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Kagewari 精神分析相談事務所  HP  BLOG  過去ログ  有料メール相談 

「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



511 返信 無気力です。 naru 2006/05/22 15:07
kageさん、こんにちは。
とある理由でこのサイトを知っていた者です。
私は20代も半ばになるのにちゃんとした職歴がありません。
今までバイトとかしてきましたが、どうやら社会不適応みたいです。
みたい…でなく、ちゃんと実感しています。
その上でこれからどうやって生きていこうか考えています。

家族には学校に行くという名目で散々お金をかけさせてしまいました。
だから、今は働いてお金を貯めないといけないとは思っていますが、
どうしても働けません。
以前は単発のバイトでなんとか働けましたが、今はそれすらできません。

無気力であると思います。
つい1ヶ月前まで働いていました。
怖いという思いと不安で毎日、自分の命をてんびんにかけてきました。
常に死にたいという思いがありました。
そしてそんな毎日に疲れて怠惰になって無気力になっていったんだと思います。
解放された時は会社に迷惑をかけてしまった罪悪感でいっぱいでしたが
何よりそんな毎日から解放されて随分気分が楽になりました。

それから1ヶ月ひきこもってきました。
家に居辛くなってきました。
1人で暮らしたいと思っていますが、それには働いていかなければいけません。

自分はとても気まぐれだと思います。
人と話したくないのにこうやって掲示板に書いてしまったりする。
そしてとてもわがままです。
だから人と接することができないのかなとも思います。

ここまで読んでくれてありがとうございました。
何か一言でももらえればうれしいです。
513 返信 ひとつひとつ確認してみましょう kagewari 2006/05/22 18:40
現実問題自我全体として、どのような欲求があり、それをどういう形で実現しているのかについて、客観的に見る事でまず現状どうなっているのかを確認すべきだからです。

自意識の役目はその後の話で、何が起きているのかわからずに今置かれている現状の感想を話してみてもそれは全体として現状を追認するための説明になってしまうからです。情報不足の自意識には、それで手一杯になりますから。
さて、シンプルに考えてみましょう。

>1人で暮らしたいと思っていますが、それには働いていかなければいけません。

>以前は単発のバイトでなんとか働けましたが、今はそれすらできません。

この両者の関係で現状の構造がわかりますね、
働かない事は一人暮らしをしなくてもいい事を、心理的には暗に意味している事を示しています。
そして

>無気力であると思います。

>常に死にたいという思いがありました。
そしてそんな毎日に疲れて怠惰になって無気力になっていったんだと思います。

外で働くモチベーションが、ナルチシズム型の内向によって(外観から考える様子は「外出」に対して「家や部屋にひきこもる」)自己嫌悪的興奮で代謝されていて、十分完結(働いた後と同じように「疲れ」ている=行為として完結し欲求を代謝している)している事を示しています。

全体を整理して考えてみましょう。
「仕事がしたいのに、気持ちが(関心が)外(社会)ではなく内(家)を向いているので、自然と行為(欲求の代謝)が形(仕事)にならず、それでは何もしていなくて退屈であるばかりなので(無意識では)、気持ち的には仕事がしたい以前の気持ちが(関心が)常に内(家)を向いてしまう拘り(強迫)に関わってしまい、これから自力で脱出できない自分を悲観(自己愛的)する事で感情的(興奮=脳内では「快感」と認知されます)になる事で仕事がしたいという欲求を使い果たして(二次的利得)いる。結果疲れているので(モチベーションを代謝してしまっているので)、実際この状態から抜け出そうという動機(モチベーション)を十分に確保できなくて、私(自分)は困っている」のです。

上記の整理された内容をトレースしてみて下さい。
鍵を握っているのが「内(家)向きの強迫」である事がわかりますね、
それが無ければ、最初の「仕事をしたい=一人暮らしがしたい」という欲求は容易に行為化するのであって、何ら悩みは無い事になります。

そこで簡単に「内(家)向きとなる強迫(脅迫)」はどういったものか説明します。
この「仕事かしたいのだけれど」を軸に考えてみましょう。
仕事がしたい理由は社会(他人)の評価を求めている(結果はどうでもいいのです)からで、何故かと言うと関心そのものが本来社会(他人)に向いている筈だからです。つまり恋愛や社会的成功というのはもっぱら自分自身の快や不快にとっての重大な関心事であるから、となります。
そんな世界の中で「仕事」という行為は「努力さえすれば必ず成果が上がる」という実現性のとても高い選択肢なので、シンプルに解釈すると「努力すると必ず満足のいく結果を自分にもたらす合理的な社会的行為」になる筈です。
これを断念(そういう関心より強い関心)させるような構造とは何でしょうか?
『外(他人)の評価より内(家)の評価が、大事に感じてしまう』
これが強迫(脅迫)です、
内(家)の評価が外(社会)の評価以上に拘束力を持つ為には、内(家)が外(社会=他人)より上位の概念(結果構造的に社会や他人を見下していることになり、相対的にその関心を失っているのと同じ意味になり)で無ければ説明がつきません。
つまり、
自我は内向きの関心事に振り回されている。

この内(家)とは、脳内のイメージ(或いは過去)に過ぎませんから現実からは既に(時間的にも)乖離しています。本人は働きたいのですから、
内(家)の現実的な人間関係に拘束力があるのではありません。
心理的に、「それに拘束されている」という感覚を拭い去れない(忘れられないとは若干違います、一件落着として完結していないと見るべきでしょう)状態なのです。

この感情を内向きにしてしまう事項は何なのか?
それを考えてみてください。
どこの内(家)でも、単なる一市民に過ぎず、たいそうな重要人物がいる筈も無いので、どこにでもいる他人と大きな違いはありません。
しかし、そこに「とてもそうは簡単に思えない関心」があるのです。

自意識は何故、そんな構造に巻き込まれてしまったのだろうか?
それを過去のエピソードから探してみればいいのです、
当時と今では何せ自分の年齢(現在は大人ですから)が違います、「今思えばこういうことだったのか」と完結する記憶も随分とある筈で、そういった結論の出ていない記憶を整理する、望まない関心は大幅に後退し、それに比例して関心は外に向かい(戻り)ます。
本来は第三者が聞き取りする事で、ポイントを確認するべきですが、本人が思いつくままに無理しない程度に確認するだけでも一定の効果はあります。

この時注意する事は、『感情的になってしまう事』です。
感情的になる理由は、過去のエピソードをに大きく自意識に見せつける事で(脅迫)、無意識はこれにタッチされる事を一時的には望まない(自己保存法則のようなものです)流れの事で、「自意識は自己責任でこれを解決する事を決めたのだ」と明快に意思表示すれば、それに対抗することも可能です(決して簡単ではありませんが、それが一番有効な方法です)。

今すぐにできる事は「仕事をして一人暮らしをしたいのに、それが実現できなくて困っている」という意思を明快にする事でしょう。
514 返信 Re:ひとつひとつ確認してみましょう naru 2006/05/23 17:27
返信ありがとうございます。

無意識にある恐怖や不安を自意識にある仕事がしたいという意思で対抗するという考え方でいいですか?解釈違っていたらごめんなさい。

少し前までは随分と過去に縛られてきましたが、今は当時の自分の行動や性格を受け入れられます。よく過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません。ということは今の自分に満足しているということでしょうか。

以前に比べると自分の性質を認めはじめているので(あきらめているともいいますか)自己嫌悪感はあまりないように思います。自分は嫌いだけど自分が一番大事だと無意識では思っているだろうとは思います。自己愛が強いだろうと思います。

自意識で行動できれば一番いいですね。
何も考えずに行動すればいいということですよね。
それでも無意識にある恐怖が勝ってしまう。

家に閉じこもっているとどうしてもくよくよ考えてしまう傾向がありますが、外だと他人を意識してしまうので思考が停止するというか自分でなくなるという感覚があります。
実際にそれは自分ではないのでそのような自分が現れることが怖いのでしょうか。
他人を怖いといよりも自分が怖いんでしょうか。
なんとなくそんな感じがしました。

無気力になったのは自分を受け入れすぎたことで甘えが生じたせいかもしれません。
今まで他人と同じように行動できなくてそれで自分を否定し続けてきましたから。

でもこの状態で働いても同じ結果になると思います。
それにただの怠惰かもしれません。面倒くさいことは嫌いですから。
516 返信 Re:ひとつひとつ確認してみましょう kagewari 2006/05/24 11:01
> 無意識にある恐怖や不安を自意識にある仕事がしたいという意思で対抗するという考え方でいいですか?解釈違っていたらごめんなさい。

正確では無いのですが、認識の線上が外れていなければいいのであって(国語のテストじゃないですからね)、概ねその通りです。
一点だけ修正するなら
「仕事がしたいというのは、本音」です。
特に意識する必要は無いのです、

つまり、仕事(必ずしも報酬を伴う必要はありません、個人的な製作でも、ほとんど仕事と化している趣味でも「外に向かった表現」と考えればいいのです)がしたくないのであれば話が別です。
自意識自体の認識を変えなければなりません。
「本音は仕事(あるいは同等の行為)がしたいのに、自意識がそう思えていない」

「何かこう面白い事ないかな」って感覚(欲求)の事です
それが無いと、ほぼ関心の中心はナルチシズム的な内向に自意識も同意している事になります。この場合は、この内向をせめて自意識レベルではしっかり失望させなければなりません。
通常このナルチシズム的内向とは「思春期につまらないので失望」するのです。これを反抗期といいます。
考え方なんですよ、
自分自身がローリングストーンズ並みの音楽を製作できているのでも無く、ゴッホのような絵画を描いているのでもない。ましてや自分自身が某国の絶対君主や王家の末裔でも無いのですから(ある意味古代では、精神的な悩みがそういった特権階級特有の症状でした)、失望して自然です。
ニュートンの法則のように、外の世界と関わる事で「何か面白いものを手にする」事で、「手に入れる」事ができるのですから、

事は簡単です

「バッカだな~自分」

と、独白すればいいのです。
これがキーワードになって、無意識の自己陶酔的構造を一時的に抑制できます。


> 少し前までは随分と過去に縛られてきましたが、今は当時の自分の行動や性格を受け入れられます。よく過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません。ということは今の自分に満足しているということでしょうか。

むしろ逆だと考えるべきでしょう。
(「今はそんなことありません」については後述します)
「過去に戻ってやり直せる事等ありません」
「これこれここは、こうだから、こここここのへんはこうだったんだ」と、過去の物語に結論を出すべきです。
「理由、当事者、背景、事情、自分、当事者能力」
歴史ですよ、
後悔とは、「本来こうできたかもしれない」というフィクションに拘ることで結論はありませんが。「あ~あ、こうだっんだよな」と思う事には結論があります。つまり後者が歴史であって歴史には結論があります、学ぶ事ができるからです「今はこうする事にしたんだ」と。
これを反省(内省)と言います、後悔の反対語だと思ってください。

後悔は当事者意識が過去にとどまり続け、時間経過が過ぎるほど自意識と現実との時間的乖離が広がっていきますが、反省は常に現在を注視する姿勢なので現実との乖離はZEROになります。

さて、「過去に戻ってやり直したいと考えたこともありますが、今はそんなことありません」とありますが、これは反省ではありません。むしろ抑圧と考えるべきでしょう。解決していない拘りが、何の対価も無く消える事はありません、「拘りは無意識の領域に、ある定型の慣用句のような形に単純化され潜った」と考えるのが正確です。
「過去に拘らない」とは、「いや~実はこんな事があったんだよね」としみじみと(人によってはゲラゲラ笑いながら)話せる事であるからです。

ここにも「バッカだな~自分」が被るのわかりますか?


> 以前に比べると自分の性質を認めはじめているので(あきらめているともいいますか)自己嫌悪感はあまりないように思います。自分は嫌いだけど自分が一番大事だと無意識では思っているだろうとは思います。自己愛が強いだろうと思います。

ここが、上記説明を証明しています。
「自分の性質」などこの世に存在しません、
ましてや、それは自分で語るものではありません。それは社会や他者があなたを評して感じるもので、関連性や時世や事情でコロコロその内容は変わりますから、実存的な意味は全く無いのです。
又、自己嫌悪とは反省ではなく後悔によって「自分が悪いと思う自己陶酔型の自己愛」の事になりますから、自己嫌悪的な興奮がモチベーションを代謝している(脳は、一度成功した代謝に行動選択の優先を与えるので、同様の行為は無意識に繰り返されます。それに気がつかないで習慣化すると、依存症のようにループしてしまい、気がつかないうちに抜け出せなくなるのです)傾向があると考えるべきでしょう。

> 自意識で行動できれば一番いいですね。
> 何も考えずに行動すればいいということですよね。
> それでも無意識にある恐怖が勝ってしまう。

ニュアンスは(感じ方ですが)近いです。
自意識とは常に考える存在で、言葉の通り無意識とは考える事無く行われます。感じ方としては「何か思わされてしまう」のが無意識になりますから、無意識的な従属関係にある自意識が、自意識的構造選択を「何も考えていない(妙に思う事が無い)」と感じる事は感じ方としてはそうだともいえますね。

無意識の恐怖が勝ってしまうのではありません。
これは相対的な結果です、
簡単に言うと、根拠の無い杞憂(自己陶酔的誇大視)の不快感(脳内では快感)が、自意識が考える現実的な企画やアイデアに対する興味を喪失させているのです、
つまり無意識にある恐怖の興奮(脳内では快感)が、現実の世界にアプローチする喜びより興奮レベルで勝っている(これも実質的に勝っているのであって、単なるイメージです。何故なら社会的行動は選択されない=予想に過ぎません)と考えればスムーズでしょう。


> 家に閉じこもっているとどうしてもくよくよ考えてしまう傾向がありますが、外だと他人を意識してしまうので思考が停止するというか自分でなくなるという感覚があります。

これは反対です、
自分とは、他者や現実との間に起きるアイデアの総体のようなものですから、それが本当の自分です。「何に対して何を考え、こういうことがあるとこうする人間」それが自分だからです、
家に閉じこもっている自分を確認できる客観は存在しませんから、そこにいる人物像は「想像上の自分(ナルチシズム的解釈)」であって、根拠(現実の裏付け)の無いものです。
「家にひきこもる自分」と、も一見社会に対する客観であるようにも見えますが、それは違います。「内(家)にひきこもる」が象徴化されたアンチテーゼであるからで、「編集者に隠れて自宅に篭城」とはやはり意味が違ってきます。

> 実際にそれは自分ではないのでそのような自分が現れることが怖いのでしょうか。

本当の自分に自意識が気がついて、外の世界へ関心が移る事を、無意識的な内向性が恐れているのです。
無意識は自己陶酔型の興奮を繰り返す代謝を期待しているからです。
これを阻止されないように、怖いという言葉でそれを規制していると見るべきでしょう。
現実の世界で「努力し苦労し一歩一歩自分が誰であるのかという、本当の自分等を知られては困る」のです。


> 他人を怖いといよりも自分が怖いんでしょうか。
> なんとなくそんな感じがしました。

「他人が怖い筈ない」と考えてしまいましょう。
「人間は平等だから、それはナンセンスなのだ」と根拠もあります。
おっしゃるとおり、怖いと感じる根拠(何せ引きこもっているのですから「他人はきっとこういう風に考えるのじゃないか」という雛型が、葛藤の原因となった家庭内の人間関係や自分自身のイメージから連想:投影されるのですから)は、自分のイメージです。
これも逆説的に考えてみましょう、
「少なくとも、そういった考えをしている他人はむしろ少ない(自分ではないのだから)」と考えれば気楽です。
※面倒くさくなく、都合よく考えればいいのです。

他人とは、だいたいがおせっかいなぐらい親切で平和的な人達です。
それが人間の素性ですから、
他人との不快感の大半は、妙な誤解や、自分の立ち位置をうまく相手に説明できない場合に起きます。
なので、自己紹介の一環と言っては何ですが、社会的にどういう印象を与えるだろうって部分にも若干関心を持って意識的に趣味の方向性を極端にしておく(趣味こそ大げさだったり、「ホラ吹き」なとこがあったりしてもいいのです)事も有効です。


> 無気力になったのは自分を受け入れすぎたことで甘えが生じたせいかもしれません。
> 今まで他人と同じように行動できなくてそれで自分を否定し続けてきましたから。

ともかく無気力な理由は、「仕事で徹夜したぐらいの達成感を、内向性のナルチシズム型不快(脳内では快)で感じて疲れている」からです。実質的なモチベーションの代謝レベルで言えば、徹夜して大手のクライアントにプレゼンテーションした後と同じ体感です。

そして、同じ人間なんかいませんから、「他人と同じ」という事象はそれ自体存在しません。「同じ他人などいないから」です、
おそらくイメージは「漠とした社会人のイメージ等の共同幻想」の事でしょう。それは「あなたが考えているんです」
「誰も同じように考えている人などいない」と考える方が建設的です。
(確かに「共同幻想」が社会に存在していることは事実なんですが、今の段階でそこまで考える事は無いでしょう。それは外の世界での格闘が始まってからの戦術論になるので、)

> でもこの状態で働いても同じ結果になると思います。
> それにただの怠惰かもしれません。面倒くさいことは嫌いですから。


同じ結果などこの世にありません。
あったらそれこそ奇跡です、
現実とは常に形を変え、流れているものです。
川の流れに石を投げたとします、
何回繰り返しても同じ『絵』に見えますが、川は流れています。
それは決して同じではありません。
人の認識の「イメージ化」が、現実の豊かさを矮小化させているだけです。

面倒な事はしなくていいのです。
それこそ、自己陶酔型の不快感こそ面倒です、
天気のいい日には外に出て、気に入った本があれば手に取ってみる。
自分という「機能を働かせる」んですよ、
それが必ずしも仕事である必要性は全くありません。
「仕事がしたい」とnaruさんが思っているのも間違いでありません。
確かに選択肢のひとつとして仕事もお勧めです、これだけ沢山の人が好き好んで選択しているんですから、それだけプルーフされた概念である事に違いはありません。
(「仕事に疲れたとか」「休みが欲しい」のコメントの背理は「息抜き」であって、誰しも「失業したい」とは言っていないのです。)
519 返信 Re:ひとつひとつ確認してみましょう naru 2006/05/25 17:17
返信ありがとうございます。

自分が外に出る為には、家にいることが退屈でしょうがなくなることしかないんですよね。
今はまだ退屈ではないんです。
お金を貯めなければならないというのは、kagewariさんの言ったように今は重要ではないです。
親を養わなくてはならなくなった時、自分は一生懸命になるんだと思います。だから自分の為に働くことはできないというか、したくないです。
(その前に家から放り出されるかもしれませんね)

そして死んだ方がマシだ。と思ったりします。
これは働いていた時には毎日思っていたことなので、そのような葛藤が続いた日々を思えば今が幸せな時期なのです。
だから自分は部屋に閉じこもっていたいのかもしれません。
少なくとも傷つくことはありませんから。

だから自意識でも仕事がしたくないということにはなりませんか?

過去の自分を「バッカだな~自分」とは言えません。以前は思い出すのもいやだったのです。ということは過去は記憶とともに隠れてしまっているだけで受け入れたなんてことはなかったのですね。

自分の性格等存在しないことはわかります。だから他人に自分を評価してもらう必要があるのですよね。その行為があまり好きではありません。自分を暴露されたくないです。でもこうやって自分の存在を訴えているのだから…矛盾してます…。

人前に出ると途端にしゃべれなくなってしまいます。言葉が出てこない。口が開かない。とか、ここ数年人と会話してこなかったせいもあるかもしれませんが。
それは仕事上にも影響してしまいます。しゃべる、ことに対してはどうしても積極的になれません。
対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。なので喫茶店で休むことも電車でイスに座ることもできれば控えたいです。
これらを克服しなければ社会に適応できないと考えているのですが、また大げさでしょうか。
人前に出なくてもできる仕事はあるかもしれません。それでも少なくとも他人とは会話するでしょうし、今自分にできるような仕事だとは思えません。
他人といると息苦しいのはただの緊張ですか。最近家族でさえもこのような状態が起こります。
これらの症状が出るので、自分は他人を怖いと感じたのかもしれません。実際は自分の作ったイメージであることはわかりますが、そう思ってもどうにもできないのです。

社会適応できないと決め付けるには早いですか。もっと苦しまないといけませんか。






520 返信 苦しんではいないのです。迷っているんですよ、 kagewari 2006/05/26 10:41
考える流れに間違いは無いんです。
前提となっている事実関係の与件(「ここがこうで、ここはこうだ」という前提)に誤解や間違いがあるので、考える流れは正しいのですが「あり得ない空想のような結果」が出てしまうので迷ってしまうんですよ。

基本的な状況を整理してみると、何故そのような結果のズレ(ここが迷いの原因です)が起きるのか予測がつきますから、少なくとも迷う『余地』は無くなります。

重要なポイントからざっと整理しおきます。
■昨今人の寿命はおおよそ100年といってもいいぐらいです。
さて、3歳ぐらいまでは記憶が無いですしその後17年は誰かの子供です。そしてここから大人としての自分の時代を迎え、現代ならその15年後ぐらいに結婚、2年ほどで親になり20年経つと又今度は自分の時代で「高齢化社会」と言われている所以ですが、ここで47年です。
わかりますか?ここで人生の半分です
つまりその人物が『親属性』である期間は人生の20%であり、その人物の子供時代とほぼ同じ且つ「子供だったり親になったりしていたのが家族時代」となりますが、この「家族時代」は人生の半分にも満たない年限です。
(しかもその半分は「子供」と自分を認知しているんですよ)

その中で『親である時代』は、もはや特段その人物を語る上で最も優先順位の高い属性とは言えません。
高齢化社会が語るように、自分の子供にも又家族ができれば孫が生まれる事もあるでしょう。ですから人を(家族型社会適応モデルとして)属性で判断した場合その人物を語る代名詞は『祖父母』です。なので高齢化社会と呼ばれるんです、
そして、その高齢者という認識は如何なものか(人生半ばの60~80までの人生は現代社会では「バリバリの年代」ですから)という見方すら、現在定着しつつあります。

ちょっと長くなりましたが。
> 親を養わなくてはならなくなった時
既に親でも子でもありませんよ、
立派な大人同士の関係で、ほとんど赤の他人も同然です。
ですから
> 他人といると息苦しいのはただの緊張ですか。最近家族でさえもこのような状態が起こります。
となるのは、ある意味自然であると言えます。

というワケでまず確認しなければいけない事実関係その(1)
『親を養うという概念を最初から持たない事』です。
これは先進国ではあたり前の話で、年金制度を持ち国民として基準レベルの生活を保障する憲法を持つこの国の基本中の基本の部分です。これは「高齢者の人権の保護」のためにあるのです。自分の力で自立的な生活をし(自由のためにです)自己の尊厳を保持する事は国に保障されていてそれは高齢者の権利なのです。
数字を挙げて考えるなら、「もし彼等に子供がいなくて且つ年金支給額も事情によって著しく少なく、預貯金や処分できる資産がほとんど無い場合で、且つ健康問題などで仕事につけない場合には生活保護が支給されます。満額だとその時の年金等の所得と合わせて概ね上限14万前後(賃貸住居で住宅手当が支給される場合)まで補填が行われます」。
親を養うと言いますが、ご自身の生活費とは別に14万円の支給を彼等に(夫婦で二人分の場合に幾らになるのか正確にはわかりませんが、仮に彼等が離婚して各人が一人暮らしをしていた場合、14万円×2ですから28万円ですよ)対して行う事が可能でしょうか?
それを下回っていて彼らが「自分は一人暮らしがしたい」等と思っていたら、無理に「養う」等と考えるのは彼らの権利を剥奪している事になりませんか?

家族生活(彼らがその継続を希望した場合ですが)における共同生活とは「資産(あるいは家)の後継者」であったり等の理由で、家族生活の継続が彼らの個人的な希望にも合致する場合になりますから、その事情や環境、生活の内容は「ある特定の状況」によるのであって、一般的なものではありません。
実際個人主義が進歩的に発展している北欧等では、高齢者の一人暮らしの希望は多く、それは高齢者の尊厳であり権利であると明快に社会的認知があります。

次の確認しなければならない事実関係その(2)は、
『naruさんが現在引きこもりのような神経症的強迫傾向に至った原因は、ほぼ間違いなくご両親のどちらかか双方にも神経症的強迫があった証明である』事で、それはどういう意味かと言いますと「家族としての構成要件を十分満たしていなかった=家庭は失敗だった」のです。人間のすることですから、十分に条件を満たす“家庭”なるものは現実社会に(特に先進国の場合)そう多くありませんから、失敗自体に特別の意味を持ちませんが、「家庭は失敗であり、各当事者にはそれぞれに当事者責任がある(これは各人の属性上の責任であって、いい悪いの問題とは全然意味が誓います)」と考えなければならないのです。
企業で言うなら「債務超過による事実上の倒産」です。
かといってまさか社員各人に弁済義務はありません、しかし法人として倒産しているのは事実なのですからこれは事実関係として認めなければなりません。
「十分に営業ベースに乗っている会社で部長を部長という属性で呼ぶ」のと、「倒産した後の残念会で部長を部長という属性で呼ぶ」のとは同じ属性呼称(家族なら「親」)ですが、ニュアンスは全然違いますよね、
今の所属している家庭の「倒産状態」をきちっと認め、その中での自分の立ち位置をはっきりさせる事が大事です。

ここで倒産を認めずに「粉飾決済」を続けてしまうとそれは強迫となり、各社員の心理状態に余計な不可をかけてしまいます。会社が粉飾決済をしている事を知っていて、何事も無かったように営業にいけますか?

■さて、各論に入りましょう。
> 自分が外に出る為には、家にいることが退屈でしょうがなくなることしかないんですよね。

失望するのは、内向性の事です(当然部屋の中で製作をする事もあるのですから、現実として部屋にいること自体に失望するという意味ではありません)。
> 人前に出ると途端にしゃべれなくなってしまいます。言葉が出てこない。
外の世界では、これほどまでに自分の存在を意識している事を示唆しますよね。これが反対に「自分の評価が好感である場合」それは今まで体感した事の無い感動クラスの現象だって反証です。
つまり、外の世界との関係と、室内だけの自分とでは得られる心の動きが段違い(比較になりません)ですから、内向に失望するのです。
この心の動きが今naruさんでは「逆に不快の目が出ている」ので、反対に内向化が安全な場所に仮想されているという意味です。
この外の世界が何故不快を計る尺度になっているのかという理由を説明しましょう。

「テスト(外の結果)を見せる」
これは誰しもが一瞬不安になりますよね(例外は100点である場合)
「テストの結果を自分でも見る事ができないのに、それを人に見せなければならない」
より不安感は増しますね、当然見る事のできない結果は自分で想像する事になります。元々自分に不安のある人が、その予想を上向きに見る筈ありません、そして現実を見る判断能力が破綻していればこの人は「0点だったらどうしよう」とすら思うでしょう。

すると

「0点のテストを見せなければならない」と心は準備します、
それが楽しい人がいる筈ありません。
そして、見せた人の反応ですが、「そんなテストに関心の無い人⇒特別成績自体に関心の無い人⇒異常に成績に厳格な人」の準で不安な間は強烈に前後します。

このテストが“自分”であれば、上記の説明の意味が理解できると思います、
そして、この自分を仮想0点にしておけば、不安のテンションを常に最大に維持する事も可能です。

と こ ろ が

重要な点を見落としています。
> 対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。

これらの不安には前提条件があります、全て他人があなたに関心が無いと起こり得ないのです。
電車の前の座席の人物等に、誰も関心などありません。
「自分の存在に電車内のみなさんは夢中で我を忘れて注目しいてる」
なんてことは、誰が考えてもナンセンスですよね。

それは深層心理に「この人は自分に凄く関心があり、そうでなければ自分も困るんだ」というロジックが隠れていて、これが他者に投影されるために起きる現象です。

と こ ろ が

ここでももう一段あり得ない前提があります。
「他人に関心がある」
これって一義的に自分自身の利害に関わるからですよ
「危険人物だ(自分が心配だ)」「美しい人だ(自分は好かれるかしら)」「有能そうだ(自分の仕事を手伝ってくれるかしら)」「何か一癖ありそうだ(自分と関わって欲しくないものだ)」
他人に関心がある理由は全て、自分固有の利益に関わるからで、漠と他人に意味も無く関心を持つ人は唯のひとりもいないのです。

つまり、他人への関心とは自分の肖像を求め、且つ他人の生き様への自分の利益としての興味、性欲を始めとする「関係性への欲求」であり、何の関わりも無く関心がある必然は何処にも無いのです。

なのにも関わらず感じてしまう強迫(脅迫)とは何でしょうか?

それは過去の投影以外(モデルとなる特定の人間関係の追体験)可能性としても有り得ないのです。

■大事な事は、過去の人間関係(おそらく100%親子関係でしょう)の内容を精査して、確実に誤解や無理な解釈がありますから(そうでなければ“矛盾する連想”を行うようなポテンシャルは人類に存在しないからです)そこを確証して誤解や疑念を晴らす事が大事なのです。
無意識に潜ったその概念は、自意識が後から新解釈を加えても即座に消えてなくなることはありませんが、自分で「それに気付く(これは脅迫だなとか)」事はできます。
次に何が起こるのか(自分がどう感じるのか)予想がつくだけでも、不快感は大幅に後退します。

> だから自意識でも仕事がしたくないということにはなりませんか?
(理由)
> だから自分は部屋に閉じこもっていたいのかもしれません。
> 少なくとも傷つくことはありませんから。

これと仕事は何の関わりもありません。
傷つくの感じているのは、個人的な理由であって仕事が原因では無いからです。個人的な理由が解決すれば、傷つく等の可能性は最初から消滅します。

> それは仕事上にも影響してしまいます。しゃべる、ことに対してはどうしても積極的になれません。

これも杞憂です、
「あれ、今日は誰ひとりと会話してないや」仕事場ではそんな事が再三あります。

> これらを克服しなければ社会に適応できないと考えているのですが、また大げさでしょうか。

根本的に間違えていますよ。
「一体何が根拠で社会等に適応しなくちゃいかんのですか?」
社会適応は各個人の人格構造や、個人の趣味趣向で選ぶもので、別段どっちでもいいのです。社会適応型の人物は不適応型の人材を必要とする事も多いですし、その逆もあります。
社会とはそんな多様性の円環であり、全員が社会適応型なんて、ナチス一党独裁下でも在り得ません。
それぞれ向き不向きがあるので、いい悪いは一切関係ありません。

ですから個人的見解、と公式的見解(違うタイプの人がいることに配慮しなければ話が現実から乖離します)の二つがあって自然です。
個人的な意見を言うならば、私は社会不適応型人格なので「社会等に適応するなんてことこそバカらしい事は無い」という信念を持っていますが、社会適応型の人物との関係で言えば本気で彼の社会適応は立派な事であるとも思います。
人はそれぞれ違うんですから、
私の信念は私固有の個人的な意見であって、適応対象者はわたしひとりだけであり、同様の感覚を他者には感じない(むしろ「あなたはどれ?」と尋ねて多様性を知りたいぐらい)のです。

> 社会適応できないと決め付けるには早いですか。もっと苦しまないといけませんか。

いえいえ、苦しむ必要はありません(感情的な不快は脳内処理では『快感』です)。
地味に一歩一歩、自分らしさを求めていけばいいのです。
naruさんは自由なんですから。
535 返信 Re:苦しんではいないのです。迷っているんですよ、 naru 2006/05/31 00:49
返信ありがとうございました。

迷っているといわれ、なるほどそうなのだ、とここ数日で納得してきたのです。

高校生までは学校に行くことが自分では義務であると考えそれ以外の選択肢はありませんでした。毎日行きたくないと思いながら何故続けられたのかわかりません。不登校にならなかったのが不思議です。
その頃は今よりも精神的に強かったということでしょうか。
それとも自分が変わってしまったのでしょうか。

迷っていると思います。何をしたらいいのかわかりません。
だからとりあえず、働かなきゃと思ったのでしょうね。

働くことに関して、親を養うという概念は捨てる、ということですが、養うというのはおおげさな表現でしたね。
ただ、両親が共働きで父も定年が近いので、自分はそのような表現を使ったのだと思います。自分が家にお金をいれれば少し生活が楽になるかと思ったのです(当たり前ですが…)。自分が両親を養うということが無理だということはこの前の返信でわかりました。親が時折、働くことを促すのは、やはり自分を心配してのことでしょうか…。

両親からの神経症的強迫というのは、どのようなものでしょうか。
自分では思い当たりません。
ただ父とはしゃべれませんが…。
ひきこもるというのにこのことが関係しているのでしょうか。

ひきこもりになる傾向として人間関係を築くのが下手、社会活動に参加できない、友達がいない、などがありますが、中学生の頃から学校に行く以外は外出しない子だったのでその延長上に今のひきこもりがあるのかな、とは思います。

他人が自分を注目などしていないことはわかっていても他人と目が合わせられないというのは気の持ちようではどうにもならないということですね。
親子関係というのは重要なのでしょうか。
もし自分が父と仲良く(見えるように)話せるようになったら自然と治るでしょうか。

初めての職場というのは、しゃべるというより教えてもらうことが大事ですよね。自分の就いた職種というのが、自分から聞きに言って教えてもらわなくては進まない仕事だったので、それが余計にしんどかったのです。そんなことで辞めてしまうなんて→社会不適応 だと思い込んでいたのです。
そしてとても不真面目でした。真面目そうに見えて不真面目ってどうですか。
どうでもよくなる、って、無責任だと思いませんか。
辞める理由が「しんどい」だったんですよ。
これって立派な不適応だと思いませんか…と自分で思っていました。

若者が多いバイトはできそうにないので(面接で通りそうもないので)迷ってしまいます。
536 返信 やはり話の前提に迷いの原因がありますね。 kagewari 2006/05/31 15:03
まず、ここから整理しましょう。
具体的な方がわかりやすいですから、個別に説明しますね

> ただ、両親が共働きで父も定年が近いので、自分はそのような表現を使ったのだと思います。自分が家にお金をいれれば少し生活が楽になるかと思ったのです

考え方とするなら、「自分の稼ぎは自分の自己責任」ですから。
あまりにも高額の学費を必要とする進学だったので「これはほとんど親から借りた奨学金だと自分で考えた」のなら別ですが、子供の進学の一部は「親にとっての世間体」でもあるので、これは一元的に進学した当事者だけの利益ではありません。
ですから(実際現在の国の政策もその方向を模索しています)、学校卒業までの実費について特別の考えを持つ必要はありません。

むしろ、大学なり(大学や専門学校進学志望ではない場合には)高校なりを卒業したら独立するのが基本だと考えてください。
そもそも自分で考える最終学歴を卒業したのに親と同居しいてる事自体が不自然なのです。
現在一人暮らしをしていて、その生活資金を親に援助してもらう方が話はわかりやすくなりますよね、明快に借金額がはっきりするからです。
共働きの夫婦にしても、当然子供が独立してくれれば生活が楽になることは明白です。

昔の日本では子供の数が半端ではありませんでしたから、長男が実家にお金を入れるのは自分の弟や妹のために必要だった部分もあるので、これと現代社会を同じに考えても話が複雑になるだけです。
そもそも子供の数をコントロールしているのは親世代なので、当然上記のような発想(子供からの仕送り)は親にも無いことになります。

> 両親からの神経症的強迫というのは、どのようなものでしょうか。
> 自分では思い当たりません。
> ただ父とはしゃべれませんが…。

つまり、対人恐怖のモデルは無意識に沈んでいる父親との間の恐怖です。これが投影されるためで、室内に引きこもるのは家人から逃げるためでもあります。
そもそも、封建社会の時に「父権の権威がとてつもなく大きい時代」ならわかりますが、現代社会で父親と話せない理由等ありません。
実際父親の側も「幸せな家庭」を目論んで結婚し子供をもうけているんですから、その子供とギスギスしていたんでは、彼は何のために結婚したんですか?
彼が気さくに話しかけてこなかったり、或いはとてつもなく話しにくい人物なのは「彼も同じような対人恐怖」があるためで、自室に引き篭もるように家人との会話を避けている可能性もあるって事です。

>中学生の頃から学校に行く以外は外出しない子だったのでその延長上に今のひきこもりがあるのかな、とは思います。

この当時から、親がこれを問題視しないのは同時に問題です、
そもそもnaruさんの個人的な環境には社会性が無いことを意味していますから、これは余計に「naruさんの自我のほとんどは家庭環境下で形成されている」事になります、その家庭にいた人物は誰ですか?
自我は言葉の総体ですが、自分だけで通用する新言語を編み出す人はいません、言葉を誰かから教わるものだからです。
今のnaruさんの自我構造の基礎は、両親の自我との関係から成立していて(「基本構造部分をインストールしている」という見方もあります)これを幼児は自分自身の社会性(家庭内社会や地域社会、学校生活等)で自立的に発展させます。
この社会性がnaruさんに、元々欠ける傾向があるなら余計にその自我構造は「現在も両親との関係による部分が支配的だ」と言えるのです。

現在も「父とはしゃべれません」なら、問題は深刻です。
言葉を教わった人物(もっぱら母親の場合が多いですが)の側に属する重要人物(家長)との関係が疎遠だという事は、深層心理にその人物に対する不快なイメージ(恐怖感等)が無い限り説明がつきません。本来親子関係には(幼児は無条件に一時的に両親を絶対者として好感した記憶を持つので、それ以降のイメージに不快があると自我内に根本的な矛盾を持つことになります)、
本来親子関係とは反抗期に親に対する好感への失望が起き(そのため家を出るのが自然なのです)その後に実社会に出る事によって(適応である必要ありません)改めて親への認識も再構築(親に問題があるのなら嫌うのではなく「自立的な批判」に変わることでそれは漠然とした恐怖心ではなくなるからです)されるものです。

> ひきこもりになる傾向として人間関係を築くのが下手、社会活動に参加できない、友達がいない

この部分の人格形成に多大な影響力を持っているのは、両親の自我そのものです。

> 他人が自分を注目などしていないことはわかっていても他人と目が合わせられないというのは気の持ちようではどうにもならないということですね。
> 親子関係というのは重要なのでしょうか。

上記と話は被りますが、連想(個別に話しが出来ない人物があったり無かったりするのではなく、全員とである事が証拠です。人間には本来それぞれ違いがありますから、これを認知できないのは「前者に同一人物の投影」があるためです)の根拠は両親のどちらか或いは両者との関係が原型になっています。
昨今の精神的な悩みの大半は「親子関係」が原因です。

> もし自分が父と仲良く(見えるように)話せるようになったら自然と治るでしょうか。

問題なのは、無意識に沈んでいる過去の「父親に対する恐怖心のイメージ」で、今現在の父親ではありません(イメージの父親が象徴化されているので、通常反抗期は両親に対する失望として発現します)。
彼との関係自体を形だけ変えても意味はありません、
「彼は一体どんな人物で、何故自分は彼に話し掛けにくいのか」を自分で気がつかないといけないのです。その延長上にこれまでとは違う父親との関係が築かれる事になりますが、結果は以前より関係が悪化して自然なケースもありますから一律に仲良くすればというものではありません、彼に幼児虐待に近い言動があった場合なら和解する方が不自然だからです(この場合「母親に離婚を勧める」であるとか、「父親にはカウンセリング等のケアが必要だ」という結論を持つ事になりますから)。

> 初めての職場というのは、しゃべるというより教えてもらうことが大事ですよね。

違います、学ぶ事が大事なんです。仕事の結果に給料もらっているのであって「それは自分の利益だから」です、
つまり困る職場とは「学ぶたいのに仕事を教えてもらえない職場」になります。
「教わるものではなく、自分自身で個人的に学ぶことが必要な職場」もありますから、頼まなくても教えてくれる職場は「楽な職場」になたります。

> そしてとても不真面目でした。真面目そうに見えて不真面目ってどうですか。
> どうでもよくなる、って、無責任だと思いませんか。
> 辞める理由が「しんどい」だったんですよ。
> これって立派な不適応だと思いませんか…と自分で思っていました。

非常によくわかります。
「真面目そうに見えて不真面目」これは、会社の人を無意識にバカにしているんです。むしろ特権階級的な立場(これを守るために人は引き篭もります、何故何らナルチシズムが関わっているからです)から、他者を知らない間に蔑視しているんですよ(自己愛がある場合には構造的にそうなります)。

もし、同時に面接した人のなかに「家族の生活のためにこの仕事にかけていた人」がいたとしたらどうでしょうか?
naruさんの行動は、そんな人やその会社での仕事を大事(自らの誇りだと思っている人)にしている人を無意識に「お前らなんかどうでもいいんだよ」と言ったのと同じだからです。
ここで話はぐるっと回ります。
「お前らなんかどうでもいい」と思っている連中と話したいですか?

なので、仕事選びって自己責任で選ぶべきで、なんとなく選ぶものではありませんし(自分の利益なんですから)。仕事をする気が無いのならしない方がいいのです。
現実、神経症的傾向で仕事が出来ない場合、これは障害と同じですから(条件にもよりますが生活保護の支給対象にもまります)、それを偽って無理に仕事をしてその苦痛の原因を「他者は話しにくい」と考え、自分がその(他者の)被害者であるかのように受け取り方を間違えてしまい、引き篭もるのは矛盾なんですよ。
つまり、被害認知が無ければ知らず知らずに「他者を軽蔑する」心配も無く(当然その心理が潜在意識にあれば「他者が怒って何か言ってくるかもしれない」と不安に身構えるのは自然ですよね)、自由な立場から自分を見つめなおす事もできます。

現実「社会に問題があるのではないか」と考え、社会不適応の立場からこれを批判したり改善しようよ考えをめぐらす立場があっていいんです。
現在のこの国の首相がそうなんですからね、
彼は改革派であり、破壊者である事も自認し、すべて官邸で自分ひとりで考え自己責任でこれを政策として提案しています。
その判断は「選挙」であり、先日の衆議院議員選挙で彼は大勝し社会の信任を得ているんです。

着眼として「なんとなく嫌う」のは、自分自身を貶めます。
自分に嫌な感じがするのは何故なの考えれば、これは話が全然違ってくるんです。
「批判し自分はこう考える」
これは嫌うのとは違うからです、
知らず知らず(無意識)って部分こそが問題なんです。
主体的に関わっていれば、その行為自体が他者を尊重している事になります(違う考え方がある事を同時に支持していることになるからです)。

仕事選びをする以前に、「この家庭内の自分はどうだったんだろう」と、ここを親子関係を含めて考えてみることから始めないと、その葛藤をそのまま社会に投影してしまいますから迷いは余計複雑にわかりにくく(矛盾して答えのないものに)なってしまうのです。
537 返信 Re:やはり話の前提に迷いの原因がありますね。 naru 2006/06/02 00:54
返信ありがとうございました。

大学を卒業した時点でフリーターでした。その頃就職していれば今家を出て独立していたかもしれません。現時点で収入がないのですから、今家を出て独立することはできません。できないとういより、したくないです。と、今はそう言った方がいいですね。

父親とは少し似ていることろがあるように思います。小学生までは家族旅行によく行きました。幼稚園の頃はたぶんよく遊んでもらったかもしれません(写真で一緒に写っているのが結構あったので)。父は仕事が忙しくて夜遅く帰ってましたから普段からあまり会話もなくそれがずっと続いていてきた感じです。

中学生の頃からひきこもっていたらさすがに親も心配したと思います。でも母は自分が友達がいなくて学校も嫌々行ってたのを知ってますから、もしかしたらいじめられてたんじゃないかとか思ってたんでしょうね。家にこもることに関してはあまり触れませんでした。
自我のほとんどは母親じゃないでしょうか。高校生頃から母にべったりでした。それまではほとんど話もしなかったのに。母親に対しては反抗期というものがあったのでしょうね。だからこうやって安心して話せる。父に対しては感情的に何かを言ったこともないので、それが必要だったのかな、と思いました。

両親ともに社交的でないのは確かですが、対人恐怖ほど深刻なものではありません。一般的です。
だとしたら自分が特にひきこもる要因はないような気がするのです。

そこらへんまだ理解できていないかもしれないです…。

父の性格やどうして自分に対して冷たいのか、は今まで一緒にいて少しわかりました。それは自分が長女で始めての子供でどう接したらいいのかわからない、とか中学の頃のこととかあったので話しかけるタイミングがわからなかったのですよ、きっと。自分も同じですから。父は自分に嫌われているのではないかと思っているのです。
でも歩み寄れないのは、自分がこの家にいるからですね。

自分が望んでいたのは「楽な職場」でした。人間関係が嫌なので、なるべくかかわらずにすむ職種を選びました。初めから楽な職場などないということですね。どうでもいいと思いながらも人前で話すのは緊張してたり、いろいろ矛盾していました。

自分は他者を軽視しているつもりはなかったのですが、そう言われると納得せざるを得ないような…。でもそれは例えば飲み会とかでも楽しめないというのは、そういうことなのでしょうね。実際、ここ最近、人と話しても全然楽しくなくて、緊張ばかりというのも多分そいういことなのでしょうね。飲み会の場合は誘われても行かないことがほとんどでしたが…。

他者を軽蔑してでも働かなければならないということもないので、じゃあ働きませんというわけにもいかないですよね。
親子関係、父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です。仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。自分も何か言われるのではないかとビクビクしています。父の前で怖がらずに堂々としていればいいのでしょうか。今はこれしかできません…。
539 返信 シンプルに考えてみましょう。 kagewari 2006/06/02 20:53
■如何に独立するのか?です、
「独立するために収入が必要だ」という明快な動機形成が行われますから、ここに迷いは無くなります。
簡単に言えば「さて、どうやって食っていくか」とか「部屋を借りる金をどうやって調達するのか」とかの発想です。

わかりますか?既に落ち込むとか苦しむとかの考え方が入り込む隙間はありませんよね。
「さて困ったぞ、自分はこういう感じの職場は無理だし」「こういう環境の職場はあるだろうか」「こういう条件は譲れない部分だ」とかね。当然、そんな都合のいい職場はそう簡単に見つかる筈ありません、
だからいんですよ(笑
主体的な『苦労』があるじゃないですか、
それこそ自我の生きた証で、苦労に内向的な落ち込みは連想されません。典型的な台詞があります、
「今苦しい時だけれども、思い悩んでいる“暇”は無い」
この状態に、環境を整理すると、同じ結果「暇が無い」になりますから=落ち込む頻度は構想的に減ります。
※重要な事ですが期限を切る等、決して自分を追い込むような事はしないでください。「無期限」をっ徹底するぐらいでちょうどいいです。

探してもみないのに(面接落ちる回数30回とかやって当たり前なんですよ)、無いに決まっていると考えているとしたら?
これまでの話からある程度推定できると思いますが、
「そもそも落ち込むための企画が台無しじゃないか」と深層心理で思っている事になります。
※食えればいいのであって、「必ず就職しなければならない」という必要はありません。

■さて、自我の分析の方向に話を変えましょう。
> 父親とは少し似ていることろがあるように思います。小学生までは家族旅行によく行きました。幼稚園の頃はたぶんよく遊んでもらったかもしれません(写真で一緒に写っているのが結構あったので)。

ここで、幼児の記憶にはお父さんとの関係に『明快な快と好感の記憶』がある事は確定的です。
重要な事なので、これを前提として押さえてください。

> 中学生の頃からひきこもっていたらさすがに親も心配したと思います。でも母は自分が友達がいなくて学校も嫌々行ってたのを知ってますから、もしかしたらいじめられてたんじゃないかとか思ってたんでしょうね。家にこもることに関してはあまり触れませんでした。

ここが重要です、(いじめられている心配があるのなら余計に)何故母親はそれを放置するのですか?これは母親にとって重大な問題です、時に命に関わる事もある学校での問題から逃げる理由は何ですか?
文面の印象から考えるなら、「プライバシーに配慮した」になるでしょう。
しかしこれは現在社会問題としても知られている話ですよ。
これに対して「見ないことにしたい」かのように放置するのは、自分には当事者責任能力が無い(無抵抗である)という意思表示と同じですから(当然そのバックグラウンドに「○○はどうした」と、父親が気にかけていなければ不自然です)、

その家族が「何か面倒な事から逃げる集団」であった事は歴史的事実だと、この部分も押さえておいてください。

> 両親ともに社交的でないのは確かですが、対人恐怖ほど深刻なものではありません。一般的です。

これは決して一般的ではありません。
精神的な悩みを自我が抱える人格が醸成されるためには「社会から孤立する家庭」や「会話が(対人恐怖で)少ない」という部分は心理学的にも非常に重要なポイントなんです。
精神的な悩みと、実力行使としての苦痛は比例しません。
たとえ父親が暴力的でも「うるせんだバカ野郎」「オメーこそそれで父親か恥ずかしくネーのかよ!」と家が壊れるような流血の喧嘩があったとしても、そこには「わかりにくさ(想像するしかないので、無意識に誇大な象徴化の原因になります)」「情報公開の無さ(どんな奴なのかわからず疑心暗鬼になる)」がありませんから、自我が悩みを抱える心配は全く無いのです。
同時に「物理的な会話が多ければいい」という意味でもありません。何故なら父親が偉大な人物として、家族に明快なコンセンサスがあり、各人が彼を尊敬していれば普段の会話はほとんど無くてもいいのです。しかし、予想がつくと思いますが、そんな父親はここって大事な時に優しく声をかけるもので、前述の尊敬も相まって、その一言は一年に一度でも深く心に残ります。
つまり「相互理解が構成されている」のと、情報公開(こいつはどんな奴なのか)がこの場合にも明快です。

一見わかりにくい些細な問題ほど(なので近所の人にも気付かれない事が多いです)、自我に与える影響は甚大です。
※人間関係で些細な心使いが大事なのと同じです

『完全に矛盾している部分』を見落としています。
性的欲求は動物には普遍ですが、心理学上での人類の性的欲求の意味は「他者とのコミュニケーションする欲求(自分の実存を確認するためです)」と考えてもらえればわかります(実際の性行為を志向する欲求という狭義の意味ではありません)。
幼児(特に赤ん坊)は保護者無しで生きられません、保護が無ければ100%死にます。そして、成長が著しく遅いサルである人類はその幼児期間が異常に長く、その保護(深いコミュニケーション)期間を『幼児なりの性的快』として記憶します。
そしてその裏は死です、
そもそも自我(言葉)を構成(覚える)する初期の動機は「親子におけるコミュニケーションによって得られる快」です。
動物は繁殖期にしか衝動的な性欲を感じる事はありませんが、社会性を獲得するための動機として『一年中性交可能な稀な哺乳類』として進化した人類(常に性欲のストレス下にあります)にとって、その欲求は最もその動機形成にとって支配的です。
※このコミュニケーションも、実際人と会うとかそういう一時的な狭義の意味ではあありません。表現された本を読んだり、映画を観たり、音楽を聞いたり、自分で何か作品を制作したり、これら全ては意図されたコミュニケーションで、この中の一種が仕事であったり恋愛であったり友人関係であるに過ぎません。

人間以外の動物が、自然そのものを(自己表現する)社会性の総体として行動していくのに対して、人類では「人類間のコミュニケーション社会そのものに特別の優先順位(自然から独立した別個の環境として)を持つ」という特性はここからきています。
古代から神々の存在を設定するなど自然を『擬人(神)化』する事によって理解し様としたのも同じ理由(人類間のコミュニケーション社会に置き換えて考えることを自我は優先する)です。

つまり親にとって、子供との間でコミュニケーションが取れてない事は強い不快感を伴う「不安」です。(育児ストレスでどれだけの親が悩んでいるのか想像していもらえればわかると思います。自分の子供との間のコミュニケーション障害ですよ。)
そもそも「家族」という企画は、血縁(安心感のある)によるコミュニケーションを担保するためと、夫婦という性行為の主体と安全を確保するためのバンド(集まり)です。
コミュニケーションに失敗しているなら、それは家族の存在意義そのものが失敗に終わっている事を意味していて、それは始めた当事者(夫婦)ほど深刻に考える問題になります。(夫婦が離婚する原因のトップもコミュニケーションのトラブルです)

自分の子供に悩みや問題があるというのに、これを自分の問題(必ず親の自我構造にも当事者責任があるのですから)として考える事から逃げているのは半端な事では無いのです。
既に失敗している事について、家族の首謀者である親世代が「それを半ば諦めている(敗北を認めている)」と言ってもいいぐらいです。

>高校生頃から母にべったりでした。それまではほとんど話もしなかったのに。母親に対しては反抗期というものがあったのでしょうね。だからこうやって安心して話せる。父に対しては感情的に何かを言ったこともないので、それが必要だったのかな、と思いました。

そう考えていいでしょう。
女性の場合母親は家族というキャラクターの中でも特有の人間関係が生まれます。ママゴトや人形遊びぬいぐるみ家事の手伝いに代表されるように(同一化と呼ばれます)、父親との関係を無意識的欲求に織り込む母親との関係性は、同性という事もあり、血縁の家族というより「同胞」のような感覚が生まれます。
ある意味、家族的ではない分話しやすいのですが、それはどこか上辺に偏りがちで、友達に近いものである事も多くなります。
それだけ反抗期のハードルも低いので、母親との関係だけは維持される事は不思議ではありません。

「それまでほとんど話もしなかったのに」
ですから余計に彼女との関係は家族外の人間関係と見ていいでしょう。
家族を連想させるデリケートな部分を欠いているからです。
母親にしても「子供」と感じれば意識過剰になる分もあったでしょうが、対象者が高校生にでもなれば「女(他人)として気楽に話せる」と彼女も思ったと考える事もできます。

やはりコンプレックの正面は父親になる、
ここも確認して押さえておきましょう。

> 父の性格やどうして自分に対して冷たいのか、は今まで一緒にいて少しわかりました。それは自分が長女で始めての子供でどう接したらいいのかわからない、とか中学の頃のこととかあったので話しかけるタイミングがわからなかったのですよ、きっと。自分も同じですから。父は自分に嫌われているのではないかと思っているのです。

> 親子関係、父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です。仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。自分も何か言われるのではないかとビクビクしています。

この部分が最も重要になります。
大事な事ですが、父親は冷たいのではありません。それでは子供時代に仲良くしていた理由を説明できません。
彼は怖いのです、
「男としての尊敬が貶められる(失望される)」事がです、
だから、娘が「女」に見え出してから、その恐怖心が実体化したのです。
先ほどの説明と被りますが、男の子は父親の権威を誇大なイメージとして幼児期に持ちます。そして母親を手にいいれるためにはその父親を超えなくてはならないと潜在意識で思うので、スーパーヒーローや、怪獣映画、ロボットアニメ、TVの格闘技等に熱中するのです。つまりこれが思春期を通過し大人になると「性行為を許されない不安」として認識され「立派な大人にならないと恋人も出来ない」とか「芸能人のようにカッコ良くないと性行為が許されない」とか「不良のような暴力的強さを誇大にアピールしたくなったり(不安から逃れるため)」や「年収に拘ったり」「なにやら難しい事を言って尊敬させよう」とします。
それほど一般的(特に社会適応型人格の場合)には男は不安を持っていて、社会的な成功への強い欲求はほとんどそんな潜在意識があるためです(前述の説明の「年中繁殖期」の意味がここで繋がります、人類特有の性的欲求ストレスの継続=性的不安の継続)。

前述したとおり「血縁としての安全なコミュニケーションの場」これが家族の狙いです。わかりますか?「ひいき目(甘え)に見てもらえるよね?」って事ですよ。
とても簡単な仕組みです「お父さん(社会的地位)」と呼ばれるだけでもちょっと快感(不安を解消し安心した気分)なんですよ、男は。

その血縁の女(娘)が、何か冷淡で、話し掛けてくれないんですよ?
彼は不安になります、自分から話し掛けて答えを聞くのが怖くなります。「お父さんって立派ね」なんて浮いた話を期待しているのではありません、何も意識する事も無く、さも当たり前に気楽に「お父さん」と呼ばれれば十分なんですが、そういう気楽な会話が無い。
自分から話し掛けるのも怖い、

「父に対する態度は誰より、昔から他人行儀です」なんですからね、
「父は自分に嫌われているのではないかと思っている」そのままです、
(女に性的に嫌悪:軽蔑されていると解釈してみてください)

これが会話が疎遠になった理由です。
かといって子供が親の対人恐怖に配慮するなんて不自然な事は滅多にありませんから、親自身に不安神経症傾向があると、子供の自我はかなりの高確率で問題を内有します。(つまり近所の人や親戚等でこの家庭に第三者的に関与する大人が別にいればその心配は大幅に後退します)

「仕事を勝手に辞めても働かなくても何も言ってこないのは父は他人だからです。」
正反対ですよ、
会社の同僚ならまだいくらか気楽に話しかけられるでしょう、何かその答えに失望があっても赤の他人なんですから対して気にもなりません。彼は過剰なぐらいnaruさんを「自分の娘」と意識しているので不安で何も言えなくなっている(初恋の人を友達に紹介されて何も言えなくなるのと心理的には同じ)のです。
時折世の中の父親は「あんなしょうがない奴の事など知らん」などとうそぶく発言をする事もありますが、その大半は単なる強がりです。

前にも話しましたが、実際に今父親と仲良くする事に意味はありません。
彼はどんな人間なのか知ることが大事なのです、
見方が代わる事で、彼の見え方も大きく変わってくるでしょう。

>例えば飲み会とかでも楽しめないというのは、そういうことなのでしょうね。
この部分は一元的に精神的な悩みとは関係ありません。
社会を構成する事はそもそもストレスで、そのガス抜きとして飲み会があるのは事実ですが、飲み会も又社会です。
社会適応型人格の人物には飲み会も社会である事の苦痛は少ないのですが(苦痛はあるんですよ、彼らも。だから「私はいかない」と簡単に言ってしまうと、そうはさせないと逆に強く誘ってきたりするのです)、社会適応型のタイプでは無い人物にとっては、飲み会と暴走族の集会には大きな違いがありませんから、ちょっと付き合いきれないと思ってもそれは不自然ではありません。

しかし社会適応型の人格にとっては「それも大事なコミュニケーションの場」ですから、その飲み会がとても大事で意義あるものだという部分を十分尊重した上で
「私はちょっと苦手なので」とか「今日はどうしても用があって」と言って断るべきです。
社会適応型の人格の人物にも勘のいい人はいますから、「あっそうかそういうの苦手なんだね」と理解してくれる人も多いものです。
541 返信 Re:シンプルに考えてみましょう。 naru 2006/06/06 04:48
返信ありがとうございました。

> 「独立するために収入が必要だ」という明快な動機形成が行われますから、ここに迷いは無くなります。

迷いはなくなりますが、日々悶々と過ごすことにはなります。

働くことに迷っていますが、その前に外に出ることにも迷っています。
「明日こそハローワークに行くぞ!」と思っていても当日になると面倒くさくなってしまい、結局行かずじまいです。

これは主体的な苦労に当たりますか?

必ず就職しなければならないわけではないですが、1日でも働く気になれません。

以前は怖くても働く気力はあったのに…。

これでは食ってもいけないですね。

勇気を出さなければいけないんでしょうね。

昨日ニートに関する番組をテレビでやっていたので見たのですが、合宿や共同生活等により、ニートやひきこもりだった人たちが、仲間で楽しそうに話せるようになったり、頑張って働けるようになっていましたが、自分はそのようになれないと思いました。

なりたくない、と思いました。

そんなに短期間で変わってしまうものでしょうか。働く意欲が湧くのでしょうか。
共同生活にそのような効果があるのでしょうか。

「共同生活もできないなら、社会ではやっていけない」といわれていますが、まあその通りでしょうね。
自分を他人にさらすことができない、のですから私は変われないだろう、とは思うのです。

これって、ただ意地っ張りなだけしょうか。

負けず嫌い、でも弱虫。

他人に気を使うことができても、それはとても自分に矛盾してることのように感じてしまって、それはだた照れ屋なだけでも人見知りなだけでもないような気がするのです。

精神分析に関係ないコトばかりでした…(^^;)

父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。

彼の性格も考えていることも。

なので、対人恐怖に家庭環境が関係しているのなら、私の対人恐怖は治るはずですよね。

昔は大人なんて怖くなかったのです。

むしろ他人にはこちらから進んで声をかけてしまえそうな、感じで。

当時、恐れていたのは学校の同級生だったからです。
その頃外出しなかったのは、同じ社宅に同じクラスの男子が住んでいて顔を合わせたくなかったのです。
外出することで同じクラスの子達にばったり会ってしまうのをひどく恐れていました。だから外出せずに家でアニメばかり見るようになったのですが…(笑

知り合いになった人には自分のダメな部分をアピールしまくります。それでも私と一緒にいたいのですか?と確認するくらいに。大学時代はそんな感じで、特に知り合いもいませんでしたが。

飲み会と暴走族の集会の例にはなるほど、その通りだと思いました。
どちらも私にとっては同じようなものです…。
社会適応型の人でも自分と似てるな、と思うところもありますが、あ、やっぱり違うと思うことが多々あります。
その人が言う人見知りと私の人見知りでは何か違うのです。

私は、社会適応型の人格になれますかね…?

なりたいわではないのですが、憧れはあります。

ニートの人たちがみんな社会適応ではない人たちではないと思うのです。
もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。







542 返信 何点か修正が必要ですね kagewari 2006/06/07 13:33
> 「明日こそハローワークに行くぞ!」と思っていても当日になると面倒くさくなってしまい、結局行かずじまいです。
> これは主体的な苦労に当たりますか?

違います。「明日は行こう」か「他の選択肢を考えよう(働かない事も含めて)」が、苦労です。
「明日は行こう」と考える事で(必ず行きますから)、自分を行かせることに苦労している事になり、「他の選択肢を考える」のも又一苦労です。

そもそもハローワークは適当じゃないと思います。
今の状態だと、バイトでも十分なぐらいですから、ネットで探す某雑誌で探すって選択肢の方が有効でしょうし、そもそも仕事をする方向の選択肢ならやまほど履歴書が必要になりますから(履歴書は直筆で書くほうが良かったりします)、履歴書30枚用意するだけでも又苦労です。
やれる事は山ほどあります。

繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。
通常証明として、心療内科等の診断書が必要になりますから、この場合には病院探しをする事になります。
実際モチベーション無く就職退職を繰り返すと(人事担当者としては短期退職があると凄まじい赤字計上になるので、これは非常に大きい損失になります)、そちらの方がコストになりますから、むしろ一時的に生活保護により生活の安定を確保し将来的な就労の準備(国から見ると投資になるので、キチンと税収として投資効果があります)をする選択肢もありますし、結果的にも就労が難しい場合でも「心因性の問題」はある意味文明の結果であり、公害に限りなく近いものになりますので、自分自身の権利として主張する部分は主張する事は市民の責任でもあります。

そもそも何の仕事があるのかあれこれ考えるだけでもいいのです。
いろんな職業の実態や、職員の声をネットで拾うだけでも膨大な時間を要します。

> 必ず就職しなければならないわけではないですが、1日でも働く気になれません。

そのとおりです。

> 以前は怖くても働く気力はあったのに…。

これも説明しましたとおり、「働けない自分への内向(ナルチシズム)」によって、仕事した以上の満足を得ていますから、そう思えて自然です。

> これでは食ってもいけないですね。

そんな事はありませんよ。
事実今、ある共稼ぎ夫婦の世話になっているのですから、今の職業は「ある夫婦の自宅での居候」となります。

> 勇気を出さなければいけないんでしょうね。

勇気ではありません、現在仕事をしないで内向しその快感で代謝しているモチベーションを外に振り向ける(必ずしも仕事である必要性はありません)意思の問題で、そうではない場合には「仕事をしない事でそれを問題にし、自分自身を内向的に満足させている」ときちっと自覚する事です。
自覚する事で、それは無意識から自意識マターになりますから、暴走する事を意識的に制御する事も出来ますし、ちょっと待てよと他の選択肢を考える余裕も生まれます。
既にこの瞬間「内向的満足」は挫折しますから、モチベーションは行き場を失い「さあ何をしようか」と現実(外)へ向く事になります。

> 昨日ニートに関する番組をテレビでやっていたので見たのですが、合宿や共同生活等により、ニートやひきこもりだった人たちが、仲間で楽しそうに話せるようになったり、頑張って働けるようになっていましたが、自分はそのようになれないと思いました。

こういった番組は最悪です。
北朝鮮の政治的プロパガンダ番組と違いありません、見るに耐えないのでたいがいこういった番組を私は見ません。
『笑えないお笑い番組』のようなものです、
痛いというか、引いちゃいますねマジで

> 他人に気を使うことができても、それはとても自分に矛盾してることのように感じてしまって、それはだた照れ屋なだけでも人見知りなだけでもないような気がするのです。

矛盾する感じがするのは「他人に気をつかった事が無い」からです。
現在の内向化傾向ですと、他人の人格(どんな人物なのか)をほとんど認知できていませんから(簡単に言うとな内向化が停止するといろんな面が見え出しその人物の印象そのものが変わるからです)、構造的に気を使う対象『他者』を認識できません。
現在の状態は、少ない引出しの中から特定人物のモデルを投影している(新たに知っているのではなく、イメージを当てはめている)状態なのです。

> 父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。
> 彼の性格も考えていることも。

わかっていませんよ、「100%間違えている」と断言できます。
何故なら、彼には神経症傾向があると考えるのが自然ですから、彼の自意識は自立的に考えるフェーズが相対的に少なく、現在の彼の状態は偏った状況にある自我の在り様となります。これまで彼の人生の中で「彼がそのような人間か表現された例は非常に少ない」からです。彼が信頼している友人や、ふと偶然知り合いにあった馴染みの店の人間であるとか「ある特定の人物」だけが、そこに偶然遭遇する可能性はあるにはあるんですが、それにはその対象者が彼に関心がなければ記憶されませんから、その確率は非常に少ない(当然彼自身も知らない)と言えるでしょう。
現実自由に自立的に考る機会も少ないと考えられます(大半は無意識からのストレスに対する場当たり的リアクションの域を出ないということです)。

又、そもそも性格という概念は論理矛盾で、存在しません、

「父親がどのような人なのかはとってくにわかっている」
その可能性があるとするなら、彼を幼児期の頃から良く知っていて、彼の両親とも親しく現在の彼にかかっている脅迫(強迫)性について、一定の推測(どんな人間かは現在表現されていないので、脅迫傾向をデフレートして推定する以外無いからです)をするケースになりますが、この場合でも「どのような人物なのか推理する事はできても、そこに“わかりきっている”のような印象を持つことは100%不可能」なのです。

ですから、断片的な情報や、彼特有の仕草、彼を巡るエピソード、設問に対する受け答えから「彼がどんな人間か考えなくてはいけない」のです。「彼は少年時代に何を考えていただろう?」等考えて見ることは山ほどある筈です。

ですから
■前にも話しましたが、実際に今父親と仲良くする事に意味はありません。彼はどんな人間なのか知ることが大事なのです、
見方が代わる事で、彼の見え方も大きく変わってくるでしょう。

と、前に話した部分はここに被ります。

脅迫(強迫)無く現実を直視している人は「自己紹介」しますから(むしろ自意識としては「こういう企画でやってます」とプレゼンしたい欲求を持つものです)、その自意識となにやらかにやら関わる事で自然と「どんな奴なんだお前?」がわかってきますが、内向性のある人物は紹介する自己が強迫下にあるので自己紹介というフェーズが成立しないのです。
>知り合いになった人には自分のダメな部分をアピールしまくります。
と、いう事です。
自己紹介が成立していませんよね。
どんな哲学で、「何故そう思うのか」が欠落していますから、話を聞いても相手には何の話だかよくわかりません。
突然「角のカレー屋が如何に不味いのか」を話かけられても、何も答えられませんから。そのカレー屋がどうしてそうなっているのかとか、本来の目的は何なのにとかがないとストーリーとして成立しないのです。

> なので、対人恐怖に家庭環境が関係しているのなら、私の対人恐怖は治るはずですよね。

病気ではありませんから、治ると表現するのは正確ではありませんが、自然な形に復元するのは間違いありません。
今の状態自体、「相当無理した意識的な操作で造り上げた」と言ってもいいものですから。


> 昔は大人なんて怖くなかったのです。

「なんて」の部分に蔑視があります、
そもそも大人が怖いなんて誰も思っていませんから、対人恐怖が問題なのであって怖くない状態は「自然」であって、コメントされない筈なんです。
これが蔑視表現を含んだ上でコメントされる理由は、葛藤を解決したのではなく、抑圧に成功した自意識の「自分自身の中のやりこめた感」があるためで、この気持ちが投影されて「なんて怖くない」となるのです。この心象風景は「問題を隠蔽した」ものであって、解決していたのでは無い反証になります。
ここにも親(=大人)の投影がありますね

> むしろ他人にはこちらから進んで声をかけてしまえそうな、感じで。

これも同様に、「その処理をした自意識」に自慢げな気持ちを感じていたからこその感情で、腹を割ったコミュニケーションができていたのではありません。

> 当時、恐れていたのは学校の同級生だったからです。
> その頃外出しなかったのは、同じ社宅に同じクラスの男子が住んでいて顔を合わせたくなかったのです。

前述を踏まえてもらえれば、とてもわかりやすい話になりすよね。
「抑圧された父親のイメージがその男子に投影され、隠蔽したものが表面化した」と考えられます。
「想像上のイメージを抑圧したが、無意識にそれは現実の人物に連想として投影され、これを抑圧(現実にいる人物でるからね)出来なくなったため、脳内だけでは無く現実自体を内向化(引き篭もりイメージの世界:アニメばかり見る)させなければならなくなった」

> 社会適応型の人でも自分と似てるな、と思うところもありますが、あ、やっぱり違うと思うことが多々あります。

全く似ていませんよ。まるで別物だと思ってください、
現在のnaruさんにある社会適応型の発想は「欺瞞」だと思ってもらっても問題ありません。

> 私は、社会適応型の人格になれますかね…?
> なりたいわではないのですが、憧れはあります。

社会適応への考え方自体に問題ありますよ。
社会適応とは「畑に並べて植えたトウモロコシが予定通り収穫になった」のようなもので、国や地域が期待する漠然とした保守的プロトタイプをメインのキャラにしているのか?って話で、厳密にいうと「その漠然とした期待に特別意識する事もなく馴染んでいる人」になります。完璧に成立するとヴァーチャルな自然を成立させたに近いので、その結果は非常に美しいものです(竹を割った性格)。

社会適応型の呼称は(性格の概念と同じように)、実態のあるものではなく文化人類学的に外から見た時の分類でしかありません。
ですから「社会適応を意識する」という現象自体論理矛盾なのです。
確かに社会適応を志向する可能性はありますが、
これは「アメリカ生まれで白人だが、日本文化に共感して来日し、自ら日本人になる事を望んだ」に近いものになります。

つまり、社会適応しているというより「その時漠として為政者等が期待した人物キャラクターを『どんな人物像が』特定し、その概念に後から共感する事で、意識的に『その特定の人格モデル』に自分の意識を誘導しその人になる事を実現する」もので、つまり「漠然としたものであってはならないのです」
自然にその人格傾向に馴染んでいるのでなければ、その人格傾向を「まず、どのような人間か」特定しなければなりません。
何を理想とし、何をモチベーションとし、国家に対していかなる構えで政治に参加し、経済活動ではどのような行動選択をするタイプの人間でもっぱらその動機は如何なる美意識によるのか?
これらを考えて、自分なりにそれを志向する事になるからです。

社会適応型とは、そんな「ある人格モデル(社会主義型と言い換えてもいいでしょう)」の呼称であって、何か特別なものではありません。

> なりたいわではないのですが、憧れはあります。
ですので、この部分の投影は
「社会適応していい子になると、誇大なイメージに美化された深層心理の父親に愛されるかしら」という概念が投影されたもので、反動的志向に過ぎず、脅迫(強迫)観念の一部だと考えてください。

> ニートの人たちがみんな社会適応ではない人たちではないと思うのです。
> もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。

私は、再三HPテキストやブログでその点についてコメントしていますが、
http://kagewari.seesaa.net/
共同幻想の瓦解は現代文明のトレンドで、社会適応等という概念は守旧派の最後の砦のようなもので、現在ほとんど意味を成しません
。本来民主主義が予定した「自由な個人による投票」とは、自由意志のある個人を前提にしなければ正当性が担保されませんから、これは社会的なストレスになります。
ニートの存在は、社会学的にはその民主主義的ストレスの発現を意味しますので、彼らの就労をめぐる環境が(ベンチャー企業など)同様に自由になっていかない限り構造的な問題は解決しません。
私は小泉首相支持者ではありませんが、彼の現政権における改革は上記の内容を意図したものです。

※昨今の企業に終身雇用などありませんし、そもそもその会社が何年在るのかすらわかりません。途中入社の即戦力は全ての企業で労働の主力になりますから、足手まといな社会性など無い方がいいのです。何故かと言えば独立した個人は、それを自分の美意識や哲学として持ちますから、あえて社会性等と言う概念を必要としません。つまり個人は社会とのコミュニケーションを前提とするoneだからです
。個には常にこれを特定する母集団がありますから、そもそも個を社会に組み込んで埋没させ社会化しなければならない等と言う発想は近代の資本主義・帝国主義時代の考えで、先進国には馴染まない発想なのです。
※「総数10の集団に属する1」と「10分の1のユニーク(個性)」との違いです。後者にも母数として社会が『その成立要件』として関わっているのです。
社会不適応とは、反社会ではありません。

> もし適応型になれないのなら、その人たちに適応を求めるのはどうかと思ってみたりしました。

これは典型的な症状なんですよ。
抑圧構造のためには、自我を抑えつける特権的な「付け焼刃の道徳」を必ず必要とします。そのステレオタイプな付け焼刃の道徳とは、今時ワイドショーでも通用しないような保守的道徳(昔小学校の授業にあったようなものです)の事で、精神的に悩むタイプの人格の典型的な志向は「社会適応」なんですよ。
つまり、これが脅迫(強迫)症の内容そのものだからです。

簡単に言うと、人が何故悩むのかを良く知らない素人には「彼らは社会適応を願っている」になっちゃうんですよ。
つまり、
前述の番組も含めてですが、彼らは「意識的に社会適応を促している」というよりも、相談にくる人物がみな「社会適応を問題にしているので、適応させたら解決だ」と、考えてしまっているのです。

本来は「社会適応にとり憑かれている」と考えるべきなんです。
悩みが解決した結果「その意味がわかった上で、社会適応をモデルにする」それはアリなんですが、
546 返信 Re:何点か修正が必要ですね naru 2006/06/10 00:25
返信ありがとうございました。

「ハローワークに行く」ということは就職を少しでも楽にできないか、と考えていたためです。それに景気が良いと言われているので就職しやすいかもしれない、という安易な考えがありました。アルバイトは接客業が多いし派遣でも即戦力にはなれませんし、私ができることは限られています。
その限られた中で探すというのが大変なんですよね。そこに時間をかけてもいいということですよね。
大学を卒業したら、なぜか就職しなければならないという考えがありました。世間でもそう思われていますよね。

まずは履歴書を用意することから始めたいと思います。

> 繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。

「親の教育放棄」といっても、親は自分たちに非があるとは思っていませんよ。育て方が間違っているなんて考えてもいないと思います。
自分の進路は自分で決めてきたし、自由奔放にやらせてもらったと思っています。
教育を放棄させたら親は憤慨すると思います…。

> 通常証明として、心療内科等の診断書が必要になりますから、この場合には病院探しをする事になります。

心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。対人恐怖のことは話していませんが、それは誰にでもあるよ、と言われそうです。

なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。これ以上自分に対して落胆してほしくないので。

生活保護について、ですが、
自分では軽度の対人恐怖だと思っています。これは診断されたものではなくて、自分で調べたりして得た結果です。これは精神病ではないので、病気ではありませんよね。また五体満足なので、働く意思さえあればいつでもどこでも働けるのです。
だから、生活保護は適当でないと考えています。

ところで、私には妹が2人いるのですが、
同じ家庭環境で育った妹たちにはなぜ対人恐怖が表れないのでしょうか。
隠しているだけしょうか。妹には友達も彼氏もいます。働いてもいます。
父とは特に話はしないようです。母とは同じように仲良しですが。

合宿、集団生活によって、社会適応が身につくものなのか疑問です。
私は1週間他人と共同生活をしましたが、慣れるどころか苦痛でした。それは自分に対人恐怖があったからだと思いますが、その中で3ヶ月もすると変わるものなのでしょうか。抑圧によって間違った作られた強迫的なものが消えるということでしょうか。実際、3ヶ月もいなかったのでわかりませんが、私は変われなかっただろう、と思うのです。打ち解けたいとは思っていましたが、どうしてもその場から逃げ出したくなり、ストレスがたまってどうしようもなかったと思うのです。

現在、私は父方の祖母や親戚とも疎遠です。父のことを知る術はないのです。
彼の見え方が変わらない限りは、私は変われないのでしょうか。

父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

他人に気を使う、というのはお年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげるとか、そういうことでしょうか。私は表面上はそのように気を使うようにしています。でもこれは自分から進んでするというよりは、しなくてはいけないと思ってしています。
他人の前でくしゃみ、せき、あくびをしない、というよりはできない、ということは他人に気を使っているのでなくて抑圧されているからなのでしょうか。

私は他人といる時は気を使っていると思って、でもそれは抑圧された行動の結果なのかもしれません。

例えば私みたいな家庭環境で育った人ってたくさんいると思うのですが、みんな我慢して社会適応のふりしてるのでしょうか。社会適応(このように呼ばない方がいいですね)を意識しなくても、「そのようにしなかればならない」と思って、人間関係を築いたり、働いたりするのでしょうか。

自分がとても損している気がするんです。

すみません、このスレッドってどのくらいまで延ばしていいのでしょうか?
550 返信 見方というか立ち位置が違いますよ kagewari 2006/06/11 18:13
>アルバイトは接客業が多いし派遣でも即戦力にはなれませんし、私ができることは限られています。
>また五体満足なので、働く意思さえあればいつでもどこでも働けるのです。
>だから、今は働いてお金を貯めないといけないとは思っていますが、どうしても働けません。

>対面している場合はもっとひどいです。相手の顔が見れません。なので喫茶店で休むことも電車でイスに座ることもできれば控えたいです。
>自分では軽度の対人恐怖だと思っています。

> なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。これ以上自分に対して落胆してほしくないので。
>父親がどのような人なのかはとってくにわかっているのです。彼の性格も考えていることも。
>父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

各方面で、話が矛盾しています。
つまり、前回のレスも根拠の無い話が中心になっている証明です。
(何度か最初から自分の書き込みも含めて読み直してみると新しく気がつく事もある筈です)
個別の返信で説明しましょう。

> その限られた中で探すというのが大変なんですよね。そこに時間をかけてもいいということですよね。

10年ぐらいのスパンで考えてください。
期限を区切らないで、余裕を持たせる事が大事です。

> 大学を卒業したら、なぜか就職しなければならないという考えがありました。世間でもそう思われていますよね。

誰もそう思っていません。
それは専門学校だけです(職業訓練に近いですから)、
大学には「大学院」があり、研究機関でもあります。
当然理数系になれば研究予算(民間の予算がつくこともあります)もついているので、半ば職場に近い状態のケースもあります。
一部の大学のみが、大企業や国家機関への入り口と化しているだけで、就職目的のエリートコースと認知されていますが、二流三流校には関係の無い話です(皮肉な事に二流三流の方が大学の本旨に合っているのかも知れません)。

そもそも大学は、学問を学ぶ場所で文学部等になれば余計に仕事と関係ありません。
本来『神学校』を始まりにする大学の存在は、専門的な知的階層の重要の高まりから発展していますが大学の始祖が「神学、医学、法学、哲学」ですから必ずしも産業革命以降の「ベタな経済活動」に従属しているものではありません。
そもそもがハイレベルの聖職者の供給が、有名な修道院(知的殿堂として有名)だけでは不足した事が原因で、資本主義の労働者になるためではありません。
大学に行くことは同時に労働者階級を意味しますが(昔はヨーロッパのセレブ女子は大学にはいきませんでした、その年齢で既に社交界デビューですから)、特にヨーロッパは一般労働者は(組合がしっかりしていますから)大学に行きません。ドイツでは職人文化が今でも残っていますし(マイスター目指して仕事することになります)、

今や大学のイメージの半分は「役に立たない学問を道楽でする場所」です。「役に立たない」の比喩は「個人的な嗜好でその意義が定義されている」を社会の側から揶揄した表現で、個人にとっては大事なテーマを個人的な理由で勉強する場所です。

> > 繰り返しになりますが、親の養育放棄が必要になるかと思いますが、生活保護について役所に相談してみる事も可能です。
>
> 「親の教育放棄」といっても、親は自分たちに非があるとは思っていませんよ。育て方が間違っているなんて考えてもいないと思います。
「教育放棄」じゃありません「養育放棄」です。
生活保護の支給のためには、「親にも経済力が無く、これ以上身内の者の生活を支援できない」という書類にサインする必要があるんです。

言葉の取り違えとは別に、
「親は自分たちに非があるとは思っていません」
私は「親に非がある」とは言っていません、
「親の(子供が何処の誰だろうと)人格に個別に問題がある」と言っているのです、その子供にどういう影響があるのかは、その後日談です。
神経症傾向のある、その夫婦の将来を心配に思うぐらいで自然だと言う意味です。
つまり
>心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。対人恐怖のことは話していませんが、それは誰にでもあるよ、と言われそうです。

こんな認識で心配なのは「母親が」ですよ、
「現代社会の現実認識もまるでなっていない人物」となりますから、彼女自身生きていく上で、現実認識すらできない人物である証明になりますから(当然自分自身の人格的問題にも気がつきません)、将来高齢になって夫婦だけになってからの人生が思いやられるって事ですよ。

> なので、親にはあまり迷惑をかけたくないです。

「あなたは大丈夫?」と言ってあげるぐらいの話です

>これ以上自分に対して落胆してほしくないので。

落胆しているのは辞めた会社の上司です

親子関係は既に成立していませんから(彼らにも親である当事者能力はありません)、落胆も何も「彼らは何に落胆するんですか?」
ここがちょっとわかりません、
彼らが何か期待している事が、その前提になりますが親子関係が成立していないのですから、彼らの自意識としては「家族の問題が内輪から外に漏れないように管理してくれ」かも知れませんが、彼らの無意識の脅迫(強迫)は、「せいぜい問題でも起して私の道徳(自分自身の抑圧構造保守のため)が満足するような説教のひとつでも言わせてくれ」になるので、

今の状態は“見方”を変えれば
「期待に答えているんじゃないですか?」

> 教育を放棄させたら親は憤慨すると思います…。

デコードすると、
「期待どおりの憤慨事例に遭遇して大喜びして興奮(怒る)する」になります。
これらは無意識からの強迫になりますから、本人にはほとんどその自覚が無いことになります。

> 同じ家庭環境で育った妹たちにはなぜ対人恐怖が表れないのでしょうか。
> 隠しているだけしょうか。妹には友達も彼氏もいます。働いてもいます。

兄弟姉妹関係は、クラス(階級)社会です。
当然この他者同士は相互に意識する関係にあり、影響力もあります。
今のnaruさんの在り様が大きな彼女達に大きな影響力を持っているのは事実ですから、そこを意識して別の形に認識されている可能性は高くなります。(長女長男は、両親が大家族を計画していない限り「擬似的一人っ子」ですから)

姉の問題行動に嫉妬して、妹が人格障害的な症状(意識的反動形成)を引き起こす場合もありますし、姉の様子から「何かがおかしい事」に気が付き(妹弟は家庭内の第三者的視点を持つ可能性も高いので)、自分はこうすべきだと冷静に考えるケースもあります。
両親と同じように人間関係にそれを投影し、自分自身の自我構造を安全圏に置いて、問題を子供に発現させる事で問題を隠蔽化させる事も考えられますから、その場合問題は彼女達の家庭内で起きます。
可能性は複数ですが(相談事例から、精神的な問題において兄弟姉妹になんら関係が無いことはほとんど在り得ません)、家族も他人の集団にある事には変わりありません、それぞれに個性がありますから、問題をどのように認識するのかは大きく違うのです。

naruさんの事例も「ある個人が偶然親で、ある個人が偶然その娘である」という個別の関係性であって、親が娘に投影している強迫性も親の個人的な想像の世界ですし、娘が感じる強迫性もnaruさんの個人的な想像の世界で象徴化されていますから、妹さんの立場(見方)からすると、その対人認識の内容が「全く別人」に見える可能性もあるのです(問題が無いという意味ではありませんよ、感じ方が違う可能性です)。

> 自分では軽度の対人恐怖だと思っています。

間違えです

> だから、生活保護は適当でないと考えています。

間違えです、
現在同様の症状で生活保護の支給を受けている人や、通院している人を、間接的に侮辱している事に気がついていますか?

> 心療内科には行けません。仕事をしていた頃に母に病院に行く、といったところ、「何いってんの。」という感じでした。母は仕事は誰でもしんどいものだから我慢しなくてはいけない、と考えています。私もそう思います。

『私もそう思います。』と付け加えていますね、
そう言っているのはあなた自身です。
母親自身の葛藤を隠蔽(人格に問題があるのではなく「子供が怠け者なだけだ」という話をデッチ上げて)する僕(しもべ)として、
彼女や彼女の夫の問題を(不良債権を隠す社員のように)自分の仕出かした不始末のように矮小化する事を狙うもので、社会的立場からはそれはとても困る事なんです。

「何、問題はいい加減な仕事されて辞められた会社(他人)なんだから、私達は関係無いのよ。何処の誰だか知らない人が迷惑しても別にいいじゃないどうせ他人でしょ」
社会の側では困るんですよ、そういう無責任な家庭運営をされると

「大変、どうしたのかしら(この人もその尊厳を認めなければいけない他人なのだから)あなた大丈夫?(この人物に大きな影響力を持つのは自分だったのだから)私はこれでよかったのかしら、、、何でもいいから教えてくれない?私はどうだった?」些細な事でも、それが社会に対して表面化した事なら、気にする方が自然じゃないですか?

■携帯が故障した。今日の商取引にどうしても必要だ、困っていたら両親が自分の携帯を貸してくれた、その携帯が原因で自分は責任を取って会社を辞める事に・・・。

激しく気になりませんか?
「私の貸してあげた携帯で何かあったの」と、
無関心どころか、「期待に答えて大成功するべきだった」と考えていたら?こんな不自然な心理をどう説明するんですか。
問題のある携帯を渡して、自分はそれが手元から離れて開放され、自己嫌悪するかわりに「何をしでかしたのあなた!又やったのね」と言えば完璧に自分と携帯の問題を隠蔽できます。

> 合宿、集団生活によって、社会適応が身につくものなのか疑問です。

前回のレスにも書きましたが、集団生活と社会適応などに何の関わりもありません。
もう一度書きますが、笑えない冗談としか思えません。
合宿で学ぶのは『秩序』と『マナー』であり、その規制の中で自分の利益を最大限確保するための「戦術」であり、同様の理由の延長にある「戦友探し」です。

> 彼の見え方が変わらない限りは、私は変われないのでしょうか。

変わりません。
今私がnaruさんを他人に紹介するなら「父親との間のコンプレックスが原因で、自意識が無意識に強迫されている人」です。
その父親のイメージを造ったのもnaruさん自身なのですから、現在の父親に対する認識は、その無意識のイメージを証明する「都合のいいもの」でなければなりません。

> 他人に気を使う、というのはお年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげるとか、そういうことでしょうか。私は表面上はそのように気を使うようにしています。

違います、
他人に気を使うというのは、他人の考えている事を自分なりに予測して、それを「こうしたいのだけれども、協力してくれませんか」と言わせないでそれに沿った行動をする事で。
気(考える)を使う(時間をかける)という意味です。
推測が外れていると「おせっかい」ですから、自分から進んで気を使う時には(あてが外れる事に準備するのが自然なので)「余計な事かも知れないけれど(言外に「すいませんが」という意味)」のようなニュアンスを付けるのが自然です。
“Excuse me”が一番近いでしょうか、

「お年寄りに席をゆずるとか、ドアをあけてあげる」のはマナーであって、気を使うとか親切とかのジャンルの行為ではありません。
『わざと席を譲らない』『目の前でドアを意地でも閉める』事に合理的理由が無いからです。

>でもこれは自分から進んでするというよりは、しなくてはいけないと思ってしています。

ですから、自分の気の使い方が間違っていれば相手の迷惑になりますから、自分の気の使い方は現実感覚のバランスが取れているのか?が最も重要になります。
バランスが取れていないなら、むしろしないほうがいいのです。
社会不適応型思考の人物が社会適応型の社会で、社会適応型思考だと勘違いされた時等、この行き違いで苦笑いするケースが多くなりますが、これは「ちょっと迷惑だが苦情を言うのも不自然で、気を使ってくれた人への感謝も同時にある」という複雑な心理の表れです。

> 他人の前でくしゃみ、せき、あくびをしない、というよりはできない、ということは他人に気を使っているのでなくて抑圧されているからなのでしょうか。

自分の不自然さがバレる事への警戒です
変に気を使ってもらいたくないので、風邪である事を隠そうとする場合もあります。

> 私は他人といる時は気を使っていると思って、でもそれは抑圧された行動の結果なのかもしれません。

違います。
抑圧構造の主力は擬似道徳ですから、自分の道徳が本物である事を証明しなければならないのです。
「しなければならない」
>しなくてはいけないと思ってしています。

のです

> 例えば私みたいな家庭環境で育った人ってたくさんいると思うのですが、みんな我慢して社会適応のふりしてるのでしょうか。社会適応(このように呼ばない方がいいですね)を意識しなくても、「そのようにしなかればならない」と思って、人間関係を築いたり、働いたりするのでしょうか。

ニートです、
あるいは、自分の葛藤要因と向き合い、自分なりに努力し反省して自立して自分の人生を生きています。
むしろ本来正当性の無い社会適応型の雛型に拘束されませんから、家庭に少々問題がある条件からから独立した人物の方が、仕事等のポテンシャルは適応型の人物より構造的に上です(自由に考える事と、細かい部分に対する認知度が上だからです、ですから能力が普遍的に上なのではありません)。
ですからこれは社会構造全体に一致する事になります、
仕事のポテンシャルが上の人物が社会適応型でなければ、適応型の社会の秩序を乱す事にならないので、通常会社組織等ではこの不適応型の人物が仕事を引っ張り、適応型の人物が管理職に向いているという相互補完で世の中は循環しています。
それだけ「問題のある幼児環境(普通じゃないと言い換えても同じです)発」の人物が社会に多い事も又事実なのです。

> 自分がとても損している気がするんです。

それは報酬を受け取っているのが、無意識だからです。
内向的な落ち込みによる興奮(両親の正当性に対する甘えを含みます)によって自我総体は報酬を得ていますが、自意識はこれに巻き込まれている立場になります。
又、同時に精神年齢的には自我の一部は小学生的発想のまま抑圧されていますから、「そもそも仕事のこと等考える必要が無い(自分は特権階級で親から進んで自分の世話をして当たり前だ)筈だ」という心理がある事も原因です。

つまり、目線や見方が「意地でも誰々の子供である」という属性に拘って興奮しているため、外の世界で何が起きているのか?のような着眼に全く関心が無いのです。
仕事や、他人が何を想い、大人がどんな風に人生を生きているのか等「どうでもいい」という立場に“構造的に定着(固着)”しているのです、

> 父にかかわらずに変わることができればいいのですが。

つまり、この反対です。
『イメージの中の象徴化された父親』を守るために、現実の父親の存在は都合が悪いんですよ。ネタバレするからです、
(これは思春期を原因にする反抗期とは違います)
見方を変えれば(象徴化されたイメージの)父親と関わる事に必死なのはraruさん自身なのです。

> すみません、このスレッドってどのくらいまで延ばしていいのでしょうか?

スレッド表示が見にくくなってきていますから「511無気力です。(2)つづき」として、新しく立ててもらってもいいですし、表示が気にならなかったらそのままここに返信してもらっても構いませんよ。

ここは「Kagewari精神分析相談事務所フリー公開掲示板」ですから。

543 返信 悩みから精神的に ☆大阪 主婦 2006/06/08 23:50
27歳の子供以内主婦(3年目)です。主人は在日韓国人で(両親もです)私は日本人です。結婚前から何年もかかって得た能力を使った好きな仕事をしていました。結婚しても仕事を諦めきれず他の所で結婚後5ヶ月程で始め3社のうち2社では苗字の事を初日若しくはすぐに「この名前って韓国とか、そっち系の人?」とみんなの前で言われ
悪いことでは無いとは思いながらも告白できず。主人は結婚直前に帰化しましたが、名前は確かに日本人がみると分かりますが。その頃から両足が
疼いて歩くことがしんどい時が多くなり外科に通い鎮痛剤を1年半服用。しかし少ししかよくならず。子供はどうしようかと思いましたが、私の死体仕事は子供がいるとどうしても不可能な為、子供は欲しくないと思うようになりました。その頃義姉(私はもともと合わず、会うと嫌になる)に2人目の子が生まれ、私にのみ出産直後に子供の写メールがきました。一度もメールなど来たことがなかったのに。だんだん気分が悪くなりました。その頃らか急に足の痛みが(薬服用ぜず)なくなり、腹痛、頭痛、出血した下痢、関節痛、ミゾオチ痛、恥骨痛、のどの窒息、息がしんどい、不整脈などがだんだん出てきて今も(約7ヶ月間)続いています。(下痢はなくなりました)
足以外の症状は内科で血液検査、検尿、検便、心電図では、異常なしで細かな不整脈ありでした。途中デパスが出され1ヶ月服用。しかし血液検査で白血球が普段の半分になったので服用不可になりました。今は何も服用していませんが、好きな仕事は支障なく出来、主人のいる週末によく体調が悪化します。主人は何も問題ないのですが、魏姉と繋がりが・・・とどこかで思うのかも知れません。今は毎日どこかが痛いですが気疲れはたまにしかなくなり、仕事以外では人ごみを避けて一切外出不可な状態で主人も新派尾してくれていますが、国籍、名前の件は誰にも話せないです。一人で時々突然泣いたり、いつ自殺しようかとフトオモイマスガ、今は主人とも仕事も楽しいし、怖がりで出来ないとは思いつつも、いつかはそんな日がくると思ってしまいます。長いですが、どうか宜しくお願い致します。
545 返信 『主婦』という名前を選択した事が全てでしょう kagewari 2006/06/09 17:14
名前が「☆大阪 主婦」となっていますが、あなたは「子供を作る事が絶対不可能」な仕事を続けることを、「何年もかかって取得したスキル」によって実現しています。
こういった場合、自分を意味する名前は個人名か固定ハンドルネームのようなものが選択されますが、あなたは「主婦」を名乗る事を選択していますね。
そして夫ではなく「主人」という言葉も選んでいます。

そこでお話を分析してみますと、
あなたは結婚し家庭を持つ事に脅迫的な不快感(不安感でもいいでしょう)を構造的に持っていて、現在DINKS(子供を持たない夫婦)のライフスタイルを選択している事に罪悪感にも似たストレスを感じています。「結婚生活そのものや、子供を持つ事自体に対する不安感があるのです」(在日韓国人に関わるエピソードは全て、「これが連想された二次的な理由=潜在的な葛藤を自意識に表面化させない抑圧のためのキーワード」であり、悩みに直接の関わりは無いのです)。
その罪悪感は複数の文面から証明されています。
在日韓国人にとって、結婚を機に帰化(必ずしも望んで帰化しないケースがほとんどで、そこには複雑な感情が伴います)することは将来の子供の事や、結婚そのもの(当然その連想は子供のいる家庭)のために選ぶ選択で「主人は帰化しました苗字は(在日韓国人であることがそれとなくわかる)そのままです」と、その帰化が潜在的なプレッシャーである事を示唆しています。

ここで、登場する義理のお姉さんのイメージは、あなた自身潜在意識にある「家庭の主婦となって子供を産む」という脅迫的な意識が投影されたもので(象徴的な「実の母親の若かった時代」に被る存在)、彼女自体の存在は悩みに一切関わりがありません。

それはあなた自身の深層心理にある「立派な母親になりなさい」という言葉に象徴化された脅迫(強迫)であり、その象徴化(ダイレクトにそのままの意味で自分自身を脅迫しているのではありません。この言葉はキャッチコピーやスローガンのように「それを代表するイメージ」から選ばれています)の対象は「実母との関係」の記憶でしょう。

週末に体調が悪化するのも、「子供を作る休日」のような連想からきているもので、上記の連想からそれが起きていると考えるべきで、ここでも義理のお姉さんには全く関係無いのです、
義理のお姉さんが「どうして子供を産まないのかしら?」と漠然とそれを不思議に思う事は自然ですし、「出産はいいものよ」と幸せな気持ちで義理の妹にメールを送るのもとても自然な話です。
実際在日韓国人社会的にも、「日本人のお嫁さんだから帰化して少しでも将来的な心配が無いように配慮した」のですから、弟の夫婦関係を大丈夫かしら?と心配する気持ちがあってもとても合理的な発想でしょう。

上記のエピソードに強烈に投影しているイメージは、あなた自身の深層心理にある『実母の象徴(これもあなた自身が造りだしたイメージです)』だと思います。
ですから、自分自身『結婚そのもの』をどう考えていたのか?
あなたの幼児期と実母の関係はどういったものだったのか?(父子家庭である場合にもこれは幼児の空想として起こり得ます)、ここを辿る先に心理的な解決がある筈ですよ。

538 返信 助けてください マリア Mail address 2006/06/02 10:51
別れることになった彼が連日死ぬ死ぬと言うのです。彼はわたしよりもずっと年上で。。。でも私と別れるくらいなら何も楽しいい事が無いから死ぬしかもう無い。というのです、精神状態も悪いらしく職場に退職届けを出したそうですが、職場からは精神病院へ行くように薦められたそうです。なので今は保留になっているそうです。連絡を無視していたら一度勝手に私の実家に来てものすごく驚いたのと同時に恐怖を感じました。もう私にはもとに戻るどころか、家族の心配や私自身の身の危険を感じます。本当に自殺するのではないかと思うのでむげにはっきりと冷たい言葉もかけられません。もし、言うと死ぬとか遺書を書いたとか、、、いい年の大人が、、、いったいどうしたらいいのか誰にもそうだんできずにいます。助けてください。
540 返信 ストーカーだと考えていいでしょう。 kagewari 2006/06/02 21:00
精神的な悩みと、実際に犯罪とも言える内容で他人に関わるのは全く別問題です。犯罪的な脅迫行為には必ず明快な自意識の動機があり、これは精神的な悩みと関係ありません。
この部分(脅迫による被害)は、切り離して考えてください。

一番無難な対応は、地元警察の生活安全課に相談する事ですが、彼が現実精神的な問題を同時に抱えているという事ですから、ベストであるとか私にも確定的な事は言えません(彼の状態も推定の範囲になるので)。
又、警察官も“人”ですから、親身に話を聞いてくれる警察官の方がいるかどうかもこれ相談してみなければわからないところです。

こういう仲裁を行っている「興信所、探偵、便利屋」もありますが、こちらは逆に彼らが信用できるのかって部分が未知数過ぎます。
(誰か信用できる人物に、ストーカー対策で実績のある事務所を知っているとかの情報を持っている人がいれば一考の価値があります。彼も逮捕されるかもしれないと不安定になる事も無いからです。)
警備会社によっては、ストーカー対策を行っている会社もあります、信用や実績から言えば警備会社で同様の相談を受け付けている会社があれば一番経験豊富かもしれません。

ですから以下の順で調べてみて下さい
地域にストーカー相談のNPOがいるか?
メンタルへルス系の組織で、同様の相談を受け付けてくれるものがあるか?
弁護士事務所等で、相談できる機関が無いか尋ねてみる。
警備会社で、ストーカーの相談を受け付けているとこはないか?
興信所や、探偵、便利屋に信用のおけるところがあるか?
地元警察の生活安全課に相談する。

「とにかく安全策で」という場合には、最初から地元警察になりますね。
※決してご自身ひとりだけで対応しないように注意してください。

さて、精神的に不安定な場合時折自殺をほのめかしたり、自殺未遂もありますが、けっして本当の自殺ではありません(ほのめかしたり、未遂である事に逆に意味があるからです)。
むしろ本当の自殺の統計的な頻度は、元々精神的な悩みの無い人の確立の方が高いと考えて差し支えないと思います。
(あくまで確率の話になりますが)
日本における自殺とは「詰め腹を切る:責任を取る」という自意識による決定である場合と、急激な環境の変化による「急性の鬱症状」であるケースになるためです。

531 返信 527番書き込みの削除について kagewari 2006/05/29 21:59
この無料相談掲示板の趣旨は、削除しない事です。公開される事で同様の悩みを持つ人へのテキストとなる部分から「自己決定で公開の形態に同意がある」ものとし、無料で相談が可能な公開掲示板を設けているところなのですが、527番書き込みの方から削除の依頼がありました。同書き込みは「相談者本人の依頼ではなく、友人についての相談」という構成にありますから、「プライヴァシーの事もあり削除希望します」との申し出を了承し削除いたしました。

私の返信内容の、説明部分の別途公開を希望の方が個別にいらっしゃる場合には新しく「528番返信内容の心理学テキスト的公開希望」で新規スレッドを立ち上げていただければ528返信内容を心理学的考察の形に再編集し別途公開いたします。

そんなこんなで、527番書き込み私の返信528、これへの相談者の529番返信は削除されました。
533 返信 Re:527番書き込みの削除について mirai 2006/05/30 00:54
削除ありがとうございました。
あれから何度か考えまして、明確な年齢を20代後半、前半というように
抽象的な表現として、直接プライバシーに関ってしまう恐れのある部分を
記載し編集直して頂けれるのであれば、こちらも公開は了解いたします。
同様の悩みを持つ方の為なのであれば、構いません。
掲示板の趣旨を理解しておりませんで、申し訳ありません。
ご丁寧な心遣いありがとうございました。
534 返信 528番返信部分の公開 kagewari 2006/05/30 17:53
527番相談のmiraiさんより、公開についてのコメントがありましたので、相談部分の要約と、528番返信を再編集したものを再公開します

=========<ここから527番相談の要約>===========

私には数年来の女性の友人がいるのですが(私も女性)、メールで話したり実際会ったりと良好な関係を持っていましたが、彼女には普通と違うというか、ちょっと他の友人と同じように接する事が難しいと最近感じています。
「友達になりたい、話を聞いてほしい」と彼女はよく言い、私もそう思っているのですが時に私が、違った見方をして少しつけ放すような事を言うと
すぐに「絶縁」のような事を口にします。
誰とも話したくないと引きこもります。仕事はどうにか続いているようですが。
逆に「受け入れたい」ような事を言っても「私は受け入れたくない」というように拒絶ばかり。
本人も、最近自覚症状があるようで苦悩しています。
今までの話を聞く限り、そのように縁を切って来た事が多いようにも思えます。
同じ事にいつも葛藤し、同じ事を繰り返しているようでならないのです。
実際に、以前私の親友(同性)とも凄く仲がよかったのに、絶縁してしまったようです。
それを聞いて私は驚かなかったのです。

そして、彼女から「数年前に性的暴力の被害にあった」事を告白されました。
実際これから彼女との関係をどうしたらいいものか
私はどうしても、彼女をどこか自分と同一視してしまっていたり、ただ共感していたり、同情してしまったりして、彼女の葛藤を話をいくら聞いていても分かってあげられないと思うのです。そして余計に傷つけてしまうのではないかと。
彼女の求めている「友情」とは、何なんだろうと思うのです。

でも、今彼女がココロを開いているのは、私なんだろうなと思うと
安易に慰めてあげる事も、意味が無いのかもしれないと思うようになりました。
やはり精神科に行ってみるべきでしょうか。
行くとすれば、どのような言葉で言われるのが、楽なのでしょうか。
そして、そのような人に対しての「根付く友情」とは、
どのように構築してゆけばいいのでしょうか。

=========<ここまで527番相談の要約>===========

=========<ここから528番相返信>=============
人間関係における『関係性』を素で考えてみてください。
Date: Sun, 28 May 2006 16:52:44 From: kagewari

ちょっと前置きが長くなります、

例えば「○○愛」なるコピーを発見した古代の賢人が、社会の発展のために有益なのだと、これのキーワードは民を救うと強く思ったとします。しかし古代社会において、読み書きが出来る人はほんの僅かです。そんな時あなたならどうしますか?
そして、日常の“生きる”という活動自体が過酷で厳しいものであり、そんな日常に一言も文句を言わずにタフに生きている彼等にとって、それを無知蒙昧と呼ぶのは適当ではない。
そして、自分は「これならみんなを救えるじゃないか!」っというキーワードを思いついてしまい、身震いし怖れすら感じているというのに。

私は、神の言葉を聞いた。

彼等に弁証法について説明しますか?
彼等に、文化人類学的解説本を手渡しますか?
そこで、人権と平等二大政党制の演説を始めますか?
ここでの命題は、その宝物のようなキーワード「○○愛」を普及させないと意味が無い(せっかくのその言葉が狼少年の妄言として時代に忘れ去られてしまう危機でもある)。

情緒に訴えるしかないんですよ、ベタな表現だと「感動話のフィクションでも創作して○○物語を、吟遊詩人の演目に入れてもらう事です」、その○○物語は集落で知らない人の無い物語となり、集落はあるキーワードに情緒的な興奮を覚え(二度と忘れない)、そのキーワードを子孫に語り継ぐ。

「○情」の情の部分は我々の(人類の実存にも関わる事だけれど)文化として非常に強い情緒的な拘束力を持ちます。
これを精神分析的に言うとどうなるのか?「一種の強迫構造を利用している」となります(そんなこんなで、精神分析は『異端杉』としてメインストリームには決してならないのですが、、)。

延々と考えつづけるなら、「発端はある聡明な賢人が発見した新しい言葉の感動」なんです(「私はなんて素敵な言葉を知ったのかしら」と)。「○情」というものがスタンドアローンで実存しているのではありません。後者の“感情”は、上記の言葉を自我に導入する文化を持つ人特有の「○○○なるキーワードが自我に組み込まれた場合の」その言葉の普遍性(普及させる)のための『結果としての拘束性の体感』であって、最初にその言葉を知った人類の感動とは実は異質です。
アイデア(哲学的イデア)と情緒の差
皮肉な事に、後者の情緒部分を評価すればするほど、最初のアイデアの発見との乖離は大きくなり、何世代も経て「まったく別次元のロジック」と化す。

哲学(詩)的発見は、道徳や宗教的ドグマ(理)に変容するのです。

◇ ◇ ◇

「根付く友情」とは、実は言葉として矛盾する内容を含みます。
時として上下する(不安定)な情が普遍性を持つとそれは情ではありません。普遍的な精神とは「信念であったり、明快な意図」になります。つまり、自らの存在をかけた自己決定と、刹那に感じる感情の流れは同一にはなりません。
むしろ「信念であったり、明快な意図」を語る自分は、その感動で情緒的にも強い気持ちを持ちますが、これは「情熱や執念」と呼ばれますから「○情」という言葉にまとまる事は無いのです。

「自分が何をしたいのか」が大事なのは(それこそ『我思う故に我在り』じゃないですが)、普遍性を思う時の必然であるからです。
これに対し「その時そう思う感情」を信じて、これの追体験を(『快』をベースに)期待するそれは、結果として刹那で儚いもので(「情けない」って奴です)、それは意図的に操作されるべき問いにはなりません。

◇ ◇ ◇

さて、相談の彼女の話をしてみましょう。

>「友達になりたい、話を聞いてほしい」と彼女はよく言い
>違った見方をして少しつけ放すような事を言うとすぐに「絶縁」のような事を口にします。
>逆に「受け入れたい」ような事を言っても「私は受け入れたくない」というように拒絶ばかり。

彼女が友達を求めているのではない事は明白です。
おそらく彼女は、自意識のアイデアと無意識の脅迫(強迫)の矛盾に悩んでいるのでしょう。「そのどちらが正しいのか?」どちらの場合にも反発します、
無意識を代弁すれば、自意識が違うと言い
自意識を代弁すれば、無意識が感情的な反発を引き起こす

彼女が求めているのは、この両者をバッサリと納得させる『圧倒的権威の強烈な説得力のある“答え”』なんですが、そんなものがこの世に無いことは誰にでもわかりますよね。
そして最も大事な事は、上記の絶対者は『イメージ化された両親(脳内の話なので既に現実の両親からは離れた概念です)』であり、そもそもそんな葛藤が生まれた背景は、その絶対者との関係に問題があったからですから、本人的にはその存在には近づきたく無いんですよ。(過去を思い出したくないように)

ですから、「友人が欲しい」のです。

何がしたいの?と尋ねられても困ってしまうのですが、自分ひとりではそれを解決できなく藁をもすがる気持ちである事は間違い無いんです。「お願いですちょっとだけ話を聞いてくれませんか」は嘘ではありませんが彼女は同時に「お願いだから私に何も言わないで」とも思っていもいる。しかしひとりでいる事が危機的状況であるのは『間違いの無い事実』と認識しているんですよ。

そもそもどんな話をしたら満足なの?
答えは「そんなことわからない」、極端に言えば「そんなことがわかるぐらいならお前と友達なんかでいる筈も無い(そんな気持ちすらあなたはわからないのか)」なんですよ。

彼女に依存傾向がある事は間違いないでしょう。

>今までの話を聞く限り、そのように縁を切って来た事が多いようにも思えます。

そうなってしまう事は避けられないでしょう。
事情がわからない人には、そのやりとりは耐えがたい筈です。

>そして、彼女から「数年前に性的暴力の被害にあった」事を告白されました。

重要な部分ですが、とても誤解されやすい話をしますから、以降の文章は「慎重にゆっくり」読んでください
◎不幸な話の不幸な部分に共感する事は悲劇性の内向を助長し無意識の思惑どおりに『被(こうむる)』という自意識の立ち位置(無力で何も出来ないと無意識に対して無抵抗になる事)を逆に(証人のように)強調する事になりその悲劇性は証拠(その証言により)採用されます。一度証拠採用されると(解釈の余地の無い事実認定)自意識には打つ手がありません。
ですから「同情」の対立概念として「励ます」という行為があるのです。
しかし、簡単に励ます事のできないテーマだとします。
(「そんな事気にしちゃダメだよ!」とおおよそ気軽に言えない場合)
本人のため(ちょっと無理がある表現ですが、話をわかりやすくするために)には、立ち直って(これぐらい平気だと)前を向く事だって結論には異論ありませんよね。
ここの構造が暗韻を踏んでいる事がわかりますか?
これは、葛藤構造下の脅迫(強迫)という形で主導権を取ろうとする無意識的なロジックが、自意識の自立的な活動を抑え込むためには最も都合のいい状況なんですよ。
非常に言いにくい事なんですが、こういったケースには、本人が知らない間に無意識ベースで危険に対して極端に無防備になる等の「僅かであるけれども何らかの意図」が関与している場合があります。
たとえそういう環境が全く無くても「無意識はこれを同様に捕らえます(何らかの意図であったかのように)」、そして自意識を完全に屈服させる「証拠採用(事実認定)」を手にする事になるのです。
つまり何かあった時の最後の台詞「私は・・・だった」という最終兵器を手にするのと同じように。

何故そんな可能性があるのかと言うと、
そもそも葛藤の発生要因には『必ず誤解や事実誤認を含むイメージ化』が関わっているからで、これは本人(必ずしも自意識に認識されるとは限りません)にも「薄々わかっている」んですよ。
それが「思い」であり「事実ではない」事を、
これは通常自意識に「苛立ち」のように感じ(ストレス認知)られます。
まるで、それは嘘じゃない、ほんとなんだと論証したくなるような、その論証で誰かをやっつけてやりたいと思うような、

ほんとうなんだから

これが葛藤事由とは全く別の事実なら完璧なんです。
葛藤の正面を構成する過去は、完全に無意識に抑圧され、以降安全圏から自意識を脅迫(強迫)し続けることができるんですから。
リスカ等の自傷、自殺未遂衝動、恋愛事案(過去の再現になるように悲劇的な結果になりそうな恋愛にあえて惹かれる理由)を使った悲劇性内向がここに並んでいる。
※そういう意味で本当の偶発である事件に巻き込まれるタイプのPTSDと鬱症状には大きな差があるんです。


ですから『憎むべき罪は憎む』これと、その被害をどう捕らえるのかは(それこそ自分の同情心を切って捨ててでも)切り離さなければならないのです。
本人のためには、立ち直って前を向く事なんですからね、
大事な事は『憎むべき罪は憎む』部分を強く思うところです(それがないと自分の同情心に負けます)。

>今彼女がココロを開いているのは、私なんだろうなと思うと安易に慰めてあげる事も、意味が無いのかもしれないと思うようになりました。

確かにそのとおりです。
が、彼女が求めているのは「そんな友人(何もしなくてもいい)」だけなんだと考えてみてください。
それしか(専門的な知識が無い限り)何もできないんですから。
そして、不用意に「心療内科は」と口にすると、これの反発で(無意識の自己保存として感情的な反発から“暴言”が返ってくる可能性もあります)逆にその可能性を後退させる事もあります。
かといって、悲劇性の流れに沿って「そうなんだ私は病気なんだ、二度と治りっこない」と通院自体が無力化される事もあります(『所謂病院での治療』で最も有効なのは「本人の意思で相談にきた」という自意識の振る舞いになるからです。)、

どうしたらいいと思う?

この言葉まで待つべきかも知れません(彼女と直接やりとりしているのでは無いので、軽率なことはちょっと言えませんから)。
その場合には「心療内科」を薦めて下さい(精神科は社会適応タイプで深層心理に触れたくないタイプの人向きである場合が多いです。これはケースバイケースで、精神科でもカウンセリングのコースを持っているなら大丈夫でしょう)。
あまり的確なアドヴァイスにはならないかも知れませんが、それとなく近隣の病院を調べておく事が「できる事」なのではないでしょうか。

■これは一番大事な事ですが、

話に深入りしていくには、相当の負担(と準備)を強いる事になります。それが自己決定として選ぶのであれば幾分精神的に楽になると思いますが、一般的な「友達だから」等という程度の動機ではとてももたないでしょう。果たして自分はどうするつもりなのかについては又個別に考えるべきで、「なんとなく」関係を継続する事はより問題を(miraiさんの精神状態を含めて)複雑にする可能性もありますから、その点に関しては慎重に考えてみてください。

=========<ここまで528番返信>===========

517 返信 はじめまして!ここで相談することじゃないかもですが… はる Mail address 2006/05/25 14:40
私には大好きな人がいて、毎日一緒にとゆうか半同棲してる感じで…
彼の家族とも仲良くさせてもらってますが…彼には私と出会う前に本気で愛してた彼女がいました。
でも、彼が素直じゃないが故に言った一言で彼女は傷つきリスカ【自殺未遂】をし…彼を信じることが出来ないと離れていってしまいました。
彼は、本気で自分を責め、家族も彼が自殺してしまうのではないか?と思えるほどの状態になっていました。
私とはその後、メル友として出会い最初はメールでお互い相談したり、慰めあったりしていました。
その頃の彼は、地元にいるのも嫌で、生きてることも、生きてる意味もわからず単車で一人旅?をしていました。
半年メールや電話だけでしたが、私はだんだん彼を本気で好きになっていました。そして、半年後…彼が急に会いに来てくれて…私は本当に太っていて、誰が見てもデブって言われるほどでしたが、彼はそんなこと気にもせず
普通に接してくれた上に、私に『自分を好きにならなきゃ人から好きにはなってもらえないよ!もっと自信もて!』と言ってくれました。
私は彼につりあうように!自分に自信が持てるように、ダイエットしたりしました。
家庭の事情があり実家を急に出なきゃならなくなった時も私を支えてくれたりして。
今は彼の実家から近いとこですんで毎日あっていますが、長々書いてますが…
実は彼氏ではありません『俺に彼女はいない』『早く本当の彼女みつけなきゃ』ってよく言われます。私が彼を好きなことも彼自身知っていますが…
彼は、本気で愛していた彼女との別れから立ち直れていないと感じがするんです。
彼がわたしを本当はどうおもってるのかわかりません…
でも毎日帰ってくるし『単車にはあいつ以外の女は乗せない』っていてたけど…乗せてもらってるし…彼の妹や両親とも遊んだりしてます。
でも、彼女との別れがあった日が近づいてくると情緒不安定になり『俺は死神だから、相手を不幸にする』とか『死んだらプラマイ0にならないのか』って言い出したりします。
こんなに一緒にいるのに彼の心を傷を私にはどう癒してあげれるのか…
本当に痛々しくて見てられないときもあります。
普段は馬鹿やったりオチャラケてるだけに…
私が何をしようが俺には関係ないともよく言われますが…そんなことを言ってて私を噛みます、。歯型がついて痣になるくらい…消えそうになると慌ててまた噛んできます。
彼にとってどうすることがいいことなのか、正直本気で行き詰ってます。
私は、そばにいたいし、こんなに人を愛したことはないです。
そばにいて私が出来ることってないんでしょうかね?
私は彼にとってどんな位置にいるんでしょう?
周りの人から言わせると『付き合ってる』と思われてます。
でも実際は…彼の心の中がわかりません

長々と簡潔ではない文章で申し訳ありません…
でも、何か今後のヒントが少しでも欲しいと思って…すがる気持ちでレスしました。何かアドバイスあったらお願いいたします。
私の望みは一緒にいたい。そばで一緒に辛いことも楽しいことも共感したい。
彼に必要とされたいんです、。

お願いします
518 返信 何を相談されても全然おっけぇですよ kagewari 2006/05/25 16:52
鍵を握る部分はここでしょう。
> でも、彼が素直じゃないが故に言った一言で

以下が被ってますね

> 実は彼氏ではありません『俺に彼女はいない』『早く本当の彼女みつけなきゃ』ってよく言われます。
> でも毎日帰ってくるし『単車にはあいつ以外の女は乗せない』っていってたけど…乗せてもらってるし

この話に登場する彼の矛盾は
> 彼女との別れがあった日が近づいてくると情緒不安定になり『俺は死神だから、相手を不幸にする』とか『死んだらプラマイ0にならないのか』って言い出したりします。

であるのに、
そもそもこの以前の彼女が自殺未遂する理由
『彼が素直じゃないが故に言った一言』という点が、省みられていないという事でしょう。
実際別れた彼女と「その後どうなの」についてまったくわからないので、謝罪する事が可能なのか「彼を信じることが出来ない」の内容が変化した事を(或いはそれが誤解であれば、それを解消する事)伝える方法があるのか無いのかわからないのですが、本来ならそれを如何に伝えるかに奔走するのが筋でしょう。
それが不可能な何らかの結論があるとするなら、彼女の自殺未遂を発端に単車で一人旅したり、自殺してしまうほどの状態になる事は「その大事な女(ひと)」にとって好ましい事では無いでしょう。
①誤解なら彼女にそれを伝えないければならない
②どうにも伝えられないなら、少なくとも誤解を招いた事を省みらないといけない
③誤解では無いなら、素直じゃ無い部分を考えなくてはいけない。

つまり彼のわかりにくさって、前の彼女との関係から現在まで継続しているんであって、『はるさんに対して個別に起きているのではない』と考えるべきじゃないかと思いますよ。

はるさんが何をするべきか迷う前に
「ところで話かわるけど、どうしたいの?」
これを確認するべきじゃないでしょうか。

後、これどうしてもわからない事なんですが妙に気になってですね、
>そんなことを言ってて私を噛みます、
これはどういった行動なのでしょうか?
あの、ここが彼の深層心理を知る上でひょっとするととても大事な事かも知れないので。
521 返信 ありがとうございます。 はる Mail address 2006/05/26 13:36
彼が言った一言は本当に他人からみれば些細な一言だと思われると思います。
誕生日プレゼントに彼女はペアリングを要求したのですが彼は『恥ずかしいからんなもんは無理』と…でも彼はちゃんとペアリングを購入し驚かせようとしていました。ですが彼の性格上素直じゃないのが邪魔をして誕生日までの数日間を彼女に冷たい態度をとってしまっていたんです。
彼女は自分のことはもう好きじゃなくなってしまったんだと勘違いをしてしまい、もともとリスカをやっていたのも災いしてか自殺未遂をしてしまいました。その後彼女は『もう、信じられないし、傷つきたくない』と、昔から彼女に片思いをしていた別の男のところにいってしまいました。
この話は彼の妹から彼に内緒で知らされたことです。
この話にはもう一つ悲しいことがあって…実は彼女は彼の子を妊娠していましたが…自殺未遂の際か(事実はさだかではありませんが…)お腹の子は流産してしまいました。

彼は私にはその彼女は『死んだ』と言っています。実際は生きているし、他の人と結婚したそうです。
彼は自分が傷付けてしまったことからの後悔からか、彼女を追いかけることを怖がり出来なかったんだと思います。きっとまた傷つけてしまうと思って…

だからか、自分は一人になったほうがいいと言いつつも本当は寂しくて堪えられないという気持ちもあって…情緒不安定になる時期があります。

私に対しては『俺の女じゃないから風俗やろうが彼氏作ろうが俺には関係ない』といいつつ少し距離を置いたり、友達と遊びに行ったり、冷たい態度をとると急に甘えてきたり、痕が付くほどに噛んできます。
最近は、痣が消えそうになるとまた痕をつけ、痕が付くと安心したかのように笑顔になります…だから背中やお腹は痣だらけです。
怒って噛むとかではなく、『痕つけたい』とか『噛みたいんだもん』とかで噛んできます。
彼にどうしたいの?と聞いても答えはいつも曖昧です。

『俺はその内お前の前から消えるから』というときもありますが、逆に来年の誕生日はちゃんと祝ってやんよ★とか将来は一緒に店やるべ!とかって言ってきます。
うれしい反面戸惑いもあります。
あと最近多いのは『お前は俺のことすきだもんね?』とか
『俺がいなくなったら泣いちゃうでしょ?』とか類似した質問をしてくることがしばしばあります。
やっぱり寂しいのかな?
少しでも私という存在を必要として少しは好きでいてくれてるのかな?
自分が必要とされてることを確認したいだけなのかな?
と色々思ってしまいます。
なんか私自身身内のこととかで最近色々あって、考えさせられることも多く…それでもやっぱり彼のことが一番大切で、と頭の中がごちゃごちゃで、意味わからない感じになってしまっていてすみません。
523 返信 話のデティールを単純化してみましょう kagewari 2006/05/27 13:34
つまり主人公を彼に設定するので、つい全体像を見落としてしまうのです。「第一部の主人公は紛れも無く前の彼女です」
そいうった視点で見てみればわかります。

元々リスカなどをしている内向性ナルチシズム型の思考を持つ彼女が、「はっきりしない傾向をもつ男」と付き合いだした。彼女は内向的なタイプなので(=他者への認知能力が劣る)事実関係を掌握する力は弱く(自分の事を考えている時間が長いからです)、どちらかと言えば自分本位で他者への配慮等する余裕を欠く傾向があります。
そんなときに「はっきりしない男が曖昧な態度を取った」、
その曖昧さの理由は以下
プライドが高く「俺がおまえの事が好きだとか簡単に言うワケがないだろ」的なノリを、何かカッコいい事だと勘違いしているらしく(これは多聞にナルチシズム型の自己陶酔が原因です)、『ペアリング事件』としてこれを又やってしまいます。
ここで彼女は「ペアリング等が欲しいのではありません」。
ここが一番重要なのです、
彼女は「ペアリングが欲しかったのではありません」
ナルチシズム型の内向傾向があるんですから(事実認知能力が弱いので)、『誕生日のプレゼントという事象においてわかりやすい対応を期待した』と考えるべきでしょう。
彼女が「私、誕生日プレゼントに囲碁セットが欲しいの」と言うのと「私、誕生日プレゼントにペアリングが欲しいの」と言うのと比較して考えてもらえればわかります。

彼女がその記号で伝えたかったのは「はっきりして欲しいの」です。
囲碁セットなら物欲ですから、彼がそれを購入していることを「サープラーイズ的に隠す」事はアリですアリ、
そのサープラーイズを誤解して彼女が怒ったとしても、その誤解は簡単に解決しますし「囲碁セットが原因でバイクで一人旅」なんて話にはならないでしょう。
ですが、彼女が求めたのは「ペアリング」です。これの意味は物欲ではないので、そんな状況で(こういった場合むしろ「○日に二人で見に行こうよ!」が正解ですよね)「サープラーイズ」をしでかしたのは、彼が「サープラーイズの文化を使って何かを誤魔化した」と見るべきです。
答えは簡単です、

「私、はっきりしてほしいの」「それはどうかな俺は謎の男さ」
内向性ナルチシズム型の彼女なら、この男を二度と信用しないでしょう。
流産の可能性もありますが、堕胎の可能性もあります。
その後彼女は、彼女を片思いしてした別の男(片思いですからはっきりしていますよね)と付き合う事にし同じ人物かわかりませんが結婚して暮らしている。
「俺は謎の男さ」は、その彼女を『死んだ』と言っていて、自殺をほのめかしたりバイクで傷心旅行に出かけたりしている。

ここから第二部(主人公は彼)の謎の男のバイク・ロードムービーとなるのですが、、

彼は、前述の彼女の物語の中では「何か勘違いしていた男の典型」として登場し、最後まで勘違いですよね?
彼女の結婚(実際幸せなのかどうかはさておき)についてですが、
「俺は死神だから、相手を不幸にする」のだとしたら。
「彼女?俺と別れたので今は幸せに結婚しているよ」じゃなきゃ辻褄が合いません。
つまり彼の「俺は死神だから、相手を不幸にする」ってコピーは、文字のとおりの意味ではなくて「それはどうかな俺は謎の男さ」の延長上にあるのであって、

「なにもかわらないわね、あなた」

って事なのです。

■噛む話で確証得ましたよ。
>『痕つけたい』とか『噛みたいんだもん』とかで噛んできます。

「お母さんに(無意識)痕つけたい、だってお母さんの○○○○噛みたいんだもん」「お母さん(無意識)僕がいなくなったら泣いちゃうでしょ?」「お母さんは(無意識)僕のことすきだもんね?」「バイクにはお母さん(無意識)以外乗せないよ」

「え?彼女」(無意識)「あの女は死んだ」
「今の女?」(無意識)「あれは風俗やろうが彼氏作ろうが俺には関係ないよ」

(これらは無意識で、彼自身の本意ではないですよ。現在の彼の人格構造から推定できる彼の無意識的な脅迫を含めた自我の置かれた立場であって、果たして彼自身そういった傾向を「はっきりしない」という傾向を持つことで自分自身もそこから逃れている筈です。)

この言葉も別の意味に解釈できます。
「自分を好きにならなきゃ人から好きにはなってもらえないよ!もっと自信もて!」
「ナルチシズムが無きゃ恋愛なんかできないよ、自分の事が好きかどうかってのを試すのが楽しいんじゃないか。もっと自信を持って!自分なんかいいいんだよ変えなくてもナルチシスト(無意識)なんだから、その自分を愛してくれるかってとこが気持ちいいんだもの」

バイクを乗り回しワイルドアットハートな外装は、そんな感情を誤魔化すための装飾で「お母さん(無意識)僕ってカッコいい」的なものじゃないのでしょうか。
なので、失礼があったら申し訳無いのですが
>私は本当に太っていて・・・、彼はそんなこと気にもせず

相手が誰でどのような人物でも「気にしない」のです。
正確に言えば「関係ない」からでしょう。
大事なことは「僕のことを気にかけてくれているか」なので、

最初の彼女の判断は正しくて、彼は恋愛という人間関係の当事者責任としては「信用できない男」なのだと思います。
しかし、自殺をほのめかす等彼の人格には唯ならぬ問題があることは事実です。これをどうにかしたいと関係をもつ事は意味を持つかもしれませんが、これは第三者の立場でないと非常に難航します(依存関係の当事者になってしまうからです)。

■こう考えてみて下さい。

今考えるべきことは、慎重さです。
彼の妹さんや家族とも交流があるとの事ですから、象徴的に解釈されることの無い「一点スキも無い自然さ」で動かなければなりません。
何が言いたいのかといいますと、
はるさんが妙なことを軽率に言ってしまうと、彼の無意識は待ってましたとばかりに「俺って人を不幸にする死神さ」の音楽が大音量で再生してしまいます(これドラマの効果音だと思ってください)、
それはヤバイですよ、

ヒントですが、今結婚して暮らしている前の彼女に会って話を聞いてみる、なんて事を考えてみるのもいいのじゃないかと思います。
※実際にそうするのがいいって意味ではなく、自分の頭を整理するためにそんな事を考えてみるのもいいのじゃないかって意味です。

彼はあなたに依存している。それは間違いないでしょう、
最初の出逢いに繋がる「メールのやりとり」の中に彼の無意識が動く動機があったのではないでしょうか。
530 返信 ありがとうございます はる Mail address 2006/05/29 09:40
なんとなくは…と言うか自分でもそうじゃないか!と思っていた言葉が確信になった感じです。

彼女と会って話したいとは思っていましたが…それは多分無理でしょう…
まず私は彼女のことをしりません…
彼も連絡は取っていないとは思います。確信はありません…何故なら小耳にさんだのですが…彼女は他の人と結婚したけど…彼のことを忘れられず一時連絡をとっていたと聞いたことがあります。それ自体も本当かどうか定かではありませんが…
実際、彼はモテます。彼を追いかけてる別の女がいることも知っています。
それでも、私に暴言を吐きつつも私のとこに毎日帰ってきてくれるので、
多少…期待してる自分もいます。
彼が私に依存しているなら、また私も彼に依存しているのかもしれません…
それでも好きで好きで…自分が何をしていてもこんなに大切に思える人はいません…
メールでのやり取りのときに何かあったとするのなら彼が旅をしているときに『俺とメールしてても俺は一人になりたいから連絡とれなくなるよ』って言われたときに『本当は一人になりたくないから、メル友さがして…私にメルしたんでしょ?本当は一人じゃ辛くて寂しいんでしょ』って話があってから彼の対応が変わってきたように思います。

彼は誰よりも臆病で、威嚇した態度をとることで、自分にバリアをはり自分を見せることに恐怖心を抱き…人を試すことで安心したり、自分の思ったとおりな返しがなかったときはそれ以上傷つくのを恐れその時点で断ち切ろうとしてるんじゃないかな?
と思います。
今のままでは、私が彼にちゃんと向かい合ってもらえることは難しいのかもしれませんね…
それでも彼を求めてしまう自分がいるんです…
彼の妹は彼とちゃんと付き合って結婚してくれたらいいのに!私が来て彼は少し変わってきたよ!といってくれますが…
私には、ココからどうステップアップすればよいのか…
彼女にあって話を聞けたら何かつかめる物があると思うんですが…
不可能に近いし…

思い出したのですが…少し変化はあった気がします。
彼は私と一緒に車を購入したのですが…その車は彼女と関わりのあった車でした!でも『未練たらしいよな、この車に乗るのお前は嫌じゃないん?』ってでも私は見たときに個人的に気に入った車でもあるし…その話を聞いても全然乗ることに関しても車自体も嫌じゃないんです。むしろ今までなんか無機質だった彼が人間的に思えて嬉しかったんですよね!!!
私自身どうしようもないやつだなってちょっと思います(^^;)
532 返信 困っているのは本人ですからね kagewari 2006/05/29 22:11
「自分のそういうところ」に、

ここが難しいんですよ。
本人はそれを辞めたくても、武器が無きゃ無意識からの脅迫(強迫)には勝てません。
周辺が、それに安易に同情したりましてや話に簡単に同意してしまうと(本人が困っているというのに)無意識へ葛藤を抑圧している方便(理由)を外から肯定しているのも同じなので、かえって「そういうところ」は助長してしまいます。

『素』の時はあるんですよ、
不安感の無い対象者には、時折『素』を見せる事もあるでしょう
しかし、この『素』の状態はとても刹那で、トータルで無意識の脅迫(強迫)に屈服しているのですから、ひとたび不安の連想が起きると人が違ったように『素』の部分は後ろへ隠れてしまいます。

この『素』は、本人(簡単な表現すると本当の自分)ではありません。この場合には『素(もと)』の方の『素(そ)』でしかないからです。無意識と自意識の関係って、鏡のそれと同じで、解体しない無意識の葛藤は「反動」を対価に自意識に取り込まれるのですが、葛藤そのものが解体すると、これを解体するロジックが自意識そのものをその後理論武装します。
ですから、悩んでしまう構造を解決した果ての人格は、今時折見せる『素(す)』とはやっぱり違うんですよね。

なので、正確には近親者がその人物を好意的に見るため『素』を本当の自分と思ってしまい、「あの人にもいいところがある」なんて時々言いますが、これは本当は正確ではないのです。
何故って、無意識の強迫下の自意識の『素』は、常に無意識にリードされてしまう(この部分には本人にも実感があります)事を前提に「弱い自分」として実存してしまうからなんです。
だから、それは気弱である事も多いでしょうし、遠慮がちである事も多いです。なので、こういった場合の「あの人にもいいところがある」の事例のほとんどが「本当は優しい(弱い)人だ」となるのです。

彼本人の立場からすると、その当てにならない『素』をとてもじゃないが信用できない状態にありますから、それを外部から信用する事は有効なんだと思うんです。
つまり、「この人は本当はいい人だ」等の余計な話をくっつけちゃうと、これまた「弱い自分に哀れみを」みたいな話にもなっちゃうんですよ。

だから、アドヴァイスするとするなら
『素』の時に彼が言った事をよく覚えておく事です。
「あなたはあの時こう言った、私はあの言葉を信じる」と、
それに彼がそむく時には、『素』の彼の代理に怒るんです。「本当は強いあなた(自意識)が、何やっているんだ(調子に乗って弱気になったフリをしてるんだ)」と、
彼が「最初はこの素(もと)から始めるしかないのか」と観念するまでね、わかりやすく言うと「彼の嫌なとこに彼の本質的なパフォーマンスがある」んです。「本当の彼はやさしいの」って言葉は反対なんですよ、

「いいえ、この人は強い人です」

実は心理学テキストの『恋愛論』前々から書こうと思ってはいるんですが、まだなんですよね~、スイマセン。
> それでも好きで好きで…自分が何をしていてもこんなに大切に思える人はいません…

恋愛の始まりは全て投影(=勘違いって意味です)です、
それがわかっていたので、近代以前は「若い者が勝手に恋だの何だの」ってのはご法度で、その証明にロミオとジュリエットじゃないですが、恋愛劇は観て楽しむもので、本人は「初恋(片思い)」だけにしておきなさいって時代が長かった(ある意味人類の歴史の大半がそうでしょう)。あまりに原始的な時代になると今度は恋愛当事者としての個の独立が自我にあるのかって言うとこれも怪しい。
実はですね、政略結婚とか親の決めた縁談って「悪い話じゃなかった」んですよ。
これがフランス発じゃないけれども、宗教改革に始まるデモクラシーまでの過程で個人の権利:人権として自由化されるんですが、現実はどうなのかというと、「私にはこの人しか考えられないの、きっと運命の人なんだわ!」と思う割には「同世代で、同じ会社の同じ課にいたり」「事もあろうか同級生だったりする」、、
そんな確立があったら数学はピタゴラスからやり直しです(笑
昔の人なら、「そうよっぽど昔のお見合いの方が選択肢は広かった、現代社会ってのはSF作家が予言したとおり人権無視の世の中に、、」っと涙するでしょう。

これも発想の逆転で、「自立的なお見合いをしているの」それは昔より不自由な事かも知れないけれども、少なくとも私はそれを自分で選んでいるって考えればいいのです。

「選んでいる」のと、
「そうなっちゃう」とはちょっと違う(笑
つまりこんな事なんです。
「妙な投影がきっかけで恋愛等に巻き込まれた、これも何かの『縁』だから、この人物の事を真剣に考えてみるか」
つまり恋愛とは「きっかけの事」なんですよ。
全てのケースが破綻するのでは無いけれども、少なくても一定の破綻が無いと、自分の中の性対象の象徴を投影している関係から(なので『その人』しか見えないんです、その人は目の前の人ではありません)、先に進まないんです。「この人どんな人なんだろう」ってとこです。

モテる人って何故いるんだろうって、それは「よく映る人」の事なんですよ。そりゃ誰しも自分の無意識の中にある象徴化された異性のイメージが、反動の対価を払って自意識に認知される時には必ず誇張されているんですからね(笑
「私の運命の人は、ひょっとするとカッコいい人に違いない」とか「僕の運命の人はスタイルのいいとても綺麗な女(ひと)なんじゃないか」な~んて思っているんですよ、だから「よく映る人」がいるんです、やっぱりね。
この意味わかりますか?「アイドルの孤独」
本人「違うって、あれは舞台の上の話だから」でも大衆はそんな本音を聞きたいのじゃありません。
つまり「よく映る」って部分で評価されているってのは、それとは違う本人を否定されているのと同じ意味なんですよ。
美人の人が怒る台詞の典型があるじゃないですか「どうせ私の顔が好きなだけなんでしょ」

そもそも、まだよく知らない人に「この人だ」って思ってしまうんですから、その人を知れば知るほど「この人だ」が具体的に否定されていくんですよね、これが恋愛の倦怠期って奴の正体です。
しかし、人のコミュニケーションが快であるのは事実ですよね、ですから本質的に恋愛性の破綻は関係の破綻を意味しません、むしろ関係が深まった証明になるんですよ。
しかしあれっスよ、「恋愛感情は無くなったが人間的に尊敬している」ってのは嘘ですよっ、これって恋愛型の投影は難しくなってきているけれども、自分の依存関係の宿主として失いたくない時の方便ですから。

破綻後も良好に続く男女の関係をうまく表す言葉は今のところ日本語には無いようで、私にもこれを何と表現すればいいのかちょっとまだわからないんですが(難解な造語にしてしまうのは面白く無いんで)、とにかく“それ”は、恋愛性のような軽いものでは無いのだと思います。

ともかく、今後どうするのかって部分はあなたの自己決定です。
この世にいいも悪いも無いのですから、それで大失敗したところで命まで取られるって事はありません。
> 私には、ココからどうステップアップすればよいのか…
ステップアップする必要は無いんじゃないでしょうか?
これちょっと厳しい意見だけれども、その男がそんな男だと知って続けている関係なら、彼が行方知れずになっていない事はあなたにとってそれ以上の無い結果なのじゃないですか?
どう転んでも、この関係が証明しているのは、あなたが彼に何か働きかけたいと、自分を動かしたその報いとは、彼の『彼自身の覚醒(開放)』になるでしょ、それは必ずしも結婚では無いかも知れないし、結果として彼がいなくなる事なのかも知れない。
「その男がそんな男だと」って話って、そういう意味だからです。

だからこそ、そこいら辺は彼がどうこうじゃなくて、あなた自身の問題として自己責任で選んでいかなくちゃいけない事です。

「ところで話かわるけど、どうしたいの?」

です。

522 返信 体がおかしい かっち 2006/05/26 17:18
これは精神的に疲れてるのでしょうか?自分ではよく判断できないので
よろしくお願いします。

まず突然、体が重くなりました。そしてなんか気怠いようなしんどいような感覚があります。本当に突然きました。マイナスのことばかり考えてしまう状態です。もともと考えやすい性格だとはおもいます。なんか心臓が止まりそうな感覚というか不思議な感覚があります。家にいたらもの凄く落ち込んでくるので外でガムシャラに走ってみたくなったりします。
自分は格好をつけるタイプなので友人にも悩みを言えず抱えてしまってる状態です。

今自分は難関資格を目指していて勉強中ですがそれがなかなかうまく行かなくなり昼夜がすこし逆転しかけた生活を送っています。眠りも浅くて電気消すとよけいなことを考えてしまいます。そんな自分にイライラしたりします。親にも迷惑をかけていますし早く自立して安心させたい思いと逃げてる自分とのギャップに悩んでいます。

恋人との関係も向こうが最近素っ気ない感じがすることも不安感を覚えています。もともと相手は恋人一辺倒というタイプではないので友人との関係を大事にしますし友人といることが楽しいと良く言うのでそういうタイプの人間なんだと思います。わかってはいるんですが自分は以前のように好かれているのだろうか不安になったりします。自分は友達以下の存在ではないかとかよけいなことをウジウジ考えてしまっています。

これは一時的な五月病みたいなものなのか病院に行ったほうが良いのかどうしたら良いでしょうか?
524 返信 まず病院ですが kagewari 2006/05/27 13:37
病院というところはサービス業です、
床屋と同じですよ
ですから、利用を考えるのであればもっと気楽に使ったらいいのです。(反対にその結果に対して大きすぎる期待をもつ事は逆に問題になります、例えば重篤な心臓疾患であれば専門医を探すところは「馴染みの医院の紹介」という事でも構いませんが、やはりそこは自己責任でもあるので「自分で専門医を探す」事になりますよね)

「なんかいい薬は無いですか(笑」

これだけでも精神的に楽になる場合もあります(「いい薬」が抽象概念であるところがミソで、偽薬的な効果が期待できます。事は心理的な問題だから余計です、そういった場合慣れた医者なら「ビタミン剤」出しておきましょうか的に、習慣性があったりする強い薬を期待していない事を先回りして理解するでしょう)。

さて、話は戻りますが。
「軽い自立神経失調」だと思います、
自律神経系の症状は、心理的な葛藤要因が潜在化している場合に起こります。(常に自我を揺るがす矛盾する無意識のストレスではないという意味です)
日常生活には、その葛藤は反応しないので、事があるまで何も起きないのであって自覚症状もありません。
ただ、潜在的な葛藤が投影される特定分野の行為をしている時にだけ「思い悩む」という形でストレスにさらされるのだと考えてもいいでしょう。
(心理的な問題に「重い軽い」“自体”には意味が無いので、葛藤要因がある事には違いはありません)


「格好をつけるタイプ」「自立を意味する難関試験」「自立と連想関係にある恋人との関係」

デ・コードしましょう

「神経質な傾向」「成功を意味する自立試験」「成功を対価とする愛情への自信(不安の裏です)」

と考えると、わかりやすいのです。
問題は、その『難関試験=自立』と考えてしまっている部分です。
これ本人にとっては重大な問題なのでしょうが、神経質な傾向があると過剰にそれを重大に考えテしまう場合があります。
神経質というのは細かいデティールに気が回るって事ですが、特徴としては視野が狭くなって、大きなフレームで考える事を忘れがちです。

そして「成功を対価とする愛情への自信」は単なる利己的発想ですから「そんな結果になるのなら、最初からこの恋愛は問題(打算に過ぎない事になりますから)だったのだ」って事です。

さて、葛藤の正面は「その難問試験をパスしないと自立を意味しない」と思ってしまうなんらかのロジックになりますが、当面は以下のように考えてみて「どうなんだろう」と様子を見てもいいでしょう。
■「難問試験にパスしたとしても、パスしなかったとしても“今”の自分が何か変るのではない、その後の自分であるだけで本質的に人間の内容に変化は無い。違いはパスしたのかしないのかの結果に過ぎない」

「どうにもその試験に(経済的な理由等も含めて)パスしないと示しがつかないのなら、そもそもこれまでその試験にパスするように全力挙げたのかが問われているだけで、最後に難関試験を控えているコースを選択することは、周辺もパスしないリスクを同時に負っているんであって、許されないことはいかにもパスしそうであると言いながら何もせずにわざと落ちるような意味不明の行為に限る」

つまり、残念だった事は、残念であって意図的な犯罪ではない。
あなたが残念なら、それを理解していた人にもそれは同時に残念であるに過ぎず(成功した時にそれが同時に喜ばしく思えるのと同じです)、考えておかなきゃいけない事は「もし失敗したらスパッと諦めるべきか、何回でも挑戦する覚悟なのか、そのどちらにするにせよ腹をくくる事だ」
525 返信 Re:まず病院ですが かっち 2006/05/27 22:32
お返事ありがとうございました。
一つ一つ整理したらかなり正常時に戻りました。またならないか少し不安ですが・・。

難関資格を目指すと判断した時点で自分同様周りもリスクを背負う覚悟をしているのだから負い目に考えることはないと思えてきました。あとは自分の責任を果たすことに集中します。
恋人との関係も参考になりました。打算的な発想になっていたんですね。
できれば恋人との関係部分の説明をもう少し詳しくお聞きしたいです。
526 返信 恋人との関係性に対する不安について kagewari 2006/05/27 23:27
これも人称の問題です。
彼女の主語は「彼女は」であるところがポイントです。

例えば某試験にパスする自分を“自分自身”は「自分にとってとても魅力的な要素」と考えているとします。同時に某試験にパスしない“自分”は「自分にとっても失望だ」と考えてもいる。
※ところがこの根拠は「自分ならパスするのでないかという可能性を自分自身信じている」からであり、その『根拠の根拠』は現在既に実現している自分自身の各要素から推定しているものです。

さて、彼女はあなたと関係を始めたのは「試験パス後」ではありませんし、まさか青田買いのように「試験にパスしそうな有望株だと思った」から打算的に近づいてきたのでも無いでしょう(逆に、そうだとするなら果たしてこの人物が彼女である事は「どうなんだろう」ってことになってしまいます)。
彼女は彼女なりに「自分自身を持つ独立した人格です」
彼女は自分の何処に好感を持ったのだろうか?
この部分は彼女のプラヴァシーであるばかりか、(自分自身の心理を完全に掌握する人間等いないので)彼女にすらはっきりわからない事かも知れません。

「試験にパスしないと彼女は僕に落胆する」

これは有り得ない発想ですよね。
上記の説明をよく読んでもらえればおのずとわかると思います。
そう思ってしまう背理には「自分で自分を試験にパスするのが自分にとって魅力的な要素だ」と考えているからで、

ここで試験の前から彼女への信頼が揺らぐとすると
彼女の心理は自分の考えを根拠にし過ぎてしまい、つい「彼女の独立した個人の意思(尊厳)をつい尊重できなくなっている状態」だとするなら、

「俺はこの試験にパスすべき人間で、そんな事は最初からそうと決まっている。試験にパスしなんいじゃないかと思っている奴はどうかしているんだぜ、」ぐらいの勢いで「彼女も当然(疑いもなく試験にパスする事が「あなたこそふさわしいわ!」と思っている前提になってしまうので)そう思っている」と逆算されてしまいます。

なので、

肝心要の「その自分が試験を前に不安になっているのだとしたら?」

わかりますよね?同時に彼女の自分に対する不信感を疑うようになってしまいます。
これが彼女に対しての不安感の原因です。

つまりですね、
そもそも「そんな事を考えてしまっているのは自分」なんですよ。
彼女は立派に独立した他人なんですから、
あなたと関係している背景は、彼女が彼女なりの理由で(それはあなたにもわからない自分の特徴なのかも知れない)あなたを選んでいるのであって、あなたの深層心理のこころの動きを覗き込んでいるのでもないし、そんな事は元々不可能なんです。

ここで、前回のメールの話に繋がりますよね。
自分自身が試験にパスする事を目標にこれまでやってきたのには、自分なりの根拠があった筈で、それは今も試験の後にも変わる事はありません。そもそも試験なんてものには時の運等というものも大き関わってくるものです(出題者と資格の要件そのものに対する認識が違う事だってあるんですから)、「自分には可能性がある」そう自分で思ったのならそこには自己責任が伴います。
つまり、試験に落ちたぐらいで自信を失う事は、自分に対する背信であり、それは“最も無責任な態度”なんですよ。
※なので、仮に試験に落ちたぐらいで過剰に落胆する事こそ「みっともない」話は無いのです。そういう人間を「根性無し」と呼びます。

彼女は「今のあなたと付き合っているんですよ」
その今の彼女に疑念を持つ事は、これまでの年月全てを否定し、彼女を詐欺師呼ばわりしているのと同様の行為です。

■何の『縁』なのか、何の『偶然』なのか、彼女が今自分の彼女である事に素直に感謝すれば良いのであって、“今”自分にできる事にベストを尽くす事が、その気持ちに対する“報い”なんじゃないですか?関係性に『理由』を求める事は、その関係性そのもの(縁)を貶める行為なのです。

「試験に落ちたらどうしよう」等と贅沢な悩みを持っている暇があったら、今の自分に対してベストを尽くしてください(笑
今必要なのは、不安ではなく『闘志』です、

506 返信 誰かアドバイスをお願いします まこ 2006/03/16 01:34
はじめまして。
私は好きな人がいて、その人も私のことを好きだと言ってくれているのですが、
その人には彼女がいます。
そして、その彼女は私の知り合いです。
(ここから、彼をA、その彼女をBとします。)

AはBに何度か別れ話をしたのですが、Bが精神病で
別れ話をしたり喧嘩をすると、退行などになったりするそうです。

退行になると、精神が赤ん坊になってしまい、言葉が通じなくなります。
次の日に記憶が2年間とんでいたこともありました。

Aが友達とばかり遊んでいると、Bから電話がかかってきて、
「なんで友達と遊ぶ時間があるのに、私と会ってくれないの?」
とか、
「今手首切った。」
とかいう電話がかかってくるそうで、
Aも「もう本当に疲れた」と私に相談してきます。

病気がひどい時には、Aが対応などに疲れて、そこで少しでも疲れた表情や嫌な顔をすると
「私のせいだ」と思うらしく、そこでまた退行や、年齢が6歳児になって泣き喚いたりするそうです。
なのでAはBの前で嫌な顔や疲れている顔もできないらしく、
A自信にもストレスがたまってきています。

私はAに「Aがどうにかできる問題じゃないから、病院に連れて行くべきだ」
と言いました。
AはBに病院にいくように進めたのですが、Bは昔から病院や、医者にかかることが嫌いらしく、
病院にいこうとはしません。
「テストが終わったらいく」とか、「来月行く」とか、
何度もそのようなことをいっていたのですが、結局いきません。

その話をきいているだけで、最近イライラするようになってきてしまいました。
(その話をきいて、もう5ヶ月近く経ちます)

どうしたらよいのかわかりません。

皆様どうか、アドバイスをお願いいたします。

ちなみに、Bは学校で精神のことを習っていることもあり、
自分が「退行」や、そのほかも、精神的に病気だということは気付いています。

*少し感情的に書いてしまいました。すいません。
508 返信 つまりこういうことです kage 2006/03/16 05:57
話自体は典型的な話なのです。
答えは簡単です、Bさんとして登場する彼女に対して、彼Aには対応する力がありません。
この話にはまこさんがどうこうとかは考える以前の問題です。

精神的に問題のある彼女Bに対して、なんら精神的な悩みに対するアプローチのできない彼Aの存在は、彼女Bにとって「むしろ不幸な事です」
何故なら、問題を先送りするだけでなく、問題の先送りは悩みのポイントをより深く潜伏させてしまうからです。

彼女Bの特異な行動に、つい振り回されることもあると思いますが「全く気にしない」でください。それぐらい当たり前で珍しくもないぐらいにです、彼女Bの無意識にとっては「大変な事をしてしまった」等の事例はそれをもって自分自身や自分の自意識を脅迫(強迫)する材料(自分を追い詰める武器)になるので、これを中和する意味でも「それがどうした」という堂々とした振舞いが必要になります。
つまり、第三者的関与です、
恋人関係や、親友等の立場には容易に無意識の投影が行われてしまうので、素の彼女Bの自意識と会話するためには、(投影が起きないように)第三者的な立場が必要なんです。

ここの掲示板の他のやりとりや、HPブログのコンテンツをごらんになっていただければおわかりと思いますが、悩みとは「それが始まった状況を追体験のように再現する事で、感情を吐き出すように代謝される」ため、その構造が維持(保守)され、自分自身ではこれを解決出来ない状況に追いやってしまいます。
ですから、家族葛藤の投影の道具として恋愛に起因する人間観関係は格好の舞台であり、簡単に言えば相手は誰でもいいのです(常に物語の主役は自分になるからです)。

だとするなら、彼女Bに対して精神的な意味のアプローチが可能にあるためには、彼女の出方について「彼女の1当事者責任を明解にする(=相対的に彼女を主役にしない)」スタンスで関係できる人間でなければならず、場合によっては関係する人間(今回の場合彼A)の自我が崩壊するぐらいの覚悟が必要になります。
彼にはそんな経験も無いですし、平気で他の友人と会うという行動(こういうケースですと、人生を賭けるぐらいの覚悟が必要になりますから、一般の人と変らぬ生活をする余裕等無い筈なのです)から、これに対する当事者意識も腹の据わったものではありません。
「いいかげんな対応は症状を悪化させる」と考えていただいても構いません。

又、精神的な葛藤に「病院は補完的な方法でしかありません」わかりやすくいえば、「花粉症になったので鼻炎の薬をもらう」ぐらいの話で、心理学を学んでいるような人なら、その意味合いを余計に良く知っているでしょう(内部の状況を知れば知るほど、病院に行く事自体に意味は無いのです)。精神的な悩みとは「本人の考え」これをサイドからサポートする「病院乃至カウンセラー」、家族への聞き取り等、一定の規模のプロジェクトのような形が必要で、最も大事なのは「本人の自分に対する理解」です、今何が起きていて、自分は何がしたいのかにつていはっきりと認識するまで非常に長い時間がかかります。

つまり「病院にいけば?」
これも又、無責任な関与になります。
それ以前に「いったい何があったのか」「それはどうしてなのか」について、話を聞く方のとっても精神的にギリギリになるまで(話し合いが10時間に及ぶ事等驚くような事ではありません)「問題は何なのか」を明解にするためのアプローチが必要になります、
ですから、当事者能力として恋人関係程度ではどうにも(その覚悟というかリスクを自分に説得できないので)弱く、本人の自分自身への強い関与が必要になるのです。

簡単に言えば「自分自身でカウンセリングを受ける」「簡単でも自己分析として問題点を把握する」のような動きが出るまで前に進む事はないのです、
それまでは、結果「自分を追い詰めるためのネタ」を無意識に供給するための「本人も望んでいない行動(周りを振り回してしまう)」は止まる事はありません(無意識の抑圧構造を保守するために必要なんです)。

まこさんにできる事は何かと言えば
彼Aに「それだけの覚悟があるのか」と確認することです、
そうでないなら「その程度の関与で彼女と関係する事は、彼女の精神的悩みを平気で悪化させ、自分自身が恋愛気分を味わいたい(ある意味彼女の悩みを利用している事になります)だけの無責任な行動だ」と教えてあげる事でしょう。

503 返信 夫のママ依存症 かりん Mail address 2006/03/13 21:40
はじめまして、どちらで相談したらいいのかわからず、こちらに投稿させていただきます。夫の件なのですが、彼はとにかく自分にかかわる全ての事に(趣味、仕事の細部)「見て、聞いて、知って」という状態で、4歳児の子供のようです。思うに彼の幼児期、彼の母は忙しく又、年子の弟達に手がかかっていたため、彼に対して充分な愛情表現が出来なかったのではとも思います。構わないと直ぐにふくれ、2~3日部屋に篭り、自分を好きなら知りたいと思うのが当たり前だ。自分を好きでないのなら別れようと話はすぐ、飛躍します。私がママになりきって彼の話も聞いてあげられればいいのですが。時々同レベルになり子供の喧嘩をしてしまいます。どうすれば、ママになりきれるのでしょう?
504 返信 Re:夫のママ依存症 kage 2006/03/14 11:45
まず大事な事ですが

趣味や仕事細部について「かまってあげないと」
>自分を好きでないのなら別れようと話はすぐ、飛躍します。
この原因を
>彼の母は忙しく又、年子の弟達に手がかかっていたため、彼に対して充分な愛情表現が出来なかったのではとも思います。
と、推定されていますが、そこの判断に間違えがあります。
実際詳細がわからないので、推測になりますが上記の判断では「かまってあげないと・・・」にはならないのです。
かまってもらわないと、自分のイメージが不安(喪失とか拒絶されていると認知するため怒るんですから)になるのは「依存関係」があるからです。
>彼の母は忙しく又、年子の弟達に手がかかっていたため、彼に対して充分な愛情表現が出来なかったのではとも思います。
この部分は事実でしょうから、ここを前提に考えるなら
仕事や趣味などの目立った事をして、気をひかないとつまらない=母親にかまってもらえなければ面白くない=独立した自己が成立していなく(彼が個人として独立した大人ではない事は明白ですから)「母親に承認される子供」に快感(不安の解消)を感じている。
事になります、

これは、元々が自分のアイデェンティティーを母親に依存しているというコンプレックスが無いと(承認されないと不安である動機部分が)説明されない話で、彼は「十分な愛情を受けていなかった」のではなく、「母親の行動は、彼を満足させられなかった」と見るべきです。
その背景が「母親への依存関係」になります。

だとすると、彼のアイデェンティティーが他者(母親像の投影対象)に依存する傾向を助長する事は好ましく無い事になります。
>どうすれば、ママになりきれるのでしょう?
※「彼自信が自分のパーソナリティーが母親に依存している事を問題視しているなら」ですが、

つまり、属性として「ママになる」事は、彼の問題点を助長させます。
これを「依存関係」と呼ぶのですが、かりんさんがその依存関係をどのように考えるのか?が大事なのです。
これを延々と継続する事を由とする場合「彼がかわいい子供のようであること」が、かりんさん自身に好ましい事になりますから、そうなると二人の関係は「共依存」になってしまいます。
しかし文面から
>話はすぐ、飛躍します
かりんさんは、ごく一般的な夫婦関係の継続(飛躍することへの違和感)を考えているようですから、共依存とは考えられません。

ですから「ママになりきりたい」という相談の内容がどのような事を意図しているのか確認しなければならないのです。
505 返信 Re:夫のママ依存症 かりん Mail address 2006/03/14 20:00
返答ありがとうございます。確かに彼の言動が母に関係するものなのかは、私の憶測にもなります。只、義母から聞く彼の幼少時の態度が同じなのでそう考えたのです。社会面においては、彼はかなり強い人間ですし、またかなりのプライドの持ち主です。依存するというよりは、依存されたいというタイプ。そしてとにかく注目されたいのです。
私たちの関係においても同じです。特に子供が生まれてからというもの、私も話を聞くのがうわの空になってしまい、機嫌を損ねることたびたびです。(父親としての自覚はあるようですが)育児書によくあるような第2子が生まれてからの第1子の態度によく似ているのです。つまり、ママになるということは、変に聞こえるかもしれませんが、夫婦関係が一番、平和に継続されるための道なのです
507 返信 Re:夫のママ依存症 kage 2006/03/16 05:11
こういう事なのです

「不安感を拭い去るぐらい母親の気を引く」事でしか彼は安心出来ない依存関係になると考えるべきで、彼のプライドの高さは「気を引くための過剰な自己顕示」と考えるべきで、前回お話した以下の部分
>>仕事や趣味などの“目立った事”をして
がそれに当たります
簡単に言えば、独立したアイデェンティティーを持てない不安から母親の承認に依存し、それも絶賛でなければならないため、その自己顕示は「目立った活躍」でなければならず、これは当然(依存傾向からくる不安神経症的反動なので)素の状態の自発的意思ではありません。
つまり彼は相当無理をして(プライドが高いと思われるような活躍)目立っているので、これが(現在母親の投影対象である)かりんさんに「絶賛されないと」不公平に感じるのですよ。

「絶賛されるために(やりたくないことまで)こんなに頑張っているのに!」
>自分を好きでないのなら別れようと話はすぐ、飛躍します
彼の自意識の認知から考えるなら、「飛躍」ではありません、彼が激怒するのは妥当なのです。

前回お話した矛盾とはそういう意味なんです
>「ママになりきれるのでしょう?」
これは短期的には「活躍を絶賛する」事で彼の不安感を解消させますが、もっと(やりたくない事まで)頑張って気をひきたいと、依存傾向はエスカレートし、彼の構造的なストレス(アイデェンティティー不安)は、今より増す事になり、俯瞰で見るなら彼を苦しめているのと同じです。
(潜在的な仮面鬱傾向があるのと意味は同じです)

話は戻りますが「母親の子供への承認」とはどんなものでしょうか?
子供が「何をしたから」とかの交換条件(利益関係)無く、「あなたは私の子供でとても大事な存在ですよ」と認めてあげる事です。
@「まあ、勉強頑張ったわね、だから褒めてあげましょう」
これは最悪です、
子供は「褒められる事(自分で選択できないので、何をしたらいいのかすら不安)をしなければ認めてもらえない」と構造的な不安になり、自分の事などそっちのけで「褒められる事、目立つ事」を追い求める事を強いられ結果的に「僕はこれが好きだからやる」という自立の方向性を完全に見失います。これが依存関係からくる不安の構造です。

つまり“趣味や仕事について深く理解し”「○○○だったの素敵ね~」と言えば言うほど、上記の不安を助長する例に近いことがわかります。

極端な表現でわかりやすく言えば
「君の絵は素晴らしいね、君らしい、君が描いたものだからね」
「君の絵は素晴らしいね、特に陰影の表現に芸術的情感が現れている」
上の例が認めているのは『書き手』
下の例か認めているのは『作品』です、
つまり、趣味や仕事の話等細かい部分い関心をもって構えば構うほど彼自身は認められない構造と同じなんです。

何故って簡単です
依存型の不安が生まれる背景が
@「まあ、勉強頑張ったわね、だから褒めてあげましょう」
だからです、
これはつまり、子供の存在を認めるための言動ではなく「私の子供として恥をかかせないでね」という、一義的に「単に母親が自分の利益に奉仕しなさい」と言っているのと同じだからで、アイデェンティティーが不安になるのはそんなネグレクトの結果です。

それこそ「妻は何も言わないが、視線でわかる。遠くから俺の存在を大事に思っているのが俺にはわかるんだよ」
こんな台詞は自分のする事に自信があるからで、そんな自信は「俺はこうする、そう自分で選んだから(それは疑う事無く認められるから)」という過程を踏むからです。
「構ってもらいたい」等という感情が入り込む余地などありません。

お子様がいらっしゃるとの事なので、大事な話になりますが
「彼のそんな振る舞い(特に激怒しそうな不安定さ)」をお子さんは見ています。子供は自我が未発達(無意識が無防備)ですから、大人の不安感等に非常に敏感です、父親が不安そうな振舞いを見せれば、子供の目にはそれは「恐怖」に映ります、
そして、彼に大しても「いいママである」のだとしたら、お子さんは彼に勝たなければ認められないという『コンプレックス』を持ってしまう可能性が非常に高くなります。
つまり、結果的に「大人になっても母親依存傾向がある」という部分が引き継がれる事になり、世代を越すと確率的にはその傾向は増大する可能性が高いのです。

ですから「夫にも子供に対してもママになりきる」という事は、短期的にはかりんさんの利益になるでしょうが、長期的には彼に対してもお子さんに呈しても適当な振舞いとは言えるでしょうか?
一般的な家族であれば「彼に対しては良き妻」で「お子さんに対しては良き母親」であるのが自然に思います。

彼の自立を促し、依存傾向的不安感からの解放につながる道を選ぶ(簡単な事ではありません)のがベストだと思います(本人の希望が大事ですが)、
何をすればいいのかといえば、構って欲しがる彼に
「何故?」と問いかけ続ける事です、
「何故そんなに頑張るの?(彼方が彼方でいるだけで私は満足なのよ)」
そして、折を見て彼の過去の話をする事です、彼が激高する可能性はあるのですが、彼の母親乃至父親の行動に問題があると感じたら迷う事無く「それはおかしいわね(=彼方は間違ってないのにね)」と声をかけ、「お母さんは(或いはお父さんは)どうしてそんなことしたのかしらね」と、
彼が「僕はこれでよかったんだ、もういんだ。そんな心配最初からする事なかったのかもしれない」と安心するまでです。

お子さんの立場もああります。
お子様から見るなら彼に「父親としての当事者意識に目覚めて欲しい」のでは無いですか?
かりんさんが「ママになる」事も一面に過ぎず、彼が「父親になる」事も同時に満たさない限り家庭は歪んだ形になってしまうのです。

497 返信 誰か聞いてください まる Mail address 2006/02/26 11:12
すいません、ここで話すような内容ではないかもしれませんがリアルで話せる勇気がないのでここで語らせてください。


実は今高校を辞めようと思っているのです。
それはなんだかこの高校は私にはあってないと最近気づき始めたからです。
 私の通っている高校は進学校で学力もそこそこいいところで、中学のときは私も学年上位の成績だったのでこの高校に入ることにしたのです。
でもいざはいるとやっぱり中学の時の学習とはまったく違って、毎日予習・復習が必要になってきました。これは「周りの子もみんなやっているのだから。」と自分に言い聞かせ乗り越えることができました。
そんなこんなで学校生活をすごしている最中の出来事でした。同じ部活で仲のいい友人が学校を辞めてしまいした。そのことがきっかけで私は学習に手がつかなくなりました。
自分ではそんな風に思ってないと思っていても実際心の底では、「あの子が辞めたから学習に集中できない。」とその友達のせいにしてしまっていました・・・・そんな自分が嫌になりだんだん自己嫌悪に陥り学校を休みがちになりました。

そんなことが去年の10月ごろから続き今も現在進行形です。休みの日数も多くなり、3学期(1/10~)に入りもう10日ほど休んでしまっています。
学校にはちゃんと友人もいます。学校に行けば楽しく過ごせます。でも学校では今自分は自己嫌悪に陥っていることをかくしてわざと明るく振舞っています。
それも苦しくてたまりません


また今住んでいる環境も私には合っていません。
高校に入る際家の事情とも重なり、学校の近くに引越しをしました。前に住んでいたところは静かで緑が多く一言で言うと田舎でした。しかし引っ越したのは正反対の町で建物が多く市場も近いのもあるのですが音が鳴り止みません。
最初はなれるのが大変でした。最近はなんとも思わなくなったのですが・・・

それでもつらくてたまりません!学校をやめたら祖母の家に行き今祖母が一人でしている農業を手伝いたいと思っています。
きっと農業は高校に通うよりもつらいでしょう。でも農業の方が私には合っていると思います。

いくらどんなことを言っても単なるわがままにしか自分でも聞こえません。だから恥ずかしくて気心知れた人にも話すことができません。
だからここに書き込めてちょっと落ち着きました。
それでもまだ気持ちは変わっていません。なにか意見のある方もしよかったらレスしてください。
中傷でもかまいません。何かお言葉を頂けると幸いです。

(不安定な中書いた文章ですので分かりにくいかと思われます。申し訳ございません。最後まで読んでくれた方本当にありがとうございます。)
499 返信 印象が大事なのです kage 2006/02/26 20:58
これどういう事かといいますと、歩合で契約している営業職やプロの個人事業主なんかの仕事は生活かかってますから「結果は一大事」です。
しかし、人の印象は別の側面を持ちます。

話を「動機と根拠」で区分けして考えてみるとわかりやすいのです。

「動機」
>中学のときは私も学年上位の成績だったのでこの高校に入ることにしたのです
>中学の時の学習とはまったく違って、毎日予習・復習が必要になってきました。これは「周りの子もみんなやっているのだから。」と自分に言い聞かせ乗り越えることができました。

これ以降のエピソードは、元々ストレスでギリギリだっとところへの追加の刺激ですから、個別に意味はありません。

そこから動機を整理すると
「学年上位の成績だったので⇒毎日予習・復習が必要になってきました」
これがストレスの基本的なパターンですが、
ご存知の通り「順番というのは、上から下まで並んでいる」のであって、上位の存在は下位を前提とするもので、上位だけでは上位の概念は成立しません。
「上位の成績」という属性は、単なる結果です。
◆「クラスで身長順に並ぶ事になりました。私は後の方です」
それ自体には何の意味もありません。

つまり「私は数学が大好きで、特に難解な方程式の着眼点に興味があります。ところがある方程式につてその概念からどうしてもピンとこないものがあります、その方程式は何かと言うと、、、」
これは学問における問題としてアリでしょうし、これはストレスでもありますが
@「そんな私はそもそもクラスで上位です」
ここは上記の文面に何の関係も無いですよね?話としても結びつける事は至難の業です。

わかりやすく言えば、「自分は上位か下位か」それ自体には何ら意味はありません。これは単なる位置情報だからです。
となると「学校を辞めようと考える動機としてのストレス」は、個別に意味が無い事になります。
しかし、それに意味があるように感じるのは“印象”です。

「上位の成績」
これが、何の上位とか具体的内容(研究課題など)とは無関係に何か大事な事という抽象的な印象がある場合、上位の成績が難しいというだけで悩みになります。その悩みには構造的に具体的な根拠が無く(そもそも抽象概念なので)ので、結果として具体的な解決策が無い事になりますから、「辞めるべきか」という形になってしまいます。

学校を共同体と見た場合
>学校にはちゃんと友人もいます。学校に行けば楽しく過ごせます。
なので、問題はありません。
そして
>でも学校では今自分は自己嫌悪に陥っていることをかくしてわざと明るく振舞っています。
つまり、上位の成績は人間関係的にも特に重要な話では無く、それを気にしているのは自分ひとり(自己嫌悪)なのです。
だとすると、考えるべき事は
「自分ひとり(その内容と関係無く)上位の成績に何故拘っているのか?」
この一点です。
これが印象として、象徴的な事象から選ばれている理由です。


音について話がありますが、印象の話となると非常にわかりやすい事なので、「音が気になる」話をしましょう。
本来音の認知は脳内のイコライザーを通ります、脳内にはノイズを無視して重要な情報に集中する力があるからです。
例えば重要な話をしている時に外乱騒音は聞こえません。
これは聞こえていないのではなく「聞こえている事が意識されない」のです。
しかし自室で聞こえる音は気になるものです、その理由は「パーソナルスペースでリラックスしているので、何かに集中するというノイズリダクションもオフになっている」からです。
ここからおわかりと思いますが、そんな自室でも何かに興味があって(本を読んでいるとかゲームをしているとか)いる間は音は気になりません。
しかし、翌日早朝の予定がある時等の就寝時には小さな音でも気になります(冷蔵庫の音)。不安感があるからです。
動物は危険に注意する時に五感を敏感にして準備しますね、ですから不安感があると聞こえる音は大きくなります(耳を澄ませているんですから)、そして小さな音が聞こえると「それは何か」とこれに集中してしまうので余計に大きく聞こえます。
>前に住んでいたところは静かで緑が多く一言で言うと田舎でした
田舎ではリラックスしていて不安感が無かったところがポイントで、実際今の住居で聞こえる騒音自体(何dbとか)は問題が無いのです。
ノイズリダクションがオフになっていて音自体が聞こえても、慣れてくるとあまり気にならないものです。


さて、ここまでの話から全体像が見えると思います。
元々不安感に繋がるようなストレスがどこかにある筈です。
「上位の成績」という言葉が無意識に選ばれた理由は(誰かに具体的にそう要請されていない限り)、上位の成績と言う言葉が「なんか安心感のある言葉」だからでしょう。
お友達から「上位の成績なの」と聞いたとします、「それは問題だね」と答える人はほとんどいないでしょう。
極端に言えば「なんか大丈夫だよ」と「きっと上位だから」は、安心感を表す共通の言葉として並びやすい記号です。
※「きっと下位だと思う」は、「だいじょうぶじゃないかも」というような危機感を表す言葉として並びやすいでしょう。


「なんとなく安心だ」とか「これでいいんだ」と、思わないといけないぐらい『基礎的に何か不安だ』という事です。
現実成績下位でもあっけらかんとしている人もいて、成績単体で考えるならどうでもいんですから。
そんな背景をベースに、農業の選択を考えてみましょう。
>祖母の家に行き今祖母が一人でしている農業を手伝いたいと思っています。
求めているのは「安心感」とか「リラックス」だとわかります。
実際行為の難度や身体的苦痛はたいした問題では無く、とにかくリラックスしたい、と考えているのです。

ですから、不安感の内容を考えてみる必要があります。
(実際不安感の構造までは無理ですから、おおまかな内容でいいのです)
以下の分類から、「どれかな?」っと考えてみてください
①そもそも学校という社会性(本来学校は元々精神的ストレスになる組織構成を持っています)が、馴染めない(学友じゃないですよ)。
②何か特別に興味がある項目も無いのに、成績を上位に合わせる行為自体を求められているような気がしてストレスだ。
③引越し自体がストレスだった(田舎暮らしに有形無形の安心感に繋がる何かがあった)。
ザクッと上げてみましたが、似たような感じでどうかなと考えてもらえれば十分です。
その内容を、根拠として「じゃどうするか」と考えてみればいいのです。
500 返信 ありがとうございます まる Mail address 2006/02/27 11:33
分かりにくい表現だったにもかかわらずいろいろありがとうございました。

①~③から選ぶやつは全部当てはまっちゃっています
特に①と③は強く「あ~」って思いました。


①、
確かになじめません。保育園、小学校、中学校、高校(ほぼ1年)と集団生活を送ってきましたが、どのときも何故か自分だけどことなく浮いているような感じがしていました。
小さいときはほとんど気にしなかったのですが、だんだん成長していくとともに気になりだして無理をして溶け込もうともしました。
でもやっぱり玉砕してしまって・・・・そのころからのストレスがたまりにたまって今回爆発してしまったのかもしれません。


③、
そのとおりです。これを読んでびっくりしました。
あと隣が外人さんなのです。これは私の偏見で差別につながるかもしれません。
お隣さんは日本語もまだよく話せないし、黒人で背が高くて怖くて仕方ありませんでした。
広島のダンボール事件が起こってからは余計に思ってしまうようになって。
夜に犬の散歩に行くのですがそのときも声をかけられたりして・・・・・
お隣さんは善意で話しかけて下さって私がただ勘違いをしているだけかもしれませんが
自己嫌悪+被害妄想も出てきてしまったようです。
はやくここを出て行きたい・・・・


②、
父から「父さんは学生時代1番しかとったことないのにお前の成績は何だ!」とか、
母からは「母さん成績悪かったけど受験近くなったらひっしに猛勉強にして学年で上位に入ったよ。あんたは大丈夫なん?」
みたいに言われていました。二人ともうそはついていないようで、きっとこの言葉がプレッシャーだったんだと思います。


今朝「もう学校に行きたくない」と母に言いました。
母は優しく「何があったの?」言ってくれました。きっとひどく怒られると思っていたので少し安心して涙があふれ出てしまいました。
上手く気持ちを伝えたかったのですが泣いて泣いてどうしようもなくなって「勉強についていけなくなった」と本当はそんなことないのに適当なコトを言ってしまいました。

本当のことを素直に言いたいのに、うまく自分の言葉で言い表せませんでした。
落ち込んで学校に連絡もいれず休んだらなんと頼んでもないのに学級担任の先生が家に来て何度もインターホンを鳴らしていました。
家には私しかいなくて、私はもちろん出たくなくて小さくうずくまっていました。きっと先生は心配してきてくれたのだと思います。
でも私はそのインターホンの音が何故かだんだん怖くなりうずくまったまま泣いていました。

学校を辞めるのだったらいづれ学年主任、学級担任、両親と話し合いをしなければなりません。自分の思いを自分の言葉で言えるようにどうしたらできるのでしょうか。
今のままだと言える自信がありません。きっと今朝のように泣いてしまって話にならないような気がします。
502 返信 問題を深刻に捉えると逆にいいことないですよ kage 2006/02/27 14:49
というか、深刻に考える事自体が話の大筋を逸らせて(マスキングです)しまうのです。
わかりやすく言えば「違う話になってしまう」のです。

泣く話がありますが、悲劇性は快楽です、自己愛的欲望が引き込まれると話がどんどん大きくなるのです。現実そうなると悲劇性は大きければ大きいほど(無意識に)好ましい事になり、結論と動機は乖離していきます、何故なら無意識は「問題の解決を期待していない」からなのです。
「泣いちゃってまいっちゃうな(笑」ぐらいに思ってください。

>保育園、小学校、中学校、高校(ほぼ1年)と集団生活を送ってきましたが、どのときも何故か自分だけどことなく浮いているような感じがしていました。
ここから離れるのです、

話が自分の今の高校との関係に矮小化しているのに、印象として問題意識はよりオオゴトになっています。
>無理をして溶け込もうともしました
この「無理」の部分に自己愛的結合があるので、まるで意義ある使命でもあるような(無意識が問題の継続を望む理由です)印象になり、これを破る事は体感「許されない罪」であるかのような錯覚を生みます。

つまり「話を深刻に考えること=意義ある使命の証明」これはパッケージで同じ事です。

細かい事ですが
>父から「父さんは学生時代1番しかとったことないのにお前の成績は何だ!」とか、
>母からは「母さん成績悪かったけど受験近くなったらひっしに猛勉強にして学年で上位に入ったよ。あんたは大丈夫なん?」

ここに対し、前回お話した
>>わかりやすく言えば、「自分は上位か下位か」それ自体には何ら意味はありません。これは単なる位置情報だからです。
こういった批判(思うだけでいんですよ)があって然るべきなんです。
「それがどうしたの?」です
「その勉強でどんな(学問としてですよ)収穫があったの?まさかクラスで上位だけというナンセンスな話じゃないよね、文学や歴史・科学に触れる事でどのような認識に至ったの?」って事です。
学校は「上位感や下位感を味わうための差別ゴッコ」の場所ではありません。それじゃ税金返せって話になりますよ(笑
確かに国家が考える基本的な教養であったり、水準としての一定の合意形成(この部分は本来余計なお世話なんですが)のためであり、極端に言えば「文字の読み書きが出来ない」という結論から社会的な不公平を抑止するためのものです。
学校の本旨は「何を学んだのか?研究の成果は何か?」であって、所謂テスト(こんなものに全く意味はありません)の結果(単なる位置情報で、これが有益なのは「テストを受けた本人にとって」であって、外野席にはまったく関係ありません)等というものには全く意味がありません。

つまり
>父から「父さんは学生時代1番しかとったことないのにお前の成績は何だ!」とか、
>母からは「母さん成績悪かったけど受験近くなったらひっしに猛勉強にして学年で上位に入ったよ。あんたは大丈夫なん?」
この部分への違和感は「権威主義への反発」ですよ、
「何のために?」が欠落している話なので、「漠然とした権威主義」に対しての反発(ストレス)だって事です。

人間は平等ですから、成績等というものは「うどんが好きか、ラーメンが好きか」程度の意味しかありません。
つまり
>父から「父さんは学生時代1番しかとったことないのにお前の成績は何だ!」とか、
>母からは「母さん成績悪かったけど受験近くなったらひっしに猛勉強にして学年で上位に入ったよ。あんたは大丈夫なん?」
これは「理由は無いんだけど、お父さんやお母さんは偉い人なのよ、あなたはなれるの?」って意味です。

きっとですね、ご両親はその前後に補完する言葉をつけている筈なんですよ(上記の発言はあまりにもナンセンスなので)、しかし“まるさん”の記憶では上記の部分が「印象として記憶に残ってる」のです。
これが“まるさん”の両親に対する評価の証明だって事です。
「なんとなく偉い人で、言うとおりにすることは意義ある使命だ」

これは恒常的なストレスになります。
何故
>小さいときはほとんど気にしなかったのですが、だんだん成長していくとともに気になりだして無理をして溶け込もうともしました。
となるのかと言うと
成長するにしたがって「個人として自立」が始まるからです。
「偉い人に絶対服従する事が意義ある使命である」と、「自分の個人的利益(自由)」は対立しますから。

本来この時に、上記の両親の言葉の「何故がんばったのか?」という理由の部分と、自分の哲学とを比べて「私はこう思うから」という論議になるところが、「自由に自分の事を考える事自体罪」になっちゃっているんですよ。
これ構造的な考え方(固定的)だって事です。

現実ご両親に何を言えばいいという事でありません。
心理的な環境を整理する事です、
◆何をどんな風に感じていて、本当はこんな風な話なのに、こりゃ一体どうなっているのかな?
わかりやすく言えば、学校を辞めるとか辞めないとかは大きな事ではありません。辞めた時に田舎に帰るとかオーストラリアに行くとか、瀬戸内海で漁師になるとか具体論は『自由なんですから』、悩む事では無いのです(これむしろ楽しい事でなくちゃ)。

大事な事は、何がどうなっちゃってるの?の部分です、
自分の考えが自由にならない障壁について、どうこれを中和するのかって事です。
>本当のことを素直に言いたいのに、うまく自分の言葉で言い表せませんでした。
素直な自分の気持ちを感じられていないのです。
実際どうなのって事を、自分に尋ねるような静かさって部分を大事にするといいでしょう。
「集団がダメだこりゃ」とか「意味不明の動機が問題かも」とか「そもそも都市文明には反対で、どちらかといえば文明解体派だ」とか、自分の位置を成績ではなく言葉で表現することで、立ち位置を鮮明にすればずっと楽になる筈です。

486 返信 妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2005/12/31 17:26
下記の「泣く」という相談、わたしもそうです。父親と母親の前で何を主張するにも泣いてきました。そしてその度に親(両方)から馬鹿にされてきました。「体裁」や「常識」や「ルール」を重んじる(といえば聞こえがよいのでしょうが)家庭でそのルールは父親が作ってきました。父親の作ったルールに従わなければ肉体的・精神的に虐待を受けてきました。当然、それを虐待と呼ぶようになったのは10代後半になってからです。家では「教育」という言葉が用いられました。親に何か大切な話(進路や運転免許をとりたいなど、または友達の家に泊まりたいなど)を持ち出すとき、ルールに従がわなければ「おまえには俺に話をする資格などない!」と怒鳴られ一切耳をかしてくれませんでした。ルールというのはきちんと親の前に正座するなどです。命じられた家事を少しでも怠ったり上手にできなければすぐ罰の対象になりました。それは、わたしを口で馬鹿にするなどです。母親はわたしを「がさつな女」と呼びました。ちなみに母親は父親の妹も同じくがさつと呼びました。わたしたち姉妹の前で母はよく父の家族の悪口をいいました。

なのでわたしがなぜ人前で大切な話をするとき泣くのかというメカニズムはわかる気がします。

でも今回相談したのはこのこのではありません。実は3歳下の妹のことです。

わたしの一番古い思い出でもあり一番最悪な思い出は3歳のころのことです。父親が母親を蹴り飛ばし、鼻血を出している母がわたしにタオルを持ってくるよう呼びかけているシーンです。父は自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です。被害にあったのはわたしと母親でした。母親はわたし曰く「無教育で無知な専業主婦」です。わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌いは母に対する気持ちからきています。妹は非常に頭がよく、親からの体罰を逃れて生きてきました。有名校にはいり“なんの問題もなく”生きてきたように思われる妹に変化が出てきたのは数年前です。大学院に進んだときからおかしくなってきました。現在自分は海外に住んでいますが、日本に一時休暇帰国したとき偶然にも妹のカウンセラーからはじめて電話をもらい、妹が過呼吸症にかかったときいたとき、驚くよりも「・・・やっぱり」という気持ちが先立ちました。まるで構えていたかのように。自分だけ酷い思いをして、妹の精神が健康でいるわけがない、という仮定にたいしてです。

むしろ自分は感情を押さえずぶちまけてきました。そのため余計親から酷い目に合わされてきました。親が悪いということは15歳の時に自覚しました。それいらいアダルトチルドレンであることは自覚し続けています。にも関わらず、今でも何度も自分は単に被害妄想を持っているだけではないかとも思い、自信をなくします。心理学も勉強しました。なのでそういう被害妄想も異常ではないこともわかっているつもりです。

妹は現在精神科に通っています。抗ウツ剤も何年か飲み続けています。自傷もしてきました。洗剤を一本丸ごと飲んでもいます。妹はON OFFの激しい人で、Binary Codeで生きているんではないかというくらい、ONの時はテンポが以上に早く早口でしゃべりを止めない、またOFFのときは自分でベットから起き上がることすらできない状態です。

前置きが長くなりましたが、必要な情報と思いましたので上記をかきました。ここからが本題です。
相談は、そんな妹の治療に自分がどのように関わればよいのか現在すごく悩んでいます。
わたしの予想ですが、うちの妹の症状は彼女自身が抑圧してしまった(また抑圧された)感情によるものではないかということです。妹は両親が大好きですから、父が母やわたしに加えた虐待、また母がわたしに加えた精神的虐待(妹にも加えてないこともないですが、そのせいで虚食・過食を妹は経験してます)のことを、先生に一切話していないというのがわたしの予想です。

なので妹に言いました、先生にちょっとお話がある、と。表面をつくろう「良い子」(スーパーヒーロー的)の妹なので、口ではいつでも調子のよいことを言います。家族であれば誰でも先生とお話ができるよ!などど。当方、海外に住んでおり妹は日本に住んでいるため会話はメイルなのですが、そう調子のようことを妹は言い続けても、いざ「わかった、じゃ先生の電話番号と名前をくれる?」というと返事がまったくこなくなります。すでに何回かPUSHしましたが駄目です。


これは本人が拒否していると受け取ってよいのでしょうか?その場合、無理におなさい方がよいのでしょうか?わたしとしてはわたしからの話(本当の話)が治療に役にたつと思い、先生と話がしたいのですが、わたしもアダルトチルドレンですから、もしかして治療のためといいつつ、実は自分の親に対する不満を妹の精神科の先生にぶちまけたいだけじゃないのか、、、などとも思ってしまい、どうしたら良いのかわかりません。

妹は裏ではわたしが何を先生に話すのか気づいていると思います。妹と親のことで話をしたことはありません。わたしの家庭は非常に秘密主義の強い家庭で、大切なことは何も話してきませんでした。また、わたしの大切なことは話そうとする度、または勇気をもって話をするたび親の前にすべてぼろぼろに崩れ去っていきました。
妹は学歴では自己実現をしました。がんばりにがんばりぬく人です。自分の病気も自分なりに分析して精神科の先生から誉められているようですが、親の虐待のことは一切話をしていないと思います。

勿論、自覚のない患者に精神分析のようなことは危険であることは承知しています。なので自分のやろうとしている行為が妹にとって危ないことである可能性も考えています。その一方で、もしかして治療に役立つかもという思いも脱げきれません。

妹自身は「罰」を逃れてきましたが、例えば狭いアパートの一角で、わたしと父親が進路のことで毎日のようにもめ、何かわたしの態度が気に食わなければ父はわたしの顔面を畳にぶつけたり、その時のわたしの悲鳴や大声(わたしはわざと大声で抗議してきました)を妹は自室できいてきたはずです、多分感情を一生懸命殺しながら。
父は母の大切にしているコレクション(ヨーロッパのお皿)をわたしに投げつけている時、母の悲鳴、わたしの悲鳴と父のどなり、そんなものの犠牲になったのは、実は妹ではないかとわたしは予想しています。ちなみに父のことばかり書きましたが、わたしがうらんでいるのはむしろ今は母親です。父の暴力も結局のところ母に従わないわたしを見て「ムカツイタ」から行っただけだろうと。母は平気で馬鹿みたいなこといったり、また浅はかな話にこっちが突っ込むと、「お母さんは何も知らないのよ」とすぐ開き直ります。

自分は悲鳴をあげ、堂々と親を責めで10代、20代前半を過ごして20代前半でやっと親元(日本)を脱出しました。10代後半は自殺も考えましたし、親元で毎日のように苦しみを日記に書き綴ってきました。(その日記を「ぶち壊すからもってこい!」と父に脅され全部自分で処分しましたが)
海外に就職し、経済的に独立し、そのおかげで親を殺さず済んだと思っています。それ以来は物理的に離れたせいか、普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました。それでも一度もめた時、親にはっきり今までの過去のことを話し合いたいと電話でいいましたが父親から、「おまえが何を言っているのかさっぱりわからない」とRejectされました。親に自覚はまったくありません。父は自営業をしており社会的な常識や知識を持っており理論的ではあります。母はまったく駄目です。父もそんな母のいうことは全部馬鹿にします。(馬鹿にされることを平気で本気で言い続けるのが母なのです。例えば人種差別的発言など)

自覚があるのは、この家庭でわたしだけです。そのことで、自分の記憶が間違っているのかなど責めることがありますが、本などで親の子に対する虐待説を読むたび、「そうそう、これだ。うちの親もまったく同じことをしてきた!」と納得します。

長くなりました。
妹の治療への関わりかたについて、アドバイスいただければと思います。

487 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2005/12/31 18:38
現在の状況について少し書き足します。

妹は結婚しているのですが旦那が忙しいときなど母が遠くから新幹線でやってきて妹の家事や面倒をみています。本人も自傷は自殺じゃないから、といっておりますが自傷で気をつけなければいけないのは、間違って行き過ぎないことです。(致死量を超えない)そのため旦那がいない時など母が泊まったりしています。


妹が「気晴らしに」といって旦那と一緒にわたしの所に尋ねてもきました。わたしと話をすることは気晴らしにもなるようです。メイルでもキャリアなどの話をしたりします。旦那も非常に協力的で結婚前から見せていた現在の症状が見せるたび近くにいてCareをしていました。

以上、少しでも参考になれば。。。
488 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2005/12/31 22:07
二つの見方をもってみましょう。

ひとつは、特定の環境を見るための「両親の世界」です。
もうひとつは「ある家族を冷静に見る」という第三者の目です、
この両者に違いがあるのは、相対的な関係で個別に説明しても大きな違いはありませんからちょっとわかりにくいと思います、
ですからこの両者がどんなものかは全体を読んでいただいてから印象として受け取ってください。

『父は自営業をしており社会的な常識や知識を持っており理論的ではあります。母はまったく駄目です。父もそんな母のいうことは全部馬鹿にします。』
全てはここから始まっているといえます。
夫婦の相性として、元々無理があります、
そしてここで登場する「父親像」ですが、
「社会的な常識や知識を持っており理論的」
「自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です」

既に矛盾しています。
上記の合理性は『使い分け』によって担保されています。
「社会的であったり理論的なのは知識のレベルで、実際の運用は暴力的である」シーンが違うので両者は合理的に両立するように見えますが、この「使い分け」こそ抑圧のためのパラドックスです、
本来「話は一見理論的で常識のある人間に見えるが、その実暴力的で粗暴なのが本性で、彼の常識論なるものはそれ自体一種の強迫でしかなく何ら彼自身を表すものではない。結論、彼は無教養で神経質な男なのだと思う」となってなければならないからです。
後者の解釈が何を意味するのかと言えば、反動としての母親の解釈「彼女は、無教養のくせに父の家族の悪口を言った」の内容自体が変容するからです。
つまり彼女の批判性には一定の根拠が成立(父親への無条件の肯定)します、
何故なら「父親こそ粗暴で無教養な男だ」という前提から考えれば、母親が受けた暴力も「母親の話の合理性に対して、その実神経質なだけで教養や理論的な部分は口ばかりの父親は、持ち前の暴力でしか対抗できなかった(自分の常識的な部分や理論的な部分は表面だけの話で、彼自身の自我にとっては抑圧のための“お飾り”に過ぎない事がそれを証明します)」という話に変り、結論として

「わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌い」の根拠は成立しないのです。

この「わたしの無教養嫌い、専業主婦嫌い」とは、父親の常識的理論的人格に対する肯定であり、「親元で毎日のように苦しみを日記に書き綴ってきました」の根拠は『話せばわかる人だ=理論的な側面への肯定』でなければ辻褄が合いません。
つまりTGさんの無意識には非常に強く「父親の強迫構造を擁護(彼が常識的で理論的な教養ある人間)」が隠れていて、妹さんの高学歴志向も同じ流れにのっかっていると見るべきでしょう。

「両親の世界」で見るなら、近代の日本では「理屈っぽい」事自体が卑屈であるなどの印象があり、保守思想の本質的な部分に関わるのですが「素で表現され本人にはそれを何ら説明できないことこそ本質的な体現である」とする面があり、当時から「反動としての(結果左翼がそうである事も歴史的に証明されました)理屈っぽさは、言論のための言論に過ぎず聞くに値しない」世界がありました。
わかりやすく言えば「口の達者な奴=軽蔑の対象」であった時代があったという事です。

何かを無から実現させるための新しいアイデアや、発端は反動だとしても実効性あるものにするために格闘した後に理論化されたアイデアは「新規なので常識論に見えない」のです。
わかりますか?
きっちりと裏付けのあるアイデアは、むしろ常識から見れば異質であり、口達者には見えないのです。
「それは又見たことも聞いた事もない話だね」な時、保守的アイデアすら反発を起こす事は無い=つまり個性です、
個人の合理的アイデアです、
それが単に反動的であるときこそ『常識の衣』を纏います。

「両親の世界」から見ると、そこにあった夫婦の関係とは、口ばかりで単に神経質で粗暴な男と、口下手だが教養のある女との「かみ合わない争い」だったと見るべきでしょう。
(現在妹さんを気遣って妹さんの家庭の面倒まで見ている母親のイメージも、この前提から見るほうが明解になります。そして「母の大切にしているコレクション(ヨーロッパのお皿)」この部分もです)
■ひとつ話をデ・コードしてみましょう
父の暴力も結局のところ母に従わないわたしを見て自分自身の常識の部分が刺激されるため、もっぱら父の自己防衛で行われていて「ムカツイタ」から行っただけだろうと。母は実際言葉で“それ”を話す事は苦手で、一見無教養に見えますから(高学歴の現代社会ではそれを理路整然と話せない事はむしろ恥ずかしいという常識がまかりとおっていますから)恥隠しで平気で馬鹿みたいなこといったり、また浅はかな話をします。こっちが突っ込むと、当然母の話は恥隠しの付け焼刃なので「お母さんは何も知らないのよ」とすぐ開き直ります(そんな話最初から言わなきゃいいのに、、)。
そんな風に本来常識的な母親はもっと堂々としていればいいのに、自分には教養が無いといらぬ不安を持つものだから、話がよけいややこやしくなるのです。実際私は父親が常識的論理的人物だと思っていましたから、家庭内の合意として「無教養な女=母親」の言いつけや手伝い等、無意識にバカらしくてあまりやる気にならなかった(父親が喜ぶとも思えず)ものですから、そんな争いは絶えるとこがありませんでした。
むしろ「お母さん本当はこういう事が言いたいのでしょ」と私が助け舟を出せば良かったのかも知れませんね。でもそんな事年端もいかぬ子供にわかる筈も無く、最初から無理な相談です。
考えてみれば、全ては「閉鎖的な家庭」が原因なのでしょう。
家庭の閉鎖性は、父親の仮面を暴かないように擁護する要塞の役目を持っていたのだと痛感します、誰かよその大人が介入していれば交通整理じゃないですが「おいおい、それはおかしいだろ」と(誰が誰をという事も無く)たしなめてくれていたかも知れません。それを傍から見ていれば子供の感じる印象も違ったでしょう。

私は、そんな要塞で大人になりました。


家族の関係はどうでしょうか?
第三者の目で俯瞰から見てみましょう
TGさんの言葉を借りるなら、妹さんは「両親の虐待を告発していない事が抑圧のベースになっている」となります。
※実際カウンセラーの能力を確認できないので、無責任な事は言えないのですが、現在日本の医療におけるカウンセリングで、両親の行動と自我の関係を(経験的な補足はありますが)理論的に結びつけ治療に反映させる力はありません。精神分析的な解釈自体に懐疑的であるからです、その解釈はカウンセラー個人のパーソナリティーに負う部分が大きく、果たしてカウンセラーへの報告にどれだけ意味があるのかは、残念ですが「正直疑問」と言わざるおえません。
これは私からの現代医療に対する批判ではなく、医療というものは社会的サービスとしての法的存在ですから、それを超えるリスクは法的に明文可能な範囲に限られるため、実際学派が割れていたりむしろ人文系に現在属している精神分析を診療に取り込むことは公には不可能であり、「精神分析は公的診療の部分を越えていて、個人の自己決定の元で選択されるもので、公的サービスではない(歯医者の治療における「保険の効かない領域」)」のです。
結果として「精神分析的アプローチの自己決定としての選択」は、個人の自立という文化が背景に無い限り社会的に仕事として成立しないため、その内容を医療の現場に求める事は最初から難しい話で、、
一見矛盾するように思えるかも知れませんが、それが現代メンタル医療の現状で「患者から申し出のある症状の緩和」これに特化しているのであり、根本的に自我自体を取り扱う事はほとんどありません。

ですから告発自体には意味はありません。
大事なのは「自分で認知する」事です、
告発とは、第三者が「その人物の認知を確認」する現象であり、当事者にとっては事後的なものに過ぎません(精神分析の過程でそれが大事であるのは、最初に話す相手が構造的に「分析者に対して」であるためです)。
前述注釈にある通り、「カウンセラーに必要な情報を提供する」事に実効性が乏しいのですから、
最も大事な事は
「妹さんがTGさんに、それを話す」
この一点に限られると言っても過言ではありません。
(現在妹さんに、それを話す対象者は他にはいないのですから)


「何故私に話さないのか?」
或いは
「私にさえ話せないほど(自分自身に積極的根拠すらない)に、“それ”は深く沈んでいるのだろうか?」

妹さんの話を読んで感じた事ですが(あくまで伝聞なので私の話は推測に過ぎないことをご理解ください)、
コンプレックスの対象は父親です、
実際に(ご自身の話ですと)「大暴れした私」に比べて、妹さんの立場から見るなら「私は構ってもらっていない」からです。
TGさんにも心理学的な知識がおありのようですから、ストレートに話ますが、
「偽り(教養的である側面)が破綻している父親こそ彼の男としての本性」と自我は定義します。
「父親の男としての本性」とは何でしょう?

「何故私を殴らないのか?=私はお母さんやお姉ちゃんのように愛されていない」という不安です。

『男が興奮して大声を出している。』
いかにも性的アピールすれすれの言動です、
本質的に教養ある人(性的欲動を合理的に自我の表情に取り込んだ人)なら「静かに話す時こそ恐ろしい(=本気である)」ぐらいな世界を持つものです。
「本音と本音で、腹を割って話をした(深い関わりを持った)」
この会話には緊張感があり恐怖感すらあるでしょう(彼の静かな会話には、本質的な教養に裏打ちされた強烈な破壊力があるからです)。
ところが「常識的であったり理論的な話がいかにも口ばっかり」な印象にある時、その人の自我にどうやって触れればいいのでしょう?
その会話に「恐ろしい」ほどの緊張感のあるシーンは?

彼の場合、それは暴力でしょう。
ここで彼の人格がよくわかります、自分自身の仮面に過ぎない常識や理論的な側面が『(脅迫的反動に過ぎず)本物では無い』自覚があるんですから、そんな話(常識的且つ理論的話)は「一番恐ろしい(自分自身の仮面が暴かれる恐怖)」ので、自分自身を安全圏におくために「本質的に教養ある人と同じようになるためには、恐怖感によってそれを補完すれば良い=短絡的には暴力的であればいい」となります。
大事な事ですが、暴力的な彼も「関心が無ければ、無視するだけで暴力を振るわない」のであって、この幼児の発想は一定の根拠があるのです。
「家族に暴力を振るう男」⇒「彼に暴力を振るわれている」=「彼の家族だ」=「父親と子供の濃密な関係」

ここでTGさんにも、妹さんにも「父親の虚像」がコンプレックスになっている事がわかるでしょうか?

父親にとって、自分の暴力的な側面は彼自身最も恥ずべき行為であり、同時に常識的論理的な人間だと思われる事は彼を強迫しストレスになるだけです。どちらも現在の父親には受け入れがたい行為で、
彼が望むとするなら
「あなたも大変なんだね」という理解でしょう。


■わたしの一番古い思い出でもあり一番最悪な思い出は3歳のころのこと
「歪な形に見えるが、これが本当に父親に愛されているという事なのか?」
3歳の人間にもそのエロチックとも言える「次元の違い」は確認できます。当然幼児が性的な関係を歓迎しないように、当時の記憶は不快な筈です。
「母親は特別か」

そもそもの始まりは
「この男女の結婚は失敗じゃないのか?」という疑問がない限り解釈不可能です(夫婦関係継続のために反省する場合でも、その着眼は必要になりますから)。しかし、んなことを幼児に考えられる筈ありませんから、それを無理やり肯定するロジックを受け入れなければなりません。

「社会的な常識や知識を持っており理論的」
「自分のいうことをきかない対象を破壊することで怒りを静める人です」
このパラドックスです。




話を妹さんに戻してみましょう。
彼女が恒常的な不安ストレスにさられていることは間違いありません。
「偽りの仮面に過ぎない、『望まれない高学歴』なるものに傾倒した閉塞感」は、まるでその要塞の欺瞞を飾る装飾程度の意味しかなく、

自分のレーゾンテートルは、単なる“お飾り”か?
(無意識は、父親の虚像に気がついていいますが、無意識の領域なので「言葉としてそのまま認知」する事はありません。感じるのは「不安感・不快感」というストレス信号だけです)

実存感の欠如は輪を掛けます。
「愛されたお姉ちゃんは海外で暮らしている」
私は所詮出来そこないに過ぎない。
彼女の発想は「父親の虚像」の延長上にあり「そのお姉ちゃんは『普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました』両親に愛されている」

つまり妹さんの自我から見るなら、TGさんは既に「向こう岸の人」です。
事実とは違いますが、妹さんの自我から見るならそうなるのです。
「あの3人」として、
●妹自身は「罰」を逃れてきましたが
正反対です、「この家族の虚栄のために自分は犠牲になってきた」ぐらいの体感でしょう。

これが自傷の動機です、
そして「海外へ」という部分は、「私を置いて逃げた」ようにも感じているかも知れません。
妹さんが先生に両親の虐待の部分を話していない根拠も説明がつきます。
彼女のテーマは「私は所詮出来そこないに過ぎない」であり、虐待がらみの暴力的な側面は「あの3人の話」という認知であっても不思議ではありません。


妹さんとの関わりを再構築するためには「秘密主義の家族」に風穴を開けるのが一番です。
TGさんですよ
既に彼方は他人です。「海外に就職し、経済的に独立」
その家庭から独立したのですから、


昔の言葉になりますが「同じかまどの飯を食った戦友」として、第三者の立場から「あなたはどうしているの?」と、関わるべきでしょう。
そして、「その夫婦」との関係も、いかにも親子関係である必然はどこにもないのです。

『普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました』

ここ矛盾しています。
「先生に告発する」ほどなのにです。
「あの家庭は失敗だった」である筈で、それを「普通の親子のように、、」何の意味があるのでしょう?
私は、親子関係の対立を奨励しているのではありません。
「あなたは親として失格だ」としても「人間失格」ではありません。
個人と個人としての関係を(彼の親友が「それはお前が悪いと思うよ」と忠告しても個人と個人の関係は破綻するどころか、その深さが証明されるでしょう)再構築すれば良いのです。

つまり、
「海外に就職し、経済的に独立」した私は、ひとりの大人として彼らと関係は続いている。なんせ歪な家庭だったから、彼らとの関係は「普通の親子」とはおおよそ呼べないものだけれども、今は本音で話ができている。
彼との関係、彼女との関係、どうや彼らは今でも夫婦のようだが、私にはそれもどうかと思う部分もある。「若いカップル」みたいなものか、
各個人とは本音で話しが出来ているので、それぞれ大変なのだと思うが、自分で考えても「あの二人に育てられる」という環境は、第三者的に見ればおおよそ子供が育つべき環境ではない。しかし時代的な背景を見れば、そんな夫婦は特別ではなく、自分の人生は「家庭後」自分で掴むしかない。

心配なのは妹だ、



「彼女だけが、まだあの時代に生きている」


カウンセラーに話を通す事ではありませんよ。
妹さんと「姉妹」ではなく、「お互いの尊厳を認めあう人間として」
あの時代が何であったのか語らい合うべきです。
事実をひろい集めていかない限り、妹さんだけがその記憶の世界に取り残されてしまいます。
彼女の自傷は、そんなノスタルジーが引き越しています。
彼女の夫が見込みのある奴なら、先ず彼と話をするべきでしょう。
見込みとは、妹さんの彼の見込み違い(後述参照)の意味です。


心配な点がひとつあります。
葛藤のある人の恋愛構造は、無意識にその抑圧構造を保守する着眼点を恋愛性とし認知します。ですから、彼のパーソナリティーは「あの時代との関連性に都合のいい登場人物」として無意識に選択されている確立が高く、彼に本質的解決を期待する事は彼自身の自我を危険にさらす可能性が高いです。
ですから、彼がどんな人物であるのか、十分に考えた上で彼と話すべきです。彼には難しいと思ったなら、必要以上に彼を関与させないようにするべきかも知れません(場合にもよりますが、彼の関与が構造をエスカレートさせる可能性もあります)。
妹さんの彼への恋愛性が彼の一部に過ぎず、彼という人間が「妹の感じている印象と違う」と思うなら、頼りになる存在になるでしょう。


厳しい話になってしまいましたが、「その時代の当事者として私は選択する」という自己決定がTGさんにあるなら、妹さんと話すというアプローチしかありません。
それは同時に「もしかして治療のためといいつつ、実は自分の親に対する不満を妹の精神科の先生にぶちまけたいだけじゃないのか、、、」を解決するでしょう。
489 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2006/01/03 12:19
お正月そうそう早速お返事をいただきましてありがとうございます。
指摘いただいた部分、とくに自分の母親に対する憎悪というのは父の自分の妻(わたしの母)に対する感情の移入だったという点、特に図星だと思っています。
日本にいた頃は母よりむしろ父を責めていました。父が圧倒的な破壊力を持っていたからです。
海外にきて仕事をするようになり社会的にも成功しはじめた頃から、父の肩を持つようになったのかもしれません。それは、指摘にある通り、父の虚栄に自分が翻弄されているのでしょう。ここの部分は自分でも気づかなかった部分です。つまり父はファルスなんですね。

ただし母が常識のある人であったかということについて再度詳しくお伺いします。まずわたしから見ると、母が常識であったとはおもえません。母は、「自分は常識人」「おまえ(わたしのこと)は非常識な女」と言っていました。わたしは勿論その逆を信じています。おっしゃられている「本来の母親の常識的なところ」というのは、夫(わたしの父)の暴力という権力に出会う前の母の「本来の常識」のことを言っているのですか?つまり、母は元々は普通の人であるが、間違った結婚に自分を合わせようとしたために、自分もモンスターになってしまったと。。。英語のことわざでこういうのがあります。Be aware in the fighting with the monster that you don't become the one.
意味は、モンスター(怪物)退治には気をつけろ!自分が怪物になってしまう恐れがある。

母のわたし(たち)に対する虐待はむしろ「腹いせ」のようなものばかりでした。
母が父の家族の悪口をいっていたのも指摘されたことで「ああ、そうか」と糸をほぐすようにわかってきました。確かに、父の母(わたしの祖母)にとってわたしの父は「自慢のまな息子」でした。田舎出身で田舎では父の祖母は村の村長さんだったものですから、それをことあるごとに自慢もしているのです。わたしにとっては祖父・祖母は母方も父方も良いおじいちゃん・おばあちゃんの記憶してかありません。ただ、こうして母の記憶として予想としてたどってくと、我慢しがたい環境はあったとおもいます。父の妹(わたしのおば)はわたしが親戚の中でも一番好きなおばさんですが、父のことは恐れているようでもあり、でも絶対的尊敬をもっています。でも「御兄ちゃん(わたしの父)は長男で甘やかされて育った。親戚からも皆からも。ケーキが分けられると、御兄ちゃんの方がおおきかったもん」と言っています。

母からしてみれば自分が夫の暴力を否定することもできない。(わたしからみれば弱い母親)
でもその夫の暴力的なところを無視し、みてみぬ振りをする、しまいにはそんな夫を奉り信仰している夫の家族は、憎い存在なのでしょう。ぼけがかかってきた夫の母親の面倒を母は今とてもよくみています。妹の面倒と姑の面倒です。父の妹もみていることはみていますが母の負担にくらべたら低いです。というのも、父の母が自分の娘に面倒をみられるのを拒むからです。離婚したおば(父の妹)は自分の母(わたしの祖母)のところに身を何年もよせていました、一人娘の一緒に。ところが最近おばは実家をでて娘(わたしのいとこ)と暮らしはじめました。わたしの妹からきいたことですが、「どうもおばあちゃんと喧嘩したらしい。出て行けといわれて、わたしは○○坊(自分の息子、わたしの父)と将来暮らすんだから!」と、おばを追い出したとのことです。

おばのことを考えたことありませんでしたが、もしかして自分の母親(わたしの祖母)とは何か葛藤があるのでしょう。仲良いところしかみたことがありませんから。でも、かといって、うちの父は自分の母の面倒見がよいかといえば、それも表面的な部分だけですね。仲良く話をしているところは記憶がありません。いつも母を使って自分の母親を面倒みてきました。ぼけてからは私の母のところに祖母がしょっちゅう電話をかけてきますが、父が出て話の相手になることはないです。それはいつも
母です。おばがいたとき、おばが「わたしがかわるわ」とわたしの母に言っても、母はそのまま「いや大丈夫」みたいな手しぐさをして、自分がぼけた姑の世話をしていました。日本に一時帰国したときにちらっと目撃しただけなのでよくわかりませんが、印象としては「普通」でした。父が自分の母親の面倒を妻に押し付けているという光景が、わたしにとって普通ということです。

表向き理論的で中身は暴力。これはわたしが15歳でACと自覚していらいずっと父に抱いていた感情であり憎しみでありわたしが父のことを人に話すときはこのように表現していましたが、ここ何年か(日本を離れてから)は別な見方をしていました。そこで再認識させられたわけです。

暴力的な父が悪いのに、それをさしおいてそれに耐えている母を責める気がありません。しかし、しかし、子どもとして、娘として、あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります。つまり弱い母親に対する、自分を救うところか父に荷担していた母を恨む気持ちです。母もわたしに怒ると「死ね」とか「おまえは病院にいけばなおるが、割れた皿は元に戻らないんだからね」などと言いました。母がわたしを蹴るときはみていて非常に醜いものを感じました。父のような破壊力はなかったのでわたしの身体的に痛めつけることは母はなかったのですが、母がわたしを部屋に追い込むまで蹴り続けるとき、それはわたしを蹴っているというよりなにか(それは父への抗議なのでしょう)を恨み尽くすような勢いでした。ちくしょうー!と言っていましたし、「おまえが(父親の)いうことさえ聞けば、わたしがお父さん(わたしの父)から嫌みいわれたくて済むんだよ!」と。




なので自分自身も分析をうけて今までの過去の整理をしたいと思っていますが、今回は妹のことです、自分の整理をせず妹にどうやって?とも思いますが、妹に話をするというのは自分が恐れていたこと、自分の過去が否定されるのが恐かったんだというところにまでは達しましたが、問題は、妹に過去のを話すのは果たして安全か??ということです。
妹の認識をしらないので、わたしがこんなことを話したら「何いってるの?」っていわれるかもしれません。もちろん、100%同意してくれるかもしれません。それはわかりませんが、「自覚のない患者にいきなり精神分析みたいなことをして(言って)危険はないのか」ということです。妹は過呼吸に悩まされ、鬱になやまされ、突然涙が止まらないというものに悩まされ、しまいには自傷しています。自分では自傷は仕事のストレスを発散させるため仕事場で洗剤を一本飲んだといっていますが、、、ま、仕事がTriggerだとしてもそれが「原因」でないことはわたしにもわかっています。でも妹は分かってないと思います。知らない、気づいてないとおもいます。そんな人にどのように話をもちかけたらよいのか、迷っています。まずわたしが考えているのは、今から話すことはショッキングなことかもしれないから、先に先生によませてもよいし、旦那と一緒に読んでもよい、ということを前置すればよいのかとも思っています。また、自分も妹と話をしてきませんでしたから妹が何を考えているのかわからない、なので自分の話をきいてもらおうと思っています。危険なアプローチでしょうか?なにか具体的にこれは避けた方がよい、などありますか?

(だからその安全性を先に精神科の先生にきくというのもあります。わたしが心配しているのは妹に自殺されることです。妹との対話が必要なことは十分わかりました。でも、どのようにアプローチをすれば安全かということです)

よろしくお願いします。

490 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2006/01/04 10:36
何点か説明します。

まず『母親の常識』への背景説明です、

TGさんの記憶は主観によります(関係他者との腹を割った話による検証が少ないからです)、そして又TGさんには父親との間に未だに葛藤が存在しますから、その印象はデフォルメされ「事実であっても」統合性において問題を残しています。まだ事実関係として十分に整理されていないと考えるべきでしょう。
パラドックスとは、本来関連性のある事柄を断片的に認知してしまうために起こります。「実際に何らかの被害にあった人は自分の被害を起点とする記憶の断面に必然的に意識が向かいますから、関係者の主体になる父親について『父親一族サーガ』のような認知が自然に構成される事は通常ありません。」
つまりドキュメンタリー映画のメッセージのように「結果それは何だったのか?」的アプローチがどうしても後退(実体としての被害認知が意識では上位の認知になるのが自然なので)してしまうのです。

たとえるなら、
ご子息を殺害された家族が、殺人の実行行為者のビヘイビアーを冷静に考える等という事は精神的にも不可能で(裁判の役割は、これを明解に解き明かす事だからです)、動機の面でも“必然性”がありません。
「何故そんなことをしたのか?」
よく聞く話ですが、着眼は俯瞰から見た構造分析ではなく、「誰が何をしたから」的直接的関与の部分になるのが正直なところで、それが自然しょう。
つまり、犯罪被害者が、犯罪心理学の研究員と同じ視点を持つ事自体無理がありますから「当事者の直接的認知には構造的に、デフォルメされた偏向やパラドックスが混在する可能性が高い」と考える方がむしろ自然です。
ですから「人は話す」のです、事実を求めて

「泣き出してしまう話」の室内劇認知(当事者意識の強すぎが、背景事情をデフォルメして認知してしまう)と同じです。
印象や、記憶が(個別の内容は事実でも)結果として全体の背景をデフォルメしてまうのです。
葛藤のある家族が、ほぼ100%近隣社会からも孤立しているのは何故かといえば、信頼置ける「近所の誰さん」という大人が関係すると「それは俺ならこう考える」とか、実際に仲裁に入る事で『相対化』するため(主観の後退)、精神的な葛藤(主観による内向的解決)には至らないのです。

つまり、精神的な葛藤は、被害実体と比例しません。
因果応報では解決する事は無いのです。

「言葉のやりとりだけで自我は葛藤構造を折り込んでしまいます」
貧乏な家庭でマジな暴力が横行しても「何やってんだバカ野朗」と、怒鳴り込んでくる近所のお兄さんがいると、それはそれで「全体像を掴むイメージ(相対化)」を取り込めますから、自我には葛藤が発生しません。
頭が割れて10針縫った人より、言葉のやりとりで強迫された人の方が葛藤構造を持つ可能性が高いという事は驚くどころか、自然なのです。


実際の被害実体や、その内容は精神分析的には「被害実体に比例する重大性認知」ではなく「構造的な矛盾に比例する認知」でなければなりません。
しかし、当事者には「被害実体に比例しない」じゃ、十分に説明されない限り(分析)納得がいきません。
ですよね。
被害当事者であるのなら、自分の被害実際を中心にした認知になります。
結果構造的に「被害認知に比例する当事者意識の合理性が、結果として全体像をデフォルメする非合理性の根拠になる」のであって、精神分析とはこれを補完する『第三者的視点の関与』そのものなのです。


■「母親は常識的だ」の解説です、
前回説明しましたとおり、常識とは「難しい言葉を使う」とか「いかにも合理的なロジックを操る」等の技術的な話と全く関係ありません。
そして、常識的な人物は「精神的に葛藤構造のある人物」にシンパシーを感じる事は構造的に不可能であり(「常識的である」という意味は、本来人間なるものは結論として常識の範囲内に修練されるものであり、度を越すものは悪に過ぎずこれは社会が許しませんから自己認識で修正されるのだから結果として常識に修練されるというアイデア=保守思想です)、これに対する“危機感が無い(常識への信頼)”からこそ常識人足るのです。
つまり常識人としての判断は「自分で病院行きなさい」であって、専門家でもない自分自身が行動を起こす事ではありません。

実際有料相談の場合「両親の結婚のなれそめ」「両親のビヘイビアー」が問診事項に含まれます。プライヴァシーの問題もあり、公開掲示板ではそこまで出来ないのですが、これは重要なのです。
つまり「両親が婚姻関係を継続する根拠」を考えなければならないからです。ここまで伺っていませんから、あくまで推測になるのですが、
「母親は自分の娘を、問題のある一族から守るために離婚して何故守らなかったのか?」

これへの回答は「お母さんは常識人であったから」です。

近代日本では、主婦とは裏方であり、自分の個人的な幸せを考える事はエゴイズムとして軽蔑されます。
子供達が危険であるという認知は、「彼(夫)の人格には問題がある」になりますが、先ほど説明しましたとおり常識ある人にはその危機感を感じる認知がありません(信頼関係の方が大事なので)。
つまり父親から「とても辛いので、心療内科に行こうと思う」という告白がない限り彼女にはそれを認知出来ないのです。
彼女にある選択とは「離婚ではなく、お父さん病院行った方がいいよ」になりますから、彼から何らそのような発言が無ければ、認知できないのです。
現実彼は彼の家族の誰ひとりからも「お前は病院に行った方がいい」と勧められた事実はありません。
※アメリカなら、家族に暴力を振るったという事実だけで、十分「グループセラピーに通ったらどうか」と勧める人物が近隣にいて不思議ではないのです。
しかし彼の言動は、彼の一族から特に問題とされた事実がありません、
そうなると告発者は彼女たったひとりになります。


常識とは、属性に対する正当性認知の事なので、彼女の心理を考えるなら「少々問題のあるこの家庭を、自分の身を捨てでても、如何に保守するのか」となります。
※TGさんの幼児期の言動も、彼女の目からは「問題のある家庭の問題のひとつ」として認知されたと推定されます。

つまり、彼女に対する責任を考える場合、それは「戦後民主主義的意味で、独立した個人の意見は無いのか?」という個人主義的自己責任についてあり、「子供を守る」という社会的常識は当てはまらないのです。
何故なら、保守的常識人にとって子供を守るとは「家庭によって社会的金銭的に子供を守る」事を意味するので、「貧しい片親の子供」という境遇を自ら招いてしまう結論は「自分のエゴ」に見えてしまうのです。
近代であっても「自分で自分の身を助ける」との自主性は生きているのであり、子供は自分で自ら育つもので、常識的認知では「家庭とは、子供が大人になるまでそんな厳しい社会から守る存在」です。自分が主婦であるとの常識ある人なら余計にそう考えるでしょう。


ですから、彼女への批判とは「家庭における母親を離れ、ひとりの女としてその子供の(個人的)母として危険性を考えなかったのか?」であるべきで、
常識的な批判ではなく個人の人間としての彼女の個人的意見(エゴ)に問いかけるものになります。
つまり常識としての母親失格ではなく、個人の人間として“母である女”として「やるべき事をやったのか?」という問いになります。

「家庭を壊し、子供を連れて逃走することが何故出来なかったのか?」という問いです。

これは常識的な人の考える事ではありません。
自立的な考えを持った、個人が自己責任で考える事です。
このような考えは「子供を心配する家庭における母親の心理」ではありません。
何故なら母親と妻は家庭における属性として同義であり、母親らしい配慮とは同時に妻としての配慮を意味します。
つまり結婚の選択で失敗した「自分個人の自己責任(エゴ)」に対しての感覚が無い限り思いつく事も無いでしょう。


非常識な人なら在り得るんです。
「第一自分が我慢ならない、あいつは完全に犯罪者同然だ」
「これでは“自分の”子供が心配だ」
「生活も何も、まずこういう状況自体が許せない。自分がこんな男と結婚してしまった(自分と子供に対して)責任を取るために、子供を連れて逃げてどんな仕事をやってでも生き延びてやる」
(彼女以外にかれにの人格に問題があるという認知を持つ人物はいないのですから)この人は常識的な人物でしょうか?
不思議に思えるでしょう
「そう考える人は、そもそもあの男と結婚しない」

ここから考え始めれば、彼女の心理をもっと深く知ることができるでしょう。
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります
違うんですよ。
「何故この女性はあの男と結婚したのかが不思議だ?」
まずそんな疑問が素朴に浮かばなければ変なんです。

そして

何故今彼女の人生を心配していないのでしょう?
血相変えて「お母さんが心配、離婚するべきよお父さんの一族の面倒まで見て、いったい何処まで人がいいの?それが結果的に娘達の精神状態にどんな影響を与えてしまったのかがわかる?あなたひとりの話じゃないのよ」
>普通の親子のように電話で会話もできるようになり、お互いを訪問し合ったり、プレゼントを送りあうまでになりました

これは大事なのです。
妹さんに話をするにしても、しないにしても、話の事実関係が整理されていなければならないからです。
「自分とその夫婦との関わりの整理なしに、妹さんに何を話しても欺瞞にしか聞こえないでしょう」


■妹さんの衝動について説明しましょう。
彼女の衝動の源泉は「孤立」です、属性(家族)としての存在の意味の無さです
本来「個室」「個人」「自由」「個性」「孤高」これらは個人の利益でありむしろ『快』ですが、家族のノスタルジーに囲まれている自我にはその反対です。属性の対立概念(自立)になるからです。
ノスタルジーが継続してしまう理由は「結論のなさ、納得のいく解決がない」=「過去にならずにわだかまりとして残る(その想いがノルタルジーを引き起こします)」になります。


実体(生)と感覚(無意味)との一致を求めて自傷は行われ
それは自己愛の形になるため、性的衝動性と結びつきその興奮は「快」と脳に認知されてしまうため「繰り返される(依存)」のです。
繰り返す過程になると「自分の意志と関わり無く」です、
しかし自殺衝動は、死のうとしているのではありません。
繰り返し起こる反復性(依存)がそれを証明しています。死んでしまったら繰り返す事はできません。
心配なのは事故の危険性です

精神分析には、自己嫌悪の防衛としての反動的衝動の結果、相談者が強く感情的になる場合があり、何より相談者自身が自らの意志で分析を依頼するところがその暴走を阻止する力を(準備する事自体が自意識の味方につけたことになります)担保します。
しかし、分析者には常にリスクを負わなければなりません、
分析者であってもです。
交渉している当事者が、高層ビルの屋上の柵の外を歩いている事には違いが無いからです。
つまり、幅60センチの道を歩く事は危険ではありません。本人に転ぶ意志が無いのなら、より危険性は無いでしょう。
しかし、それが高層ビルの屋上の柵の外なら「足を滑らせる心配」は常にあります、

本人に死ぬ意志は無いのです、
ストレスの緩和がのノスタルジーに追いつけば阻止できる
黙っていても危険水域に達する可能性はあります。そしてこれを完全に予測する事は不可能なのです、
現実の死が「事故」だからです


■相談が技術的な心配であることはわかります。
お話するとすれば、
技術的だけの回答なら「むしろ効果が無いでしょう」となります。
何故なら、精神分析自体の信憑性を担保する『転移』が起きないからです。
先生が話すならどうでしょう?
精神分析を特別に独学していない限りそういうアドバイスを適格に説明す事は不可能ですし、相談者が望んでいない話を一方的に話してもそれは空回りしてしまいます。
妹さんにもそれは不快で突飛な話でしかないでしょう。
しかし、あなたが妹さんに話す話は精神分析である必然もありません(前回も私はそのつもりで話すべきだと言ったのです)。
TGさんが当事者だからです。
同じ事実関係を共有している人物(他者)なのですから
だとするなら、精神分析的なアプローチの危険性を考える必要はないでしょう。
おそらくそれは精神分析にならないからです。
連想性の認知ではなく、同じ事実関係の共有者の『告白』なのですから。


■だとするなら、技術的ではなく「両親の話が危険すぎるのでは?」
既にこれは技術的な問題から離れます。
同じ環境の体験者が同じ体験について語り合う。
確かに全ての刺激はリスクを伴います。
しかし考えてみてください
一見矛盾する指摘と思うかも知れませんが、妹が危ない状況にあり現在妹から特別に拒絶されていない状況で、何もしないでいられる人がいるでしょうか?危険だから?既に危険だからそう思っているのです。
それは、あなたの本音ではないでしょうか、違いますか?
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります

話が精神分析的であっても、そうでなくても、
「きみに話したいことがある」
それは本音ですか?
それが問われているのです、
それが一番大事な事だと思います。
「わたしが如何に苦しかったのか、あなたの気持ちはよくわかる」と

前回お話しましたが「家族の共同幻想」に介入する当事者としての『他人』の存在は有効です。
話は被りますが「母親が常識的母親として対峙するのではなくひとりの女として対峙する事が求められた」ように、「兄弟姉妹を離れ、かつて姉妹と呼ばれた人物にひとりの人間として関わる」その行動自体が、家族のノスタルジーを解体する行為になります。
精神分析的な関わりを持つと考えるのではなく(実際本質的な精神分析の理解がないと分析自体無理です)、精神分析的である事=「リアル」を伝えれば良いのです。

正直に申しますが、精神分析や心理学的知識のある相談者の防壁は非常に強固です。何故ってその知識の大半は、分析者や精神医療関係者カウンセラーへの移転を防ぐための(自分が上であるとの)自己防衛のために使われます。
精神分析も心理学も「事実への確信」が理解の上で大事であり、方程式があるのではありません(力動論につてい誤解してはいけません)。


ここからは私の個人的意見ですが、
精神分析の過程は「戦い」によく似ています。
常に状況証拠しかない事実(過去)の立証において、完全に矛盾無く再構築したシーンができあがると、相談者の話との相違点に驚くぐらいの差異が生じます。
この差異こそが葛藤構造であったりパラドックスです、
当然抑圧されるべきものは、道徳構造(超自我)を利用し無意識に「一見合目的に抑圧されている」ので、これを認定(自意識に上昇させる)までに「葛藤を無力化し」至らせなければなりません(これにより同時に反動の結果としての強迫構造は消失しますから)が、相談者の自我は(抑圧構造の番人として)全力でこれを阻止しようとします。
戦いが始まったら一歩も引けません、それは再構築した事実関係が嘘であると自分で認めるのと同じです。
その戦いは数年かもしれない十数年かも知れない、分析者の精神状態が危機的状況になる可能性も強く(セラピーの研修では、自分自身の精神状態を守る限界につていも研修が行われます)、一部医療の現場でおきる診療拒否に近い動きは、その限界点から見定められています。

相談者や、患者が「自分自身で違和感を感じ」これは何か?と積極的関与がある時には、その後の経過は早いしリスクも少ないですが、
先ず論点がズレている時
例えばより重大な問題があるのに、質問の内容が瑣末な事実関係に限定される場合、これは本質の抑圧構造を保守するための「ガス抜き的体裁」を目的とします。分析者や医療関係者はここで考えます、
果たして「要求されている事にだけ対処するのか(医療はここで線を引く傾向が強いです)」、或いは本質に切り込むのか?

私は有料相談の場合、常に「次回の分析の継続を望みますか」を確認します。
そして常に「継続が回避される可能性を想定し、何らかの投げかけを最初の回答から担保する分析を想定します」、
これに答えはありません。
一部医療関係者から精神分析は危険であるとの指摘がありますが、これはそんな側面から在り得る事で(確かに学派的には意味不明の専門用語と妙ちくりんな力動論からナンセンスな分析が行われる危険があるのは事実です。ですから分析内容が理解不能な時点で、それは危険であると考えるべきでしょう)、確かに「わかってしまう」危険性は精神分析にあります。
その理解を、今後の相談者の人生に期待するのか?
私はその結論として「自己決定の相談」というカテゴリー、その『枠組み』でそれを担保しています。


私が心配するの事はむしろ
TGさんの話が、妹さんに論駁されてしまう可能性です。
その時TGさんがそれをどう受け止めるのかです、
491 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 TG Mail address 2006/01/04 21:17
夕べ妹にはすでにメイルを出しました。自分の話をきいてほしいというスタンスで、まず自分があってきた被害とその時感じたこと、自殺未遂、自傷、葛藤などを書きました。今日貴方からのお返事をいただいて読んでいて、精神分析は無効ということ、当事者として話をするべきという回答があって正直ほっとしています。素人+家族に対して行うのは危険ということで分析的な話は割けるというのは課題で、口調は十分気をつけて「妹に」向けて書きました。


わたしにとっては、彼女が同じ視点をもっていてくれたら安心しますが、妹の視点は全く違うかもしれません。拒否またはこちらの話を覆すような返答がきたら、今度はどうしたらよいか迷いますがまだ反応がかえってきてないのでまずそれを待ちます。

貴方の「常識人」の定義理解しました、Noted。

母がなぜ父と結婚をしたか、それは始めに考えました。母の父親(わたし祖父)も封建的な人でしたから(祖母に肉体的暴力を振るったかは知らない)親から刷り込まれたのかもしれません、「女はだまって夫についていけ」と。(連鎖的)
母の虐待への荷担については自分がいじめっ子側にまわることで自らがいじめられるのを防衛していたのだと思います。

また、なぜ母を「助けない」か。一つは自分の持っている母への葛藤と、もう一つは50代後半にさしかかる母に今「自覚」させたところで母が一人でいきていこうとはしないからです(※下記)。母が今「自覚」した後、予想として彼女はどういう行動にでる可能性があるのでしょう?(これは質問です)
自分の母親(わたしの祖母)が夫(わたしの祖父)に耐え切れなく退職後離婚をしようとしていましたが、結局しませんでした。
母は、「年寄り夫婦の夫が亡くなった後、女はなぜか元気にいきるものなのよ!」と言います。これは彼女の願いと受け取ることもできます。わたしが母に言わないことを決めたのは、過去に散々「裏切られている」のと「言っても無駄だと」思っているからだと思います。また、母が父にそれを“告げ口”して自分が父に酷い目に会うなどそういう心配も含まれています(母による告げ口は今までありましたので)。と、ここまで書いて今更のようであり典型的のようでもありますが、最後の理由として、あの夫婦は仲が良いからです。二人で生活を楽しんでいるからです。それを両親から取り上げることに対するわたしの罪悪感があることも否定しません。また、だから自分の虐待説は自分でも「うそ」に聞こえるのですが、これもある話。

(※わたしは母の「母親・妻」というRole以外を知らないので二人旅行に誘っても「わたしはお父さんがいないと空港へも一人でいけないし、間違った飛行機にのっちゃうかもしれないから行けないわ、誘ってくれてありがとう」といって断られました。間違った飛行機にのるというのは、わざとそれをしようとしても難しいでしょう。母はわざとみえみえの馬鹿な回答をして自分が“行かせてもらえない”ということを訴えようとしているのか?それとも“わたしはあなたと二人になりたくない”というメッセージなのか?-二人になったら父のことでわたしにいろいろ突っ込まれ人生を考え直すのが面倒と思っているのか?それともわたしが受け取った印象通り、自分じゃ一人で何をするのも恐いのか?この回答についてはいろいろ考えさせられましたがいまだ意味不明です)

10針縫った人より言葉による脅迫をうけた人の方が葛藤が強いというのは確かにありますね。わたしも父に肉体的暴力を振るわれたとき、傷が残ってくれれば!と憎憎と願ったものです。そうすれば「外に知らせることができる」と。なにせ近所や知り合いからの両親に対する評判は良かったですから。うらやましがられて育ちもしました。その分余計わたしの葛藤が深まるわけです。

上記にも少し出てきた内容に関する質問をしたいのですが、わたしもそうですが、たぶん他の人でも“虐待”を受けて育った子供たちが両親が虐待したと告発するのをためらうことがよくあります。それは、わたしの場合、「だって楽しいことだっておおいじゃない」というものですが、これに関してはどのように思われますか?


有料相談をやってらっしゃる点を忘れていました。無料掲示板にこれだけの返答ありがとうございます。



492 返信 Re:妹の治療への関わりかたについて相談 kage 2006/01/05 03:53
非常にわかりやすい話ですよ。

私はファーストフードの店に入るのが苦手ですが、どこだかのお店がお勧めだと友人に声を掛けられたします。
どう返すのかと言えば(前提は「ファーストフードが苦手なのは私の個人的事情」「勧めてくれたのは親切」)
「いやぁ僕ヵーファーストフードのメニューも読めなくて、とんでもないもの注文しちゃうんだよ。食いきれないほどビックサイズなんて頼んでしまったら大変だからね」
後半は冗談ですよ、
やんわり「ファーストフードの情報自体僕には必要ないんだよ」というおことわりを、相手を不快に感じる事無く伝える典型的会話です。


「乗る飛行機を間違える」
これもコテコテの典型的な常套句です。
旅行の誘いを断る時の、
話のスジは非常にわかりやすい
「わたしはお父さんがいないと空港へも一人でいけないし」
ここで説明されていますよ
お父さんと一緒の旅行なら楽しいが、自分一人で旅行に行く等面倒なだけで楽しくも無いし苦痛でしか無いからですよ。
(TGさんに会いたいと考えている場合「普通親元に帰ってきてくれるものでしょう」と考えるのが親なら自然です)
そして「一般に旅行は楽しいとされています(これも現実は違います、近所ならまだしも何時間も飛行機に乗るのが楽しい人はいないでしょう)」むげに断ったら話がトゲトゲしくなる
「自分はバカだから」という話の冗談で(自分を笑いの種にして相手をかばい)断っているのです。

これもっとも上品な断り方ですよ、
相手を思いやっているのです。
※実際私の両親は北海道に暮らしていますが、「東京旅行にきたら」ほとんど(ほぼ一度も)言った事がありません。彼らには面倒なだけだと想像つきますから。


「どう、今夜イタリアンレストランでも?」
「残念ねぇ、私ねオリーブオイルで酔ってしまうの。あなたに恥ずかしいところお見せするワケにはいかないでしょう?」
話し手は、自分に原因がある(誘った人物は悪い人では無いが、個人的に特別な好感は無い=自分が)のだから、それに相当するように自分をあるいみバカにするような話に変えて(自分に原因があるので「お前と飯食うわけ無いだろう」と言うのは不適当ですからね)、やんわり断るものです。
これ実に自然な会話ですよ


前回お話しましたが、彼女の認知は「自分は立派な母親だ」です。
いじめの片棒等という意識はただのひとつもありません。
怒りっぽい人だけれど、立派なお父さんがいて、私は彼の忠実な良妻だった。子供達にもしっかり教育したので、二人とも立派に育った、
これだけです、ハッピーエンドです。
子供時代の話は
「確かにあの子は、少々手がかかる子だったけれど私はその子をだからって嫌った事は無いのよ、だって私は母親ですものね、母親ってそういうものなのよ」


彼女に対する蔑視は、大好きな父親の妻だからです、
夫婦という共同体は独特で(家族のコア夫婦が「赤の他人」である事が、私の「家族とは他人の始まり=家族の意識は幻想に過ぎない」的認識の根拠です)、ヤクザの「同じ杯交わした義兄弟」が「血を分けた兄弟」より深い縁になるように、赤の他人が家族のコアになるんですよ?それに摩訶不思議な縁を意識しない人はいません。
そして、「暴力の理由を葛藤的な内容を認知できず、あいつは殴るからな的程度の認知だと『10針縫うから問題とはならない』の原則が働いて問題意識は軽いのです。」
現実問題単体認知で“殴られる”ぐらい人には何てこと無いのですから、
陸軍士官学校の厳しい訓練は、そこいらへんのいじめなんかの比ではありません。傭兵部隊の訓練なら実弾飛んでます、
彼らは内向的に悩みません、
前提条件が違うんですよ
「崇高な常識人で、私を愛してくれるので、特に彼の態度は優しい筈だ」
この人物に殴られるのとは、(それを認知する当事者の)背景が違うんです。

夫婦の視点だと、彼女が彼自体を偶像化(彼女にコンプレックスは無く、むしろ自分の今プレックスの投影=恋愛が利いているだけですから、彼は象徴化の代行になります。恋愛の熱は相手が象徴化対象者とは別人の「尊厳ある個人=他人」だと再発見しその人物像を知る過程で醸成されますから、構造的には偶像投影の失望を経ているのです)する可能性は無いのですから、心理的に夫を対象にしたパラドックスや葛藤構造は発生しません。
殴られた→「痛ぇじゃネーかマジで」というリアクションです。
『偶像化された人物に殴られる』という認知は彼女の自我にありません。

それでも、彼の実情を知る人間が「離婚を勧める」
これ問題無いですよね、心配して(これの説得試みる友人なんてよくいますよね)
しかし「彼女は平然と大丈夫だから」これはアリです、
夫婦の間柄だけならですよ
この環境下で『子供に葛藤が発生するリスク』があるんです、
子供でも認知しやすい「ステレオタイプの社会的権威」が両親のどちらかにあれば、そのリスクは余計高くなります。


現実、神戸の震災後のインタビューですが
「あん人は暴力振るう人やったけど、死んだら寂しい」
■これが夫婦です


しかし同時に
昨今の個人主義的覚醒によって
「子供が独立した今、離婚したい」
■これも又夫婦です。

前述が「保守的常識人」である傾向わかりますか?
後者は「進歩的個人」になりますね、
その後者でも「子供が独立したので」という『良識』が残ってしまっていますよね?
共同幻想とは「社会的合理性」で「自己責任とはリスク」の事です。
ですから『個人的な判断が“常”に社会に求められるべきだ』という合意性はなかなか成り立ちません。そこは自己責任でケースバイケースになるのです。

「竹を割ったような普通の人」そんな世界は美しいのですから


>“虐待”を受けて育った子供たちが両親が虐待したと告発するのをためらうことがよくあります。それは、わたしの場合、「だって楽しいことだっておおいじゃない」というものですが、これに関してはどのように思われますか?


ここの背景に『アメリカにおける過剰な統計』を説明しなければならないでしょう。
現実アメリカでは、捜査官の行き過ぎで告発されてしまう親も発生してしまっている状況です。
これは何かと言えば、
加害者の側から考えてみればわかる事です
この人物は脅迫的に暴力を振るってしまっている(依存)のであって、事実認定として妻はそれに敏感ではない。
(DVとは、前回恋愛についてお話しましたが、恋愛対象は自分の葛藤構造を保守する人物に投影され、被害妄想を元々持っている人物が、印象と現実を一致させるため、暴力的である神経質な素養のある人間に無意識に惹かれてしまう構造の上にあり、当然暴力を振るう側は脅迫的行為になるので、被害者が無意識にその人物の神経を刺激する言動を取ることでエスカレートし、彼の弱点を被害者側は“無意識に”見抜いているという側面があり、家庭内暴力とは正確には分類が違います)
つまり加害者に感じるのは「想像を越えた不快感を感じ、結論暴力で収めた」となりますから、自覚があるとするなら「ほんとうにしょうがない奴で殴らなきゃわからない」となり、妻が保守的常識論の持ち主なら「怒ると暴力を振るってしまう仕方ない夫」だけ、となります。

つまり、
虐待を意識している人物は両親の側に存在していないのです。
(幼児虐待とは、殴り殺してしまったり、特に3歳未満などの乳幼児に対しても行われるのが特徴で、その背景には幼児に対する自分自身の自己嫌悪の投影が無ければ動機形成を証明できません。つまり虐待する側に精神的に明らかな鬱傾向がなければならないのです。自傷する代わりに自分の再生産である実子に自分の幼児期の姿を見て耐えられない状態になっているからです。そして、血の繋がらない養父が行う虐待は又別で、「幼児性愛的な暴力性」によっているので、その人物に性犯罪者的な傾向が無い事には動機形成を証明できません)

つまり、神経症であったり、鬱傾向を発症する「葛藤の発生」における、構造的虐待認知とは『結果』であり、当事者の中で実行行為者の側に虐待の意志も認識も存在しません。それは『結果』子供の側の認知にのみ存在するのです。

ですから、この心理的背景を幼児の立証責任において証明する事は大変難しく、
自ら告白する場合でも、実体として「自分だけがそう思っているのではないか(これは事実です)?」という部分がありますから、なかなか表面化しません。
現実問題、この場合両親の行為は虐待かと言えば(上記説明の通りです)正確には虐待ではありません。
『両親(あるいはそのどちらか)の人格に神経症的問題があった』
これが正確な表現です。
ですから、神経症的問題点を刺激(正に地雷を踏むです)していない時の関係は良好で(この部分でも暴力の行為者が、何ら自分に問題が無いと思っている事を証明します)、楽しい思い出もあるワケです。



一時米国では「鬱などの原因を家庭内の性的虐待の結果」と診断するのが流行りました(これは彼らのキリスト教世界から、イメージとして強烈なインパクトがあるため『分析者の逆移転』として一気に広まったのです)。
前回お話しましたね
精神分析の特徴は分析者には「聞く前からわかってしまう」
ここで、一部の未熟なカウンセラーが米国において「虐待をわかってしまった」と勘違いしてしまい、分析の過程が『誘導尋問』と結果として相似してしまい、医療統計で「ちょっとそれはあり得ないだろう」的な数字にまで至っているのです。
当然キリスト教右派にとっても「家族と伝統の再興」は重要なテーマですから、「左翼・右翼」ともにこの認識に利益性があったのです。


因果応報では解決しない。
これお話しましたね、
つまり、親に土下座させれば解決するなんて事では無いのです。
根本的には「父親こそ人格に問題のある、教養の無い男だった」とコンプレックスの前提をランディングさせ
>あの時お母さんが勇気をもってそれに対抗してくれればこんなことにならなかったという恨みはあります
ではなく、
「彼の人格の問題は、彼の家庭内のどんな事情で起きたのか?」
という疑問でなければならないのです、

そこから見るなら
「あの男と暮らして、幸せを感じる常識ある女」
というシーンは、切ない話に変り、
そこから見た時の「家族の肖像」が初めて事実となる。のです、



だからこそ、妹さんにも(同様に高学歴的迎合を行ってしまっているのですから)
「なんだか勉強ばかりして、意味無かったね」
「そんな事無いよ、理由はどうあれ沢山勉強する事は自分のためにもなるじゃない。良かったんだって自分を誇りに思わなくちゃ」
な会話に収斂されるべきなのです。

>母が今「自覚」した後、予想として彼女はどういう行動にでる可能性があるのでしょう?
そして予測ですが
お母さんには「妹さんが何故こうなったのか」の結論として、自分の夫婦生活にある「自覚」が生まれる可能性があります。
(その話がスムーズにできたらですが)
しかし、予測としてお母さんは「自分の責任をとる意味でも、ここに残る」と言うのではないでしょうか。
それでも彼女が「一体あの家庭で何が起きていたのか」について、認識することが(妹さんの面倒もみているのですから)、妹さんにとってとても大事な事だと思います。
※このような例で、後から夫婦が離婚する事もありますが、そこには「お母さんがひとりの女として自立の方向を向く」事が前提になり、
ここは彼女の自己責任(選択)となります。
493 返信 とても似ています (‘へ‘) 2006/01/17 22:22
ひどい暴力はなかったけど、似たような家庭でした。
読んでいてとても苦しかった。

今ではほとんどの事実が解明された。
だけど頭では理解できても心が追いつかない。

すっかり歳をとってしまった父親。
小さくなった姿をみるのが恐い。
憎しみをぶつける相手ではないとその姿は語っているから。

時間がないのに、どうしたらいいんだろう。
いつか私のことすら思い出せなくなってしまうかもしれない。

病気の猫をみるのが怖くて、最期まで会いにいけなかった。
今度もやっぱり間に合わないかもしれない。
そのかわりに私が持っていくと、昔思ったことをまた思い出した。

現実が見えない世界に行きたい。
そうしたら強くて恐い父親がきっとまだ現実に存在してる。
力のなくなった弱い部分は、私がそっと持っていく。
あの人はいつまでもあのときのままでいて欲しい。
もしかしたらそれがあの人に対する罰なのかもしれない。
罰だけを与えて、自分はその姿を見る事はない。
そうじゃなくて見るのが怖いのかもしれない。

たかが家族なのに
496 返信 Re:とても似ています kage 2006/01/18 00:51
たかが家族ですが、「自分の人生のはじまり」はそこにあり、
そして変る事はありません。

だからこそ、たかが家族なのでしょう。
それは自分の過去に対する想いと似ています
たかが過去でも、自分の過去ですからね、
ノスタルジーや葛藤を過去に還す事は出来ますが、自分の過去を変えることはできません。

しかし、今想う場所から覗くなら「それは違った物語」なのです。
過去は“変り”ませんが“替わり”ます。
物質が元素に還元されるようにです、
悩みとして、ノスタルジーが追いかけてくるように
事実に還元された記憶は、ゆっくりとですが同じように後を追いかけてきます。
事実がノスタルジーに追いついて、
そして追い越した時に、記憶の中で別の表情をした彼に会えるでしょう
現実は、又一から新しく始まるのです。


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