、
『naruさんが現在引きこもりのような神経症的強迫傾向に至った原因は、ほぼ間違いなくご両親のどちらかか双方にも神経症的強迫があった証明である』事で、それはどういう意味かと言いますと「家族としての構成要件を十分満たしていなかった=家庭は失敗だった」のです。人間のすることですから、十分に条件を満たす“家庭”なるものは現実社会に(特に先進国の場合)そう多くありませんから、失敗自体に特別の意味を持ちませんが、「家庭は失敗であり、各当事者にはそれぞれに当事者責任がある(これは各人の属性上の責任であって、いい悪いの問題とは全然意味が誓います)」と考えなければならないのです。
企業で言うなら「債務超過による事実上の倒産」です。
かといってまさか社員各人に弁済義務はありません、しかし法人として倒産しているのは事実なのですからこれは事実関係として認めなければなりません。
「十分に営業ベースに乗っている会社で部長を部長という属性で呼ぶ」のと、「倒産した後の残念会で部長を部長という属性で呼ぶ」のとは同じ属性呼称(家族なら「親」)ですが、ニュアンスは全然違いますよね、
今の所属している家庭の「倒産状態」をきちっと認め、その中での自分の立ち位置をはっきりさせる事が大事です。

ここで倒産を認めずに「粉飾決済」を続けてしまうとそれは強迫となり、各社員の心理状態に余計な不可をかけてしまいます。会社が粉飾決済をしている事を知っていて、何事も無かったように営業にいけますか?

■さて、各論に入りましょう。
> 自分が外に出る為には、家にいることが退屈でしょうがなくなることしかないんですよね。

失望するのは、内向性の事です(当然部屋の中で製作をする事もあるのですから、現実として部屋にいること自体に失望するという意味ではありません)。
> 人前に出ると途端にしゃべれなくなってしまいます。言葉が出てこない。
外の世界では、これほどまでに自分の存在を意識している事を示唆しますよね。これが反対に「自分の評価が好感である場合」それは今まで体感した事の無い感動クラスの現象だって反証です。
つまり、外の世界との関係と、室内だけの自分とでは得られる心の動きが段違い(比較になりません)ですから、内向に失望するのです。
この心の動きが今naruさんでは「逆に不快の目が出ている」ので、反対に内向化が安全な場所に仮想されているという意味です。
この外の世界が何故不快を計る尺度になっているのかという理由を説明しましょう。

「テスト(外の結果)を見せる」
これは誰しもが一瞬不安になりますよね(例外は100点である場合)
「テストの結果を自分でも見る事ができないのに、それを人に見せなければならない」
より不安感は増しますね、当然見る事のできない結果は自分で想像する事になります。元々自分に不安のある人が、その予想を上向きに見る筈ありません、そして現実を見る判断能力が破綻していればこの人は「0点だったらどうしよう」とすら思うでしょう。

すると

「0点のテストを見せなければならない」と心は準備します、
それが楽しい人がいる筈ありません。
そして、見せた人の反応ですが、「そんなテストに関心の無い人⇒特別成績自体に関心の無い人⇒異常に成績に厳格な人」の準で不安な間は強烈に前後します。

このテストが“自分”であれば、上記の説明の意味が理解できると思います、
そして、この自分を仮想0点にしておけば、不安のテンションを常に最大に維持する事も可能です。

と こ ろ が

重要な点を見落としています。
> 対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。

これらの不安には前提条件があります、全て他人があなたに関心が無いと起こり得ないのです。
電車の前の座席の人物等に、誰も関心などありません。
「自分の存在に電車内のみなさんは夢中で我を忘れて注目しいてる」
なんてことは、誰が考えてもナンセンスですよね。

それは深層心理に「この人は自分に凄く関心があり、そうでなければ自分も困るんだ」というロジックが隠れていて、これが他者に投影されるために起きる現象です。

と こ ろ が

ここでももう一段あり得ない前提があります。
「他人に関心がある」
これって一義的に自分自身の利害に関わるからですよ
「危険人物だ(自分が心配だ)」「美しい人だ(自分は好かれるかしら)」「有能そうだ(自分の仕事を手伝ってくれるかしら)」「何か一癖ありそうだ(自分と関わって欲しくないものだ)」
他人に関心がある理由は全て、自分固有の利益に関わるからで、漠と他人に意味も無く関心を持つ人は唯のひとりもいないのです。

つまり、他人への関心とは自分の肖像を求め、且つ他人の生き様への自分の利益としての興味、性欲を始めとする「関係性への欲求」であり、何の関わりも無く関心がある必然は何処にも無いのです。

なのにも関わらず感じてしまう強迫(脅迫)とは何でしょうか?

それは過去の投影以外(モデルとなる特定の人間関係の追体験)可能性としても有り得ないのです。

■大事な事は、過去の人間関係(おそらく100%親子関係でしょう)の内容を精査して、確実に誤解や無理な解釈がありますから(そうでなければ“矛盾する連想”を行うようなポテンシャルは人類に存在しないからです)そこを確証して誤解や疑念を晴らす事が大事なのです。
無意識に潜ったその概念は、自意識が後から新解釈を加えても即座に消えてなくなることはありませんが、自分で「それに気付く(これは脅迫だなとか)」事はできます。
次に何が起こるのか(自分がどう感じるのか)予想がつくだけでも、不快感は大幅に後退します。

> だから自意識でも仕事がしたくないということにはなりませんか?
(理由)
> だから自分は部屋に閉じこもっていたいのかもしれません。
> 少なくとも傷つくことはありませんから。

これと仕事は何の関わりもありません。
傷つくの感じているのは、個人的な理由であって仕事が原因では無いからです。個人的な理由が解決すれば、傷つく等の可能性は最初から消滅します。

> それは仕事上にも影響してしまいます。しゃべる、ことに対してはどうしても積極的になれません。

これも杞憂です、
「あれ、今日は誰ひとりと会話してないや」仕事場ではそんな事が再三あります。

> これらを克服しなければ社会に適応できないと考えているのですが、また大げさでしょうか。

根本的に間違えていますよ。
「一体何が根拠で社会等に適応しなくちゃいかんのですか?」
社会適応は各個人の人格構造や、個人の趣味趣向で選ぶもので、別段どっちでもいいのです。社会適応型の人物は不適応型の人材を必要とする事も多いですし、その逆もあります。
社会とはそんな多様性の円環であり、全員が社会適応型なんて、ナチス一党独裁下でも在り得ません。
それぞれ向き不向きがあるので、いい悪いは一切関係ありません。

ですから個人的見解、と公式的見解(違うタイプの人がいることに配慮しなければ話が現実から乖離します)の二つがあって自然です。
個人的な意見を言うならば、私は社会不適応型人格なので「社会等に適応するなんてことこそバカらしい事は無い」という信念を持っていますが、社会適応型の人物との関係で言えば本気で彼の社会適応は立派な事であるとも思います。
人はそれぞれ違うんですから、
私の信念は私固有の個人的な意見であって、適応対象者はわたしひとりだけであり、同様の感覚を他者には感じない(むしろ「あなたはどれ?」と尋ねて多様性を知りたいぐらい)のです。

> 社会適応できないと決め付けるには早いですか。もっと苦しまないといけませんか。

いえいえ、苦しむ必要はありません(感情的な不快は脳内処理では『快感』です)。
地味に一歩一歩、自分らしさを求めていけばいいのです。
naruさんは自由なんですから。
535 Re:苦しんではいないのです。迷っているんですよ、 naru 2006/05/31 00:49
返信ありがとうございました。

迷っているといわれ、なるほどそうなのだ、とここ数日で納得してきたのです。

高校生までは学校に行くことが自分では義務であると考えそれ以外の選択肢はありませんでした。毎日行きたくないと思いながら何故続けられたのかわかりません。不登校にならなかったのが不思議です。
その頃は今よりも精神的に強かったということでしょうか。
それとも自分が変わってしまったのでしょうか。

迷っていると思います。何をしたらいいのかわかりません。
だからとりあえず、働かなきゃと思ったのでしょうね。

働くことに関して、親を養うという概念は捨てる、ということですが、養うというのはおおげさな表現でしたね。
ただ、両親が共働きで父も定年が近いので、自分はそのような表現を使ったのだと思います。自分が家にお金をいれれば少し生活が楽になるかと思ったのです(当たり前ですが…)。自分が両親を養うということが無理だということはこの前の返信でわかりました。親が時折、働くことを促すのは、やはり自分を心配してのことでしょうか…。

両親からの神経症的強迫というのは、どのようなものでしょうか。
自分では思い当たりません。
ただ父とはしゃべれませんが…。
ひきこもるというのにこのことが関係しているのでしょうか。

ひきこもりになる傾向として人間関係を築くのが下手、社会活動に参加できない、友達がいない、などがありますが、中学生の頃から学校に行く以外は外出しない子だったのでその延長上に今のひきこもりがあるのかな、とは思います。

他人が自分を注目などしていないことはわかっていても他人と目が合わせられないというのは気の持ちようではどうにもならないということですね。
親子関係というのは重要なのでしょうか。
もし自分が父と仲良く(見えるように)話せるようになったら自然と治るでしょうか。

初めての職場というのは、しゃべるというより教えてもらうことが大事ですよね。自分の就いた職種というのが、自分から聞きに言って教えてもらわなくては進まない仕事だったので、それが余計にしんどかったのです。そんなことで辞めてしまうなんて→社会不適応 だと思い込んでいたのです。
そしてとても不真面目でした。真面目そうに見えて不真面目ってどうですか。
どうでもよくなる、って、無責任だと思いませんか。
辞める理由が「しんどい」だったんですよ。
これって立派な不適応だと思いませんか…と自分で思っていました。

若者が多いバイトはできそうにないので(面接で通りそうもないので)迷ってしまいます。
536 やはり話の前提に迷いの原因がありますね。 kagewari 2006/05/31 15:03
まず、ここから整理しましょう。
具体的な方がわかりやすいですから、個別に説明しますね

> ただ、両親が共働きで父も定年が近いので、自分はそのような表現を使ったのだと思います。自分が家にお金をいれれば少し生活が楽になるかと思ったのです

考え方とするなら、「自分の稼ぎは自分の自己責任」ですから。
あまりにも高額の学費を必要とする進学だったので「これはほとんど親から借りた奨学金だと自分で考えた」のなら別ですが、子供の進学の一部は「親にとっての世間体」でもあるので、これは一元的に進学した当事者だけの利益ではありません。
ですから(実際現在の国の政策もその方向を模索しています)、学校卒業までの実費について特別の考えを持つ必要はありません。

むしろ、大学なり(大学や専門学校進学志望ではない場合には)高校なりを卒業したら独立するのが基本だと考えてください。
そもそも自分で考える最終学歴を卒業したのに親と同居しいてる事自体が不自然なのです。
現在一人暮らしをしていて、その生活資金を親に援助してもらう方が話はわかりやすくなりますよね、明快に借金額がはっきりするからです。
共働きの夫婦にしても、当然子供が独立してくれれば生活が楽になることは明白です。

昔の日本では子供の数が半端ではありませんでしたから、長男が実家にお金を入れるのは自分の弟や妹のために必要だった部分もあるので、これと現代社会を同じに考えても話が複雑になるだけです。
そもそも子供の数をコントロールしているのは親世代なので、当然上記のような発想(子供からの仕送り)は親にも無いことになります。

> 両親からの神経症的強迫というのは、どのようなものでしょうか。
> 自分では思い当たりません。
> ただ父とはしゃべれませんが…。

つまり、対人恐怖のモデルは無意識に沈んでいる父親との間の恐怖です。これが投影されるためで、室内に引きこもるのは家人から逃げるためでもあります。
そもそも、封建社会の時に「父権の権威がとてつもなく大きい時代」ならわかりますが、現代社会で父親と話せない理由等ありません。
実際父親の側も「幸せな家庭」を目論んで結婚し子供をもうけているんですから、その子供とギスギスしていたんでは、彼は何のために結婚したんですか?
彼が気さくに話しかけてこなかったり、或いはとてつもなく話しにくい人物なのは「彼も同じような対人恐怖」があるためで、自室に引き篭もるように家人との会話を避けている可能性もあるって事です。

>中学生の頃から学校に行く以外は外出しない子だったのでその延長上に今のひきこもりがあるのかな、とは思います。

この当時から、親がこれを問題視しないのは同時に問題です、
そもそもnaruさんの個人的な環境には社会性が無いことを意味していますから、これは余計に「naruさんの自我のほとんどは家庭環境下で形成されている」事になります、その家庭にいた人物は誰ですか?
自我は言葉の総体ですが、自分だけで通用する新言語を編み出す人はいません、言葉を誰かから教わるものだからです。
今のnaruさんの自我構造の基礎は、両親の自我との関係から成立していて(「基本構造部分をインストールしている」という見方もあります)これを幼児は自分自身の社会性(家庭内社会や地域社会、学校生活等)で自立的に発展させます。
この社会性がnaruさんに、元々欠ける傾向があるなら余計にその自我構造は「現在も両親との関係による部分が支配的だ」と言えるのです。

現在も「父とはしゃべれません」なら、問題は深刻です。
言葉を教わった人物(もっぱら母親の場合が多いですが)の側に属する重要人物(家長)との関係が疎遠だという事は、深層心理にその人物に対する不快なイメージ(恐怖感等)が無い限り説明がつきません。本来親子関係には(幼児は無条件に一時的に両親を絶対者として好感した記憶を持つので、それ以降のイメージに不快があると自我内に根本的な矛盾を持つことになります)、
本来親子関係とは反抗期に親に対する好感への失望が起き(そのため家を出るのが自然なのです)その後に実社会に出る事によって(適応である必要ありません)改めて親への認識も再構築(親に問題があるのなら嫌うのではなく「自立的な批判」に変わることでそれは漠然とした恐怖心ではなくなるからです)されるものです。

> ひきこもりになる傾向として人間関係を築くのが下手、社会活動に参加できない、友達がいない

この部分の人格形成に多大な影響力を持っているのは、両親の自我そのものです。

> 他人が自分を注目などしていないことはわかっていても他人と目が合わせられないというのは気の持ちようではどうにもならないということですね。
> 親子関係というのは重要なのでしょうか。

上記と話は被りますが、連想(個別に話しが出来ない人物があったり無かったりするのではなく、全員とである事が証拠です。人間には本来それぞれ違いがありますから、これを認知できないのは「前者に同一人物の投影」があるためです)の根拠は両親のどちらか或いは両者との関係が原型になっています。
昨今の精神的な悩みの大半は「親子関係」が原因です。

> もし自分が父と仲良く(見えるように)話せるようになったら自然と治るでしょうか。

問題なのは、無意識に沈んでいる過去の「父親に対する恐怖心のイメージ」で、今現在の父親ではありません(イメージの父親が象徴化されているので、通常反抗期は両親に対する失望として発現します)。
彼との関係自体を形だけ変えても意味はありません、
「彼は一体どんな人物で、何故自分は彼に話し掛けにくいのか」を自分で気がつかないといけないのです。その延長上にこれまでとは違う父親との関係が築かれる事になりますが、結果は以前より関係が悪化して自然なケースもありますから一律に仲良くすればというものではありません、彼に幼児虐待に近い言動があった場合なら和解する方が不自然だからです(この場合「母親に離婚を勧める」であるとか、「父親にはカウンセリング等のケアが必要だ」という結論を持つ事になりますから)。

> 初めての職場というのは、しゃべるというより教えてもらうことが大事ですよね。

違います、学ぶ事が大事なんです。仕事の結果に給料もらっているのであって「それは自分の利益だから」です、
つまり困る職場とは「学ぶたいのに仕事を教えてもらえない職場」になります。
「教わるものではなく、自分自身で個人的に学ぶことが必要な職場」もありますから、頼まなくても教えてくれる職場は「楽な職場」になたります。

> そしてとても不真面目でした。真面目そうに見えて不真面目ってどうですか。
> どうでもよくなる、って、無責任だと思いませんか。
> 辞める理由が「しんどい」だったんですよ。
> これって立派な不適応だと思いませんか…と自分で思っていました。

非常によくわかります。
「真面目そうに見えて不真面目」これは、会社の人を無意識にバカにしているんです。むしろ特権階級的な立場(これを守るために人は引き篭もります、何故何らナルチシズムが関わっているからです)から、他者を知らない間に蔑視しているんですよ(自己愛がある場合には構造的にそうなります)。

もし、同時に面接した人のなかに「家族の生活のためにこの仕事にかけていた人」がいたとしたらどうでしょうか?
naruさんの行動は、そんな人やその会社での仕事を大事(自らの誇りだと思っている人)にしている人を無意識に「お前らなんかどうでもいいんだよ」と言ったのと同じだからです。
ここで話はぐるっと回ります。
「お前らなんかどうでもいい」と思っている連中と話したいですか?

なので、仕事選びって自己責任で選ぶべきで、なんとなく選ぶものではありませんし(自分の利益なんですから)。仕事をする気が無いのならしない方がいいのです。
現実、神経症的傾向で仕事が出来ない場合、これは障害と同じですから(条件にもよりますが生活保護の支給対象にもまります)、それを偽って無理に仕事をしてその苦痛の原因を「他者は話しにくい」と考え、自分がその(他者の)被害者であるかのように受け取り方を間違えてしまい、引き篭もるのは矛盾なんですよ。
つまり、被害認知が無ければ知らず知らずに「他者を軽蔑する」心配も無く(当然その心理が潜在意識にあれば「他者が怒って何か言ってくるかもしれない」と不安に身構えるのは自然ですよね)、自由な立場から自分を見つめなおす事もできます。

現実「社会に問題があるのではないか」と考え、社会不適応の立場からこれを批判したり改善しようよ考えをめぐらす立場があっていいんです。
現在のこの国の首相がそうなんですからね、
彼は改革派であり、破壊者である事も自認し、すべて官邸で自分ひとりで考え自己責任でこれを政策として提案しています。
その判断は「選挙」であり、先日の衆議院議員選挙で彼は大勝し社会の信任を得ているんです。

着眼として「なんとなく嫌う」のは、自分自身を貶めます。
自分に嫌な感じがするのは何故なの考えれば、これは話が全然違ってくるんです。
「批判し自分はこう考える」
これは嫌うのとは違うからです、
知らず知らず(無意識)って部分こそが問題なんです。
主体的に関わっていれば、その行為自体が他者を尊重している事になります(違う考え方がある事を同時に支持していることになるからです)。

仕事選びをする以前に、「この家庭内の自分はどうだったんだろう」と、ここを親子関係を含めて考えてみることから始めないと、その葛藤をそのまま社会に投影してしまいますから迷いは余計複雑にわかりにくく(矛盾して答えのないものに)なってしまうのです。
537 Re:やはり話の前提に迷いの原因がありますね。 naru 2006/06/02 00:54
返信ありがとうございました。

大学を卒業した時点でフリーターでした。その頃就職していれば今家を出て独立していたかもしれません。現時点で収入がないのですから、今家を出て独立することはできません。できないとういより、したくないです。と、今はそう言った方がいいですね。

父親とは少し似ていることろがあるように思います。小学生までは家族旅行によく行きました。幼稚園の頃はたぶんよく遊んでもらったかもしれません(写真で一緒に写っているのが結構あったので)。父は仕事が忙しくて夜遅く帰ってましたから普段からあまり会話もなくそれがずっと続いていてきた感じです。

中学生の頃からひきこもっていたらさすがに親も心配したと思います。でも母は自分が友達がいなくて学校も嫌々行ってたのを知ってますから、もしかしたらいじめられてたんじゃないかとか思ってたんでしょうね。家にこもることに関してはあまり触れませんでした。
自我のほとんどは母親じゃないでしょうか。高校生頃から母にべったりでした。それまではほとんど話もしなかったのに。母親に対しては反抗期というものがあったのでしょうね。だからこうやって安心して話せる。父に対しては感情的に何かを言ったこともないので、それが必要だったのかな、と思いました。

両親ともに社交的でないのは確かですが、対人恐怖ほど深刻なものではありません。一般的です。
だとしたら自分が特にひきこもる要因はないような気がするのです。

そこらへんまだ理解できていないかもしれないです…。

父の性格やどうして自分に対して冷たいのか、は今まで一緒にいて少しわかりました。それは自分が長女で始めての子供でどう接したらいいのかわからない、とか中学の頃のこととかあったので話しかけるタイミングがわからなかったのですよ、きっと。自分も同じですから。父は自分に嫌われているのではないかと思っているのです。
でも歩み寄れないのは、自分がこの家にいるからですね。

自分が望んでいたのは「楽な職場」でした。人間関係が嫌なので、なるべくかかわらずにすむ職種を選びました。初めから楽な職場などないということですね。どうでもいいと思いながらも人前で話すのは緊張してたり、いろいろ矛盾していました。

自分は他者を軽視しているつもりはなかったのですが、そう言われると納得せざるを得ないような…。でもそれは例えば飲み会とかでも楽しめないというのは、そういうことなのでしょうね。実際、ここ最近、人と話しても全然楽しくなくて、緊張ばかりというのも多分そいういことなのでしょうね。飲み会の場合は誘われても行かないことがほとんどでしたが…。

他者を軽蔑してでも働かなければならないということもないので、じゃあ働きませんというわけにもいかないですよね。
親子関係、父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です。仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。自分も何か言われるのではないかとビクビクしています。父の前で怖がらずに堂々としていればいいのでしょうか。今はこれしかできません…。
539 シンプルに考えてみましょう。 kagewari 2006/06/02 20:53
■如何に独立するのか?です、
「独立するために収入が必要だ」という明快な動機形成が行われますから、ここに迷いは無くなります。
簡単に言えば「さて、どうやって食っていくか」とか「部屋を借りる金をどうやって調達するのか」とかの発想です。

わかりますか?既に落ち込むとか苦しむとかの考え方が入り込む隙間はありませんよね。
「さて困ったぞ、自分はこういう感じの職場は無理だし」「こういう環境の職場はあるだろうか」「こういう条件は譲れない部分だ」とかね。当然、そんな都合のいい職場はそう簡単に見つかる筈ありません、
だからいんですよ(笑
主体的な『苦労』があるじゃないですか、
それこそ自我の生きた証で、苦労に内向的な落ち込みは連想されません。典型的な台詞があります、
「今苦しい時だけれども、思い悩んでいる“暇”は無い」
この状態に、環境を整理すると、同じ結果「暇が無い」になりますから=落ち込む頻度は構想的に減ります。
※重要な事ですが期限を切る等、決して自分を追い込むような事はしないでください。「無期限」をっ徹底するぐらいでちょうどいいです。

探してもみないのに(面接落ちる回数30回とかやって当たり前なんですよ)、無いに決まっていると考えているとしたら?
これまでの話からある程度推定できると思いますが、
「そもそも落ち込むための企画が台無しじゃないか」と深層心理で思っている事になります。
※食えればいいのであって、「必ず就職しなければならない」という必要はありません。

■さて、自我の分析の方向に話を変えましょう。
> 父親とは少し似ていることろがあるように思います。小学生までは家族旅行によく行きました。幼稚園の頃はたぶんよく遊んでもらったかもしれません(写真で一緒に写っているのが結構あったので)。

ここで、幼児の記憶にはお父さんとの関係に『明快な快と好感の記憶』がある事は確定的です。
重要な事なので、これを前提として押さえてください。

> 中学生の頃からひきこもっていたらさすがに親も心配したと思います。でも母は自分が友達がいなくて学校も嫌々行ってたのを知ってますから、もしかしたらいじめられてたんじゃないかとか思ってたんでしょうね。家にこもることに関してはあまり触れませんでした。

ここが重要です、(いじめられている心配があるのなら余計に)何故母親はそれを放置するのですか?これは母親にとって重大な問題です、時に命に関わる事もある学校での問題から逃げる理由は何ですか?
文面の印象から考えるなら、「プライバシーに配慮した」になるでしょう。
しかしこれは現在社会問題としても知られている話ですよ。
これに対して「見ないことにしたい」かのように放置するのは、自分には当事者責任能力が無い(無抵抗である)という意思表示と同じですから(当然そのバックグラウンドに「○○はどうした」と、父親が気にかけていなければ不自然です)、

その家族が「何か面倒な事から逃げる集団」であった事は歴史的事実だと、この部分も押さえておいてください。

> 両親ともに社交的でないのは確かですが、対人恐怖ほど深刻なものではありません。一般的です。

これは決して一般的ではありません。
精神的な悩みを自我が抱える人格が醸成されるためには「社会から孤立する家庭」や「会話が(対人恐怖で)少ない」という部分は心理学的にも非常に重要なポイントなんです。
精神的な悩みと、実力行使としての苦痛は比例しません。
たとえ父親が暴力的でも「うるせんだバカ野郎」「オメーこそそれで父親か恥ずかしくネーのかよ!」と家が壊れるような流血の喧嘩があったとしても、そこには「わかりにくさ(想像するしかないので、無意識に誇大な象徴化の原因になります)」「情報公開の無さ(どんな奴なのかわからず疑心暗鬼になる)」がありませんから、自我が悩みを抱える心配は全く無いのです。
同時に「物理的な会話が多ければいい」という意味でもありません。何故なら父親が偉大な人物として、家族に明快なコンセンサスがあり、各人が彼を尊敬していれば普段の会話はほとんど無くてもいいのです。しかし、予想がつくと思いますが、そんな父親はここって大事な時に優しく声をかけるもので、前述の尊敬も相まって、その一言は一年に一度でも深く心に残ります。
つまり「相互理解が構成されている」のと、情報公開(こいつはどんな奴なのか)がこの場合にも明快です。

一見わかりにくい些細な問題ほど(なので近所の人にも気付かれない事が多いです)、自我に与える影響は甚大です。
※人間関係で些細な心使いが大事なのと同じです

『完全に矛盾している部分』を見落としています。
性的欲求は動物には普遍ですが、心理学上での人類の性的欲求の意味は「他者とのコミュニケーションする欲求(自分の実存を確認するためです)」と考えてもらえればわかります(実際の性行為を志向する欲求という狭義の意味ではありません)。
幼児(特に赤ん坊)は保護者無しで生きられません、保護が無ければ100%死にます。そして、成長が著しく遅いサルである人類はその幼児期間が異常に長く、その保護(深いコミュニケーション)期間を『幼児なりの性的快』として記憶します。
そしてその裏は死です、
そもそも自我(言葉)を構成(覚える)する初期の動機は「親子におけるコミュニケーションによって得られる快」です。
動物は繁殖期にしか衝動的な性欲を感じる事はありませんが、社会性を獲得するための動機として『一年中性交可能な稀な哺乳類』として進化した人類(常に性欲のストレス下にあります)にとって、その欲求は最もその動機形成にとって支配的です。
※このコミュニケーションも、実際人と会うとかそういう一時的な狭義の意味ではあありません。表現された本を読んだり、映画を観たり、音楽を聞いたり、自分で何か作品を制作したり、これら全ては意図されたコミュニケーションで、この中の一種が仕事であったり恋愛であったり友人関係であるに過ぎません。

人間以外の動物が、自然そのものを(自己表現する)社会性の総体として行動していくのに対して、人類では「人類間のコミュニケーション社会そのものに特別の優先順位(自然から独立した別個の環境として)を持つ」という特性はここからきています。
古代から神々の存在を設定するなど自然を『擬人(神)化』する事によって理解し様としたのも同じ理由(人類間のコミュニケーション社会に置き換えて考えることを自我は優先する)です。

つまり親にとって、子供との間でコミュニケーションが取れてない事は強い不快感を伴う「不安」です。(育児ストレスでどれだけの親が悩んでいるのか想像していもらえればわかると思います。自分の子供との間のコミュニケーション障害ですよ。)
そもそも「家族」という企画は、血縁(安心感のある)によるコミュニケーションを担保するためと、夫婦という性行為の主体と安全を確保するためのバンド(集まり)です。
コミュニケーションに失敗しているなら、それは家族の存在意義そのものが失敗に終わっている事を意味していて、それは始めた当事者(夫婦)ほど深刻に考える問題になります。(夫婦が離婚する原因のトップもコミュニケーションのトラブルです)

自分の子供に悩みや問題があるというのに、これを自分の問題(必ず親の自我構造にも当事者責任があるのですから)として考える事から逃げているのは半端な事では無いのです。
既に失敗している事について、家族の首謀者である親世代が「それを半ば諦めている(敗北を認めている)」と言ってもいいぐらいです。

>高校生頃から母にべったりでした。それまではほとんど話もしなかったのに。母親に対しては反抗期というものがあったのでしょうね。だからこうやって安心して話せる。父に対しては感情的に何かを言ったこともないので、それが必要だったのかな、と思いました。

そう考えていいでしょう。
女性の場合母親は家族というキャラクターの中でも特有の人間関係が生まれます。ママゴトや人形遊びぬいぐるみ家事の手伝いに代表されるように(同一化と呼ばれます)、父親との関係を無意識的欲求に織り込む母親との関係性は、同性という事もあり、血縁の家族というより「同胞」のような感覚が生まれます。
ある意味、家族的ではない分話しやすいのですが、それはどこか上辺に偏りがちで、友達に近いものである事も多くなります。
それだけ反抗期のハードルも低いので、母親との関係だけは維持される事は不思議ではありません。

「それまでほとんど話もしなかったのに」
ですから余計に彼女との関係は家族外の人間関係と見ていいでしょう。
家族を連想させるデリケートな部分を欠いているからです。
母親にしても「子供」と感じれば意識過剰になる分もあったでしょうが、対象者が高校生にでもなれば「女(他人)として気楽に話せる」と彼女も思ったと考える事もできます。

やはりコンプレックの正面は父親になる、
ここも確認して押さえておきましょう。

> 父の性格やどうして自分に対して冷たいのか、は今まで一緒にいて少しわかりました。それは自分が長女で始めての子供でどう接したらいいのかわからない、とか中学の頃のこととかあったので話しかけるタイミングがわからなかったのですよ、きっと。自分も同じですから。父は自分に嫌われているのではないかと思っているのです。

> 親子関係、父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です。仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。自分も何か言われるのではないかとビクビクしています。

この部分が最も重要になります。
大事な事ですが、父親は冷たいのではありません。それでは子供時代に仲良くしていた理由を説明できません。
彼は怖いのです、
「男としての尊敬が貶められる(失望される)」事がです、
だから、娘が「女」に見え出してから、その恐怖心が実体化したのです。
先ほどの説明と被りますが、男の子は父親の権威を誇大なイメージとして幼児期に持ちます。そして母親を手にいいれるためにはその父親を超えなくてはならないと潜在意識で思うので、スーパーヒーローや、怪獣映画、ロボットアニメ、TVの格闘技等に熱中するのです。つまりこれが思春期を通過し大人になると「性行為を許されない不安」として認識され「立派な大人にならないと恋人も出来ない」とか「芸能人のようにカッコ良くないと性行為が許されない」とか「不良のような暴力的強さを誇大にアピールしたくなったり(不安から逃れるため)」や「年収に拘ったり」「なにやら難しい事を言って尊敬させよう」とします。
それほど一般的(特に社会適応型人格の場合)には男は不安を持っていて、社会的な成功への強い欲求はほとんどそんな潜在意識があるためです(前述の説明の「年中繁殖期」の意味がここで繋がります、人類特有の性的欲求ストレスの継続=性的不安の継続)。

前述したとおり「血縁としての安全なコミュニケーションの場」これが家族の狙いです。わかりますか?「ひいき目(甘え)に見てもらえるよね?」って事ですよ。
とても簡単な仕組みです「お父さん(社会的地位)」と呼ばれるだけでもちょっと快感(不安を解消し安心した気分)なんですよ、男は。

その血縁の女(娘)が、何か冷淡で、話し掛けてくれないんですよ?
彼は不安になります、自分から話し掛けて答えを聞くのが怖くなります。「お父さんって立派ね」なんて浮いた話を期待しているのではありません、何も意識する事も無く、さも当たり前に気楽に「お父さん」と呼ばれれば十分なんですが、そういう気楽な会話が無い。
自分から話し掛けるのも怖い、

「父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です」なんですからね、
「父は自分に嫌われているのではないかと思っている」そのままです、
(女に性的に嫌悪:軽蔑されていると解釈してみてください)

これが会話が疎遠になった理由です。
かといって子供が親の対人恐怖に配慮するなんて不自然な事は滅多にありませんから、親自身に不安神経症傾向があると、子供の自我はかなりの高確率で問題を内有します。(つまり近所の人や親戚等でこの家庭に第三者的に関与する大人が別にいればその心配は大幅に後退します)

「仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。」
正反対ですよ、
会社の同僚ならまだいくらか気楽に話しかけられるでしょう、何かその答えに失望があっても赤の他人なんですから対して気にもなりません。彼は過剰なぐらいnaruさんを「自分の娘」と意識しているので不安で何も言えなくなっている(初恋の人を友達に紹介されて何も言えなくなるのと心理的には同じ)のです。
時折世の中の父親は「あんなしょうがない奴の事など知らん」などとうそぶく発言をする事もありますが、その大半は単なる強がりです。

前にも話しましたが、実際に今父親と仲良くする事に意味はありません。
彼はどんな人間なのか知ることが大事なのです、
見方が代わる事で、彼の見え方も大きく変わってくるでしょう。

>例えば飲み会とかでも楽しめないというのは、そういうことなのでしょうね。
この部分は一元的に精神的な悩みとは関係ありません。
社会を構成する事はそもそもストレスで、そのガス抜きとして飲み会があるのは事実ですが、飲み会も又社会です。
社会適応型人格の人物には飲み会も社会である事の苦痛は少ないのですが(苦痛はあるんですよ、彼らも。だから「私はいかない」と簡単に言ってしまうと、そうはさせないと逆に強く誘ってきたりするのです)、社会適応型のタイプでは無い人物にとっては、飲み会と暴走族の集会には大きな違いがありませんから、ちょっと付き合いきれないと思ってもそれは不自然ではありません。

しかし社会適応型の人格にとっては「それも大事なコミュニケーションの場」ですから、その飲み会がとても大事で意義あるものだという部分を十分尊重した上で
「私はちょっと苦手なので」とか「今日はどうしても用があって」と言って断るべきです。
社会適応型の人格の人物にも勘のいい人はいますから、「あっそうかそういうの苦手なんだね」と理解してくれる人も多いものです。
541 Re:シンプルに考えてみましょう。 naru 2006/06/06 04:48
返信ありがとうございました。

> 「独立するために収入が必要だ」という明快な動機形成が行われますから、ここに迷いは無くなります。

迷いはなくなりますが、日々悶々と過ごすことにはなります。

働くことに迷っていますが、その前に外に出ることにも迷っています。
「明日こそハローワークに行くぞ!」と思っていても当日になると面倒くさくなってしまい、結局行かずじまいです。

これは主体的な苦労に当たりますか?

必ず就職しなければならないわけではないですが、1日でも働く気になれません。

以前は怖くても働く気力はあったのに…。

これでは食ってもいけないですね。

勇気を出さなければいけないんでしょうね。

昨日ニートに関する番組をテレビでやっていたので見たのですが、合宿や共同生活等により、ニートやひきこもりだった人たちが、仲間で楽しそうに話せるようになったり、頑張って働けるようになっていましたが、自分はそのようになれないと思いました。

なりたくない、と思いました。

そんなに短期間で変わってしまうものでしょうか。働く意欲が湧くのでしょうか。
共同生活にそのような効果があるのでしょうか。

「共同生活もできないなら、社会ではやっていけない」といわれていますが、まあその通りでしょうね。
自分を他人にさらすことができない、のですから私は変われないだろう、とは思うのです。

これって、ただ意地っ張りなだけしょうか。

負けず嫌い、でも弱虫。

他人に気を使うことができても、それはとても自分に矛盾してることのように感じてしまって、それはだた照れ屋なだけでも人見知りなだけでもないような気がするのです。

精神分析に関係ないコトばかりでした…(^^;)

父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。

彼の性格も考えていることも。

なので、対人恐怖に家庭環境が関係しているのなら、私の対人恐怖は治るはずですよね。

昔は大人なんて怖くなかったのです。

むしろ他人にはこちらから進んで声をかけてしまえそうな、感じで。

当時、恐れていたのは学校の同級生だったからです。
その頃外出しなかったのは、同じ社宅に同じクラスの男子が住んでいて顔を合わせたくなかったのです。
外出することで同じクラスの子達にばったり会ってしまうのをひどく恐れていました。だから外出せずに家でアニメばかり見るようになったのですが…(笑

知り合いになった人には自分のダメな部分をアピールしまくります。それでも私と一緒にいたいのですか?と確認するくらいに。大学時代はそんな感じで、特に知り合いもいませんでしたが。

飲み会と暴走族の集会の例にはなるほど、その通りだと思いました。
どちらも私にとっては同じようなものです…。
社会適応型の人でも自分と似てるな、と思うところもありますが、あ、やっぱり違うと思うことが多々あります。
その人が言う人見知りと私の人見知りでは何か違うのです。

私は、社会適応型の人格になれますかね…?

なりたいわではないのですが、憧れはあります。

ニートの人たちがみんな社会適応ではない人たちではないと思うのです。
もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。







542 何点か修正が必要ですね kagewari 2006/06/07 13:33
> 「明日こそハローワークに行くぞ!」と思っていても当日になると面倒くさくなってしまい、結局行かずじまいです。
> これは主体的な苦労に当たりますか?

違います。「明日は行こう」か「他の選択肢を考えよう(働かない事も含めて)」が、苦労です。
「明日は行こう」と考える事で(必ず行きますから)、自分を行かせることに苦労している事になり、「他の選択肢を考える」のも又一苦労です。

そもそもハローワークは適当じゃないと思います。
今の状態だと、バイトでも十分なぐらいですから、ネットで探す某雑誌で探すって選択肢の方が有効でしょうし、そもそも仕事をする方向の選択肢ならやまほど履歴書が必要になりますから(履歴書は直筆で書くほうが良かったりします)、履歴書30枚用意するだけでも又苦労です。
やれる事は山ほどあります。

繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。
通常証明として、心療内科等の診断書が必要になりますから、この場合には病院探しをする事になります。
実際モチベーション無く就職退職を繰り返すと(人事担当者としては短期退職があると凄まじい赤字計上になるので、これは非常に大きい損失になります)、そちらの方がコストになりますから、むしろ一時的に生活保護により生活の安定を確保し将来的な就労の準備(国から見ると投資になるので、キチンと税収として投資効果があります)をする選択肢もありますし、結果的にも就労が難しい場合でも「心因性の問題」はある意味文明の結果であり、公害に限りなく近いものになりますので、自分自身の権利として主張する部分は主張する事は市民の責任でもあります。

そもそも何の仕事があるのかあれこれ考えるだけでもいいのです。
いろんな職業の実態や、職員の声をネットで拾うだけでも膨大な時間を要します。

> 必ず就職しなければならないわけではないですが、1日でも働く気になれません。

そのとおりです。

> 以前は怖くても働く気力はあったのに…。

これも説明しましたとおり、「働けない自分への内向(ナルチシズム)」によって、仕事した以上の満足を得ていますから、そう思えて自然です。

> これでは食ってもいけないですね。

そんな事はありませんよ。
事実今、ある共稼ぎ夫婦の世話になっているのですから、今の職業は「ある夫婦の自宅での居候」となります。

> 勇気を出さなければいけないんでしょうね。

勇気ではありません、現在仕事をしないで内向しその快感で代謝しているモチベーションを外に振り向ける(必ずしも仕事である必要性はありません)意思の問題で、そうではない場合には「仕事をしない事でそれを問題にし、自分自身を内向的に満足させている」ときちっと自覚する事です。
自覚する事で、それは無意識から自意識マターになりますから、暴走する事を意識的に制御する事も出来ますし、ちょっと待てよと他の選択肢を考える余裕も生まれます。
既にこの瞬間「内向的満足」は挫折しますから、モチベーションは行き場を失い「さあ何をしようか」と現実(外)へ向く事になります。

> 昨日ニートに関する番組をテレビでやっていたので見たのですが、合宿や共同生活等により、ニートやひきこもりだった人たちが、仲間で楽しそうに話せるようになったり、頑張って働けるようになっていましたが、自分はそのようになれないと思いました。

こういった番組は最悪です。
北朝鮮の政治的プロパガンダ番組と違いありません、見るに耐えないのでたいがいこういった番組を私は見ません。
『笑えないお笑い番組』のようなものです、
痛いというか、引いちゃいますねマジで

> 他人に気を使うことができても、それはとても自分に矛盾してることのように感じてしまって、それはだた照れ屋なだけでも人見知りなだけでもないような気がするのです。

矛盾する感じがするのは「他人に気をつかった事が無い」からです。
現在の内向化傾向ですと、他人の人格(どんな人物なのか)をほとんど認知できていませんから(簡単に言うとな内向化が停止するといろんな面が見え出しその人物の印象そのものが変わるからです)、構造的に気を使う対象『他者』を認識できません。
現在の状態は、少ない引出しの中から特定人物のモデルを投影している(新たに知っているのではなく、イメージを当てはめている)状態なのです。

> 父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。
> 彼の性格も考えていることも。

わかっていませんよ、「100%間違えている」と断言できます。
何故なら、彼には神経症傾向があると考えるのが自然ですから、彼の自意識は自立的に考えるフェーズが相対的に少なく、現在の彼の状態は偏った状況にある自我の在り様となります。これまで彼の人生の中で「彼がそのような人間か表現された例は非常に少ない」からです。彼が信頼している友人や、ふと偶然知り合いにあった馴染みの店の人間であるとか「ある特定の人物」だけが、そこに偶然遭遇する可能性はあるにはあるんですが、それにはその対象者が彼に関心がなければ記憶されませんから、その確率は非常に少ない(当然彼自身も知らない)と言えるでしょう。
現実自由に自立的に考る機会も少ないと考えられます(大半は無意識からのストレスに対する場当たり的リアクションの域を出ないということです)。

又、そもそも性格という概念は論理矛盾で、存在しません、

「父親がどのような人なのかはとってくにわかっている」
その可能性があるとするなら、彼を幼児期の頃から良く知っていて、彼の両親とも親しく現在の彼にかかっている脅迫(強迫)性について、一定の推測(どんな人間かは現在表現されていないので、脅迫傾向をデフレートして推定する以外無いからです)をするケースになりますが、この場合でも「どのような人物なのか推理する事はできても、そこに“わかりきっている”のような印象を持つことは100%不可能」なのです。

ですから、断片的な情報や、彼特有の仕草、彼を巡るエピソード、設問に対する受け答えから「彼がどんな人間か考えなくてはいけない」のです。「彼は少年時代に何を考えていただろう?」等考えて見ることは山ほどある筈です。

ですから
■前にも話しましたが、実際に今父親と仲良くする事に意味はありません。彼はどんな人間なのか知ることが大事なのです、
見方が代わる事で、彼の見え方も大きく変わってくるでしょう。

と、前に話した部分はここに被ります。

脅迫(強迫)無く現実を直視している人は「自己紹介」しますから(むしろ自意識としては「こういう企画でやってます」とプレゼンしたい欲求を持つものです)、その自意識となにやらかにやら関わる事で自然と「どんな奴なんだお前?」がわかってきますが、内向性のある人物は紹介する自己が強迫下にあるので自己紹介というフェーズが成立しないのです。
>知り合いになった人には自分のダメな部分をアピールしまくります。
と、いう事です。
自己紹介が成立していませんよね。
どんな哲学で、「何故そう思うのか」が欠落していますから、話を聞いても相手には何の話だかよくわかりません。
突然「角のカレー屋が如何に不味いのか」を話かけられても、何も答えられませんから。そのカレー屋がどうしてそうなっているのかとか、本来の目的は何なのにとかがないとストーリーとして成立しないのです。

> なので、対人恐怖に家庭環境が関係しているのなら、私の対人恐怖は治るはずですよね。

病気ではありませんから、治ると表現するのは正確ではありませんが、自然な形に復元するのは間違いありません。
今の状態自体、「相当無理した意識的な操作で造り上げた」と言ってもいいものですから。


> 昔は大人なんて怖くなかったのです。

「なんて」の部分に蔑視があります、
そもそも大人が怖いなんて誰も思っていませんから、対人恐怖が問題なのであって怖くない状態は「自然」であって、コメントされない筈なんです。
これが蔑視表現を含んだ上でコメントされる理由は、葛藤を解決したのではなく、抑圧に成功した自意識の「自分自身の中のやりこめた感」があるためで、この気持ちが投影されて「なんて怖くない」となるのです。この心象風景は「問題を隠蔽した」ものであって、解決していたのでは無い反証になります。
ここにも親(=大人)の投影がありますね

> むしろ他人にはこちらから進んで声をかけてしまえそうな、感じで。

これも同様に、「その処理をした自意識」に自慢げな気持ちを感じていたからこその感情で、腹を割ったコミュニケーションができていたのではありません。

> 当時、恐れていたのは学校の同級生だったからです。
> その頃外出しなかったのは、同じ社宅に同じクラスの男子が住んでいて顔を合わせたくなかったのです。

前述を踏まえてもらえれば、とてもわかりやすい話になりすよね。
「抑圧された父親のイメージがその男子に投影され、隠蔽したものが表面化した」と考えられます。
「想像上のイメージを抑圧したが、無意識にそれは現実の人物に連想として投影され、これを抑圧(現実にいる人物でるからね)出来なくなったため、脳内だけでは無く現実自体を内向化(引き篭もりイメージの世界:アニメばかり見る)させなければならなくなった」

> 社会適応型の人でも自分と似てるな、と思うところもありますが、あ、やっぱり違うと思うことが多々あります。

全く似ていませんよ。まるで別物だと思ってください、
現在のnaruさんにある社会適応型の発想は「欺瞞」だと思ってもらっても問題ありません。

> 私は、社会適応型の人格になれますかね…?
> なりたいわではないのですが、憧れはあります。

社会適応への考え方自体に問題ありますよ。
社会適応とは「畑に並べて植えたトウモロコシが予定通り収穫になった」のようなもので、国や地域が期待する漠然とした保守的プロトタイプをメインのキャラにしているのか?って話で、厳密にいうと「その漠然とした期待に特別意識する事もなく馴染んでいる人」になります。完璧に成立するとヴァーチャルな自然を成立させたに近いので、その結果は非常に美しいものです(竹を割った性格)。

社会適応型の呼称は(性格の概念と同じように)、実態のあるものではなく文化人類学的に外から見た時の分類でしかありません。
ですから「社会適応を意識する」という現象自体論理矛盾なのです。
確かに社会適応を志向する可能性はありますが、
これは「アメリカ生まれで白人だが、日本文化に共感して来日し、自ら日本人になる事を望んだ」に近いものになります。

つまり、社会適応しているというより「その時漠として為政者等が期待した人物キャラクターを『どんな人物像が』特定し、その概念に後から共感する事で、意識的に『その特定の人格モデル』に自分の意識を誘導しその人になる事を実現する」もので、つまり「漠然としたものであってはならないのです」
自然にその人格傾向に馴染んでいるのでなければ、その人格傾向を「まず、どのような人間か」特定しなければなりません。
何を理想とし、何をモチベーションとし、国家に対していかなる構えで政治に参加し、経済活動ではどのような行動選択をするタイプの人間でもっぱらその動機は如何なる美意識によるのか?
これらを考えて、自分なりにそれを志向する事になるからです。

社会適応型とは、そんな「ある人格モデル(社会主義型と言い換えてもいいでしょう)」の呼称であって、何か特別なものではありません。

> なりたいわではないのですが、憧れはあります。
ですので、この部分の投影は
「社会適応していい子になると、誇大なイメージに美化された深層心理の父親に愛されるかしら」という概念が投影されたもので、反動的志向に過ぎず、脅迫(強迫)観念の一部だと考えてください。

> ニートの人たちがみんな社会適応ではない人たちではないと思うのです。
> もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。

私は、再三HPテキストやブログでその点についてコメントしていますが、
共同幻想の瓦解は現代文明のトレンドで、社会適応等という概念は守旧派の最後の砦のようなもので、現在ほとんど意味を成しません
。本来民主主義が予定した「自由な個人による投票」とは、自由意志のある個人を前提にしなければ正当性が担保されませんから、これは社会的なストレスになります。
ニートの存在は、社会学的にはその民主主義的ストレスの発現を意味しますので、彼らの就労をめぐる環境が(ベンチャー企業など)同様に自由になっていかない限り構造的な問題は解決しません。
私は小泉首相支持者ではありませんが、彼の現政権における改革は上記の内容を意図したものです。

※昨今の企業に終身雇用などありませんし、そもそもその会社が何年在るのかすらわかりません。途中入社の即戦力は全ての企業で労働の主力になりますから、足手まといな社会性など無い方がいいのです。何故かと言えば独立した個人は、それを自分の美意識や哲学として持ちますから、あえて社会性等と言う概念を必要としません。つまり個人は社会とのコミュニケーションを前提とするoneだからです
。個には常にこれを特定する母集団がありますから、そもそも個を社会に組み込んで埋没させ社会化しなければならない等と言う発想は近代の資本主義・帝国主義時代の考えで、先進国には馴染まない発想なのです。
※「総数10の集団に属する1」と「10分の1のユニーク(個性)」との違いです。後者にも母数として社会が『その成立要件』として関わっているのです。
社会不適応とは、反社会ではありません。

> もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。

これは典型的な症状なんですよ。
抑圧構造のためには、自我を抑えつける特権的な「付け焼刃の道徳」を必ず必要とします。そのステレオタイプな付け焼刃の道徳とは、今時ワイドショーでも通用しないような保守的道徳(昔小学校の授業にあったようなものです)の事で、精神的に悩むタイプの人格の典型的な志向は「社会適応」なんですよ。
つまり、これが脅迫(強迫)症の内容そのものだからです。

簡単に言うと、人が何故悩むのかを良く知らない素人には「彼らは社会適応を願っている」になっちゃうんですよ。
つまり、
前述の番組も含めてですが、彼らは「意識的に社会適応を促している」というよりも、相談にくる人物がみな「社会適応を問題にしているので、適応させたら解決だ」と、考えてしまっているのです。

本来は「社会適応にとり憑かれている」と考えるべきなんです。
悩みが解決した結果「その意味がわかった上で、社会適応をモデルにする」それはアリなんですが、
546 Re:何点か修正が必要ですね naru 2006/06/10 00:25
返信ありがとうございました。

「ハローワークに行く」ということは就職を少しでも楽にできないか、と考えていたためです。それに景気が良いと言われているので就職しやすいかもしれない、という安易な考えがありました。アルバイトは接客業が多いし派遣でも即戦力にはなれませんし、私ができることは限られています。
その限られた中で探すというのが大変なんですよね。そこに時間をかけてもいいということですよね。
大学を卒業したら、なぜか就職しなければならないという考えがありました。世間でもそう思われていますよね。

まずは履歴書を用意することから始めたいと思います。

> 繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。

「親の教育放棄」といっても、親は自分たちに非があるとは思っていませんよ。育て方が間違っているなんて考えてもいないと思います。
自分の進路は自分で決めてきたし、自由奔放にやらせてもらったと思っています。
教育を放棄させたら親は憤慨すると思います…。

> 通常証明として、心療内科等の診断書が必要になりますから、この場合には病院探しをする事になります。

心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。対人恐怖のことは話していませんが、それは誰にでもあるよ、と言われそうです。

なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。これ以上自分に対して落胆してほしくないので。

生活保護について、ですが、
自分では軽度の対人恐怖だと思っています。これは診断されたものではなくて、自分で調べたりして得た結果です。これは精神病ではないので、病気ではありませんよね。また五体満足なので、働く意思さえあればいつでもどこでも働けるのです。
だから、生活保護は適当でないと考えています。

ところで、私には妹が2人いるのですが、
同じ家庭環境で育った妹たちにはなぜ対人恐怖が表れないのでしょうか。
隠しているだけしょうか。妹には友達も彼氏もいます。働いてもいます。
父とは特に話はしないようです。母とは同じように仲良しですが。

合宿、集団生活によって、社会適応が身につくものなのか疑問です。
私は1週間他人と共同生活をしましたが、慣れるどころか苦痛でした。それは自分に対人恐怖があったからだと思いますが、その中で3ヶ月もすると変わるものなのでしょうか。抑圧によって間違った作られた強迫的なものが消えるということでしょうか。実際、3ヶ月もいなかったのでわかりませんが、私は変われなかっただろう、と思うのです。打ち解けたいとは思っていましたが、どうしてもその場から逃げ出したくなり、ストレスがたまってどうしようもなかったと思うのです。

現在、私は父方の祖母や親戚とも疎遠です。父のことを知る術はないのです。
彼の見え方が変わらない限りは、私は変われないのでしょうか。

父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

他人に気を使う、というのはお年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげるとか、そういうことでしょうか。私は表面上はそのように気を使うようにしています。でもこれは自分から進んでするというよりは、しなくてはいけないと思ってしています。
他人の前でくしゃみ、せき、あくびをしない、というよりはできない、ということは他人に気を使っているのでなくて抑圧されているからなのでしょうか。

私は他人といる時は気を使っていると思って、でもそれは抑圧された行動の結果なのかもしれません。

例えば私みたいな家庭環境で育った人ってたくさんいると思うのですが、みんな我慢して社会適応のふりしてるのでしょうか。社会適応(このように呼ばない方がいいですね)を意識しなくても、「そのようにしなかればならない」と思って、人間関係を築いたり、働いたりするのでしょうか。

自分がとても損している気がするんです。

すみません、このスレッドってどのくらいまで延ばしていいのでしょうか?
550 見方というか立ち位置が違いますよ kagewari 2006/06/11 18:13
>アルバイトは接客業が多いし派遣でも即戦力にはなれませんし、私ができることは限られています。
>また五体満足なので、働く意思さえあればいつでもどこでも働けるのです。
>だから、今は働いてお金を貯めないといけないとは思っていますが、どうしても働けません。

>対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。なので喫茶店で休むことも電車でイスに座ることもできれば控えたいです。
>自分では軽度の対人恐怖だと思っています。

> なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。これ以上自分に対して落胆してほしくないので。
>父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。彼の性格も考えていることも。
>父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

各方面で、話が矛盾しています。
つまり、前回のレスも根拠の無い話が中心になっている証明です。
(何度か最初から自分の書き込みも含めて読み直してみると新しく気がつく事もある筈です)
個別の返信で説明しましょう。

> その限られた中で探すというのが大変なんですよね。そこに時間をかけてもいいということですよね。

10年ぐらいのスパンで考えてください。
期限を区切らないで、余裕を持たせる事が大事です。

> 大学を卒業したら、なぜか就職しなければならないという考えがありました。世間でもそう思われていますよね。

誰もそう思っていません。
それは専門学校だけです(職業訓練に近いですから)、
大学には「大学院」があり、研究機関でもあります。
当然理数系になれば研究予算(民間の予算がつくこともあります)もついているので、半ば職場に近い状態のケースもあります。
一部の大学のみが、大企業や国家機関への入り口と化しているだけで、就職目的のエリートコースと認知されていますが、二流三流校には関係の無い話です(皮肉な事に二流三流の方が大学の本旨に合っているのかも知れません)。

そもそも大学は、学問を学ぶ場所で文学部等になれば余計に仕事と関係ありません。
本来『神学校』を始まりにする大学の存在は、専門的な知的階層の重要の高まりから発展していますが大学の始祖が「神学、医学、法学、哲学」ですから必ずしも産業革命以降の「ベタな経済活動」に従属しているものではありません。
そもそもがハイレベルの聖職者の供給が、有名な修道院(知的殿堂として有名)だけでは不足した事が原因で、資本主義の労働者になるためではありません。
大学に行くことは同時に労働者階級を意味しますが(昔はヨーロッパのセレブ女子は大学にはいきませんでした、その年齢で既に社交界デビューですから)、特にヨーロッパは一般労働者は(組合がしっかりしていますから)大学に行きません。ドイツでは職人文化が今でも残っていますし(マイスター目指して仕事することになります)、

今や大学のイメージの半分は「役に立たない学問を道楽でする場所」です。「役に立たない」の比喩は「個人的な嗜好でその意義が定義されている」を社会の側から揶揄した表現で、個人にとっては大事なテーマを個人的な理由で勉強する場所です。

> > 繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。
>
> 「親の教育放棄」といっても、親は自分たちに非があるとは思っていませんよ。育て方が間違っているなんて考えてもいないと思います。
「教育放棄」じゃありません「養育放棄」です。
生活保護の支給のためには、「親にも経済力が無く、これ以上身内の者の生活を支援できない」という書類にサインする必要があるんです。

言葉の取り違えとは別に、
「親は自分たちに非があるとは思っていません」
私は「親に非がある」とは言っていません、
「親の(子供が何処の誰だろうと)人格に個別に問題がある」と言っているのです、その子供にどういう影響があるのかは、その後日談です。
神経症傾向のある、その夫婦の将来を心配に思うぐらいで自然だと言う意味です。
つまり
>心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。対人恐怖のことは話していませんが、それは誰にでもあるよ、と言われそうです。

こんな認識で心配なのは「母親が」ですよ、
「現代社会の現実認識もまるでなっていない人物」となりますから、彼女自身生きていく上で、現実認識すらできない人物である証明になりますから(当然自分自身の人格的問題にも気がつきません)、将来高齢になって夫婦だけになってからの人生が思いやられるって事ですよ。

> なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。

「あなたは大丈夫?」と言ってあげるぐらいの話です

>これ以上自分に対して落胆してほしくないので。

落胆しているのは辞めた会社の上司です

親子関係は既に成立していませんから(彼らにも親である当事者能力はありません)、落胆も何も「彼らは何に落胆するんですか?」
ここがちょっとわかりません、
彼らが何か期待している事が、その前提になりますが親子関係が成立していないのですから、彼らの自意識としては「家族の問題が内輪から外に漏れないように管理してくれ」かも知れませんが、彼らの無意識の脅迫(強迫)は、「せいぜい問題でも起して私の道徳(自分自身の抑圧構造保守のため)が満足するような説教のひとつでも言わせてくれ」になるので、

今の状態は“見方”を変えれば
「期待に答えているんじゃないですか?」

> 教育を放棄させたら親は憤慨すると思います…。

デコードすると、
「期待どおりの憤慨事例に遭遇して大喜びして興奮(怒る)する」になります。
これらは無意識からの強迫になりますから、本人にはほとんどその自覚が無いことになります。

> 同じ家庭環境で育った妹たちにはなぜ対人恐怖が表れないのでしょうか。
> 隠しているだけしょうか。妹には友達も彼氏もいます。働いてもいます。

兄弟姉妹関係は、クラス(階級)社会です。
当然この他者同士は相互に意識する関係にあり、影響力もあります。
今のnaruさんの在り様が大きな彼女達に大きな影響力を持っているのは事実ですから、そこを意識して別の形に認識されている可能性は高くなります。(長女長男は、両親が大家族を計画していない限り「擬似的一人っ子」ですから)

姉の問題行動に嫉妬して、妹が人格障害的な症状(意識的反動形成)を引き起こす場合もありますし、姉の様子から「何かがおかしい事」に気が付き(妹弟は家庭内の第三者的視点を持つ可能性も高いので)、自分はこうすべきだと冷静に考えるケースもあります。
両親と同じように人間関係にそれを投影し、自分自身の自我構造を安全圏に置いて、問題を子供に発現させる事で問題を隠蔽化させる事も考えられますから、その場合問題は彼女達の家庭内で起きます。
可能性は複数ですが(相談事例から、精神的な問題において兄弟姉妹になんら関係が無いことはほとんど在り得ません)、家族も他人の集団にある事には変わりありません、それぞれに個性がありますから、問題をどのように認識するのかは大きく違うのです。

naruさんの事例も「ある個人が偶然親で、ある個人が偶然その娘である」という個別の関係性であって、親が娘に投影している強迫性も親の個人的な想像の世界ですし、娘が感じる強迫性もnaruさんの個人的な想像の世界で象徴化されていますから、妹さんの立場(見方)からすると、その対人認識の内容が「全く別人」に見える可能性もあるのです(問題が無いという意味ではありませんよ、感じ方が違う可能性です)。

> 自分では軽度の対人恐怖だと思っています。

間違えです

> だから、生活保護は適当でないと考えています。

間違えです、
現在同様の症状で生活保護の支給を受けている人や、通院している人を、間接的に侮辱している事に気がついていますか?

> 心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。

『私もそう思います。』と付け加えていますね、
そう言っているのはあなた自身です。
母親自身の葛藤を隠蔽(人格に問題があるのではなく「子供が怠け者なだけだ」という話をデッチ上げて)する僕(しもべ)として、
彼女や彼女の夫の問題を(不良債権を隠す社員のように)自分の仕出かした不始末のように矮小化する事を狙うもので、社会的立場からはそれはとても困る事なんです。

「何、問題はいい加減な仕事されて辞められた会社(他人)なんだから、私達は関係無いのよ。何処の誰だか知らない人が迷惑しても別にいいじゃないどうせ他人でしょ」
社会の側では困るんですよ、そういう無責任な家庭運営をされると

「大変、どうしたのかしら(この人もその尊厳を認めなければいけない他人なのだから)あなた大丈夫?(この人物に大きな影響力を持つのは自分だったのだから)私はこれでよかったのかしら、、、何でもいいから教えてくれない?私はどうだった?」些細な事でも、それが社会に対して表面化した事なら、気にする方が自然じゃないですか?

■携帯が故障した。今日の商取引にどうしても必要だ、困っていたら両親が自分の携帯を貸してくれた、その携帯が原因で自分は責任を取って会社を辞める事に・・・。

激しく気になりませんか?
「私の貸してあげた携帯で何かあったの」と、
無関心どころか、「期待に答えて大成功するべきだった」と考えていたら?こんな不自然な心理をどう説明するんですか。
問題のある携帯を渡して、自分はそれが手元から離れて開放され、自己嫌悪するかわりに「何をしでかしたのあなた!又やったのね」と言えば完璧に自分と携帯の問題を隠蔽できます。

> 合宿、集団生活によって、社会適応が身につくものなのか疑問です。

前回のレスにも書きましたが、集団生活と社会適応などに何の関わりもありません。
もう一度書きますが、笑えない冗談としか思えません。
合宿で学ぶのは『秩序』と『マナー』であり、その規制の中で自分の利益を最大限確保するための「戦術」であり、同様の理由の延長にある「戦友探し」です。

> 彼の見え方が変わらない限りは、私は変われないのでしょうか。

変わりません。
今私がnaruさんを他人に紹介するなら「父親との間のコンプレックスが原因で、自意識が無意識に強迫されている人」です。
その父親のイメージを造ったのもnaruさん自身なのですから、現在の父親に対する認識は、その無意識のイメージを証明する「都合のいいもの」でなければなりません。

> 他人に気を使う、というのはお年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげるとか、そういうことでしょうか。私は表面上はそのように気を使うようにしています。

違います、
他人に気を使うというのは、他人の考えている事を自分なりに予測して、それを「こうしたいのだけれども、協力してくれませんか」と言わせないでそれに沿った行動をする事で。
気(考える)を使う(時間をかける)という意味です。
推測が外れていると「おせっかい」ですから、自分から進んで気を使う時には(あてが外れる事に準備するのが自然なので)「余計な事かも知れないけれど(言外に「すいませんが」という意味)」のようなニュアンスを付けるのが自然です。
“Excuse me”が一番近いでしょうか、

「お年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげる」のはマナーであって、気を使うとか親切とかのジャンルの行為ではありません。
『わざと席を譲らない』『目の前でドアを意地でも閉める』事に合理的理由が無いからです。

>でもこれは自分から進んでするというよりは、しなくてはいけないと思ってしています。

ですから、自分の気の使い方が間違っていれば相手の迷惑になりますから、自分の気の使い方は現実感覚のバランスが取れているのか?が最も重要になります。
バランスが取れていないなら、むしろしないほうがいいのです。
社会不適応型思考の人物が社会適応型の社会で、社会適応型思考だと勘違いされた時等、この行き違いで苦笑いするケースが多くなりますが、これは「ちょっと迷惑だが苦情を言うのも不自然で、気を使ってくれた人への感謝も同時にある」という複雑な心理の表れです。

> 他人の前でくしゃみ、せき、あくびをしない、というよりはできない、ということは他人に気を使っているのでなくて抑圧されているからなのでしょうか。

自分の不自然さがバレる事への警戒です
変に気を使ってもらいたくないので、風邪である事を隠そうとする場合もあります。

> 私は他人といる時は気を使っていると思って、でもそれは抑圧された行動の結果なのかもしれません。

違います。
抑圧構造の主力は擬似道徳ですから、自分の道徳が本物である事を証明しなければならないのです。
「しなければならない」
>しなくてはいけないと思ってしています。

のです

> 例えば私みたいな家庭環境で育った人ってたくさんいると思うのですが、みんな我慢して社会適応のふりしてるのでしょうか。社会適応(このように呼ばない方がいいですね)を意識しなくても、「そのようにしなかればならない」と思って、人間関係を築いたり、働いたりするのでしょうか。

ニートです、
あるいは、自分の葛藤要因と向き合い、自分なりに努力し反省して自立して自分の人生を生きています。
むしろ本来正当性の無い社会適応型の雛型に拘束されませんから、家庭に少々問題がある条件からから独立した人物の方が、仕事等のポテンシャルは適応型の人物より構造的に上です(自由に考える事と、細かい部分に対する認知度が上だからです、ですから能力が普遍的に上なのではありません)。
ですからこれは社会構造全体に一致する事になります、
仕事のポテンシャルが上の人物が社会適応型でなければ、適応型の社会の秩序を乱す事にならないので、通常会社組織等ではこの不適応型の人物が仕事を引っ張り、適応型の人物が管理職に向いているという相互補完で世の中は循環しています。
それだけ「問題のある幼児環境(普通じゃないと言い換えても同じです)発」の人物が社会に多い事も又事実なのです。

> 自分がとても損している気がするんです。

それは報酬を受け取っているのが、無意識だからです。
内向的な落ち込みによる興奮(両親の正当性に対する甘えを含みます)によって自我総体は報酬を得ていますが、自意識はこれに巻き込まれている立場になります。
又、同時に精神年齢的には自我の一部は小学生的発想のまま抑圧されていますから、「そもそも仕事のこと等考える必要が無い(自分は特権階級で親から進んで自分の世話をして当たり前だ)筈だ」という心理がある事も原因です。

つまり、目線や見方が「意地でも誰々の子供である」という属性に拘って興奮しているため、外の世界で何が起きているのか?のような着眼に全く関心が無いのです。
仕事や、他人が何を想い、大人がどんな風に人生を生きているのか等「どうでもいい」という立場に“構造的に定着(固着)”しているのです、

> 父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

つまり、この反対です。
『イメージの中の象徴化された父親』を守るために、現実の父親の存在は都合が悪いんですよ。ネタバレするからです、
(これは思春期を原因にする反抗期とは違います)
見方を変えれば(象徴化されたイメージの)父親と関わる事に必死なのはraruさん自身なのです。

> すみません、このスレッドってどのくらいまで延ばしていいのでしょうか?

スレッド表示が見にくくなってきていますから「511無気力です。(2)つづき」として、新しく立ててもらってもいいですし、表示が気にならなかったらそのままここに返信してもらっても構いませんよ。

ここは「Kagewari精神分析相談事務所フリー公開掲示板」ですから。

753 無気力です。 naru 2007/06/01 15:23
kagewariさん。こんにちは。
以前no.511の無気力について相談した者です。
無気力は続いています。
今年の1月から最近までアルバイトをしました。
1年近くひきこもっていても働けるものだ、と実感しました。
でもその間は情緒が不安定でした。
突然キレそうになったりしました。職場での自分は無感情でした。
うまく言葉で表せません。
短期就業を理由に仕事を辞めました。
辞めた理由は昼休みの時間何をしていいのかわからないことと、
人と話したくないこと、
それと、職場では鉄仮面みたく振舞ってしまう自分が嫌だったからです。
少し欲張って、フルタイムで働くならもう少し時給が高くても良いのではなかろうか、とも思っていました。
以前の相談で、生活保護も受けられるとおっしゃられましたが、
私は普通に働けるみたいです。
職場で人と会話しなくても良いなら、ってそんな人どこが雇うのでしょうね。

4ヶ月事務でアルバイトをしたので、先日派遣の登録に行きました。
すぐ働くのは嫌だと思っているのに、即日働けますか?と聞かれ、「はい。」と答えました。
登録時の面接でも上手くしゃべれず、流されるままに「はい。」と答えました。
そして今日、紹介された仕事を1件断りました。
どうでもよくなっています。
でも働かなくてはいけないという意識はあって、
自分の欲の為にもお金は必要なんです。

以前の相談で「迷っているだけだ」とおっしやられたので、多分まだ迷っているのだ、と思います。

考えがまとまっていない上に、まとまりのない文章ですみません。
754 Re:無気力です。 kagewari 2007/06/02 04:09
働けていませんよ。

アルバイトを半年で辞めているんですし。
次の仕事にも乗り気じゃありません。

明らかに働けていません。
「しゃーない次を探すか」と次のバイト先でもみつかりそうな話なら働けていると言えます。そもそも今回のメールの発端は
>どうでもよくなっています。
の部分ですからね、

確かに迷っているのです、
話は昨年のところに戻りますが、「自分は自立するべきか?それは自分の利益になるのか?」この部分の結論がとても曖昧です。

>働かなくてはいけないという意識はあって、

これは明らかに脅迫ですよね「〜なくてはいけない」で「したい」じゃありませんから。
誰もnaruさんに「この仕事を頼むからやっておくれ」と頼んじゃいませんから、ここでいう仕事とは自発的に選択されるべきもので「〜なくてはいけない」のようなキマリのようなものじゃありません。

>自分の欲の為にもお金は必要なんです。

ここも一見具体的ですが、曖昧ですよね。
そのお金で何をするのか?が具体性になりますから、通常その動機が鮮明な場合「お金は必要」とは言いません。
「どうしてもオーストラリアに留学したいのです」等の表現になります。
ここで(そのお金の使い道が既に確定していても)「自分の欲の為にもお金は必要」という表現が選択されているのは、その動機も消極的であるか場当たり的なものである事を証明しています。

動機の根拠となる事実関係をまず鮮明にさせる事から始めてみましょう。元をただせば
■「自分は自立するべきか?それは自分の利益になるのか?」この部分の結論を自分なりに考えていく事が先ですよ。

実際何らかの方法で食えていれば、別段仕事なんかしなくてもいんですからね。社会貢献が気になるのでしたら、2chの掲示板に建設的な意見を書き込んでみるとか、次の参議院選挙の投票先政党についてじっくり考えてみるとか街の美観運動として早朝に地域の清掃始めるとか、いくらでも他に有益な方法はあります。

ともかく、思考の流れを整理する事ですよ。ここでも前回の話に戻りますが、
そこに父親との関係が深層心理で「関わっちゃってるんだよな〜」と予めここを引き算じゃないですが割り引くって、こころの準備をしておけば「考える事自体が疲れる」という部分も幾分か楽になる筈です。

これは別件ですが会話せずに仕事する事も簡単と言えば簡単です。
私も随分と真剣にに考えてみましたが
『エレべーターガール(一方的に話しますが会話はしません)』
『映画館の切符売り(これも話ますが会話じゃありません)』
『バイク便のライダー(単車です)』
『内職(自宅です)』
それぞれなるのが簡単とは言えませんが(内職なんて今無いかもしれないし)、これに徹して「意地でも会話しなくてもいい職場しか探さない」ってスタンスがあっても全然アリです。
1週間も考えれば、相当の候補が出てくると思います。
755 Re:無気力です。 naru 2007/06/07 16:06
kagewariさん、返信ありがとうございました。

自分では「働けていた」と思っていたのですがどうやらそうではないみたいですね。
前のバイトを辞めたのはとにかく解放されたかったのです。この窮屈な場所から。
辞める前に次の仕事を見つける気力はありませんでした。
だから辞めた後のこともすごく不安だったのです。業務中の8時間、私からは一言も発せられない日も多かったのです。昼休みになると、私は外に出て自転車で放浪していました。そうせざるを得ない自分にも嫌気がさしていました。

どうでもよくなったり、これではダメだ、と思ったり、気持ちが定まりません。

とにかく不安です。
次の仕事が決まっても、また同じことの繰り返しになる、とわかっています。
人と接するのが怖いです。
毎日職場に行くのが面倒くさいです(これは怠惰ですね)

でも、皆社会に出て、我慢してやっているのに、と思うと、自分も我慢して働かなくてはいけないと思うのです。

自立はしたいと、思っています。
家の経済状態があまり良くないのでお金を入れなくてはいけません。
妹たちも働いています。
親も共働きです。

なので、私は自立したい、と思います。

でも、利益を考えると、
損出の方が多いと思います。

今も、派遣の仕事の案内の電話にビクビクしています。

この不安感がとても嫌で、仕方ありません。
世界には、私よりも不幸な人達がたくさんいる、
病気で苦しんでいる人がたくさんいる、
だからこんなことで悩んでいる私はしあわせなんだ、
と考えることで一時的に不安は取り除かれますが、また無意識のうちに不安に襲われてしまいます。

母は働くように毎日促すし、
私はそのたびに泣きたくなるし、
生活もまた不規則になって、
またひきこもるような気がします。

まだ迷っています。

今、迷っているのは派遣の仕事案内を引き伸ばしてもらおうか、どうしようか、
ということです。
時間がたつと、また働けなくなるのではないか、と母は心配しています。
といっても、今まで働けたことはありませんけど(笑)

> これは別件ですが会話せずに仕事する事も簡単と言えば簡単です。
> 私も随分と真剣にに考えてみましたが
> 『エレべーターガール(一方的に話しますが会話はしません)』
容姿に自信がないのでまず無理です。
> 『映画館の切符売り(これも話ますが会話じゃありません)』
できそうですが、どこで募集しているのでしょう。
> 『バイク便のライダー(単車です)』
まず免許がないです。
> 『内職(自宅です)』
最初に30万円近く払わないといけない、といわれたので、あきらめました。

いろいろ考えていただいてありがとうございました。
756 Re:無気力です。 kagewari 2007/06/08 16:55
無意識に自分が設定している矛盾に気がついていないんですよ。
盛んに「働かなくてはいけない」と主張しているのはnaruさん自身です。言うなら「自分に損させている」枠を前提条件として設定しているのはあなた自身です、
そして給与を得ている以上、不当搾取ではない限りnaruさんは利益を得ているのであって「損している」と感じているのは私小説的な内面だけの環境で発生している心理的な”印象”だと言えます。

説明していきましょう。

>前のバイトを辞めたのはとにかく解放されたかったのです。

勤務したのは自分の意志で、誰も頼んでいません。
むしろ損益を被ったのは、中途半端な動機で勤務され、中途半端に辞められた会社の人事です。
「是非ここで働きたいのです、就職させてください」と依頼したのはあなたで、会社の人事は「現実は働けない上に、働く動機(自分の意志で”その会社に”勤務したいと願った)にも現実との乖離があった」事を知らないのですから少なくとも会社の人事が加害者って事もありません。

>でも、皆社会に出て、我慢してやっているのに、と思うと、自分も我慢して働かなくてはいけないと思うのです。

誰もそんな事は期待していませんし、依頼もしていません。
むしろ「体調が悪いなら早く帰って静養してほしい」「働けない状態なら最初から無理に勤務しないで欲しい」と考えている筈です。
「我慢しなくてはいけない」と、根拠も無く思っているのはnaruさん自身ですし、それに従って「我慢して疲れた損をした」と感じているのもnaruさんです。

>自立はしたいと、思っています。
>家の経済状態があまり良くないのでお金を入れなくてはいけません。
>妹たちも働いています。
>親も共働きです。

>なので、私は自立したい、と思います。

これは理由になっていません。
そして発想そのものが『自立』じゃありません、
「家族」という世間体を気にした仕方無しの(嫌々)結果であって、自立とはnaruさんの個人的なテーマであって、そもそも他人(家族)は関係ありません。
第一「家にお金を入れる」のは、自立の反対です。
親も子離れできていない上に、子供も親離れできていないって意味ですから、近代民主主義的発想から言えば家にお金を入れるなんて事が常識化しているなら問題のある(人権意識に欠ける)家族運営だと言えるでしょう。

そもそも上記の前提となる「嫌々でもやらなければならない(=強迫)」条件が全く矛盾しています。
「家にお金を入れる」のは個人的見解で(私は個人的には子供が親の経済的な援助をするのは間違いだと思います)、食べる事にも事欠く親を子供が養育しているという環境ならまだしも(そもそもこれ社会福祉の問題で役所に相談するべきです)、親が自己責任で多額の借金をしている等の”親の個人的問題”であるなら余計に子供達に弁済の義務はありません。それこそ支払能力の無い借金を抱えているなら弁護士に相談する話(自己破産や住宅ローンが原因なら早期売却すべきでしょう)で、意味不明の援助をして問題を長期化させる方がよっぽど親の生活を苦しくさせるばかりです。
>妹たちも働いています。
>親も共働きです。
彼らは自分が食うために働いているのであって、『家』にお金を入れるために働いているのではありません(当然母親は共依存、妹達はnaruさんと同じ心理的問題から結果的に不自然な行動選択を行っている可能性はあります)。
まるで、『家』という莫大な浪費癖のある人物に税金納めているような奴隷社会のような環境が現代社会で成立するとはちょっと考え難いところです。
「家の伝統を守るために赤字経営でも、文化への貢献として親は頑張っていて、その文化を守る事に子供達もそれぞれの意志でこれに共感し、家族で『古いお寺の存続に奔走している』」ような環境があるならまだわかりますが、この場合仕事をしなくちゃいけないのは「文化財の保護」という各人の個人的欲求(美意識:趣味性)であって、能動的なものです。「しなくちゃいけない」という受動的なももじゃありません。

>世界には、私よりも不幸な人達がたくさんいる、
>病気で苦しんでいる人がたくさんいる、
>だからこんなことで悩んでいる私はしあわせなんだ、

と考える事で、とっとと仕事をやめて帰る事が合理的な環境で、「自分は損をしていて精神的にいつまで我慢したらいいのか」等の内向的な被害認知を継続させる事の方便になっています。
「今の自分には仕事は無理だ」と辞めていれば「自分は損をしている」等の根拠そのものが発生しません。

>母は働くように毎日促すし、
>私はそのたびに泣きたくなるし、
>生活もまた不規則になって、
>またひきこもるような気がします。

ですから本来心療内科等に通院して明快に「心理的問題で病気である」との診断を貰うべきなのです。或いは自身で「自分は心理的に通院してもいいぐらいのレベルの問題を抱えている」と告げるべきでしょう。
本来これを悩んでる当事者自身が”病気と認定”する事はむしろいいことじゃありませんが、知識に欠け合理的な判断力を喪失している人物(母親)に少しでも現実的な判断ができるチャンスを与えるためには効果的で、その原因は「家族環境にある(母親も関係者のひとりだ)」部分も伝えるべきでしょう。
■ここできちっと線を引けば
たとえ自分の意志で「とても病院に相談する等できない」等と考えて、診断を貰えなくても、自分の口からそれを母親に伝える事ができなくても「本来ならそうするべきだった、言うべきだった」と考える事で、
言えなかったのは自分の責任ではあるが、その原因には自分は関係無いんだと、
「=とっととこの無理解な人物達と縁を切るべきだ=自立」のような能動性に思考の流れは変わりますし、
テーマも初期の足場(「自立するべきかの迷い」)に戻ります、

まずこの人物達との関係を疎遠にする有効な方法は「一人暮らし」ですが、現在の状況だと「食えない」。
明快に食えない環境になれば、その時「就職の動機は食うため」に戻り、仕事にありつけば喜びもあるでしょう。
食えるようになるんですから、
その状況で精神的に辛い心理的な問題が継続しても「食える喜び(得)」の方が勝つ筈で、「自分は損をしている」等と考える余地は無くなります。
それこそ、引越し資金すら無いなら友人宅(その時だけ友人になるのも手でしょう)に居候する等「サバイバル」する戦術は他にもその可能性を残します。

◎なんでこんなパラドックスみたいな矛盾する発想に囚われてしまうのでしょう。

理由は明快です。
前々回のから繰返しお話しているように上記の『家にお金を入れなきゃ』という連想を生み出している象徴的人物はnaruさんの場合『父親』です。
無意識に「母親も妹も働いて、父親の寵愛(得)を得ている」「その父親に認められる人間(働いて家にお金を入れる)に”ならなくてはいけない”」という強迫的なロジックが無意識化してストレスになっているためです。

ここで彼の重要なパーソナリティが関わってきます。
家族と話すのにも気後れする、内向的な彼は
「おーい○○、あれれどうしちゃったの?会社辞めたんだって。いいさいいさ〜、まだ若いんだし自分の人生は納得いくまで試行錯誤してさ〜悩んだ数だけそれもほら、なんていうの自分の財産?お父さんなんかも若い頃には同じように悩んだものさ。ま、○○ほど悩むほどの理想も自分の存在ってものも僕には無かったから結論は常に”まっいいか”だったけれどね。あっ?だからお父さん貧乏なのか、ハーーッハッハ(腹を抱えて大笑い)」
こういう台詞を発言する人物ではありません。
そして同時にそんな会話が成立する事を嫌っているのもnaruさん自身でしょう(結果的に無意識の中のイメージとしての父親を保守するため現実の父親を否定的に見てしまう)。
つまり「彼が何を考えているのかわからない」→「常に幼児的デフォルメの加わった人物像で想像(無意識化している幼児期のイメージ)する部分が加わる」=「この瞬間にその推定は現実の彼の実像からかけ離れたものに変貌します」→「現実の彼の人物像から離れたところで、”そんな(イメージの)彼”に認められるために(母親も妹もそうであるように)自分も働いて”家(=彼)”にお金を入れなくてはいけない」と無意識の脅迫的ストレスは肥大することになります。
※ここも繰り返しになりますが、今実際に「父親と気軽に話せる関係」を構築する事には具体的な意味はありません。
それと同等なニュートラルな視点(あ〜単なる中高年のおじさんだと)で、拘り無く彼の実像を推定できる心理的環境をいかに担保するべきかを考える事が効果的なのです。「他人として彼の人生を振り返る」ような思考を続ける事で見方は変化してくるものです。

現在の状況を考えるなら
「naruさんは家族間の人間関係の障害が原因で、現在その社会性の視野は家庭の外に出る事は無く(会社の人事の心理に共感するような発想を持っていない)、その現実認知と実際の現実との不一致による違和感が原因で”現実世界”でも家に引きこもる事で心理的に家庭内から出る事の無い視野とのバランスをとる方向にストレス(欲求)が恒常化しているため、自立の意味をイメージする事ができないほどに思考は内向化(自己愛方向へ)し、欲求は自分が損をしているような不快感に対して代謝(不安になり落ち込む事による興奮)している」と考えるのが自然です。
■結果として、視野の中に家族以外の人物が存在するリアリティーが欠如しているために、見知らぬ人を始めてみた乳幼児が突然泣き出すのと同じ「対人不安」に繋がっているのであり、これは対人認識として家族以外の人間がこの世にいて各人それぞれの思いで生活している事を”実感を伴って”認識できてないのが原因なのです。
自分が自立するからこそ、同じように自立して生きている人の心理に感情移入してその存在にも”実感”や共感も生まれるのですからね。

>>『エレべーターガール(一方的に話しますが会話はしません)』
>容姿に自信がないのでまず無理です。
容姿ばかりで採用がきまる職業では無いでしょう。
実際お客はエレベーターガールの後ろ姿しか見ません。
声やスタイル(これは努力で可能ですね)等の総合的な人あたりの部分が重要にも思います。
似た存在に、デパート内の人気のない売り場(家具売り場など)の店員もありますから、総じて制服系の販売員と見立てるのもいいかもしれません。

>> 『映画館の切符売り(これも話ますが会話じゃありません)』
>できそうですが、どこで募集しているのでしょう。
それを自分の足で探すんですよ(笑
それが人生です、

>>『バイク便のライダー(単車です)』
>まず免許がないです。
免許を取るんですよ、自分の人生のために

>> 『内職(自宅です)』
>最初に30万円近く払わないといけない、といわれたので、あきらめました。
それはIT系とかの打ち込みの詐欺の話です、
私が提案したのは「封筒張り」「箱作り」「造花作り」「服のサイズ直し」(昔は本当にあった仕事です)のような仕事の事です。

>いろいろ考えていただいてありがとうございました。
感謝するところじゃありません(笑
私が提案したのは、こいちじかん真剣に考えても何件か会話の少ない職業は思いつける事を証明する事です。
>職場で人と会話しなくても良いなら、ってそんな人どこが雇うのでしょうね。
という自嘲的な発言の前提は存在しない事を証明するためでもあります。
こいちじかんで4件思いつけるんです、
一週間本気で考えたらい相当の数がみつかるでしょう。
つまり
>職場で人と会話しなくても良いなら、ってそんな人どこが雇うのでしょう
と考えるのではなく、
「まいったな、今の心理状況だと意地でも会話の少ない仕事を探さなくちゃいかんわな〜」と考えるのが自然なんですよ。

私が「同僚と昼ご飯を食べた」なんてのは長い人生で間違い無く100回以下で(ここ20年でも20回無いんじゃないでしょうか)、最近仕事の関係上(リアルモバイルSOHO)打ち合わせを喫茶店でする事多いですから「お茶を飲む」事は多いですが、基本的な仕事は全て単独行動です(飯を食う方の仕事では不動産関係の仕事とライターやってます)。
フリーター時代(今もフリーランスなのでそう違いませんが)に会社の上司に食ってかかったとかイロイロありまして(十数年間会社の就業時間を無視していたとんでも無いフリーターでもありました)失業した時に「年齢的にマジに仕事が無くて」まいった時ありましたが、その時私はインターネットのハローワークDATAを一日で2万件調べた経験があります。
「食うために必死」でしたから、
768 Re:無気力です。 naru 2007/06/23 03:55
kagewariさん、ご返信ありがとうございました。

> 勤務したのは自分の意志で、誰も頼んでいません。
> 「我慢しなくてはいけない」と、根拠も無く思っているのはnaruさん自身ですし、それに従って「我慢して疲れた損をした」と感じているのもnaruさんです。
そうですね。誰にも頼まれていませんよね。
やる気もないのに面接に来られても迷惑ですよね。

求人を見ていても、たくさんありすぎて、選べません。
その中に自分に適した仕事があるのかもわかりません。
選べない、ということはまだやる気がなくて真剣になれないということでしょね。

仕事を辞めたことを少し後悔しています。

私は居候なんです(と思うことにします)
だから毎月お金を入れるのです。
妹たちはすぐにでも自立できると思います。
友達も彼氏もいますし、働いていますし、家を出てもやっていけるでしょう。

このままいけば、半年もたたずに家賃の安い所に引っ越すと思います。
父が早朝に新聞配達を始めました。
母は仕事が終わってから派遣で働くと言っています。

私はどうすれば良いのでしょう。
働くには無気力で、自立したくないのです。
それでも自分の部屋がなくなってしまえば、嫌でも家を出ていかざるを得ないような
気もします。
自分の部屋だけが居場所ですから。

最近よく昔を思い出します。
中学時代のことです。
人生で一番辛かったであろう、あの頃でさえ、
今は輝いて見えます。

私はkagewariさんのように才能がありません。
文章を書くのも下手ですし。
私はオタクなので、絵を描くのは好きだったのですが、
一向に上手くならなくて、嫌になってしまいました。

生きていくには人とかかわらずにはいられませんよね。
買い物をする時でさえ会話をするのです。
この間切手を買うのも緊張してしまいました。

大学生の頃レジのアルバイトをしていました。
そのせいかレジ打ちをしている夢をよく見ます。
声も小さくてそのことでよく怒られていました。
でも今までの中で一番向いてる職業のような気がしましたが、
今はやれる気がしません。

kagewariさんは苦労されたのですね。
私はまだ挫折も経験していないです。

頭の中ではいろいろ考えるのですが、こうやって書き出そうとすると、
上手く書けないです。

ありがとうございました。
770 『迷い』が随分スッキリしてきましたね kagewari 2007/06/23 14:57
>選べない、ということはまだやる気がなくて真剣になれないということでしょね。

そのとおりです。
そしてここには自我の根本的問題が関わっていますから、無理に事を急ぐ方がむしろ不自然でしょう。

ここの文章は以下の文章と関わっています。
 ↓
>働くには無気力で、自立したくないのです。

『迷い』の部分が随分スッキリしきました。
今の自分の自我の在り方だと、親に甘える(=認められると実は同意)事に欲求は向いていて結果的に”家庭”等と言う実体の無い幻想(既に現代的視点ではお子さん全員自立して「カップル二人が残った」=家族の解散、という状況です)に内向化するあまり外界への実存感が著しく後退し、結果的に初めて他人を見る幼児が泣き出すように対人不安がエスカレートしている。と言えます、

つまり俯瞰で見るなら
「自立したくないので、働く気が起きない」
これが結論です。
これまで再三自分は自立したい筈だと合理化されていた理由は全て「親に評価される(認められる)」を前提とした方便に過ぎず、実体は自立の理由になっていなかったのです。
自意識の感情面では「自立したい、働きたい」と思っているような錯覚を引き起こしていましたが、これは表面上の辻褄合わせに過ぎず場当たり的な思いつきを超えるものではありませんでした。
だからこそ

>仕事を辞めたことを少し後悔しています。

これは大きな間違いです、
「仕事を辞めてよかった」んです。
これだけの問題を表面的な合理化で無理やり(動機の非成立)形だけの社会適応を続ければ続けるほど自我の根本的問題(父親との関係)は、より深刻化し仮面鬱のような形で激しい自律神経失調を伴う急性の症状を引き起こす可能性すらあったのです。
※急性の症状が激しいと、この体験が二次的トラウマのようになってしまうために自我の問題以前に解決しなければいけないハードルが複合化してしまう事だってあるのです。

言うなら「もっと早く問題に気がついて仕事を辞めるべきだった」
可能なら「就職以前に問題に気がつくべきだった」
理想は「思春期を迎えた反抗期に家族の問題を直視すべきだった」
ほとんど在り無い事ですが「幼児期から父親との関係性を問題視できていたら?」=自我構造の問題は発生すらしなかったかも知れない。

となるのです、

>自分の部屋だけが居場所ですから。

違います、
今自分なる生き物が生きている現実そのものが、自分の居場所です。
内向的思考、幻想の家族意志に偏った世界観はあなたの居場所ではありません。
それは既に過去であり、現実にはもう存在しないのです。
「子供部屋」に象徴される”自分の居場所”は、今心理的には子供が親に甘える権利のような既得権益の拠り所のようなものになっていて、そこに連想されているのは内向的自己愛の空想上の概念に過ぎないのです。

>最近よく昔を思い出します。
>中学時代のことです。
>人生で一番辛かったであろう、あの頃でさえ、
>今は輝いて見えます。

堂々と子供の権利(親に甘える自分の居場所)を堂々と主張できる年齢だったからですよ。輝いて見える=その時代に戻りたい=心理的には現在の自我の年齢は中学生のままである。
先ず優先される事は「自立したくない=子供でいたい」と願って、決してあきらめようとしない今の自我の志向性(内向化)を、今後どうするのかって事です。
「自分はいい大人の年齢なのに、幼児のようにそんな考えにとり付かれているのは不自然だ」=「この子供でいたいという感情はノスタルジーに過ぎず、無意識に隠れる親への幻滅を隠すため粉飾された感情である」と認定してください。
現在自分の年齢にまで違和感を感じているのでは無いのですから、迷いを振り払う事で考える方向性はよりはっきりしてきます。

次に「働く必要など無い」と断言してください。
自我の問題で本当に仕事が出来ない状況なら、本気で公的機関に相談すべきで(生活保護は人権の保障という意味だけでなく、社会秩序の維持もその目的のひとつです。変な勘違いを前提として個別の世帯が問題を越す事は長期的には社会の不利益だからです。)、繰り返しになりますが、「仕事がしたい」という気持ちは明快なエゴイズム(自己決定)でなければなりません。

同時に文明社会で精神的な問題が発生するのは構造的な現象であり(必然といってもいいです)、ここにおいて社会の判断は「社会保険として手当てを支給しても文明を押し進める方向の方がトータルでコストも安く上がる」なのです。
又、同時に生活保護の支給には、その『損害賠償』の意味もあり(家族の運営能力に欠け、到底大人とは呼べない人物達にも安易に結婚を奨励し、育児に対するケアも無く子供に精神的な問題を引き起こさせてしまった責任は社会にあるからです。社会にはその”子供”の基本的人権を保護する責任があります)、自らの人権を守るためきちっと自身の権利を行使する事も自我の責任です、
生活保護はひとりぐらしの世帯も支援します。

根本的な問題の解決無しに、自立はできませんし同時に自然な形で仕事がしたいと思うこともありません。
又、何度かブログや掲示板でも発言していますが、『精神的問題を抱えた過去』は間違い無くアイデェンティティーの一部であり、自我の開放と自立を無理に選択しない”選択”がっあったっていいのです。
自分らしいライフスタイルのコンセプトを見つけていく過程こそ人生で、その結論は常に社会適応である等という発想は完全に間違っています。

naruさんは自由なんですから、

今は自我の問題を直視する事を優先させるべきで、仕事をする自分の姿はその先に自然発生的に在ってこそ本当なのです。
本気になってマジに勝負に打って出てこそ自分の力を確認できるのであって、
足の骨が折れている状況を見て「自分は走るのが苦手だ」と判断するのは間違いです。
自分の可能性なんて、誰にもわかりゃしませんよ(笑

778 情緒が不安定です naru 2007/08/09 00:46
kagewariさん、こんにちは。
以前、無気力について相談した者です。

前回の相談で、私は働かないことを選びました。
しかし、今は働ける状態ではないとわかっていながら、
また働いています。

情緒が不安定なのか、すぐ涙が出てきます。
仕事中にも泣きそうになってしまいます。

この職場が適当でないなら、私が働ける場所は他にないのだ、と思います。
絶望的です。

私の今の精神状態では薬というのは有効なのでしょうか?
784 微妙ですね〜 kagewari 2007/08/09 04:48
一般に精神科の処方する薬は、そのまま仕事が継続可能であったりのニーズに答える効能が期待されているのが事実ですが、同時に精神科は「ストレスを緩和するためにその仕事もやめて休養をとって」と合わせて処方される事が多いのも事実です。

何故なら社会保障の適応等優遇措置は、最も精神科で薬の処方を受けているケースが適応事例となりますから、医院からもそれを勧められる事が多いです(薬代を無料にする根拠として「働けない」等の症状がセットにもなりますから)、

話を大元に戻して
そもそも問題の中心は何か考えてみましょう。

>絶望的です。

その理由は?

>私が働ける場所は他にないのだ、と思います。

その根拠は?
「私がそう思うから」

その根拠は事実?
「私がそう思っているだけで、他にも職場は山ほどある」

となるんです。
つまり、「私の今の精神状態では薬というのは有効なのでしょうか?」という悩みは上記の無理のある連想の結論で、
意図されている背理は「投薬等で解決する筈が無い(絶対では無いですがそれを無意識に予定していると見るべきでしょう)」=「絶望的に悩める」となるんです。

わかりやすく言えば
「無理をして働き、そこでしか働けないと定義する事によって、絶望するほどの落ち込み(感情的興奮)を獲得し、落ち込んだ」
そこで
「これ(無意識の連想が)はいけないと自意識が(意識の端で)感(勘)づいて、相談してみた」となります。

ですから、流れ的にこの答えは
「無理して仕事をするべきではない」となるんです。
構造的に見るなら「その働く動機は?⇒無意識に落ち込みたかったから」となるからです。