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お礼を言うのが遅くなりましたが、返信ありがとうございました。
自分が、無意識に或いは意識的に、異性に敵意を撒き散らしているんだなってことがわかりました。自意識過剰で、「(ブスなのに)自分が無条件に良く見られたい」ってどこかで思ってるんだと思います。そんな自分がすごい恥ずかしいです。
あれから、男性とすれ違う時は、注意しています。また何か言われたらどうしようってびくびくする時もありますが、kagewariさんにはっきり言ってもらえたことで、ずっと自分の中でしか問答できなかったことに、ひとつ区切りをつけることができました。ありがとうございました。

そして、kagewariさんの言う、

私にやたらと関わってくる(家族)
> そして思春期に発現する『性への拒絶』は「反抗期の不全」であり=親子関係における強迫心理の証明である。

に関して、すごく思うところがあり、今回また相談させてもらいたいです。

自分で考えてみて思い至ったのは、「私は母親以外の人間には誰からも愛されないかもしれない」っていう恐怖があるんです。
kagewariさんの分析に当てはめていくと、上記の恐怖(不安)を「やっぱりそうだろう」って何がなんでも実証したいがために、醜形恐怖だとか、異性が憎いとか、人間不信だとか、何をやっても結局うまくいかないんじゃないか、とかそういうことを思ってしまうんじゃないか。「ほら、お前は結局誰からも愛されない、何もうまくいかない、結局母親以外お前をかまってくれる人はいないんだ」って感じに。
母に対しては、とてもひと言で言えない複雑な感情があります。
母親として、これ以上無いって程お世話になった(高校生〜21歳くらいがピークでした。醜い自分への整理できない感情と、それに付随する色々な出来事で荒れていました)、どんな醜態をさらしても見捨てずにいてくれた、って感謝している反面、すごく嫌だなって思う時があります。感謝して申し訳ないって頭では思っていても、会うと横柄な態度をとってしまったり、話していてイライラしたり。あと、依存するのがすごく怖いです。
4年くらい前、一人じゃなにもできない(くせに横暴)な自分が嫌で嫌で、実家の一駅先に部屋を借りて一人暮らしを始めました。母と同居していたときは衝突が絶えなかったし、上記の「母親以外からは誰からも愛されない」をどうにか払拭したかったんだと思います。
「家族(母親)には頼りたくない、母はいつか死んでしまう、一人でも生きていけるようにならなきゃダメだ」って強迫のように思って、不自然に関わりを無くそうとしていました。
でも心はいつも不安定でした。母と関わっても、関わってなくても、問題や不安や自己嫌悪は際限なくやってくるし、騒音トラブルと近隣恐怖が2件続いたことで神経もまいってきて、一人でいると過去のトラウマもよみがえるし、死にたいとよく思うようになりました。今はだいぶ落ち着いていますが。

母とは普通に接したいんです。でも、今もなかなかできません。性格も趣味もまったく違うし、私の精神的なことは、理解できないんだろうって思います。表面上は、私のことが心配とか、やっぱり可愛い、とか言うけど、こっちから何か真面目に話そうとすると「なんでそういうこと言うの?」とか、「そんなの当たり前じゃん」的なことを即言われたり。「なんでこの人はこういう風に言うんだろう…言いたいことが伝わらない、話ができない」ってずっと思ってきました。ふとした瞬間にすごくイライラして何も話したくなってしまう。昔みたいに横柄な態度を取りそうになってしまう。
私が調子がいい時に母の具合が悪かったり、母が何かしようって言った時私が鬱の真っ最中だったり、状況が合わないんです。こうしよう、ああしようって思っていても、うまくいかないんです。
でも母は「家族だから、たった一人の子供だから」って言葉を掲げてくる。
なんでこんなにも母親に対して色々思っちゃうのかわかりません。
性格が合わないなら合わないで、それはしかたないことなのに。

私には姉が一人いますが、姉は私と違って社交的で友達も多く、母親や家族(私)に対して執着していないように思います。もしかしたら不満もあるのかもしれないけど、絶対に口に出さないって感じです。大人なんです。私が、思春期にあまりにも横柄な人間だったからか、「もうあきらめた」って思ってるようにも思えます。姉とは数年ほとんど口をきいていません。姉とのことも悩みです。

なんで普通のことが普通にできないんだろうって思います。
普通は、家族と(気があわなくても)それなりに折り合いをつけてやっていくものだろうし、普通は、近所の人とも普通に接することができるだろうし(私は近所の人が怖くて、挨拶が苦手です。「あそこの家の駄目な子供だ」って疎まれてる気がして。自分でも異常なくらいだと思います。克服したいです)、でも私は、やらなきゃやらなきゃって思ってやっとできる(もしくは思ってもできない)って感じです。

家族や近所のこととなると感情がコントロールできなくなります。理性をどんなにかたく持っていても、逆らえないんじゃないか、この「うまくいかなさ」に呑み込まれるんじゃないか、って怖くなります。不安でしかたないんです。

今、金銭的な理由と、どっちにいても精神が不安定なら戻ったほうがいい、という理由で、実家に戻ろうとしています。
でもまたうまくいかないんじゃないか…と恐怖にかられます。
思ってると実現してしまうような気がするので、恐怖を掘り下げて考えないようにはしていますが。

家族とのコミュニケーションと近所付き合いをうまくやっていくには、どうすればいいでしょうか?不安なことは深く考えないほうがいいんでしょうか?
長くなって申し訳ありません。
アドバイスがあれば、教えてください。

引用なし

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【42】Re:会食恐怖のこと  maccha  - 2010/10/08 16:16 -

掲示板を読まれている方には申し訳ございませんが、私がスレッドの立て方を間違えてしまったので、1090〜1115にとびます。

新しいスレッドを立てたくなかったので会食恐怖のことを続けて書きます。


返信なしが希望です。お忙しいのを承知しているのと、聞いてほしいだけだからです。他の方にも。


会食恐怖のこと。

人に言った。妹を入れて5人。
職場をやめた人。パートの方1人。
職場の人にもいずれ、言うかもしれない。

人事からそんな話は聞いていない、とか話が大きくなれば、やめるだろうし、どうなるかはわからない。


こわい。


私という人間を理解してもらうためには会食恐怖のこと、人にいったほうがいいような気がする。
会食恐怖は中2。13の春からずっと。
中学、高校、一浪、大学、就職、ブランク、就職。
会食恐怖を刺激しない仕事を考えて、いろいろ、ふり幅を考えているつもり。
人付き合い下手でも仕事はいる。働かないと。お金はいる。
今は食べる(飯の種。生きる)ことだけ考えている。
 
会食恐怖のことばかり考えている自分がばかばかしくなってきている。

引用なし

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理解された上であれこれと抑制が効かない状況(文章の破綻)になっている。
今回の返信の中のいくつかの文章は、ロジカルという概念で言えば「文章レベルで破綻していて」=「事実や・自我の本音、そのどちらでもない」と断言できます。
つまり、そういった認知は脳内でも認定されていないし、現実にも存在しない(本音ではない)。

■リアクション(『被(こうむる)』構造)として、そうなっているだけです。
 ↑
これ何のことか解説しますと、
ロジカルとして存在するとか、脳内で認定されるとか、本音であるとか、こういった現象は主体的に(あるいは個別に)「独立してその概念や論理を保持できるもの」です。
わかりやすいイメージで言えば『補助輪無しで走行する自転車』

しかし今回の文章の大半(概ねすべて)は自己完結性のある論旨が一つもないのです。
 ↓
>その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、
>でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし、完全に無防備でした。
>「うるっせえよ!!!!!」ってキチガイみたいな声で叫んでやりました。
>当然なのは、私がそこに存在しなければそれは起こらなかった、私の容姿が女として普通かそれ以上なら「それ」は起こらなかったってことです。
>男性の性がそうさせるんじゃないですか?自分よりも劣っているものへ、弱いものへ、異性として自分の益が発生しない者へ。どこまでも残酷になれる。
>憎しみは消えない、っていうのは、私がこれから先どんなに満ち足りた人生を送れたとしても、・・・
>いきなり思い出しては、発作みたいに苦しくなって泣いてしまいます。

この論旨の形を維持するための(それこそ数学的に言えば必要十分条件)前提は何か?
・自分の容姿
・男性差別
今回の文章を試しに「男性」という言語を「○国人」という言葉に置き換えてみてください。」
レイシストのいわれなき人種差別の文章そのまんまです。
つまり『論旨は同じである』
人種差別主義者の心理がルサンチマンなどを発端にする投影(本来の解決すべきストレス元は自分の側にある)であるのは言うまでもありません。
通常人種差別主義者は階層的に「貧困層」であったり、極端な民族主義者のような内面に強迫性を認めざるを得ない人格で派生します。
(リアルなナショナリストは文化的に自国の保守性を信念として重視しますが多民族を人種差別的な偏向で見ることはない)
歴史的な大問題である第二次世界大戦当時のドイツにおけるユダヤ人差別(欧州にユダヤ人差別が恒常的に存在しているのは事実ですが)これがエスカレートした背景は、当時のドイツがベルサイユ条約などの第一次世界大戦の国家賠償などで経済的に困窮状態であった事が遠因であるのは言うまでもありません。
又、米国における黒人差別で有名だったKKKは”プアホワイト”と呼ばれる階層抜きには語れない。

こういう論旨には必ず『スケープゴート』にあげられるような事件がまことしやかに広がります。

(自転車が倒れないように)論旨を維持するために(人種差別を合理的に説明する自己完結性のある論旨など存在しないので)「何かの証明」であるとか「これが証拠だ」のような”補助輪”が必要なんですよ。
(たとえは飛躍しますが、わかりやすい実例として畑違いの犯罪心理学の話から考えてみると、はた目から見てまったく動機不明の不特定多数の他者に傷害を負わせる通り魔的犯行もほぼ100%が内面に元となる動機が別個にあって、犯行動機はその投影に過ぎないため(それを現実の犯行に及ぶ決断をするという部分は犯罪者特有の心理で行為に及ぶ分は強迫とは関係ありません)、犯人自身も後から「どうしてそういい犯行を犯したのかはっきりと動機がわからなかったりする」=それはあたりまえです。不特定多数の人物に傷害目的の動機が成立するなんて世界は人類のどこにも存在しません。こういう場合に最も多く聞かれる証言「○○なら誰でもよかった」はその動機が投影現象に過ぎない証明です。「○○なら誰でもよかった」の○○は、時に『男性』だったり時に『女性』だったり時に『子供』だったり時に『○国人』だったり本当に『誰でもよかったり』様々です)

奇しくも今回登場するエピソードは、かなり高い確率で前回私が「容姿の悪さ」などの事実関係を何か自分が発言するロジックの前提として証明する事は構造的に不可能であることを証明したからですよ。
つまり「容姿の問題と男性」という強迫的幻想は非常に不安定になり、論旨自体を維持するのが難しくなった。

困った強迫心理には、それ(容姿で話を構成できなくなる不安)を補完するために「これが証拠だ」なるエピソードで意地でも「容姿の問題と男性」という強迫的幻想を保守しようとそれを衝動化する動機があります。


■思うに上記の「困った」という部分が一番理解難しいところなので補足しますが、
 ↓
脳内では快でも不快そのどちらでも『興奮は100%快感分類』なんです。
当然それが恒常的に続いたり慢性化すれば”快感依存”になります、
(万引きを繰り返したり、アル中になったり、性依存症や当事者には一時的にも不快という依存症は枚挙にいとまがありません)
卑近な例ですが性倒錯におけるSMであったり、一般的にはジェットコースターやホラー映画もその外郭にあります。
私は脳生理学方面の専門じゃありませんが、脳内快感物質(脳内麻薬でもいいですよ)のひとつであるドパミンは快感物質ですが暴力的衝動時にも分泌するなど(大ヒットする映画の何大要素みたいに思い出してくれれば簡単『性・暴力・スリルとサスペンス』)、強い興奮とその代謝は端的に言えば『快感経験』であり、脳の役割として快感記憶の再獲得が求められますから(動物における本能のコアのレベル)それが習慣化すると一種の依存症になります。
(見方を変えれば鬱病も一種の依存症なんです。他にも自傷や自殺衝動の反復など全てその類型といってもいい)


『性の拒絶による轟轟とした憎悪のような興奮』
 ↑
これは性行為(広義の性衝動なのでこれはダイレクトにSEXの意味ではありません”着飾る”や”男性の出世”なども含む文化全般に至る性衝動と考えてください)の代償満足として対比関係を構成しているんですよ。
(動物としての性衝動を『心理的性の嫌悪』により抑圧していますから、自我はバランスを取るために『男性への敵意や嫌悪や殺人衝動』などによりこれを代償満足の形で代替している。しかし、性衝動のような現実世界では無く一度内向へ抑圧された衝動は反動であるとか強迫特有の誇大・肥大などのバランス係数をへて極大化し(正面にある本質的行為が抑圧されて別の行為による代替なので極端じゃないと交換できない「アイスクリームがダメならお菓子を100袋買ってこい!」)自我のバランスを取っているが、極端な興奮は過剰な快感依存ともなりこの興奮獲得が恒常化・慢性化する)
 ↓
「男は皆死んでしまえばいい」

近代における米国南部における”プアホワイト(荘園の黒人より食えない貧農層などが実在したんです)”が、
「黒人は皆殺しにすべきだ」

現象・構造としてどういう二次的派生心理かわかりますよね?
上記は両者ともに本音ではありません。


■次に『無意識』と『自意識の抑圧』を理解してください。

知らない間に何かしているときに
「○○さん何してんの?」
「えっ?」
と、驚く時に
「無意識にやっちゃった」
という場面ありますね。
(厳密に言えば錯誤行為みたいなものなんですが)

簡単なモデルですがここに「無自覚にロジカルで知的な行為が、まったく知らないところで行為化される」事が証明されます。
(その極端な例が伝統的心理学におけるフロイドの夢分析になります)
極端に言えば自意識が抑圧されている状態は極度に集中力が低下している状態と同じです。
(今何をしているのかも自覚が無いレベル)

そして、
>その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、
この状態の興奮レベルは、ヤケ酒で強い酒を飲み酩酊状態とかなり近いレベルに自意識は後退(抑圧)していると見ても大外れじゃありません。
ご自身それを証明しています。
 ↓
>完全に無防備でした。
=「完全に無意識で(自意識が抑圧されていて)はっきりいって自分が何をしているのかもはっきりわからないぐらい私は動揺しており」

この場合ですね、
 ↓
>でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし
この記憶が100%正確では無いことが証明されているんです。

家族の問題等での憎悪や興奮は(無意識に)ほぼ間違い無く顔に出ていたでしょう、
且、常々家族に起因する心理問題が内向世界で変質し『男性』へ投影固着している人物が、
(しかもそれを証明する理由として「容姿」を振りかざしていたが、よく考えると「自分の容姿が悪いことは証明できない」と説明うけたばかりでその根拠は不安定になっているときに)
男性とすれ違った、
そこで同時に何か無意識に独り言でも言っていたとしたら?

同様のケースを私は枚挙にいとまがないぐらい知っていますが、
100人が100人「チラっと見ただけで、誰もジロジロなんか見ていない」という証言のほぼ100%は周囲が呆れるぐらいジロジロ見ているのであって、
『性への嫌悪』を抱える女性の一部には性的暴力の被害者に「無意識に全く自覚なく」自ら確率の高い選択をしたり、
特にDVの大半は暴力を受ける女性の側にも強迫心理が関係します(父親に対するコンプレックスなど)、
(DVの被害が拡大するまでなかなか離婚が選択されないのはそれが理由:共依存の一種だからです)


『本当に被害にあったじゃないか!もう証明の必要のない間違い無い証拠だ』
(しかしそれが男性全般を殺戮してもいい理由では到底ない事は説明の必要ありません)
心理的には、この補助輪があれば(少々「容姿の証明が揺らいでも」)十分男性への憎悪や殺意を構成できるんです。
(脳内は現実では無いですから)

又、容姿で証拠を固めようとする場合があります。
>私は容姿をあまり着飾らないので、
この状態はそれが暗示されているだけですが、
拒食症による異常な痩身や、
過食症が関係する極端な肥満。
このように容姿を(心理的興奮の証拠を固めるため)健康を害するレベルまで貶める場合も少なくないのはご存知でしょう。

拒食や過食の場合でも(社会との関係であるボーダーではありませんが)男女関係などの境界における問題として発現することが多いって流れに関してあえて説明しなくても理解いただけると思います。


■繰り返しますが
今回の返信の中のいくつかの文章は、ロジカルという概念で言えば「文章レベルで破綻していて」=「事実や・自我の本音、そのどちらでもない」と断言できます。

個別に話し出すときりがないので、
典型的な箇所で証明しましょう。
(同様の矛盾は各所で散見され、結論日本語の形になってますが実は全て意味を成していないって話に繋がるんです)
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
 ↑
この状況の人物に男性が興味もつ筈無いですよ。
(心理的にも穏やかで何の気配も表に出していなければ存在すら確認されないでしょう)
簡単ですよ、
男性は女性に惹かれるのであって(そのキャッチコピーのひとつがセクシーで美しい)、そもそも人類が歴史的に女性が女性らしい容姿に変形し(他のサルと比べてくださいよこれほど雌雄で外見上の差異があるのは派手な容姿で繁殖原則を構成する鳥類の一部ぐらいです)、さらに化粧をすることで、男性を自然界では到底不可能な労役に付かせたんですよ?
(動物の本能には自分が死ぬかも知れない戦争や家族全員が食えるような労働を継続したり住宅ローンを支払い続ける行動原則など存在しない)
原始時代のその原型が進化して広義の文化として現代の人類もその系譜にある。

イスラム教で女性全員に外出時にヴェールを被り容姿を見せないようにしているのは「男性を守るため」です。

根本的矛盾は
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
>たとえば、私が整形して着飾って「女」になったら、寄って来る男がいるかもしれません、でも私はそれが気持ち悪いです。
そして現状男性への憎悪や殺意がある。

おかしいと思いませんか?
この心理状態が成立するためには、
理由はどうあれ)男性全員は私が歩けば皆振り返り・・・
とならないと対象が男性全般って話の定義は成立しません。
心理の根っこが”性への拒絶”や”性への嫌悪”であるため、結果論的に対象が男性全般になるんですが、
容姿はともあれ「男性の側を性悪説として成立させるロジック」が自分固有の容姿(いい悪いどちらでも)になると、これ発端や前提を自分を中心にしなければならず(いい悪いどちらで)、
『私の○○が○○だから、男性全員は○○だ』
○○の内容が何であれナルチシズムである事わかりますよね。
いい悪いどちらであってもこういう構造そのものが”自己中心型”で”強迫性特権階級意識”となります。

まったく自分でも思ってもみないロジックに完全に陥ってしまっています。

参考までに「容姿がいい」方を強迫の梃子にして『男性全般を蔑視』状況を成立させる女性の場合「自分は何もしていない」「人間関係を円滑にさせるために善意で話かけただけ」と発言しますが、き取り調査するとほぼ100%「一般常識では明らかに自分から男性を誘惑」していて(これは共同幻想社会にバレバレ、というか”目にあまるぐらい”明快)、実態は自分から男性を過剰に誘惑して(本人は自意識抑圧でまったく自覚がない:記憶がないレベル)、男性といえば色恋沙汰となり⇒待ってましたとばかり『男性は汚い女性を性の道具にしか思っていない』という構造で『男性全般を蔑視』状況を成立させるケースも珍しくありません。
(性依存症であるとか、不倫関係以外の男性関係が無いなど様々なパターンあります)
上記の様に『容姿』に関しては、着目いいでも悪いでも同じ『男性全般を蔑視』状況が成立するのは『性の拒絶や性の嫌悪』の反動や投影的発現として典型的なパターンです。

勿論問題は自分自身の『性の拒絶や性の嫌悪』であり、二次派生の男性云々は全て派生的幻想で全く意味が無い。
『性の拒絶や性の嫌悪』があるのは、大人になることへの拒絶で、自分が誰かの子供であり続ける事への強迫的執着(激しい不快興奮や強い快感依存的など”不快パターンでも快パターンでも”そのどちらでもあり得る)であるとか、自我が『現実世界』である「時間の経過(大人の年齢)」を拒絶し、内向(自意識抑圧)自我が無意識的幻想寄りの現実との乖離に陥っている証明です。


>私は容姿をあまり着飾らないので、
 ↑
これはですね、現実化を避けているんですよ。
果たして着飾ったらどれぐらいの男性が私に興味をもつだろう。
に比べて、何故か「私は容姿をあまり着飾らない」とすると、
不思議と
男性全てが私をって話が始まり、、


仮にですよ?
彼を睨み付けた時(本人の自覚は視界に入っただけ現実は睨み付け)の状況が、
「汚い男性め!私を犯したくってしょうが無いんだろう、このブタが。男性は全員ブタだ死ねばいいのに」
こういう心理が無意識に顔に出ていたら?
男性から見れば、
「(着飾らないので男でも女でもない容姿を意図的にしている人物に)そもそも100%あるワケないだろ、うんで、その上何言ってんだあんた。すれ違っただけの人間になんてこと言うんだよおい、それは明快な侮辱であるだけで無く喧嘩売っているより悪質だろ」
だとしたら?
>「ぶち殺すぞ、ブス」
この言葉もどこまで正確かは推定の範囲内ですが、
そもままの文言だと仮定して解釈すると、
「男でも女でもない容姿の人物相手に俺が無我夢中で追い回すとかってあるワケ無いだろ(俺が幼児性愛偏向倒錯の所謂変態って意味かよ)、いかにもそれが男性的ってさ、ってことはあんたは自分で私は女性としてどんな男性も無我夢中って意味になるのわかってる?おかしーーだろおい。だって”ブス”だろ(男性は”無我夢中”がトンデモ級の言いがかりだって意味ですよ)。しかも赤の他人に死ねばいい最悪だってあんたさ、どういう喧嘩の売り方なんだ(あんたの殺意が明快なので殺される前に)ぶち殺すぞお前。」

ということですよ。

■根本的なところは本来上記の説明は必要ないぐらい明白で、
以下を繋げてみれば簡単です。
>男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。
=『子供』
私にやたらと関わってくる(家族)
そして思春期に発現する『性への拒絶』は「反抗期の不全」であり=親子関係における強迫心理の証明である。

つまりこの憎悪の元は、母親か父親のどちらかとhakoさんの間のエディプス的な強迫心理が本質で、男性がどうしたこうしたってのは派生的な物語に過ぎないって事です(本質的な問題から自我が逃げるための幻想)。
注)女性全般を女性がヘイトする形の心理に陥るケースもあり”性への嫌悪”出現の形も様々ですから、hakoさんの状況が現在男性ヘイトだから単純に発端が父親との関係であるかのように早合点するのは間違いです。ここは詳細に考えないといけない部分なので(又同様のケースは何らかの形で夫婦そのものの共依存関係が成立している場合も多い)。


■ご自身自分では気がつていないしょうけれど(目の端っこに薄っすら見えている程度かもしれません)
上記私が説明した事は『おおよそhakoさんは承知』していて、
実は説明の必要の無い話なんですよ。

今回唯一有効な破綻していない文章があります、
以下の2行の文章です。
(端的に言えば返信は以下の2行だけでよかったんですよ)
 ↓
>いろんなことがあって情緒不安定すぎて、正気を保っているのが苦しいです。
>(いろいろ、原因があるんですよね、私自身に)

hakoさん自身それ(前段の私の説明)を薄々わかってたってことです。
(だから上記の2行がある)
ここが全ての問題のコアです。

引用なし

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ご回答、ありがとうございました。何回も読みました。きちんと
理解できているかどうか怪しいですが、レスを読んで思ったことを書きます。

「死ねばいいのに」というのは、kagewariさんの言う通り、思春期から今までに起こったことと照らし合わせて、この世の男性全員に思うことです。
ちゃんと意識はしてませんでしたが、そう言われて、ああそうなんだと思いました。
容姿の悩みと、容姿(が一番の原因だと自分では思います)によって男性に攻撃されてきたことは、今まで誰にも言えませんでした。私にとって、男性は敵なんです。攻撃されて当たり前、だから自分を守らなきゃいけない。個人的な性格とかそういうもの云々より、まず第一に、男性の、男性としての性質が嫌いです。怖いです。どんなにいい人そうに見えても、やさしそうに見えても、やさしくても、結局男性は、自分より弱い(と判断した)ものにはどこまでも残酷になれる生き物だと思っています。この世の男性の99.99%くらいは、です。

私は容姿をあまり着飾らないので、男性にとっては、男でも女でもないただの弱い生き物に見えるんだと思います。たとえば、私が整形して着飾って「女」になったら、寄って来る男がいるかもしれません、でも私はそれが気持ち悪いです。女を強調するのは私が今まで心の底で「死ねばいいのに」と思ってきた男に、自分からエサを撒くようなもので、そんなのはとても嫌です。だから大人(=女性)になりたくないのかもしれません。性的な目で見られることも、気持ち悪いです。

男性からしたら、そりゃこわいし、はあ?って感じですよね。これも言われてみてはっとわかりました。道ですれちがった女に「死ねばいいのに」と思われるんですもんね。
でも私は、その道ですれちがった会ったこともない私のことを何も知らない男に、「ぶち殺すぞ、ブス」と言われました。そいつは坊主頭の高校生か大学生っぽい感じでした。その時、私は別のこと(家族のこと)でいろいろあってすごく気が立っていました、心の中が陰鬱で塞がっていました、でもすれ違った男を睨んでいたわけじゃないし、完全に無防備でした。
言われた瞬間、「あ、来た!」と思いました。なんていうか、今まで起こったことの集大成だこれは、みたいな感じがしました。で、ぱっと振り向いて、「うるっせえよ!!!!!」ってキチガイみたいな声で叫んでやりました。
そのあと、自転車で走りながら(自転車に乗ってたんです)、動悸がして、喉が震えて、泣きました。言い返したけど、怖かったし悲しかった。いつもこうだったなあ、って思いました。すいません、話が長くなります。これは、今日起こったことです。

「なんでなんでなんで?」って、いつも考えるんです。理不尽なことが起こると。
その時の相手の気持ちも、本当は考えたくもないけど、考えてしまうんです。
当然なのは、私がそこに存在しなければそれは起こらなかった、私の容姿が女として普通かそれ以上なら「それ」は起こらなかったってことです。
坊主頭の男はクズだと思います、そんなクズにぶち殺されなきゃいけないほど自分はブスじゃないと思います。でも、その時の、ありとあらゆる状況が、その坊主頭の精神状態が、私が外へ放っていたすべてのオーラが、そいつに「ぶち殺すぞ」と言わせたんです。女性に「ぶち殺すぞ」なんてすれ違いざま言われたことなんてありません。いつもいつも、そんなことをするのは男です。男性の性がそうさせるんじゃないですか?自分よりも劣っているものへ、弱いものへ、異性として自分の益が発生しない者へ。どこまでも残酷になれる。

憎しみは消えない、っていうのは、私がこれから先どんなに満ち足りた人生を送れたとしても、幸せになることがあったとしても、「ぶち殺すぞ」という言葉を、声を、あの時の目をはっと思い出しては、苦しくなって泣くんだろうなってことです。私があの時されたことをそのままそいつに仕返すのは不可能です。私にとっては大事でも、相手にとっては取るに足らないちっぽけな出来事なんです。
日々が過ぎれば過ぎるほど記憶が重くなっていく気がします。
いきなり思い出しては、発作みたいに苦しくなって泣いてしまいます。
その苦しみにどう立ち向かえばいいのか、どう打ち勝てばいいのか、わからないんです。
長々と本当にすいません。しかもkagewariさんが男性であるということを度外視して書いてます完全に。
いろんなことがあって情緒不安定すぎて、正気を保っているのが苦しいです。
(いろいろ、原因があるんですよね、私自身に)

引用なし

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意外な事と思うかもしれませんが『容姿』とは極めて心理的なものです、
もう一段この話には奥行きがあって『容姿』は文化や時代で変遷します。
後段の話はこれだけの説明ではまだ理解が十分では無いと思うので補足しますが、それこそ未開の民族の中には素直に異文化の人間からはおぞましい位容姿をピアスのようなもので変化させ(場合によっては目をそむけたくなるくらい)人としての外観を損なっているとしか言えない文化習俗を持つ部族も実在します。
簡単な差異はファッションに見られるように一時代の流行は異時代の常識では笑い者であったり、これも不確定なものです。

つまりこの世には普遍的に『容姿が云々』などという差異は構造的に存在しないんです。
あり得るのは時限的であったり、仮想上の流行論的な変遷(ここには多分に共同幻想が関係します)の中の誤差のようなもので、
(現実ルネッサンス時代であれば現代社会のモデル体系は顔を歪めて忌避されるでしょう)
 ↓
■ここからが本題です
 ↓
「それは大いに社会適応であるとか共同幻想社会との関わりの中で発現している”極めて主観的な着眼”である」

ここまでの説明で更に理解が別の方向に流れていると思うので説明を続けますが、
当該する文明社会における”美意識”というものは(ここにも大いに共同幻想が関係しますが)芸術的昇華を前提とすれば存在するでしょう。
そこから逆算するならば、
 ↓
「容姿なるものに差異があるとするなら、その時代の文化の名において美男美女だけである」
(人類が歴史的に延々と繰り広げてきた容姿関連の話は「半分は健康状態の判断」「半分はSEXアピールに対する文化としての集団心理」です)

更に付け加えます、
上記の”美男美女”の概念はレア(希少性)という価値論の根本に関わる論理的結果に過ぎません。
(数的に過半数を超えれば”普通”に評価が下がる)
言ってみれば”社会的評論”などいうような代物に近い、

何を話しているのか訳がわからないところあると思うので、対比で表してみましょう。

「社会的評論としての”美”は言い換えれば公的論理である」
「容姿の差異における”醜悪”は主観である(その合理性を証明できない)」

ここまで話してもまだ意味が不明でしょう、
更に説明を続けます。

「自分は美しいと主張すれば社会がそれを認めない限り(一般的意味の)ナルチシスト(自己愛主義者)に過ぎない」
「自分は”醜い”と思うことは、その段階で”被害認知”と等価であるため結果として(心理的意味の)ナルチシズム的な社会不適応的な現象でしかそれを証明できない」

私が言わんとしているのはですね、
仮想上であろうと論理的結果だろうと、人の醜悪を「自分ひとりで勝手に主張したところで何の証明にもならない」って事です。
”醜い”であると反論しやすいでしょうから逆で説明しましょう、

■「私の容姿が美しいあまり人の視線が気になり視線恐怖になってしまいました」
構造的にはhakoさんの言っている話は上記と等価なんですよ。
(自分じゃまったく気がつかないでしょうが鉄板でそうなんです)

これは近代共産主義が台頭した時の「プロレタリアート革命論」にも近い話で、
「私は金持ちだからとそれを証明するのは難しいが、自分は貧しいと主張するのは容易である」
「しかし、私は貴族階級であると主張する事は(それが事実であれば)絶対である」
わかりますか?
後段の話の貴族階級(アイデンティファイ)の証明は共同幻想(階級社会)ですよね?つまり主観ではないから絶対になる。

悪魔の証明じゃありませんが、
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、
何故なら『レア度により成立する法則』の逆さだからです、
(金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明)

構造的に説明できない=構造的に否定もできない
ので、
 ↓
「そうですね、それは確かに美しくは無いかもしれない(レア度により成立する美男美女論)」
こう話すことは誰にでも容易です。
以下の説話も等価の同文であるのがわかります。
「いえいえ家なんかたいした事無いですよ、せいぜい中流の下ってところですから」
”金持ちではない”であるとか”美しくはない”はアリなんですよ、


ここでようやく話はつながったかと思います。
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。
 ↑
この論旨は成立しないんです、端的に言えば”事実認定できない”。
実は話している当人hakoさんにもそれがわかっているんです。
ですから「思ってしまうんです」という文法になっている、
わかりますよね?「思ってしまうんです」の背理は→「違うのに」或いは「必ずしもそうとは言えないのに」或いは「それは濡れ衣なのに」
※本文の意図は”違う””そうとは言えない”が「人が自分を見下している」にかかっていますが(そこは別途後述します)、文章全体のロジックとして前段の括弧無い全体に”思ってしまう”が掛かっている。
ここでも「いえいえそうだとしても”容姿が劣っている自分”を私は(思ってしまうで)否定していませんよ」という単純な反論あるかもしれませんが、この論旨はナンセンスなんですよ、この被害認知の肝は自分の容姿では無く、それを根拠として(その証明が容姿になっている)自分が周囲から見下されている事が問題のコアであり、仮に100歩譲ってあなたの容姿が劣っているとしてもその結果周囲の人物が概ねあなたを見下しているのでは無いのだとしたら(思ってしまう否定)被害認知と容姿は無関係であり結果容姿どうこうを始まりとする話は成立しない事になる。

注)実際にここは以下により証明
>整形などで顔を変えることはできますが、
これに関連する複数の事実がありますが(プライバシーに関わるので公開掲示板ではこれ以上詳細は言えません)、仮に(簡単に言い換えれば”美人”に変化しても)その状況が事実関係として実体を伴って変化しても、全く問題は解決しないのです。これは事実です、
そして根本的な反証として
「実際に”美しい”事を根拠としてそこから以降の話の流れはhakoさんと全く同じ論旨の悩みを訴える事例は少なくありません」事実です。
(美しいに始まる構造を説明しだすと今回の同じ分量の説明が必要なのでそこは省略します、4時間ほどもらえれば容易に説明できます)


事の発端は?
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。

この話は実体として「(その発端に根拠が不鮮明な事で有名な)いじめ」に近い現象です。
掲示板の過去ログを読んでいただきたいのですが、いじめ論って奴の大半は「既に社会的共同幻想が崩壊しているのにそれに適応しなければと強度のストレスがかかっているだけでなく、文部省なりの方針で時の権力によって寿司詰めで管理されている”群れ”と、何らかの原因(メンタルなど)でそのストレスの埒外にいて社会との関係に個人的事情で関係性が保てない個人との衝突」です。
つまり『相互にお互いがお互いに対する意識はそれぞれの事情で全く噛み合わない』ため、非常に解決が難しい。
それだけでなく、そもそも現代社会(共同幻想は崩壊)において、問題のある社会(学校制度)を保守する方向で問題を解決するのだとしたらそれは別の意味で本末転倒になります。
(いじめる側には意味の無い共同幻想適応を止めさせなければ根本的解決になりませんが、それにはクラス制度そのものを破棄しなければならないので構造的に文部省が動かない限り解決にはならい:無理に解決しようとすれば本末転倒になる→ですから現状はいじめられる側はフリースクール等に避難・いじめる側には”打つ手なし(彼らには強度ストレスが以降も継続)”な状態です)
※特に「いじめ論」は過去ログに多数論証がありますから読んでみてください。

さて、となるとですよ?
今この今です、hakoさんは何をしているのでしょうか?素直に定義してみましょう。

「相談の形で、自分個人でできる解決策は何か無いかヒントなりを求めている」となります。
言い換えると
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」

<一度や十度ぐらいでは必ず上記説明”読み違えています”からここまで相当回数反読してください>

再び本題です。
この誤解「容姿が劣っていると”思ってしまう”」
そして、前段説明の
『金持ちの証明や美男美女の証明は自分ひとりではできない:だから長者番付やミスユニバースがあるんですみ←社会的証明』
 ↑
この部分が
 ↓
>中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。

事の発端にかかり(社会的評価を下されたと思い込んでしまい)、誤解が環を広げているんですよ。
冷静に考えればわかります、
いじめの心理は社会心理として”異常な状態”であり、彼らは決して「冷静な審査委員でも無いし統計分析する官僚でも無い」
株式やらの世界で言えば『風説の流布』です。
簡単に言えば「デマである」、

■事実の認定は慎重に行わなければなりませんが、
この際hakoさんの実像としてその容姿がどうであるとかには全く意味ありませんから(異論ある場合には前段の説明を100回くらい読み直してください)心理的側面として非常にやっかいなのはむしろ以下の部分です。
 ↓
>イライラして勝手にキレそうになってしまうこともあります。
(『「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。』をデ・コード編集します)
 ↓
>「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と勝手に(どうしても)思ってしまうんです。
>電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性に対する嫌悪感もすごくあります。
 ↑
ここまでの説明を前提に考えれば「すでに的外れの濡れ衣」であることは明白で、
(重要なことですが、”電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性”は誰しもが普遍的に不快であり、取り立てて問題ではないとうか、、それは問題は問題なのですが、疑いようの無い個別の事実なので(自分と関係無くこの世には不快なものがあるという論)それ自体論議のテーマにはなりません)

なのに、これがエスカレートしています。
 ↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。

わかります?
私の説明にあるように、壮大な”前フリ”は実は論旨にもなっていないし、根拠としてもバラバラだったり事実関係がつながっていない。
それらの”前フリ”は何のためにあるのか?
これが言いたいからがための”前フリ”なんですよ。
 ↓
■『死ねばいいのに』

一見この動機は不特定多数に向いているように(それこそ)思ってしまいますが、全く違うんです。
”前フリ”でどれほど苦労していることか、
様々な話を連ねて(と言っても本人はまったくそうだと思っているし、その反対に以降に続く結論は無為意識で全く自覚が無いのですが)、『死ねばいいのに』の方向を異性の集団に向けているんです。


この(『死ねばいいのに』対象)大反転の鍵は”性差”ですね?
ここで全てが繋がるんですよ。
>「結局容姿が劣っている自分」
この意識には自分自身の性差なるものが深く関係している。
性差って何か?
子供が大人になるって事です。
他者に快感代謝的興味関心が沸き、自分自身のSEXアピール(前段美醜論の話読み直してください)に強い関心を持つ、

これに拒絶があるんです。
(だから発端が「中学〜高校くらいにかけて」=思春期なんですよ)
自分が大人になる事ですよ、
『死ねばいいのに』
と思っている対象は思春期で「ガツガツ大人的快感を求める(チャラチャラした男性)みっともなく目立つ若者」です。
(一般的には彼らのような”群れ”は少数で実際みっとも無いので周囲は逆に気にも止めないのですが←それがみっともない若者にもわかるので、大声出したり騒音出して暴走したり”気に止めろよ”みたいなアピールするんです:これは幼児性サディズムと同じ構造:暴力のネタ元)

この心理の背景には、自分が性的に大人になる事に対する嫌悪感のようなものが被っている。
言い換えれば「自分が性的に大人になる的な世界」に対して『死ねばいいのに』と思っている、
 ↑
しかしこれじゃ文章になりません。
深層心理は何を思っているのか?
>心の問題や、憎しみ

この答えは子供時代の人間関係にある筈です。
(大人にならない=子供であり続ける=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
「無限に継続」
>憎しみは消えない

だから「憎しみは消えない」(自分が子供であり続ければ=親子関係等に代表される子供時代の人間関係は心理的に無限に継続)
様々なルートを辿って、その心理が「所謂”たちの悪い若者達”(特に男性)」に性的拒絶を梃子の原理として反動的に投影されている。

加えて、hakoさんのそんな心理は隠せませんから(共同幻想適応系の人格は潜水艦ソナーのようにそういう違和感に神経質なぐらい敏感です:それが何のことかはわからないが違和感を感ずく敏感さは共同幻想適応人格はとても強いんです:社会通年的にわかりやすくいえば”オバサン社会の心理”のような特徴は、共同幻想適応系人格全般に見られます)、周囲はそこに違和感を感じ、
(それを彼らが好感と感じる事は考えられませんから)
むしろ彼らの側から(彼らの集団心理における潜在意識として)無意識的ですが、hakoさんから(俺らが)嫌悪されているとか、蔑視されていると受け取られ、実体としての社会の中でも諸問題が派生する。

極端に言えば
「死ねばいいのに」がそのまま文字通り見透かされることはありませんが、
少なくともhakoさんが嫌っているような雰囲気は(hakoさんが隠しているつもりでも)大半のケースで「薄々バレています(限りなく”バレバレ”に近い)」

それこそ人の興奮は(遠赤外線として実体伴うって説もあります)、相手に伝わるもので、その対象者が潜水艦ソナーのように(見かけと違って)繊細なぐらい神経質(ビビリ)だったら?
(怖いホラー映画を観ていて本気で怖くなったので、大声出したり無理に笑ったり、歌いだしたり→下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性)

特に関係があるわけでも無い人物に「死ねばいいのに」と思われているんですよ。
(声まで聞こえないが”なんか変な感じ”としてそれが相手にバレている)

これじゃ悪循環は止まらない。
「自分個人のサイドからこの悪循環を止めるアイデアなりはないだろうか相談してみよう」
と思うんでしたら回答を探す事です。
 ↓
>死ねばいいのにと思うこともあります。

「死ねばいいのに」:この心理は子供時代の人間関係の中の何処からきている心理だろうか?

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【38】他人の目がこわい  hako  - 2010/08/17 01:37 -

はじめまして。hakoと申します。

私は、中学〜高校くらいにかけて、よく人に指を指されて笑われたり、顔や風貌のことで色々嫌なことを言われていました。
今、25才ですが、いまだにその時のことを思い出して辛くなることがあります。
今、悩んでいるのは、人の目がこわくて見れなくなる、というか、たとえば普通に職場の人(同性・異性問わず)と喋っていても、ふと目を見ると、その人の本音が見えてしまうような気がしてしまって、「結局容姿が劣っている自分は見下されているんだ」と思ってしまうんです。街中にいるときも、こっちをチラっと見てくる人が気になってしょうがありません。イライラして勝手にキレそうになってしまうこともあります。(こっちをチラチラ見てくるような人は、容姿が普通〜自分より上の人に対しては、同じことをしないという気がします)
他人の、無遠慮な視線に過剰に反応してしまいます。容姿で悩んだことなさそうな、電車や道で下卑た笑い声をあげているような、チャラチャラした男性に対する嫌悪感もすごくあります。死ねばいいのにと思うこともあります。

過去の、「自分の知らないところで自分が(容姿から)判断された」経験が、トラウマになっています。
初対面の人(得意先の人〜コンビニの店員に至るまで)とは、ほとんど目をあわせられません。

容姿のコンプレックスから、職場では「自分はひたすらへらへらしていなければ、人から受け入れてもらえないんだ、仏頂面のブスと思われて、誰からも相手にされないんだ」と思い込んでいます。笑いたくもないのに笑っている自分が嫌になります。

視線恐怖(嫌悪)を克服するために、心の持ち方のようなものがあれば、アドバイスお願いします。
整形などで顔を変えることはできますが、かろうじて変われたとしても、心の問題や、憎しみは消えないと思うので…

お忙しいとは思いますが、宜しくお願いします。

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ブログの方でアナウンス済みですが、この掲示板を置いている契約サーバであるOTD・BBSの閉鎖が決まりました。
http://kagewari.seesaa.net/article/159151126.html
現在のところ過去ログ検索ボードだけでなく、現行掲示板ページもも過去ログHTMLとして保存して閲覧できる方向で考えてます。

掲示板の運用に関してはHPで利用しているレンタルサーバへ実装する形で検討中。
(同じように他社レンタル掲示板と契約って手も無いじゃ無いのですが、文字数制限や過去ログの保存容量などOTD的”限りなく無制限”なものはそれほど多くなくってか、OTDの経営を圧迫したのもその仕様にあったらしいんですが、、)
公開掲示板運用の当初目的(相談プロセスの公開や相談以前で何か参考となるログ閲覧希望に対するログの公開)は事実上終わった感もありますが(これだけ膨大な容量と件数を閲覧できる心理系サイトは無い筈で)、まだまだ継続の方向です。

仮の話ですが、掲示板を閉鎖する場合にはブログ「Kagewari 精神分析相談事務所・沖縄分室」を心理学テキスト系メインの運用として(結果として何らかの相談に対する返答となるような)、現行の公開掲示板同等の形に格上げって形があるかもしれません。
元々ブログには掲示板機能ありますから、個別のやりとりはコメント欄で補完するって手も無いじゃないですから。
掲示板の方も当初から事実上一対一のやりとりを原則とするので、ノーマルな掲示板運用とは若干趣旨が違うもので、
意味合いは違いますが、昨今各ポータルサイトが実装している・”ヤフー!知恵袋”とか”MSN相談箱”等この場合は「コミュニティーサイト的運営を試みている」ように、どうういう運営が適当なのかはともかく通常の掲示板スタイルが適当かって論議はあると思う(同様サイトをgoogleも過去に実験的に実装したことあるみたいで現在は廃止の模様)。
これらのサイトはネットで調べ物している時に検索結果として何かとヒットするもので、各ポータルの試みは副次的にネット内のQ&A事例の蓄積(社会資本)となっている一面ある。
<参考リンク>
ttp://chiebukuro.yahoo.co.jp
ttp://jp.msn.com
ttp://oshiete.goo.ne.jp
(↑本文URL制限によりhttpのh抜いてます)

※因みに上記は所謂日常的相談や個別の技術的相談などを目的とするコミュニティーサイトなので、人生相談等「平場の意見を聞いてみる」的用途はアリです。しかしメンタル・心理系の個人的な相談には不向き(極端な保守的意見やその反対に時限的共依存サロン化の可能性もある)。

てなわけで、心理系の掲示板運営に適した”一般的掲示板以外”の専用サイトみたいなアイデアではブログ・コメント機能の方が(返信はブログ管理人に特定されるので)便利なのかもしれない。これも少々どころか大規模なカスタマイズを前提とするだろうけど(この場合もブログサーバだって永久不滅じゃないからって部分は残るが)、
Twitterに見られるように「文字数制限をかける(短歌的)効用」って部分も検証必要かもしれない。
※これ考えると又大変な事になるのでまだまだ先の話です。

■話は戻って、
さて『新掲示板の立ち上げ』なんですが、
えー予定は未定です(笑
OTDも閉鎖前の猶予期間が後半年以上はあるので、まだまだバタバタする状況でもないでしょう。というか本来は以前某HPに掲示板実装したことありますし、気の早い人なのでとっとと次の掲示板を立ち上げちゃうところではあるんですが、ブログ『住まいの心理学』の引越しで倒れそうな状況でして(俺も歳かなぁなどと感じる今日このごろ)、しばらく掲示板移設関係の話はご勘弁な感じです。
http://kagewari-retour.seesaa.net/

そんなワケでこの掲示板は「暫くこれまでどおり」です。
新掲示板の立ち上げが決まったところで又告知します、

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依存というより『抵抗』なんですよ。
(まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」)
一件ズルズルと話を”蒸し返し”しているところに「我ながらこれはいかん」と自覚があるものだから心理学的意味で何かネガティブな表現はないだろうかと脳内で検索された結果”依存”という言葉が選択されているわけで、
(確かに事実関係は依存なんですが)

有料メールなどの運用として「次の相談までの猶予期間設定」であるとか「受付非受理」であるとか、完全に相談を逸脱する場合お断りする事も実際にあります。プライバシーに関わる事なので具体例は挙げられませんが、
今回の事例は「それほどではない」ですから。
事実関係に依存はありこそすれ、問題の中心は『抵抗』であると認識する方が”現実”に近いです。
(繰り返し:頭から一度読み直してください)
■まー誤解されること前提に簡単に表現すれば「現実に対する反発(=否定と内向)」って話です、

字面を追っていくだけですと「何のことやら」と思う部分あるでしょうが、こういうことです。
今回の話はゆっくり読めば「何かが書いてあるようで、実は何も書いていない」系の”パラドックス”になってます。
(※パラドックスは語彙のとおりで、何か設問や構文になっているようで実は全体の構造はトランプ手品のような”種明かし”が隠れているだけで、どこもかしこも問いになっておらず(本旨は自己愛的独白)、実は質問ではない文章みたいな話)
つまり冒頭の弁解調の印象が自我内に確認(自覚)された”気まずさ”のようなものの正体は、無意識下において『実は質問ではない』ということに薄々気が付いているため”妙な気まずい不快感”としてそれが自覚されいてるって事です。

逆さまから内実を考えてみると以下です。
 ↓
以前の相談やりとりで「確かにそうかもしれない」と(抑圧ロジックが解除されて)自意識に浮上しだした”あれやこれや”は強迫意識には大変都合が悪いため、自己防衛意識が台頭します。
脳内意識は基本(相当にラディカルな人格でもない限り)”官僚的な前例主義”を安全策として採用しているもので、経験則として強迫時代を”事実上追認の形で消極的にでも結果論的肯定”してきてしまった前例を「なんだかんだで由として」意識を元に戻す(抑圧の回復)ことを試みます。
結果無意識に過去ログなどの枝葉末節に至る部分に「全く自覚も無いのに」⇒必死になってどこか変なところはないかと探し回り、その部分に『再質問』のフラグを立てる(赤ペンでアンダーライン引くようなものです)。
※自覚の無い行為なので「普通に読んでいる筈なのに脳内CPUが何故か100%いってる」ような状況です。
(脳が必死なことに自分でも気が付かない)
 ↑
なんていうことのない現象に見えるのですが、実はこの流れが”エライこって”、

第24回『環境アセスメント』最終答申、この文章が発行されたが「細部にまだまだ疑問が残る」。同文章の最終答申としての資料閲覧に際して以下赤線部分の項目は「再検討を残す」ものとするため正規の手続きにおける閣議報告に提出する書面からは削除するように。
 ↑
脳内ではこんな話になっているんです。

まー考えてみてください。
通常の疑問であるとか、追加の質問っていうのは「前回までの経緯を与件化(事実関係認定)」した上で、それに派生する未解説な部分を「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが、どうだろうか?」的な話になる筈です。
(※事実関係の説明に間違いがあればコレ別次元の話ですが)
■重要な部分は「あーじゃないかこうーじゃないかと考えてみたが」です。
異論や疑問として挙げられた内容(ぶっちゃけ間接的な反論)が場当たり的だと「一発NG」って事ですよ(笑
仮に設問が有効であれば、その異論部分は『相当に煮詰まって考えられている筈』で、
ロジックというか着眼が仮に「淡白であったりステレオタイプの域を出ない場合」
⇒ズバリ「それは似非である(本音ではない)」証拠なんです。

端的に言えば「強迫意識の苦しい言い訳に過ぎない」。
(抑圧が壊れて自意識が妙な事(自己の回復)なんてものを考え出してきたもんだから言うに困った強迫心理が次から次と”言い訳的”反論をあーでもないこーでもないと始めている)

えーこのような時にはですね、
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

長々説明してきましたがどこの部分を言っているのかと言えば
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。
>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

■<注)以下文はカウンター効果を見越して意図的に辛らつな表現もありますので心理的に余裕ある時に読み進んでください>
・ド勘違いで激怒みたいな事も考えうるので、とにかく『瞬間認知で(瞬間湯沸かし器的に)前後読まず』とならないように注意深く読んでください。
今回はかなりガチっと書いてます(強迫回帰の雰囲気が漂ってますので危機回避的表現を優先させています)。

ズラーっと各個にレスをつければ一から十まで意味になってません。
>ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。
単独者の概念ってのは、インターネットソサエティにおける”スタンドアローン”の事です。
(まー言うならば”ネットに接続する事を前提とする(その前の必要十分条件的意味における)単独自立型の個体”の事)

その対立(反対)概念は「会社内のイントラネット内の端末」に過ぎなく、自分の判断では勝手に「フリーのインターネットへの接続許可もおりない」というようなコミュニティーネットワーク(その実はクローズド)みたいなんが『共同幻想』です。
共同幻想が幻想なのは、仮想で存在する筈の上部構造サーバが”実は存在しない”ってことでしょうかね。

これ各所で書いている事だと思いますが、
コミュニケーションの主体として『独立自己完結能力を保持している個体』を”独り”と呼ぶんです。
(ベタな表現で「家族属性称号者の誇りVS独身貴族の誇り」で見てもいいですよ)
ですから、単独者には「構造的に孤立という概念は存在しない」(単独者の場合”自由”って意味ですから)、
現況として孤立という概念が存在し得るのは「共同幻想イントラネット内におけるローカルルール下のパージだけ」なんですよ。
つまり共同幻想に強い帰属意識が存在しない限り”孤立”という体感は成立しません。

>不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
※前述の判断ミスにより設問として無効

>職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。

これは孤立じゃありません。
仕事のミスで立場悪くなるのは「あたりまえ」であって、
(孤立じゃなくて”ここは仕事するところでプライベートを持ち込んでミスしていい場所じゃない”という認知から、視野狭窄的な仕事のミスがあるって事は、仕事中にオナニーしているのと等価であるため、ソサエティが『会社の仕事時間(公的時間)を私物化しているのではないですか』とそれを(社会契約違反ではないかと)非難しているわけで→「内向オナニーは自宅でやってください」)
敵意を持っているも何も、会社内でテロリスト的立場なのはあなたですよ。
(自覚が無く、完全バックグラウンド動作におけるミスであるのと同時に、強迫心理特有の『被(こうむる)』受動認知が関係して結果論的に”その現象を被害認知でしか認知できていない”だけで、実行行為は”自覚無き無意識的不可抗力だが結果論はサボタージュ”に他ならないのです。)

※仮の話、同様の仕事を続ける場合周囲に対する自己紹介としては「正直メンタルに問題あって、普通にできることまで集中力が維持できなくてミスするケースもあるんですよ、自分でもなんとかとは思っているんですが」と”事実の共有”しなくちゃ「相手を加害者にするために意図的に嵌めているのと同じになってしまう」んですよ。←ここわかりますよね。

※逆さまに単独者的自己紹介の場合「お前ら帰っていいぞ(仕事は俺独りで十分)」だとか、「意味不明のモチベーションで人の数倍の集中力を発揮して頼まれていないところまでやってしまう”ちょっと迷惑だが有能としか説明のできない人”」だとか、少々『挨拶代わりのスタンドプレー』に寄るのは確かで、結果それも社会における私物化(少々厭味っぽくないかと)じゃないかと誤解を生むので(確信犯なので誤解じゃないかもしれませんが)、「だったら俺は独立しましょうか」な経緯を踏みつつなんたらかんたらって世界になります。
(この荒馬を使いこなせば会社の利益になるので収益に色気のある会社はなんとか使いこなそうとしてみたり、自由にやらせる環境整えたりするでしょうし、地味な公家集団的組織なら「君は独立した方が(その特異な部分)生かせると思うよ」なんて綺麗な言葉で辞職を勧められたり、そもそも単独者故に最初から「社会的労務環境は俺には合わネーよ」と気ままに流離っているかもしれません。←っても相当ハードですが、)
当然周囲がドン引きして一目置かれたりって経験は単独者の勲章みたいなもんです。或いは「オマエ仕事やり過ぎ」だとか、
(ものは試しで最初はスタイル(言えばそのふり)から入るって手法もあります。○○道などの形式主義的古典芸能の習熟ってそうですから)

<話は戻りますが>
その辺を全て周囲が察するべきだってのはいかんせん無理がある。
(管理職には部下のメンタル含めて一定のスキルは必要でしょうが、各職場において心理学的知見がマストとして求められているのではありません)

こう考えてみてください、
「高熱なのに無理をして会社に出社したのでミスが多くなり、批判される事も多い」
社員の責任として体調に問題あればそれを申告する義務ありますよね?
(肩の不調を隠して登板して逆転ホームラン打たれてちゃいかんワケで)
上司も熱があるってなら(重要度の低い仕事なり)或いは「今日は休んだらどうかね」とか同僚も「大丈夫?」とか言いますよね?

それを隠して(ってか意図的に隠しているのじゃなく無意識・不可抗力なんですが)『敵意を持っている人』ってあなた、
周囲があたかも「ハナからお前らは悪人面なんだ」みたいな判断してどうするんですか?
相手を道徳的非難するために事実を隠して「悪人トラップ」にひっかているのも同然ですよ。
(っても構造的に不可抗力なんですが、事実関係を自意識が捕捉し始めている今現在はそうは言い切れないでしょう。ある程度自意識にも察しがついているんですし、←強迫心理に都合が悪いってこういうことです。強迫心理はそんなこと(絶対的不可抗力のように)知りたくも無いんです。→堂々と被害認知を脳内で権威的に優先できなくなる。)

やっかいなのはこれが「自覚無く無意識だってことです」
(構造論であるとか不可抗力って部分)

無意識の狙いは?
『単独者など意味が無い、私は人形で、このままだと孤立するばかりである。→共同幻想適応しなさい(強迫意識の原則で)』

本末転倒ですよね?
 ↓
>かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。

「露骨ないやみ」とかじゃないでしょうよ、
(前項の説明読めばわかると思います)

相当怒っているんですよ、これマジに。
「なんでこうなの?(あなたは自分の強迫物語のために私を悪役に仕立ててさぞかしご機嫌なんでしょうね)」
(そこまでの心理的裏まで周囲は当然わかりませんが、共同幻想適応者特有の本能というか”察知力”ってあるんですよ。ここは瞬間速度的には単独者よか共同幻想適応人格の方が早いかもしれない。なんていうか共同幻想適応人格系特有の”潜水艦ソナー”みたいなアンテナ(適応神経)ってありますから。)

流石に心理学の知識が無い分、素人さんの怒り加減は中途半端な範囲に終わりますが、
(そこに強迫破り的な眼を持つ上司でもいて「全部わかっています。失礼ですがうちの会社の社長はいつから君の母親になったのですか?」とかまされれば目も当てられない)

「内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。」
逆、逆、逆、
逆ですって、
正反対ですってば、
 ↓
「慌てて共同幻想(実はこの場合暗韻で強迫心理を意味する)を回復するために、取り巻きを呼びました。」


>職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります

同僚などいない仕事すりゃいいじゃないですか。
(或いはこの際診療内科などで免罪符的な診断書でももらい、失業給付や生活保護など休養優先にする手も非常に有効です。心理学に知見の無い精神科医ですら鬱の症例は「まずねストレスを遠ざけましょう(職場関係なら辞めましょう)」ですよ。)

極端に言えば(脳内で考えるだけでいいです)「道端でインチキ占い師でもやって食ってみようか」と何故考えないんですか?
何故常に職場といえば不特定多数の同僚がいることが前提なんですか?
(社員全体5人以下とかザラにありますよ)


>母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、

これは完璧自己陶酔、
『母のお気に入りのお人形さん』
『女王陛下にとって私は特別の存在』
同じ意味ですよ。
お気に入りって、どこのフランス人形ですかって、、
 ↓
>人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

押井守監督の『攻殻機動隊』じゃありませんが(むしろそのパート2である『イノセンス』で顕著)、
ヨーロッパの哲学には「人形こそが究極の人間である」って耽美主義があるんです。
「人はなぜ人形を作るのか、・・・であるならば人形こそが”完全な人間”という事にならないか」
特別な人形ならなお更です。
(古くはカルトSF映画でもあるリドリー・スコット監督『ブレードランナー』原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? Do androids dream of electric sheep?』にも及ぶ話でしょうが)

完全な自己愛的内向認知ですよ。

「人形であれば、人権もなく、人間以下です。」
 ↑
実はこの表現は”レトリック”であって、”人外”の定義が(よくもわるくも)一般的他者に対して”超越的に特別な自分”を結果論的に定義してしまうことを忘れちゃいけません。
(これに無意識下の強迫心理が結合すると→あら不思議特権階級意識:女王たる母親偶像への帰属(お気に入り)に変質します)

逆さまの表現をベタな口語で言いましょうか?
「何を言ってんですか、あんたさ、うんこもすればごはんもたべる、風呂にはいらなきゃ頭痒いし、丸三日徹夜して24シリーズを3シーズンノンストップでマラソン視聴すればぶっ倒れてグーグー寝るんだから。おもぃきし人間でしょう。」

そしてここは現代社会の日本です、
自分でやれ私には基本的人権は無いと発言するのはご自由ですが、こういっちゃ何ですけどね、
「あなたの人権は憲法が保障していますよ」、
(都合よく逃げようってたって赦しゃしませんって「立派な人権が保障されてます」)

「人権もあれば、うんこもする市井の人間である。我思う故に我アリ、人間は考える葦である。」


>職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。

※前述の判断ミスにより設問として無効、
ってか「集団でいる人からすればそうさせようと必死」って、、、
知らない間に自分の認識が随分上から目線(失言)になっているの気が付いていないでしょう。
現実にリサイズするならば「共同幻想適応系の人たちから見れば本当(真剣)に困って」です。
(極論喉元まで「それってワザとなの?私達に誤解から悪いところあるんなら考えもするから本当は(あのミスは)どうしてなのか本音を教えて欲しい(彼らから見ると立ち位置的に強迫心理を本音かと取り違える傾向がある)」って言葉が出かかってるって事です。)


>私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。

「物言えない人形が単独者になれるのか。」
立派にあれやこれやと反論しているじゃないですか(笑

そもそも物を言うべきじゃないかと(脳内想定で)考えている相手(とその内容)を間違ってる。
(気が付いていないかもしれませんが文章の”暗韻”として「職場の奴らに言いたい事がある」的フラグも入ってます)

社会に対しては「ちょっちメンタルに問題ありましてサーセン」という自己紹介だろうし、
(決して仕事のミスにおける上品な釈明でも無いし、不当な扱いだと抗議する話でも無いし、)
脳内の母親権威偶像イメージに対しては「堕ちたなお前も」という宣言だろうし、
戦うってのは、グチャグチャと御託並べる強迫心理に対して堂々と「バカかお前(俺は)」と、

「ちょっちメンタルに問題」的言葉こそ堂々と言っていんです。
「今(現在)は年号平成なんですよ」
心理学的な知見は社会に十分じゃありませんが、それこそ社会現象としての離婚などにあるように、現代社会で何がしかメンタルな問題に対して接点の無い人なんかいません。又完璧に共同幻想な人も存在しません(特に共同幻想適応タイプの人はどこかメンタルの危うさを内包しているのが現代社会です)、十分理解できなくても「そうなんだ」な部分ぐらい認知する力ありますし、気後れするような話でもありません。
(欧米に至っては「胃腸が弱くて」も「メンタルに少々問題あって」とそう違わないでしょう:欧米の認知が進んでいるのは必ずしも知見が広がっているとか民度が高いという意味ではなく、覇権的製薬会社の強い利権となっているためなんとやらって話なんですが)
 ↓
「オイオイ何を言ってんですか俺は?魂胆バレバレですぜ」のように笑い飛ばさないといかんのです。
※この言葉の瞬間「自意識全開スイッチON」で実行優先度の高い自我ロジックを起動して、無意識にバックグラウンドで勝手放題に動いているプロセスを事実上強制終了、自我内部の占有権を強制回復する。「俺が考えるから(忙しいから)バックグラウンドは黙れ」。

「俺は俺だ、(いちいちなんか)文句あんのか」と宣言することです。


>この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。

ですから上記は完全な間違い。
強迫デ・コードすると、

「この自意識の回復って気づきを認めると自滅するのではないかと思います。というか強迫心理は自作自演の”内向フラグ”をばら撒き(それにまんまとひっかかる悪役もザックザックと確保して)、無意識の内に自分が企てた”自分が主人公の被害者ドラマ”は宴たけなわで、勘違いした被害者ドラマの視聴者として無我夢中になるように私の自意識は又強迫心理の抑圧の論理にのまれてしまうのではないかと思います。」
 ↓
えーそうなんです。だから自分で(その悪循環に気づき)こりゃいかんと「私は相談したのです」よ。
(ここで初回に戻りました”再ループ”)
1まで巻き戻しましたから、今度はループさせないでください。

こういうループを切る(自覚して「バカか俺宣言」)ってのが強迫心理に勝利するって事です。

『様々な(本音じゃ)思ってもみないトンチンカンな話の渦中にある私ってものは俺(自意識)は金輪際ごめんこうむる』という”現実”からの反論です。
一番最初にmacchaさんが相談しようと思った潜在的根拠そのままですよ。
「冗談じゃないぞ俺」と、


<最後に難解話をネタとして問題提起しましょう>
実存主義哲学の元ネタでもあるニーチェの話をwikiからベタで転載しておきます。
こういう話を『なんじゃこれ』と1ヵ月なり半年なり考え続けててみてください。
(なんでしょうわからないだろうって意味では全くありませんよ。「ダイエットのため100回噛んでください」みたいな意味です。)
 ↓
■『永劫回帰』
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。

永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。

(ちょびっと解説するとこの”超人”は特別って意味じゃなくて、仏教哲学における”(強迫:煩悩を捨て)悟りを開いた仏”のように、その意味するところ半ば空想上の”完全体”の定義のような意味で、そうなるとかならなくてはいけないとかではなく、考える上で仮にそれが空想上でも(経済学で言うところの完全雇用の概念のように)定義がなけりゃ始まらないからみたいなところで登場しています)


ついでに実存主義哲学の更に元ネタのモチーフである『シューシュポス(シーシュポス)の神話』もオマケでwikiから転載すると、
(本当の元ネタはギリシャ神話「シーシュポスの岩」)
■『シューシュポス(シーシュポス)の神話』アルベール・カミュ
シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。カミュはここで、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出した。


最初に「オチ」を言ってしまえば「だからここに我は実存するのか」という(相当に仰々しい)”現実の発見”であって、
(内向心理やノスタルジーの天敵です。なんかワケわからんところがミソ。→昔の哲学者なんかがようけ難解な文章を書いたのは、無意識の誤読でロジックが穢される事への生理的拒絶からそれを”ステレオタイプではそうは簡単にケチのつけられない文章にした”って一面もあります。心理学的には衒学的表現(難解)の意味はそれだけじゃないんですが、今回の返信に関してはそこ理解しておいて損は無いです。)

更に簡単にネタバレしてしまうと、
「なんてことが無くてもいい、その駅前ラーメン店で味噌ラーメンを選ぶのか、塩ラーメンを選ぶのか、チャーシュー麺を選ぶのか、掟破りのギョーザライスか?それが世界(実存)であり、現在に他ならない。それ以外何処に”私”の生存証明(レーゾンテートル)などがあろうものか?この至高にして至上の選択を”何人も(おおよそ強迫心理なぞが)穢してはならない”のである。」
「ダメじゃんと言いつつ満面の笑み」のような世界です。

(みょうちくりんな言い方すれば社会的に単独者が発現するルートは「第四の反抗(反抗期の)」みたいなもんで発生していて、その反抗は3つの反抗(所謂反抗期)とは異なる。単独者の出現は幼児期の記憶に対するオマージュの解体やノスタルジーの無効化(所謂反抗期)では無く「唐突な現実(実存)の発見」だからである。まーなんというか、そのような話です。→それが「オヤジ!チャーシュー麺だ」の解なんですよ。)


注)別段実存主義哲学を賞賛しているのではなくて、近代思想から現代っていうか『現代社会の単独者概念』ってのは実存主義哲学の延長に(サブカル的に)文化人類学的だったり心理学的に派生しているのは事実なので(オマージュだとかモチーフだとかリスペクトだとか影響を受けるというかアイデアのネタ元であるとか何でもいいんですが、実際に社会運動に派生してリベラル的政治運動のネタ元になるなど先進国化の先に単独者が頭角する社会的な梃子となっている)、単独者の概念を考えるにあたって参考になるってことです。

気分転換にそっちの方向で考えてみましょうかぐらいに捕らえてもらえれば、
(結論は)違ってくると思いますよ。

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【35】Re:相当勘違いしていますよ  maccha  - 2010/07/24 01:16 -

今回、投稿するにあたってこの投稿が迷惑な投稿であることを十分承知して投稿しております。
私はすでに貴重なお時間を割いていただいて、無料でこの掲示板で精神分析をして頂いたこと、
私が長期間に渡って掲示板を占領することは他に掲示板を利用したい方、あるいは利用しようか迷っている方にとってマイナスとなること、
そして今回の投稿には私の中に依存傾向がみえることを自覚しているからです。おそらくこれが第一の目的なのだと思います。

単独者行動を模索しています、と以前投稿しましたが、ここに今の私が投稿することは単独者行動の模索には相反します。投稿することで、ひとりではなくなるからです。

不安の材料は、単独者でありたいのに孤立していくのではないかと思うことです。
職場ではかなりミスが目立ってきました。集団側からみると孤立です。以前のような協力的な雰囲気がなくなり、ミスが目立つのです。そして私も敵意を持っている人を感受してしまい、そのほうに神経をとられてしまいます。視野が狭くなっています。
かなり露骨ないやみを言われても言い返せないほど大人しい人間です。こんな人間が単独者になれるのか、とも思います。内向化を防ぐために気心の知れた人に話したりもしました。
職場をかわっても何をしてもいつも同じところでだめになります
具体的に何があったというよりは私の内面による強迫心理、自意識の問題です。
職場での状況はストックホルム症候群とどこか似ているのではないかとも思います。


母子間の話に戻すとストックホルム症候群の状態はもっとひどく、私は母のお気に入りのお人形さんの役かもしれません。それが傍にないと不安になるような、
人質は解放されれば人間としての人格を回復しますが、人形であれば、人権もなく、人間以下です。

職場では最後は集団を維持するために必要ないじめられ役(被った言い方になってしまいますが)に落ち着くのではないかと考えることがあります。集団でいる人からすればそうさせようと必死だと思います。
この状態が続けば自滅するのではないかと思います。相手側の論理の中に入ってしまっていると思います。


母子間のストックホルム症候群の話をして頂いた時、「社員である前に自分」と仰って頂いた時、自分の中でストンと何かが抜け落ちるような感覚を味わいました。
と、同時に「社員である前に自分」ということになぜ気が付かなかったのだろうとも思います。社員である前に自分、言えそうで言えない台詞、私には言えない台詞、思いつかない台詞、当たり前のことなのに言えない、私流にいうなら人形である前に自分、でしょうか。人形であることが自分(すでにアイデンティティの一部)になっていないだろうか。物言えない人形が単独者になれるのか。戦えるのか。


この投稿はルール違反です。精神分析の依頼ではありませんし、単独者って何?の質問の裏には依存化傾向がみられるからです。
吐き出すだけ吐き出しました。少し落ち着きました。


過去ログは再度拝見させていただきました。岸田秀さんの本も数冊読ませていただきました。


投稿が長期間にわたってしまい、申し訳ございませんでした。
有り難うございました。

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【34】有難う御座いました。  じよく  - 2010/07/18 22:51 -

お礼だけ言わせて下さい。
ここまでお付き合い下さり、本当に有難う御座いました。

先生と話している中で、自分の思想の危うさに気付かされました。
追い込まれたいという思いは自分を不幸へと導く志向性である事が分かりました。
戦術的に考えて私は自ら退路を断っていたようです。

また、一人暮らしが割とオーストラリア・カードと似通ってるという事にも気付きました。
自立と覚醒の要素では同じかもしれないですね。
寧ろ段階を踏むのであれば一人暮らしの方が先決だというのも理解出来ました。

オーストラリア・カードで最大限の効力を得る為に焦らずじっくりと考えたいと思います。
そして、自分を幸せに導く戦術を何とか練り上げられるよう努力します。

重ねてお礼を申し上げます。
有難う御座いました。

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わかり難い補足をつけておきます。
考えるネタ的意味で、
(おおむね内容は理解されているようなのでレスは不要です:てかレスしない方が効果的でしょう。回答をつける格好になるのがかえって自意識の思考の腰を折って収縮の方向に結論を急ぐ抑圧系のフラグになることも十分考えられます。)


>私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
>だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。
ご自身気が付かないでしょうが、一見文法的に齟齬が無いようでありながら大規模なレトリック(による仕掛け)が入り込んでます。
間接的に自分自身のアイデンティティ(確かにIDは直訳すれば”帰属”ですがそれは属性面での証明に過ぎません)が、親子関係を権威的最上位に拘束されている。
大人社会における(自分の仕事などの)評価対象は”社会”など更に上部構造であって、たまさかどこやらの家族法人内部の人事考課とは無関係です。
(20歳を越えた時点で父親にはあなたを上から評価する社会的資格を喪失している)
※彼が国王や家督相続を前提とした○○動の師匠や特殊な家訓を前提とした強者であれば別ですが。

この構造を”なんとなく”を根拠に肯定してしまってます。
>思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう
”なんとなく”というところが最もハイリスクなんです。

無意識下にある漠然とした”思い(ガリガリとした現世利益的今の自分の本音ではなく)”が現在の自分のアイデェンティティーを拘束している。
『なんとなく、今の自分は現実を上回る価値基準(家族法人内人事考課)に拘束されているのです』
(端的に言えば彼(父親)は社会に五万といるそこいらのオッサンのひとりには違い無い←一票の重みは同じですけれど)
それこそ認めるも何も、年齢的に親子関係の範疇で認めるのではなく、仮に父親があなたを認めるとするならば『独立したひとりの社会人として』というスタンス(あなたから父親を見る場合も同じ)になるんですから。血縁だからって部分は(既に過去形で)二の次の話ですよ。
どっちに転んでも独立した個人として(どこの生まれかとか関係無く)個人的にどう考えるかって自由な本音思考を前提に事を進めないと順序が逆さまになります。
 ↑
■この状況でモチベーションを維持しろって到底不可能ですよ。
日本は家族同士でスパイ活動やっていた東西冷戦時代の東ドイツじゃないんですから、
(そこは個別の関係性に関わる事であって、個人的なアイデェンティティー論とは土台が違います。てか広げすぎって事です。)

付き合うに値するも何も、20歳超えたら『赤の他人同士です』(同じ男同士でどっちが上も下も無い)
(※大事に思う他の親族との関係にしても、それは個別に構築するものであって(必ず彼のルートを経由しなければならないって道理が普遍的であるなんて社会では無い)、血縁関係はその名のとおりで、「きっかけ」→”縁”に過ぎず(血縁という”縁”)、社会属性的関係性を個別の関係を維持するための方便とするのでは順序が逆さまになります)

後段出てきますが、彼との関係性はその一部が日本企業への不満として(バックグラウンドへ)投影され、
そのカウンターがオーストラリアという海外の図式になりますが、
(オーストラリアもカウンター論的にシニカルに捉えていればアリです←ここも後段補足参照)
■モチーフとして海外って言えば、西欧に限った話ですが『ハイスクール卒業したら実家を出るのは常識』ですよ。
(全部が全部じゃないでしょうけどモスリム社会は別として特にキリスト教系西洋はそうでしょう)

オーストラリアに何かがしかを求める前に、オーストラリア的なるもの(西洋海外)の常識は企業云々以前に18歳越えたら家出るのがあたりまえなワケで(ヨーロッパなどで家庭の所得に関係無く奨学金が受けられるのは家族権威性に青少年が拘束されないような意味があって:自力で自立可能な方向を国家が補償する。両親にペコペコすること無く自立する事を国が補償するワケです。案外高額所得の子息でも大学の学費は自力調達ってケースも無いじゃないと聞きます。)、
>一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
 ↑
これじゃ順序が逆になってしまう。

つまり(カウンター的に少々極端に話を振ると)オーストラリア(西洋)に何かを求めるなら、まず西洋社会への参加条件として「一人暮らしが先だろう」って事です。西洋に対するリスペクトって意味でも。
(※そこいらが西洋特有の個人主義の肝なんですから)


それから、
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。
という理解があれば、オーストラリアを注視することを止めはしませんが、
直前の文面に既に「フラグが立っている」のであり
 ↓
>仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。

私は”逃避”とは言ってませんよ。
つまり今回のレスを読めば「対照表」はわかりやすい話で、
「日本企業への不平不満」への反動形成です。(意識的にやればカウンター)

私は”象徴化による動機の捏造(誇張)”だと説明しているんです。
「オーストラリアの旗がある間は→日本企業への批判は有効となる(この世界観の中に父親像も織り込まれる)」
本音は後者の方で、
相対的に前者が”浮上しているだけ”であって、それは(結果論として)虚偽の動機である。=本音では無い。

日本は随分アドバンテージのある国ですが、
(個人的には世界でも最強クラスでしょう)
『企業と国家比較』←既に相対的関係性が現実乖離していますよね?
(オーストラリア内の各企業差や日本国内各企業差の方が差が広く、国家間比較するほど両国内の各企業は普遍的な価値基準で統一されていません)

日本企業への落胆がどこの会社を指している話かわからないのですが、
極論『フリーランス』として個人で独立する仕事もあります(それほど食えませんが)。
仕事って言うから、何やらまことしやかな日本の中堅企業に勤めなければならないなど決まっている筈も無く。
(むしろ新卒入社の3割が3年以内に辞職しますから、既存企業の方が今後衰退する少数派と捕らえるのが筋→社会心理を分析すれば新卒入社時に話題となる”ブラック企業”って言葉がありますが、これは社会的潜在意識における「中堅大手全般を指している」んですよ。で、3割の人間がそれに気が付いて退職するんだと。)
日本の企業と言えば、現在のところ独立系等小規模の会社の方がメインであって、いかにも企業社会などのような権威的人事管理のある部門は”マイナー”と見ていいでしょう。
■「高層ビルのガラス窓拭きになる」とか「屋台ひいて珈琲とアイスクリームの店でも始めるか」とかですね、
(若ければそれだけバカやるチャンスもあるって事ですしね)
思考の方向性は山ほどあります。→考えるだけならノーリスク。

又国的比較をしてみても、
将来的に英語はマイナー言語となる可能性もあり(マジにドル依存が強いアングロサクソン系各国は待った無しでしょう。”ドル”がすっ飛んで米国覇権的グローバリズムがまんま戦争覇権に化す可能性も大)、ブリッグス的に考えれば中南米の方が面白いですし、単に南半球で見ればニュージーランドの方がいいかもしれない。
労使関係含めて先進国を狙うならヨーロッパの方が進んでますし、のんびりいくならイタリアや沖縄って選択肢もある。
世界的文明の歴史的経緯を考えれば学ぶべきはモスリム系アラブ諸国になりますし、そういう可能性があるのか知りませんが「カイロ大学留学」って手もある。間違いなく卒業後現地で商社関連の仕事で食っていけるでしょう。

個人的には最も開放的な”バカ国家”は日本であると考えていますけれどね(学会で気ままにユングなんて言葉にできるの日本ぐらいですし、特に心理学においてはキリスト教タブーで先に進めない各国に比較して日本は圧倒的優位があります)。
端的に言えばなんでも言える(表現の自由度が大きい)。
又、厳密に言えば経済的にも日本は最強の部類に属します。若干補足すると→中国バブルの破綻が近い(しかも中国は実質ドルペッグ制ですし、この場合内戦もあり得る)、このドル不安を前提に考えれば所謂グローバリズムという米国覇権主義もすっ飛びかねないですし、EUは現在そのグローバリズムに食われている状況、中東でイスラエルとイランにおいて戦争開始の噂もある。
そんな中で日本は外需依存から離脱しつつあるなか他先進各国と比較してまだまだ失業率が低い。
やっかいなのは米国支配による日本国内の政治的支配の継続って構図ですが、そもそも米国がギリギリの状況にあるなかいつまでも続きませんよこんなもん。国内で金融資産が適正に投資されれば”普通に経済は回復します”。又、化石燃料からの離脱も日本に最もその可能性あるでしょう。


※又、日本は小さな国じゃありません。生活文化を比較して米国の複数州の差異よりよっぽど日本国内の関西・東北の差異の方が大きいって論議もあります。なんでもアリの底無しの表現自由度含めて、恐らく先進国の中で日本は最も最先端でしょう。
個人的には、東京という都市は中世のウィーンや近代のパリ、現代におけるNYのような存在になるのでは無いかと思っています。

マスメディアなどの影響で既にマイナー派に属する「所謂日本の上場であるとか中堅企業」をあたかも日本を代表する存在と勘違いしているだけですよ。(ありゃどっかの特殊法人と同じで「もうオワリ」の存在です。それこそ皮肉込めて言えば負け組みの典型。:日本の法人の90%以上は中小零細でこっちが本当の日本企業です。)
私は職業からやたらと多数の業種について知見ありますが、概ねそうです。
→「大手だから仕方が無い」って言葉は一部の仕事関係で挨拶みたいに通用します。

それこそ『アルカディアは無いだろうか』と文明批判的に地中海辺りのマイナー国家を巡るのもアリに思いますが、

とにもかくにも、このへんを中途半端に行くと
 ↓
>もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

この言葉は”引き篭もりフラグ”になりますよ。
海外を考えるなら、それこそ十分に好奇心を働かせて考えるべきなんです。
中途半端になると別の意味のフラグが立つ事もある。


>好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
私は好奇心を否定しているとは一言も言ってません。
家族時代(過去)に認識の一部が引っ張られる関係で『現実への興味が構造的に収縮している』と言っているんです。
簡単に言えば、「目の前の晩飯と関係無い話に気を取られていて、食欲まで半減する」のと同じ心理です。

まずですね、
現段階の作戦には様々な方面に(地雷ほどじゃないですが)、引き篭もりフラグや家庭内争議のフラグがレトリックによって思考に入り込んでいるかもしれないと、その可能性を織り込んでおくべきで『その韻を不用意に踏まないように』十分注意が必要でしょう。
自分の考えを「うっかり信用しない」ってことです。
(現状本音から乖離している認識もそこに混入している可能性高いので)

十分に考えて(楽な方向でOKです)『しっかり本音プルーフしておく』ことが肝心で、事を急がないようにすることですね。
逃げ道的には「楽な方向」の出口論を重視すべきで
 ↓
>→追い込まれてみたい。
こっちは危険です、
(破綻のフラグにもなる)
重視すべきは「楽な方向」の出口論なんですよ。
■戦術論ってそういうものです。
砂漠の嵐作戦のパウエル司令官じゃないですが、本当の戦術家なら出口論をきっちり考えるべきものです。

追い込む的発想をビルドインしたいならば、
>ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。
ここに一番関係するキーワードは「一人暮らしをはじめて実家との音信を切ればいい(4〜6年帰らなければそれなりに音信切れます)」のであって、
(オーストラリアの前に一人暮らしという部分に辻褄も合う)
オーストラリアに行くにしても、あてども無く旅でも続ける方が(マトモに現地で仕事にありつく前に)『オーストラリア・カード』は効果的に思います。

な部分も含めて十分考えて確信犯的に実行すれば『オーストラリア・カード』も有効でしょう。

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【32】Re:状況を整理しましょう2  じよく  - 2010/07/17 10:49 -

買い被り過ぎですよ。私はそんな立派な人間じゃないです。
>『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
この通りなのです。

私は思ってるよりは彼(父親)が好きなんでしょう。
だから私自身が認められる(付き合うに値すると納得出来る)証が欲しいと思ったのです。

仰ろうとしている事は分かります。自立と覚醒ですよね。
今を見ず過去に浸っている。内面の探索。
これは長年の癖になっちゃっています・・。

私の反抗期は中学2年の時で丁度親が別れた時でした。
その後祖母はずっと私の傍に居てくれましたが私自身はワケの分からない苛立ちを祖母にずっとぶつけてるだけでした。
それでも彼女は私から逃げ出さなかった。その事を今でもずっと感謝しています。
だから愛情に飢えているとかそういう事はないです。

一人暮らしは・・今はしたくないのが本音です。
オーストラリアにはワーホリビザを使って2年くらいは滞在する予定で、だから今一人暮らしをするには資金的側面を考えた場合タイミングが悪いと言うか・・。
私が父親の了承を得るのは、父親だけじゃなく父方の祖父母、また母方の祖母も心配するからなんです。関係が悪くなるのが怖いのです。

オーストラリアってのがそもそも心配させる材料なんですが、説得による一応の理解は得られています。
ただ、彼らの言いなりになるのもどうかな、と思い始めたのでお金が掛かる下見を辞めて、バイトで今から資金を継ぎ足し、そのまま乗り込もうかなと思ってます。

オーストラリアに対する想いは主に、
・英語が壊滅的だ。→身体で覚えさせたい。
・日本での就職が困難になりつつある事。→国外に耐性を付けたい。
・日本企業(労働環境)に絶望している。→日本以外を確かめてみたい。
・ぬるま湯(自立しなくても生活出来る現状)が嫌になっている。→追い込まれてみたい。
↑モチベーション萎縮の原因でもある。
・小さな国に飽き飽きしている。→広いところ行きたい。
・空気という文化に疲れている。→外国では意思表示をどう行うのか知りたい。
です。

大半は就職に掛かってます(日本の企業体質が好きになれない)。
もしも外国を見て落胆したとしても、それはそれで日本を(マシである事を)再認識する事にもなるんじゃないかと・・。

今のままでは日本の企業に再度就職する気力が湧きません。
それを納得出来る材料を海外に求めてるんだと思います。
恐らくは単純な自己の力量不足、もしくは理想と現実のギャップによって帰国する事になるでしょうけども。
或いは、を期待してオーストラリアに臨みたいと思っています。

好奇心を否定しちゃいけませんよね。ごめんなさい。
多分他者との比較による落差を誤魔化す為の思考なんだと思います。
羨望や嫉妬を(ストレス回避の為に)湧かせない様に・・。
その自らの感情抑制によってもしくは気力の発露も阻害しているのでしょうか・・。

お話しする上で、何となく分かってきたような気がします。
一人暮らしは、いずれやりたいと思います。
でもやっぱり、私はオーストラリアに行きたいと思っちゃってます・・。

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【31】状況を整理しましょう2  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/07/17 08:35 -

ゆっくり考えれば特別難しい構造ではありません。
(心理的”だまし絵”のような話)
抑圧がかかっているところで考えるワケですから、
「思いつけないアイデアを思いつけと命令しても不毛なだけ状態」だということです。
 ↑
これだとちょっとわかりにくいと思うので、少々実際の事実関係から離れた説明しますと、
「イスラム教徒の心理になって、今日の晩御飯豚のしょうが焼きは美味いかまずいかを討議しなさい」みたいなレトリックですよ。
(実態はパラドックス)

話の前提として今現在この話を思考し発言している”じよく”さんの自我主体の時制がパラドックスになっているんですよ。
さっきと同じように少々実際の事実関係から離れた説明で話しましょうか。
「会社での顧客との揉め事に関して訴訟に発展した。その時俺は訴訟の中でも極めて実務的・専門的部分の論点を知り合いの弁護人に相談するのではなく、全く法律的に無知な両親に対して(子供時代の人間関係を前提に)聞いてみた。残念ならが建設的意見を聞くことはできなかった。」
 ↑
あたりまえですよね。

普通に考えれば聞くほうの動機がおかしいですよね?上記説明じゃあたかも答えられない話をそれを前提に聞いたみたいな話になっている。
しかも当事者の主体は時制のズレがあり、会社の業務で顧客相手に起きた事例の時制は”現在”ですか、コメント求めた対象者は現在や個別事例に精通している人物ではなく、子供時代の人間関係(10年近く前の自分)を根拠とするものだったって、、
そりゃね、
 ↓
「ある街にふらっとやってきて、今そこに住んでいる人に道を聞くのじゃなく、10年前そこに住んでいたかもしれない人をワザワザ探し、なんとか探し出してその10年前住んでいたらしい人に道を聞いたので、すっかり道に迷ってしまった。」
「あの、、オーストラリアはどっちですか?」
 ↑
こういう『抽象的文章の世界』になっているんですよ。
ところが抑圧かかっているので、ロジカルな矛盾に自分では気がつけない。
脳内の絵が”だまし絵”みたいな事になっているのに、全く自覚が無い筈です。


■ここまでの説明をレス文にあてて具体的に明示すると。
>私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
ここが第一の矛盾です、
ご自身の判断では
 ↓
>反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
という話が関連で登場するのですが、
反抗期は愛情を確認するものではありません。
反抗期とは快感依存対象の根拠となっている両親など家族内権威者への(幼児特有の)誇大イメージの現実化収縮による相対的幻滅からくる誤解による感情的破綻などの総称で(別段彼らが騙しているのではなく大人と幼児の関係から勝手に幼児が必然として家庭内権威者を誇大視するところが鍵)、客観的には脳内で肥大化している権威者イメージを現実世界の実存像に”修正アップデート”かけているワケで(極端な例だと「英雄→普通の中高年サラリーマン」へリサイズ)、
『私は父親を父親と認められていません』←この言葉は完全に矛盾していることになります。
■反抗期とは家族社会における属性上の呼称(地位)である”父親(部長や課長と同じ)”の称号が(幼児特有の権威フラグの解放)外れて、『男同士の関係』に還元される行為の事ですから、端的に言えば「反抗期が終わったので(自分が大人の男になった関係で)彼は父親ではなくなった」となるのが自然です。
つまり『反抗期によって彼が父親である事について更に認めるに至った』じゃ正反対ですから。
(これじゃ脳内の権威性が今現在も父親依存(実態があるのではなくその役割が希求され続けているという依存)であるって事になってしまいます)

一見整理がついているようで、今現在も「私が彼を父親と認めること」に殊更特別な意味がある事になってしまいます。

この矛盾を解き明かす鍵がこっち
 ↓
『本当は愛情を注いで欲しいと願っている』

※文章の順序を逆さにすると意味が繋がります。
『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
こうやって整理すると”じよくさん”にも「そりゃ〜ないわ」と本音が確認できると思います。
そのとおりです、上記の文面は”じよくさん”の本音じゃありません。

これは実数として10年前の自分じゃありませんが、過去まだまだ自分が子供だった頃の「漠然とした思い(や不満や不安)」の事です。
そんあ時制の違う過去の自分の心象風景が、何を間違ったのか現在の自分の認識に『時制を勘違いして介入している』のかと言えば(更に現在の自分の意思決定に介入しそれを阻害している)、

「その当時(流石に自分も子供だったものだから)、状況の整理ができていなかった」んですよ。

これだけだとちょっとわかりにくいかと思うので、
逆さまから言えば
■「彼(父親)は彼自身のメンタルの関係等(或いは諸般の事情)で、子供の判断では状況の整理ができないような環境(人間関係)を造ってしまった」という事です。
そして「その彼(父親)の事情は、第三者であるとか大人の立場であれば(たとえば今の自分)状況の整理が可能」なんですよ。

当時(子供時代の自分)整理すべき状況とは何か?

「彼の個人的事情により(メンタルなど・或いは諸般の事情)、彼にはおおよそ父親役(部長や課長等の家庭法人内管理職)は荷が重く、事実上職責を果たせない状況であった。当時部下(子供)役の私は、関係性に困り(トラブルを一般的な上司と部下の関係で説明不能で)、子供なりの知恵(狭い範囲でしかも幼児性デフォルメなどの過剰になりがちな認識)でそれを”愛情の問題かな?”と誤解してしまった」
注)ご存知のとおり幼児や子供は語彙として「愛情」という言葉の意味も正確に認識できません(必ず情動的誇張や主観的便法の範囲で認識している)。

そこで基礎にもどるじゃありませんけれども、細かい事のようですが「愛情」なる言葉で説明される関係性は何かって地味な論議も考えてみましょう。
(哲学的意味合いまで説明すると面倒な事になるのでその部分は省略します)
 ↓
極端な例で考えるのがわかりやすいので、ここでも極端な事例で説明します。
『陸軍士官学校の鬼軍曹教官と生徒の関係』
正に(ある意味)愛情無しには語れない関係です、
軍曹が口汚く生徒を罵ったり必要あらば暴力もいとわないのは「そこで間違ったら間違いなく戦死するから」です。
人の命かかってますから鬼軍曹教官の責任はそこいらへんの親より何倍も重いワケで、
訓練時にはそれこそ「犬畜生呼ばわり」も普通であって、士官学校の場合ウエストポイント卒業後はいきなり少尉(キャプテン)として現場で小隊の指揮をとりますから失敗したら死ぬのは一人じゃありません(指揮下の部隊の新兵がゴロゴロ死ぬ事になる)、訓練は半端なものではありません。
(※といってもそれだけ”深い愛情関係”が必要なのは自ら志願する職業軍人みたいな極限状態の職場だからですが)
訓練中はそりゃ学生諸君は鬼軍曹にも反発もします。
さて、様々な映画でお馴染みのシーンですが
(まー典型例は、リチャードギアが若手だった時代の映画『愛と青春の旅立ち』でしょうか)
それまで生徒を犬畜生呼ばわりしていた鬼軍曹は(生徒が卒業の瞬間下士官となる少尉より軍曹である自分の地位が下になるので)、
直立不動で「少尉殿おめでとう御座います」と敬礼するワケです。

説明しなくてもわかりますよね?反抗期(卒業期)を経て社会的地位が変更する(まー家族社会では上下関係まで逆転しませんが)。
そして愛情の表明は=「大人(兵士)として何が必要か、何をするべきか」の伝達責任に他なりません。

ここでひとつ考えてみてください。
鬼軍曹であるべき人物が、
「兵士、特に下士官とはいかにあるべきか(どうすれば自分を含めた部下の命を守れるのか)、個人的事情で”それがよく自分でもわからなかったら”」
これじゃ鬼軍曹役もですね、内心不安を抱えて(下手に刺激すると返答に困り意味不明に怒ったりする)、利いた風な(ステレオタイプの)紋切り型の押付けがましい話しかできないワケですよ。
しかも実は本人(父親役)が一番自信無いのですから「人間関係良好にですねあれやこれやとねほりはほり聞かれたくない」ワケです。
(一見関係性がうまくいっていないほうが彼には都合がいい)

でです。
上記のような場合、
その人に「それ以上何を聞こうってんですか?」


■さらに根本的な部分
「親は無くとも子は育ちます」
ある意味ですね、現代社会では幼児虐待が大問題として報道される事多いですが、心理学的に言えば「家族社会を構成する事それ自体が半ば必要悪的に問題視可能」なんですよ。
(文化人類学的にも”人を年齢で差別的に子供や大人とその権利を分類するのはいかがなものか”という話)
実は家族社会はかくあるべしなどという論議は相当にクリティカル(且つナイーブ)な話なんです。
(まさか「橋田壽賀子ドラマのようにあるべし」なんて話じゃブラックジョークにもならない)

ここでも極端な事例をあげましょう。
”明日のジョー”
こういうストーリーにおいて(主人公の属性設定で)最強なのは「私生児」です。
つまり、ある特定の成功(ヒーロー)物語りの前提条件として必要不可欠な要素のひとつに「私生児」ってあり得るんですよ。
そりゃ現実ってのは相対的なものなのですから、その可能性があるだけでも重大な評価基準です。
それがマストとなる在りようってのが実際あるんですから。
(現実プロボクサーになった人のかなりの数が”明日のジョー”の影響受けていたりする。「重大な評価基準である」。)

つまるところ「親子関係の破綻」それ自体では”なんら悲劇の証明にならない”のです。
言えても「まーそいう事もあるもので」の範囲、
(実際に暴力的虐待があれば当事者はそれは理屈抜きに大変ですが、この場合当事者のひとりである親に改善の責任があるのでは無く(求めても不可能だからそうなるんですから)→その親を逮捕しない社会に責任があるって事になります。ですから幼児期のトラウマなどの賠償責任は国家や社会となるのでメンタルな事情で仕事ができない場合には生活保護などの社会保障が求められるのであって、問題家族における後遺症は社会的には労災に近い判断基準だという事です→”家族法人労働災害”。)

事実は事実です。
決して「まーそいう事もあるもので」の中身を(言葉の印象から勘違いして)中途半端な理解にしていいって事ではありません。
そこは徹底的(ジャーナリスティック)な事実認定が必要なのであって、、、

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』
 ↑
では無いだろうと。

『私にとって反抗期とは私が彼を父親と認める証明であり、本当は今でも彼に愛情を注いで欲しいと願っているのです』→こういう認識は”だまし絵”のようなもので(レトリックであり実態はパラドックス)、足元すくわれてしまいます。
極論「現実認識を喪失」してしまいます。
(或いは現実との乖離)
なので、
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
 ↑
こうなるんですよ。

本来のモチベーションの元となる「現実との間の快感原則(言うならポーカーテーブルに載せる掛け金)」が中途半端だからですよ。
「不全状態だった幼児期の親子関係における快感原則(ほめてもらうであるとかしかられるとか)」の過去の自分の認識に、現実への知覚の幾分かをかっぱわれてしまっている(抑圧)ので、現実テーブル上の掛け金が不足している(なので現実が面白くないと錯覚)って事です。

ここも極論で説明します。
(少々下品な表現ありますがご容赦ください)
「○暴主催のポーカーゲームに有金掛けて大勝(又は大負け)した。俺は帰りに高級コールガールも買って派手に遊んだのさ。」
「お父さんに連れられてお祭りで金魚すくいをした、成果は大漁(又はスカで)。僕は随分褒められた。」
両方の快感原則の時制がごっちゃになると?
 ↓
「社会で仕事して給料も貰っているんだけれども、何を求めるって(親の愛情というか)僕は認めてもらっているだろうか(褒めるとかしかるとか)。」
こうなると、モチベーションが維持できないんですよ。
当然現実への興味も半減します。
(大人の社会じゃ「色と欲」がモチベーションを保持しますが、かたや深層心理でお父さんの愛情論には無理がある→極論「ポーカーゲームにお父さんどうコメントするワケ」のように、構造的に関連性の限界となる)

わかります?
前回の説明における
>>面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
>>そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
>>自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
>>『オーストラリア・カード』って奴がです。
>>(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
 ↓
「ポーカーゲーム(社会人としての仕事とか)だと話が繋がらないが、オーストラリアだと親に意見を求める自分って話が文法的にも繋がる」
■レトリックと結果としてのパラドックスの正体ですよ。


”じよくさん”の本音はですね、そんな事考えちゃいないんですよ。
自我における自分と言う主体の時制がですね、様々な経緯で少々矛盾している(場合によると10年前の自分が上位になっている)。
整理が付いていない状態だって事です。
(そりゃ当然です。直近の関心事項が「駅前のラーメンは美味いのか」な時、に親子関係なんて介在しませんから)

「ナイ、ナイ、ナイって、んな事俺の本音じゃないから」
とりあえずですね、四の五の言わず自分に宣言するんですよ。
大人の男として掛け率の範囲に入っている「色と欲」みたいなものを縮小均衡(シュリンク)させるような深層心理があったから、
(見かけ上)『好奇心が希薄であるかのような人格になっていただけ』なんですよ。

戦場は、今目の前の現実にしかないのであって、
そこに興味なかったら(ノスタルジーに引っ張られていたら)自分はおろか部下の命まで落としかねないんですよ?
そこの興味が半減ってそれは大問題なんであって、
鬼軍曹だったら?
「何ぼさっとしているんだ、死にたいのか!お前が死ぬのは勝手だが部下まで死なす気か?自分は死んでも構わないってことなら今俺がお前を殺すのが世のため人のためと違うか?腕立て伏せ500回いいと言うまで止めるな。海兵隊はクソ野郎の掛け声忘れんなよっ腕立てはじめっ!!」
或いはポーカーゲームだったら?
「テーブルにはシンシナティキッドと呼ばれた凄腕やらが集い宴たけなわ。その場で俺は”ポーカーにはあんまり興味無いし”。」
その場に命掛けて集った人達相手に最大の侮辱ですよね?
 ↓
>私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。

思っちゃわないでください。
そこで妙に納得(だまし絵)してしまったので、そこからボタンを掛け違ってしまったんですよ。
「そんな筈ない、何かおかしいぞ(妙なもん(実は過去の自分の認識)にだまし絵のようなコラージュで俺は騙されいるのじゃないか?)」
本来ここで考えなくちゃいけないところだったんです。
(流石にそれは大人の判断なので、子供時代の自分には気が付けと言っても無理だった)

そういう話なんですよ。


>ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
 ↑
■ズバリ正解ってことです。

無条件に自分に命令していいです。
「まず、ひとり暮らしを遂行すべし」
(成功の可否は問わず、厳に優先事項としてこれを徹底)

引用なし

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【30】Re:状況を整理しましょうか  じよく  - 2010/07/16 00:23 -

仰るとおりオーストラリアへ行く事が、逃避の材料である事はどこかで自覚していました。
しかし、もう既に10万円くらい準備で使ってしまったのでこのまま方向転換するのも何だかなって気がしています。
これから夏休みシーズンに入って旅券が高くなるので先延ばしにしてバイトする事にしました。
というか、ここに吐き出したら気が楽になったのか、バイトする気になれました。

一人暮らしですか。
確かに私はこの家から出て行きたいだけなのかも知れません。
ここに居るだけでモチベーションが萎縮している気もします。
ただ、安定した稼ぎがないですし、家賃など大きな出費が増えるとなるとどうしても尻込みしてしまうのです。

私は元々好奇心が希薄な方だと思っています。
だからオーストラリアに少しでも興味を抱いた事にすがってしまったんじゃないかなと考えたりしています。
また、最近になって己の勉強不足を痛感するようになっており勉強したい気持ちがあるのも理由の一つです。

反抗したい気持ちはあるかも知れないですね。私は彼らに本当は愛情を注いで欲しいと願っているのかもしれないです。
反抗期に居てくれたのは母方の祖母でしたから。私は父親を父親と認められていません。
私が成熟してきた現在になって、まともな世間話はするようになりましたが、寧ろその事自体腹が立っていたりします。
彼らに求める事が無駄である事も心のどこかで感じてはいます。

引用なし

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【29】状況を整理しましょうか  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/07/15 00:59 -

>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
 ↑↓(矛盾)
>幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、

時系列の経緯はあるにしろ、現在の状況から逆算して「憧れのオーストラリア」が”反動形成”であるのは疑う余地ありません。
反動形成にもイロイロあるんですが、正確さはともかくわかりやすく言えば「抑圧された本音を表面に出すにあたって極端だったり誇大なイメージにしないと抑圧構造に太刀打ちできない」ところからくる反動で、ここ本音じゃありません。
思うに「憧れのオーストラリア」の象徴化は現行の家庭環境の閉鎖性の対立概念として”浮かんできた(抑圧から反動つけて浮上)”したもので、間違っても本音じゃありません。

だので、
(本音じゃない分モチベーション不足というか燃料切れで)
>今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
となっているのであって、

有利な条件を並べて「実利を獲る」事に集中すると話は早いのです。
・年齢的に若い
・貯蓄がある
この二つはとんでもなく有利な条件です。
(「現状53歳である・貯蓄もゼロでホームレス寸前」みたいな比較で考えてみてください)

言えば「まーどうにでもなる状況」です。
逆さに言えば「今すぐどうこうバタバタしなくてもいい状況」であります。

心理的ポイントは
貯金もあって、20歳を超えた人間がたかだが身の振り方をどうこうする上で”親の了解取り付ける必要などどこの世界にも存在しない”事でありまして、ここがポイントです。
『オーストラリア・カード』これがパラドックスになっている事に自分で気が付いてください。
面倒な人間ですら介入するに好都合なカード切っているって事ですよ、
そら無関係な人間でも「は、なんでまたオーストラリアへ」と言うでしょう。
自分自身全く自覚無いでしょうけれど、深層心理の罠と言いましょうかね、周辺にそう言わせる口実にもなっているんですよ。
『オーストラリア・カード』って奴がです。
(それも反動形成の仕組みのひとつでもある)
あからさまに関心をひいているとか、反発狙っているとまで言いませんが、介入の口実となっているのは確かで、
戦術論で考えればいいのですよ→「いきなりオーストラリア侵攻作戦では戦術的にどうなの」
(これ旧軍部がいきなり南進考え出した話と同じような話です)
(仮の話としてブラックジョーク的に『オーストラリア・カード』を有効にするには「俺さオーストラリアで捕鯨賛成団体作ってひと暴れしてこようと思っている」ぐらいの飛び方しないと暗韻がリセットできない。)

根本的な戦術目標は何かって「閉鎖的な家族社会に釘付けになっている」ところにつきます。
徴兵制じゃないんですから(笑
20歳超えて親と同居している事が根本的に間違いです。
(自営業で社長と部下みたいに何か合理的根拠でもあれば別ですが)

しかも
> 父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
> 父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
 ↑
彼らにメンタルな問題があるのは言わずもがなですから、
(脳内では「メンタルがどうかしている軍曹殿」と「パニック状態の軍令部まで押しかけてきた」みたいな話)
四の五の言わず「このまま同居を続けるのは極めて不健康である」と言い切ってしまってください。


で、今何をすべきか?
■「ひとりぐらし」ですよ。
そのために手段は選ばす(嘘も方便ぐらいの勢い)、
体裁整えるためにインチキ専門学校でも何でも構わないので(今いきなり再就職は心理的ストレスデカ過ぎに思います)、体裁のいい理由をデッチ上げてとにかく一人暮らし(いわば脱走兵でいいって事です→どうかしているのは軍部の方ですから)を実現することです。
※インチキ学校は真剣に考えなければ考え無いほどいいぐらいの勢いで、これまで全く考えた事も無かった分野であるとかがお勧め(電気工やサーバー監視など食い扶持に直結する方がベターですが極端な話映画政策学校とかでもいいですよ、)。→現行の閉鎖的状況や旧来の判断基準が干渉してこない無知の領域とすると心理的ストレスの位置関係がズレますから好都合です。


次の一手(戦術目標)は後から考えりゃいいのであって(ここで基本条件が非常に有利であるところを思い出す)、
ひとまず実現可能性の高い『現実』を回復して、実行に移す事ですね。

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初めまして、投稿させて頂きます。
私は現在23歳の無職です。
今年3月に会社を辞め、直後は何とでもやってやるつもりで居たのですが、月日が経つにつれやる気が消えて行き今自分が何をしたいのかも掴めない状態です。
家庭は父親と自分の二人暮しです。

高校生の時に引きこもり経験があります。しかし中学の時に親が離婚した時それを心配した母方の祖母が家に通ってくた事で、何とか克服する事が出来ました。
ですが、元々父親と祖母は余り仲良くはなく、父親が仕事を休止した時に祖母は家に通う事を辞めました。
それから1年以上経ち、私は無事専門学校を卒業して就職出来たのですが、理想と現実の格差が酷く、1月から入った会社を3月で辞めてしまいました。

幸い働いてた時は丸々貯蓄していたので、そのお金を使って昔から憧れていたオーストラリアへ行こうと思ったのですが、父親に反対され一度有り金を全部叩いてどういう場所かを調べてくる事になりました。
ハッキリ言って私としては余り無駄な事をしたくなかったのでモチベーションが上がらず、ダラダラと準備を進める事になってしまいました。

そうやってる内に月日が流れてしまい、父親がどうやら父方の祖父母に言ったらしく、電話をしてくるようになりました。
もう今となってはオーストラリアにも行く事が億劫になっています。

父親は普段は何も言わず、寧ろ息子である私にさえ声すら掛けませんが、自分の面子に掛かってくるといきなり怒り出します。
父方の祖父母が関わってきた事で、いきなり怒られました。
その事があってか、今とても精神が不安定だと自分でも感じます。

この状況を改善する為にはどうすれば良いでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。

引用なし

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【27】補足しておきましょう  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/06/28 21:49 -

あくまでも公開掲示板は外郭だったり概略だったりしますから、個別の事実関係はご自身で考えてもらう事になるので、いくつかの可能性を提示しておきます。
>私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、それでも、こんなことは有得るのでしょうか

つい先日の別の方の相談過去ログを見てみてください。
両親への好感を『誤解』する場合も珍しくありません。
(それほど人の認識なんてものは曖昧なんです:言い換えると”簡単に割り切れない”→割り切れないものを”概略”として「私には好感がある」と確信も無く”なんとなく確定的事項”或いは”与件化”している方に実は「変だな」と思わなくちゃいけないのです。所謂親子関係には快感依存的自己愛的利益関係があり(極論すると現世利益的な打算的取引関係実態がある)、互いに大人同士の個人と個人の信頼関係の部分は反抗期の後に再獲得されますし、人類ヒト科といっても動物ですから長期・生存環境的な”バンド(集団や群れ)”に対して表向きは好感のフラグを成立させるのが生存欲求のひとつでもありますから(郷土愛も同じベクトルです)、事実認定において割り引いて考えないといけないところは「割り引かないといけない」のです)
 ↑
つまり「問題があった」というのはいかにもわかりやすいベタな関係悪化とかそういう単純化されたモデルじゃありません。
(むしろそれほど単純化されたストーリーであれば”幼児にもわかりやすい”ので、これは強迫的構造に至りません。幼児にだって「お前(親)それはダメだろ」がわかるからです。←認識そのものを抑圧して隠蔽する必然性が発生しない。そういう環境化でその幼児の将来には、あったとしても”所謂ひとつの不良化”するぐらいのトラブルを抱えるにしても自我の問題に及ぶことは無い。)

ひとつの事例を加えれば、
親が(内心隠している不安など)抱える強迫傾向を、言葉にならない妙な雰囲気などの認識で感じ取り(この時幼児の自我は構造的にそれをデフォルメしてしまう)、それは具体的言葉ではないので無意識下の概念になります(自意識は言語としてのロジカルの集合なので)、
端的に言えば『過剰な尊宅(そんたく)』、
これは権威的関係をベースに認識されますから、『その尊宅や配慮』は無意識に道徳野(超自我的概念)と結合します。
結果進路選択など、ステレオタイプな認知に頻繁に関与し、
「勝手に自分が思うこと(本音)よりあたかもステレオタイプな認知が上位概念であるかのような錯覚を派生させているとしたら?」
こんな風に考えるのです。
で、「そういえば思いたるふしがあるかも」的に具体的事実関係が掘り起こされていく事もあります。

加えて説明すると、「あなたは親属性を離れた彼ら個人を、ひとりの女性や男性としてどんな人物だったのか、どんな人生だったのかのように(政治ジャーナリストが人となりを説明するように)認識できているだろうか」って事です。親属性の裏で彼らの本音はどこにあるのかって推定、
表面的には「あぁケーキは好きだよ」という(いかにも家族社会適応的社交辞令の)言葉の裏にある彼ら個々人の本音は何だろうかって立ち居地ですよ。
突っ込んで言えば「彼らにだって本音の抑圧とかあるだろう」、
(そこに無理な構造があれば強迫構造でしょうし、合理的にノーストレスで簡素化されていていれば単に共同幻想適応者のそれかもしれない)


>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…
 ↑
自分の自我に問題のあった当時の周辺人物やその関係(関係性において実存している関係者)は、”強迫意識の取り巻き”である事が大半です。
簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
(たとえは違いますが、少年院で更生した筈の少年がシャバに出て昔の暴走族仲間と会った時の気まずさのような)

理想的には全員に対して旧来の関係を清算するぐらいの勢いでいんです。
(今現在進行している、自分自身の本音をサルベージはじめた自分の意識から関係を再構築(リストラ)する分には一向に構いません)
簡単に言ってしまえば、
全員相手に「実はね私は考え方を変えたんだ」から始まる新しい自己紹介を済ませ無いと誰彼相手でも気まずいだけでなく、
旧来自分が半ば自作自演で張った結界(彼らとの関係性そのもの)に取り込まれて、まんま強迫意識に先祖帰りすることも多々あります。

乱暴な言い方ですが、精神分析的に言えば「旧来の関係のままなら彼らは全員敵である」と思っていい。
(言っても彼らとの関係を敵に相当する存在にデッチあげたのは自分自身なのですが)

ソフトランディング的に考えるなら「積極的に彼らとの関係を一度疎遠にしてください」。
(時間はかかりますが、個別に彼らの存在が再構築に相当するのものであれば、上記の「本音の仁義を切ってから」これを再構築する)

それから
>学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)
(あえてカウンター効果付けて乱暴な表現使いますが)
今回のの相談経緯を知るに付け、
はっきり言って「全く信用できませんね」。
(ある意味余情的に美化されていて気味が悪いぐらいです:どこかの宗教じゃないんですから→ドグマ)

歴史の言葉に「○○史観」のような立ち居地を表す言葉がありますが、
上記の説明は言語的に「私的快感原則史観」であって、社会的見地でも無ければ哲学的な人物描写でもありません。
(注:「本当に良くしてくれる」→その対象者は強迫的にステレオタイプに傾斜している(本音を表に出していない時の)自分自身(汎用OSデスクトップな自分)に対してである)

刑事になったと思ってください。
(探偵でも構いません・歴史家でもいいでしょう、文化人類学者でもいいです)
「情をはさむのはプロじゃない。彼らはある人物の強迫心理を構成する構造的共同謀議の容疑者なんです。」
現実の彼らの実像がどんなものであれ(彼らの”個人的”交友関係他者や第三者から見て尊敬に値する個人であっても)、その本当の姿はそんな詩的情緒で表現されるようなものじゃないでしょう。
或いは「いい人とされる証明として、(偏向中の)私に対して良くしてくれる」などという利己的評価のどこに中立性があるんですか。

本質的に彼らの尊厳を前提に語るとするならば、
むしろ前述の表現は『彼らに対する侮辱(自己愛的私物化評価)』ですよ。
人の人生はそんな生ちょろいものじゃないです。もっと生生しく、実存の中でガリガリと発現される彼らの個人であるとか本音って姿がその言葉からまったく示唆されていない。
「人間○○を語る」←ように表現できないと彼らを知っているとは言えないのですから。
(場合によっては悪辣とまで言いませんが、「彼は○○としなければならなかったのだ」のような一見ネガティブな背景説明無しに語れない実像ってものは誰にだってあるはずです。しかるにその実存は精緻な説明があるからこそリアルに”いいともわるいとも言えない実存”でものを表し、そこにこそ本質的な尊厳があるんですから、)


話は戻って、
前述の関係性をそのまま放置するとどうなるか?
 ↓
>朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
>ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
>友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても

・簡単に説明すると、自分で張り巡らした強迫意識の正当化や防衛線としての結界のようなもので、
 ↑
(無意識に自分が)仕掛けた結界の狙いどおりに、
■まんまと『引き篭もりフラグ』になる。

外出の基本は「単独行動」としてください。
(或いは独断専行・唯我独尊)
リハビリ過程として、この期間は単独者的振る舞いが必要になります。

具体的には違う話なんですが、
昭和の時代、共同幻想もまだまだ健在な時代。
共同幻想瓦解といっても世代間ギャップなどの歴史的担保の崩壊程度の時代です、
当時反抗期はまだまだ自力で正面突破も難しくない時代に思春期の若者に流行したキーワードは何ですか?
(所謂60年代〜80年代まで)
『一人旅』ですよ。
※共同幻想適応世代ですら、連想キーワードの中に実存主義的試行錯誤である反抗期時代には「(時限的)若いときには単独者志向であることだってあるものだ」が含まれていたワケです。


>また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
<中略>
>急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

授業など一度ぐらいすっぽかしてもいいのです。
上記の状態は自己愛的内向の(一人舞台)舞台装置に立っているようなものですから。
仮に授業に参加するのであれば
「違う違う、場所を私物化しちゃいかん、ここは私の一人舞台のステージでは無くて公共的な場所である」と頭に叩き込んでください。
デパートの食品売り場で
「ロメオあなたはロメオなの」と号泣している。
と考えればおかしいよこれって自分でも気が付く筈です。

誰しも公共なり不特定多数の衆人の前では「緊張する」のは自然現象です。
言い換えれば少々テンションがあがるというか、緊張にとるストレス限界が高まるというか、
場合によっては脳内でそれを興奮と認知する場合もあるでしょうけれど、
そこも割り引かないと、
たとえを変えて考えてみればわかります。
繰り返します、本音の自己責任担保であるとか、歴史的共同幻想適応合理性が担保されていない(言うなら強迫的偽装)”帳尻あわせのようなステレオタイプ自我”は、バンド(集団)内において、素っ裸同然の脆弱差を併せ持つんですってば、
(太宰の「人間失格」における→「わざとわざとー」と見透かされる不安のような)

素っ裸状態で緊張感の上昇しない人はいません。
これは準備不足で衆目のあるバンドに入ってしまった個人の自我がおかれた状態と似たようなもんです。
そんなド緊張な要素は個別に切り分けて、「まーね俺はド緊張しているワケだが」と事実関係を認定しておくんです。
(さっきのたとえで言えば「○○の事情で俺は今全裸なワケだが」みたいに)
その状況下で派生した内容をあたかも既成事実のように追認してしまうのは大問題なんです。

ド緊張な背景も込みで状況が誇張認定されてしまいます。
「素っ裸で僕は演説したのであった」
そりゃえらいことになりますよね?
しかし自分が素っ裸であったことを認定できずに、”私はいつもそうなる”と認定してしまうと、
(自我大騒ぎの半分は素っ裸である状況設定なのに)
「私は衆目の前で演説することに耐えられないんです(号泣」
 ↑
全体像の認識(や背景事情)が違うことになると同時に自己愛的耽美性というか「全然違う話になってますよね」


>実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
>このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
>どんどん気分が落ちてます

強迫デ・コードしましょうか?
「自意識は(性器のようなもので)抑圧されているぐらいで丁度いいのだ、それが私の道徳であり、本音私は修道女になりたいのかもしれない。こんな”私が修道女”考えれば考えるほど耽美的な。。。」
これであなたに性倒錯かかっているなら、自慰行為始めている頃ですよ。
そういう概念のベクトルに乗っかった意識だと、自分で見破ってください。
「オイオイ何考えてんだ俺、ちょっと恥ずかしいぞ」と、


言うなら自己の回復は年オーダーで考えなくちゃいけません。
今の立ち居地から言えば、「大学卒業するぐらいで本領発揮するか(その間はこの企みをバレ無いように意識的偽装をしても、本音を抑圧するような馬鹿な真似はもう一切やめる)」。
「思うに私は自己を回復後友人であったり(場合によっては家族の)過半の人間関係を失うかもしれないが、だからどうだっていうのか、そこから私のリアルな人生は始まるのだ」ぐらいの勢いというかテンションを保っておく。

(なので当面の受験勉強などクソの役にも立たないのです。役作りも結構ですが警官役だからといってマジな警察官の資格をとったからといってグラミー賞が貰えるなんて、映画はそんな半端なものじゃありません。)

マジな話私は(本音で)自分の学ぶべき科目なんてものを大学卒業年次ぐらいに初めてわかるのかもしれない。
な状態なのですから、


>また、自分は、在るのに無い気がして
>その矛盾した気分が何とも辛く

厳密に言えば内容違うんですが、
カタルシス効果の期待があるので黒澤明監督『生きる』を借りて観て下さい。
(レンタル屋回れば簡単に見つかるでしょうし、DVDもたいして高くないと思いますから購入するのもアリでしょう)
※後から映画論評的な話はご勘弁を、私も同映画の内容は記憶の彼方ですから。

■とにかく今は『自意識の筋トレ』じゃないですが、
考えること。
急がないこと(戦術的である以上に戦略的であること)です。

大概のことは「保留中」なり適当に先送りにして構いません。
「それどろじゃないだろう俺(ここは徹底・考えるところだ)」
という認知を最優先すべきです、

引用なし

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【26】Re:おおかた読み込めてますよ。  yuttie  - 2010/06/27 16:01 -

御返信ありがとうございますm(__)m

一応今回も、軽くですがまとめました

「自分」とは何か
まず、「自我とは流動性のある経済のようなもの」だから、
そこに「自分」を求めるのは逆説的
それでは、「自分」とは何かというと
それは、「賭ける」こと
というのは、賭けることは「自己責任」であるので
それは「著作権」(自分のみに与えられる固有の権利(責任))であるから
そこに「当事者の実存とその証明」(「自分」)がある

だから、「著作物」=「賭け」の結果、は重要でない

しかし私の場合は「著作物」に重点を置いた行動をしてしまう…
(結果「自分」が抑圧され、よくわからなくなっている)

そんなつもりは無いのになぜ?
それは、「幼児期から「自分」は既に存在しておらず、「子役偽装のうまい誰か」が似て非なる家族社会に適応しているだけだった」10年前の状況を、今なお赤の他人(社会)相手に繰り返しているから

以上のことをよく考えて行動すれば答えは見つかるはず

ということだろうと読んだので、
そうと分かったら、早速実行だ!と思ったのですが、
なんだか最近精神的な元気がなくって…

例えば、
学校の友達先生や家族に(悪い人たちではないのに、むしろ本当に良くしてくれるのに、)最近関わるのが凄く億劫で…

また、自分は、在るのに無い気がして
その矛盾した気分が何とも辛く
実は在るべき存在じゃないんじゃないか、私自体最初から無ければおかしい事はないのに、
このままこの世から消えられたらホント楽なのになぁ、なんて考えが浮いては消え…
どんどん気分が落ちてます

カラクリはとっくにkagewari先生から教わったのに、
一朝一夕で人の思考回路?は変わるものではないのですね…苦笑

特に午前中に気分が落ちて、ここ一週間は外出する気にもなれず
朝は遅く起きて、ただ、起きても体に力が入らず正午を過ぎるまで部屋の隅でボーっとしてました
ふんばって、午後から学校へ行くのですが、
友達から「おはよう、どうしたの?」なんて声かけられても
(えぇと、私ってどうやってこの人と接してたんだっけ?)なんて、
なんとかそれらしく振舞おうとするのですが、やはり変な顔が返ってきます
―いやいや、そんなの何でもいいんだよ
と返ってきそうですが、それが、反射みたいな、絶対脊髄で折り返しているだろくらいの感覚で、瞬時にそういう思考、態度をとってしまうんです…やはりそれ以外の仕様がイメージできないので…

また授業では先生の話し方がいつもの1,5倍くらい速く感じます
板書や教科書の文も何度も読み返さないと理解できなくなって、先日、
「ちょっとyuttieさん?今ココよ?」なんて注意ですらない指摘を受けて、少し動揺した瞬間、
急に大粒の涙が溢れて、動揺が収まって平常心がもどっても結局授業が終わるまで止まらなくなってしまいました

もうこの十何年間の間で何度も経験してる感覚なのでもう慣れたものですが、
「あーぁ、またこの感じか…」という感じです

思うに、つまり、今きっと「抵抗勢力」に思い切り飲み込まれてるのですよね
kagewari先生の分析を読んだ実り、今の状況を、あぁ確かにガキみたいだなって思います苦笑

そこまで分かっていて、今なぜ何も出来ないのだろう
そう考えると、よくないと分かっているのに焦ってしまいます

そうする精神的余裕や自信がないんです
それが幼児概念の結果からそうなってしまっているのだから、本末転倒ですね苦笑

また、気を抜くと色々考えちゃって…

もう記憶が無い様な頃から私は既に「私」では無く「子役偽装のうまい誰か」なら、「私」って何なのでしょうか…
その、うまく言えないのですが強く抑圧されてずっと奥まで追いやられてしまったであろう「私の本音」は、私自身でさえ、今いくら探しても考えても、糸口すら見つからないのです…
そこで無理に「賭け」=「名乗り」によって「私」を見なす、見出すとしたら、
もはや「私」とは「子役偽造のうまい誰か」のことを、今までも、そしてこれからも指すのではないか、と結論する他ない気がして

ところで、
私は親に特別意地悪をされたわけでもなく、家庭環境が悪かったわけでもないのですが、
それでも、こんなことは有得るのでしょうか
「親の顔色を伺ってビクビクしている」子供…なんて、私には過去そんなに苦労した実感はなかったので…苦笑

ごめんなさい、何のまとまりも無く汚くて、こんなの掲示板に掲載するような文ではないのですが、
これ以上頭が回らなくって…大分失礼かと思いますが、このまま投稿します

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【25】おおかた読み込めてますよ。  kagewariこの掲示板の管理人です  - 2010/06/23 20:15 -

ちょっこっと注意するとするならば、レスが早すぎって事です。
精神分析は少々難解なぐらいがいいんです、
というかここは有料メールじゃないので、具体的事実関係を聞く事ができないので「両親の○○との関係に云々」などのように(或いはあ「両親の誰々には明快な強迫傾向がありそれを結果としてあなたに押し付けているかっこうの・・」など)、具体的に説明できないのです。
 ↓
しかし説明できない分、聞く方の精神的負担も公開掲示板であれば軽いので→軽い分「自分で考える余地が大きい」→難解で正解なんですよ。

ですから、嫌ってほどその解釈を考えていんです。
ある意味自省的に考えるテーマというか、考える方向性を提供するのが精神分析ですから。
(いわば思考の道案内みたいなものですので、精神分析=答えじゃ無いのです)
※言い換えると、公開掲示板の設立意匠は「過去ログ倉庫」であって、他の相談事例が閲覧できるところにあります。メンタルな問題は非常に類似するパターンが多く見られ(そりゃ同じ人間の考えることですから)、過去ログの閲覧は非常に効果的ですので(今回の返信で難解に感じた部分を読み解く鍵もあるでしょう)、是非読んでみてください。


■さて、個別の部分にコメント付けますが、

内面の私云々の理解に苦しんでいるようなので(更に難解になるかもしれませんが:前述のとおりそれでいいのです)、
ココ補足しましょう。

どれが本人なのか?
ここはいっちゃうと哲学論争になるので、もちょっとわかりやすく説明すると。
サッカーでも野球でもまー何でもいいですよ、
野球で言えば本来2番バッターであっても、ホームラン打つこともありますし(ゲーム内容によってはホームランを狙わないといけないケースもある)、サインが出ていないのに自分の判断で送りバントする事もあるでしょう、そこに”本来の選手”のような概念はありません。
しかし「ランナー一塁で強引に引っ張ってショートゴロゲッツー」これはおかしいんだと。
(※2番適正も現実との関係による相対的なものだったり、自らプレースタイルを選ぶもので、”なんとなく適応”するものでは無い)

サッカーでいえば本来センターバックのポジションで、高さをいかしたディフェンスが本業であっても相手チームの前線のプレスが強く結果として中盤にスペースが開けば、ディフェンスラインでパス回しするのはむしろリスクであって、センターバックがそのまま中盤まで持ち込む事はアリアリです。
当然セットプレーではフォワード以上にゴールゲッターであらねばならない場合もある。
しかし「相手チームが引いていて、自チームのサイドバックも上がり目なのに自分も攻撃参加する」これは違うんだと。
(※身長などの相対的現実や、自らポジションを選ぶなどって世界はあっても”なんとなく適応”するポジションは無い)

どれが自分でしょうかってね、
表現されて始めて自分です。
(何も自意識が関与しないのであれば、そこにいるのは唯々諾々と流れに合わせる群像が実存するだけでそこには個人の実存は無い)
少なくとも偏向や視野狭窄や倒錯や強迫などの関連で「意識していようが無意識だろうが”それは違う”」ってのが自分じゃ無いのだけは間違いない。
又社会心理として(共同幻想)社会適応している様子は政治的な社会システム上の論議で、これに参加する個人は(それが自分自身であるなどのフェーズと関係なく:それを交換するから報酬がある)どこが本来の自分であるとかさっぱり関係無い部分の話なワケです。
※共同幻想部分を極論すれば「食えればいい」のであって、社会的地位であるとかスキルってのが重要なのは国家の側なんですよ(システム設計として)、端的に言えば個人にとって(学歴もそうですが)自分の社会的属性が何であるかには全く意味は無いのです。

同時にご存知のとおりで現代社会の日本の場合、社会的にも個性化が(共同幻想の変革としても)求められているのであって、
明快な選択意思の無い社会適応それ自体が現代社会では”ネガティブ”です。


心理学的説明に及べば
「葛藤」「超自我と自意識」「無意識領域と反動形成」「強迫と抑圧」等々様々な現象がありますが、その時当事者の自我がどういう感情情報を獲得するにしろ『自我は前述のとおり流動性のある経済のようなもの』であって、
確かに完全雇用やパレート最適は好ましいが、
「どんな経済が本当?」のような論議はナンセンスなんですよ。
(設問がパラドックスになっているのわかりますよね?)
●「インフレやデフレがあるのが経済なんです」
で、論議として過剰なインフレや恒常的なデフレは”問題である”と、
少なくともこれを金融当局なり政治が放置すれば「それは正常ではない」みたいな。
解決の手法として、「何が硬直化して・・・・」
 ↑
なんとなく意味がわかりますよね?

自己愛的というか、占いでいい気分になるように「本当の私って」みたいな耽美性というのは、
それ自体がパラドックスでありレトリックなんですよ。

なんでしょうね”それ”は現実世界の中で”自らの実存を賭け”ガリガリと勝ち取るような実存のそれなんです。
(心理学的に言えば本音の継続というか、本音を担保するような意思決定や選択の過程が重要なので、結果(どんな人)は関係無い。それは各人の自由(プライバシー)領域で心理学は”人はこうあるべき”のような志向性をなんら持ちませんから。どんな人になりたいのか(あるいはどんな人なんだろうか)と聞かれれば「勝手に選べばよい」が心理学的答えです)


などなど説明しつつですね
>概念というか、今思い返してみれば、私は小さい頃から自分」を表現しようとする自分を徹底的に押さえ込んでしまうクセがあったように思います
>また、今も大分改善はされましたが、まだ頻繁に悩まされています
 ↑
今回の相談事例は『これが全て』ですよ。
やはり、本音を抑圧する仕組みがあるってことです。
経済にたとえれば、
「円安になったので、外需が伸びる筈なのに(その圧力はあるのに)、不思議と輸出を抑え込まれてちっとも外需依存GNPの数値が上昇しない」
経済障壁なり、硬直化の問題(抵抗勢力でああるとか)がありますねと、
こういう事です。
(※経済ですから上記ととえは逆さまでもよいの「円高になったので・・・」)
現実部分が「円高」で、これにどう「経済実態(本人)」が対応していくのかって話です。
(適応すべきは社会ではなく現実:共同幻想適応的表現に言い換えればと”適応すべき順番として社会より現実は上位概念である”)

言うなら自分等というものは自分で好き勝手に選ぶものです
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
 ↑
これじゃそこにいるのはどこのどいつなのか誰にもわからない。
(自分もクソもステレオタイプに適応している”ある一般人”がシステム論的に観察されるだけで個体として認識できる対象者がいない)

CIAの特殊工作員でも無いのに周囲を煙に巻く態度を示すので
 ↓
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました

意味も無いのに意図的な偽装工作で不審者のフリをするので(客観的第三者から見れば”あなたが意図的に曖昧な受け答えで嫌がらせをするタフネゴシーター”にしか見えない)、周囲は対処に困る(共同幻想論的にいえば破壊工作員と等価)ワケです。

話を単純化すればわかります。
>質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして

選択ってものは”賭け”ですから。
いざ12番レース出走になって、賭けってものに挑むときに
「自分の勝ち負けばかり気にしてレースそっちのけで、どの馬が勝ちますかと質問を延々繰り返す人物」
自己愛的関心で視野狭窄となっている。
(現実を取り違えている:現実は12番レースであって「私は勝つでしょうかドラマ」では無い)

>「yuttieはケーキ好き?」
これはですね
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。
(人生は賭けってそういう意味で、賭けの結果が自分であって、それは賭けに挑んだ自己責任を取るって意味であり、自己責任=著作権となりますから「○○を選ぶ自分が実存した」という結果を手に入れる事ができます。現象論としてその結果の是非はどうでもよくて、重要なのは『当事者の実存とその証明』なんですよ。その証明が著作物(自己責任で担保された賭けの結果)なんですよ。著作物の出来栄えがどうこうってのは個人のプライバシーであって”現実”や”実存”にとってはどうでもいいことなんです。←結果は個人的に重要な事=今日の晩飯がカップラーメンかステーキかって話であって→ステーキかカップラーメンの差異で自分が変わりますか?)

 ↑
とですね、本人まったくそんなつもりも無いのになんでまたこういう誤解が連鎖してしまうのでしょうか?

それが人間の自我の特徴で、
(読み解く鍵は認知される感情情報としての”快不快認知”と、生理的な意味の脳が感知する”快不快原則”が違うってところです。脳内の生理現象において快を判断する重要なフラグは(不快だろうとなんだろうと構わない→動物であれば特に定義しなくても主観的に快しか再現選択されない)『興奮』なんですよ)

ある情景を比較してみれば一発で理解できるでしょう。
>何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
>「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でもその様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
>曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました
 ↑
全く同じ現象が広く一般的に誰にでも起きる場面があります。
そんなそっくりな風景、
考えてみてください。
どんなケースでしょうか?

「恋愛的関心のある人物を相手に(お互いの意思は不明瞭な時期)、食事に誘われて問いかけられた時」
私は顔を真っ赤にして、ドギマギとわけのわからない対応しかできなかった。

■上記の心象風景とそっくりだと思いませんか?

『自己愛的関心』とはそういう意味です。
じゃーいったい、自分は何を勘違いして、何に(自己愛的)興奮していたのか?


幼児期は大人的な情愛的快不快は(潜伏期なので)、大人の性欲のようなあけすけなものはありませんが、
幼児期の性愛的満足なり快感などの対象者は誰ですか?
(説明しなくてもわかりますね)

「親の顔色ばかり気にしてビクビクしている自分」
(時制から言えば10年ほど昔で既に脳内フォルダ内でも”過去”に格納処理されている筈の”幼児の自分”が、バリバリ現役なまま自意識より上位者のような振る舞いをしている。SF小説のように幼児の自分が脳内の小人みたいに存在するワケじゃありませんから、そういう概念が自我ロジカルに今でも関係性を残している:フラグによって反応するモジュールとして現役であるってことです=哲学的に言えば”ドグマ”)

突っ込んだ話になれば(公開掲示板上では限界あるので具体的には言えませんが)「母親主犯論」なり「父親主犯論」なり「嫁(母)姑共同謀議」なりまー様々な背景の中、
 ↓
『幼児期からそこに”私”は実存しておらず、そこにいるのは”子役偽装のうまい誰か”が似非的家族社会適応しているだけだった』
歴史的にはそういう事です。

そして
 ↓
>勉強が今ほど必死になるほど人生に重要なものではないこともなんとなく分かりますし
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います

やってる事は今も同じだと。
(「違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います」っても、何が言いたいのかさっぱり内容無い言葉ですよね:そこには誰もいない(賭けの姿や過程が見えない))
言うならば一般社会相手に子役(どうやっても幼児特有のデフォルメ(幼児性主人公気取り的偏向)が関与する)をやろうとしているんですよ。
(赤の他人を勝手に家人にみたてて、よき子役であるべきように自己愛的に興奮しているような状態)
 ↑
気がついてみれば、まったくもってそんなつもりも無いのであって、
そうなってしまっているとしたら「どえらい誤解しているぞ俺」と気がつきますよね。
「こりゃおかしい、ナイナイナイ、ナイってば」と、

※話がややこやしくなるので「そんなこといっても一般社会の学生は、それほど考えることなく受験勉強もしているしそんなことを・・・」云々の反論はNGです。ってか禁止(それはじめるととんでもないルール違反の話になりますから)、そんな事言い出して得するのは強迫的構造だけで、論議としてド・ナンセンス中のナンセンスになります。
(自分の中でもそういう小賢しい反論ある時には厳罰処すぐらいの勢いで、鼻っ柱へし折ってください)


■実は答えってのは簡単なものである。
 ↓
『コイントスしますから、表ですか?裏ですか?』
同じことなんですよ。

『ぼんやり(半分意識は休止状態で)帰宅コースを歩く』のと、
『気ままな散歩』には何の違いがあるのか?
後者には(右か左か・南か北か・喫茶か蕎麦かなどなど)「やまほど賭けの要素を織り込める」んです。
実存感が高いから幸福の実感もある。
(ある意味単独者はこの賭けの機会を自由自在に発生可能である)

なかなか意図的に「コイントス」を発生させられない共同幻想適応タイプの人が何故「買い物好きなのか」、
考えなくてもわかりますよね。
(この辺深く考えると鬱症状としての万引き依存や買物依存の発生理由もわかる筈です。:自己愛的賭け→無意識なその答えが万引きや買物依存である)


「馬鹿いってんじゃねーよ、ビビってなんかネーよ。裏だ!裏、決めた。裏で勝負」
こういう過程(或いはルート)を意識決定の流れの中にバシッと走らせるって事です。
現状だと意欲的に(少々ワザとらしくても)”賭け”とか”配球読み”とか、
「確信犯的な自分の犯行手口」みたいなものを考えてみてください。
その犯行手口が自分の”二の名”あるいは”クリスチャンネーム”みたいなものになります。
 ↓
「金庫破りの松」
「スリのハチベイです」
「壺振りのお竜と申します」
「ハッカーのkwskっていいます」
「パンクのjayです」

名乗って初めて誰なんかわりますよね?
(その”誰なんだ”が自分)

これを叙情的というか哲学的に考える手もある
「木枯らし門次郎と申します」
「風天の寅と申します」
 ↓
>受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います
 ↑
わかりますよね、これじゃ目も当てられない。。
(wikiで「諱(いみな)」って調べて読んでみてください:「字(あざな)」ってのは自分で勝手に名乗るものなんですよ→そっちこそ現世利益的世界の自分である:現代社会で言えば主語がHNの時の自分こそ自分である)


大人になるってのはそういう事です。
そこに突っ込んで言えば答えは見つかる筈です。
(そん時邪魔する奴がいれば、そいつが”抵抗勢力”である。当面”敵”だと認定して戦略なり戦術なり狡賢く立ち回りサバイバルする事に集中してください。取り込まれて放心状態なままなら強迫意識は温存されるだけです。)

引用なし

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先日投稿した時に前回の投稿が一ヶ月前だったのを見て
お返事がくるのに少し時間が掛かることを覚悟していたのですが
すぐ翌日に、こんな投稿にとても丁寧な解説をくださって、
ありがとうございます、とても嬉しいです

何時間かかけて読み返したのですが、
先生のお話は私には少し難しく
私が誤解がをした上でこれに返信して、話がかみ合わなかったらいけないと思たので
私なりの解釈を下にまとめます

つまり、
私(今の私も自傷時代の私も)は幼年期の認識から現実アップデート(現世利益的自分の形成)をすべく既成の幼年期からの自分と現実認知を始めた自分との反抗期(⊂葛藤?)にあるけれど、(表面的な自分と内面的な自分とは、どっちがどうなのでしょうか?それともどっちもどっちでもないのでしょうか?すみません、わかりませんでした)
この時、現実の自分≧既成の自分のバランスをとらなければならないところ、
私は「現実の自分」を表現する上で心理的な障害があったために(つまり、現実の自分=大人イメージ、を表現しようと思ったが、自分の内面(≠内面の自分)にそれを強く押さえ込む概念・理由=例えば親の過干渉や現実的な不安など、があったために)「退行化現象」(錘ゥ傷自殺衝動的言動)(=緊急時の反動)を起こしてしまった
ただし心療内科に通ったことで大人化(=現実アップデート)の急激な身体上の変化がなだらかに抑えられたので表面的にこれ(=退行化現象)はおさまった、(=反抗期のきっかけは先送りになった)
しかし、今私は根本的には自傷時代と同様大人になる欲求を表現する思考がスムーズにいっていないのでストレス、忌避感情をもっている
私はその状況(=強度な自己愛的欲求不満状況)で過剰な武装をしないとハードル(大人化しようとすることを妨げる概念理由)を乗り越えるのに不安である(=反動?)
しかし私はその武装によってその姿が本当の自分であるかどうかを疑問に感じている

ということでしょうか
すみません、いくら読んでも私の頭で理解できない部分もありました

去年の自分は何か常軌を逸した病気なのだったのだろうかと心配していたのですが、
先生の解説を読むに、どうやらただの思春期の症状であるみたいなようなので、安心しました

>「自由な自分というか、自分の大人イメージを表現しようと思ったが、自分の内面にそれをハードに抑え込む概念がある」

概念というか、今思い返してみれば、私は小さい頃から自分」を表現しようとする自分を徹底的に押さえ込んでしまうクセがあったように思います
また、今も大分改善はされましたが、まだ頻繁に悩まされています

何したい?や何食べたい?どこ行きたい?という問いかけには全てお決まりのように何でもいい、と答え、
他に例えば
「yuttieはケーキ好き?」なんて他愛の無い会話でも
その様な質問が投げかけられた瞬間、自分はケーキが大好物のような気がすると同時にケーキが自分の大嫌いな食べ物であるような気もして
曖昧な返事しかできず、それを聞いた話し相手の困惑と苛立ちの表情を見て物凄く惨めな気持ちになったりしていました
去年も心療内科の先生に自分の悩みを打ち明けようとしましたが、いざ先生の前に座ると自分は何も悩んでないような気がして、何で自分はここに来てしまったんだろうなんて(それは心療内科を決して信頼していないからではないはずです、両親の前でも担任の前でも散々お世話になった部活動の仲間や顧問の先生の前でも同じようになってしまいましたので)
怒っていても何が自分を怒らせているのかわからないし、
悲しくても何が自分を悲しませているのかがわからない、といった感じで、

もしかしたら、今そこが私の邪魔をしているのではないかなと思い、書きました

>■極端なぐらい過剰な武装しないと不安である。 〜

私の直感的な感覚から、今受験に備えている私は、
行き場の無い欲求不満を仕方が無いからとりあえず無理やり勉強に昇華させている、感じです
ただそれだけで、

勉強が今ほど必死になるほど人生に重要なものではないこともなんとなく分かりますし

受験勉強に関しては、違和感や矛盾はあまり感じないかなと思います


…難しいですね、でも先生のお陰でだいぶ自分に明るくなった気がします、
ありがとうございます

引用なし

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