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Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



210 返信 ちょっと「気になる」事です kage 2003/06/26 09:26
 昨日俺は、電車の吊るし広告(雑誌です)の見出しにある発見をしました。
 これまで「だから無いって、、」と独り勝手に悔しがっていた、
 あの「やりたい事」が、なんと
 「好きな事を、、、」という表現に様変わりしているじゃないですか。

 これまで定番だったあの言葉「やりたい事」に変化の兆しあり。
 独り揺れる電車のシートで感慨深く、思いに浸っていたのが俺独りであった
事は、言うまでもありません、、、
211 返信 えっ?えっ?! すずらん 2003/06/27 12:10
それって「様変わり」になってしまうんですか?
パソコンの前で感慨深く・・・(笑)。
212 返信 テキストに書こうかと kage 2003/06/28 09:37
 思ったぐらいです。
 「好きな人」とか「好き」表現がヤバ目には違いないんですが、
 「好きな事」「好きにする」「勝手にする」の流れの「好き」も
あるわけで、厳密にいうとこの「好き」は違うんです。

 「私が好きな○○な人」
 「好きな事を好きにやる」
 
 上手く言えないので、はいよく考えてから改めてここに書き込みましょう
213 返信 自分なりの すずらん 2003/06/28 18:11
思い込み・・・ってところですかね?
嫌いじゃないから好き、なぜ?の
理由の問題なんでしょうか・・・。
うーん、ぐしゃぐしゃ・・・。
214 返信 好き勝手 makiko 2003/06/29 03:31
「好きなこと」ほど「好き勝手」にはできないもんなんじゃないかなぁ。
「好きなこと」ほど大事にしたり慎重にしたりするんじゃないかなぁ。
だって「好きなこと」は守りたいから周りとの折衝とか色々考えて大事にするだろうし、押し切ってやるときもよくよく考えた上だろうし。
周りからはどう見えてもさ。

「好き勝手にできること」ってのは実は「どーでもいいこと」なんじゃないかなぁ。
215 返信  好き放題とか kage 2003/06/29 19:20
いわゆるひとつの「SPA!」の見出しなんですよ。

「好きなことをやる」リスク&リターンは時代と共にどう変わったか? [新/旧夢追い人]の脱サラ中間報告

という奴。どうですかこれ!え?どうですかー!
 なんか間抜けな40代特集なニュアンスなんですよ。
 だから「どーでもいいこと系」「好き」表現。バカ系「好き」でしょうか。
 やはり「やりたい事」的な「なにやら感」が薄いと思うんですがね。
おそらくね「好きなことをやる」の「やる」がついてる事が「好きなこと」
単体だと「やりたい事」的な怪しさを残しかねない要素を、払拭して、バカ系
「好き」に繋がっているのだと思います。
「勝手に出来る」に繋がる、わりと乱暴な「やる」がくっついて括弧閉じにな
ってるからかも知れません。

 え、つまり「好きなことをやる」は何処となしバカが「好き勝手な事をして
失敗」とか「バカなので好き放題」な感じがするのですよ。
 「好きなこと」だと関係代名詞のようにある特定の「誇大イメージを代弁」
する可能性を残しますが、「好きなことをやる」となると、代名詞の要素が、
後退して「バカな40代が考えそうな事だろうっ」と繋がるからですね。

 見出しの前文を載せなかったので、わかりにくかったスね。
 そういう事なのです、そこに俺は「やりたい事」は実は「バカかも的」な、
ジャーナリズムの(SPA!は朝日とかバカにしてますからね、サンケイだから)
批判と自戒を感じたんですよ。

 関係代名詞でいんだっけ?

198 返信 やっぱり すずらん 2003/06/14 02:00
好きでいてほしい。
自分は「好き」という感情以外には思えないのに、相手には
それ以上に思ってほしいと思ってしまう。
私は何にも変わってないのかな・・・。
愚痴でした。ごめんなさい。
202 返信 Re:やっぱり kage 2003/06/15 12:16
「お前だけだ」と言って欲しいのでしょう。
ひとまずその真偽は置いておいて、
大問題なのは、対象者が認めるアナタと、自分で認定している「自分」が一致
していない事です。
これでは永遠に想いはすれ違います。
見方を変えると身分詐称です。相手に「好きだ」と言わせても、自分はその
人物では無いという。
 これを自己嫌悪が起動していても確認する事ができます。
 周辺は「アナタはこんな人なのにどうして」という表現が多発する場会、当人
の「自分」の認識と、他者のアナタ感は不一致であり、その頻度が高ければ、統計
上「自分」の認識や評価を誤っているのは、自分でしょう。
 このメリットは何か?
 「自己嫌悪の継続の為には、好かれてはいけない」からです。
自分がごく自然に好かれる人物であると、都合が悪いのです。「どうせ私が悪
いと言ってるんでしょ」に始まる現実認識の前提が壊れます。
上記の前提条件は、他者を批判的に見下ろす「方便」で、自己嫌悪特有の、理論
武装ですが、目的は一つです。
目上や権威的人物と肩を並べ、平等な見地からその人物に意見を言うためです。
例えば親を道徳的に批判する場合。

 何故こんな事が必要なのか?
本来の狙いは、批判ではないのです。「子供なんだから」で甘えられた部分があ
ったにも関わらず「子供ではなく、頭一つ飛びぬけた(母親と同格に)」存在で、
愛されたいと願った時「子供だからの根拠」は崩れます。
不満は「子供として甘えていいのか?」の不安なのに、手段として選ばれたのは
子供の立場を捨てた「批判的な他人」です。
愛されるべき自分は別の人になってしまいます。
そんな回りくどい作業が必要な最初の根拠は「私は好かれていないかもしれない
不安」ですから、雨が降ろうが槍が降ろうが、断じて「好かれる可能性」を自分で
認めようとはしません。

 結果起きるのは、大事にしてくれる人物を道徳的に非難し続ける「自分」を変
えられない現実です。
 「好かれたい」は本音でしょうし、そう思う根拠は、本音の部分で「私の好か
れる可能性」を実は自分で認めている証明です。
感情的な怒りはさておき、先ず、道徳的非難の正当性を追求し吟味するべきです。
構造的にその非難の理由には、必ず「嘘(正確には無理)」が含まれているからで
す。批判のための批判なのですから。
208 返信 案の定 すずらん 2003/06/23 02:41
怖くて、相手は真剣で、逃げ出したくなってきた。
真剣に思われるのは怖い。
遊ばれているだけの方が、私には楽なのかな。
入院すればすべてが解決するとは思えない・・・。
209 返信 Re:だから言ったでしょ kage 2003/06/23 20:48
 気をつけろって、さ。
象徴化された人物以外からの好意を、拒絶してるのは本人で、
 好きになっても問題なさそうな人物が、かませ犬のように
選ばれてる。現実には存在しない人物(自分自身)に見せ付
けるためにね。怒りと落ち込みのスイッチを入れるために。
 必要としてるのは安全な好意(どちらかといえば嫌い)を
かき集める事で(ネタ集めのため)「誰かに永続的に特別に
愛される」を仮想実現してしまうんだから。
 象徴化された特別な人物を刺激し続ける、事でね。
 こっちを振り向いてネタが豊富なんだから。

 上手く行かないよ、人間は平等で、悪い奴を集めようとし
ても、その数が増えるほどいい奴が紛れ込む。
 最初から無理があるんだから。
 自分は「好意で迎えられる人物なのだ」という話を、受け
いれていかないと。

189 返信 誰にも言えないから 匿名希望 2003/06/05 02:45
ここに書きます。

バイト、無断で休んでしまった。
もう行きたくない。
もう頑張れない。

なんとかやってきたけど限界かもしれない。
眠ってそのまま目が覚めなければいいのに。

心配してくれる人がいる。
私がこんなだと、ずっとその人は心配し続ける。
いっそいなくなった方がいいのかもしれない。
190 返信 Re:誰にも言えないから kage 2003/06/05 04:00
 バイトを休んでしまった事は、今後バイトに行けない理由には小さいし
 限界なので、今後もバイトに行けない状態の初日を意味するなら、バイトを
無断で休んだ事自体はショックに繋がらない。

 「バイトを無断で休む事」が落ち込むトリガーに使われている証明です。

 心配する人のために死ぬのは、最も矛盾(心配に比較して死なれる事の方が
よほどショックだからです)した行為だし、それが不快なのだとすると、心配
される事自体が不快な筈ですが「心配して”くれる”人がいる」の文面は、少
なくとも不快を表現していません。むしろ逆にありがたいイメージでしょうか。

 言葉のつながりに、矛盾が生じています。

 そもそも「今日一日バイトを休んでしまった」事だけが事実です。それ以下
でもそれ以上でも無いでしょう。
 おそらく自己嫌悪の狙いは、最小の投資(一日無断欠勤すること)で、最大
の(死にたい)効果を得るための連想の完成でしょう。

 狙いは「バイトにいけなかった事実」を利用した「ダメな自分の拡大解釈」
です。何故そんな事をするのでしょう?
 つまり(キーは逆転ともいえる矛盾ですから)「役に立ち賞賛を浴びる自分」
以外の行動で満足を得ないように、手足を縛っているのだと思います。

 「そんな事やっても意味が無い」というイメージでしょうか。
 
191 返信 レスありがとうございました 匿名希望 2003/06/06 04:01
自己嫌悪の呪いから解放される日は来るのでしょうか。

決して「死にたい」訳ではありません。
自己嫌悪を生み出す思考を止めたいということ。
それにこの自分を生かしていくために働くというのが
無駄と言うかなんというか・・・。
神様じゃないから「生きていく値打ちのあるなし」なんて
私自身には判断できることじゃないんだけど
不安が不安で(なんか変ですね)明日という日が疎ましいのです。

未来は決して明るく希望に満ちたものなのではなく
ただ漠然とした不安に覆われた、お先真っ暗な状態に感じて。

何度も心配させてしまって気を煩わせることを考えると
心配など絶対に掛けないという保証のある状態(=いなくなる)に
なった方が、よっぽど相手にとっては楽なのではないだろうかとも
思います。
或いは心配を掛けることが、自分にとって「みっともないこと」だと
そう思ってるのかもしれません。
自分のことぐらい自分で始末できなくて、どうするんだと・・・。
今ふと、そんなようなことを私に言う、親の姿が目に浮かびました。

多分、相手が一緒にいて楽しんでいる時の自分のよりも
相手に迷惑をかけたりしてる時の自分の方をずっと深く覚えて
いるんだと思います。
「だから私なんか・・・」の材料にするために。
物心ついてからずっとそうやって生きてきたから、今さら簡単には
変えられないような気もします。

そもそも「生きる」って、そんなに頭で考えなければ
いけないことじゃないはずなのに。
動物だったら、そんな迷いがあったら食われてますね。

なんて言うか、もっと必死に生きたい。
銀行の残高が0になっても、そこで生命が絶たれるような
そんな危機感もないし。
今日食べるものを手に入れられないと。明日へ命を繋ぐことが危うい、
そんな状況でならなりふり構わず、もっと必死に生きていけるような
気がします。

取り留めのない文章でごめんなさい。

194 返信  不安と罠 kage 2003/06/07 10:47
 天変地異、素手では決して敵わない野獣、飢え。
この不安は文明に取り込まれない限り、常態「人の不安」として君臨して
きました。その対象はお祭り、祈祷、宗教です。この対象性で人は不安を、
無力化しています。現代の漠とした不安は、後者の神秘性の破壊によるもの
で、その分顕在化した不安は、文明と破壊と経済に取って代わったのです。
一見矛盾しますが、現代社会の「希望」とは「不安の解決イメージ」であ
って、自作自演の三文芝居に似ています。

原始社会の「希望」って何でしょう?おそらく「安定」を意図する部族の
繁栄(成長ではありません)だったのでは無いでしょうか。
極端にいうなら「希望」とは「明日太陽が昇ること」だったのです。
ネイティブアメリカンの神話には、神の怒りで「太陽が昇らない」という
世界の終わりの話があります。
つまり「明日太陽が昇ることすら彼等には不安だった」のです。
文明化で、不安が少なすぎて「安心の喜び」は後退し、不安は矮小なもの
に代わったにも関わらず、不安は人を苦しめている。

 これはいったい何でしょう。
「希望の幻滅」そして「根拠の無い成功の脅迫」
神の幻滅が親であるように
希望の幻滅は、小規模の成功の継続を義務付けた(脅迫)。
民族(人類と認識されたでしょう)絶滅の不安が、個人の存在意義の不安に取って代わる。
困った事に、巷で通用する「マトモ」への幻滅は「事実」であり、転じて明日の
生活への無力感からの脱却を妨げてしまいます。

 話を「希望」に戻しましょう。
「希望」は「不安の解消する可能性」ですから、「希望」の材料は「不安」です。
「希望」の発生を妨げるのは、自身の「不安」の過小評価なのです。
自己嫌悪とは、自らの不安さえ矮小化するのです。
つまり、「個としての自分の命」の過小評価でしょう。
自らの命の儚さを知る時「不安」は「希望」を創造するのです。

 それを回復する鍵は、他者の命への想いではないでしょうか。自己嫌悪と引き換
えに手に入れた(自らの命の過小評価=死の恐怖が縮小するので)「万能感」は、
他者には感じられないからです。
相対として感じられる他者への「弱者(無能)のイメージ」を、「軽蔑」から
「慈愛」に変える時、「希望」は産まれるのかも知れません。
195 返信 希望が「安定」を意味するなら 匿名希望 2003/06/11 12:05
確かに今の不安が説明できるかもしれないです。

これが自分の仕事だと思えるような働き場所もなく
愛する人と結婚するわけでもなく・・・。
そういった、一見「自由」とも思えるような暮らし方が
きっと自分には「不安定」に感じるのかもしれません。

もともとの原因は「家庭の安定」だったのかもしれません。
「安定して家族に愛されていたい」。
あるいは「安定した平和な家庭であって欲しい」。

今日の「幸せ」が明日も続くという保証がどこにもないことを
身をもって知っているから、それを思うと憂鬱になります。
そしてその「幸せ」は、共同幻想に縛られたものなんだろうと。
誰かを何かの役割に当てはめて、その中で感じられる幸せなんて
きっとちっぽけで下らないと思ってる。
「木を見て森を見ず」のように、そこにいる相手の姿が
押し付けた役割の中にしか見えなくなってしまうから。
そしてそのことが愛する人を傷つけた。

自由が怖い。
自分の自由も、愛する人の自由も。

まだ「独り」にはなれないような気がします。
戻れる場所、帰れる家を望んでる、そんな気がします。

196 返信 Re:明日続く保障のある「幸せ」 kage 2003/06/12 00:49
は、ありません。「幸せ」とは儚いもので、子供の時の日曜日の夕方のような
ものです。
 望んでいるのは「幸せ」では無い証拠でしょう。
 「幸せ」だと実感するとマズいんです、ですから慌てて「これは続かないのだ」
と否定しようとやっきになります、理由には事欠かないでしょう、元来「幸せ」
は儚いのですから。

 何故「不安定な家庭の再現」を望んでいるのでしょう。おそらくそれが自分を
対象者に表現する条件として、必要だからです。
 対象者は問題のある人物が望ましく(次々とその問題も思いつきます)、環境
は経済も含めて不安定であることが望まれます。そこで初めて自分を表現できる
のでしょう。抗議の意思として、落ち込み不快になる事です。

 おそらく数々の疑問や抗議の言葉が、その時代にあったのでしょう。それは恥
意識や実質的恐怖心で抑圧され、自己嫌悪の構造を迂回して表現されることにな
りました。
 自分の意思を表現できない状態を「我慢」と言います。ストレスです。
 自分の意思を表現する事が第一義的な「快」である場合、その環境自体を同時
に再現し、そこで自分の意思を自己嫌悪を経て表現しなければなりません。
 しかし、意思表明する相手は別の人物であり、かつ、当時の対人認識は子供特
有の「親の過大評価」によっていますから、現実の両親ですら対象者ではありま
せん。
 終わりの無い鬱の循環構造です。
 他者に向けられる過大な悪感情は「親の過大評価」とパラレルの関係であり、
事実関係から大きく離れます。
 無理のある特定のキャラクターでないと困るんです。
 ですから、該当者の自由時間は脅威となります。

 言い換えるなら、現実や事実が妄想にとって脅威だからです。物語が破綻して
しまいます、自分の意思を表現できる手段を、嫌悪に寄らない言葉で獲得した時
必要とされる環境への想いも消滅すると、考えていいのではないでしょうか。
197 返信 幸せは安定しないものかもしれませんが 匿名希望 2003/06/13 04:43
また、そんな日曜日の夕方を迎えられるという安心感があれば
幸せは「安定している」と言えると思います。
きっと問題は「こんなことは二度とないのだ」という
悲観的な感情を伴うことなのではないでしょうか?

そのホンワカした日曜日の夕方が、何か理由があって
作為的に生じたものだと、疑念を抱いているのです。

「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」ですか・・・。
分かるような気がします。
そしてそういった相手を前にすると、とてもリラックスできることも
経験で知っています。
どんなつまらないことでも、素直に言葉にできる自由はとても
気持ちのいいものです。
あるがままの自分を受け入れられているという安心感があって。

とても迷っています。
自分はそういう人と生きていくのがいいのではないのかと。

少し問題が現実的になってきたような気がしてます。
趣味や行動パターンの好き嫌いや、時間のすれ違い。
そのことを「こうしたい」と言えないことが、より遠ざかることへ
繋がっているのとは思うのですが・・・。
199 返信 「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」 kage 2003/06/14 03:33
 それは、感情のままではありません。
 感情は嫌悪意識(無意識の)を満足させるものを多く含みます。
 小規模の嫌悪意識への満足は、全体の構造を温存させるための利回りのような
もので、その表現は自らをその構造に縛り付けます。
 つまり「優しくしよう」や「のんびりしよう」としたら、その行動は首尾一貫
していなければならず、不安からくる逆転(嫌悪は基本的に行動を逆転または、
反転させます)がおきると、初心を満足させる事は不可能になるからで、言行
一致を意図してはいないのですが「その気持ちはわかる」のような間接的証明
ではなく、自分自身で「行動は初心に倣ったものだった」との認識を自分で掴ん
で初めて「嫌悪に寄らない自分の意思の表現」は完遂されたのです。
 不思議な話ですが、このときその行動が相手に「どう評価されたのか」は、
全く意味を持ちません。つまり「不安」による自分の行動への疑念が構造的に
起こり得ないからです。

 繰り返しますが「どう思われるのか」では無く、自分は「自分をどう評価する
か」によって行動をつかさどった時、嫌悪は入り込むスキを失うのです。
201 返信 決して感情のままではないつもりですが 匿名希望 2003/06/15 07:57
やはりそうじゃないんでしょうか・・・。

何も変わっていないんですね、きっと。
いつまでたっても、過去を引き摺って生きている。
もう、理屈なんてどうでもいいから逃げ出してしまいたい。

ごめんなさい。
kageさんの答えは私には難しすぎてよくわかんないです。
203 返信  感情論 kage 2003/06/15 12:53
 感情は食事を例にとると、先ず味覚が感知します「甘い、苦い等」次に経験
記憶と照合が行われ、より大まかな分類「美味い、まずい、その他、、」に、
分類され、一般的にはここで感情と呼ばれる認識に至ります「・・・!」です。
 さて行動の選択はその次です。「・・・!」を伝えないとストレスになりま
す、それは情報の共有なしに対人関係の安定は無いからです。
 それが意見の一致をみなくても、現在の刺激に応じて次の行動に移る情報を
決定付ける補完的情報収集が会話だからです。
 おわかりでしょうか?
 独りで食事している時、この補完的情報収集は必要ありません。
 何をしているのか、と言えば、軽い証明による事実認定のすり合わせです。
 逆に言うと「まずい」と思ったものが、覆される可能性があります。
 ベタな話で恐縮ですが「まずい」と思ったものが、フォアグラである時、
少々レストランで食事をしている友人は「これが美味しいんだよ」と言うでし
ょう。
 つまり、二つの事が言えます。
 1、自分ひとりの会食は補完的な情報収集の必要が無い。
 2、複数の人物との関係の時には、感情が情報に覆される可能性を、受け容
  れなければならない。

 何が言いたいのかと言えば、1の時には言葉になりません。つまり表現の
必要が無いからです。これは「認識」です。
 「嫌悪に寄らない感情の表現」がテーマですから「表現」しなければならな
いので、1のケースは無意味です。
 つまり、感情情報は、会話によってその機能的意味合いが覆される可能性を
担保できなければ(さかさまになってもいい、という受容性です)、それは、
補完的論証の無い感情の伝達ではあっても、情報の共有(会話)ではありませ
ん。交渉の余地の無い事実認定を「感情論」というのは、この現象の事です。

 感情を伝えるのに「美味いのか、まずいのか」は意味を持たないんです。
 何故なら「私が感じたまずいは、美味いなの、へーそうなんだ」だからです
最初に感じた「まずい」が否定されていないんです。

 もし言葉の機能的意味合い自体に意味があったら?
 「こういう状態の、こんな雰囲気は必ずこうに決まっている」だとしたら?

 それは感情の表現では無いのです。
 表現されたのは、感情では無く、状況設定の構造です。
 こういうこんなものは「ますいに決まっている」時、最初に感じた感情は、
否定はされていないかも知れませんが、それ以上に全く表現されていないの
です。つまり感情表現より以上に「状況の固定的言い切り」を自分に言い聞か
せる事が優先されているのでしょう。
 事実から、離れ、感情は表現されない。恒常的ストレスと引き換えに、嫌悪
意識は満足します。嫌悪意識の狙いは有無を言わさない「認定」なのですから。
 「自分が悪いのだから・・・・、・・・に決まっている」です。

 機能的意味合いが覆される可能性の『幅』は文化です。大事な事は「どこまで
覆されても平気なのか?」ではありません。「交渉の余地はあるか?」なのです。

 このとき「何を言ってもいい自由」を獲得します。
 ある意味「全く間違えていても全然OK」だからです。
 自分を自分で評価する、というのは「美味しい、まずい」に妙に拘っていない
か?って事です。
204 返信 Re: 感情論 匿名希望 2003/06/15 14:59
分かりやすい解説、ありがとうございます。
思うことを書きますね。

たまたま人から聞こえる「〜に決まってる」って言葉が、
最近とても耳につくようになりました。
でも、そんな言葉を言ってる人の表情には
嫌悪意識ではなく、自分の「常識」が誇らしげであるような
そんな表情が見て取れます。
きっと大方の人は、そんな家族の文化を嫌悪意識なく受け入れて、
自分の文化としているのでしょうか。

最初は歪んだ常識を守るための「〜に決まってる」ですが
会話の中で修正されることもあります。
なぜなら、相手がそれを納得しない場合(嫌悪意識の場合は特に)
躍起になって正しいことを証明します。
だけど、どうしても無理があって、説明している自分自身でも
どこかおかしいと感じてくるからです。
そして時にはその「〜に決まってる」が、「やっぱり違った」という
結論に達することがあるのです。

リラックスできる相手との会話では、それがあるのです。
歪んだ常識を持ち出して、それが明らかにおかしな意見であっても
「間違っている」と否定するわけではないのです。
「どうして?」と理由を聞いてきます。
その積み重ねが、「〜に決まってる」と嫌悪意識が言わせるときの
妙な緊張感や孤独感を取り除いてくれました。

かと言って、気楽に「〜に決まってる」を言えるからリラックスできる
というわけではありません。
臨戦体制(一人家族ごっこは戦争のような気がします)が解除されて
『「〜に決まってる」攻撃』を発動しなくてもいい状態に置かれることが
リラックスできると感じていると思います。

きっと今までは、誰かを巻き添えにして家族の検証をしてきたんだと、
相手を戦場に引きずり込んでいたんだと思います。
今は戦いたくないのです。
戦いのない、平和な気持ちでいたい。
そう思うとき、とても愛する人が遠くに感じます。
でも「他人」だと感じるほど、不思議とその人の存在そのものが
とても力強く感じるのです。
そして同時に自分が孤独だと感じます。

自立するときなのかもしれません。
支えなしに、誰かを愛する人生を歩いていかないと。

こんなものが欲しかったわけじゃないのに。
思ってたことと全然違うことになってしまいました。
ただ、ずっと側にいたかった。
でもきっとそれは偽物の「家族」としてに過ぎなかったんですね。

家族の問題は死ぬまで私に付き纏うし、それが私の個性でもあるのです。
「〜に決まってる」と言い切る私は、決してなくなりはしない。
だからそれを生かせる場所で生きていくのがいいと思うのです。
言えないで飲み込んで正論を無理やり受け入れるよりも
気楽に言い放って柔軟に修正できる方法が、私には向いてるような気がします。

まるで自分自身が真っ二つに引き裂かれるように痛いのは
その支えであった相手が「他人」ではなかったせいでしょう。
でも、これを乗り越えないと、私はずっとその人を「家族」としてしか
見られないような気がします。
205 返信 kazoku論 kage 2003/06/16 00:18
 kazokuとは何でしょう。
 かぞく、家族、昔任侠は「清水の次朗長一家」のように家族を雛型に、組織
を形成しました。文化の共同体です。
 同じ文化を共有する時、共同幻想となりそこから「常識」が発生します。
 交渉可能(自分の意見を発言可能な領域)な『幅』です。

 話している結果「え?違ったかな」と思えたら『幅』の広さは既に確認済み
ですから。もっぱら問題は、その結論に至る経緯での苦痛であって、言い張る
行為は「実は自分でも疑問のある、無理なアイデア」です。
 実は言いたくないのです。
 言えないとストレスになるのは、自分の意見に対する「不安」の反動でしょ
う。「言いたいから」ではなく「〜に決まっている」を連想させてしまい、
つい先走って頭を占領させてしまうからです。

 これはいつまでも継続しません。既に『幅』の広さが確認済みだからです。
 「葛藤」が「目に見える自己矛盾」に変容した証明です。
 時間が解決するでしょう、引き裂かれるのではなく、双方に理由はあり、
その黒白は『幅』の中で修正されるのですから。
 これは経験記憶になります。
 経験記憶は自我構造の一部になり、自己嫌悪のアンチテーゼとなるでしょう。
 最初の「〜に決まっている」は少なくとも、投影されなくなり、現実の家族
にその対象は限定されるのです。

 
206 返信 楽な方に流れていきたいのです 匿名希望 2003/06/16 01:32
経験記憶を積み重ねる余裕が、今の私にはありません。
もう、既に私の中に経験し存在する「リラックス」の中で
穏やかに生きていけたらと、そう思うのです。

きっとその人は世界中の誰よりも私のことを知っている。
だけど、私はその人が「分からない」ことしか知らない。
そして「分からない」ことが、私を不安にさせるのです。
私には考えられない「常識」がその人にはあって
それに私はついて行けないのです。

何の約束もしたわけじゃない。
ましてや恋人でも夫婦でもないから、その人がどう生きようと
私には何も口を挟む権利はないのですから。
ただ、自由に生きていって欲しい。
そう心から願うだけなのです。
そして恐らく、私とその人とはこれ以上一緒にいられない運命なんでしょう。

「幅」の修正は私だけに必要なことで、その人はあるがままに生きているだけです。
そしてまるで別世界に生きているようなその人を思う時、
いくら修正したところで追いつかないような焦燥感を感じます。

振り出しに戻っただけなんだとそう思います。
「退屈でつまらない」日々はやはり正しかったんだと。
心が解けていくのに、私にはある程度のプロセスが必要なんだと思います。
「恋人ごっこ」で作られる「共同幻想」が。

愛する人とは、恋愛の対象でいたい。
あまりに客観的に自分を見られるのが、怖くなったのかもしれません。


なんだか恋愛相談みたいになってしまいましたね。
自分の中では結論は出ています。
丁寧にレスを下さったこと、感謝しています。
また何かあったら、書き込ませて頂きますね。
ありがとうございました。
207 返信 経験記憶に作為の必要は無いのです kage 2003/06/16 05:34
 一度、二度と自分の言葉の「〜に決まっている」が覆されるって事は事実
認定ですから、意識しなくても今後それは経験記憶になるんです。
 自分にそうと気が付かない作為的な嘘を付く事は不可能です。
 イメージとしては「自分に催眠術をかける事はできない」でしょうか。
 自己暗示は可能でしょうが、これは有り得ません、何故なら以前の葛藤を
セールスマンの様に再び自分に企画する事が、無意識には出来ないからです。
おそらく、それは追加的な「サブカルチャー」の形を取るでしょう、例えば
新興宗教、自己啓発セミナー、哲学の誤解読み等です。
 成功してもそれは「サブ=補完」に過ぎません。
 「〜に決まっている」が覆される前に導入されない限り、それは定着しま
せん。

 むしろ問題は「自分の中では結論は出ています。」ではないでしょうか。
 これは未だ残る「〜に決まっている」だからです。
 「苦しみから逃れられないに決まっている」に至る証拠集めのために、
(無意識に)掲示板に書き込んだ事に、結果なってしまっています。
 俯瞰から覗くなら、それは又「苦しんでいる状態=他者への批判的姿勢」
の構図(自己嫌悪)で「〜に決まっている」に支配されているままの事実
認定ですから、かなりの無理が生じます。

 つまり『既に私の中に経験し存在する「リラックス」の中で穏やかに
生きていけたら』というのは、事実ではありません。
 何故ならその利益が現在保持されていないなら、それは営業されたサブ
カルチャーの可能性が高いからです。一部の快は自己嫌悪の満足であり、
リラックスというより、自分を解放させない状態の「擬態」ではないでしょ
うか。おそらく、これは自分自身の「覆しのアイデア」を断念させるため
の説得材料として過大に評価されているのでしょう。

 「あまりに客観的に自分を見られる」をデコードしてみましょう。
 「ありのままの自分を、ごく自然に見られる」です。

 おわかりでしょうか?現在の「覆す自分」は嫌悪意識にとって敵です。
 あってはいけないのです。現在の不快には少なからず嫌悪意識の復活の
ための試みが含まれています。
 「振り出しに戻っただけ」ではなく、「振り出しに戻りたい」という、
無意識の振る舞いです。

これも自分に覆されるでしょう、経験記憶に作為の必要は無いのですから。

181 返信 おちないけど。 ハル 2003/05/22 22:43
さみしくてたまらなくなる。
でも、他人と一緒にいたくはない。ただ、誰かが自分を思っている事を実感したい。1人で何もしたくないけど、誰かに誘われていたい。
無性にお金使ってみたくなったり、むなしくなったり、いらついたり、かけひきみたいに誰かの反応うかがってみたり。

寝ても寝ても、睡眠時間は6〜8時間なのに、眠くて、あくびばかり。
眠いけど、眠りたくないし、寝てるのに朝起きたら疲れてて。
顔には変なアレルギーみたいなのできるし、病院に行ったら「ストレスと疲れをためないで」って言うけど、ためないですむならためないよ。

さみしいなあ。でも人に自分から接触しないし、やっぱりめんどくさい。
はぁ

ごめんなさい、ぐちいいたかったんです。
182 返信 Re:接触は kage 2003/05/23 02:21
どちらかというと、どうでもいいんです。
 おそらくあなたはアメリカ人では無いでしょうから、誤解がないと思いますの
で言いますが、アメリカ人の家族のスキンシップなど、ちょっとわざとらしくて
気味悪かったりしますね。家族を大事にといって「仕事より家庭」なんて幻想も
ありますが、それはスポーツ選手や実業家などエリートの話で、会社を休んで、
レイオフされたら、家族を大事にってなんだかなーです。実はアメリカ的空想で
しょう。
 アメリカ人の動機は、いかにも幸せそうな家族じゃないと神の、、からきてい
ますが、自分でもよくわからない強い指向(衝動ほどでもなくても)には、その
背景にかなーり無理のある「あたりまえ」が隠れます。

 孤独はイコール寂しいではありません。北欧なんかでは老人の独り暮らしが、
自立的な自己の尊厳を保つ環境として、本人の権利として好まれる事すらありま
すし、山小屋で暮らしたりの極端に人口密度の低いところの人が「孤独で可哀想」
と語られる事はまれです(NHKの特集でもそういうコメントを聞いた事がありませ
ん)。

 では何故寂しいのでしょう。

 沢山の人が自分を祝福する夢のようなイメージ(天国の原型かも知れませんが、
おそらく幼児期の記憶の一部でしょう。)が『あたりまえ』だと思っていたら、
どうでしょう?「それに比べて今の自分は、、、」寂しいというより、、です。
「周りに冷たくされている」とか「惨めで情けない」に近い感情と、記憶の断片
がそれは「あったのだ」と言うものですから(ノスタルジーです)それが同時に
起きると”寂しい”のでしょう。
 とにもかくにも、沢山の人がワケも無く自分を祝福する筈ありませんね。
 がっかりする根拠はかなり無理のあるアイデアです。

 しかしどうしてそれに囚われてしまうでしょうか?

 記憶にはポイントみたいなものがあります。(あの風景が妙に頭に残っている
とか、、)幼児期に近い線のどこかの記憶に「解決していない問題」が残ってい
たら、どうでしょう?
 あれ、ですよ、映画女優の名前を思い出せなくて四六時中考えているように。
 現実感は過去に引っ張られます、今の現実から遠のきます。
 接触すべきはむしろ「今に」なのです。
 こころが今に生きていないと、今存在しているモノや趣味などの力は半減して
しまい、ただ「〜したい」と具体性だけが飛んで消えます。
 それは疲れます、何か無性にしたいのに「これ」ってものが無いのですから。
 砂漠を突破してたどり着いた自動販売機で、何を飲むのか決められないんです。

 むしろ「今はかなーり幸せな筈なんだけど、物足りないな」と思ったほうが、
マシです。「なんか完全な満足を得る行動があるのじゃないか?」と思うとヤバイ
のではないでしょうか。
185 返信 う〜〜ん ハル 2003/05/25 22:09
昔はもっとちやほやされてたのかな?自分では自覚ないけど。

今も、「彼氏いそう」「男がほっとかないでしょ」ってばっかり言われて、いないっていっても信じてくれないし実際にはくどかれない。いそうってなにさ!!て感じ。
女の子も、仲良くなっても、自分を出すのいやだし。
年とってくるとできる友達も年下が多くなってくる。そうすると、ぐちったり、弱音を出すのは簡単じゃない。見た目よりだいぶ若くいられるのは人からみたら良いだろうけど、その分本当の年を教えるのがいやだったりする。

自分でも、自分の年令がすごく重い。自分の思ってる自分の年令と周りから見られる年令は同じくらいなのになんで実際の年令は違うんだろう。
そしてなんで男の人ってすぐ年令聞くんだろう。重い。

1人でかっこいい女性になりたいのに、結局さみしくなって、自分がかっこわるい。
186 返信 Re:ちやほやってのは kage 2003/05/26 05:51
 言葉を知る前の「XX誕生」にかなり近いちやほやの事ですよ。会う人会う人「あら
お嬢さん、かわいいわねー(子供はほとんどそう言われますね)」昔は子宝でしたか
ら「子供」というだけで特別扱いの文化が何処の国にもありますが、成人の早い国、
例えばイランなどのモスリムの一部は(アメリカでは児童虐待扱いになるので問題
にさえなっています)12歳で嫁ぎます。
 相対関係なのです、昔は本当の意味でも子供には一族にとって資産価値がありまし
た。一族に歓迎されるのです。
 その文化の流れは残っていて、子供が産まれた時の外交辞令は極端でさえあります
 これを完全に忘れる事はありません、一種普遍的誇大妄想の原型です。無意識を知
る上でわかりやすい例です、言葉を知りませんから言葉の流れの記憶には存在できま
せん、印象、関連付け、そんな分野に残っています。
 つまり「あの時はあーだったのに」の例に、この時代の話がでてくると大変です。

 この話は極論ですが、意識に(自覚されてると問題はありません)子供が隠れる
って事の意味は、少なからず上記に近い線に「本来の私の待遇」が近寄るため、事実
関係とアンバランスな感情に繋がるのです。
「自分でも、自分の年令がすごく重い」つまり、優位な利益の損失が感じられる
のですから「年齢だけで(自分は、どんな人間かさておいて)得したい」とは「子供
特権を活用したい」に他なりません。

 大問題は「カッコイイ女性」が定義付けられていない事です。
 「どんな女性がかっこいいのか?」これを考えるのが自分の仕事なんですから。
 それはセンスとか哲学とか言われるものです。
 「漠然とかっこいい」では言葉として壊れています。「かっこいい」という根拠も
無く「かっこいい」と認定される事はあり得ないからです。

 問題は女の社会が、とか男は何故歳を聞くのか、とかでは全然無いと思います。
 問題のすり替えによる本質的問題の隠蔽(私は女性をこう考える、という決断が
大人のアイデアであり、子供の意識には都合が悪いからです)が、無意識の狙い
ではないのでしょうか。

 深い関係になれば「相手の歳を知らない」なんてことはあり得ませんから。
 
 

 
187 返信 なんかすごい納得のような ハル 2003/05/29 09:56
そんな感じはとてもします。
確かに私には前から〜したい!ていう欲求があまりないんです。
何をしてても現実感が持てないというか。

「これから」「仕事」「結婚」「生活」の未来を考えられません。
5年先どころか半年先でさえ何がしたいか,どうなっていたいかが自分に
見えてこないんです。漠然とした「憧れ」はあっても,具体性が持てません。
大きな買い物してみても,海外へ行ってみても,どこか現実感がないんです。

でも、どうしていったらいいんでしょう?
何がかっこいいのかとか,どうしたいかとか、そういうことをとにかく
考えてみればなにかきっかけになるんでしょうか。
なんとなく「楽しそう」な方に流れて生きている感じです。
188 返信 そうですよ kage 2003/05/29 17:20
 「かっこいい」も一見社会相手の鎧に見えますが、「かっこいい」に根拠や狙いが
あれば、それは「周りに対応するため(反応)の、付け焼刃アイデアではありません
から攻撃的戦術でしょう」ね、思いませんか?
 やりたい事じゃないでしょう?憧れでもない、楽しそうでもないですね。
 「かっこいいを考える」ってなー他人を尊重するアイデアで(自分が思うだけじゃ
意味無いんで)そう思われてなんぼです。
 ところがそれは自立的アイデアなので、迎合にはなりません。後ろでベロ出してる
んですから。

 ちと回りくどいですが「どう思わせて、自分的には楽な環境を整備するか」と考え
る事が、そもそも「かっこいい」のではないでしょうか。
 両方を残せます(そのかわり、全部満足なんて夢物語ではありません)「外面との
つじつまと、自分なりの気持ちと」。
 ま、ですね「かっこいい」というキャッチには、大人の女がかぶっています。
 本体は後者の「大人の女」なんだと思いますね。「かっこいい」の方はそれをマジ
な話にしないための煙幕なのかも知れません。

174 返信 にんげん嫌い みい 2003/05/15 16:03

みんな、わたしを追い詰める
だから逃げるしかない


だれか救って欲しい

(矛盾した気持ち)


レス不要です
175 返信 返事が重複しますが kage 2003/05/16 00:53
 こちらに返事しましょう。
 存在意義について触れなければいけません。存在意義とは簡単に考えれば「存在
する理由」でしょうが、これは自分自信で確認する部分と、外からの評価とに分け
て考えるべきでしょう。
 自分自信で確認する部分は、意思であり信念でもあるでしょうから、他人が口を
はさむ事ではないですし、外からの評価なら、ありのままの自分が見られているの
ですから、何か作為的に「こう評価されよう」と狙うのはおかしな話になります。
 自分自信が生き残るための世渡りとして「こう思ってもらおう」ならわかります
が、これはレーゾンテートルでは無いでしょうから、その作為に隠して自分の意思
を守ろうとする行いなので、もっぱらレーゾンテートルは自分の意思の側にありま
す。
 まとめると、外にゆだねるなら飾らない自分を。
 自らの意思によるなら外の評価に動かされない意思を。
 でしょうか

 さて、「みんな、わたしを追い詰める」の前提条件は問題です。「みんな」とは
誰でしょう?世界の人ではないでしょうし、地域一体の関係者全員でもないでしょ
う。抽象表現であり克つ確証がありません。そのためには「私はこうなので、こう
思われる事が多い、何故ならこうだからであり、事実こうだった。だとするならか
なりの高確率で「みんな」に等しい人物達に、、、」でなければなりません。

 そもそもの前提条件に問題があります。
 感情による予測は(拘りなどがある場合には、特に)落ち込む事に有利な条件
や、前提条件が「言い切りに近い(言い方を変えると、自身満万に)」使われて
しまいます。これには注意が必要です。
 事実はもっと小さい世界の話に違いないのです。想像される他者が家族のみの
場合、家族が「みんな」と=になってしまいます。
 その地域のある一世帯に過ぎない人物は「みんな」ではありません。
 「家族がみんあ」ならアリです。
 ですがその場合には逃げなければならない事や、助けて欲しい事項は具体的に
なりますから、必要以上の落ち込みは回避できるのです。
177 返信 Re:返事が重複しますが みい 2003/05/21 04:41
今の私は醜悪でしかありません。
迷ってばかり、良いほうに思おうとしてたから迷うんです。
だから、醜悪だと思うことにしました。

今まで、結果として数年閉じこもっていたのは、
(家を出て自立したい)と思いながらも、結局連れ戻されても、
また出なかったのは、家族への復讐心から。
今は憎い気持ち、復讐心が大きくなっています。
病気のせいだけではない。。。

飾らない自分というのが、どういうのか、忘れてしまいました。
小さい頃から、飾らない自分、というのを両親の前や他人の前では
見せたことがないきがします。夜ほどのことがない限り。(風邪をひいたり調子が悪いとき)

みんな、というのは、たぶん、
昨年くらいまで、両親のことを良いほうに考えようとしていたから、
いつかは守ってくれるかも、わかってくれる、と期待していたから、
その反動が、ほかのみんなという形になってしまったのかもしれません。


ひとを疑って疑って疑い続けてしまう、癖ができてしまったようです。
なんか大げさに書きすぎた気もしますが、先先のことを考えて、
疑う癖を持っているのは確かなので、
ここで暮らす限りは、疑うことを個性として、長所として考えたいと思います。

178 返信 Re:返事が重複しますが みい 2003/05/21 04:45
本音。
今の気持ちは、私を含め、家族が生きようが死のうが、
あーそうか、という感じです。
でも、死なれる前に、自分が死にたい。
184 返信 Re:良い方に、がポイントでしょう kagewari 2003/05/23 19:00
 良い悪いは相対的なもので、文化が違うと違ってしまう事もあります。
 これは常識に属するもので、美意識(エゴ)というより地域やステレオタイプの教育による多数決の雰囲気です。
 その本旨は難しい事を考える前に「あたりまえ」で行動可能で、地域の人と意識の一部の互換性を保ち地域社会の安定や適応のシステムであり、個人で決定できません。ですから時代などが変わる事で初めて常識は変化するのです。

 常識論で言うなら「両親の良し悪し」を決めるのは地域社会ですから、個人でその可能性(「良い両親の」)を前提とするには無理があります。言いかえると「自分には地域社会を超えて、彼等の親業としての良し悪しを決定する権限がある」となるからです。
 個人的な「理解を求める」事と良し悪しは無関係なのです。
 革命時に粛清される友人への共感は個人的な素直な思いで、おそらく粛清される彼は社会的には罪人なのですから。

 自らは公共を代表する人物である。とこころが傾くのは、自分が悪いと思って両親は私に冷たく、親として許されない振る舞いに及んでいる。との推測から来ています、つまり「私は正しい」との主張です。

 親は喜んで子供の面倒をみるに決まっている、、、私を「嫌っているのでは?」という疑念の黒白をハッキリさせる試金石だ、、
 ところが自分はもう見かけは大人であり、地域社会もそう認めるでしょう。親は当然その地域との関係で常識を保っていますから、自分の子供に常識を超える対応を行おうとすると(社会は大人として扱いなさい、とプレッシャーをかけていますから)自己矛盾を引き起こし過剰なストレスともなるでしょう。
 その対応は「嫌っているのでは?」の疑問に答えるどころか、冷たくあしらっているように見えるかも知れません。
 絶望の根拠には事実関係への認識が不充分に思います。

 そこで「良い悪い」を(地域社会の立場)両親に向けるのはとても皮肉なのです。
 両親に求めるべきは「社会的親の立場」ではなく「個人的な共感」であるべきなのです。

179 返信 レスです kage 2003/05/21 07:38
主語がありません。
 誰を憎しみ、誰が死んでも構わないのか。

 それは「誰を」が本人にはわかっているつもりでも、連想されるイメージがそれに
便乗するからです。
 話を強調する事で、落ち込む気持ちに理由や根拠を与えようとしています。
 主語があると、話は具体的になり一定の冷静さを保てるのです。
 言うならば、落ち込む気持ちを呼び込むために、あえて主語を覗き、アンバランス
な表現の可能性を導いているのです。

 例えば会社の倒産した社長がいるとします。
 「もうだめだ。これで”全て”が終わりだ」
 「もうだめだ。会社が倒産した、困った」
 事実は後者です。
 きっと本人の心象はもっと違うのでしょう。
 「もうだめだ。この会社には心血を注いできた、この会社は私の全てなんだ。」
 この時初めて友人は「たかが会社じゃないか、もう一度その気持ちで新しい事業
を立ち上げれば、全てが取り返せるんだろ。諦めちゃダメだ」と励ます事ができる
でしょう。しかし「もうだめだ。これで”全て”が終わりだ」に掛ける言葉は捜し
にくいものです、具体的に”全て”が意図するものがわからないからです。
 
 つまり”具体性”自体に都合の悪いことがあるのです。
 全ての意図が、関係障害など表に出したくない時、それは隠蔽されエキセントリ
ックな表現が「主語を抜く」事で選択されます。

 都合が悪いのは、不安からくる歪曲で。家族関係への思いで都合の悪い事などあ
りません。(他者関係などの利害関係が無いからです)
 本人の嫌悪意識にとって都合が悪いのであって、本人はその思いが苦痛なのです
から、本人の中での利害が逆転します。

 苦痛の選択のための「主語抜き」です。概してこの時他人(家族を含む)がまる
で関係しない言葉は選ばれません。
 「(私は)仕事で疲れた」
 「(私は)映画を観たんだけど、面白かった」
 「(私は)掃除が大好きでね」
 「XXさんは変わってる、何かと予想外の事が起きる」
 「お兄さんは無口だ、いつも黙っている」

 主語抜きがありなのは『私は』の時だけなのです。
 嫌悪意識が他者を取りこんだ時、他者の存在に実感は無く、つい自分の事のよう
に「言いきり口調」が選ばれます。
 「(XXは、私を嫌っているから)憎い」
 前提となっているのは他人の気持ちですから、推測にすぎず断言とは最も遠いの
です、それが自信を持って言いきれるのは他人を「自分のもの」のように取りこん
でいるからで「そうに決まってる」として、不思議と疑問無くそれが認識されるの
は、関係属性が人物より勝っているからです。「親なんだから」「子供なんだから」
「妹なんだから」、、、、
 属性である前に、人は独立した人間です。
 一対一の個人同士の平等な関係の意識が、「主語」を呼び戻すのではないでしょ
うか。

156 返信 これって相談じゃないかも知れないけど。 ハル 2003/04/17 20:35
男の人って結局は体でしょう、てどっかで思ってて、だから信じきれなくて、でも優しいのにそういうのを求めないでいられると自分のこと好きじゃないのか、自分に魅力がないのか、すごく考え過ぎちゃって、ヒマな時は連絡しろって言ってくれても、本当はうざいと思われてる気がしてできなくて(これは男女とも)誰かに甘えたいけど、他人に甘えようとする自分が許せない。
すごく寂しくても、どんな理由でも断られたり拒否されるのがものすごく怖くて、電話がかけられない。今日ヒマ?とか、遊ぼうの一言が言えない。その分、誘われても断れなかったり、断るとものすごい罪悪感持ったり。
かまってほしくて、電話もメールもしたいのに、実際に好意をもたれると怖くなる。
元気じゃない自分も、他人に腹をたてる自分も、甘えて頼ろうとする自分も許せない。
かたくなな自分が嫌い。
なんでも裏を読もうとして、他人の顔色を伺う自分が嫌い。
1人がイヤなのに、必要以上に断られるのが怖くて誘えない自分が嫌い。
なのに、誰といてもなんかつまらなくて、寂しくて。

もっと強い自分になりたいのに、誰かに手を差し伸べてもらおうとしてる自分が嫌い。
157 返信 Re:これって相談じゃないかも知れないけど。 kagewari 2003/04/17 22:07
 その後の予想です。
 電話をして、楽しく話して、、反射的にその状態に拒絶があります。
 自分が迷惑がられる様子が真っ先に心配になるのは、確立の高い予想だからで
しょう(自分の中では)。ところが条件は「暇なときには電話をしてくれ」です。
 完全に予測と条件は矛盾しています。
 つまり予測は余談と自身の思惑からくるものであって、冷静に事実に基づいた
予想ではありません。
 確立が高いのはむしろ「そうなの今日暇なんだ、そしたら、、」の方に違いな
く、その予測に無関心である筈も無いでしょう。
 だとすると、考えられる事はひとつです。
 自ら進んで(誘って)楽しい人間関係の時間を過ごす事に、拒絶があります。
 感情的になれば「面白くない」「面倒なくせに」「何か魂胆がある」、、、
 冷静なときは「どうせ男は」「意外と女友達なんて」、、、

 おわかりでしょうか?
 慌てて理由を探している事に。
 男の非礼な態度憤るフェミニズム活動家ではありません。女の社会に言いたい事
がいつもある女性の社会差別と戦う闘士でもありません。かといって「自分は殊更
人に嫌われる能力の有る特別な人間なのだ」との確信があったら大変です。

 なんとなく、自分の意思で、楽しい事を思いつき、自分からアプローチして、
それ(極端に言えば、幸福や、やすらぎ)を掴もうとすると起きるのです。
 「不安」、「不自然」、「違和感」の方が適切かもしれません。

 受身の時には問題無いのです。
 事実「かまってほしくて」の言葉に不安の影はありません。
 そして「かまってあげたくて」とは思っていないのです。

 その待遇に招かれるのは自然だが、自ら望む事に抵抗がある。
 記憶の中に「不快と絶望(それが終わらないという認識)」の雛型があります。
 何をしても無駄、、そう自分を支配する気持ちです。
 それが消え去らないのは、そこに自らの想いがこめられているからでしょう。
 この決着が何より優先される以上、よそ見(友達と楽しげに過ごすなど)をして
いる暇など無いのだ、、、
 そんな感じです。
 人の誘いが断れないのは、そんな「受身」のスタイルの弱点だからです。
158 返信 それじゃあ ハル 2003/04/17 22:21
もっと自分から飛び込んで行ってみればいいんでしょうか?誘っていけば、いいんでしょうか。
確かに、ちやほやされたい自分がいて、相手からいつもかまわれたい、思っていて欲しいって言ってばっかりで、自分から相手を好きになろうとしたり、理解しようとしたりできないです。自分の話ばかりしてしまいそうになるし。
たぶん、自分が輪の中心だったらすごくうれしいんです。
でもきっと「この人たち心の中では・・・」とか考えてます。

でも自分中心でありたいと思ってます。
たしかに「理由を探している」のかもしれません。でもそれは何に対してでしょう?自分が楽しくない事を正当化しているのでしょうか?
受け身でいないように自分で意識して行動すれば変わってくるのかな?
159 返信 Re:それじゃあ kagewari 2003/04/18 04:14
 受身についてですが、仲間との関係に拘らずあり得るのです。
 したかったからこうしたんだ。と自分の意思の関与に実感が無い事が多い筈
です。人間は次の行動を自立的に決定しています。つまり理由が何にせよ、最後
には自分の意思で実は決断しているのです。
 極論ですが(話をわかりやくするために極論で説明します)人は好きなことし
か出来ないわけです。嫌なら行動として選択されていないのです。

 受身は動機のための不可欠な条件のようなもので、友達に誘われても誘拐され
たのではありません。自己決定をする条件に「従うとき」のような構造がセット
になっていると考えたらいいのです。
 その狙いは自分の意思の隠蔽です。

 おわかりでしょうか。
 「本当は仲良くしたい」気持ちを自分自身で認識すると不快なのです。
 中心のイメージも「そういう目にあった」構造からくるもので、自分は関係
無いのだ、、、を達成するためのイメージでしょう。
 少なからず「中心でありたい」気持ちもあるでしょうが、逆説になりますが
まるで台風の目のように、中心は空白だったりします。
 自分の意思が関与するのは気まずいが、いい気持ちにはなりたい。
 だったらどうするか、、、
 他人の心の中を詮索しがちなのは、自分の意思を見透かされないないか?
との警戒からくるのでしょう。
 何故こんな回り道をするのでしょうか?

 こういう私に私は不満だ→なのでこんな事はおきない→おきたらまるでこう
いう私を肯定したことになる、、、
 自信のない意思の裏には、必ず桁外れの「こうなりたい」が隠れます。
 その理由、記憶のどこかに「こうならなかったのは、自分がそうじゃなかっ
たから」と無理やり苦痛を押し込めた体験が元となります。

 つまり、自分の気持ちを覗かれると、つい「まだそんな人間のままか」と言わ
れるような気がして(本人は違和感や不快を感じるだけです)、それを言葉にし
ようとします「きっと何か裏があるに違いない」に、言葉は変わって認識されま
す。
 本当に人のこころを疑っているのではありませんから「何もないよ」と言われ
てもいっこうに収まりません。

 つまり話の大元である「自分はこんな、、」な連想を先読みして停止させる
事が一番です(といってもこれにも苦痛が伴うでしょう)。
 「私はこれでいいんだ」「大好きだとは言わないが、私はなかなかよくやっている」「何でも私は自由に決めている」、、無理やりでもこう考えるのです。 

 どうせ(受身であっても)自分の意思なのか、、と思えば、受身では無く、能動的に考える事が増える筈です。
160 返信 わかりました。 ハル 2003/04/18 07:19
今回の説明はとてもわかりやすかったです。
私は恋愛しても、相手に「もっと」「もっと」て、求めてばかりで、それで相手が逃げれば「やっぱり」と思うし、それについてこられても「なんでそんなにしてくれるの?!」と腹が立ってしまったりで、ちゃんと向き合って付き合った事もないんです。恋愛は終わるもの、だから良いとこしか見せたくない、と本音を言ったりもしないで終わらせてしまいます。
全ては「自分の意志だ」ということを認めないため、でしょうか。

連想を先読みして停止させるのは難しそうですが、自分の意志なんだ、て言うのは意識していようと思います。
ありがとうございました。
161 返信 意思と感情のギャップ kagewari 2003/04/18 14:03
単純に言いきってしまうと、自分の受けた不快の理由を、一度自分自身で誤解
してしまうと解決不能の悩みを抱える事になるのです。
 その思いこんでしまった不快の理由は、実際の不快と実は関係無かった時、
それは『絶対に解決しない悩み』として君臨します。

 本質的目的は、自分自身の気持ちを隠すためで、いっそのこと自分の意思な
ど最初から無いのだ、、て事にするのが最も安全だからです。
 ちょっと違いますけども、こんな話なのです、、、
 学校で一年忘れ物をしないでいると、万年筆がもらえる制度があるとします。
ほぼクラス全員がその万年筆をゲットしました。
 自分も後一週間ほどで一年だ、て時に母親に頼んでおいた家庭科で使うエプ
ロンを、母親が縫い忘れていたとします。
 自分は忘れていなにのに、忘れ物として処理され万年筆が貰えません。

 「今時万年筆を欲しがるなんて、どうかしてる。私は最初からそんなこと考え
てもいません。」、、、、、
 母親に「万年筆が欲しいんだよう」と、もし告げていたら、母親がそれを忘れる
事は無かったのです。
 これで動機は2倍です、、、、
 自分の意思を表に出すとロクな事が無い、、、、、2倍嫌な目に会う。

 自分自身ですら、自分が何をしたいのか知るのが怖くなります。
 2倍嫌な目に会うような気がします。
 それが「不安」です。
162 返信 Re:意思と感情のギャップ ハル 2003/04/18 20:33
多分、この例になっている文章で言うと私は「そんなの始めから欲しくなかった」と自分で思い込みます。そして、何年経っても絶対その話題はその同級生とはしません。その話題になったらいっさい無視します。

「そんなことはなかった」くらいにしたい、と望みます。
恋人ができて、別れると、彼に見せたかっこわるい自分全てが「消したいもの」になります。だから、「だったら最初からかっこわるい自分は見せない」でいたいと思います。
友達にもそうです。弱いグチなんて言いたくない。でも、弱いんだ、て言いたい。
自分が何をしたいか。考えてるつもりだけど、できない事ばかり考えたり。
やりたい事に、現実味が今一つないです。
163 返信 やりたくない事だからです kagewari 2003/04/18 21:38
いやむしろ「関係の無い事」に近いものでしょう。
 自分を標準のなかに紛れ込ませ、自分で自分を意識しなくてもいいように、
わかりやすくいうと、ごくごくごく普通の(誰にも「何で?」と言われて、
自分の意思が自分にバレないように)要求に固執します。
 自意識(神経過敏なほどに)が強い=自分がある、、ぐらいの世界で、ごく
ごくごく普通の要求を望むとは、思えません。
 自分ならこうしたい、、が人一倍あるに違いないからです。

 そういうことなのです。エキストラなのに主演女優で有るはずも無く、主演
女優がエキストラをするはずも無く、舞台に立たない女優もいない。
 『恥』『恥ずかしい』、、、そこに自分の意思を自分自身で見つめにくい鍵
があります。恥は主体性を縛る罠です。
 みんな同じように、、という社会の普遍性を維持する「仕掛け」のひとつで
す。これを監視するのはおおむね年配者、年長者、権威主義者、、
 特徴的な事は上記のような人物が、道徳として取りこまれ、自分を恥によっ
て監視しています。言うなら自身の道徳が味方では無いのです。

 無理やりでも自分の意思を肯定するというのは、自身の道徳との戦いを意味
します。「自分うるさい!私はこれでいいんだ」な感じです。
 引いたら負けです(勝ち負けじゃないんですが、ここは話をわかりやすく)。
 「何が好きか」実はあんまり関係無いのに、本人は気にします。
 好き嫌いはあってあたりまえで、比較的どうでもいいことです。
 その証拠に仲のいい友人関係ですら「へーそんな趣味があるの」という会話
がよくあります。その人が何をしようとしているのか、、、ではない、、
ただそこに在るままの姿を他人は見ているのです。
 実は「恥ずかしい」と思うことは、フォーマルな場所で通用し、プライベート
が楽なのは「恥OK」だからです。
 恥ずかしいって気持ちで、自分のプライベートを縛るのはナンセンスなのです。

 話は戻りますが、不快は2倍ではありません。
 あの話にはからくりがあって、ポイントはお母さんに「万年筆欲しいんだよう」
と話す事で解決する話で、お友達に「実は私も欲しいんだ」と言わなくても良い
からです。最初に感じたプライベートな場での「恥意識」この一点だけなのです。

 この「場」から逃げているのです。
 プライベートで、安心できる場所が気まずいのです。拒絶しているのかも知れ
ません。
 まず手始めに、ごくごくごく普通は趣味に会わないな、と決め付けてしまいま
しょう。どちらかというと誰も想像も及ばないものが、、居心地がいいぞ、と。
 自分でも想像が及ばない時、道徳は停止します。
 なので大事なキーは「私は変わり者、どうかしてるのさ」と思うことなのです。

 「やりたい事」は禁句にしましょう(現在執筆中です、おくれてます、、)。
 
164 返信 でもさ。 ハル 2003/04/18 23:26
やっぱり恥ずかしいんだもんなあ。
「自分うるさい!私はこれでいいんだ」って、言いたいなあ。
自分の意志の肯定。でも、自分の表面上のやりたい事は「普通」で、そこに安心(?)している自分もいるわけで、今でも、例えば仕事場や食事の時、「あ、みんなとちょっと格好があってない」とかがものすごく気になる。
あと、友達に言われた「ハルらしい」に、ものすごく縛られて、本当はこんな格好したくないのに、こんな色じゃなくていいのに、ていうものになってしまったり。

クラブとかにいっても、踊ってる自分を見られる事が耐えられず、踊ったりした事もない。でも、行きたいんだよねえ。
う〜〜ん、でも、踊りたければ踊れ!着たかったら会社にもこの服着ていっちゃえ!とか、そういう事からでいいんでしょうか?
165 返信 逆ですね kagewari 2003/04/19 03:01
 「実はクラブは、飲み屋の一種だ、私はダンサーじゃないんでね」
 「迷彩服だからしょうがねー、その代わり色は勘弁してくれ」
 「流行=資本主義=無知蒙昧な一消費者。大儲けしてるマックの社長の家の
ディナーがチーズバーガーなら食ってやるけど、、」

 うーん嫌な人ギリギリですね。ここで考えます。

 「本当はショットバーに行きたいけど、なんかね」
 「面倒になっちゃって、全部コムサのしか買わないことにしたの」
 「そんな事無いよ、昨日もケロッグだもの。」

 うーん嘘つきギリギリですね。これでいいんです。

 恥ずかしいの焦点はズレ、アリバイのためにコーンフロストを買ったりします
 「困ったナー」と言いながらカードでスーツを買ったりします。
 踊らなくてもグルーブは感じられます。違った意味で山ほど自発性を発揮しな
いとヤバイ状況です。

 ある時、そのスーツはぴったりと身に付き、シリアルに詳しくなり、テクノの
アナログ盤を買い、テクニクスのADプレーヤーを買います、、、
 それが彼方です。
 おそらく最初から。
166 返信 なんか不思議な言葉です。 ハル 2003/04/20 12:28
でも、なんとな〜〜く、気が軽くなりました。
なにをどうすればいいんだろう?て考え過ぎるのも止めてみます。

でも、「自分で選択している」ていうのはちょっと意識してみようかな?
結局、人にあわせるのが楽な部分と、でも自分は自分!て主張したい部分と、その辺でおかしくなりそうだけど、考え過ぎてもしょうがない、て、わかってても考えちゃうけど。

そのうち、自分にぴったり来るなにかがみつかるといいなあ。

151 返信 ??? すずらん 2003/03/30 20:18
ただ単にしたいだけの性欲と、誰かを困らせたいがための性欲、
どう違うんですか?
152 返信 当事者数です kagewari 2003/03/30 21:36
 「その場に何人いるのか?」でしょう。
 するためのSEXと、見せるためのSEXでしょうか?

 これも誰のため、とかの世界ではないでしょうか。

 誰かのために生きることも人の生き方です。
 しかし、その「who」が特定の人物乃至、特定の関係にある人物、の時はむしろ主体はその人物です。
 そのとき、その性(サーガ)を、しみじみと受け入れているのなら、混乱や迷いは無いでしょう。

 問題はその人物が見つからない、など、そんな時なのです。
153 返信 自分を すずらん 2003/03/30 22:38
忘れるくらい、考えないでいられるくらい、抱き殺してほしい。
おかしくなりたい、恐怖から逃れたい、自分がおもちゃになってでも
いいから、って考えて、そこから抜け出せない。
154 返信 Re:自分を kage 2003/04/02 04:35
何の恐怖なのか?
 忘れたいのは何の想いなのか?
 自ら拘りつづけている気持ちを、何故疑えないのか?
 自分をコケにすることは、それを知る人を既に巻き込んでいる。
 疑いつづけているようで、実は排除している。
 他人を認めていない世界は、外では無い。

 過剰な内向化は、現実を壊すばかりです。
 そもそもそんなに悪い人などいないのに(いい悪い論は別として)殺されたいとか、おもちゃにされるとか、誰がそうするというのでしょう。
 誰かにそうされた、、と思っているのでしょう。
 その想像にも雛型がある筈です。
 それは本当なのか、

 必要以上に人のこころを決め付けないと、そんな結論は出ないでしょう。
 それだけでも、そんな話の根拠は何処にも無いはずです。
 恨みでもないことには。
155 返信 そうだね すずらん 2003/04/02 05:20
結局、自分一人で。
あがいて、戦って、納得して。
習得しないといけないのかもね。

一つは、クリアしたけどさ・・・。
一人っきりでのチャレンジは、私にとってあまりにも
ダメージが大きかった。
久しぶりに、泣けた。

149 返信 メールくれて嬉しかった ありがとう みい 2003/03/16 15:36

>「いい悪い」ってのが俺は嫌いで、そんなだからこうなんていうのかな、
> 気ままにするにはどうしたらいいのか、、を考えてるのですよ。

良い悪いってこと、束縛されると思うと苦しくなるときもあるかもしれないけど。。。
良し悪しって大切なことだと思う。だから、わたしは常に良し悪しを頭において考えてるよ。

今日はちょっと生意気言ってみたよ。そう思ってるから。


> ちょっと元気そうだね。家を出て少し楽になったのかな。

うん、元気は元気だよ。 でも、ノイローゼ気味だと思うときはある。
でも、元気。
150 返信 いい悪い kage 2003/03/17 02:54
 これはニーチェ辺りからのパクリなんですよ。
 いい悪いと認識される気持ちが、果たしていい悪いなのかって事でね。
 仏教にもそんな話があるのです。
 人間にいい悪いは、わからない(モスリムで言うならアッラーにしかわから
ない)。それは仏にならないとわからない事で(ニーチェで言うと昔それを決
めたのは、伝統ある貴族の話で)いい悪いを話す時、自分にはそれが正しいの
だ、という事を知るほど自分は賢くない、という謙虚な振る舞いが(キリスト
教なら神への感謝)仏への道であり、だからお経を、、、てな具合

 そんな大上段な事ではないのだけれど、自らの道徳心は情報として今の時代
に生きる体験に基く事が多くて、それは全世界でも、過去に暮らした(既に故
人の)全人類との体験にも元付かない矮小な話であると。なにせその話の中心
は、自分の家族であったりします。

 我こう思うが故に、、ですよ、、 それはいい悪いでは無いと。
 思い悩む時、特徴的なのは、いい人と悪い人のイメージが鮮明になっている
事で、それは事実なのだと思うのです。

132 返信 お仕事開始 すずらん 2003/03/02 17:22
派遣でお仕事開始です。半年以上の長期で。でも3月いっぱいまでは
試用期間。女の人ばっかりの職場で、逃げ場ないですー。
お昼も一緒、仕事時間も一緒。休憩時間も基本的に外出禁止。
一人で食事したいし、まわりとの人間関係気にしないで仕事がしたいよ。
業務内容だけが、私には合っていると思えるのに・・・。
わ、笑えねぇ・・・。
どうしたら笑顔、出来ますかねぇ?試用期間でやめちゃって、
次探しますか!!
・・・愚痴です。
133 返信 次を探すのもありでしょ kage 2003/03/03 02:45
 でもどうでしょう、チェスタートンのパラドックスではないですが、木の葉を隠すなら森へ、、です。
 案外大手の職場は人が多いぶん人間関係は希薄です。
 仕事の内容に馴れてしまえば居心地よく過ごす可能性もゼロでは無いでしょう

 意外とそんなワケありで静かにしている人が(誰派という事が無いので)会社にとって重宝される事もあるのだと思います。
 職場では笑わなくてもいいのですから。
134 返信 笑わなくても すずらん 2003/03/04 22:47
いいのかな?私の固定観念が強いせいなのかしら?
仕事場では愛想よく、誰とでも付き合えることを常に求められてきた
社会人生活だったような気がします。
うー、おじさんとかとだと、上手にお話できるし、笑顔も出るのに。
女の人が相手だと、笑わないだけでそのうち、敵に回される気がする。
きゃー、いやーんな感じ〜!!
・・・そしてパニック。
135 返信 求められてきた kage 2003/03/05 13:54
誰とでも付き合えることを常に求められてきたのでしょうか?
 少なくともとも俺は職場で笑顔を求められた事は、17年の中で一度もありません
 年長の男には安らぎ、同年代の同性と緊張状態にある。
 競争意識の反対が「誰とでも(特に同性)付き合えることを常に求められてきた」
になるのでしょうか。感覚として、、ですが。
 とても不思議な事は、仕事の話が出てこないことです。
 最も大事な事は、社会における会社なるものの捉え方が個人で違いますから、それ
ぞれでしょうが、会社の利益の話しが出てきません。
 平たく言えば、社員は兵隊です。兵隊同士の関係も大事ですが、、、
戦果(表現悪いですが)が一番大事なのではないでしょうか。
 敵はライバル他社です。同僚ではありません。
136 返信 求められては すずらん 2003/03/10 09:45
きていると思います。
会社に入って、社員さんに言われたのは「愛想よく。みんなと仲良く。和を
乱さないように」。
他の人の会社はわからないし、友達でそれができない人はいなかったから
他はどうだかわからなかったけど、私はそう言われましたねぇ。
「〜さんは女子社員のボスだから(ここのボスは「上司」のボスじゃなくて
派閥のボスと言う意味です)なるべく彼女の言う事を聞いておいてね」と
言われる事もありました。
仕事は仕事ですから、割り切ってしてます。仕事自体は楽しいだけに、
人付き合いで疲れてしまう。
みんなと同じところで笑わないと、同じ物を見ないと。
それが私には難しいんだけれど・・・。
138 返信 Re:求められては 2003/03/10 20:23
迷ってるみたいに見える。

きっぱりと「みんなと同じ」を捨てる決断はできない。
そして何よりあなた自身が強く求めてるように見える。

「みんなと同じところで『心から楽しく』笑いたい」
  VS
「さて、今日はお昼は何にしよう・・・」

誰だって、会社での人間関係は疲れる。
笑顔がひきつってこめかみが痛くなる。
無理してるから笑いじわも深くなる。

できたら「いち抜けた」と言いたい人は多いはず。
でもなかなか実行する人はいない。
「一人が怖いから」

 同じ物を見て誰もが思いつくことを言う人間。
 同じ物を見て誰も思いつかないことを言う人間。
140 返信 正直な話 すずらん 2003/03/12 15:48
迷っては、いるんだと思います。
今まで合わせて(合わせようとして)きた自分と、合わせられないことに
気づいている自分とで。
きっぱりと捨てる事で仕事に支障は出ないだろうか。
そんな不安が一番大きいかもしれません。

思いつくこと、自分が思いついたのか、合わせるために捻じ曲げて
だされる考えなのか。

自分でも自分がわからない。
ただ、ものを言うと変な顔では見られますが(笑)。
141 返信 実際の 2003/03/13 09:13
人間関係の中に取り込まれると
ネットで話していた自分はいったいどこへやら。
みんなの言葉や行動が気になって仕方ない。
「私も同じようにしなくちゃ」

でも、もうあなたは気が付いてしまった。
みんなと同じことをすることの不気味さに。

映画や小説に自分の憧れる生き様を見つける。
ファッションもメイクも髪型も変えてしまう。
自分が分からないなら、どれか選んで試してみればいい。
最初は「模倣」でいいから。
街で見かける「変わった人」も、生まれた時から変わってるわけじゃない。
思考錯誤しながら、恥じをかきながら見つけていったもの。
自分を守るための「鎧」をそうやって作っていった。

「変な顔で見られる」
みんなと同じことを言ってるのに。なら言わなければいい。
もうその言葉にはあなたはないから。
みんなと違うことを言ってるから。なら当たり前。
「変な顔」の意味を探し続けるだけ。

あなたが周りに合わせなくても仕事には影響ないはず。
問題なのはあなたへの対処の方法が分からなくて、周りが支障を作る場合。
周りに自分がどんな人間なのか分かるようにすれ、ば結果は自然と見えてくる。

自分で自分が分からない。
それじゃ周りも「普通」だと、とりあえず思うしかない。
そして「普通」のことを要求し続ける。
142 返信 自分 すずらん 2003/03/13 10:18
他の人は自分をどれだけ知っているんだろう?
私の知っている私、指摘されて気付く私、おそらく言われずに気づいていない
自分。
そうやって色んな方向からの自分を考えてしまうと「自分はこうだ」とは
言い切れなくなってしまってます。なりたい自分は、どこへやら(笑)。
そんな躊躇を見ての「普通の要求」ですね?
人間の感情に好意、無感情、悪意と段階があるならば楽だけれど、
私の周りの、今までかかわってきた人間は好意と悪意しかなかった気がする。
キライならキライでいいから、放っておいてほしいなぁ。
ちょっと、お疲れ気味です(苦笑)。
143 返信 道徳の視線は kage 2003/03/14 01:28
 何か新しく事を起す時や、知らない出来事に遭遇した時に適応されるのです。
 他人を平時にその視線で見ると、他人をを「善人と悪人」に分ける監督をして
いることと同じです。
 もっぱら人間は好意や悪意などという、はっきりとした感情を持ち合わせて
いません。思惑の有無があるくらいです。
 悪意を持つというのは、よほど不快な時に限られるでしょう。
 好意もそうです、よほど快があるのでしょう。

 一般に職場、特に仕事中はそういう感情は「私語」と同じで表に出すのは
いけない事です。ですから残業中、や仕事が終わって街にくりだしてその、
我慢のストレス(表に出さないように気を使っている証拠です)を解消する
ため酒場で愚痴などこぼすのです。
 「嫌いなら嫌い」などという面倒な事をしないといけない義務は、一般の
人間関係にはありません。
 誰もそんな説明義務(それはプライバシーです)は無いのです。家族では
ないからです。

 「その人を立てて上手くやって下さい」というのは、楽に仕事が出来るよう
に、人間関係のポイントを教えてあげてくれてるわけで、好意です。強要では
ありません。そう感じたのなら「それを決めるのは私だ」という道徳の監督が
ストレスを感じているのでしょう。つまり、家族の葛藤は何らかの「判断」に
よる一定の決着を求めます。子供にとって「何でそうなるのか」の感情が、
恒常化するのは耐えられないからです。その上家族は「道徳の原型」を産み出す
場所ですから、なおさらでしょう。
 「こうしたらダメよ。ありがとう手伝いしてくれて助かったわ。」から道徳
の原型を感情の経験記憶と定着させる事で、それは人格の一部となります。
 それを自分で始めたら、親以上の存在になってしまいます。つまり「はずだ」
で初めてしまったら、、、です。
 何らかの不満を、確かめる事無く(あるいはその回答に不満な時)抗議の
意志でつい「だから、、なんだ」「こうに決まってる」「、、なはずだ」という
不確定な道徳が人格の一部となります(想像であって、現実の記憶では無い)。

 (道徳ではなく)道徳の視線で物を最初に見てしまいます。最初の判断が、
いつも憶測と余談が入り混じります。親友でも無い人物に「私のことをどう
思っているんだ」と尋ねるわけにもいきません。「?!」が回答でしょう。
 道徳的な人間関係は、ごく親しい関係の友人や家族だけで適応されるもの
で、許されるのは(もう過去の話ですが)近所の子供を叱る時や、犯罪に近い
面倒を起している現場に遭遇した時だけです。

 その道徳の視線が、最初に見ているのは「自分」です。自分を厳しく見る
偉い人(これは子供時代に造った人格なので、その判断はとてもステレオタイプ
である事がほとんど。自分の意識ではあたりまえ、普通、と感じます)を自身
のこころに内蔵しているワケで、大変なストレスです。
 自分を「だからダメなのだ」と監視し続けるのですから。これを自己嫌悪と
いいます。
 
145 返信 本家登場にて、これにて失礼します 2003/03/15 00:28
見ず知らずの自分が口を挟んで申し訳なかった。
本来ここはkagewariさんがレスする場所。
書き込みに来る人もそれを望んでるだろうから
邪魔モノは消えるとします。

人の姿は自分の鏡。
相手の自分に対する対応は、それほど突飛ではない。
相手はあなたが望むがままに対応してるに過ぎない。
147 返信 そんなことないですよ すずらん 2003/03/15 22:09
返信は原則自由・・・って書いてあるし、私もレスをもらえて嬉しかったんですよ?

ありがとうございました。また、何かの時には宜しくお願いしますね?


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