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【3】強迫構造から抜け出せなくても  早恵  - 2010/02/28 13:43 -

他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?

それと最近感情に波があります。
さっきまでは「私は協調型の人と供依存になるつもりはない」と強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。

引用なし

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【2】Re:疑問に思ってたこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/01/23 22:31 -

まずこの話は近代法体系であるとか、社会契約説の話になりますから(基本メンタルと関係ありませんので)論説として一話完結でお答えします。
(ですからこの返信にレス等しないでください)

>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは法学上も哲学上も伝統宗教神学上も
「罪を犯した人間個人の贖罪」がテーマで、被害者への弁済とは全く関連ありません。
(法体系においても刑事罰と民法上の損害賠償は別)

つまり、目の前に神様がいるわけではないので、
(そういう意味では国境は存在しますが、それを言い張っているのは人間の国家間の取り決め上の話だけ有効。紙幣の価値を知らない人には信用債券に過ぎない”あの紙切れ”にまつわる何かがあっても全く関係が無い=つまり相互に契約上の前提を共有する間でしか”弁済”の概念は成立しない)
何が罪で強制的に誰かが誰の権利を奪い独房に放り込むなり突き殺すなりしていいなど『何も決まっていません』。

問題を単純化すると、

国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話です。
やられたくなければ銃を手に取るしかありません、

「罪を償う」この概念が成立するためには「同じ契約書にサインしている合意」が必要になります。
(大風呂敷を広げれば日本国憲法なり六法なり→それが社会契約的意味の法治国家って話です)
同類といいましょうか同僚といいましょうか同じ業界のルール(や取り決め)と言いましょうか、同じ宗教の戒律と申しましょうか、
法体系にも名文法概念と慣習法概念とあり、
日本はどちらかと言えば慣習法であると(滅多に憲法も改正しない→名文法のアメリカは年中憲法修正しているみたいな)
実態としてその運用は『共同幻想』になるわけです。
その共有ですよ、
「その罪の重さがわかりますか?」
共有する概念(近代国家的概念でいえば社会契約上の意識)が無ければ
「わかる筈無いだろう」と一笑に付されて<お わ り>なんです。
それだけです、

ですから民主主義の名文法的運用(どうしても訴訟社会になる)憲法改正の可能性はワンセットで、
現代日本のトレンドもそこにあります。
情緒的に云々かんぬんしても意味ありませんから、

■この部分を当事者として解釈する場合
(ここは心理学ですが)
動機形成ってプロセスがあります。
ここで「犯意」というか、「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成には罪の意識がセットになります。
(それとは気が付かずにだったら?確信犯的な「犯意」というか「一線越えて○○な事をしてやろう」という動機形成そのものの実態が存在しない事になる)

つまり罪の意識を交換条件に犯意のある行為を実行するのですから
(そうでなければその行為が極端なものだと認識されないので意味が無い)
その罪に応じてなんからの社会の側からの報復(刑務所にぶち込まれるとか極論ぶっ殺される)のリスクを取っての行為になります。
「罪を償う」
というのは、この実行者が『許される条件』のことです。
(被害者への弁済とは全く関係ありません)

で、被害者がその弁済を求める場合には(当然損害賠償の権利を有しますから)自分で(民事に)訴えると、こういうことです。

状況整理しますと
そういう条件にあるので「市民には”通報義務”や”捜査に協力する義務”があり」
極端に民主主義をやっている米国の場合(当然警察が間に合わないケースもあるので)『実情銃砲の携行が義務付けられていた』んですよ。
過去の話ですが、
米国の銃の所持の歴史的原則は「市民がその権利を行使(中央政府の手の届かないところを補う)する上で銃を持つことを義務つけている」と言っても過言じゃないのです(相当暴論ですが極論するとそういうような意味でもあるんですよ)。
「必要あるときには躊躇無く市民は発砲すべし」
(米国には各州に州兵という軍隊がいますが(日本で言えば都道府県が独自に武装している)この州兵は中央政府が間違った事をしている時に、独自に知事の判断で中央政府の軍隊と交戦も辞さないために”地方自治の権利”として州独自の軍隊の保有が認められている→政治学的には『革命権』とか呼ぶ場合もあったでしょう)

仮に市民が社会契約上の規約を守るために「任意の判断で銃砲を使用した場合」それも『後から裁判で可否を考えよう』という趣旨です。

暴論になりますが、
昨今のニュースから言えば
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010012302000100.html
がありますが、
どう解釈すべきかと考えるなら、
「元検事は謝罪しないことで、菅家さんに復讐の動機形成を自ら促し問題を深刻化させた」
犯意ではありませんが、それに近い”リスクの高い行動をとった”って事です。
仮に菅家さんが怒りが収まらず、ショットガンで元検事を射殺したとしましょう。
「当然その殺意には情状酌量の余地がある」これが裁判の焦点になる、
これでは非常に(殺人幇助に繋がるなど)社会的に合理性を欠いてしまうので、
社会なり報道なりが『元検事の姿勢を批判する』という方角になるワケです。
(この批判が中途半端に終わる場合、その責任はジャーナリズム→とりわけマスコミ・マスディアの側にあるってことです)
又、菅家さんにも元検事を民事で訴えるなど「更なる戦い」が社会的にも求められるという事になります。
(菅家さんにも自分の人生があるワケでそればっかりやってられないでしょうし、それを求めるのも酷です。だから支援者や応援する組織も生まれる問題意識が大きければその支援組織にいつでもボランティアとして参加もできるでしょう→或いは腰砕けのマスコミに抗議の電話をするなり)

大規模な詐欺事件などの場合、国が特別の配慮で国家賠償などに応じるのも
「暴動がおきかねない動機形成を放置することは合理性を欠くから」です。
(報復の予見性なり、犯意のある側が報復の動機形成を促しているってところが鍵)
つまり、犯意のある側も大きなリスクを取っていて、
これをひっくり返すには被害者の側もリスクと取りこれに応酬するような”構え”が連動していなくてはいけない。
※それじゃー損ばかりで理不尽だという考えもあるでしょうが、そもそも国の側だっていつでも全ての文明を放棄して戦国時代に戻ったって一向に構わないのですから(そう民主主義が求めれば)、現代社会だと言ってもその合理性や権利保護とは『市民社会が権利義務を果たすなかで成立している』ものであって普遍的ではありません。
→人間って普遍性の論議をするならばここに戻るんです。
 ↓
国境も国籍もクソも無く「自らを魔王と名乗る織田信長の軍勢が襲来して片っ端から人が殺されている」とします。
「お前さ罪を償え」って、、
これコミュニケーションとして成立しませんよね?
言っている端から自分の首もはねられるだけの話で

面倒でも理不尽でも、それが現代社会であって、
気に入らないなら戦国時代の方がいいのかって話です。
(わかります?犯罪者の側には当然「戦国時代の方がいい」って人もいるでしょう。多数派を形成できずに国の方針が変わらないだけで、だとするとならば(相手がそう考えているなら)その局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやられるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です)

報復権といっては”何”ですが、
つまり民主主義とは「自らの暴力行使も権利として預けられている」のであり、
(正当防衛のように暴力の行使が正当な事案も認められている)
憲法9条で交戦権を一見放棄しいてる日本ですが国際法上反撃なりの自衛権は自然権として保持されており→自衛隊があるのと同じ
忘れられがちですが、我々は税金によって武装集団を雇っているワケですから。
間接的にですが自動小銃を共同で所持しているんですよ?→それを自衛官に預けている
(国民皆兵のスイスなら全世帯の納戸には→いつでも出動できるように自動小銃が装備されてます)

ここで思い出してください、
極論暴論的解釈における米国における銃の所持です。
いいも悪いも無いのです(それは後から裁判で決着つける)
ここで撃つべきだ(正当か非正当なのかの判断は裁判前なのでわからなくても)という”リスク”は市民個人が負うんですよ。
その発砲に関して誰も事前の”お墨付き”はありません。
そのリスク(非正当かもしれず後から自分が訴追されるかもしれない)を負う事(その場で撃つ撃たないの選択)が社会契約上の民主主義社会の市民の義務です。
 ↓
何分現代社会は西部劇の時代とは違いますから
そこが→『裁判員制度』になったんですよ。
(映画『12人の怒れる男』観れば→そのまんまです)

つまり「市民として自分とは関係の無い事件における被疑者の有罪を確定し死刑求刑人として犯人を殺す実行行為の責務を自分も背負う」
(死刑廃止論議は上記にも関わっているのは確か)
関係者が勝手に自分で報復する事を紀元前の社会のように可とするのは無理があります。
(ある意味それが可な時代があったのは社会が生きるのに精一杯だったり王様の権限が強すぎで(市民社会などどうでもよく)警察や捜査機関等行政を税金で雇うゆとりが無かったから)
捜査員数百名で検挙捜査にあたる警察検察より被害者個人が優れて犯人を特定できる筈ありませんし、
警察検察ですら誤認逮捕やら冤罪があるワケで(しかも裁判で検証して初めて事実認定する)、
よっぽどじゃない限り「人違いの殺人(過剰な報復)が横行」してしまいます。
ですから社会契約的に『警察・検察』の専門家を税金で雇っているワケです。
しっかり働かない時には民主主義を行使し、警察・検察を行政として改革するしかない。

仮にそれでも(人違いの)リスクを超えて、復讐権として(アイツじゃないかと)強引にそれを実行しても、
国選弁護人も付きますし、正当な裁判で「その報復はどこまで合理的なのか」判断を仰ぐ権利が保証されています。
しかし、当然相手を間違っていたり、復讐の幅が過剰な報復であれば、情状酌量の余地も無く裁かれるでしょう。
(間違っていたらこれはどうにもなりません→合法化しちゃったら頻繁にこの間違えは起きる筈です)

或いは必殺仕事人的に、正義のなんとやらが有無を言わさず犯人を暗殺する組織をつくるとしたら?
 ↓
『元検事、最後まで謝罪なし 足利事件 菅家さん『一生許せぬ』』
怖くて誰にも任せられません
或いは秘密警察による言論弾圧や密告監視が続く旧東ドイツみたいな国になってもいいのかって話になります。


「空気と水と安全はタダ」と考えるのを”平和ボケ”と呼びますが、
自らの権利もそうですが、市民社会とは各人の日々の闘争によって守られるものなんですよ。
(これもかなり暴論ですが、、)
有志一同は皆ガンベルトを下げてコルトPEACE MAKER(平和を守るもの)45口径の6連発リボルバーを所持してくれと、
 ↓そんな近代を経て
現代社会があるワケです。


■ある意味
>罪を償う とはどういうことなんだろうと考えてました。

これは犯罪者に
「あなたは罪を償う意思がありますか?」と尋ねるような話なのです。
(この社会に再契約する意思を問う→あれば情状酌量の余地となる)
言ってみれば『犯罪者の権利』にも見える、
(償えば許されるワケですから)

原始宗教なんかであれば「許しを請う」が「宗教戒律への忠誠なり帰依となり」許される道が開く
(意味合いとしては紀元前から第人気でベストセラーの本(経典)聞いてもいいよとか、読んでもいいよとか)

ですから究極の復讐劇の場面における台詞は
「罪を償う?お前にはそんな権利は無い」
になるんです。


逆さに言えば
「あなたは罪を償う意思がありますか?」
犯罪者が「勝手にしろ」と言ってもいいんです。
 ↓
局面では現代だろうが戦国だろうが「やるかやららるか」って善悪もクソも無い野生が人間のデフォルトだって事です
基本は『サヴァイバル』ですよ

人類は現代的な文明に酔って少々調子に乗っているところありますが、
地震・洪水・干ばつ・感染症など、、
ただ同じ地球というワイルド(野生)な環境に暮らす動物の一種類です。
高層タワーに暮らそうが、自然豊かなな森に暮らそうが人類って動物が地球って自然環境(ワイルド)の中で暮らす動物だって普遍性は永久に変わりません。
どんなに高級なホテルに暮らして高額な衣装買おうが、「飯食ってウンコしている」市井の”ヒト”に過ぎないのです。
(つまり弁済に相当する利益の喪失の想定も現代社会の文明を前提として始めて有効になっている=現代社会の肯定)
 ↓
言うならば「罪を償う」などの概念は、
同じ契約書に署名した”バンド間(同族or同属or関係者or国籍・・何でもいいですが)”の契約上の取り決めのようなもので、
「(国籍はともかく)同じ日本人(として契約する市民)だから(この法の適応が)、(罪の償いとして妥当であると)わかっているな?」
な題目の中で始めて有効なものであり、
その題目(社会契約や市民社会)を合理的なものだと(法治国家に賛成し)判断するなら、その枠組み(民主主義社会)を守るために今自分に何ができるのかを考えると、、、
こういう事です。
前提が壊れることで償う罪の認識の共有もすっ飛んでしまっても「それも自然」なんですからね。

■現代文明の合理性を前提とするなら、どんなに時間がかかっても、なかなか思いどおりにならなくても頑なに民主主義を守っていく他ありません。
有権者として「独立する個人の意見を表明する」立ち居地を保持するって事です。

引用なし

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【1】疑問に思ってたこと  早恵  - 2010/01/23 18:33 -

今回は自分のこととは関係ないです(でも少し被るかもしれない;)。もし問題があるようなら答えずに削除して下さい。

「罪を償う」とはどういうことなんだろうと考えてました。

被害者の立場からしてみたらも「これからの人生」を奪われてしまった。
仮に生きられたとしも後遺症が残って夢を諦めざるを得ないこと、寝たきりで思うように動けなくなってしまうことだってあるかもしれない。
最愛の人の命を奪われた人に対して与えた悲しみだって、その人を生き返らせない限りは加害者本人が被害者を癒せるわけじゃない。

何年か経って被害者の傷が癒えたとしてもそれまでの時間と苦しみは半端ではなく、その貴重な時間も返ってこない。
しかも気持ちの整理をつけるのは被害者本人であって加害者は何もしない。何もできない。
刑事罰や賠償金もありますが、罪人全てが死刑になるわけではない。しかも全く反省してない人が軽い刑で済むこともある。
仮に相手が反省して心を入れ替えても死刑になったとしても奪われた命や人生、最愛の人を奪われた悲しみが消えることはない。

それを踏まえた上で、「償い」なんてこの世には存在しない、ただ相手の経過を黙って見てるしかないんじゃないかと感じたんですが。

引用なし

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