Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



231 どうしたいのか ??? 2003/11/17 05:07
ちょっと最近落ち込んでるんだけど、なんか人に愚痴ったりできない。
悩んでる人の話を聞いても、具体的なアドバイスを求めてるわけじゃなくって
なんだか独り言聞いてるみたいな気がしてアホらしくなる。
「自分のことは自分でしか決められない」
最近、とてもそんなことを強く思うようになった。
人の話を聞かないかわりに、自分も人に相談することがなくなった。

誰も信用できない。
あるいは自分を信用されることが怖いのかもしれない。
巻き込まないで欲しいような・・・。

独りでいるのが楽しい。
自由に時間を使えるのがとても楽しい。
でも何か足りなくて、お金もないのにデパートで化粧品をたくさん買ったりしてる。
買い物依存かな?とも思ったけど、ただ気に入った美容部員のお姉さんと
楽しくお話して、まるで自分が特別なお客様みたいに扱われるのが心地いい。
ホントはそんなこと嘘なのに。
でも、そういう関係の方が何故か安心できる。
その場だけの関係だから、ホントの私なんて知らせる必要がないから。
「こうありたい自分」を見せるだけでいいから。

ずっと前に精神科の先生に言われた「たくさん自分のことを話たいんだね」って
言葉がとても気になる。
その言葉を思い出すたびに死ぬほど自分が嫌いになる。
みんな私が話したがってることを見抜いて、可哀想に思ってるんだろうって。
相談してる振りをしながら、私を元気付けたりしてるのかもって。

人が何を考えてるのかさっぱり分からなくて怖い。
どうして欲しいのか分からなくて怖い。
人の心の中をあれこれ推測するのは疲れる。





232 Re:どうしたいのか kage 2003/11/17 11:33
1悩んでる人
 悩んでる人の人称が、その人物なのか、悩みを訴える自我なのか?
 構造的に脅迫に従い、無意識の葛藤を温存する事を前提にした答え
を意識的に導き出そうとしている「相談」があります。
 そして「自分で決めた実績」を記憶に残さないように(経験記憶)
無意識の葛藤への損傷を最小限度にするため「相談による結果決めた」
との結論を期待する事もあるでしょう。

 両者ともに狙いは「予定された回答」です。
 会話の大半は追随です、論争でもない限り相手が不快になる事が
わかっているのに、その言葉を明快に発言する事は回答者の苦痛と
なります。アホらしくなるのもわかります。

 しかし「相談」という形式を取らない方が葛藤や無意識は安全であ
り「相談」の形が必要になるだけ、無意識の力関係が相対的に弱くな
っていることは事実ですし、その折衷案が「相談」であるなら、発言
されない声無き声「根本的な解決に至る回答を聞いてしまうかもしれ
ないリスクを負う」を受けて解答すれば「相手が不快になる事を言う
不快を半減」できるでしょう。
 言い換えれば、相談者の後ろの後ろにその予定されていない解答を
求めている人物がいる、という事になるからです。

 その人物が望む解答は「破壊的アドバイスに近い」具体的アドバイス
なのでしょうから。

 結果自分も人に相談しなくなったのは、自分自身の葛藤が崩壊しそ
うであるため(自分で決めて)相談者の後ろに見えかくれする「根本
的解決を求める者」への不信感が増大したためだと思います。
 つまり自分自身の「根本的解決を求める者」の危険性に葛藤構造が
気が付き「反面教師作戦」により、他者批判を経由して、自己の新た
な認識(葛藤によらない認識)の力を結果的に弱めようとする気持ち
が、追い詰められた無意識の危機意識として沸き起こっているのだと
も言えます。

 誰も信用出来ないと言うよりは。あまり信用したくないのです。
 この感情は無意識ですから、本人の自意識には「関わりたくない」
となるのではないでしょうか。

2ひとりでいるのが楽しい

 葛藤は無意識の連想で、友人や恋人に投影されやすいものですから
ひとりが楽しいのは、その投影によるストレスを「不快」と感じられ
ている事の証です。葛藤構造を守る自己嫌悪が既に壊れているのだ、
と言えます。
 美容部員などとの中間的な社会関係に「快」判定があるのは、投影
無き他者と、自我との自然な関係を楽しんでいる(自由の確認)から
で、それを「嘘なのに」と思ってしまうのは、壊れた自己嫌悪が復活
を求めて(ノスタルジーによって)現在を批判しているからでしょう。

3ホントの私

 これは最後の文節にあらわれる「たくさん自分のことを〜」にかか
っています。おそらくその対象は同一です。
 このホントの自分こそ「過去の自己嫌悪構造」であり「話したい沢山
の事」とは、自己嫌悪(正体は道徳)がその力を自分自身に知らしめる
多数の怒り、悪への批判、投影他者への攻撃、等ではないでしょうか。
 現在上記の「たくさんの〜」を思い出し、自分が嫌いになるのは、
自己嫌悪構造が壊れるていく課程で、ノスタルジーとして「壊されたく
ない」との思いと、「自己決定で壊したい」両者の思いがないまぜにな
っているからではないでしょうか。

 その証拠が「可哀想に思っているのではないか」という言葉です。
 自己嫌悪とは「子供の偏った道徳」とも言えますから、まだ完全に
瓦解していない自己嫌悪を「既に自分自身では崩壊すべし」と決定して
いるため「その残滓が中途半端で残り、他者に見透かされたら?」との
不安の表れだからです。言い換えるなら自己嫌悪の鎧を脱ぎ無防備であ
る現在の自分に対する「自己嫌悪のそれでいいのか警鐘」みたいなもの
とも言えるでしょう。

 全体に流れている事実関係は。
 「自己嫌悪構造の崩壊過程の過渡期に現れる内省的ストレス」でしょう
 本人には不安が残るでしょうが「必ず葛藤の解消課程で通過する感覚」と
考えていいのでは無いでしょうか。

最後に:「疲れる」について

 良くも悪くも、対外的なインターフェイスであった過去の対人関係の
雛型=自己嫌悪を裏付けとした自意識が崩壊していっているのですから
対人関係の個人的ルールの再編成は大忙しの筈です。
 相手の評価が一発で決まらない事は「怖い」と感じるでしょうし、これ
だけ知的活動が頻繁になると疲れるのはやむ終えざる所です。
 ですから、無理をする事無く、休養を取りながら今の回復過程を経過す
れば、そのストレスが長期化する事は無いでしょう。
 期間はケースバイケースなのではっきり言えませんが、そのストレスが
恒久化する事は理論的にも有り得ない事は間違いないのです。
233 随分堅苦しいですね ??? 2003/11/19 04:57
難しすぎて分かんないや・・・。

「相談」って言っても、そんなに深刻なことじゃないのです。
仕事が忙しいから辞めたいとか、会社の誰それが嫌いだとか
そんな誰でもこぼすような愚痴なんです。
本人は「どうしたい」って根本的な解決を望んでるわけじゃないから
「大変だね〜」としか言いようがない。
「破壊的アドバイスに近い」アドバイスなんか求めてやしないし。
会うたびに同じ話を聞かされるから、いい加減うんざりしてきます。
みんなそんな愚痴を言い合いながら社会生活を送ってるんだから
それに参加しない自分の方がおかしいのかもしれませんが。

たまに「破壊的アドバイス」を聞きたがってる振りをしてる人もいます。
でもそれはちょっと違う。
「そういう話を聞く自分」を私にアピールしてるような気がする。
話てる内容は濃いんだけど、実はその人にとって大事なのは
「濃い話ができる関係」なだけで、話そのものはどっかに行ってる。
聞いたことは忘れることがないから、いつか何かの役に立つとは思うけど
なんだか誰も「私」なんか見てないような・・・。

そんな人たちとの会話より、街で買い物した時に交わす挨拶の方が
よっぽど「私」が相手に見えてるように感じます。


精神科の先生に言われた言葉は、「たくさん『話たい』」じゃなくって
「たくさん『聞いて欲しい』」でした。
聞かされる立場の人からの発言だからなんでしょうね。
そしてこっちは話す立場の人間だから「話したい」と記憶してた。
でも実は「聞いて欲しい」だったって思い出したら、余計にイヤになりました。
自分が誰かに「〜して欲しい」と思ってるのが、ゲーって感じです。
特に解決策を求めないで愚痴を聞かせる人と同じなんだなって。
その相手と話たい訳じゃなく、聞いてくれる人に聞いて欲しいんだって。
この受身の態度は、子供みたいだなと思いました。

でも確かに「聞いて欲しい」って気持ちはある。
愚痴をこぼす人を反面教師に、今は口を固く閉ざしてるけど本当は聞いて欲しい。
だから化粧品のカウンターに引き寄せられるのかもしれません。
教えて貰うのも、知識を披露するのも好き。
でも、心の中に抱えてる小さな疑問を、次から次へと質問してる私。
「休憩時間は大丈夫かな?」
「長居しすぎじゃないかな?」と思いつつも、話が止まんない。
いつもカウンターから去ったあと、話し忘れたことを思い出して
「次はいつ行こうか」って思ってる。
(あまり頻繁に行くのは恥ずかしいので我慢するけど)

私は話したいのか?
沈黙が生み出す妙な空間を埋めるために言葉を吐いてるのか?
それともただ、誰かに聞いて欲しいのか?
でも、一体何を?
234 付けたしです ??? 2003/11/19 05:22
> そんな人たちとの会話より、街で買い物した時に交わす挨拶の方が
> よっぽど「私」が相手に見えてるように感じます。

でも、それだけじゃ何かが足りない。
その心地よさは分かるんだけど、なんか「何大人ぶってるんだ」って。
そんなふうに感じます。
236 慣れですね kage 2003/11/20 08:20
大人であることに慣れていないのです。
 これは心理学テキストにも一部登場します。
 属性を離れ「生成りの素の自分」はほんのちょっとすれ違った人との間に
間違い無く実存するのでしょう。
 それがフェイクっぽく感じられるのは「現実では無い現実『的』の不足」
によるもので、言い換えると「舞台設定の淡白さ」故です。「生成りで素」
なんですから、ゴテゴテした装飾は無いのです。

 「相談」について補足します。
 本人は「これはたいした質問ではなく、ほんとうに自分が困ってしまう
話は出てこないだろう。こんな愚痴に真面目に答える人もいない」と、たか
をくくって「破壊的回答の可能性を回避しているつもり」とも言えるでしょ
う。それだけ(ほとんど反射的程度の判断でも)『企て』や『作為』があり
ます。「その作為こそが」非相談者との接点になります。
 おわかりでしょうか?
 非相談者がその作為に気がついた時「言わないだろう」という推測がある
だけで「それは言うなよ」と言っていない事を知ります。言い換えるなら、
この過失こそ「相談者の隠れた真意」とも受け取れるのです。
 わかりにくいのは承知なのですが、ゆっくりと考えて下さい。
 「当りっこない」という推測で、バッターボックスの最前線に立っている
のです。確信犯なら「狙われるだろうから開いて待つ」でしょうが、前者は
「当りっこ無いから踏み込んで待つ」、デッドボール(破壊的回答)は後者
に当るのです。

 過失は「ついそうしてしまうほど(無意識)その人固有の特徴」ですから
本質的なその人の「人となり」には違いないのです。

 つまりデッドボールは避けられない結論で。
 その結論を決定付けるのは本人の「当りっこ無い」なのですから?

 これでおわかりでしょうか?

 隠れた真意とは「自分自身の意図による決定付けられた結論」なのです。
 本気で相談している時「俺はこう思う、批判されるべき点があるだろうか」
と相談者は構えます。「狙われるだろうから開いて待つ」です、この人物に
回答が破壊的となることは構造的に有り得ません。

 ちょっと難解ですね。
                               kagewari