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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。

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公開掲示板はあくまで概略(※)なのでそこ割り引いて読んで欲しいのですが、
(※情報取得とプライバシー保護及び費用が無料である点から)
心療内科等の利用により形骸的に収まっているところから考えて思春期特有の「急性の強迫傾向」にあったと考えるのが筋論でしょう。
(仮説としては「もうひとつの可能性」として”運悪く形骸的に共同幻想適応適正が高い”ことが原因で問題が隠蔽されやすい傾向にあり、問題発生を先送りさせていた可能性もあります:しかしこの場合も構造上は急性傾向と言えるかも知れません。参考までに慢性というは”ハードにロジカル”という構造です)

当時の様子は印象で語られることが多く、ロジカルではありませんから生理的という表現は適切じゃありませんが自我内部の葛藤構造(あるいは論理矛盾)は比較重層的でハードなものでは無く、表裏のようなバチっと(あるいは白黒ハッキリするような)明快な急性系の構造にあると言えます。
(これを”浅い”と表現する場合もありますが、これは”軽い”という意味ではありませんから誤解の無いように。深層心理の構造が重層的且つ慢性系か或いは軽層的且つ急性系かの差異です。参考までに「慢性的であれば常在違和感が(論理的:ロジカルに)継続し続ける事になる」。)

この辺を簡単に言えばどういうことかと言いますと、
個別の認知に対して様々な局面でロジカルな強迫性が重層的に織り成す形がある(慢性系)のでは無く、
表面的な自分(共同幻想:社会適応する表情)と、内面の(表層と矛盾する)自分的なバチっと明快な対立軸(葛藤)があるって事です。

で、この対立軸が何か殊更大変な事かと言えばそういう意味ではありません。
平たく言えば人類全員にあります。
典型的なものが『反抗期』で、
この現象は(自然界の他の哺乳類で言えば母集団を離れて自立する転換期)、既存の幼児期や幼年期の既成事実化している環境なり認識なりを自己否定し”現実適応アップデート”する既存自己に対する(現実認知を始めた自分の)反抗という図式になります。

しかしこの反抗期がスムーズに行われるためには(反抗期そのものが荒れる時期ですからスムーズという表現はどうかと思いますが、ま、そういうことです)、対立軸というか対決の図式が拮抗無いし現実の自分が優勢の形でバランスしなければなりません。
通常「絵物語(幼児的世界)と報道写真(現実世界)」の比較のように、一次的には『現実は常に印象に勝ります』から(印象が勝つのはロジカルにこれが理論武装される場合なのでこれは反抗期の後に哲学的覚醒があるとかこれ大人ジャンルの別次元の話)、大騒ぎのレベルはともかく”幼児期の印象は思春期の自分により上書きされ現実アップデートが行われます”。
ですからこの期間には旺盛な欲求で現実情報が取得され猛烈な勢いで現実の自分なる姿(言うならば現世利益的自分)が形成されるとも言えます。


で、
■yuttieさんに起きたメンタルな問題は何かと言えば、
『退行化現象』です。

あえて話をわかりやすくするために厳密に言えば心理学的に正しくない表現であるとか、意図的にエキセントリックな表現でここ説明していきますね(これはカウンター効果を狙ったもので、以降の説明に対する抵抗を中和するため、端的に言えば過激な表現で説明するのが有効だからです)。
※掲示板警告にあるように、一次的に自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れますからそこは同意の上読みすすんでください。

様々に語られる自傷系であったり自殺衝動的なもろもろの言動は「性的自己顕示(自己表現)」のようなものです、
(ダイレクトに性衝動という意味じゃありません、思春期=生理的に大人になる=新規に性衝動的モチベーションが台頭する変化が派生というフローがあるってことです)

『自傷系であったり自殺衝動的なもろもろの言動』→これを下卑た言葉で少々乱暴に説明するなら「露出狂系の性的自己顕示」と似た行動なんですよ。
連想的にイメージしてみれば更にわかると思います
(”自傷出血・生理””自殺自傷・自慰””騒ぎ事件化・顕示欲””公然わいせつで警察の世話になった・自傷で診療内科の世話になった”)
心療内科通院により表面的にこれが収まったのは、生理的な大人化モチベーションの急激な身体上の変化がなだらかに抑えられた(突然アクセル全開レッドゾーンのような状況から少々アクセルを緩めて準加速状態までレベルダウンした)からで、所謂『反抗期』のトリガーないし自己表現の転換ポイントが先送りになったためです。

で、何故通常の『反抗期』では無く、上記のようなメンタルな状況が発生したのかと言えば、
「現実の自分」を表現する上で心理的な障害(強迫傾向)があったためとなります。
「自由な自分というか、自分の大人イメージを表現しようと思ったが、自分の内面にそれをハードに抑え込む概念がある」
ぶっちゃけ強引にこれを簡単に説明すると『やたらと(不条理なぐらい)ハードルが高い』
このような(心理的)障害にぶち当たると、行為は心理的に撤退(退行)し、快不快原則のもの代替行為を脳内選択(時制で言えば思春期の行動選択からより幼い時代の行動選択を模索:幼児期の快不快原則は想像以上にグロテスクだったりするものです)、

このハードルが各人様々なんです。
親子関係において(過干渉などで)快不快原則の頭を抑え込まれている(治外法権で反抗できない)とか、
単に受験などの現実局面で過剰に不安になったとか(ここ後で詳しく説明します)、
運悪く今現在まで優等生的に(共同幻想)社会適応してしまい、既得権益的に新しい荒野というかワイルド(野生)の自分を表現するにはあまりにもリスクが高い(中途半端な民間企業ならサクっと辞表も出せるが条件のいい公務員は簡単に辞められない)などなどです。
 ↑
■とにかくなんらかの理由があった。


>本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って

これ何かといえば、端的に言って「本音の自分が不平不満を言っている」からで、
現状の平和に対して根本的には忌避感情があるからです。
わかりやすく言えば「周囲に合わせているだけ(つもり)で(よく考えると誰も頼んでない場合もある)、これは私の本音じゃない」というストレス。
(前述のとうり大人になる欲求を納得行く形で表現する思考がスムーズにいっていない←バチっと抑えられて内面に逃げ込んでしまう状態)

間違っても自傷時代の自分が本音を表現していたって意味じゃ無いので、ここは誤解の無いように。
過激な行動や行為は(自然界の動物みればわかるとうり)”反動”でああるとか”緊急時”であって、基本”正常な状況とは言えない”ものです。
yuttieさんに起きた行動を簡単に説明すると、
「強度に自己愛的欲求不満状況下で、私は今まで経験したことのないハードなメイクをしてみた(ついでに衣装も派手派手なものを着用)、その時鏡に映った自分の様子が、本当の自分じゃないかと思い、、、、」
 ↑
普通に考えて、通常では考えられない衣装であるとかメイクって時点で”本当の自分”というには無理ありますよね。
これは演出ですから、
(更に過激に表現すると「本当の自分を取り戻すために整形手術を受けた」←明快な論理矛盾ありますよね)

しかし感情的に何かそこに”本当の”というフレーズが実存感あるのは、”武装”があるからです。
退行化思い出してください?
自分の素性をさらけ出す事から逃げた(さまざまな可能性ありますが端的にいえばハードル認知)、
それを乗り越えるとイメージすると(不安感から壁がデフォルメされてやたらと倍増して見える)、
■極端なぐらい過剰な武装しないと不安である。
(これが反動です)

わかりやすくえいば、
山に狩をしように行こうとおもったが、まったく経験がなく漠然と不安になった。
”素人ゆえに”やれ熊が出る、やれライオンが出ると考えてしまい、像でも一発で倒せるマグナムライフルを選んだ。
(素人なのに、素人ゆえに”マグナムライフル”というエスカレート)
しかも脳内では50口径の重火器じゃないと我慢できないような衝動になっている。


そこで、
相談ログから『ここじゃなかろうか』というポイント抜き出してみると
>3年になった私は国立の受験にむけて猛勉強しています
>この前の模試は去年に比べ、いいもので偏差値30上がりました

■受験勉強や学歴なんてものが世の中でクソの役にも立たないことは説明するまでも無いことですが、
yuttieさんの内面にも
「んなこと(受験だの学歴だの)に必死になってお前(自分)救いようの無いバカなんじゃね?」
このアイデアがあるんでしょう。

かといって「だからといってじゃー何するか」と具体的プランは無い、
(経験的に”おー鹿狩り?だったら9mm口径の軽量ライフルでももっていっか”とはならない)
既存の(共同幻想)社会適応してきた旧来の自分(子供の自分)からは
「何も具体的なアイデアないのならただの不平不満なんじゃないですか?あなた(自分)受験から逃げたいだけなのでは?」と非難され、ガチっと抵抗の頭を抑えられている。
※肝心な事は「受験から逃げたいだけなのでは?」などとえらそうに行っている子供の自分も「何故受験が大事なのか」自分の言葉(本音)で一向に説明できないんですよ。情緒的ってあたかも道徳であるかのような誤解を与えて”正しさらしさ”を演出しているだけです。
(熊が出るぞ、とかライオンが出るとかの脅しに負けているだけ)

まーね、結論急ぐことじゃありませんし、
そもそもが「受験」という記号もひとつのトリガーに過ぎません。
その言葉が「大人の自分」という概念の琴線に触れているんですよ。
(なんせ人生で受験なんてトータルでいえば”はしかの予防接種”イベント程度の価値しかありませんから)

答えは曖昧なもので、「大人の自分ってコンセプトを自由に考えられていない」って事です。
(狩の時の具体的思考のように)
案外答えは地味だったりするんです。
(エキセントリックな反動の影響で、やたらと大人の自分イメージをエキセントリックに考えるのは間違い)

「もうちょっと気楽にならんかね〜、女の子の尻おっかけるような余裕っちゅうものは俺には無いのか」のような現世利益的っていうか、現実の自分ですよね(そらアイドルだってウンコもすればSEXもするで→現実世界ってそういうことですから)。
適応って表現は適当じゃないかもしれませんが、
大人になった哺乳類が単独行動で自然界に船出するってのは、現実世界大人デビューって事ですよ。
(適応すべきは社会ではなく現実)
そこで自分はどういう武器を持ち、どういう手口で、何を糧として、どんなイメージを幸福と考え、どういう気ままを望むのか?
(これを”すわマグナムライフル”ではなく、”そ〜だな〜こんなもんかな〜私なら釣り道具?”みたいな現実スケールの中で考える)

ここがスムーズにいって無い。

解決の方法というか、善後策として「経験的にも時間が必要(時間稼ぎ)」って事ですよ。
本当の意味の”現実世界の一時撤退”、
受験に関しても”所謂勉強偽装”程度でお茶を濁して、一生懸命やっているふりして手抜きもする、
(運悪く本当に志望校に合格しても別に構いません、労働組合みたいな意図的サボタージュするワケじゃありませんので)

「なんだかな〜、なにやってんだろうな〜」十分に余裕をもって考える事ですよ。
(それに数年かかっても全然問題ありません)

のようにですね、
短期的且つ局面的にいえばですね
あなたは本音の部分で「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」というアイデアを持っているのは確かでしょう。
(前述のようにそれは全然全てじゃなく、トリガーになっている表層に過ぎませんが当面そうだってことです)

でー、
退行現象ってところからここの局面を説明すれば「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」なる本音の自分から逃げているんですよ。
その不快感や違和感がコレ
 ↓
>本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って

(連想で考えてみれば試験紙のようにこの強迫構造の関係者が炙り出せるでしょう「受験勉強なんてバカみたいなじゃないか?」と発言して騒ぎになりそうな面子が「根拠も無くワケのわからない話を私に押し付けて(或いはそんな様子を子供の自分が自分自身に対して熊だライオンだと勝手に広げて脅かしている)、結果本音を抑圧して、なんだか自己愛的世界に逃げるはめになり、心療内科でようやくおさまるなんて事になったワケか」と→「で再びもとのもくあみ?」「オイオイ何も解決していネーじゃないか俺?」←今ココ)

引用なし

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【22】もう辛くないのに不安  yuttie  - 2010/06/18 21:39 -

はじめまして、yuttieと申します
ごめんなさい、長文になってしまいました
また当時や今の感覚をそのまま文章にしたので
意味がわからないところもあるかもしれません

去年、私は
色々あって
死にたくなりました

悲しさと楽しさと絶望と幸福感が同時に押し寄せて、
私を嘲笑している奴や、
私を殺そうとしている奴や
ひどい声で絶叫している奴や
そんな奴らを全て否定しようとする奴や
ごめんなさい、ごめんなさいなんて呪文みたいにひたすらつぶやく奴や
頭の中でギャーギャー喚いて
紫になったり赤になったり黒になったり

私はその間うずくまって体を硬直させて髪をかきむしって目に入るもの片端から壊して
そいつらを抑えるために自分に激痛を与えて

頭が混乱して
息を吸い続けないと死ぬ気がして
息を吸い続けなんてしたら死ぬことは分かっているのに
だから息を吸い過ぎないようにむりやり首を絞めて混乱が収まるのをまったり


そんな発作を繰り返していたら
目に入る知らない人誰でもいいから殺してしまいたくなるように思えて
別に社会に不条理を覚えてそれを世の中に表現したいとかそういうことじゃなくて
むしろ何の考えもなしに、何というか、その気持ちが思考や理屈よりもっと奥の、
本能とかそういった次元の感覚にガツンと襲ってくる感じで
頭の中で低くて小さくて強い声が
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス…
それが来るたび毎回こらえるのに必死で
自分はちゃんと本当に周りと同じ「人間」なんだろうかなんて考えて
強く惨めな気持ちになりました

そんな自分が怖くなり部屋に閉じこもって学校を長期間休むようになりました


その頃から心配し始めた両親が
心療内科に通うことを勧めました
外出はなるべく避けたかったのですが
通院を拒否したら元々あまり好きでない両親と口論することで
「変にキレ」てしまうのが怖かったので
大人しく近所の病院に通ったのですが

4か月かけて、手首を切ったこと、気分が落ち込むことしか
伝えることができませんでした

他人と体を向かい合わせて話すと
混乱してしまうというか
いい子ちゃんで居ようと思うのか
頭の中の声も自傷の願望も殺害の衝動も恐怖感も
言うのが怖い
というか、
初めから自分にそんなものは無かった気がしてくるんです
先生は最初だけ困った顔をなさっていました

お薬や何もしない時間や時々来る学校の仲間の連絡が
私を助けてくれたおかげで

1年経った今
声やその他の様々な発作はほぼ全く起きなくなりました

3年になった私は国立の受験にむけて猛勉強しています
1年無駄にしてしまった焦りの気持や
これまでの過去からなる劣等感から
暗い世界から解放された後に射す一筋の希望に必死にすがる思いで
ひたすら勉強しています
去年の辛い気持に比べれば一日十何時間の勉強はバカみたいに楽に感じます
この前の模試は去年に比べ、いいもので偏差値30上がりました

ただ
発作が起きなくなって、
最近、あれは全部嘘だったんじゃないのか
なんて疑うようになってしまいました
私は、みんなを見捨てたくて、学校もただサボりたくて
でも自分のプライドは傷つけたくなくて
こんな話をでっちあげて自分をも騙してその気にさせて
いるのではないかと思えてきました
心療内科の先生も私に私のことについて教えてくれなかったのでなおさらです
もちろん私が先生にほぼ何も伝えなかったのでそれは当然なのですが

思えは私は家庭に不幸があったわけでもなかったし
特別な人生を送ってきたわけでもなくて。

腕を切ったのも喉に今でも残るような傷をつけたのも睡眠薬を大量に服用したのも
全部自分や他人を騙すための演技じゃないかと、思えてきて

でも
そうして疑ってくる私を否定したい私や

また、発作が起きない現在の私を
私の人格の一部を無くしてしまったんじゃないかと思う私が

不安がって、またあの時に今戻りたがっているんです

そんなことしたらどうなるかなんて
考えなくたって分かるのに


今までの私を含まない私、今までの私を認めず受け入れようとしない私とは
本当はそれは、私じゃないのではないか、なんて思って
今、不安で
せっかく作り上げてきたものを壊そうとしている
バカみたいな私がいます

でも
私のことくらい私は認めてあげたいんです
どうしたら、また安心して前へ進めるでしょうか

最早迷う時期でないのに迷ってる自分がイヤです

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【21】相当勘違いしていますよ  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/05/18 21:32 -

思うにmacchaさんのイメージしている友達というのは友達では無いと思います。
それは共同幻想適応下の”付き合い”って奴ですよ、
「macchaさんあげている話は共同幻想適応のステレオタイプ」です。

話大きくはなれたところから説明しますが、
社会心理に「いじめ現象」ってありますよね。
これが発生する要因の背景は『群れの形成合意』が(共同幻想崩壊過程の中で)ストレスとなるぐらい破綻始めていてですね。所謂昭和の会社の同僚と付き合い飲みに行く事すら昨今の社会では「相当強度のストレス」なんですよ。
簡単に言えば適応所属している大半の人達にとっても疲れる事になってます、
だから「いじめ現象」が起きるんです。
何やかにやとコスト払って(正直嫌々)集団適応を保っているなかで、誰かが適応から外れていると(それ以外の構成員は半ば共同幻想が強迫意識のような働きして無理しているわけで)相対的に「特権階級意識で私達(無理してまで仕方なく共同幻想協調している)を馬鹿にしているのか」という集団心理が形成されやすいんですよ。
つまりその前提は「共同幻想の崩壊過程」にあるワケです。

更にですよ、
では共同幻想はなやかなりし頃も友人ってどんなものだってでしょう。
戦後昭和ぐらいまでそれは「同郷出身の同僚」や「昔のクラスメート」や「同期の桜で入社試験後合宿研修した仲」などですね(意味わかりますよね?)所謂社会学的なゲマインシャフト(地縁血縁)におけるアイデェンティファイ(帰属・所属元)をベースにするものが最強で、「だから当時の共同幻想は組織化集団化しても過度のストレスを発生させない」のです。
先進国化は=ゲマインシャフトからゲゼルシャフトの変遷ですから(それが共同幻想崩壊過程の始まりです)、先進国化の過程の中で”付き合い程度の友人関係”は欺瞞的関係として忌避されます。
※戦後昭和に社員旅行がストレスでは無くて十分娯楽として成立したのは「運命共同体的帰属意識(アイデェンティファイによるアイデェンティティー)」が健在だったからで(ストレスを感じるほど自意識の自由度や覚醒もない)、
ココ現代社会ではストレスとして人事管理上ナンセンスになっているところです。

で、盛んに昨今雑誌(特に女性雑誌)を賑わしているテーマは何ですか?
”個性的”や”自分らしさ”など今後メジャーになる民主主義的個人主義(実態は単独者のことです)をどうやって導入すればいいかって話なんですよ。つまり試行錯誤の中それを求めているが「ほとんどまだ成功していない」んです。
つまり、形式的な友人関係なるものに”彼女達自身本音ストレス感じている(嫌々である)”場合が非常に多くなっている。
(ここで思い出してください、社会適応そのものが嫌々でストレスになっているからこそそれを背景に「いじめ現象」は発生する。)
簡単に言えばなかなか出来ていない(適応型から単独者へ途中でシフトするのは難しいですから)。
 ↑
そんな姿と現状判断も混乱しています
 ↓
>「人の悪口をいってはならない」
>「うそをついてはならない」
>「あいさつをしなければならない」
>「まちがってはならない」
>建前ばっかりなんです。

付き合いの範囲は建前でいんですってば、
むしろその方が正しい「公式的とかフォーマルとかって部分ですから」

極端に言えば共同幻想適応な人ほど友人いませんよ。
(皆無って人が非常に多い筈です→これマジな話で、現代社会は自宅に帰ってお風呂に入ってため息みたいな人は想像以上に多いんです:比較多数かもしれない)
何故って付き合いと友人違いますから。
極端に言うと、単独者系じゃないと『自意識的友人(そういう言葉はありませんが)』とか論理的に無理なんですよ。
(共同幻想適応的な意味の親友は限りなくゲマインシャフト的ノスタルジーの世界の投影で『共同幻想適応型の合理的共依存』のようなモデルなので、親友などのイメージですと現代的な友人像にならないんですよ)
で、ここの関係性のフェーズはあまりにも違うため、単独者な人は誤解をさけるため「友人じゃない」と説明する場合もあります。
この意味は「遊び友達」「友達感覚」など→実は友人という言葉の語彙は軽薄な関係を意味しているんです。
なんて言えばいいでしょうかね「実存を賭けた友人関係」って言葉が成立しないんです。
共同幻想時代の言葉を流用すると「ライバル」とか「腐れ縁」ってのが現代社会における親友になりますので、
単独者が「○○さんは友人です」と言ってしまうと、言っている本人の心情としては(そもまま共同幻想語彙で解釈されてしまうと)”その友人を蔑視しているような意味になっちゃう”んです。
(つまり単独者同士は「友達だしな」でいんですが、当事者に共同幻想適応型の人がいると解釈として別の意味になる)
(何でしょうね〜、10代20代で若く血気盛んな単独者ビギナーは笑顔で「友達いませんから」って微妙なニュアンスで語ったりしますが、それはこっ恥ずかしいながら自慢だからなんですよ:背景には又違う意味の韻が踏まれていたりする)
 ↑
ややこやしいんですが、なにせ現状共同幻想崩壊過程の”過渡期”なので仕方が無いところでして、

つまり「悪口言っても、嘘ついても、あいさつ無視しても、まちがっても」”そういう意味の友人関係”が見つかる訳ではありません。

単独者の実存ってのはそういう意味じゃないんです。
「最初の友人ONEは”他者としての自分”ですから」
自立独立ってそういう事で、
単独者の自立は孤立(孤立の概念が成立するには所属母集団が必要)と違うように、
自立独立する主体の成立それ自体が=コミュニケーションの成立なんですよ

少々難しい話ですがじっくり考えてみてください。

『自立独立する主体の成立それ自体が=コミュニケーションの成立なんですよ』
自己完結性のある主体が無いとどこの世界にもコミュニケーションやネットワークは存在しません。
PCにたとえればOS入れてネットワークの設定やったらOKなんですよ。意味わかりますよね?
何かOSに特別な社交性ソフトとか、
なんていうか、いくつか初期的関係性のモデルなんてあったら大変で(いきなり知らないマシンとイントラとかあり得ない訳です)、

■実際精神分析であるとかカウンセリングとかかなりハードなコミュニケーションですが
「macchaさん既にコミュニケーション成立していますよ」


こういう誤解がなんで生まれるのかって、
強迫心理ですよ

ぶっちゃけ家族意識のノスタルジー(をゲマインシャフト的友人関係に投影させて)の事を友人関係なんじゃないかと誤解しているんです。
これは致命的な勘違いなので注意してください。
現代社会における友人関係は代用家族じゃありませんから。
そこへの依存を切るから→その先に自立独立があるのであって、

精神分析は共同幻想適応であるとか単独者志向などベクトル持ちませんが、少なくともメンタルな問題からの離脱過程(反抗期と同等)は通過儀礼的に誰しも単独者的スタンスに足場を置かなければなりませんから、ここ間違わないように注意したいところです。

※逆説的というかカウンター当てて表現するなら
「友達とか何のこと?友達がいるとかないとかゴチャゴチャ言って何か得する事でもあんの?どうだっていいことに思うけど」

などなどひとまずですね落ち着いてじっくり考えてみてください。
(共同幻想の状況や社会心理など他スレ等でも相当詳しく書いているので、他過去ログなども参考にしてみてください)

引用なし

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【20】Re:初陣と考えればいいのです  maccha  - 2010/05/17 21:41 -

忙しいのだろうな、と思いつつ・・・返信いただいてありがとうございます。
単独生活を模索しているとは書いていますが、自信を持って言えることがあります。
私は友達はいません。今までもそうでしたし、これからもそうだろうな、と思います。(友だちの定義にもよりますが、)
ひとり、なんですね。いつも。
なんとなく、それがコミュニケーション能力ないっていわれそうで、・・・


心理的虐待を好感と勘違いしていたって、そうとう間抜けだな、って思います。自分の気持ちがわからなかったんだから。
今、土台が崩れだして、その上に建っている建物がまだ、崩れていないような感じです。
「人の悪口をいってはならない」
「うそをついてはならない」
「あいさつをしなければならない」
「まちがってはならない」
建前ばっかりなんです。自分でもしんどいよね、これじゃあ、もたないな、と思っています。人と接すれば接するほど、マイナスばっかりになっていくので、誰とも接しない方がいいことになってしまう。
内向化しやすいのは人に相談とか冗談とか話をしないからかなと思う。ま、そのほうが楽だから、そうしないのだけど。


もう、ひと押しかな、なんて。。。

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【19】初陣と考えればいいのです  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/05/11 14:31 -

心理学というか精神分析は特定の方向を示唆しませんから、単独者を是とも共同幻想強調タイプを是ともしませんが、社会心理的には「先進国化の果て」として「成熟した民主主義」なり「個性化」という表現で社会全体が単独者化にシフトしているのは事実です。

又、メンタルに問題のある状況からの脱却時には構造論的に誰しもが時限的に単独者のスタイルを経過しますから(反抗期過程の踏襲と同じです)、基本スタンスは単独者志向で考えて間違いありません。

ある意味時代認識とすると、
日本の場合特に女性に対する社会的強迫が強かったので、いわば日本の女性社会は集団心理として「集団強迫心理状況」にあります。
(フロイドが生きていれば分譲マンション購入に血道をあげる状況を「集団ヒステリー」と呼んだかもしれません)
時代の変遷としては、戦後突然民主化した日本の場合「ミニスカートブーム」に始まり急速に女性の解放が進むかと思われましたが、これが戦後復旧と高度経済成長の中揺り戻しがあり『短大・一般職・寿退社』なる捏造的社会属性への帰属を強迫された背景がるワケです。
(当時の女性が政治や社会に関心が無かったのはそういう強迫的偏向認知が原因です→当然これは民主主義の条件として問題になりますよね)
それが現代社会でも「結婚願望」なる(限りなく病理に近い)強迫として残留しているぐらいで、

つまり
『シマウマの群れ』と表現されたOLさんに特徴的に見られる風景はこういう社会心理を背景とした「一種の囲い込み」です。
(社会に潜在意識が固有にあるのではありませんが、仮に想定するなら『一般職として将来男性社員の女(嫁)としてあてがわれる候補を群れで管理キープしている様(処女性の管理)』なんです:補足するとその代わり男性社員は猛烈サラリーマンとして人権無視ぐらいの労働を課せられた、当時は終身雇用と嫁候補の一般職はセットだったんですよ)
表現難しいのですが、その群れのモデルとなった江戸時代以来の「井戸端会議」は、事実上会計事務責任者が業界の寄り合いで話しているようなものなので趣旨が違ってきているワケで、
昨今の女性社会は一種東西冷戦時代の東ヨーロッパの密告社会モデルのようにですね(ある意味初期の頃はどの男性と付き合っているのかなどの情報が”抜け駆け禁止”みたいに情報共有された)、ちょっとこれは問題な状況なワケです。
(※外的脅威がない限り草食動物も群れない→社会心理的に「一般職の囲い込み」のような外圧があって初めて群れが形成されます)

当然雇用機会均等法を契機に、公式的に女性に対する社会的強迫は効力失いましたが(流石に同じ女性だからといって上司の部長が昼ご飯を食べる会で群れるって事は不自然ですから)、社会心理的にも「どうしたらいいものか」と試行錯誤が続いているのが現代社会です。
4大の進学率も高くなりましたし、筋論としては「若いOLさんの群れ」というのは解消されるべき社会の歪みなのです。
(それは本当に仲の良い友人と連れだっていくのはアリアリですよ)
3・3・5・5なり2や1もあってちらちらと自由にってのが本来の自然な状況ですから。

>軽く考えるくらいにならないとね、
>器がもともと小さいのでしょうかね、テンション下がるとすぐ深刻ぶりたがります。

内向化するので”器を小さくしている”んですよ。
外部に解放(情報開示とか公開性とか透明性って奴です)すると、煮詰まるって事はありません。
つまり心理的な内向や落ち込みは、思考なり認識なりの領域を(ビックバンの反対)内向させるわけで(空間を閉鎖的な領域に押し込む)、それによって「深刻ぶる」という興奮(脳内では快感認知)を獲得して帳尻を合わせる形になります(バイアスのかかった均衡と呼べばいいでしょうか)。

こうですね、あっけらかんといいましょうか。
「やった休み時間だ(ひとりで好きなところいこ)」のような開放性、
これがアンチテーゼなんですよ。
会食恐怖に関しても別段おおっぴらにしても構わないのです、
笑いながら「会食恐怖ですが何か」ぐらいの勢いで、

又、群れとコミュニケーション論は全く別物です。
コミュニケーションの主体は「個」ですから、
(営業で考えてみてください)
群れに関しては(カウンターかけて極論化しますが)「一種の民族主義や宗教団体」のように見立てても間違いありません。
そこに協調することはコミュニケーションとは言わないでしょう(笑

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【18】Re:いくつか補足すると  maccha  - 2010/05/10 21:04 -

単独行動を模索して単独者型生活を続けています。
人と親しくお弁当とか会社の食堂とかで食べるの苦手なので、なるべく避けるのですけれども、最近開き直って、1人で食べたりします。
まぁ、皆が集団で食べている時に1人ってありかなとかも思うのですけれども・・・
会食恐怖をばらす気はないのですが、コミュニケーション能力がないって言われるのはちょっと困るな、
そう思われてもしかたないし、事実かも。
ライオンが単独行動はおかしくないのだけど、しまうまが単独行動しているって感じかな。女の人がぺちゃくちゃしゃべっている中で、1人ってなんか浮いている感じで・・・浮いていてもいいんですけどね。
なんとなく違和感あるけど、しばらくこのままかな、、


1人でいるのって仕事にも影響でないかな、ただ、集団の中にいてもテンパるのはもうわかってしまったので・・・

コミュニケーション能力がないとか、おどおどしているとか言われだすとちょっと大変だな、女はうわさで決まってしまうようなところがあるっていうか、、なかなか女で一匹狼はむづかしいかな、なんて、、
関係ないですかね?環境によりますかね?
実力もないのに、一匹狼は厳しいですね。じゃ、実力を磨けば、ってやっちゃうと、きっとテンパる。
今は、しまうまが群れからはなれた感じかな、


人っていいふうには見ないしね。出る杭は打たれる?出ているわけではないけど、・・・・

ひとりがこわいんですかね。人といるともっとしんどいので、これで行こうと思うのですけど。
母子間のストックホルム症候群状態か、、、高くつくな・・・


軽く考えるくらいにならないとね、
器がもともと小さいのでしょうかね、テンション下がるとすぐ深刻ぶりたがります。

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【17】いくつか補足すると  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/04/04 20:19 -

>母はどこかで大人になる私を拒んでいる。
>父の先祖なんかどうでもいい。

で、前回のたとえ話を繋げると、

「(暴力団の)組を抜けるだって!」
「(ストックホルム症候群)人質から解放して欲しいだって!」
「(超体育会系の)○○商事を辞めるだって!」
 ↑
全部の言葉に以下が続きます→「この裏切り者」

すっかりあっちの世界まで現実を通り越し、演劇や映画のシナリオも通り越し、簡単には想像するとも難しい妄想の世界にいってしまうわけです。
自意識の本音は

「ったって、裏切りものってあなた、、も〜、どうしたものか。。。」

強迫意識が無意識的在り方を利用して、知らない間に(事後追認的に)自意識共犯の構造に巻き込まれて、言い訳考える役回りまでおっ被されるというですね「おーも〜」みたいな図式は、
上記の図式を認識して「あちゃ〜っ」と現在の自意識にバレれば(=無意識下から浮上)止まります。
『一拍置く』の仕掛けで常に修正も可能になります(判例化や習慣化の阻止:同時に”逆判例”攻撃)。

曰く「悪循環の”環”」に関しては一段落するって事です。
(ここの仕組みがよくわからなかったので、心理学以前は宗教哲学が”業”と呼んだり当時の人は随分考えたところです)
強迫心理の威力的な部分が落っこちたみたいな話になりますから、
「あちゃ〜っダメだこりゃ」的認知は重要ですから、しっかり確認しておきましょう。
(反動や抵抗起きるとその認知を撤回させて宗旨替え反発みたいに元に戻そうする動きが出たりします。ですから事前にそれを予測して「この一線は絶対死守」的に認知を政治的信念レベルに押し上げておけば防波堤になりますから:認知をある程度予測的”高さ”に上げてあかないと防波堤効果が無い→ちょっとした水位上昇で決壊してしまう)

を踏まえて、
 ↓
>で、これからどうしようかと思っています。

急場困らないのであれば「いっそ会社も辞めてしまおうか」ぐらいの幅で考えていいところです。
(そういう発想を深刻に考えると失敗→軽く「あちゃ〜っダメだこりゃ。ったくもうね、いっそ会社も辞めちゃおっかな〜」と薄笑い込みで言えるような認知じゃないと→「おーも〜」みたいな図式認識がまだまだ中途半端だって事です)

会食に関しては(既に経験的判例が出来上がってしまっているので)
「暫く俺は会食苦手な人間だからな〜」←確定させてください(ココ今現在のアイデェンティティーの一部です)。
堂々と自己紹介で言っていいです、
或いは、ブラックジョークのひとつもくっつけて「会食するとゲロ吐きそうでーす」と大声で言えるぐらいの勢いにしておく。
 ↑
そりゃそうそう簡単に知り合いの間で言える事は無いでしょから
(無理して言えばいいってことでもなく、どうしても言うべきだってことでもない)

そう言う自分の姿(「人呼んで会食恐怖の”○○”と申します」と仁義切ってもいい)をイメージするって事です。
冗談半分に誰もいない部屋で声に出して(台詞回しのように)言ってみて、感じを体感しておくのもいいでしょう。

普通にですね「冗談じゃ無いよ、飯ぐらいひとりで食わしてくださいよ」と言ってもいいんです。

逆説的に言えば、そう言えれば
「苦手なのは十分承知しているんだけれど、ここは付き合いとして顔だけ出すとかでいいから」
という状況設定になるので、無理シャリ会食現場に出てもそれほど極端な緊張はしません。

さらに言えば、
メンタルな問題から離脱時には誰でも一時的に”単独者期間”を経る事になります。
(これは思春期の反抗期中の各人の人格も同じなんですが、)
その後共同幻想適応型人生を選ぶのも単独者型人生を選ぶのも自由ですが、リハビリ期間は「単独者型」を志向することになりますんで、

大きな枠組みとして「単独行動を模索してください」
どうやったら昼飯を単独行動で食えるか(ってかそもそも昼飯なんて食わなくても死にません半年なり1年ダイエットだとか適当なこと言って珈琲とタバコでやり過ごすって現実的方法もあります)、ここ真剣に「戦術論」として考えてください。
その戦術の中に「おーも〜、会社を辞めちまうか」ってのもアリだってことです。
 ↑
そもそもを考えてみてください。
 ↓
>母はどこかで大人になる私を拒んでいる。
>父の先祖なんかどうでもいい。

抑圧の中心は「自立・独立」だったのであり、
現行就職先は、以前の強迫的自分が選択したものなんですよ。→端的に言えば「似非」。
んなもんほっぽりだしたほうがいいぐらいなんです。
(貯金があるなら本気で辞めてもいいでしょう→逆さに言えば辞めるために貯金するとかも現実的)

これからの自分は「まったく別の方向性を考えるかもしれない」ワケですから。
(組織も人質事件も超体育会商事も全て幻想だったんですから)


ですから、
>で、これからどうしようかと思っています。

もっと大きな枠組みで考えましょう。
あえて皮肉で言いますが「会食でゲロ吐くとか、んな事は瑣末な事だ、んな事よりもー」の次元に意識をシフトさせるって事ですよ。
(”の次元に意識をシフト”の場所でようやく『現実』だってことです)

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【16】Re:母親のこと  maccha  - 2010/04/03 19:27 -

パワハラを好感だと勘違いしていた。間抜けなんですね、私。
当たってる、と思う。

で、これからどうしようかと思っています。
今、お昼ごはん人と食べる時、右手が震えて、力が入らない。会話は適当にして、自分ではあまり気にしないようにしている。気取っても仕方ないし、とか思ってみる。
左利きを小さい時に矯正したからかなとかも考えるのだけど・・・


スレッドの件、了解しました。気をつけます。

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【15】Re:母親のこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/28 22:15 -

>しかし、この時点でもう、私は、子供ではなくなっている。
>従順な子供のふりをしている大人。育ててもらっているわけだし、仕方がないから自分をださずに子供のふりをしよう。そのほうが得だから。いつまで。大人になるまで。私が母を好きになるまで。

というかですね、
文化人類学的といいますか、人は「社員である前に自分」でしょ。
家族法人も法人ですから。
属性として「部長(母親)と平社員(子供)」のような属性や関係性はあっても、あうんの呼吸といいましょうか信頼関係といいましょうか、実態は「個と個の尊厳」が前提なんですよ。(特に昭和以前の大家族主義時代の方が家族社会はより法人っぽかったので当時の方がそういった認知に迷いが無かった)
個人が誰かを超えて「立派な○○商事の正社員になるんだ!」というのはこれナイ話なんです。
(あるとすると”栄光の巨人軍”のような既存の上部構造的権威性が明快な場合→家族法人で似たケースは”名家”とか”貴族・武家”とか”歌舞伎の○○家”とか)
「どうか○○商事に入社させてください」と土下座したワケじゃないですから、
素で○○家に生まれちゃうのであって、

仮に「部長と社員の絆」のような信頼関係ある場合→「単に上司と部下の関係を超えて」と言いますよね?
言葉として「単に親子関係を超えて」という表現が無いのは家族法人の場合滅多に辞職や解雇事例が無いので(身分保障)「上司と部下の関係を超えても同じ親根関係の枠の中で言葉にしてもいいだろう」という(特殊な法人といいましょうか)、ここもあうんでそういうことになっているだけで、実態は同じですから「濃密な絆の親子関係」があるとするならば実態は「単に親子関係を超えて濃密な信頼関係がある」なんですよ。
つまり信頼関係のベースは法人としてのクラス(階級)上の関係性では無く(他人と他人同様)個人ベースだって事です。


「従順な子供のふり」というのは「上司に正社員として認めてもらおうと必死になっている」のと同じ状態なワケです。

今回のケースをザクッと説明すると
「パワーハラスメント下にあるのにストックホルム症候群(わからない場合にはググればすぐwikiが出ます)みたいな現象で、当事者が権威者にそれを”好感”だと勘違いしてる」という事です。
(当然人類ヒト科の幼児特有の”習性”として、記憶も定かじゃない時期からベーシックには両親に好感を持つ状態から始まる事も言うまでもありません。古い印象記憶として残存する)
 ↑
※重要な要素として強迫的関係により自我そのものの強迫意識を親子関係を媒介にして伝達させるタイプの親は幼児が”赤ん坊時代(大人の他者的不安感が無いため)”過干渉とも受け取れるぐらい溺愛するケースも多い(赤ん坊時代だけです→生意気に口を利くようになると正反対に親が不安状態になり神経質になり子供に対して警戒感の方が強くなる)。


極端なたとえ話をすれば、
「ある日突然別の次元にタイムスリップした。その次元では私は暴力団の構成員で、組のやることや下っ端の私がやらなくてはいけないことは不条理極まる違法行為ばかりだったのですが、当然そこから抜け出す事などできません。知らない間に私は直属の”アニキ”に気に入られようと必死になっていて、アニキは随分無茶な人なんですが、ある日等は・・・・”お前もいっぱしのヤクザになってきたじゃネーか”と声を掛けられた私は、、、その時です私が”アニキ”に一生ついていきます!←のようにワケわからん状態になっていたって事です」

わかりますよね?
この構造が投影なり連想されれば「会社の同僚との会食」←こいつが過剰なぐらい緊張の場と化す事が。


>携帯を最近買い、父が私の携帯番号に4や9があり、よくないので変えるようにといってきた。
 ↑
ですから、この現象も「電車でとなりの席に座ったオヤジがそんなエピソードの話をしていた」のと同じ感覚で聞けない方がおかしいんですよ。
仮に同じ話を(事前に知らずに)となりの席のオヤジの話として聞いて、それを友人に話す自分って設定で考えてみてください。

「って話聞いちゃってさ(爆笑」
「(涙流して)、バ、馬鹿じゃんって、4や9って何よそれ、二つあったらさ携帯番号何桁以前にお前090全部ダメじゃんみたいな(笑」
「あり得んと思わない?」
 ↑
相手が誰だろうと同じ反応でいんです。
(これぐらいの勢いであっても全然おかしくないでしょう)

で、「それマジなん」な状態で、
(いやー無理クリ角立つ話になるのもなんとやらと思えば)
「そんなに気になるなら変えてもいいけども(笑い堪えて)、うーんどうたもんか」
結論「どっちでもいい」(言い換えると”どーでもいいこと”だってことです)

カウンター意識して少々極端な話にふりましたが、そんぐらい思考や認識のファンダメンタルを切り替えて初めて「現実」が見えてくるって事です。
逆さに言えば現在の状況は「SFまがいのタイムスリップした主人公みたいに”ありもしないトンチンカンな話”の中を彷徨っているほど現実離れした認識下にある(存在もしない世界の話をしているかのように)」って事です。
(それぐらい大きな幅で立ち居地を切り替えて考えてみてください→次から次と記憶の過去事例の意味や話の筋が変わってきますから:エピソード的に意味が逆さまになる記憶もあるでしょう)


※それから公開掲示板は閲覧する人向けの公共性から維持しているものですから、続きの話の場合には新しくスレッド立てないでください(マルチポストみたいになってしまうので)。新しいスレッドを立てるときは閲覧しずらいぐらい伸びちゃった時か、時系列的に随分後になったであるとか、独立したテーマで違う話になる時にお願いします。

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【14】母親のこと  maccha  - 2010/03/27 17:22 -

母親が大好きで幼少期は母親の言うことを聞くことに一生懸命でした
これについて
好きなら言うことを聞かなければならないか?おかしい。
好きだという私なりの表現が、いうことを聞くことだった。
しかし、この時点でもう、私は、子供ではなくなっている。
従順な子供のふりをしている大人。育ててもらっているわけだし、仕方がないから自分をださずに子供のふりをしよう。そのほうが得だから。いつまで。大人になるまで。私が母を好きになるまで。

子供ではないのに子供のふりをする。芝居をする。どんどん大人になる。ますます〜しなければならないが増える。芝居が芝居でなくなってきている。超自我の肥大化。何のメリットがある?
自我はなぜ受け入れた?自分の足をひっぱっているのが自分。
自分が苦しむことで母を苦しめたかったから。
母はどこかで大人になる私を拒んでいる。

緊張の原因を私の幼少期の取り込み方にあるのではないかと思い、母親との事にあるのではと思い、検証してみる。超自我の見直し。自我の再構築。

過去レス読みました。内容の理解はかなりあやしい。
ヒヤヒヤしながらキャッチボールをしているのは私もそうだな、と思った。
しゃべりながらキャッチボールをする。
無駄話しながら、無意識にキャッチボールをする。
無意識の世界を共有しているような安心感がない。


今、現実に起こっていること。
父とのこと。
携帯を最近買い、父が私の携帯番号に4や9があり、よくないので変えるようにといってきた。
父が先祖が気になるので番号を変えたかと。母はかえてあげればすむことだし、という。
変更しとくわ。といったものの、一拍おいて考えると変更する必要あるのかな、と思う。身体は動かない。変更するの、嫌なんだな、私。
父の先祖なんかどうでもいい。
私の携帯を私のお金で買って電話代も自分で払って、別々に住み・・・
番号かえるだけのこと。でも、もう嫌。
別に、弱いものいじめをしているわけではないので・・・

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【13】Re:会食恐怖のこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/19 15:46 -

>有料相談を検討したほうがいいのかもしれませんが、恥ずかしながらお金がありません。ワーキングプアなのです。

これも考え方ですよ。

自分固有の分析には”それだけに”強迫心理の反動も強くでます。
ですから有料の枠組みは「主体的に相談を行う意思確認」なんです、
当然私にとっても生活がありますから無料で永遠に続ける事は不可能ですから有料の枠組みは様々な意味で重要な関係性のひとつですが(依存性抑止や第三者性の担保など)、これも考え方ですよ。
この無料掲示板の開放の意味は『膨大な過去ログを閲覧できる』という事であり(メンタル特有の共通項を確認できる筈です)他人の相談スレッドは”相談者含めて完全な第三者”となるので、自分固有の分析レポートとは別の意味の枠組みを持ちます。

自己分析の危険性が示唆するリスクに『他人の相談スレッドを読む』行為は対極にありますから”かなり余裕をもって十分に内容を読むことができる”んです。
それもひとつの「外堀」です、
「お金がありません」も考えようで、
だから今できることがあるって事ですよ。

さて重要なポイントをひとつ
(課題だと思ってください「400字20枚のレポート課題」)
>母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。

『母親が大好きで』
この記憶は正確じゃないって事です。
分離不安状態における依存性を自意識共犯的に説明する時に疑いも無く(ステレオタイプに)選択されただけで、
誰しも思春期における反抗期(自立と個の確立)に『盲目的肯定』を逆転させます。
(何が言いたいかって反抗期を体験する人の”それ以前の権威者に対する好感”は嘘ではないって意味です)
幼児期における権威者に対する好感には「無条件・無意識」な要素が大半で(好感の発現を記憶していない→反抗期で幼児期特有のデフォルメや無意識的固着を相殺し→後にひとりの個人として「関係性が再選択される」)、
わかります?
だから「〜でなければならない」となったり、
>人と仲良くしたい=(母親の)いうことを聞かなきゃ(ならない)
『盲目的肯定』を無垢と勘違いするから
>母親の言うことをきくことに一生懸命
ちょっと想像してみてください?
「妙な新興宗教みたいだ」と思いませんか。
■ひとつでも戒律を犯せば地獄に落ちる不安
(それを大好きと表現するのは正確じゃないでしょう「取り込まれていた」に近い、「囲われていた」に近いかもしれません)

この構造が強迫構造ってものです。
>人と仲良くしたい=(母親の)いうことを聞かなきゃ(ならない)
>母親の言うことをきくことに一生懸命
 ↓
だから
「しんどいのです」「緊張しいなのです」

>うまくいくことを拒んでいるような感じ、自分を守っているような感じです。
デ・コードします。
 ↓
自立して自分の考えに従って行動することを拒んでいるんです。いえ拒まれているんです”母親に従わなければいけない”と思う自分に。
自分は大人として自由にしちゃいけないんだと、
「”母親に従わなければいけない”と思う自分を守っているんだと思います」


■(課題だと思ってください「400字20枚のレポート課題」)
>母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。
 ↑
これが”どういうことか”述べよ
※条件過去ログを100件以上閲覧

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【12】Re:会食恐怖のこと  maccha  - 2010/03/19 07:49 -

貴重なお時間を割いて頂いてありがとうございます
有料相談を検討したほうがいいのかもしれませんが、恥ずかしながらお金がありません。ワーキングプアなのです。今は新しい職場にいくので自分のことを考える時間があります。仕事がはじまるとあっぷあっぷします。
問題が会食恐怖でないこともわかっています。かなりの緊張しいなのです。

しんどいのですが、しんどいことで落ち着く面もあるようなのです。うまくいくことを拒んでいるような感じ、自分を守っているような感じです。歪んでいるのですが、その歪んだ考えを修正してあげればいいと思っています。

母親が大好きで幼少期は母親の言うことをきくことに一生懸命でした。
人と仲良くしたいと思うとしんどいのは、いうことを聞かなきゃと思うからみたいなのです。

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【11】Re:会食恐怖のこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/18 18:17 -

公開掲示板上でお話できる範囲で説明しますと
会食恐怖は二段階で考えなければならなくて、
単独行動捕食獣のそれにあるように、基本生物は食事中緊張します。
好き好んで他の固体がいる場面で食事しようという生き物はいません。
集団で食事が出来る前提は(捕食獣でも幼児期は集団で食事を取る)「その場の安全確認」が大前提になります。
草食獣で考えれば集団安全保障的な意味で群れが食事の前提にもなりますが、ここも「その場の安全確認」が強く担保され認識もされるためです。

人間の場合、ここでも幼児期からの体験と経験的連続性(或いは社会性)がそれを保証するため(本来は好き好んで会食などしたくなくても)不快感が無力化される工程が織り込まれる(モジュール的に)と考えていいでしょう。
■つまり
素で「会食自体がそれほど好きではない」程度の認識は全く問題ではない。
会食における可不可の差異があって自然
 ↓
「○○が○○なので飯が不味くなるじゃねーか」
(これ一般的表現にありますよね)

会食恐怖と体感されるっていうのは、基本的水準として『緊張(警戒)レベルが高い』ため忌避がトリガーで心因性の不快に増幅しているとなります。
(不安水準みたいに解釈してもいいでしょう)
となると、ここには心理学的意味での結果論的自己中心性(自己中心の視野が限界でそれで手一杯である)なり更に進んで内向性なりが発現しているとなります。
基本的に先進国として安全が担保されている市民社会が「安全圏」として認知されていないって事です。
 ↑
ここには複数のルートで可能性あります
・過剰な社会適応意識があり「相対的に自分がスキルとして適応水準に達していないのじゃないか?」のような不安が増大している。
(そもそも社会適応しなくちゃいけない法など無いので本筋は「社会適応そのものがどうだっていいこと」なので、そこがどうだっていいじゃなくて”○○じゃなくてはいけない”になってないか確認)
この場合、家庭法人社会において意味不明な社会性の欠如が体験としてあった場合、子供特有の強迫心理として「自分のスキルに問題があるのではないか」と考えてしまい(実は親の家族法人社会の企画に問題があるのに)、誰が考えてもわかる話ですが、家父長でも無い子供に家族法人の社会性を主体的に運営する事などできませんから→自分からは(無意識に)永久に解決しない問題の原因を自分じゃないかと勘違いする事により派生する強迫心理が原因となります。
■「超自我が強すぎる」って体感はココでしょう
(超自我に強弱なんてありません:ここも最下段に説明ありますが明快に論理的説明のつく人格傾向です→「何か理由がある」って事です)

※例外的に子供個人の才能の関係で、かなり強引に子供の尽力でどうにかこうにか家族法人の社会性を立て直ししてしまって(過労依存とでもいましょうか)その度に高度のストレス(大活躍をデフォルトに織り込んでいる)が恒常化することによる強迫性も在り得ます。


お話伺うと、もうひとつのルートがあるでしょう。
(可能性はこっちがかなり濃厚ですね)
・母子関係の『過干渉』が原因で分離不安が発生している
これは、母親の不安心理(強迫的不安:家族法人となんら関係ない個人レベルで彼女自身の自我に心理的問題がある)が原因で、子供依存であるとか子供を母親の自我(内面)の一部として(他人である子供と自分の区別が付かず)自己(母親の幼児性人格部分)を実子に投影して、ぬいぐるみを手放せない幼児のような心理的事情が母親にあった場合(延べ時間とか具体的な過干渉頻度は関係ありませんあくまでも心理的な印象性が高ければ同じ意味です)、
母子関係は幼児にとって「かなり高い既得権益(快感)」になりますから、それに依存し続ける状態を『デフォルトじゃないか?』のように誤認してしまいます。
(強迫の置き所は「母性のようなものに守られない限り私は不安になる」というロジックが強迫的に構造化する)
極論すると自分が「子供のぬいぐるみ役」に貶められている事(実態としては虐待)を「美しい母子愛世界」であるかのように勘違い(誇大視)してしまうワケです。
こうなると、他人同士の関係を前提とする社会性は「それ自体が不安の対象」となり、『常に会食どころの騒ぎじゃない』となるのです。
■この濃密な母子世界の誇張されたイメージが「超自我が強すぎる」と体感される自我の枠組み(相対として”自分”である”自意識領域”が少ない)を設定していると見ることもできるでしょう。
(「濃密な母子世界の誇張されたイメージ」の成立条件に道徳や社会適応が関連して超自我を形成←注、そこには自立独立した自分個人の自由世界は無い)


立ち食い蕎麦の会食恐怖より会社同僚などとの知り合い同士の会食恐怖の方が強く出ます。
 ↓
ここはそのまま”連想性”です。
社会性認知の前提が家族法人時代を母体とするため、親しげな雰囲気があるなり親しげな雰囲気が演出されている状況になればなるほど「違和感(不安)も大きくなる」
 ↑
この二面性は「表面に出ていなかっただけで、母子関係の分離不安という状態は実は”自分が子供時代に所属した家族法人の中に既に会食恐怖が隠れていただけ”」って事なんですよ。
わかります?
特権になればなるほど、その地位は危うくなります。
過剰な母親の子供依存なんかがあると、(分離不安として)当時から潜在的な会食恐怖の可能性は織り込まれていたんですよ。
で、「分離をトリガーに発動」

この辺を見直してみることですね。
ポイントとしては
「不特定多数の人と飯食ってうまい筈は無い」
(高級レストランだって高い席になればなるほど個室になる)
会食や飲食の重要性は会話の方だったりしますから(食事はその”方便”)、会食行為そのものを「食べ物にはほとんど手を付けなくても何か飲めればいいか」程度のジャンルの行動と定義してしまう。
(後から考えたら「あの時は偶然うまかった」とかあっても困らないワケですからね)

「家族の肖像」を考える、
配役というか、家族ドラマにおけるシナリオ上の人物設定を”書き換える”。
(現在自分が想定する人物設定が「相当間違っているのじゃないか?」を出発点にしてみる)
あれこれとシミュレーションして、「あれ?こうかも」など演出家的視点でドラマの再現性や表現性を考えてみる。

「微妙に親しいとか知り合いと赤の他人」を考える
赤の他人の方が楽だったりします、
案外自己中心的に親しげな関係を過大評価して(たいして親しくも無いのに)自分で追体験のトリガーを引いちゃっている可能性もあります。
・屋外のcafeでひとりで何か食べながらリラックスして珈琲飲んでいる時、偶然「目の前歩く歩行者がいるだけでゲロ吐く奴はいない」。
「なんだ、考えてみれば顔見知りってぐらいで全然他人だし」という切り分けにもチェック必要でしょうね。

■重要なところですが心理学的に『正格』などというものは存在しません
(人格傾向として全てに論理的背景がある:六感の特性であるとか生理的傾向みたいな差異はまた別の話)
この点に関しては
「何故”気が小さい”などという傾向があるのか?」
「何故”おとなしい”などという傾向があるのか?」
「何故”緊張しやすい”のか?」
全てに堂々と即答できるように(薄笑いを浮かべつつよく通る声で答えられるようなレベルで)、まずあれこれ考えてみるって事ですね。
(※これ自分に詰問して追い込むとかと全然違いますからね→「何故そんな面白おかしな傾向あるんだろ」のように素で考えるって事です)


今現在の情報だと、公開掲示板でお説明できるところはプライバシーの関係もあるのでこの辺までですね〜
(細かいところは他相談スレッドの過去ログ読んでみて下さい)

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【10】Re:会食恐怖のこと  maccha  - 2010/03/18 08:11 -

返信ありがとうございました。
私も仕事に支障をきたすほど苦手なのでどう克服すればいいのか知りたかったのです。なぜ、こうなるのかはわかりません。
超自我が強すぎるため、抑圧が多く、自我が弱いと自己分析しています。
幼少の頃は、母親が大好きでした。
性格は、気が小さく、大人しく、緊張しやすいです

引用なし

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【9】Re:会食恐怖のこと  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/17 16:57 -

概ねプロフィールに書いたとおりです。
(それ以上でもそれ以下でも無い範囲で全て書いてありますよ)

要約すれば元々私には偶然強い第三者性と単独者志向があり(両者は分析者の特性)、心理学を知る前から「違和感」は感じていました。
(心理学を知る前から”共同幻想”は体験的に見えてましたから)
言うならば上記の素養が強迫心理における”無意識的視野外”というか(自分で違和感は感じていましたから視野狭窄とはいえない)、強迫意識が構造化できなかったワケです(偶然その耐性が強かったといってもいいでしょう)。
アレルギー反応じゃ無いですが、自我の容量というか自意識共犯的「尻拭い」の動きも『リアルに視野に入ってました』。

人格の特性に相反する要素が強引に共存していて(仮に強迫構造が構造化すれば”臨床系”あたりに言わせれば統合ナントカになる確率が高かったのでしょう)、自意識は典型的な”アンチ強迫”・無意識は”高ロジカル強迫”のような状態で(強迫が高ロジカルなのは発現年次が遅い証明)、厳密に言えば強迫心理は形成されず、『強烈な葛藤が(正面対決の形で)永遠に継続する』ような状態だったワケです。
強迫心理は(視野狭窄が機能せず)、自分自身の自我に「その存在がバレていた」わけで(自我構造上自意識に勝ち目は無いのですが)、結果論的には『敗退し続ける自意識』という形ですね。

ですから当時は勝ち身に入るため、非常に強い理論武装欲求があり、その強い欲求が『本』『映画』『音楽』等々(銃器への関心は強迫発現以前からのものなので反動形成ではありませんが結果論的に後に強い欲求に嵩じた背景ではあるでしょう:但し強迫意識との連想キーやフラグは無いので専ら関心事項としては競技っぽく没頭していたのが実情です)、学問で言えば哲学・生物学・文化人類系の話のほとんどをこの時代に吸収しています。
(中学から大学まで)

しかしどうにも(何の本を読んでも)勝ち身に入れないワケです、
(ここは心理学的にどうしたって勝てない:無意識は自意識にとって正体不明のため)
※当時から心理学の存在は知ってましたが「うかつにも」軽んじていたんです。卑下していたと言ってもいいでしょう。
 ↓
その理由は強迫意識の影響による『誇大視からくる劇場化(過剰武装)』があったのは間違いありません。
所謂哲学なり「過剰なぐらい情緒的というか(反動としてのニヒリズム含めて)」、簡単に言えば”大風呂敷”ですね(神は死んだ的な)、そういう代物じゃないと闘争の役に立たないと勘違いしていたんですよ。
 ↑
その体感上の『強迫意識のスケール計測ミス』が致命傷だった。
(それが「相手が見えないので自意識には太刀打ちできない」所以です)
私の場合(偶然自我の特性で)「存在を認識できても実態がわからない」状況だったワケです。

しかし、その代わりに(見えない期間の代償として)三角測量じゃありませんが様々な理論武装の結果『外堀は埋まった』状態まで追い込んでいました。
(推理小説にたとえれば「最後の主犯と犯行動機だけがわからない」状態)
自分の自我に起きていた「妙な現象」における周辺的(間接証拠的)プルーフ(証明)は「何度も何度も嫌ってほど繰り返して固まっていた」と言ってもいいでしょう。

心理学への拒否感は”偶然の友人との関係”により(生き証人というか驚くほど二人の人格が”同じ”であることと誕生日が同じという偶然が”蓋然性を誇張した”結果サイドストーリーとして心理学に過剰な劇場性を付加してしまった)、
正直な話「彼のおかげで心理学に取り組むキッカケをもらった」んです。

ですから心理学の本を読んだ瞬間ガタガタと強迫意識が崩壊する音が聞こえたように錯覚するほどの衝撃ありました。
(外堀が埋まっていたので”覚醒”級のショックがあった)
「お前か」のように”理解した”んです。
読むのと自己分析が同時進行するような形ですね。
(それまでの理論武装の方向性も”数撃ちゃ当たるでいい線いってた”のもそれを加速したと言えるかもしれません)

本来自己分析は臨床系含めて「危険なので厳禁」とされているんですが(私は必ずしもそれほど強く危険性を感じませんが危険なのは事実です:繰り返しますが確かに自己分析には危険性あります)、
特に私は「読み違える(強迫意識の方が都合よく自意識共犯的ステレオタイプ武装する事もあります)」余地が無かったので(外堀埋め)、衝撃は衝撃でしたが(新聞記者が”特ダネ”を掴んだ瞬間のような感覚)、それまで意味のわからなかった文学やら哲学やらの意味が「一斉に全部わかった」等、勢い心理学の”重さ”を証明させる背景があった事も大きかったのでしょう。
自我防衛的な『抵抗』が起きる余地も無いほどの”大返し”だったワケです。
(『抵抗』の存在自体葛藤や闘争時に既に体験していたので動き方を知っていたとも言えますが)

(文学に関しては文学部的情緒性への解釈って意味ではありませんよ:作家がどういう心理でそれを書くに至ったのかって心理学特有のネタバレ的なところが理解できたワケです)
その場で勝ちどきを挙げるって事ではなく、強迫意識を破壊する『最終兵器』を手にした確信でしょうか。

そりゃ自意識マターが確立し、強迫心理の介入なり抑圧は相対ほとんど無力化されたにしろ「それなりの長期間強迫意識に拘束されていましたから(12才前後から20歳前後まで)」慣習的に”折り込まれた”ロジックは多数あって、その場で論駁できても身体的反射は一日で消える事はありませんから、会食時にはほんの一口が限界だとか集団に対する恐怖→満員電車への恐怖等々(恐怖というか吐きそうになる)、そうですね〜軽い不快感はその後6年ぐらい続いたでしょうか。
(しかしその辺の不快は全て視野に入って認識していましたから自分としては不快があっても、現象として”走るのが苦手なので息が上がる”のと違いはありませんでした:心因性特有の気まずい感じは若干ありましたが)
 ↑
この辺はリハビリ過程のようなものなので実態として心因性の不快は発生しても心理構造的な問題(希求性というか追い込まれる感じ)は全く無いって事です。
「まいったな〜、まだ満員電車だけはご勘弁だ」程度のレベルです。

注)心因性の不快のかなりの部分は強迫心理特有の「過剰な社会適応意識」が関与するので、結果論として自ら進んで不快な状況に陥るケースも頻繁なので(いわば自爆)、そっちの見当違いはケースとして”動機形成されないので”落っこちますから(馬鹿か自分のように)、実際の不快事例件数も大幅に後退します。
(元々の人格が社会適応的だったりするとここはやっかいなのですが、私の場合は元が単独者系でしたので同様場面の減少幅も大きかったと言えます)

強迫心理との闘争は『最終兵器を手にした実感』で既に終わっているんですよ(実際に戦いがあるように感じるのは”常に自意識が負けるから”抑圧なり負けて自意識共犯となる感覚や経験や追体験が闘争と認識されるだけ:私の場合には視野に入り自意識がアンチ強迫モデルなので闘争になりますが、一般的な強迫意識の場合には”過剰な興奮”となるケースが比較多数でしょう)、

強迫心理は構造論的に自意識に対して『特権的関与』ができるから相対的に強いだけであって、反対に『特権的な力』が相対的に及ばなければ(最終兵器)「何もできない」からです。
(強迫心理形成過程で”権威性”との関連は不可分であるため)

※前段の以降6年残存期間というのはどうにもこうにも超自我領域(社会適応や道徳野やステレオタイプ常識判例)に、当時のロジックが残留しているためで(後は体が”しゃっくり”のような反射で引き起こしてしまう)、
特に意識することなく経験値により消えていきます。
(何があってもその都度自分の強迫的認知を容易に論駁できる:その場では起きてもそこで現象の説明が同時に可能なので尾を引かない:体験としての対消滅みたいなものです)

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【8】会食恐怖のこと  maccha  - 2010/03/17 13:04 -

プロフィールを拝見しまして、大学の時に会食恐怖があったとのことでしたが、どのようにされたのでしょうか。
精神分析を独自でされたのでしょうか。

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おっしゃる理屈は分かります。その上で感じたことを書いてただけだったので。あくまで「私が感じたこと」です。
このレスでは返事を頂くつもりはなかったのですが、説明が足らなかったです。申し訳ないです。
<この話はここで終ります失礼しました。>

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完結というところがポイントなので
「返信にレス等しないでください」と注釈ある筈なんですが?
この意図ですが、文章としてレスを付けてしまうと完結した内容に更に注釈が付くのと同じ意味があるんです。
「○○しかしこうだった」的な後書き的な既成事実化です、
簡単に言えば完結している論説を覆す注釈も可能になります。
曖昧な部分を残す論点がやりとりによって前後するのと違い、個別の質問は返信によりその件の(質問の趣旨に関しての)完結した論説となって完了している事になります。
ですから、
 ↓
「返信にレス等しないでください」と注釈あるんです。

ここはレスを付けるのではなく、論説に対して(返信が書き込まれる事が質問の趣旨になりますから)考えるという部分です。

今回「後書き的」になってしまっているので、
更に修正としてレスを付けますが同様に個別の質問に対する返信になりますから
繰り返しますが「返信にレス等しないでください」

>個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょう
これはあり得無いんです。
「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。
極端に言えば加害者の側も好きこんで今の時代に生きているのじゃありません、
(つまり加害者が戦国時代の人物であればと考えれば別の意味になる)

納得するとかしないとか、そういうレベルの話ではありません。
現実を生きる以外に実存しようが無いのであり(人は妄想の中で生きているのじゃありませんから)、
上記をわかりやすく極端に解釈するならば、
「権威者は、私の納得いく社会を整備するべきじゃないか」
のような受益者側の『被(こうむる)』心理が背景にあります。
少なくとも上記論旨の背理には「(私を)納得”させる”べきだ」を是としているからです。
(しかも権威史観になっている)

『突然巻き込まれた災厄』
これは相手が人だろうか自然現象だろうが同じことだからです。
(他者の存在も”そういう動物がいた”という自然現象なんですから→俯瞰で見ればいきなり熊に襲われたのと違いが無い。ですから自分自身の暴力性を法治国家という枠の中で国家権力に預けるのか、全ての権威をアナーキズム的に否定して「各個人が武装する平等性」を選択するのかって政治的論議も成立しているんです。:しかし大きな枠で言えば犯罪性のある選択は誰にとっても合理性が無いので「そもそもそれはナンセンスな世界でしか起きない」と捕らえることもできる→民主主義なり法治国家なりの選択はそういった賭けを選択するものです。賭けですから利益を保証するものじゃありません。そこに市民が一票を賭けているんですから、)
阪神大震災の時神戸に住んでいた人は、東京に暮らす人と比較するなら不平等であるとか理不尽であるとか考える事も可能でしょうけれど、その思考には何ら得るものも現実の獲得もありません。

自分自身今の時代をここで生きている事は自分自身のレーゾンテートルやアイデェンティティーに関わる事だからです。
(今そこでそう考える主体は今ここで生きているからそう考える主体として存在するんですから)

「今現在ここで生きている」当事者は自分ですから。

又、実存主義哲学には「不条理」という言葉がありますが、
意図しているのは「そこにこそ実存が証明されている」という意味で(話せば別の意味で長い話になりますので割愛しますが)、
「その不条理こそが自らのレーゾンテートルである」
『パスカルの賭け』という概念もそうですが、
(ここはブログにテキストあります)

「だったら今自分はどうするのか?」
答えはここに帰結するんです。

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【5】強迫構造云々というより  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/03/01 00:08 -

今回も個別の設問になりますから1回完結の決定稿の形でお答えします。
(※完結になりますので「返信にレス等しないでください」)

まず、よく意図がわからないのですが
>強迫構造から抜け出せなくても
>他の人になりきってその人の心理を読むことはできるのでしょうか?
ここに強迫構造の有無は関係ありません。

自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
心理を読むって行為は心理学なり人物観察なり人生経験なり強迫関連とはまったく別物ですので(スキル自体が強迫意識に制約を受ける事はあっても事後的にこれを知識情報経験として意識的に獲得し補完することは個人の努力の範疇ですから)、
「誰だと誰々の関係において誰々はどう考えたか」
 ↑
ここの登場人物に自分を登場させなければいいことになります。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)
後は自分のスキルに応じた結論が出ますから、強迫云々の影響はほとんど無いでしょう。
(影響があるのは前述の”スキル自体が強迫意識に制約を受ける部分”のみ:推定の精度は学問など個人の努力の範疇となる)
■関心事項としては「推定の精度」は社会学や歴史や自意識的な経験や心理学や文化人類学など、個人的関心による情報取得なりで大きくレベルが変動するのですから、政治経済含めて客観的知識として(自意識にとっては理論武装)そっち方面への関心を自分なりに「どんなもんか」と考える方が的を得ているでしょう。


思考のポイントとしては
「又自分がどうこうって話?」のように、
自己中心的発想(これは巷間伝わる一般用語の「自己中」と意味違いますから誤解の無いように)の抑制、
思考する事項において何かと自分が中心人物になっている発想を切り替えるって事ですね。
「自分がどうこうなど瑣末な話なので(ジャーナリストが社会現象を検証しているのですから取材対象とその検証に力点があるのであって、そもそも自分が登場す余地など無い)、これは自分がどうこうとかそういうどうでもいいこと抜きの話さ」
というような”立ち居地”を定義してしまうんです。
自意識でそれを事前に定義すれば(強迫意識の関心事項はもっぱら自分の事ですから)認識が無意識的干渉で偏向することを除外できます。


>それと最近感情に波があります。
>さっきまでは私は協調型の人と供依存になるつもりはないと強迫構造を抑えられてたのに今は何を言っても強迫構造が勝ってしまって抑えられない時があります。
>また同じ理論で強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても、途中から強迫構造がふつふつと沸き上がってきます。
>ただ何においても根本は依存したままで根本から変えるのが難しいです。

これは認識に間違いがあります。
結論が間違っている
■「上記のような事象により結論→根本から変えるのが難しい」
『あたかも”根本”が存在するように(無意識に肯定してしまっている)語られています』

これはかなり大きな意味の”過失”だと言ってもいいでしょう。
「あたかも偏向する方向の意識(強迫意識)に”根本性”があると”無意識”に肯定しちゃっている」んです。
強迫意識は自我全体にとっては根本じゃありませんから。
(強迫意識の根本はありますが、それは前述の「強迫構造に訴えかけつづけると最初は鎮静化できても」のように自意識によって(強迫意識は自意識に干渉する反対語として)干渉可能なのであり”聖域”だからこそ打つ手が無い強迫意識の根本的原則は壊れている事が証明されている)

一見些細な言葉使いに見えますが、脳内連想的には重要なので(無意識に韻を踏んでしまう)注意したいところです。
(言うならば強迫意識は”わかりにくい”であるとか”理解不能”な要素が幼児期の自我にとって”一種のセキュリティーホール”を形成し、そこに誤った補完論理ソフトを導入してしまったようなもので、現実プルーフの世界に寄って立つのではなく→”一種のセキュリティーホール”を根拠に寄って立つ存在であるからこそ『幻想』なんです)

さて、前述の結論を上記の認識で修正すると
結論の方が以下に変化します
■「上記のような事象があるように、問題のコアはどうすればいのか私の手の内にあるが(自意識マター化可能)、どうにも依存症特有の反動(中毒下における禁断症状のように)がある。現象としてはダイエットのリバウンドに似ているかもしれない」

全く無知なところからダイエットに取り組み、
しかもダイエットに取り組む理由(なぜ無茶食いしたのかについての”ネタバレ”)は解明したとしても、まだまだ反動は残る。
これは想定内の事だって事です。
 ↓
自分をからめるから(強迫意識特有の視野狭窄)わからなくなるんです。
(社会学であるとか、ジャーナリスト、歴史学者、文化人類学の立場で考える)

『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
この題名で文化人類学であるとか、社会はジャーナリストとして論文書けばいんです。
間違ってもその結論は「根本が変わっていないからだ」とはならないでしょう。
言い換えるなら
「根本はとっくに変わっている。やっかいなのは習慣性(依存性)などの技術的アプローチとなる。どんな手法に解決策があるだろうか?」
論文の関心事項はこっちになります。
仮に「根本が変わっていないからダメなんだ」だとしたら?
これジャーナリストの言葉じゃありませんよ、そのまま『鬱的思考』ですから。
(自分の事のように自己嫌悪的な内向性思考になる)

話を脳内連想性を逆手にとって”根本”を使って更に言い換えてみると、
「現象を客観的に考える時のものの見方の根本が(スキさえあれば強迫心理を肯定しようと)まだ干渉されていて、(巷の意味と違う心理的な意味での)自己中心的発想に偏りがちなんだな」
 ↓
>「根本が変わっていないからダメなんだ」
「こういう発想しているからいかんのだ」


『現代社会のダイエットにおけるリバウンド』
「未だに本音にも無い、偏向快感依存に引っ張られている。←ネゴシエーターとしての自意識の立場上の力量不足だ」
テクニカルに”ネゴシエーターの力量”ってものを考えればそこに答えがある訳で、
(ここはそれこそ自意識マターなので個々人で手法は違っていい部分です)
更に”ネゴシエーター”を抜き出して考えればよりシンプルになります。
言葉としては”ネゴシエーション”を”営業”に置き換えてもいいでしょう。
「プロの営業マンとしていかにあるべきか」
シチュエーション的には以下です
 ↓
「そんな商品いらないんだ○○がいい」
(設定:認識間違いだけでなく、○○なんてものが詐欺的商品である)
この状況で、本質的に問題を解決する商品を自分が販売しているとして、
営業のプロが、
「それは違うんです、○○なんかじゃ逆効果なんですよ、今この私の商品を・・・」
心理学的過程を経ていれば”強迫意識”という言葉に異論が無いように「○○なんてものが詐欺的商品である」という営業にとっても最も厄介な認識誤解部分は解決している訳で、残りのプロセスは「今この私の商品を・・・〜」だけでいいことになります。
(そこで「やっぱり○○が」となればこれは単なる”蒸し返し”になりますから論外→明快に「ナイナイナイ」とナンセンスである事を再認識する場面ですが、若干それも後退してしまうなら「やっぱり○○がなんて思ってしまうんだよな」と反省含めて弁解的認識とし、”蒸し返し”について間違っても正当性や権威性まで蒸し返してしまうような勘違いは避けるべきところでしょう)


■公開掲示板上の各スレッド過去ログにおいて書いてきた事ですが、
最後の部分『自意識によりどういう方向を選択するか?』
ここはメンタルとは関係無く、個性の範疇として自分で選ぶ事になりますから、
(強迫意識と知って、それを個性として受け入れる方法だってあります:状況を現実として認識した段階(自意識マター)でそれ以上の鬱的暴走は起きませんし、強迫意識的自分なるのものを何がなんでも解体しなければいけないなんて法律もありません:共同幻想協調人格すら一種の強迫認知なのですから)
以降のポイントは「自己決定ありき」なです。
 ↑
これはメンタルと関係無く思春期の迷いのように誰彼にでもある悩ましい過程ですから。
「さて自分はどうするか?」=「ネゴシエーターとして何をどう交渉するか?」
自立以降に後発的に獲得される自分らしさなる自我は、意識的に(自己選択により)獲得されますから、
(前述と被りますが強迫意識も個性として自意識で認知して詩人のような人生を生きるって世界も無いワケじゃありません:インフォームドコンセプトじゃありませんが自分で選ぶところは自分で選ぶところです:メンタルな問題として特定できるのは「無意識領域の強迫意識を知覚できず自意識には打つ手が無い構造的な問題」を”構造的に破壊”することであり、強迫意識が『自意識マター』として自意識が認識可能な視野に入れば、それこそ強迫意識構造の根本は既に壊れている)
ここは前段のリバウンド云々より重要で切り離して考えるところで、
 ↓
ある意味、リバウンド云々をあまり大きな話だと誤解してしまうと論点がそっちで忙しくなってズレてしまいますから(リバウンド程度の問題はその”根本”が解決済みで既に自意識マターなのだから当事者である自意識としては「それは(視野に入った)どうにかなる」として→)、
「さて自分はどうするか?」「本質的に重要(根本)なのは(今現在)むしろこっちなんだよな」となります。
自己中心的認知と同様にメンタルな問題を過大評価してしまう事もあるって事です(それが間接的に強迫意識を権威的に後押ししてしまう場合もある)、ここは切り分けていかないと、
強迫意識ってものが視野に入って以降は順次(同項目は)『自意識マター(自己決定事項)』に切り替わりますから「自意識マターは自動的に拡大する」のであって、、「さて自分はどうするか?」に戻る。


流れ全体を俯瞰で見るとわかる筈です
上記の流れであれば思考は自己中心性ではなく、ジャーナリスティックな客観性に立脚しています。
(前段部分と繋がりましたね)
若干抽象的になりますが、そこに答えがあるって事です。

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【4】Re:疑問に思ってたこと  早恵  - 2010/02/28 23:07 -

確かにこの世のルールは人間が生きてく上で作ったもので、時代や国によっても基準が違ってきますね。
個人的感情としては一方的に巻き込まれたなら納得いかないでしょうし、殺した奴は憎くなるでしょう。
それでも納得いかないなら徹底的に戦うしかないのでしょうけど、被害にあって苦しんでるうえにさらにリスクを背負って戦うのは理不尽です。「理不尽」というのも人間の感情でしかないですが、理不尽に思います。強迫ではなくて個人的な見解です。
加害者側からしたらやったことは一生消えない。自分が犯した事実を背負って生きるしかないのかな思います。

答えてくださってありがとうございます。

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