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527番相談のmiraiさんより、公開についてのコメントがありましたので、相談部分の要約と、528番返信を再編集したものを再公開します
=========<ここから527番相談の要約>===========
私には数年来の女性の友人がいるのですが(私も女性)、メールで話したり実際会ったりと良好な関係を持っていましたが、彼女には普通と違うというか、ちょっと他の友人と同じように接する事が難しいと最近感じています。
「友達になりたい、話を聞いてほしい」と彼女はよく言い、私もそう思っているのですが時に私が、違った見方をして少しつけ放すような事を言うと
すぐに「絶縁」のような事を口にします。
誰とも話したくないと引きこもります。仕事はどうにか続いているようですが。
逆に「受け入れたい」ような事を言っても「私は受け入れたくない」というように拒絶ばかり。
本人も、最近自覚症状があるようで苦悩しています。
今までの話を聞く限り、そのように縁を切って来た事が多いようにも思えます。
同じ事にいつも葛藤し、同じ事を繰り返しているようでならないのです。
実際に、以前私の親友(同性)とも凄く仲がよかったのに、絶縁してしまったようです。
それを聞いて私は驚かなかったのです。
そして、彼女から「数年前に性的暴力の被害にあった」事を告白されました。
実際これから彼女との関係をどうしたらいいものか
私はどうしても、彼女をどこか自分と同一視してしまっていたり、ただ共感していたり、同情してしまったりして、彼女の葛藤を話をいくら聞いていても分かってあげられないと思うのです。そして余計に傷つけてしまうのではないかと。
彼女の求めている「友情」とは、何なんだろうと思うのです。
でも、今彼女がココロを開いているのは、私なんだろうなと思うと
安易に慰めてあげる事も、意味が無いのかもしれないと思うようになりました。
やはり精神科に行ってみるべきでしょうか。
行くとすれば、どのような言葉で言われるのが、楽なのでしょうか。
そして、そのような人に対しての「根付く友情」とは、
どのように構築してゆけばいいのでしょうか。
=========<ここまで527番相談の要約>===========
=========<ここから528番相返信>=============
人間関係における『関係性』を素で考えてみてください。
Date: Sun, 28 May 2006 16:52:44 From: kagewari
ちょっと前置きが長くなります、
例えば「○○愛」なるコピーを発見した古代の賢人が、社会の発展のために有益なのだと、これのキーワードは民を救うと強く思ったとします。しかし古代社会において、読み書きが出来る人はほんの僅かです。そんな時あなたならどうしますか?
そして、日常の“生きる”という活動自体が過酷で厳しいものであり、そんな日常に一言も文句を言わずにタフに生きている彼等にとって、それを無知蒙昧と呼ぶのは適当ではない。
そして、自分は「これならみんなを救えるじゃないか!」っというキーワードを思いついてしまい、身震いし怖れすら感じているというのに。
私は、神の言葉を聞いた。
彼等に弁証法について説明しますか?
彼等に、文化人類学的解説本を手渡しますか?
そこで、人権と平等二大政党制の演説を始めますか?
ここでの命題は、その宝物のようなキーワード「○○愛」を普及させないと意味が無い(せっかくのその言葉が狼少年の妄言として時代に忘れ去られてしまう危機でもある)。
情緒に訴えるしかないんですよ、ベタな表現だと「感動話のフィクションでも創作して○○物語を、吟遊詩人の演目に入れてもらう事です」、その○○物語は集落で知らない人の無い物語となり、集落はあるキーワードに情緒的な興奮を覚え(二度と忘れない)、そのキーワードを子孫に語り継ぐ。
「○情」の情の部分は我々の(人類の実存にも関わる事だけれど)文化として非常に強い情緒的な拘束力を持ちます。
これを精神分析的に言うとどうなるのか?「一種の強迫構造を利用している」となります(そんなこんなで、精神分析は『異端杉』としてメインストリームには決してならないのですが、、)。
延々と考えつづけるなら、「発端はある聡明な賢人が発見した新しい言葉の感動」なんです(「私はなんて素敵な言葉を知ったのかしら」と)。「○情」というものがスタンドアローンで実存しているのではありません。後者の“感情”は、上記の言葉を自我に導入する文化を持つ人特有の「○○○なるキーワードが自我に組み込まれた場合の」その言葉の普遍性(普及させる)のための『結果としての拘束性の体感』であって、最初にその言葉を知った人類の感動とは実は異質です。
アイデア(哲学的イデア)と情緒の差
皮肉な事に、後者の情緒部分を評価すればするほど、最初のアイデアの発見との乖離は大きくなり、何世代も経て「まったく別次元のロジック」と化す。
哲学(詩)的発見は、道徳や宗教的ドグマ(理)に変容するのです。
◇ ◇ ◇
「根付く友情」とは、実は言葉として矛盾する内容を含みます。
時として上下する(不安定)な情が普遍性を持つとそれは情ではありません。普遍的な精神とは「信念であったり、明快な意図」になります。つまり、自らの存在をかけた自己決定と、刹那に感じる感情の流れは同一にはなりません。
むしろ「信念であったり、明快な意図」を語る自分は、その感動で情緒的にも強い気持ちを持ちますが、これは「情熱や執念」と呼ばれますから「○情」という言葉にまとまる事は無いのです。
「自分が何をしたいのか」が大事なのは(それこそ『我思う故に我在り』じゃないですが)、普遍性を思う時の必然であるからです。
これに対し「その時そう思う感情」を信じて、これの追体験を(『快』をベースに)期待するそれは、結果として刹那で儚いもので(「情けない」って奴です)、それは意図的に操作されるべき問いにはなりません。
◇ ◇ ◇
さて、相談の彼女の話をしてみましょう。
>「友達になりたい、話を聞いてほしい」と彼女はよく言い
>違った見方をして少しつけ放すような事を言うとすぐに「絶縁」のような事を口にします。
>逆に「受け入れたい」ような事を言っても「私は受け入れたくない」というように拒絶ばかり。
彼女が友達を求めているのではない事は明白です。
おそらく彼女は、自意識のアイデアと無意識の脅迫(強迫)の矛盾に悩んでいるのでしょう。「そのどちらが正しいのか?」どちらの場合にも反発します、
無意識を代弁すれば、自意識が違うと言い
自意識を代弁すれば、無意識が感情的な反発を引き起こす
彼女が求めているのは、この両者をバッサリと納得させる『圧倒的権威の強烈な説得力のある“答え”』なんですが、そんなものがこの世に無いことは誰にでもわかりますよね。
そして最も大事な事は、上記の絶対者は『イメージ化された両親(脳内の話なので既に現実の両親からは離れた概念です)』であり、そもそもそんな葛藤が生まれた背景は、その絶対者との関係に問題があったからですから、本人的にはその存在には近づきたく無いんですよ。(過去を思い出したくないように)
ですから、「友人が欲しい」のです。
何がしたいの?と尋ねられても困ってしまうのですが、自分ひとりではそれを解決できなく藁をもすがる気持ちである事は間違い無いんです。「お願いですちょっとだけ話を聞いてくれませんか」は嘘ではありませんが彼女は同時に「お願いだから私に何も言わないで」とも思っていもいる。しかしひとりでいる事が危機的状況であるのは『間違いの無い事実』と認識しているんですよ。
そもそもどんな話をしたら満足なの?
答えは「そんなことわからない」、極端に言えば「そんなことがわかるぐらいならお前と友達なんかでいる筈も無い(そんな気持ちすらあなたはわからないのか)」なんですよ。
彼女に依存傾向がある事は間違いないでしょう。
>今までの話を聞く限り、そのように縁を切って来た事が多いようにも思えます。
そうなってしまう事は避けられないでしょう。
事情がわからない人には、そのやりとりは耐えがたい筈です。
>そして、彼女から「数年前に性的暴力の被害にあった」事を告白されました。
重要な部分ですが、とても誤解されやすい話をしますから、以降の文章は「慎重にゆっくり」読んでください
◎不幸な話の不幸な部分に共感する事は悲劇性の内向を助長し無意識の思惑どおりに『被(こうむる)』という自意識の立ち位置(無力で何も出来ないと無意識に対して無抵抗になる事)を逆に(証人のように)強調する事になりその悲劇性は証拠(その証言により)採用されます。一度証拠採用されると(解釈の余地の無い事実認定)自意識には打つ手がありません。
ですから「同情」の対立概念として「励ます」という行為があるのです。
しかし、簡単に励ます事のできないテーマだとします。
(「そんな事気にしちゃダメだよ!」とおおよそ気軽に言えない場合)
本人のため(ちょっと無理がある表現ですが、話をわかりやすくするために)には、立ち直って(これぐらい平気だと)前を向く事だって結論には異論ありませんよね。
ここの構造が暗韻を踏んでいる事がわかりますか?
これは、葛藤構造下の脅迫(強迫)という形で主導権を取ろうとする無意識的なロジックが、自意識の自立的な活動を抑え込むためには最も都合のいい状況なんですよ。
非常に言いにくい事なんですが、こういったケースには、本人が知らない間に無意識ベースで危険に対して極端に無防備になる等の「僅かであるけれども何らかの意図」が関与している場合があります。
たとえそういう環境が全く無くても「無意識はこれを同様に捕らえます(何らかの意図であったかのように)」、そして自意識を完全に屈服させる「証拠採用(事実認定)」を手にする事になるのです。
つまり何かあった時の最後の台詞「私は・・・だった」という最終兵器を手にするのと同じように。
何故そんな可能性があるのかと言うと、
そもそも葛藤の発生要因には『必ず誤解や事実誤認を含むイメージ化』が関わっているからで、これは本人(必ずしも自意識に認識されるとは限りません)にも「薄々わかっている」んですよ。
それが「思い」であり「事実ではない」事を、
これは通常自意識に「苛立ち」のように感じ(ストレス認知)られます。
まるで、それは嘘じゃない、ほんとなんだと論証したくなるような、その論証で誰かをやっつけてやりたいと思うような、
ほんとうなんだから
これが葛藤事由とは全く別の事実なら完璧なんです。
葛藤の正面を構成する過去は、完全に無意識に抑圧され、以降安全圏から自意識を脅迫(強迫)し続けることができるんですから。
リスカ等の自傷、自殺未遂衝動、恋愛事案(過去の再現になるように悲劇的な結果になりそうな恋愛にあえて惹かれる理由)を使った悲劇性内向がここに並んでいる。
※そういう意味で本当の偶発である事件に巻き込まれるタイプのPTSDと鬱症状には大きな差があるんです。
ですから『憎むべき罪は憎む』これと、その被害をどう捕らえるのかは(それこそ自分の同情心を切って捨ててでも)切り離さなければならないのです。
本人のためには、立ち直って前を向く事なんですからね、
大事な事は『憎むべき罪は憎む』部分を強く思うところです(それがないと自分の同情心に負けます)。
>今彼女がココロを開いているのは、私なんだろうなと思うと安易に慰めてあげる事も、意味が無いのかもしれないと思うようになりました。
確かにそのとおりです。
が、彼女が求めているのは「そんな友人(何もしなくてもいい)」だけなんだと考えてみてください。
それしか(専門的な知識が無い限り)何もできないんですから。
そして、不用意に「心療内科は」と口にすると、これの反発で(無意識の自己保存として感情的な反発から“暴言”が返ってくる可能性もあります)逆にその可能性を後退させる事もあります。
かといって、悲劇性の流れに沿って「そうなんだ私は病気なんだ、二度と治りっこない」と通院自体が無力化される事もあります(『所謂病院での治療』で最も有効なのは「本人の意思で相談にきた」という自意識の振る舞いになるからです。)、
どうしたらいいと思う?
この言葉まで待つべきかも知れません(彼女と直接やりとりしているのでは無いので、軽率なことはちょっと言えませんから)。
その場合には「心療内科」を薦めて下さい(精神科は社会適応タイプで深層心理に触れたくないタイプの人向きである場合が多いです。これはケースバイケースで、精神科でもカウンセリングのコースを持っているなら大丈夫でしょう)。
あまり的確なアドヴァイスにはならないかも知れませんが、それとなく近隣の病院を調べておく事が「できる事」なのではないでしょうか。
■これは一番大事な事ですが、
話に深入りしていくには、相当の負担(と準備)を強いる事になります。それが自己決定として選ぶのであれば幾分精神的に楽になると思いますが、一般的な「友達だから」等という程度の動機ではとてももたないでしょう。果たして自分はどうするつもりなのかについては又個別に考えるべきで、「なんとなく」関係を継続する事はより問題を(miraiさんの精神状態を含めて)複雑にする可能性もありますから、その点に関しては慎重に考えてみてください。
=========<ここまで528番返信>=========== |